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東宝『戦線後方記録映画 南京』1938年

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2022/05/29 (Sun) 12:55:24

東宝『戦線後方記録映画 南京』1938年

製作-松崎啓次
指導-軍特務部
撮影-白井茂
現地録音-藤井愼一
製作事務-米沢秋吉
編集-秋元憲

音楽 江文也
録音-金山欣二郎
作曲指揮-江文也

撮影 白井茂
解説-徳川夢声
公開 1938年2月20日
上映時間 約71分 ※1995年に8巻中7巻が発見され59分間の映像が発見され復刻版として販売されたが現在絶版。2014年に松尾一郎によって残り10分が発見された。
製作国 日本

動画
https://www.youtube.com/watch?v=nos2prviBq8


『南京』は、1938年2月20日、東宝映画により公開された映画である。制作中に陸軍省、海軍省の後援を得たものであり、企画意図からして,必ずしも自覚的に国家宣伝=プロパガンダが目ざされていたわけではなかったが、実際には戦争の苛酷な現実が国家宣伝=プロパガンダへの道を開いていったという説がある[1]。日中戦争における南京戦終了直後の南京城内外の様子を撮影している。

映画の来歴
この映画は日中戦争三部作の1つとして製作され、1937年(昭和12年)8月13日の第二次上海事変の勃発と同時に、『上海』『南京』『北京』と撮影され、制作中に陸軍省と海軍省の後援を受け[1]1938年(昭和13年)に劇場公開された。

『上海』 - 2月1日公開
『南京』 - 2月20日公開
『北京』 - 8月23日公開

撮影を行った東宝映画文化部は、1937年(昭和12年)9月にPCL、写真科学研究所、東宝配給、J・Oの4社が合併して東宝映画株式会社内に出来た第二制作部である。

この映画は、遠からず行われると予測された南京攻略戦に備え、『上海』と同時に準備の進められた企画である。撮影班一行は、『上海』の撮影が終わるのを待ってその機材を引き継ぎ、1937年(昭和12年)12月12日未明に南京へ向けて出立。南京陥落の翌日14日に南京に到着し、そのまま年を越えて1月4日まで撮影を続けた[2][3]。

日本で保存してあったフィルムは1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲時に消失。1995年(平成7年)、北京に8巻のフィルムのうち7巻が存在することがわかり、仲介業者を通じ中国の軍関係者から日本映画新社が買い取った。その時点で10分前後の欠落が確認されている。1995年に日本映画新社からVHSが販売され、2003年(平成15年)にDVDが発売されたが、後に日本映画新社が東宝ステラに合併されたため絶版となった。

2014年(平成26年)、日中問題研究家の松尾一郎が残りの約10分間の映像を発見した[4]。現在、松尾が完全版を作成しYouTubeにて公開を行っている[5]。


映画の内容

南京攻略戦における各戦闘箇所ごとの解説
中国兵捕虜にタバコを渡す日本兵
1937年12月17日、中支那方面軍幕僚及び陸海軍将兵よる南京入城式[6]
1938年12月18日、日中戦没者合同慰霊祭[要出典]
陥落直後の南京城外の様子、明孝陵、音楽堂、中国戦死者墓地、運動場等[要出典]
南京にいた外国人により組織された国際委員会が設定した中立地帯、南京難民区という避難区域[要出典]
日本軍や南京市民による南京戦後の復興の様子[要出典]
避難していた南京市民が南京へ戻り始めた様子
赤十字看護婦の活動[注釈 1]
安居証[8]という中国人のための通行証と南京の住民である身分を証明する交付を行う日本軍の様子[6]
日本軍による正月の準備から新年までの様子[6]
正月に爆竹で遊ぶ南京の子供達[6]
南京自治委員会の発会式
戦死した日本兵が戦友の手で火葬にされる場面では、火葬にされる生々しい音が同時録音で捉えられたが、1995年に発見されたプリントではその部分は欠落している[9]。彼らの在りし日の姿を偲ぶと称して戦闘の再現場面も挿入されており[10]、城壁をよじ登り日章旗を立てるシーンを再現して撮影された[11]。
当映画が公開されたときの評論には、「映画の最期に(略)我軍医の手厚い治療を受ける支那負傷兵の呻き声」とある[12]。


映画の字幕

映画の字幕には、次の言葉が残されていた。

我々の同胞が一つになって
 戦った数々の光輝ある
 歴史の中でも南京入城は
 燦然たる一頁として
 世界の歴史に残るだろう
 その日の記憶として
 この映画を我々の子孫に
 贈る

 本編は
 陸軍省
 海軍省
 並びに
 現地の将士達の
 指導と援助のもとに
 完成された


映画撮影の様子
この映画の撮影の様子については、製作事務の米沢秋吉が記した撮影日誌と、撮影した白井茂の回顧録に述べられている。

米沢秋吉の撮影日誌
南京陥落の1937年12月13日以降の日誌には、映画撮影班の次の内容が記されている。このうち、12月17日に撮影された入城式の場面は、はじめから天覧に供することが決まっていた[13]

1937年12月13日 - 南京に入る前日。敗残兵(便衣兵参照)の暴行の話を聞き、器材が掠奪されることを恐れていた[14]。
12月14日 - 南京に入る。南京は、南京城北部の掃蕩中であり、撮影班は掃蕩と思しき激しい銃声を聞いた[注釈 2]
12月15日 - 城内の撮影開始。訪れた挹江門(ゆうこうもん)の附近ではまだ掃蕩が行われていた[注釈 3]
12月16日 - 紫金山麓、郊外遊園地である中山陵と附近の音楽堂を撮影。その際には犬が悠々と歩いていた[17]
12月17日 - 日本軍による南京入城式が撮影された。天覧に供するため、そのフィルムは直ちに空輸されている[注釈 4]
12月24日 - 30万人の南京の避難民を撮影した。非常に哀れであった。子どもを探してキャラメルを与えている日本兵の風景を見た。美しい風景であった[注釈 5]
12月31日 - 水道設備の建設風景を撮影した[注釈 6]
1938年1月2日 - 中国人捕虜に対する施療風景を撮影した[注釈 7]
当時の南京には日本の新聞記者やカメラマンが約120人も占領と同時に入城して取材にあたっていた。その中でこの映画の撮影班は軍特務部撮影班であったため、新聞社ニュース班の撮れないところでも自由な撮影が許される、ということも記されている[注釈 8]


