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エドヴァルド・ムンク _ 世紀末の画家

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2022/05/31 (Tue) 12:51:01

エドヴァルド・ムンク _ 世紀末の画家


19世紀末のドイツの雰囲気を一番良く伝えているのはエドヴァルド・ムンクがベルリンに住んでいた頃の絵でしょうか。

ムンクの有名な絵は何故か この頃のものばかりですね:


エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch, 1863年12月12日 - 1944年1月23日)

エドヴァルド・ムンク ─生命のダンス─
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF+++%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9


ムンク・アートギャラリー=ノルウェー・オスロで足跡をたどる
http://www.youtube.com/watch?v=FV9uVR8f68U


エドヴァルド・ムンクの作品
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF


ムンクはドイツ表現主義の種を植えた画家ともされ、ユングによれば、彼はアーキタイプのイメージと実存的な経験のシンボルを結晶化し、それを「叫び」に極限化したのだという。


1889年にはノルウェー政府の奨学金を得て正式にフランス留学し、レオン・ボナのアトリエに学んだ。パリではゴーギャン、ファン・ゴッホなどのポスト印象派の画家たちに大きな影響を受けた。パリに着いた翌月に父が死去。この頃から「フリーズ・オブ・ライフ」(生のフリーズ)の構想を抱き始める。

1892年、ベルリンに移り、この地で『叫び』などの一連の絵を描く。ファン・ゴッホとともに、この後、ドイツを中心に起こるドイツ表現主義の運動に直接的な影響を与えた1人と考えられている。

1892年、ベルリン芸術家協会で開いた展覧会はオープンから数日間で保守的な協会側から中止を要求され、スキャンダルとなった。
1890年代は、ベルリン、コペンハーゲン、パリなどヨーロッパ各地を転々とし、毎年夏は故国ノルウェーのオースゴールストランの海岸で過ごすのを常としていた。

このオースゴールストランの海岸風景は、多くの絵の背景に現れる。

有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており、「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品があり、没したのは第二次世界大戦中の1944年である。


「生命のフリーズ」
おもに1890年代に制作した『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などの一連の作品を、ムンクは「フリーズ・オブ・ライフ」(生命のフリーズ)と称し、連作と位置付けている。

「フリーズ」とは、西洋の古典様式建築の柱列の上方にある横長の帯状装飾部分のことで、ここでは「シリーズ」に近い意味で使われている。これらの作品に共通するテーマは「愛」「死」そして愛と死がもたらす「不安」である。

1902年3月、第5回ベルリン分離派展に出品した際、「生命のフリーズ」の一連の作品(22点)を横一列に並べて展示した。その時の展示状況は写真に残されていないが、翌1903年3月、ライプツィヒで開催した展覧会の展示状況は写真が現存している。それによると、展示室の壁の高い位置に白い水平の帯状の区画が設けられ、その区画内に作品が連続して展示されている。

ムンクの意図は、これらを個別の作品ではなく、全体として一つの作品として見てほしいということであった。前述のベルリンの展覧会では、作品は「愛の芽生え」「愛の開花と移ろい」「生の不安」「死」という4つのセクションに分けられ、


「愛の芽生え」のセクションには『接吻』『マドンナ』、

「愛の開花と移ろい」には『吸血鬼』『生命のダンス』、

「生の不安」には『不安』『叫び』、

「死」には『病室での死』『メタボリズム』


などの作品が展示された。1918年、クリスチャニア(オスロ)のブロンクヴィスト画廊での個展で「生命のフリーズ」の諸作品が展示された際、新聞に「生命のフリーズ」という文章を寄せ、その中でこれらの作品を「一連の装飾的な絵画」であると明言している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF


2013年06月16日
今週の日曜美術館はムンクの特集でした。傑作10選で彼の本質について語られました。

最初の作品はもっともよく知られている油彩画"叫び"です。身悶えるように体をゆがめ耳をふさいでいます。その一方背後の道では無関心に何も起きていないかのように2つの人影が通り過ぎています。

ムンクの故郷はノルウェーのオスロです。彼の生誕150年ということで大規模な展覧会が開催されているそうです。この作品は街を見下ろすオスロの丘で実際に体験した想いを描いたのだとか。この人物は自分なのだそうです。"嵐"という作品の中で耳をふさぐ様子の人物を最初に描いています。目に見えない内面的な恐怖を描きたかったのだそうです。

次の作品は彼の中にある恐ろしいほどの不安を表す原点とも言える作品"病める子"です。死を迎えた姉と悲しみにくれる叔母の様子を描いています。この光景を生涯忘れることはなかったのでした。

1863年彼は医者の家の長男として生まれました。5人兄弟の賑やかな家庭でしたが5歳の時に母親が結核で亡くなります。幼い彼の心の支えとなったのが1歳違いの姉ソフィーでした。ところがソフィーも14歳の時に結核で亡くなります。"病める子"はこの時の記憶を絵に描いたのでした。1年もの時間をかけたのだそうです。

次の作品"思春期"は30歳を過ぎた頃の傑作です。生きることへの不安を描いたのだそうです。シーツにはうっすらと血が滲んでいます。

壁には黒く大きな影。姉の死後自らも結核になることを疑わず死の恐怖と戦い続けたのだとか。描くことでその不安をせきららに告白しようと考えたのでしょう。

女性は聖女でもありながら娼婦でもあり、彼を苦しめながらも創作の源にもなったのでした。20代の始めオスロの別荘地で女性に会いました。その時の絵が"声"です。海に写る月明かりを背に立ち尽くす女性。

手を後ろにまわしキスを求めるような様子です。しかし良く見ると目は暗く吸い込まれそうなほど不気味です。

描いたのはオスロの社交界で有名だったミリー・タウロウです。
引っ込み思案だった彼を誘惑したそうです。海辺で逢瀬を交わしのめり込みましたが彼女にとって彼は何人もいる愛人の一人だったそうです。


30歳を過ぎて新たな女性ダグニー・ユールと恋に落ちました。
彼女を描いた作品が"マドンナ"です。
かすかに膨らんだお腹は新しい命の象徴です。
一方で右腕は黒い闇に消え死を象徴しています。

彼は彼女を愛しますが彼女も彼のもとを去っていきました。

次の作品は石版画の傑作"ブローチの女"です。
モデルはイギリス生まれのバイオリニストです。演奏旅行の時にノルウェーで彼と出会ったのだとか。今までの女性と違って目をはっきり優しく描いています。恋に落ちるのが恐ろしいほど美しいと語ったそうです。

"キス"は実験的な要素が入っている傑作です。まるで1つになったかのようにキスをしています。当時の木版画は表面をきれいに削った板を使ったのですがあえてこの作品では木目を残しています。

次は"宇宙での出会い"です。漆黒の闇に浮かぶ男と女、その周りを精子が浮かんでいます。男女の出会いはまるで宇宙の中で出会うほど難しいと考えたのでしょうか。

次の作品は40歳の時の作品"地獄の自画像"です。10代の頃から自分自身を描きました。真っ赤に燃え盛る地獄の炎が彼の心の中を表しています。母と姉の死、病の恐怖、女性達との葛藤など消え去ることのない不安を抱えながら自画像を描き続けました。

最後の1枚は"時計とベッドの間の自画像"です。亡くなる数年前に描かれました。別途はやがて訪れる永遠の眠り、柱時計は残りの人生を表しています。死に直面する老人、しかしこの絵は昔とは異なり明るい色彩があふれています。
http://www.artistyle.net/i-03-nichiyou/post-2847.html


マドンナ(大原美術館特集)

マドンナと呼ぶには、あまりにも退廃的でどこか愁いの漂う作品。
大原美術館特集第5回は、エドヴァルド・ムンクの「マドンナ」です。

マドンナMadonna(1895-1902)Edvard Munch
http://blog-imgs-37-origin.fc2.com/s/u/e/suesue201/madonna_convert_20101204014602.jpg


左下に胎児、周りには精子。
中央には苦悶とも恍惚とも取れる表情の、影のある若い女性。

「マドンナ」のモデルとなったのは、ムンクが当時思いを寄せていたダグニー・ユールといわれています。

ダグニーはファム・ファタールと呼ぶにふさわしい、恋多き女。

そしてムンクにとっては手の届かない存在だったようです。
http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-180.html


何年か前の新日曜美術館(NHK教育の番組)でムンクを特集した回があり、それを録画していてムンク展観賞にあわせて見る。

番組はムンクの代表作「叫び」の前年に描かれた「二人の姉妹」という作品にスポットを当て、ムンクの創作の源泉となった女性ダグニー・ユールに注目する。

この「二人の姉妹」という作品はそれまで写実主義的であったムンクの作風が表現主義的、象徴主義的なものへと転換してゆく過渡期のものと位置づけられ、永らく日の目を見る事がなかった幻の作品であるとしています。

描かれた二人の女性は、正面を向いて唄っているのがラグンヒル・ユール、そして背を向けてピアノを弾いているのがダグニー・ユール。

このダグニー・ユールこそがムンクにとってファム・ファタール(宿命の女)として存在した女性。ムンク芸術に大いなる霊感を与えたと言われています。

ムンクがその芸術的才能を開花させたベルリン滞在時期、ストリンドベリ、プシビシュフスキー、そしてダグニー・ユールらと交友関係を結んだ。

ムンクは密かにダグニー・ユールに想いを寄せていたが、彼女はプシビシュフスキーと結婚してしまう。しかし、ダグニー・ユールは自由奔放な女性でありその行動は夫のプシビシュフスキーを大いに悩ませた。

