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日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった

1:777 :

2022/05/29 (Sun) 15:01:57


日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった


2021年07月22日
戦前も晩婚化が進んでいた 食料不足から人口抑制し現在に至る

戦前戦後の食糧不足から、日本は人口抑制を徹底した。
そのまま70年が経ち、政府はまだ人口抑制策を続けている。

引用:http://haofu.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_ec0/haofu/naissances_au_japon.jpg

戦前も結婚が遅かった

少子高齢化は日本の病理のひとつで、中でも子供が少ない少子化は、年金問題や経済の低成長などを引き起こしている。

少子化の原因は結婚しない人が増えたのと、結婚年齢が遅くなったのが原因だが、戦前は結婚が早かったわけではなかった。

1920年代(大正末期から昭和初期)はアメリカで空前のバブル景気になり、すでに個人がスポーツカーを乗り回していた。

当時は今より世界の結びつきは少なかったが、日本も好景気の恩恵を受けて「大正デモクラシー」が流行した。

伝統主義に対して西洋化、資本主義、民主主義がもてはやされ、東京では消費文化が始まりました。

サラリーマンは西洋風のスーツを着てOLが着物ではなくスカートを履き、お昼は洋食のランチを外で食べるのが流行った。


1930年代になると既に日中戦争は始まっていたが、田舎にも西洋化の波は押し寄せ、急速に晩婚化が進みました。

1920年に女性の結婚年齢は23歳だったのに、1943年ごろには25歳になり、男は平均30歳になりました。

この間出生率も低下して5.0(女性一人が平均5人出産)から1940年頃3.8くらいまで低下しました。


出生数は増減はあるものの概ね上昇し、1950年には269万人まで増加しました。

これはいわゆる人口ピラミッドの下の方が大きく、若者が多かったので、少々晩婚になっても絶対数が多かったからでしょう。

戦前から戦後10年くらいの日本は人口が増えすぎ、食料不足が大問題になっていました。

日本政府が人口を減らす政策を進めた

日本軍が朝鮮占領したのも満州や中国を占領したのも、根源的には「食料を増産するため」だったのはあまり知られていない。

人口が増えた割りに食糧増産は進まなかったので、朝鮮を占領したが、却って増えた人口を日本が養わねばならなくなった。

そこで満州を占領して食糧増産しようとしたが、今度は満州で人口が増えてしまい、日本が満州の人を養わねばならなくなった。


旧日本軍の政治は大体こんな風で、とりあえずやってみたが失敗した、というパターンが多い。

大日本帝国は最初から最後まで食糧不足に悩まされ、内地でも外地でも戦地でも食料が不足した。

皮肉な事に1945年ごろの日本で最も食料が豊富だったのは、日本が養った朝鮮や満州や樺太だった。


1945年を境に戦地から兵士が帰還して爆発的な人口増加が起こり、1947年から49年に出生数と出生率で過去最高を記録しました。

当時の製造業や農業は自動化されておらず全て人力だったので、社会は膨大な労働力を必要としていました。

日本政府はやはり人口増加による食糧不足を懸念し、戦後すぐに人口抑制政策を始めました。

子供を産んでも何のメリットもなくなった

女性の社会進出、子供の人権、中絶合法化、などがそれでいずれも女性が子供を産まなくなるように調整する目的でした。

女性が働けば子供を産まなくなり、子供の人権や教育によって子育てには金がかかり、5人以上も産むことはできなくなった。

昭和の中期以前は子供が家事や仕事の手伝いをするのは当然だったが、これも禁止したので一人当たりの養育費は高騰した。


1960年代までは「子供は産めばなんとかなる」社会だったが、以降は金がなくては子供を作れない社会に変わった。

貧乏人の子沢山という言葉があり、たくさん産んで一人でも立身出世した家族は貧乏から抜け出せたが、そういうサクセスストーリーもなくなった。

子供が多かった時代には、子供は働いたり近所の子供の世話をし、成人したら親の面倒を見るのが当然だったので、親には子供を育てる金銭的メリットがあり、愛情だけで育てたのではなかった。