白井茂の回顧録
撮影の白井茂は回顧録で、見たもの全部を撮ったわけではなく、撮ったなかにも切られたものがあると述べている[23]。

南京に到着した12月14日から銃殺のため処刑地の揚子江河畔に連行される長蛇の列を目撃したがカメラは廻せず、その目撃に憔悴し幾晩も悪夢にうなされたと述べている[24][25]。

また、日本軍の入城式の場でも住民が「しょうがない」と歓迎の手旗をふったことがあったとも証言している[26]。


映画を巡る評論
この映画は、映画作品としてさまざまな評論がされている。また、南京事件の実態をあらわす史料として、南京事件論争における南京虐殺否定派と南京大虐殺肯定派の双方の立場から論じられている。キネマ旬報社データベースでは「半世紀以上の時を経た数々の歴史的映像を収録し、戦前・戦中の記録を伝えるドキュメンタリーシリーズ第4弾。昭和12年12月の南京入城後の日本軍と荒廃した市内のリアルな映像を収録。今なおその存在の有無が争われている“南京大虐殺”を巡る話題作。」と紹介している[27]。

映画作品としての評論
ドキュメンタリー映画監督の野田真吉は、南京陥落直後の南京の状況はさまざまに撮影されていたが、南京大虐殺に関する撮影はすべて禁止されていたので、この映画はよく見かけた戦勝ニュースの域を出なかったと批評している。兵の姿もいつものにこやかな後方陣地風景で、沈黙を強いられている中国民衆の不気味さも感じられない、南京の冬の日だまり報告という感じだったと述べている[28]。

ドキュメンタリー映画監督の土本典昭は、白井茂の回顧録を引用した上で、現場の撮影と演出を兼ねた白井にとって本作は戦争の過酷さに圧倒され手も足も出ない現場だったようだが、撮影禁止にされたにせよ大虐殺の目撃体験から、以後の南京の描写にカメラによる悲劇の発見の眼がよみがえるべきだったとしている。さらに、野田真吉の批評を引用しつつ、だがこれは白井一人の責任ではなく当時の東宝文化映画部のとった構成編集の分業というシステムの結果でもあり、当時の慣例通り現地には赴かなかった構成編集者秋元憲はこの体験から演出家の現場主義の考え方をより強めたと指摘している[29]。

ドキュメンタリー映画監督の佐藤真は、前記白井の記述・野田の批評を引用しつつ、南京大虐殺の事実を目撃しながらカメラを回せなかった白井の苦闘が、編集・構成をする際の苦闘にまったくつながらなかったことで本作は凡百の国策映画の一本となった。編集・構成の秋元を『上海』の亀井文夫と比較するのは酷かもしれないとする一方で、白井は本作の失敗を心の傷として胸にしまっておいたきらいがあり、後の亀井監督『小林一茶』でその本領をいかんなく発揮したとしている[30]。

映画学者の藤井仁子は、この映画の最大の特色は様式的な混乱とも映る矛盾に満ちた不均質性にこそあると指摘している。いくらこの映画を見続けても都市としての南京の映像は明瞭さを欠いており、都市の日常が徹底的に欠けている。日本兵はただ次から次へと式典を行い、中国人は「安居の証」を求めて集まる場面を除いてその姿は極端に少なく、日本兵の居所を一歩離れれば映し出されるのは無人の廃墟ばかりだ。それはこの映画の撮影班が見たものが到底撮ることのできないような現実だったからであり、この映画の持つ不均質な様式的混乱は、その現実を見ずに済ませるための悪戦苦闘のドキュメントなのだと述べている[31]。

南京大虐殺否定派の評論
1998年12月13日の産経新聞は、鬼よりも怖いはずの「南京憲兵分隊」の前を平気で歩いている住民や、日本軍の兵士が通っても素知らぬ顔で正月を祝って爆竹に興じる子供たち、そして特に「鑑札を持っておれば日本軍の保護を受けることができる」という「急告」を見て、何千人もの中国人が鑑札を求めて殺到している場面に注目し、もしも南京市内で6週間の間に20万や30万もの中国人を日本軍が虐殺していたら、このような現象は有り得ないという映画評論を載せた[32]。

日本文化チャンネル桜代表取締役社長などを務め映画監督でもある水島総は、広い光景を撮った場面が多い映画であり、撮られて都合の悪いものがあればカメラマンは狭い絵のワンショットにするし、住民の恐怖感を持っていない顔が映像で確認でき、住民が整然と並んでいることも日本軍に対する恐怖がないことを示していると述べている[33]。

南京大虐殺肯定派の評論
歴史学者の笠原十九司は、日本陸軍検閲要領の「映画は本要領に準じ検閲する」を考えれば日本の映画カメラマンが虐殺現場を撮影する可能性はゼロに近く[注釈 9]、この映画は日本軍に不利な場面の撮影は当然避けられているとした。その上で、それでも南京占領直後の南京城内の掠奪・破壊・放火された街の様子や疲弊し無気力な表情の難民など隠しようのない南京事件の舞台跡が撮影されているとし、見る者が見れば南京事件を物語る映像記録のひとつになっていると述べた[35]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC_(%E6%88%A6%E7%B7%9A%E5%BE%8C%E6%96%B9%E8%A8%98%E9%8C%B2%E6%98%A0%E7%94%BB)
2:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:52:14