ムンクの作品「嫉妬」の正面を向いた苦悩する男性はプシビシュフスキー、後景で褒賞する男女はダグニー・ユールとストリンドベリであるとも言われているそうだ。

ムンクは度々ファム・ファタールとしてのダグニー・ユールをモデルに絵を描いている。


半裸の女性に無数の手が伸びている「手」、

女性の聖女的、娼婦的、悲劇的側面を描いた「女性三相」、

女性の性と生そして死が同居しているかのような「マドンナ」


といった作品群である。

ムンクが死の床につくまでベットの横にあったというダグニー・ユールの肖像画、そんな彼女は恋人であったロシアの男性に銃殺されるという悲劇的な運命をたどったという。
http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/fb21380850f2d00f19b4967e00b46542

ダグニー・ユール

まず、この一枚の絵をみていただこう ムンク作「嫉妬」

ムンク「嫉妬」

そして、この写真
ダグニー・ユールと夫ブシェビシュフスキー


左は、ムンクの友人ブシビシェフスキー、そして右がダグニー・ユール

明らかに、嫉妬の焔に身を焦がしているのは、彼
そして、背後に男性といるのは、ダグニー

「二人の姉妹」で、画家に後ろを向けてピアノを弾いていた女性である。

☆  ☆  ☆

1863年ノルウェイに生まれたムンクは父の血統から精神的な不安定さを、母の血統からは身体の虚弱を受け継いだ

画家を志し、修行に出たベルリンで「黒豚亭」という居酒屋に集まるグループに入り作家および神秘家のストリンドベリやブシビシェフスキーらと親交を結ぶようになる

このグループのミューズ的存在であったのが、ダグニー・ユールだった

裕福な医師の娘で、ノルウェイの首相の一族でもある彼女はその美貌と奔放な言動でグループ構成員の憧れの的だった。ムンクも、言わずもがな、である。

「二人の少女」に見られるように、ムンクと彼女の関係はある親密さをたたえたものだったと思われる。

家庭に入り込み、その妹を含めたくつろぎの時間を画架に留めていく
それはいつしか、自分とダグニーの「家庭」の光景に変わるかもしれない。
そうムンクはひそかに思い定めていたのではないだろうか。

ところが、彼女はブシビシェフスキーと結婚してしまう。
しかも、結婚の条件として、「性的な自由」を与えるという夫の言質をとって。

同じくノルウェイ出身のイプセンの「新しき女」がそれまでのヴィクトリア朝の四角四面の道徳に縛られた世界に大きな衝撃を与えたように彼女(ダグニー)も、「新しき女」として存在したかったのだろうか。

結婚した後も、ダグニーは幾人ものボーイフレンドをもち奔放な生活を謳歌したという

そして、悲劇が訪れる

ダグニーは、交際のもつれから、ボーイフレンドに射殺されてしまう。


ムンク「叫び」

ムンクにとって、世界は耐え難いものに変貌を遂げる。
彼の絵に繰り返し表れる女性の背信、死のイメージ、ねじまがった空間
それは、このファム・ファタル(運命の女)、ダグニーが齎したものではなかっただろうか。

そういえばその最初から、彼女は画家に背を向けて、その画像に姿を現していたのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/eyasuko/diary/200807040000/#comment


ベルリン分離派展(1902)で初めて展示された(生命のフリーズ〉の22点はムンクの代表作。

血のように赤い女の髪が蹲る蒼い顔の男を覆う(吸血鬼〉(1893ー94)。

左手で頭を押さえる蒼白の男と、両手を頭の上で組み、胸をはだけて赤い下着を露出させた女を左右に対比した(灰〉(1925ー29)。

精神を病んだ妹ラウラが椅子に坐る、丸テーブルの赤い模様が脳の断面図を想わせる(メランコリー、ラウラ〉(1899)。

赤い空と青灰色のフィヨルド、左上から右下へ斜断する橋の上の人物‥‥
(叫び〉(1893)と同じ構図と色彩で描かれた(絶望〉(1893ー94)と(不安〉(1894)。

両手を後ろで組んだ赤いドレスの女と、その左後ろで海を眺める白いドレスの金髪女を対比する(赤と白〉(1894)。

左にクリーム色のドレスの女(オーセ)、中央に脚を開いて両手を頭の後ろで組んだヌードの女、右に青白い顔の黒服女‥‥少女〜壮年〜老年期を象徴する3人の女たちが右端の男を誘惑する(女性、スフィンクス〉(1893ー94)。

全裸の男女(ムンクとトゥッラ)が「生命の木」の右と左に立つ(メタボリズム〉(1899ー1903)は凝った造りの木の額(上部に風景、下部に骸骨と木の根が描かれている)に填められている。

左に白いドレスの女(トゥッラ)、中央で黒服と赤いドレスの男女が踊り、右端の黒いドレスの女が(嫉妬の眼差しで)見つめる(その間の奥では欲情した男が女を抱きしめてキスを強要している)(生命のダンス〉(1925ー29)は、男女の自由恋愛の遍歴と苦悩を左から右へ描く。

両手を後ろに回して胸を突き出した女性が目を閉じてキスを誘う(声 / 夏の夜〉(1893)のモデルは、ムンクの初恋の人ミリー・タウロウ(遠縁の従兄の妻)‥‥

(生命のダンス〉にも描かれていた水面に映る黄色い月の光の柱、セックスを暗示する「魔術的なシンボル」(ウルリヒ・ビショフ)が輝く。
                    *
彼は彼女の腰に腕をまわして坐っていた──彼女の頭は彼のすぐそばだった──
彼女の眼や口や胸がこんなにぴったり寄せられているのは何とも奇妙な感じだった──
彼は1本1本のまつ毛を眺めた──眼球の緑がかった色あいを眺めた──
それは海のようにすきとおっていた──ひとみは大きくて、半ば暗くかげっていた──
彼は指先で彼女の口に触れた──やわらかな唇の肉は彼が触れるがままにへこんだ──そしてその唇はほほえみへと変わっていった 

その青灰色の大きな眼がじっと自分を見つめるのを感じているうちに──彼は赤い光を映している彼女のブローチをしげしげと眺めた──ふるえる指先で触ってみた
それから顔を彼女の胸に押し当てた──血管の中で血が激しく流れるのが感じられた──

彼女の鼓動に耳をすました──彼女の膝に顔を埋めた 

燃えるような2つの唇が首筋に触れるのが感じられた──凍えるような冷たさが身内をつらぬいた──

凍えるような欲情が──それから彼女を力いっぱい引き寄せた 自分の方へ
エドヴァルド・ムンク 「間奏曲」

(吸血鬼〉(1916ー18)は一番最初に展示されていた同名作品の野外拡大ヴァージョン。

ムンクは同じテーマやモティーフ、構図の絵画を繰り返し何回も描いているし、タイトルにも制作年にも頓着しない。

(吸血鬼〉は(愛と苦痛〉という題名をプシビシェウスキが「象徴派風のより煽情的なタイトルに変更したもの」である。

別れた女の金髪が長く靡いて失意の男に絡み着く(別離〉(1896?)。

紅い果樹の下で密会する男女(ムンクとダグニー)に嫉妬する夫スタチュ(スタニスラウ・プシビシェウスキ)を前景に描いた(嫉妬〉(1895)の続編とも言うべき(赤い蔦〉(1898ー1990)

──赤い不吉なアメーバに覆われたヒョステルー邸が気味悪い──は「ダグニー殺害を象徴的に記念する」。

左下に紫色のフードを被った男が描かれた(嫉妬、庭園にて〉(1916ー20)も、妻の浮気に嫉妬する夫というモティーフのヴァリエーションの1つでしょう。

青い色調が美しい(星月夜 1〉(1922ー24)。

「魂の絵画」の第1作目で「後に表現主義の最初の傑作として知られることになる」(病める子供〉(1925)の初期ヴァージョンがオスロ秋季展(1886)に展示された時は「物笑いの種」にされた。

《ムンクの気違いじみた絵の前に行って大笑いするのは市民のお気に入りの気晴らしとなった》(スー・プリドー)という。

籐椅子に坐っている瀕死の少女ソフィエの傍らで頭を下げて泣く母ラウラという構図だが、現実では娘の死の前に母親は既に病死している。母親役のモデルを務めたのはカーレン叔母で、ソフィエ役は赤毛の少女ベッツイ・ニールセン(12歳)である。

19世紀末のノルウェー市民や美術批評家の多くは、ムンクの20世紀的な「魂の絵画」を全く理解出来なかった。同じ主題の絵でも鑑賞者1人1人によって感じ方が違う。《ムンクは主観性の放棄を否定した》のである。

「人魚:アクセル・ハイベルグ邸の装飾」は1896年の夏、ムンクがハイベルグ邸に短期滞在して描いた人魚のパネルで、《月光が縞をなす海辺から人魚がオースゴールストランの浜辺に姿を現わす》というもの。

(リンデ・フリーズ〉はドイツ人の眼科医マックス・リンデ博士の4人の息子の子供部屋のために制作された横長の連作(11点)だったが、子供らしいテーマの風景画という依頼主の期待に応えられなかった。

なぜなら、性愛や孤独や死という実存テーマが隠れていたから‥‥。
実体験に基づく実存的な絵画しか描けないムンクに、子供たちに夢を与える絵を注文すること自体に無理があったのではないか。