現代では子供は親と別居して面倒を見ないのが当たり前になり、子供は「ただの負債」になってしまった。

戦後70年ずっと日本政府は、昭和初期に軍部が決めた人口抑制策を続け、人口がマイナスになった現在も続けています。

人口減少、少子化の犯人は誰かと言えば、それは他の誰でもなく日本政府自身でした。
http://www.thutmosev.com/archives/74335274.html  


▲△▽▼


敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

2017-06-20
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427


敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]

 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万~200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万~200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

1946年の食糧危機
しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]

 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)
「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)
「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて しね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。

朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200~1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]

 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。
「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」
 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]

(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)
 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

お通しもの
平貝
胡瓜
ノリ
酢のもの
おでん
鮪刺身
焼物
から揚げ
御煮物
竹の子
フキ
このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]

 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427
2:777 :

2022/07/04 (Mon) 15:52:36

あげ541
3:777 :

2022/07/04 (Mon) 15:53:12

話の始まりは1929年のニューヨーク株価大暴落で、この影響でドイツや日本、全世界が同時不況になりました。


当時の人達はなぜか「世界で貿易を盛んにしよう」とは思わず「貿易を禁止すれば資源を独占できる」と考えてブロック経済を始めた。

エネルギーが石炭から石油に替わりつつあり、石油が採れる場所は限られていたので日本はエネルギー不足に陥った。

ここで日本陸軍は大失敗を犯し、大陸に進出して農地を増やし食糧問題と人口問題を解決しようと思い立った。


戦前の日本は人口爆発による食料不足に困っていて、朝鮮や大陸を農地にして食糧を得たいと考えた。



軍人にはビジネスも経済も理解できなかった

実際には半島でも大陸でも食糧を得るどころか日本から送る始末で、朝鮮でも満州でも人口爆発が起きてそれぞれ食糧不足になった。

これは原始的な社会が近代国家に代わったため急激な人口増加が起き、日本、朝鮮、満州のそれぞれが人口増加で食料不足に陥った。

ここから陸軍のプランはさらにおかしくなり、大陸の平定に大量の兵士を動員したため、兵士の食糧やエネルギーを日本からどんどん送り込んだ。


最初のプランでは満州で農地を開拓して日本に送るという事だったのに、現実には満州を維持する為に兵士や労働者や食料やエネルギーを日本から送りました。

食糧や兵士は国産だが石油などのエネルギーは輸入なので、日本は輸出国である米英欧への依存度を高めていった。

アメリカはある日「中国の権益を半分よこせ」と要求したが、陸軍軍人はビジネスが理解できない為「領土を半分取られる」と思い拒否した。


実際にはアメリカが要求したのは開発権や利益に過ぎなかったが、これで日米関係は決裂しアメリカは対日制裁を連発しました。

日本陸軍の判断はさらにおかしくなり、「満州を取られないためにアメリカを倒す」事になり、1941年の真珠湾攻撃で日米戦争が開始された。

話をまとめると食糧不足を解決する為に満州開拓をしたが、日本から労働者と兵士と食料を送る羽目になった。


満州を維持する為にエネルギーが必要になり、満州の権益を欲しがるアメリカと対立し、「そうだアメリカを倒そう」と思い立った。

満州なんかアメリカに半分くれてやればいいし、そもそも満州を開発しなければ食糧不足もエネルギー不足も発生しませんでした。
https://www.thutmosev.com/archives/88522138.html
4:777 :

2022/07/04 (Mon) 15:54:55

あげ012
5:777 :

2022/10/15 (Sat) 05:40:11

朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/416.html
6:777 :

2022/10/15 (Sat) 05:51:51

餓死者続出、累々たる屍が街角に放置された天明の大飢饉は、 なぜ起きた?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14054884
7:777 :

2023/09/09 (Sat) 15:50:45

及川琢英『関東軍 満洲支配への独走と崩壊』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14148200



満州国の軍隊とはなんだったのか
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14096508

戦前の日本陸軍軍人は共産主義者ばかりだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016765

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html

鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14104501

瀬島龍三、 統制派、ソ連の対日参戦
2019/09/02
https://www.youtube.com/watch?v=G4aRZQTyoDs&list=PL9DmHG7OZYSauiBXcmysZuMjOSeMWY8Yc&index=5

大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006701

日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703

飢餓輸出 _ 日本占領下、ベトナムで200万人が餓死
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006700

鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023519

ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html 

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカの手先として 動いてきた。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14058621

ウォール街と戦った共産主義者 ルーズベルト大統領
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14067898

太平洋戦争は共産革命を恐れた昭和天皇が英米支配層と組んで起こした八百長戦争だった
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昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html

藤井聡 なぜ、日本は戦争に敗れたのか?
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みんな大好きな 白洲次郎さんの正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14103660

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

ジェームズ斉藤 : 日本のゴールド「天皇の金塊」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006705

日本のゴールド 「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/392.html

漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198
8:777 :

2024/02/19 (Mon) 11:30:59

日本人を捨てて逃げた皇軍 終戦後に在住日本人がやらされた事
2024.02.19
https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた


引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg
ソ連兵に妻や娘を差し出して命乞い

第二次大戦終了後の満州などで、ソ連や中国が日本人に強要していた戦争犯罪があったが世界史のタブーになっていて日本政府も触れようとしない

この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です

順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた

8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、ソ連は勝ち目がないと見て攻撃しなかったので本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った

ソ連は独ソ戦に注力したので極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので日本軍が下がるのを待ったのでした

8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と在住日本人100万人以上をだまして夜逃げしました

満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民がソ連との決戦を信じて涙を流して日の丸の旗を振って送り出したが、実は関東軍は朝鮮半島まで我先に脱走した

関東軍は決戦に行くと在住日本人に信じ込ませる一方で「必ず勝つからその場から動いたり脱出してはならない」と指示し、実はこれは日本人を囮としてソ連軍に襲わせて時間稼ぎをする作戦でした

関東軍に騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました

この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘や妻を差し出して「接待」をさせました

特にソ連兵の規律は悪く金目のものや居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません

それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部の民間人被害は深刻でした

政府や軍隊を信じるとこういう目に遭う
最悪だったのは満州の荒野を開拓させられた満蒙開拓団で約27万人のうち約8万人が現地で襲われてなくなり、生き残った人も妻や娘を差し出して逃げ帰りました

満蒙開拓団は表向き志願だが実際は強制で、貧しい農村を中心にノルマとして人数を指定し長男は跡継ぎなので次男夫婦が強制的に満州へ移住させられました(小作人の次男が選ばれるのは最初から決まっていた)

関東軍が逃げ出したのは大本営の指示で、大本営と日本軍は満州在住日本人100万人を囮にしてソ連軍を足止めさせ、全員をみごろしにして関東軍だけを本国に帰還させる作戦を建てた

終戦直前の日本は食糧難だったので満州の日本人が帰って来ては困るので現地に捨てて来ることにし、関東軍60万人は本土防衛のために必要なので帰還させることにした

当時兵士の家族も満州に住んでいたので兵士の家族だけを列車に運び、他の在留日本人は列車に乗るのを禁止し移動も禁止した

関東軍の移動が終わると列車が再開し、38度線の南側は日本軍が駐留し規律が守られていたが、日本軍が撤退した北側は無政府状態になった

関東軍が黙って逃げ去ったので満州の日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった

愚かな事に「お昼ご飯を食べたいから」「夜は旅館で寝たいから」のような理由で北朝鮮側で列車を降りた人が相当数いて、降りた人はシベリアの収容所に送られてほとんど亡くなった

北朝鮮側はソ連兵が徐々にやってきて、北朝鮮の人民はきのうまで日本人に従っていたのにロシア人の歓心を買うために日本人を襲撃し始めた

北朝鮮に残った日本人はやはりソ連兵や現地人に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘や自分の妻を差し出しました

現地人も日本人をおそって金品を奪ったり、日本人の娘をさらったりしてソ連兵に差し出し、そのような人間が北朝鮮で権力階層に出世していった

そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占め、その子孫が現在の金正恩政府でも支配階層として君臨している

ソ連や中国や朝鮮で酷い目に遭って命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった

このような行為をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった

帰還者は故郷に帰ってもGHQの統制によって「侵略者」と石を投げられたり村から追い出されたり、へき地に追いやられたりもした

そして満州に置き去りにされた人々は今も「侵略者」のレッテルを貼られ、政府は日本人の被害に見て見ぬふりをし続けている

https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

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