2021-12-05
日本軍が避難民を動員して撮影させたプロパガンダ写真を見て真実を見つけたと興奮する残念な人達
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/12/05/125845

先日TLに流れてきた、南京大虐殺否定論者によるツイート。


この写真は「南京陥落一週間後」と題して『アサヒグラフ』1938年1月19日号に掲載されたうちの一枚だが、当時この手のプロパガンダ写真や国策ニュース映画がどのようにして撮影されたか、そのトリックを南京安全区国際委員会のジェームズ・マッカラム牧師が次のように書き残している。

(1938年)一月九日

 難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して一〇名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。


また、この手の大人数を必要とするプロパガンダの際には、避難民の組織的な動員が行われた。[1]

おなじ手紙(注:南京安全区国際委員会のジョージ・フィッチ牧師の手紙)の十二月三十日の条によれば、この日、日本大使館では、収容所の幹部その他、約六十人の中国人をあつめて、五色旗と日の丸の旗をそれぞれ千本ずつつくり、元旦には、避難民千人以上の収容所は二十名、比較的少数の収容所は十名の代表を出して、鼓楼に集合することを命じている。当日のプログラムでは、鼓楼に五色旗が掲揚されるとともに、演説と音楽がおこなわれ、またこの旗を振って新体制を歓迎する幸せな人々がニュース映画に撮影される予定になっていたという(前同書、Ⅱ、四二頁)。それでわれわれもそのもっともらしい光景を新聞の写真や映画で見せられたわけであろう。だが、この手紙は、右の事実を述べたあとで、「ところで、市内の焼打ちはつづき、十二歳と十三歳の少女の強姦と誘拐が三件発生したとの報告が入りました。(略)」と書きそえている。

これらのツイートを行った人物は「ワイの一番の目的は画像の拡散」「ワイは議論にも論破にも興味ない」とも言っているが、議論などしたらすぐインチキがバレてしまうので、プロパガンダを鵜呑みにする思考力のないウヨを相手にひたすら拡散に努めているのだろう。

ちなみに、南京陥落から2ヶ月近く経った38年2月はじめになっても人々が日本軍への恐怖におののいていたことは、南京攻略を行った中支那派遣軍司令官松井石根(戦後東京裁判で死刑)本人が次のように日記に書いている。[2]

◇二月六日

 朝八時出発汽車ニテ南京行。

 沿道ノ状況凡テ著ク鎮静二赴キ、各地避難民モ漸次帰来シ、各地自治組織ノ成立シツ丶アルハ可欣モ、未タ一般ノ状勢中々容易ナラス。支那人民ノ我軍二対スル恐怖心去ラス、寒気卜家ナキ為メ帰来ノ遅ルル事固トヨリ其主因ナルモ、我軍二対スル反抗卜云フヨリモ恐怖・不安ノ念ノ去ラサル事其重要ナル原因ナルへシト察セラル。(略)

生き残った南京市民が日本軍を歓迎していたなど、よくまあ恥ずかしげもなくこんな大嘘がつけるものだ。

[1] 洞富雄  『決定版・南京大虐殺』 徳間書店 1982年 P.114
[2] 偕行社編 『南京戦史資料集1』 偕行社 1989年 P.38

https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/12/05/125845
3:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:52:54

2021-12-06
「どうして(虐殺の)写真を撮らなかったのか」→毎日新聞従軍カメラマン「撮っていたら恐らくこっちも殺されていたよ」
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/12/06/074650

従軍カメラマンが撮影した虐殺現場写真は一枚もない

前回記事に書いたように、南京攻略戦に従軍した新聞社などのカメラマンたちはせっせと国策に沿ったプロパガンダ写真を撮っては本社に送っていたわけだが、そんな彼らも、日本軍と行動を共にしている以上、時には理不尽な虐殺現場に遭遇することがあった。

しかし、従軍カメラマンが撮った虐殺現場写真というのは、一枚も残っていない。

検閲があるから紙面に載せられないのは当然ではあるが、残虐行為を目の当たりにしながら撮影さえできなかったのは、そんなことをしたら自分の身も危なかったからだ。

東京日日新聞(現・毎日新聞)従軍カメラマンとして南京攻略戦を取材した佐藤振壽氏が次のように体験を語っている。[1]

八十八営庭の中国兵“処断”

 一夜が明けると十二月十四日の朝だ。筆者が昨夜寝ていた建物は、中山門内の中国軍将校の社交機関・励志社である。一日前は中山陵近くの山上で寒い夜を過ごしたのだが、今日はなぜか、ここにいる。運命というものが、何となく恐ろしく思われたのであった。

(略)

 そんな時、連絡員の一人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせて来た。何事かよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。

 行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、その全景を撮った。

 中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には五メートル平方、深さ三メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。

 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭部に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちていった。

 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。

 たまたま穴の方へ歩かせられていた一人の中国兵が、いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた日本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れていない後方からの射撃だったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。

 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだった。戦場で敵を殺すのは、殺さなければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持たない人間を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せないのだろう。

 後で仲間にこの時のことを話すと、「カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったか」と反問された。「写真を撮っていたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。

世に知られている残虐写真は、日本軍将兵が「記念」に撮ったもの
では、虐殺や強姦の写真として世に知られている多くの写真は、誰が撮ったものなのか。

実はその大半は、日本軍の将兵自身が、自分たちの残虐行為の「記念」として撮ったものだ。

南京戦直前の1937年11月に召集され、中国各地で軍医として勤務した麻生徹男氏が、最初に上陸した上海について次のように書いている。[2]