(果物を収穫する少女たち〉(1904)も額面通りに受け取れない深淵が覗く。

(ラインハイト・フリーズ〉は劇団を主宰するマックス・ラインハルトの依頼で制作したテンペラ画12点で、小劇場2階のロビーに飾られた。

「オーラ:オスロ大学講堂の壁画」は創立100周年を記念して建設された講堂の壁画で、大小11点のフリーズが制作された。

海から昇る白い大陽が放射状の黄色い光線を放つ(太陽(習作)〉(1912)。

海辺で老人が幼い少年に「歴史」を語る(歴史〉(1914)。

「恵の母」「母校」という意味の(アルマ・マテール〉(1914)は《赤子を胸に抱く頑強そうな体格の若い母親が未来を象徴する》。

(フレイア・フリーズ〉はノルウェーのチョコレート製造会社フレイアの社員食堂のための装飾画。

《ムンクは「チョコレート好きの少女」たちが昼食をとりながら眺めて喜びそうなものをすべて採り入れて、心の浮き立つ陽気な浜辺の情景をフリーズに描いた》。

(労働者フリーズ〉はオスロ新市庁舎のための壁画プロジェクト。

(雪の中の労働者たち〉(1909ー10)、(疾駆する馬〉(1910ー12)、(労働者と馬〉(1920?)‥‥というタイトル通り、「労働者」と「馬」と「雪」が主役になっている。
                    *

宵に宵を継いで意識は流れ、夢は夢を生み、新しい詩、本、戯曲、あるいはカンヴァス、錬金術の実験、科学の発見をうながす霊感を呼び起こす。

そこで語られた話題は

夢、催眠術、連想、カラー写真、「モーターを駆動する空気中の電気」、
魔術、呪術、遠隔操作で敵を殺す方法、悪魔を呼び出す方法、
石炭からヨウ素を採取する方法、卑金属から金や銀を製造する錬金術、
植物には神経があるか(ストリンドベリは果実にモルヒネを注入して近在の果樹園主を仰天させた)、
光のスペクトル分析、物理学、蚕抜きに水性の絹を製造する方法、
象徴が作用する仕組み、脳に対するまじないと薬品の効き目、性愛の力学

などがある。かれらの試みはむこうみずなくらい大胆で、それなりの自己犠牲も伴った。度を越したことは、肉体、精神、心理にどのような負担を強いようともエネルギーを産む源と考えられていた。
    スー・プリドー 『ムンク伝』


ムンクに大きな影響を与えた2人の人物にも触れておこう。

ハンス・イェーガーは無政府主義のニヒリストで「クリスティアニア(現オスロ)のボヘミアン」の首領。同世代の若者を「堕落させるか自殺に追い込むのが目標」で、信奉者の1人ヨハン・セックマン・フレイシャーが書いた戯曲を貶して、彼をピストル自殺に追い遣った。

ボヘミアン・グループの9戒は

「1. 汝、自らの人生を記せ」‥‥「9. 汝、自らの生命を奪え」

である。

アウグスト・ストリンドベリはベルリンのワイン・バー「黒豚亭」の常連。

ムンクと意気投合して、お互いに絵画を「共同制作」するなど親密な交際を続ける。

黒豚亭では悪魔主義の占星術師スタニスラウ・プシビシェスキを中心に、夜を徹して白熱した議論が交された。ニーチェ、イプセン、マラルメ、ドストエフスキー‥‥もムンクの創作活動に影響を与えた。

若い頃の写真を見れば分かるように美青年のムンクは女性にモテた。

人妻のミリー・タウロウ、司法長官の娘オーダ・クローグ、医者の娘でノルウェー首相の姪のダグニー・ユール、絵描き仲間のオーセ・ヌッレガール、ヴァイオリン奏者のエヴァ・ムドッチ、ワイン商の娘トゥッラ・ラーセン‥‥

トゥッラはムンクを追い回して辟易させた(女ストーカー?)。

彼女たちは絵のモデルになって名を残したが、終の住処であるエーケリーの屋敷ヘ移り住んだ後も、家政婦兼モデル志願の若い女性たちがムンクの許を訪れた。

カーレン・ボルゲン、インゲボルグ・カウリン(モスピッケン)、セリーヌ・クーヴィリエ、ヘルガ・ログスター、フロイディス・ミョルスタ、アンニ・フィエルブ、カティア・ヴァリエル、ビルギット・プレストー‥‥

《娘たちは玄関の呼び鈴を鳴らし続ける》。

ムンクは自分の絵を「子供たち」と呼び、売らずに手許に残して置きたがったが、「娘たち」にも恵まれていたわけである。
http://sknys.blog.so-net.ne.jp/2008-05-01


Edvard Munch. By the Fireplace. 1890-94. Pencil and Indian ink. 35.1 x 26.2 cm. Munch Museum, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch79.html

By the Deathbed (Fever). 1893. Pastel on board. 60 x 80 cm. Munch Museum, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch89.html

Edvard Munch. Dagny Juel Przybyszewska. 1893. Oil on canvas. 148.5 x 99.5 cm. Munch Museum, Oslo, Norway
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch90.html#note

Edvard Munch. The Scream. 1893. Oil, tempera and pastel on cardboard. 91 x 73.5 cm. Nasjonalgalleriet, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch32.html

Edvard Munch. The Voice. 1893. Oil on canvas. 87.5 x 108 cm. The Museum of Fine Arts, Boston, MA, USA
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch19.html

Edvard Munch. Moonlight. 1893. Oil on canvas. 140.5 x 135 cm. Nasjonalgalleriet, Oslo, Norway
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch22.html

Edvard Munch. The Hands. c. 1893. Oil on board. 91 x 77 cm. Munch Museum, Oslo, Norway
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch134.html

Edvard Munch. Stormy Night. 1893. Oil on canvas. 91.5 x 131 cm. The Museum of Modern Arts, New York, NY, USA.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch24.html

Edvard Munch. Anxiety. 1894. Oil on canvas. 94 x 73 cm. Munch Museum, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch93.html

Edvard Munch. Madonna. 1894-95. Oil on canvas. 91 x 70.5 cm. Nasjonalgalleriet, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch18.html
https://www.google.co.jp/search?q=Edvard+Munch+-+Madonna&lr=lang_ja&sa=N&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=cdAVUsQPy_-UBfWkgJgI&ved=0CCgQsAQ4Cg&biw=1002&bih=919#fp=114a45c7fbf5bb70&hl=ja&lr=lang_ja&q=Edvard+Munch++Madonna&tbm=isch&tbs=lr:lang_1ja&imgdii=_

Edvard Munch. Puberty. 1894. Oil on canvas. 151.5 x 110 cm. Nasjonalgalleriet, Oslo, Norway
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch21.html

Edvard Munch. Eye in Eye. 1894. Oil on canvas. 136 x 110 cm. Munch Museum, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch74.html

Edvard Munch. The Day After. 1894-95. Oil on canvas. 115 x 152 cm. Nasjonalgalleriet, Oslo, Norwayhttp://www.abcgallery.com/M/munch/munch27.html

Edvard Munch. Ashes. 1894. Oil on canvas. 120.5 x 141 cm. Nasjonalgalleriet, Oslo, Norway
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch28.html

Edvard Munch. The Three Stages of Woman (Sphinx). c. 1894. Oil on canvas. 164 x 250 cm. Rasmus Meyer Collection, Bergen, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch29.html

Edvard Munch. Red and White. 1894. Oil on canvas. 93.5 x 129.5 cm. Munch Museum, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch173.html

Edvard Munch. Melancholy. 1894-95. Oil on canvas. 81 x 100.5. Rasmus Meyer Collection, Bergen, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch30.html

Edvard Munch. Salome Paraphrase. 1894-98. Watercolor, ink and pencil. 46 x 32.6 cm. Munch Museum, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch136.html

Edvard Munch. House in Moonlight. 1895. Oil on canvas. 70 x 95.8 cm. Rasmus Meyer Collection, Bergen, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch23.html

Edvard Munch. Stanislaw Przybyszewski. 1895. Tempera on canvas. 75 x 60 cm. Munch Museum, Oslo, Norway
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch103.html#note

Edvard Munch. Self-Portrait with Burning Cigarette. 1895. Oil on canvas. 110.5 x 85.5 cm. Nasjonalgalleriet, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch2.html

Edvard Munch. Moonlight. 1895. Oil on canvas. 93 x 110 cm. Nasjonalgalleriet, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch20.html

Edvard Munch. The Death Bed. 1895. Oil on canvas. 90 x 120.5 cm. Rasmus Meyer Collection, Bergen, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch33.html

Edvard Munch. Death in the Sick Chamber. 1895. Oil on canvas. 150 x 167.5 cm. Nasjonalgalleriet, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch34.html

Edvard Munch. The Kiss. 1895. Etching, aquatint and drypoint. 32.9 x 26.2 cm. Munch Museum, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch96.html

Edvard Munch. The Scream. 1895. Lithograph. 35.5 x 24.4 cm. Munch Museum, Oslo, Norwayhttp://www.abcgallery.com/M/munch/munch100.html

Edvard Munch. Self-Portrait with Skeleton Arm. 1895. 45.5 x 31.7 cm. Munch Museum, Oslo, Norwayhttp://www.abcgallery.com/M/munch/munch99.html