 私は応召前「アシヤサロン」なる写真作家集団に属していて、この集団は朝日新聞の後援する全関西写真連盟にも関連していたので、昭和十二年十一月上海上陸に際して、このグループの一人であるその地の田中新一氏を訪れることにした。

(略)

 聞けば田中君は千代洋行の暗室作業をしていられるので呉淞ウースン路の同店に行けば分るとのこと。そして行って見ると店の前と後は兵隊の黒山である。カメラ漁あさりの群集の他に、店の裏にある風呂屋に集る内地や北支から転進して来た兵たちで一ぱい。(略)

 この一角のアパートの一階の住宅が、田中君の作業場で、大きな木製の風呂桶が、定着タンクになって沢山のフィルムが処理されていた。田中君は、本来なら陸戦隊本部の前にある完備した暗室にて、自動処理仕上げが出来るのだがと、些いささかぼやいていられ、当時兵隊さんの依頼するDPに、正視に耐えない残酷なものが多くて困るとも、洩らされていた。(注:D=現像(Develop), P=焼付け(Print))

当時上海では日本国内に比べて格安でカメラが買えたので、軍人たちは競ってカメラを購入し、そして中国の戦場でなければ撮影し得ないシーンを撮った。そして彼らはそんなフイルムを、朝鮮人や中国人が経営する街の写真屋にも平気で持ち込んだ。そんな写真が、ひそかに焼き増しされて写真屋から流出したり、あるいは戦死した日本兵の遺体から回収されて、残虐行為の証拠となったわけだ。[3]

 John B.Powell, My Twenty-five Years in China, The Macmillan Company, 1945. には、パウエル氏が、南京のアメリカ人宣教師が送ってきた南京事件の写真を上海で見たとき、同じような日本軍の残虐行為の写真や強姦記念に被害女性を入れて撮った写真などを、上海の朝鮮人経営の写真屋で見たことが書れている。パウエル氏は、それらの残虐写真は日本兵が国内の友人に送ろうしたものだと推定、その写真に写された行為が「近代戦のモラルからも、日常生活のモラルからも逸脱するものであるという意識はないようである」と嘆息している(三〇八頁)。

(略)

 中国戦場に出征していく時、少なからぬ日本兵が「中国に行けば中国人女性を強姦できる」のを楽しみにしていたという元兵士の話を聞いたことがある。パウエル氏が見たのは、日本兵が中国人女性の強姦体験を、戦場でなければできない自慢話の証拠に撮らせていた写真の一つであろう(当時の日本兵の性意識について拙著『南京事件と三光作戦』の「第三章 なぜ日本軍は性犯罪にはしったか――加害者の証言」を参照されたい)。さらに日本軍将校の中には、中国戦場における武勇談の一つとして、中国人捕虜を日本刀で斬首するところを記念撮影させていた者もいた。日本兵が所持していた日本軍撮影の残虐写真が、さまざまな経緯を経て中国側に残され、戦後の中国において各地の革命博物館や抗日烈士記念館に展示されたり、写真集に収録されたものが多く、それらの写真には場所や時期、撮影者を特定できないものが多い。しかしそれらは「ニセ写真」ではない。間違いなく日本軍の残虐を記録した写真なのである。山東省の革命博物館の写真展示にある、中国人を斬首している将校が誰か、部隊関係者が見てすぐ分ったという話を聞いている。

これらの写真は、撮影者も撮影場所や日時も不明なので、それだけでは「南京大虐殺の」あるいは「特定の残虐事件の」証拠とは言えない。しかし、それらが日中戦争における日本軍の残虐行為を記録したものであることに間違いはないのだ。

[1] 佐藤振壽「従軍とは歩くこと」 『南京戦史資料集2』 偕行社 1993年 P.610-611
[2] 麻生徹男『上海より上海へ 兵站病院の産婦人科医』 石風社 1993年 P.73-74
[3] 笠原十九司「南京大虐殺はニセ写真の宝庫ではない」 南京事件調査研究会編『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房 1999年 P.235-237

https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/12/06/074650
4:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:53:37

2019-01-30
「南京戦当時カメラは高価で兵隊が持てるようなものではなかったから虐殺写真は嘘」という嘘
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/01/30/204222

当時カメラはそんなに高価だったのか?

歴史修正主義者たちは、遠い過去となった当時の生活事情を記憶している人がいなくなっていくのをいいことに、様々な屁理屈をこねて虐殺の事実を否定しようとする。

この話もその一つで、1984年に宮崎県で発見され、朝日新聞で記事となった虐殺体験者の陣中日記を偽物と決めつけるために持ち出されたものだ。小林よしのり『戦争論』のネタ本の一つである『仕組まれた“南京大虐殺”』に出てくる。[1]

 聯隊会の人々は、誰しもがこう思っていた。

 一、虐殺など、聯隊の誰もが見たこともないし、聞いたこともない。したがって、そんな日記などあるわけがない。あるとすれば、後になって誰かが意図的に書いたに違いない。

(略)

 三、それに鉛筆ならいざ知らず、インク書きとは不可解である。当時の万年筆は、インク瓶びんからスポイトでインクを入れるものしかなかったのだが、戦場にそうした道具を持ち歩くことなど考えられない。
 四、ましてカメラなど、戦場に持ち歩くことなどありえない。将校でも、カメラを持っていた者は、聯隊の中に一人もいなかった。この辺のところは、当時の大隊長坂元昵ちかし氏や、中隊長吉川きっかわ正司氏らが確認している。

 今日では、カメラなどはごくありふれた日用品だが、戦前はたいそうな高級品であった。また万年筆とて、高価なものであったが、それを山間の僻地出身の、しかも貧しい青年が持っていたということ自体が、きわめて不自然なのである。

南京戦当時、カメラはそんなに高価なものだったのか?

確かに、戦前には今では考えられないほど高価なカメラも存在した。ドイツ製の最高級機、たとえばエルンスト・ライツ社のライカは1台で家が一軒建つと言われていたし、歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎が購入して周囲に自慢していたというエピソードのあるツァイス・イコン社のコンタフレックス(↓)など、さらにその倍以上の価格だったという。

画像出典:「耳(ミミ)とチャッピの布団」さん

とはいえ、一方ではそれなりの値段で買える普及品もあった。

南京大虐殺紀念館にも展示されている揚子江岸の虐殺死体写真で有名な村瀬守保氏は、自著のあとがきで次のように書いている。[2]

 私は十三人兄弟の六男として、一九〇九年(明治42)十二月に生まれました。(略)

 一九三七年(昭和12)七月に召集されたとき、できるだけ、かさばらないカメラをと、<ベビーパール ヘキサー4.5>を買って、胸のポケットに入れて、出征しました。

 いつでも、どこでも、五秒もあればシャッターを押せるのです。

 上海に転戦したとき、外人租界は無傷で、カメラショップもありましたから二眼レフ一台と、現像、焼き付け用品一式を買い入れました。

 私はそれまでの行軍の間に、中隊長をはじめ、中隊じゅうの兵隊の写真をとって、軍務の合い間をみては、焼き付けをして、内地のご家族の方に送って頂きました。

 そのため、私が写真を写すことは、軍務に支障のないかぎり、半ば公認となっていたのです。二年半の従軍期間中に、約三千枚も写したでしょうか。現在でも破棄しなかったネガを七百枚ほど手もとに、保有してあります。

陣中で写真の仕上げ作業をする村瀬氏:[3]

村瀬氏が中国戦線に持参した「ベビーパール」は、六櫻社(現在のコニカミノルタ)製の国産カメラで、価格は当時の普通のサラリーマンの月給の半分程度だったという。これなら、高価ではあっても手の届かない値段ではない。今なら、カメラ好きが奮発して高級デジタル一眼レフを買うような感じだろう。[4]

 今回ご紹介する資料は、今から数十年前、フィルムカメラが一般に普及しはじめた頃の国産カメラです。その名前は「ベビーパール」。六櫻社(小西六本店、後のコニカ)が昭和9(1934)年から第二次世界大戦後の昭和25(1950)年頃まで製造した小型カメラで、ドイツのツァイス・イコン社が昭和7(1932)年に発売開始した「ベビーイコンタ」をモデルに作られたとされています。

 このカメラは、スプリングカメラと呼ばれる折りたたみ式カメラで、本体側面のボタンを押すと、内蔵されたスプリングの力によって前蓋が開き、蛇腹で本体と連結されたレンズボードが撮影位置に自動的にセットされます。レンズは六櫻社自社製のヘキサー(Hexar Ser.)Ⅰ50㎜/F4.5が装着されています。(略)シャッタースピードはB、1/25、1/50、1/100の4段階で、シャッターボタンは無く、レンズ横のレリーズレバーを動かせば何度でもシャッターが切れて露光が可能な機構となっています。ファインダーは本体側面にある折り畳み式の簡素なもので、写る範囲をおおよそ知ることができる程度です。

 使用するフィルムは、120ロールフィルム(ブローニ判)より幅が狭い127ロールフィルム(ベストフィルム)です。このフィルムは、4cm×6.5cm判(ベスト判)で8枚撮りが標準ですが、このカメラではその半分の4cm×3cm判(ベスト半裁判)の画面サイズで16枚撮りとなります。フィルムの巻き上げは、本体側面の薄い円形のノブを手回しするもので、背面の赤い小窓にフィルムの裏紙に書かれた番号が出る仕組みとなっています。(略)

 ピントは目測で調整し、露出計・シャッターボタンもない簡素な構造であるため、撮影は撮影者自身の経験に大きく左右されたようです。しかし、折りたためば10㎝×7.5㎝、厚さ3.4㎝と極めてコンパクトなサイズになり、ポケットにすっと入れて軽快に持ち運びができます。当時の販売価格はよくわかりませんが、25円以上との調査結果もあり、普通のサラリーマンの月給が50円から60円の時代にあっては高級品のひとつであったと思われます。

当時の中国では格安でカメラが買えた
さらに、実はこの頃の中国では、国内と比べ格安でカメラが買えるという特殊事情があった。南京戦直前の1937年11月に召集され、中国各地で軍医として勤務した麻生徹男氏が、最初に上陸した上海について次のように書いている。[5]

 街に出て買物すると、何でも無闇むやみに高い。唯ただ、安いのはカメラだけ。然しかし、それも昔程ではなく、高値と成りつつありと。三日続けてカメラ屋に行ったが、人だかりでとても寄りつけない。軍人がひしめき合って買っている。ここに居ると、戦争がどうなっているのか、分らないような商売繁盛である。

上海では、むしろ軍人が争ってカメラを買っていたわけで、「たいそうな高級品」「将校でも、カメラを持っていた者は、聯隊の中に一人もいなかった」などというのは明らかに嘘だと分かる。

なぜ当時の中国ではカメラが安く買えたのか。その理由も麻生氏が書いている。[5]

千代洋行

 昭和十二年の暮、南京は既に陥落し、当時上海に在あった私達は、これで戦争も終った、もうすぐ内地帰還と、凱旋気分に浮々していた。そして何が土産物に相応ふさわしいかと血眼であった。そのためには何と云ってもカメラが第一であり、陸軍武官府経理部に行って、一枚のガリ版刷りの免税用紙を手にすれば、高級カメラが日本内地の三分の一ぐらいの値段で、容易に買い取れた。