Edvard Munch. Jealousy. 1895. Oil on canvas. 67 x 100 cm. Rasmus Meyer Collection, Bergen, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch101.html

Edvard Munch. Madonna. 1895. Lithograph. 443 x 434 mm. Munch Museum, Oslo, Norwayhttp://hotelmagazine.dk/blog/articles/twin-peaks/
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch170.html

Edvard Munch. Vampire. 1895-1902. Combined woodcut and lithograph. 38.5 x 55.3 cm. Munch Museum, Oslo, Norway.
http://www.abcgallery.com/M/munch/munch104.html

2:777 :

2022/05/31 (Tue) 12:55:10

ムンクの青年時代のベルリンはブラームスの少年時代のハンブルグとあまり変わらないでしょね:

ブラームスは、ハンブルク市内の貧民街に住む下層市民の家庭に生まれた。

13歳のブラームスは、苦しい家計を助けるためにバイシュン婦がたむろし、紫煙と嬌声が渦巻く歓楽街の酒場やダンス・ホールでピアノを弾くようになる。

ブラームスは、誰に対してもハンブルク時代の出来事を話したがらなかった。
だが最晩年になって幼少時代を振り返りこう言ったという。

「私は実によく耐えた。だが、今ではその惨めな体験が私の成長に必要なものだったと確信している」。
http://www.geocities.jp/oehler_spieler/HamburgBrahms1.htm

ブラームスの父は、ダンスホールや町の楽隊で演奏するコントラバス奏者でした。裕福ではありませんでしたが、小さい頃から音楽の手ほどきは受けていました。ただ、家庭を養うために若い頃はハンブルクのバイシュン宿でピアノを弾いていたといいます。

「数ヶ月沖に出ていた帆船が入港すると、船内から船乗りたちが女を求めて猛獣のごとく姿を現す。
するとその半裸の女たちは彼らをいっそう駆り立てようと、ダンスや接吻、抱擁の合間にぼくを膝に座らせてわくわくさせたものだ。
それが女性の愛についてぼくが最初に受けた印象なんだ。」
http://columbia.jp/joshicla/classics08.html

ブラームスは、彼が多感な少年だった10歳の頃、家計を助けるためにしていた(風俗店に近い)居酒屋でのピアノ演奏アルバイトで、大人たちの破廉恥な姿など社会の汚い裏側を目の当たりにしたトラウマが大きかったようで、上流階級の女性とはまともに付き合えず、バイシュン婦以外との性的関係は持てなかったそうです。
http://kcpo.jp/legacy/31st/Brahms/brahms0.html


ハンブルクはドイツ屈指の港湾都市であり、長い航海を経て港へ帰還した船員が上陸する地であった。大勢の海の男たちは、無事港へと戻ると女性とのひとときを求めて歓楽街へと駆け込んだため、風俗産業が発展していった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3

少年ブラームスはレーパーバーンの酒場でピアノを弾いていたんですね:


レーパーバーン(ハンブルク)

セントパウリの東部にあるハンブルクのバイシュン街は、この町の名所の一つとなっています。

半マイルほどの道沿いには、バイシュン婦、バー、いかがわしいクラブが建ち並び、夜にはかなり賑やかになります。レーパーバーン(Rope通り)の名は、19世紀に当局から町を追われ、この近辺に定住した船乗りが働く船のロープの製造所から付けられました。

セントパウリにあるレーパーバーンはハンブルクの最大の悪名高きエリアです。かつてはロープ市場でした。異様なアートを展示しているErotic Art Museum、ストリップクラブがあるGrosse Freiheit street、無数のバーと飲食店が集まるエリアなど興味をそそるものでいっぱいです。
http://www.hoteltravel.com/jp/germany/hamburg/reeperbahn-in-hamburg.htm

やっぱり気になるハンブルクのレーパーバーン

男たちの天国であり、酒臭とセックス祭りのようだ。

ハンブルクで有名な”夜遊び”場と言えばここレーパーバーンだ。バー、キャバレー、ストリップ劇場、エロティックアート、セックスショップ、飾り窓などの大部分がここに引き締めあい、看板を出している。

場所で言うとU-Bahnでは、ザンクト・パウリ(St.Pauli)駅、S-Bahnではレーパーバーン(Reeperbahn)駅の二つの駅の間を結ぶ幅広く長さ正味930mのまっすぐな通り。
別名「世界でもっとも罪深い一マイル」とも呼ばれている。
http://hilolin.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-8d97.html#.UhYhFoyCimx

ヘルベルト通りの飾り窓はどうなっている???

客とバイシュン婦が直接交渉するバイシュン宿、あまりの罪深さに未成年者や女性は地区そのものに立ち入れない。

飾り窓はどこに?
S-bahnのReeperbanh駅のHans-Albers-Platz方面へ出る
出ると大きな通りはレーパーバーンで、そこから東方面に1分ぐらい歩いて右にHans-Albers-Platzという広場ある。

酒に酔った若者が屯している
夜になるにつれて騒がしく、今にでも暴動が起きそうな雰囲気だ。変な人に睨み付けられたら大変。
目指す飾り窓の周囲は騒然

「飾り窓」はあの銅像の奥に

19時になると、人がわんさか集まってきた。bombもちろん警官隊も出動し監視を強めている。
そしていよいよあの飾り窓に潜入

一般の人の目に触れないように通りの前へ目隠しを設置したヘルベルト通り 

なぜここがバイシュン宿なのか?
レーパー(Reeper)はロープ職人、バーン(Bahn)は「道」。
つまりここはロープ職人の通りだ。

湾岸都市であるハンブルクは船を係留するために大量のロープが必要だった。ロープを編むときには長くて真っ直ぐな道が必要になる。ロープを編んで乾かす彼らの仕事は油だらけで 悪臭の放つ仕事そのものだった。よって、1620年ごろに職人たちが旧市街からここへ追われて移る。

それに伴い飲み屋などの飲食店が増え、長い航海から帰還した船員が駆け込むバイシュン宿も増えていった。そして、増加する風俗営業に歯止めが掛からなくなる。

どうして目隠しを?
1933年アドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を握ると娯楽施設の営業が禁止された。しかしそれでも、ストリップ劇場やバイシュンなどの性産業が完全に消えることは難しいと分かっていたナチス政権はヘルベルト通りだけにバイシュン営業許可を下す。そして一般の人の目に触れないように通りの前へ目隠しを設置した。それが現在でも残っている。

赤く囲ってあるのがヘルベルト通り
近くには警察署が・・・

目隠しがナチス政権の苦肉の策であるとはなんともおかしな話だ。
当然女性と子供はこの中に入ることが禁止されている。
そして飾り窓の醍醐味、バイシュン婦と直接交渉

誘蛾灯のような照明、中から女性が通行人を誘う

目隠しの隙間からゆっくり、ゆっくりと覗き込み、足を踏み入れた。footなるほど、景観がガラリと変わり「飾り窓」だ。窓は白い冊子で、ハンドルを片手でまわして空けられる。

窓の向こう側には裸同然のおねぇさんが座っており静かに営業を行っている。
極端に生地が小さいマイクロビキニのおねぇさんが窓を敲いた。近寄ると、窓をクルりと開き話しかけてきた。

:「ハーイ、コンバンワ、ボウヤタチィ、ヨッテイカナイ アソンデカナイ~noteup」(英語)

しょっぱから英語だ。おそらく外国人だろう。
ドイツ人は必ずドイツ語から声をかけてくる。

:「どんな遊び どんな感じ」

:「そうね、まず、キスして、xx に入れるよ。それと全身タッチはOKだし、セックス含めて50€よ。
どう??ねっ ねっ いいでしょう?今日は特別サービスしておくよ」

:「全部含めて50€」

:「そうよ あら、お友達もいるの いいわ、二人一緒にサービスするわ、
中に入っておいで ねっ ねっ Come on」

初日の夕方、宿泊地でちょうど日本人のバックパッカーと偶然会ったので二人で一緒に来ていた。台湾人と日本人、アジア人は私たち二人だけ。

:「少し見たいので、また後でいい??」

:「え~、後じゃいや、後じゃいやよ、さぁ~ さぁ~ 入ってらっしゃいenter」

いずれにせよ、冷たい雨が降るハンブルクで裸同然の格好で窓を長く開けて交渉するのは凌ぎの策ではない。なるべくやはく商談にこぎ着けて成約に繋げたいのだろう。

:「sorry、また後で」

飾り窓は「サービス提供現場」だ。性的に高揚する環境とは思えない。と、調度そのとき、向かい側の若いお兄さんが何事もなく普通に入っていった。交渉が成立しお買い上げというところだ。

全長50mすべて「飾り窓」だ。中にはうらさびれた感じのものあった。座り心地がよくなさそうなカウンターチェアが並び、お姉さんたちがお客さんを待っている。

手を振ったり、にこっと笑ったり、投げキッスをしたり。それとチェアだけあって、人がいないのは営業停止中か、サービス提供中なのだろう?「空き」が多かった。

商売が繁盛がしているとは思えない。
しかし、不思議なことにこういうとシチュエーションに限って,放置していた英語が蘇る。
http://hilolin.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-c18a.html#.UhYg2YyCimy

ハンブルグ セックスパラダイス

 トラバントさんからの情報をもとに、ハンブルグの繁華街レーパーバーンの行ってきました。 レーパーバーンには、セックスショップ、ストリップクラブ、赤線街がありました。 夕方にいったのですが、40人から50人くらいの女が待機していました。 