 従って在上海の部隊長達も、若い連中が金を使って悪い遊びをするより、この方が余程よいと云ってカメラ購入を奨励されていた。然しかしこのカメラ熱も、後程、上海地区警備担当の、東京百一師団が、九州師団と交代した頃で終り、以後はカメラの機種に、身分相応の但書きがつき、私達見習士官では新鋭高級機は及びもつかなくなり、又、免税証の入手も困難に成ってしまった。

 さて上海のカメラ店と言えば、先ず第一に千代洋行で、本店は蘇州河の彼方(川向い)の南京路にあって、日本軍の占領地域外の為、日本軍人は到底行ける所ではなかった。然し私はその年の大晦日、正月に備えて必要な閃光撮影の道具類の購入を命ぜられ、又、部隊副官分部大尉殿の愛用機、私のスーパーイコンタと同一機種に故障が生じたので、どうしても南京路に出かけねばならなかった。

村瀬氏が、日本から持参したベビーパールに加えて上海で二眼レフを買えたのも、この免税特権のおかげだろう。また、一兵卒だった村瀬氏には無理でも、麻生氏のような軍医や大尉クラスであればスーパーイコンタのような高級機でも持てたことが分かる。

中国に残る残虐写真の多くは日本軍将兵が撮影したもの
競ってカメラを買った日本の軍人たちは何を撮影したのか。もちろん普通の記念写真や風景写真、戦友や街角のスナップなども撮っただろうが、中国の戦場でなければ撮影し得ないシーンが格好の撮影対象となっただろうことは容易に想像できる。そして彼らは、そうした場面を撮影したフイルムを、平気で街の写真屋に持ち込んだ。

再び上海での麻生氏の経験談。[6]

 私は応召前「アシヤサロン」なる写真作家集団に属していて、この集団は朝日新聞の後援する全関西写真連盟にも関連していたので、昭和十二年十一月上海上陸に際して、このグループの一人であるその地の田中新一氏を訪れることにした。

(略)

 聞けば田中君は千代洋行の暗室作業をしていられるので呉淞ウースン路の同店に行けば分るとのこと。そして行って見ると店の前と後は兵隊の黒山である。カメラ漁あさりの群集の他に、店の裏にある風呂屋に集る内地や北支から転進して来た兵たちで一ぱい。(略)

 この一角のアパートの一階の住宅が、田中君の作業場で、大きな木製の風呂桶が、定着タンクになって沢山のフィルムが処理されていた。田中君は、本来なら陸戦隊本部の前にある完備した暗室にて、自動処理仕上げが出来るのだがと、些いささかぼやいていられ、当時兵隊さんの依頼するDP※に、正視に耐えない残酷なものが多くて困るとも、洩らされていた。

※ D:現像(Develop)、P:焼付け(Print)

そして中国の写真屋で処理された写真が焼き増しされて流出し、残虐行為の証拠となった。[7]

 John B.Powell, My Twenty-five Years in China, The Macmillan Company, 1945. には、パウエル氏が、南京のアメリカ人宣教師が送ってきた南京事件の写真を上海で見たとき、同じような日本軍の残虐行為の写真や強姦記念に被害女性を入れて撮った写真などを、上海の朝鮮人経営の写真屋で見たことが書れている。パウエル氏は、それらの残虐写真は日本兵が国内の友人に送ろうしたものだと推定、その写真に写された行為が「近代戦のモラルからも、日常生活のモラルからも逸脱するものであるという意識はないようである」と嘆息している(三〇八頁)。

(略)

 中国戦場に出征していく時、少なからぬ日本兵が「中国に行けば中国人女性を強姦できる」のを楽しみにしていたという元兵士の話を聞いたことがある。パウエル氏が見たのは、日本兵が中国人女性の強姦体験を、戦場でなければできない自慢話の証拠に撮らせていた写真の一つであろう(当時の日本兵の性意識について拙著『南京事件と三光作戦』の「第三章 なぜ日本軍は性犯罪にはしったか――加害者の証言」を参照されたい)。さらに日本軍将校の中には、中国戦場における武勇談の一つとして、中国人捕虜を日本刀で斬首するところを記念撮影させていた者もいた。日本兵が所持していた日本軍撮影の残虐写真が、さまざまな経緯を経て中国側に残され、戦後の中国において各地の革命博物館や抗日烈士記念館に展示されたり、写真集に収録されたものが多く、それらの写真には場所や時期、撮影者を特定できないものが多い。しかしそれらは「ニセ写真」ではない。間違いなく日本軍の残虐を記録した写真なのである。山東省の革命博物館の写真展示にある、中国人を斬首している将校が誰か、部隊関係者が見てすぐ分ったという話を聞いている。

中国の写真屋から流出したり、戦死した日本兵の遺体から回収された写真は、撮影者も撮影場所も日時も不明であり、それだけでは「南京大虐殺の」あるいは「特定の残虐事件の」証拠とはならない。しかし、それらが日中戦争における日本軍の残虐行為を記録したものであることに間違いはないのだ。

[1] 大井満 『仕組まれた“南京大虐殺” 攻略作戦の全貌とマスコミ報道の怖さ』 展転社 1995年 P.13-14
[2] 村瀬守保 『私の従軍中国戦線』 日本機関紙出版センター 1987年 P.148
[3] 同 P.7
[4] 三重県総合博物館 『ベスト半裁判フィルムカメラ「ベビーパール」』
[5] 麻生徹男 『上海より上海へ 兵站病院の産婦人科医』 石風社 1993年 P.72
[6] 同 P.73
[7] 笠原十九司 「南京大虐殺はニセ写真の宝庫ではない」 南京事件調査研究会編 『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房 1999年 P.235-237

https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/01/30/204222
5:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:54:22