比率は、10%:可愛い・美人系、50%:熟女プロ系、40%:ババー系でした。 

当然、可愛い系の子を選びました。 50ユーロで、一発(尺八付き)でした。 
赤線街近辺には、立ちんぼが出没します。 この一帯を歩くと、立ちんぼの子達に服を掴まれます。 交渉が、非常に強引です。その後、道端でジャーマンソーセージを食べ、セックスパラダイスに向いました。 

非常に解り難い入り口でした。 セックスパラダイスと書いてあります。 
怪しいのですが、勇気を出してどんどん中に入って下さい。 
セックスパラダイスは、5階建てのビルで、ビルの中を歩き回りながら女の子を選ぶシステムでした。 

女の子の数は、赤線街よりも多かったよう感じました。 
フロアー毎に、アジア系、黒人系、ドイツ系と分かれている感じでした。 
ドイツ系のフロアーにインド系の美人を選びました。 “ハンブルグで夢のインド人とのセックスか。“と浮ついてしまいました。 アムステルダムでも仕事した事があると教えてくれた。 俺は安心し、50ユーロで合意した。 

これが不味かった。   
中に入り、服を脱ぎベッドインしました。 横になっていると、服も脱がずに手こきが始まりました。 オッパイを触ろうとすると、”50ユーロだ。“と言われました。 手こきも、非常に乱暴で、チンコが立ちませんでした。 5分も経っていないのに、”もう時間よ。“と言ってきた。 ホントかよーーー。 

”セックスしよう。“と言うと、”もう時間よ。 セックスしたければ、もう50ユーロよ。
“ 仕方なく、50ユーロ払った。 乱暴な手こきが続き、どうにか半勃起状態にあなり、”セックス。“と言った。 
すると彼女は、バイブを取り出し、”このくらい硬くならないと駄目よ。“と言ってきた。 このやる気のなさ、乱暴さに頭に来た俺は、退散した。 

合計100ユーロで、発射なし。手こきのみ。 
もうセックスパラダイスには行きません。 
http://kaigaiyoasobi.h.fc2.com/germany/020305.htm


ハンブルクでFKK体験

ハンブルクのFKK ATMOSに行ってきましたっっ。
入場料 60ユーロ一発30分 50ユーロその他 女の子と相談

入場料を払って「First Time!」というと、女の子が一緒に館内を紹介してくれます。腰バスタオル1枚の「FKKスタイル」で待っていると、めちゃ可愛い女の子が登場!若くて巨乳で健康的な美人です。

名前忘れちゃいましたが、ドイツ人との事。素人っぽい雰囲気で好み。早速一発お願いしようかと思いましたが、はやる心を抑えて、まずは館内を紹介してもらったあと腹ごなし。(めっちゃ空腹だった)

館内の施設はまあまあです。OASEほどの豪華さは無いものの、清潔感あります。サウナも4つあって、屋外と屋内にプールが。「やり部屋」は2階に集中していますが、映画室でやってもOKだそうです。

とりあえず、バーに座ってパスタとスープとコーラで腹ごなしをしていると、早速女の子が営業かけてきます。ウクライナ出身という女の子はおなかはちょっと出てましたが、顔は好み。この子と一発・・・とも思いましたが、我慢して、まずはサウナで汗を流します。

ざっと館内をみて回りましたが、女の子は20人弱くらい。OASEはルーメニアンガールばかりでしたが、ここはドイツ系の地元の女の子が多い感じです。黒人と南米系の女の子も一人いました。

ソファなどに座っていると女の子が声をかけてきますが、営業はさほどしつこくありません。歩いている女の子をじっくりと観察しましたが、個人的にはOASEより好みの女の子が多めです。

もちろん、ちょっとNGなぶーちゃんもたくさんいましたが・・・。OASEの女の子は全員完全に裸でしたが、ATMOSはパンツをはいている女の子が多かったです。

一人、とびぬけて可愛い女の子を見つけたので、すかさず声をかけて捕獲。小柄で、スタイル最高。ぴかぴかに白い肌に黒髪(染めてるよう)で、すげえ美形です。

お話をすると彼女の名前はラレちゃん。デンマーク人だそうです。早速手合わせを申し出て、やり部屋に移動。

年齢を聞くと20歳。どうりで肌がぴちぴちです。日本人だというと「ニンジャかっこいいよね!」といいながら、ニンジャのマネをしてくれました。かわいいなー。しばし二人で手裏剣の投げあいごっこ。

フェラはゴム付き、キスはしませんでしたがボキはDK自粛してますので特に不満なし。頼むとOKなのかもしれません。おそらく女の子次第だと思います。

フェラはなかなか上手。可愛い顔で愚息をがんばってしゃぶってくれるのを見ているだけでも満足感あります。乳首も丁寧にぺろぺろ。

ラレちゃんが上にのってちんちん挿入。適度な締め付け感があって気持ちいい。いろいろお話しながらおっぱいをなめていると、乳首が硬くなってきました。

おっぱいは小さめですが、個人的には小さめが好みなので満足。肌も舌がよろこぶいぴちぴちさ。かわいいなあー。おいしいなー。

体位を変えて今度はバックから。「私セックス大好き!」と言うので、さらに興奮してつきまくり。何度か体位を変えて、最後にまたバックで発射。ティッシュで丁寧にちんちんを拭いてくれました。

その後ロッカーまで一緒にいって50ユーロお支払い。ほっぺにキスして「またやろーね」と約束してバイバイしました。それにしても、めっちゃ美人のデンマーク20歳と楽しく一発やって、50ユーロ(約8500円)。すげぇコストパフォーマンス高いです。

円安ユーロ高の昨今、欧州に行かれた諸兄は信じ難い物価高に辟易とされるでしょうが、少なくともドイツFKKでは「うーん、お得!」とガッツポーズされることうけあいです。是非一度体験されてはいかがで御座いましょうか。

結局サウナに何度も入って、飲み物をのんで、テレビでサッカーをみたりしながら3時間ほど過ごしてホテルまで帰りました。全部で110ユーロ。悪くないです。

リフレッシュしたなあ・・。
http://www.asobikata.net/taikenki/2/1324.html


ATMOS ホームページ
http://www.atmos-fkk.com/

Alle Sexkontakte in Hamburg, - Bordelle Huren Nutten Porno Titten Domina Sex Modelle Hamburg - treffpunkte.de
http://www.treffpunkte.de/Hamburg/

FKK Babylon - FKK - SAUNACLUB - NIGHTCLUB Gruppenfotos
http://fkk-babylon.com/girls/gruppenfotos.htm
3:777 :

2022/05/31 (Tue) 12:57:10


ムンクのベルリン時代の絵に一番雰囲気が近い音楽はこれでしょう:

Brahms: Nachklang, Op. 59, No. 4
https://www.youtube.com/watch?v=4JvoVQ-6pbQ

Brahms - Clarinet Trio  Wlach Kwarda Holetschek
https://www.youtube.com/watch?v=EZQ079gUcaI

Lener Quartet & Charles Draper - Brahms : Clarinet Quintet Op.115 (1928)
https://www.youtube.com/watch?v=5ZsXpnnaxS8
https://www.youtube.com/watch?v=BRaEHG-dqX0

Brahms: Clarinet Sonata No. 2, Wlach & Demus (1953)
https://www.youtube.com/watch?v=JrhqxXdjI6w


ブラームスはムンク同様、典型的な世紀末の芸術家なんですね。
4:777 :

2022/05/31 (Tue) 12:57:33


ヨハネス・ブラームス 『雨の歌 Regenlied ・ 余韻 Nachklang』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/870.html


ヨハネス・ブラームス   Johannes Brahms ( 1833 - 1897 ) ドイツ

「 雨の歌 」 8つの歌曲と歌 Op.59より
Regenlied from Acht Lieder und Gesänge

詩: クラウス・グロート

雨よ降れ、降れ
子供のころのあの夢を
もう一度呼び覚ましてくれ、
雨水が砂の上で泡立つ時に

すがすがしい冷気に、たちまち
夏のものうげな暑さが和らぐ時に、
そして青い葉が雨にぬれ
麦畑がいっそう青くなる時に

裸足で雨に打たれ、
草の中に手をさし伸べ、
手で水の泡に触れるのは、
なんと楽しいのだろう

そうでなければ、頬に冷たい雨を
受けとめて、
子供の頃に還った胸が、
初めて立ち上る香りに包まれるのは

濡れて水を滴らせている、
その盃の形をした花のように、
初めての香り、天からの露に
酔った花のように、心はらくに呼吸する

身震いのするほど冷たい、全ての雨滴が
降りてきて、この鼓動する胸を冷やし、
こうして、創造の聖なる営みが
私のひそやかな命に忍び入るのだ

雨よ降れ、降れ
あの昔の歌をもう一度呼び覚ましてくれ
雨だれが外で音をたてていたときに
戸口でいつも歌ったあの歌を

もう一度、あの、やさしい湿った雨音に
耳を澄ませていたい
聖なる、子供のときに感じた畏れに
私の心はやさしくつつまれる

Walle,Regen,walle nieder,
Wecke mir die Träume wieder,
Die ich in der Kindheit träumte,
Wenn das Naß im Sande schäumte!