2017-10-08
NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」に難癖をつけた産経の「歴史敗戦」と問題の写真の件
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/10/08/130543

番組内容を否定する根拠を何も示せない産経

前回記事でも書いたとおり、大虐殺否定派にとっては痛撃となったNNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」に何とかしてケチをつけようと、産経がこれを「歴史戦」で取り上げている。

しかし、当然ながら番組の本筋である従軍日記の内容や現場にいた元兵士の証言を否定する根拠は示せないので、番組で紹介された写真に疑問を呈してみたり、とっくに破綻済みの「自衛発砲説」を持ち出すくらいしかできなかった。

【歴史戦】「虐殺」写真に裏付けなし 同士討ちの可能性は触れず 日テレ系番組「南京事件」検証

 昨年10月、日本テレビ系で放送された「南京事件 兵士たちの遺言」。元日本軍兵士の証言や当時の日記など「一次資料」を読み解きながら「南京事件」に迫った番組だ。そこで取り上げられた「写真」は真実を伝えているのだろうか-。 (原川貴郎)



 「一枚の写真があります。防寒着姿で倒れている多くの人々。これは南京陥落後の中国で、日本人が入手した写真といわれています。果たして南京で撮られたものなのでしょうか」

 女性ナレーターの説明とともに、川岸に横たわる人々の写真が画面いっぱいに映し出される。昨年10月、日本テレビ系で放送された「NNNドキュメント’15 シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言」の冒頭の一コマだ。番組は昭和12年12月の南京攻略戦に参加した歩兵第103旅団に属した元兵士らが書き残した日記に焦点を当てながら進行した。

(略)

 番組は最後に実際の南京の揚子江岸から見える山並みと写真の背景の山の形状が似ていることを示した。南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を“虐殺”。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている-そんな印象を与えて終わった。

 番組は今年6月、優秀な番組を顕彰するギャラクシー賞(特定非営利活動法人「放送批評懇談会」主催)の2015年度優秀賞(テレビ部門)を受賞した。だが、果たしてこれが南京陥落後の実相なのだろうか。

◆毎日新聞では「読者提供写真」

(略)

 番組を手がけた日本テレビ記者の清水潔は、8月に出版した『「南京事件」を調査せよ』(文芸春秋)で、写真は「戦時中にある日本人が中国で入手したというものだ」と説明した。

 だが、この写真は昭和63年12月12日、毎日新聞(夕刊、大阪版)がすでに掲載していた。読者の提供写真だったという。

 記事は「南京大虐殺、証拠の写真」との見出しで南京留学中の日本人学生が写真の背景と同じ山並みを現地で確認したとした。

 ただ、記事は被写体が中国側の記録に残されているような同士打ちや溺死、戦死した中国兵である可能性には一切触れず、「大虐殺」の写真と報道した。NNNの番組も中国側の記録に触れていない。

(略)

◆暴れる捕虜にやむなく発砲

 番組は昭和12年12月16、17日に南京城外の揚子江岸で、大量の捕虜が旧日本軍によって殺害されたと伝えた。この捕虜は南京郊外の幕府山を占領した歩兵第103旅団の下に同年12月14日に投降してきた大量の中国兵を指す。東中野は前掲の著書で、おおよそ当時の状況を次のように再現した。

 16日の揚子江岸での処刑対象は宿舎への計画的な放火に関与した捕虜だった。17日は第65連隊長、両角業作(もろずみ・ぎょうさく)の指示で、揚子江南岸から対岸に舟で渡して解放しようとしたところ、北岸の中国兵が発砲。これを日本軍が自分たちを殺害するための銃声だと勘違いして混乱した約2千人の捕虜が暴れ始めたため日本側もやむなく銃を用いた。

 17日には日本軍側にも犠牲者が出た。このことは捕虜殺害が計画的でなかったことを物語るが、番組はこうした具体的状況やその下での国際法の解釈には踏み込まなかった。

日本テレビからは即座に反論されてしまい、ぐうの音も出ない状態だ。

産経新聞 2016年10月16日付掲載
〈「虐殺」写真に裏付けなし〉記事について

(略)

 まず<「虐殺」写真に裏付けなし>という大見出しは事実ではありません。

(略)番組は写真について「防寒着姿で倒れている多くの人々」と説明したうえで、「実際の南京の揚子江岸から見える山並みと写真の背景の山の形状が似ていることを示した」と報じたものであり、虐殺写真と断定して放送はしておりません。にもかかわらず産経新聞の記事は「写真がそれを裏付けている-そんな印象を与えて終わった」と結論づけ、写真が虐殺を裏付けているという産経新聞・原川貴郎記者の「印象」から「虐殺写真」という言葉を独自に導き、大見出しに掲げました。55分の番組の終盤の一場面を抽出して無関係な他社報道を引用し、「印象」をもとに大見出しで批判し、いかにも放送全体に問題があるかのように書かれた記事は、不適切と言わざるをえません。

 そもそも、番組の主たる構成は、南京戦に参戦した兵士たち31人の日記など、戦時中の「一次史料」に記載された「捕虜の銃殺」について、裏付け取材をした上で制作したものです。

 これに対し、産経新聞の記事に一次史料は一切登場せず、事件から50年以上経過して出版された記録の引用や、70年後に出版された著作物の引用に基づいています。産経新聞の記事は揚子江岸での射殺場面について「暴れる捕虜にやむなく発砲」と見出しを付けて断定しました。内容はいわゆる「自衛発砲説」というもので「捕虜を解放しようとしたところ抵抗されたので射殺した」という証言です。これは1961年になって旧日本軍の責任者が語ったものであり、産経新聞の記事は2007年出版の「再現 南京戦」という著作物から引用しています。番組でも同じ証言の存在を具体的に紹介した上で、1937年当時の一次史料にはそのような記載がないことを伝えています。しかし産経新聞の記事はその放送事実に一言も触れておりません。