Wenn die matte Sommerschwüle
Lässig stritt mit frischer Kühle,
Und die blanken Blätter tauten,
Und die Saaten dunkler blautenWelche Wonne,in dem Fließen
Dann zu stehn mit nackten Füßen,
An dem Grase hin zu streifen
Und den Schaum mit Händen greifenOder mit den heißen Wangen
Kalte Tropfen aufzufangen,
Und den neuerwachten Düften
Seine Kinderbrust zu lüften!

Wie die Kelche,die da troffen,
Stand die Seele atmend offen,
Wie die Blumen,düftertrunken,
In dem Himmelstau versunkenSchauernd kühlte jeder Trop fen
Tief bis an des Herzens Klopfen,
Und der Schöpfung heilig Weben
Drang bis ins verborgne LebenWalle,Regen,walle nieder,
Wecke meine alten Lieder,
Die wir in der Türe sangen,
Wenn die Tropfen draußen klangen!

Möchte ihnen wieder lauschen,
Ihrem süßen,feuchten Rauschen,
Meine Seele sanft betauen
Mit dem frommen Kindergrauen.
http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs/B/Brahms/S118.htm
5:777 :

2022/05/31 (Tue) 13:00:15


最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/284.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『クラリネット三重奏曲 イ短調 作品114』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/283.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『2つのクラリネットソナタ 作品120 第1番』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/286.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『2つのクラリネットソナタ 作品120 第2番』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/285.html


Les Amants 'Trailer' - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=o0B8LqiReuQ&t=6s

Brahms: Sextet No. 1 in B-flat major - 2. Andante ma moderato
https://www.youtube.com/watch?v=h1AZ8FmIWcI&t=28s


最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『弦楽五重奏曲第2番ト長調 作品111』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/295.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『ホルン三重奏曲 変ホ長調 Op.40』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/282.html



ヨハネス・ブラームス 『雨の歌 Regenlied ・ 余韻 Nachklang』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/870.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『4つの厳粛な歌 Op.121』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/281.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス 『アルト・ラプソディ 作品53』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/297.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『ドイツ・レクイエム 作品45』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/318.html




最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『7つの幻想曲集 作品116』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/585.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『3つの間奏曲 作品117』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/586.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『ピアノのための6つの小品 作品118』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/316.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『4つの小品 作品119』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/317.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『パガニーニの主題による変奏曲 作品35』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/303.html




最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『ハンガリー舞曲集』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/296.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 作品15』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/579.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/580.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/581.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/588.html



最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『交響曲 第3番 ヘ長調 作品90』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/591.html

最美の音楽は何か? _ ヨハネス・ブラームス『交響曲 第4番 ホ短調 作品98』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/590.html



「Brahms and Liszt(ブラームスとリスト)」という言葉は、英語圏では「酔っぱらい」の意味で使われます。

ブラームスは、死の直前までお酒を楽しむことができました。ブラームスは何とかワインの入ったグラスを口元に持っていき、「おいしい」という言葉を残して亡くなったとのことです。


ブラームスの母は熱心なプロテスタントで、父はユダヤ人であったといわれている。ブラームスは家族構成からしても、特定の宗教に固執していたわけではなかった。信仰はプロテスタントであった。

ブラームスはユダヤ人の息子で母親が47歳の時の子供
子供の時からキャバレーやバイシュン宿でピアノを弾いていた

13歳のブラームスは、苦しい家計を助けるために歓楽街の酒場やダンス・ホールでピアノを弾くようになる。 日本で言えばまだ中学生だ。荒くれた船員やバイシュン婦がたむろし、紫煙と嬌声が渦巻く酒場での演奏が、ブラームスの健康や人格形成に影響を及ぼさないはずがない。

・ブラームスが女性と長続きする関係を築けなかったのは、若いころ家族を養う足しにハンブルクのバイシュン宿でピアノを弾いていたせいだというのが、伝統的な見方である。

・(バイシュンについて) 彼は生涯に何度となくその愛にもどっていった。単純で、束縛されない-そして金で買う愛。

・ブラームスはおそらく過度なまでに女性を愛していたが、長期の関係は恐れていた。そしてどんな離婚裁判の判事にも負けないほど結婚については皮肉な見解を持っていた。「ぼくは運悪く結婚しなかった-だからずっと独身だった、ありがたい!」というのが、お気に入りの言いぐさだった。


ブラームスは、バイシュン宿やパブでピアノをよく演奏していました。

多くの記事ではブラームスがバイシュン宿などで演奏していた理由について「お金のため」と書かれていますが、実際には、バイシュン婦にとって魅力的なブラームスは、サービスを利用することも多々あったようです。そして、あるパーティーにおけるブラームスの素行について、「酔った彼は、全ての女性たちに衝撃的な言葉を浴びせて、場をめちゃくちゃにした」という言葉も残されています。


しかし、ブラームスは男の癖に何時もメソメソして みっともないんだよね。
だから一生バイシュン婦の相手しかできなかったんだ。
6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2022/12/29 (Thu) 05:58:55

エドヴァルド・ムンクとは|傷つくほどに名作を生む、「死と不安」の画家
2021年4月3日
https://note.com/jusho/n/n756935406cdf


「知ってる?『ムンクの叫び』じゃなくて、ムンクの『叫び』なんだよ〜」。これは誰もが人生で20回くらい言われるトリビアだ。

それほど「叫び」という作品は有名な1枚です。絶望的な顔をあんなに臨場感を持って描けるのは、楳図かずおかムンクくらいなんじゃないか。「叫び」が世界で広く認知されているため、美術好きでなくとも、ムンクという名前は知っている。インパクト抜群の作品だ。

しかし「叫び」ばかりが先行してしまって、ムンクという画家にスポットライトが当たっていない感は否めない。もはやもののけ姫のこだまみたいな奴をムンクだと思っている人もいるんじゃないか。違いまっせ。ちょっと禿げかかってるけど、しっかりイケメンですからね。

そこで今回は意外と知られざるムンクの一生について、作品を振り返りながら、みんなでみていきましょう。ムンクはなぜ「叫び」を描いたんでしょう。そもそもなぜ画家になり、、どんな人生を送ったのだろう。


目次
エドヴァルド・ムンクの生涯 ~父と姉の死で苦しみを背負う少年期~
エドヴァルド・ムンクの生涯 〜斬新すぎる「暗い絵」でしこたま酷評される~
エドヴァルド・ムンクの生涯~生・死・不安・生命で内面を描いた黄金期~
エドヴァルド・ムンクの生涯 〜激しめの恋愛、そして評価を得はじめ作品~
エドヴァルド・ムンクの生涯 ~アル中→電気ショック療法→明るい表現に変化
苦しめば苦しむほど進化する画家
エドヴァルド・ムンクの生涯 ~父と姉の死で苦しみを背負う少年期~
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エドヴァルド・ムンクは1863年、今のノルウェーに生まれる。父はお医者さん、おじいちゃんは牧師さん。1つ上に姉、2つ下に弟、4つ下に妹がいて、1868年には妹が生まれる。しかし出産の直後に母のローラ・カトリーネが亡くなる。もともと結核を患っており、体力的に限界がきてしまったんです。

ムンクは当時5歳だったので、まだなんのこっちゃ分からん側面もあったそうだ。ローラの死でダメージを受けたのは、どちらかというと父親のクリスチャンだ。彼は父親が牧師ということもあって、がっつりキリスト教にのめり込むことになるんです。その狂信っぷりはハンパなくて、ムンクは当時のエピソードについてこう書いている。

ある日、キリスト教のことで親父と揉めたんです。その夜に親父の寝室をこっそり覗いたら、ベッドの前で、お祈りしてたんですよね。超怖くてさ。眠れんくなったんやけど、その親父の姿をスケッチしたら落ち着きました。
いや怖い。もはや稲川淳二だ。そして震えながら父の様子をスケッチするムンク少年も怖い。

そんな妻の死をきっかけに盲信的なくらいキリスト教にハマった父は、ムンクの人生にとって最大のキーマンだろう。ですので、おそるおそるもうちょい深ぼってみよう。ムンクは父が自分に与えた影響について、以下のようにも書いています。

父はすんごい神経質で宗教的だった。私は父から狂気の遺伝子を受けついだんです。恐怖、悲しみ、死の天使は私が生まれたときから身近にあった。
抽象的で「これぞ画家!」というアーティスティック、そして若干の厨二病的な文章ですよね。「な、何が言いたいんだムンク! どうした病んでんのか」と「?」出しながら毛布かけたくなるので、補足しますね。

クリスチャンはローラを失ってから、異常に子どもたちを厳しく叱るようになる。そして最後に必ず「ローラが見たらどう思うか。天国から監視してるんだぞ」と悪魔みたいなひと言を付け加えて、お祈りを始めるわけですね。

また、クリスチャン自身が好きだった奇想の作家、エドガー・アラン・ポーをムンクに勧めたのも大きい。ムンクは内省的で怪しい世界に触れて、人の闇を知るわけだ。

それに加えて、ムンクは(というか子どもみんな)とても病弱だった。さらに軍医の父の給料はかなり安く貧乏だった。社会的に自分を弱者と思い込んでおり、悲しみを背負って幼少期を過ごすんです。

幼いムンクがネガティブに育つ主な要因

・キリシタンの父からの異常なまでの叱責
・亡き母の監視下にあるという思い込み
・病弱という身体的マイナス
・貧乏という経済的マイナス
・ポーが描く、内省的で怪しい世界観
ただし、ムンクにとって不幸中の幸いは、母代わりになった叔母のカレンと出会ったこと。カレンはアマチュアの絵描きだったんです。もうこのころのムンク一家は総じてメンタルが弱まっていて、妹のローラも若干精神疾患を患いはじめていた。

見かねたカレンは「絵はいいわよ〜。ね? 絵やらない?」と優しく子どもたちに絵画を教えるんです。偶然かもしれないが、立派なアートセラピーなんですよね。そこでムンクは絵をはじめる。

これで才能が開花する。絵に目覚めたムンクはめきめき成長して、13歳のころに芸術家連盟で評価を受けるレベルまで達したんですね。

しかしムンクは14歳にして姉のソフィエも結核で亡くすことになる。この事件も、彼の生きることへの不安を増幅させたのはいうまでもない。このあと20〜30代にかけて、姉に向けた絵を何枚か描いている。

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エドヴァルド・ムンク「病める子」1885年

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エドヴァルド・ムンク「病室での死」1893年

エドヴァルド・ムンクの生涯 〜斬新すぎる「暗い絵」でしこたま酷評される~
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16歳になったムンクは、徐々に芸術家に憧れを抱き始める。芸術を通して人生の意味を明らかにしようと、前向きに考え出すんです。カレンのアートセラピー大成功!だ。

しかしここで立ちはだかるのは、またしてもキリシタンの父だった。彼は芸術をしこたま嫌っていたんですね。ムンクは父には逆らえないので、16歳で工科大学に入学して今でいうエンジニアを目指すようになる。ただ病気がちだったのでほとんど登校できなかったんです。そこで1年で中退。

これを受けて彼は「運命が芸術家になれと言っとる!」と確信。実は中退の半年前には油彩画の画材セットを買っている。辞める前からもう画家になる気満々なんですよね。

それでムンクは、一念発起して父親を説得。退学から1カ月後には美大に入学。スピード感がハンパない。どれだけムンクが絵を描きたかったのかがよくわかるだろう。

ムンクは美術学校に入ったことで、完全に精神的に回復するんです。友だち6人とアトリエを借りて、自然主義の画家・クローグ先生の教えを受けるまでに元気になった。まずこの状態のムンクに友だちができたのがすごい。

このころにムンクは人物画を習得。そして19歳のころには旅行をしながら風景画を描いている。そして20歳で「クリスチャニア・ボヘミアン」という前衛美術集団と仲良くなる。クローグ先生が主宰者の1人だったことで、彼らとつながるんです。

クリスチャニア・ボヘミアンとは、要するに古き良きキリスト教の教えを真っ向から否定した集団である。とにかく反キリスト教なので、自己中心的な考えを良しとしていた。「人間、素直になればこんな感じの思考だろ?」と自我の解放みたいなのを目指して8箇条を掲げたのだが、これがまぁ胡散くさいんです。アブナイ香りがプンプンする。

・汝は自己の生涯を語らねばならない。
・汝はあらゆる家族的係累を断ち切らねばならない。
両親はどのようにひどく扱ってもよい。
・汝は汝の隣人から、必ず5クローネ以上の金を搾り取らねばならない。
・汝は、ビョルンスティエルネ・ビョルンソンのごとき百姓は全てこれを憎悪し、軽蔑しなければならない。
・汝は、決して安物のセルロイド・カフスを用いてはならない。
・クリスチャニア劇場においては、あらゆる機会を利用してスキャンダルを起こさなくてはならない。
・汝は決して後悔してはならない。
・汝は自ら命を断たねばならない。
ムンクは彼らに影響を受けたが「能書き垂れるばっかで、全然絵を描かん奴らやで」と一蹴している。まぁ要するに「まったく音源出さないのにメジャーバンドに『保守的すぎるだろ』とか言っちゃう下北のバンドマン」みたいなノリですよね。

ただ、ムンクはクリスチャニア・ボヘミアンの創設者、作家のハンス・イェーガーは師事していた。特に彼の「最も人間が自由になれる手段は自殺である」というヤバすぎる思想には共感し、後年「私の根底にあるのは、クリスチャニア・ボヘミアンとハンス・イェーガーです」と宣言している。

この頃のムンクは「習作・若い女の頭部」や「朝」などの作品を芸術家展に出すが、酷評されてしまう。

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エドヴァルド・ムンク「朝」

しかし遠い従兄弟のフリッツ・タウロウだけはムンクを評価しており、父親に頼み込んでパリのサロンを見学してもらうよう勧める。そこでムンクはノルウェーを抜けてパリに旅行。

22歳のムンクのパリ旅行で特に心を惹かれたのが、印象派のなかで唯一黒を使った30歳年上のマネだった。


彼の絵を見て「やべぇ……すんごいクール」と衝撃を受けるんですね。下の「画家カール・ジェンセン・ヘルの肖像」は、そのころ(24歳ごろ)の代表作。光の反射などを細かく描いた黒の表現が独特だが、この作品もノルウェーでは酷評されることになる。

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エドヴァルド・ムンク「画家カール・ジェンセン・ヘルの肖像」1885年

ムンクはこの年に先述した「病める子」も発表するが、これもめちゃめちゃ不評だった。とにかく荒々しく悲壮感あふれる斬新な画風であり、当時の保守的なノルウェーでは受け入れられなかったんですね。姉の姿を描いた絵だったのに、家族からも「いや、ムンクこれはねぇわ」と酷評されるなど、取り付く島もなかったんです。

しかし、ムンク自身は手ごたえを覚えており「ノルウェー史上最大のスキャンダル」と自分で語っている。事実、結局この絵は前衛派のクローグ先生が購入したことからも、ムンクの絵が当時は新しかったことが分かるでしょう。

さらに同じ年に代表作「思春期」を発表。影がもうジョジョのスタンドみたいになっていて、今にも特殊能力を使いそうなこの絵も亡くなった姉がモデルです。そして同じモチーフで版画なども制作している。ちなみに「気に入ったモチーフはもう何回も描いちゃう」のもムンクの特徴の1つです。

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エドヴァルド・ムンク「思春期」1985年

さらに1985年、ムンクは従兄弟のフリッツ・タウロウの弟の妻、ミリー・タウロウと不倫関係を始める。「昼顔」みたいな禁じられた関係であり、ムンクはもだえ苦しむことになる。

しかしそんな負の感情をパワーに変えるのがこの男のすごいところで、この後も精力的に作品を出し続けた。特にムンクの初期の傑作といわれるのが1889年の「春」だ。

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エドヴァルド・ムンク「春」

そして同年には26歳にして初の個展を開催。意外と遅いな、と思うかもしれないが、当時は個展を開催するという行為自体がノルウェーでは初の試みだったんですね。

この個展は一部からきつい評価を受けたけど、結果的には成功した。あれだけ酷評されていたムンクは国から奨学金を得てパリに留学することになるわけだ。

しかしこの年には父が亡くなってしまう。彼に呪いを与え続けた男が亡くなることで、ムンクは悲しみを背負いながらもある意味で自由になれたといえるでしょう。

ただし一家の稼ぎ頭がいなくなったことで、長男のムンクは家系を背負うことになるのは確かだ。この辺りから、彼の貧乏生活には拍車がかかる。

エドヴァルド・ムンクの生涯~生・死・不安・生命で内面を描いた黄金期~
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1889年、パリに着いた26歳のムンクは、ルーブル美術館などを周り、10~15歳ほど年上のゴッホ、ゴーギャン、ロートレックなど、ポスト印象派の絵に魅せられる。ゴーギャンもゴッホも共通点としては「人の感情を色で表現した点」だ。

これだけ内省的な生涯を送ってきたムンクが、ポスト印象派の色使いに興味を持ったのは、ある種当然のことなんです。また芸術の中心地・パリのアートはノルウェーよりも進んでいて、既に伝統主義の表現を見直す動きがあった。ムンクとしては、こうした新しい表現にも感化されたわけですね。彼らの影響を受けてこのあたりから色使いが大胆になっていきます。

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エドヴァルド・ムンク「カール・ヨハンの春の日」1890年

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エドヴァルド・ムンク「ニースの夜」1891年

色彩が豊かになるとともに、ムンクの表現は「より人の内面を描くもの」になっていく。パリ留学を終えるとベルリンに移住。安い宿を転々としながら人の本質を描いていきます。

色彩感覚が鋭くなり、より「死」「生」「不安」を描いた表現が強くなる。「パリで何があったん?」というほど帰国後に作風を変えるんですね。

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エドヴァルド・ムンク「カール・ヨハン通りの夕べ」1892年

それまではある程度、写実性を気にしていたが、このころから人の表情は完全にデフォルメされる。また「春」と見比べるとよく分かるが、背景も平面化されている。ゴッホやゴーギャンも同じで遠近感はほぼなく、基本的に2Dなんです。

この表現技法がムンクの最大の特徴となっていくんですね。彼にとって大事なのは写実的な絵としての完成度じゃなく、人の内面をどれだけ描けるか、だった。

そして1892年、29歳で2度目の個展を開催。これが前回以上に好評を呼び、なんと国立美術館が彼の作品を買い上げた。少し前のムンクは伝統的な技法と、前衛的な考えがちょっと中途半端だったが、完全に自分の表現を手に入れたんです。

母や姉、父が死に、妹が精神病になってしまったムンクにとって「内面」とは「生」と「死」、また「愛」と「不安」だ。ムンクはこれらの要素をもとに「生命のフリーズ」という作品群を描く。

そしてそのなかの1つが1893年の「叫び」だ。

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エドヴァルド・ムンク「叫び」1893年

この作品についてムンクは以下のように語る。

私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。
つまり叫んでいるのは人物じゃなくて山なんですね。中央の四等身のこだまは、自然が迫ってきているのを感じて、怖くて耳をふさいでいるんです。

当然、空がここまで真っ赤になることは現実的じゃないし、山が叫ぶこともない。自然をそう見せているのは自分自身の内面なんですね。当時、ムンクが弱っていたから自然が恐ろしく見えたわけで、そんな精神状態を彼は表現したかった。

彼はこの絵をいたく気に入っており、同じモチーフをパステル画や版画などでも描いている。またこの背景は他の作品にも転用されている。

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エドヴァルド・ムンク「不安」

また1894年には「マドンナ」を制作。これもムンクの代表作です。キリストの母、聖母・マリアを描いた作品だが、めちゃ斬新だ。

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マリアは聖母ですから、基本的には「おしとやかで気品溢れる熟年の女性像」で描くんです。しかしムンクのマリアは明らかに若い。しかも身体をカーブさせており、少しエロティックに描いている。キリスト教の伝統的な教えを否定したクリスチャニア・ボヘミアン時代の影響もあるでしょう。またエロスの向こう側には、彼のテーマの1つでもある「生命」も感じさせる。

この時期はまさにムンクの黄金期であり、過渡期なのでもうちょっと作品について書かせてください。

先述した「病室での死」、また「灰」などの作品を見ると、独特なポージングがあらわれるようになるのもこのあたりからだ。

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エドヴァルド・ムンク「灰」

「叫び」もそうですよね。ムンクは「不安な心理状態が最も伝わるポージング」を模索していたんですね。とにかくダイナミックに描きたかったのだ。頭を抱えたり、耳を塞いだりと、ちょっと大げさで独特なポーズが彼の作品の特徴の1つ。

そんなムンクは1895年、32歳にして弟も肺炎で亡くす。ムンクの精神状態は荒れに荒れたが、皮肉なことにこの年に描かれた作品は先述した「マドンナ」をはじめ名作ばっかりなんです。

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エドヴァルド・ムンク「吸血鬼」

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エドヴァルド・ムンク「嫉妬」

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エドヴァルド・ムンク「煙草を持つ自画像」

弟の死によって「死ぬこと」と「生きることの不安」はより高まっていくんですね。「吸血鬼」やマドンナなどは身体に沿って、陰鬱なオーラみたいなものがくっきり出てます。ちびまる子ちゃんの「ガーン」の線みたいな感じですね。

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エドヴァルド・ムンクの生涯 〜激しめの恋愛、そして評価を得はじめ作品~
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ムンクは1896年に「生命のフリーズ」を引っ提げてパリに移る。しかし、ここでも酷評を食らってしまう。あまりに暗く、暴力的で残酷な絵画は、パリでは受け入れられると思っていたけど、まだ早かったんです。

しかし、これらの作品は当時、唯一無二のものだったのは確かだった。さらにこのころにはムンクはノルウェーでは有名な画家だったムンクのパリでの展示は画壇からめっちゃ注目されていたんですね。このころはまさに賛否両論という感じ。まんだらけの奥深くにあるスキャンダラスな本みたいな……一部の人にカルト的人気を誇る画家として、一般層にもじわじわ人気になる。

しかし1896〜1897年、30代前半のムンクは自分の描いた絵が売れることに、ビミョーな感情を抱いていた。絵に愛情を注ぎまくっていて「子どもみたいなもんやから、絶対手放したくない」と考えていたんですね。なので版画でコピーして売るんです。それである程度の収入を得て、はじめて生計が楽になる。

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エドヴァルド・ムンク「病める子Ⅰ リトグラフ」

それでムンクは地元・ノルウェーに小さな別荘を買い「普段はパリで活動して、たまに別荘で休みつつインスピレーションを得る」というなんか大御所っぽい生活を始める。この別荘は「ハッピーハウス」と名付けられ、名前の通り、ムンクは帰ってくるたびに気持ちが楽になったのだという。"型"から入るタイプなんです。

1899年には上流階級の娘、トゥラ・ラーセンと付き合いはじめる。ムンクは36歳だったが、自己否定の強さ、自信のなさが災いしてトゥラの求婚を拒み続けた。

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彼は幼いころの母の死、父の狂いっぷりを見て「愛する」という行為をどこか退廃的に捉えてたんです。「どうせ死ぬじゃん」と、愛よりも死のほうを先に想起してしまうんですね。すると、結婚はかなり虚しい行為に思えるわけだ。ただきっちり彼女は作るんですけどね。

1902年、39歳でトゥラはついに爆発。「結婚してくれなきゃ死ぬ!」と拳銃を持ち出し、ムンクが止める。わちゃわちゃしている間に撃ってしまい、ムンクは左手中指の関節に大きな怪我を負った。

これで破局するんですが、トゥラは別の男性とすぐに結婚。ムンクは「あいつホント嫌い!あいつに人生を狂わされたんです!」と10年くらいイジイジすることになる。

ただ、なんだかんだ翌年には、新たに好きな人ができていた。エヴァ・ムドッチというバイオリニストで、ムンクは彼女をモデルに油彩や版画を描いています。この「写真でひとこと!」に使われそうなニヒルな笑いがたまらない。

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エドヴァルド・ムンク「ブローチをつけた婦人」

また1902年からは、眼科医のマックス・リンデがメインのパトロンになる。リンデの依頼で家の風景や肖像画などを描くようになるわけです。ここからの作品は「生命のフリーズ」にかけて「リンデ・フリーズ」といわれた。

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エドヴァルド・ムンク「リンデ博士の4人息子」

ムンクにとって、40歳前後の時期は、版画の売上に加えてこうした肖像画でも収益をあげており、気づけばかなり大成功するんですね。いや本当に「ここまでの苦労が花開いた時期」といってもいい。

エドヴァルド・ムンクの生涯 ~アル中→電気ショック療法→明るい表現に変化
お金を稼いだムンクは別荘をいくつか構えて、パリを拠点にしつつも、気ままに各地で息抜きをするようになった。しかし、このころから酒浸りになる。43歳でアルコール依存症を発症。慢性的な鬱状態に入り、1908年からは酒を抜くためにも精神病棟に入所した。

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エドヴァルド・ムンク「病院での自画像」

同時期に活躍したルドンなんかは息子が生まれて、作風がグッと明るくなった人だが、ムンクは精神的に好転しなかった。


そこで精神科医のもとで8カ月間の電気ショック療法を受けるという、なかなかの荒療治(今でも実際に使われる最後の手段)を経て精神状態が回復。ノルウェーに戻る。

しかしコレ、ほんとに怖いんですけど、退院した後からムンクの絵は異常なほど明るくなるんです。いったいどれだけの電気ショックを受けたんだ。骨が透けるレベルの電流で記憶とんだのか。

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エドヴァルド・ムンク「太陽」

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エドヴァルド・ムンク「黄色い丸太」

というのは、もちろん冗談です。このころの作品はあえて明るく描き、風雨にさらしたり、犬にひっかかせたりして色彩が落ち着くのを待つ、という偶然性に任せる手法だったんですね。のちのシュルレアリスムにもつながる手段で描いていた。

このころにはすでにムンクはノルウェー国内ではどの画家より評価されていて、国立美術館が何点もムンクの作品を買っていた。また国からの要請を受けて装飾品を次々に作っていくわけです。東京五輪の演出を椎名林檎に頼む感じですね。名実ともにムンクはノルウェーを代表する画家になったわけです。

しかしムンクが51歳、1914年に第一次世界大戦が始まってナチスドイツとノルウェーが緊張関係に入る。ムンクはベルリンで活動していた時期もあったので、一転国民から冷めた目で見られるようになった。

その視線を気にしてか、1916年にはオスロの郊外に東京ドーム1個分ほどの広大な土地を購入して、晩年までの28年間はそこで暮らした。

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このころに描いた作品は、初期の思想はほとんどなく、気ままなものが多い。お金もたくさん稼ぎ、田舎に大きな家を買い、畑を耕しながら、たまに志願してくるヌードモデルを招き入れる、という牧歌的で余裕のある暮らしだった。

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エドヴァルド・ムンク「星月夜」

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エドヴァルド・ムンク「キャベツ畑」

マイペースに絵を描いていたムンクは60歳後半ごろから視力が落ちる。左目は視力が低下し、高血圧によって右目の血管が破裂してしまうんです。それで作品より文学のほうをよく作るようになる。

そして1932年にドイツから、1933年にノルウェー政府とフランス政府から勲章を受け取る。彼が活動してきた3カ国から評価を受けたのは彼の人生の集大成といえる出来事だったでしょう。しかし1937年にナチスドイツが発足してからはヒトラーによって「退廃芸術」とみなされドイツ国内から彼の作品は完全に撤廃される。

その後、1944年に第二次世界大戦のさなか、爆風で家の窓が吹っ飛ばされ、あまりの寒さに気管支援を患って80歳で亡くなった。まさにラストまで激動の生涯を送った、波乱万丈な画家だったんです。

苦しめば苦しむほど進化する画家
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ムンクはいったい何重苦を背負ったのだろうか。母の死、姉の死、弟の死、父の死、妹の精神病、親からの異常な

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