これに限らず、産経の「歴史戦」なるものは、とっくに敗北が確定している戦闘を勝った勝ったと仲間内向けに大本営発表しているだけの代物に過ぎない。

問題の写真の撮影場所は既に特定されていた
ところで、番組の終盤で撮影場所の特定が試みられている「防寒着姿で倒れている多くの人々」の写真は、産経も言及していたとおり1988年時点で既に撮影地点が確認されており、毎日グラフがその経緯を詳しく報じている[1]。もともとは、大阪市内に住む男性(報道当時91歳)が、日本軍による南京占領の翌年にあたる1938年4月に中国東北地方の新京(現・長春市)を訪れた際、街頭で中国人から入手した中の一枚だという。

 何人かの専門家に相談したところ、小山仁示・関西大教授(日本近代史専攻)から「愛知大学の江口圭一教授(日本近・現代史専攻)に相談してみたら」とアドバイスされた。連絡を取り、アルバムを送った。

 江口教授から「写真の鑑定は極めて困難」としながらも「ちょっと気になるのが一枚ある。拡大複写して何枚か送ってもらえれば、知人の中国人研究者などに問い合わせてみる」とのこと。さっそく送ったところ江口教授は、中国側の高興祖・南京大副教授▽楊正元・南京大虐殺記念館館長▽上海の復旦大学と南京の南京大学に留学中の日本人学生▽日本側の南京大虐殺研究家の藤原彰・元一橋大教授(日本近・現代政治史専攻)▽洞富雄・元早大教授(日本近・現代史専攻) らに手配して下さった。

 高副教授からすぐに「川は揚子江で、対岸の山並みは十里長山、写真左上部に写っている構造物は浦口のフェリーの桟橋。従って場所は明らかに南京だ」と回答があった。さらに、南京大に留学中の日本人学生(29)が、休日を利用して同じ日本人留学生と二人で南京市内を自転車で走り回って調べた。中国では軍事上の理由で写真撮影には神経質だが、コンパクトカメラで、揚子江のあちこちを撮っているうち、同市下関地区の「南京長江大橋」(全長6,772㍍)東詰め南側のコンクリート堤防上から対岸を見て「びっくりした」という。「山並みがピタリ一致するんです。この場所に自分がいることになんともいえない感動を覚えた」と留学生。

 藤原彰・元一橋大教授は「南京大虐殺に関する様々な写真をこれまでにも見てきたが、この写真は初めてだ。日本と中国の研究者が協力して撮影ポイントまで断定したことに感心するばかりだ。研究者にとってたいそう貴重な写真」と話している。

 写真は来春、小学館(本社・東京)から発行される「大系日本の歴史第十四巻 二つの大戦 ― デモクラシーとファシズム」に収録されるが、江口教授は「南京大虐殺の写真といわれるものは多いが、場所が南京と特定できるのは意外と少ない。当時の惨状をほうふつとさせる一級の写真で、後世に残したいと思って収録することにした」と語っている。

毎日グラフ掲載の写真は大判だがトーンが飛んでおり山並みの形が見えにくいので、江口氏の「二つの大戦」に掲載された写真[2]を見てみる。こちらを見ると、背景の山並みが一致していることがよく分かる。

このとき撮影場所とされたのは南京長江大橋の東詰め南側で、番組で特定された位置とぴったり一致している。中国の発展に伴いビルが増えて遠くが見通しにくくなってはいるが、奇しくも二十数年の時を経て再び撮影場所が確認されたことになる。

産経が言うような、中国軍の同士討ちその他の結果とする説には根拠らしい根拠がなく、横たわる遺体の数から見て、恐らく揚子江岸で何度となく繰り返された比較的小規模な虐殺の一つの跡だったのだろう。

[1] 中島章雄 「これぞ南京大虐殺!証拠の写真」 毎日グラフ 1989年1月1日号 P.30
[2] 江口圭一 「大系日本の歴史(14) 二つの大戦」 小学館 1993年 P.308

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/10/08/130543
6:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:55:09

南京事件 兵士たちの遺言 - 動画 Dailymotion動画
https://www.dailymotion.com/video/x38lb8r



2017-10-04
NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」を検証すると称するウヨブログのレベルが低すぎる件
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/10/04/202507

否定し難い虐殺の事実を突きつけたNNNドキュメント

「字体」で番組内容の否定を試みるウヨブログ
調べればすぐ見つかる反証
否定し難い虐殺の事実を突きつけたNNNドキュメント
2015年10月4日に放送されたNNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」。小野賢二氏が長年収集してきた従軍兵士たちの陣中日記や現場に居合わせた元兵士たちの証言、さらには各種の公的記録を突き合わせ、南京を占領した日本軍が揚子江岸で行った大量虐殺の事実を否定し難い形で立証した、優れたドキュメンタリーだ。放送批評懇談会のギャラクシー賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞など、数々の賞を受賞している。

早稲田ジャーナリズム大賞受賞時の日テレ報道局清水潔氏のコメントがとても良い。

公共奉仕部門 大賞

受賞者名

  日本テレビ報道局取材班 代表 清水 潔(日本テレビ 報道局 特別報道班)

受賞作品名

  NNNドキュメント’15「南京事件 兵士たちの遺言」

(略)

受賞者コメント

 何も足さない。何も引かない。ただ事実と信ずるものだけを淡々と伝える。そんな気持ちで制作しました。77年前の事件を直接見聞することは不可能。だからこそ「一次史料」と現場にいた人の「証言」にこだわりました。事実を伝え、残すこと。それこそがジャーナリズムの根幹と信じて。ご評価御礼申し上げます。




南京事件 兵士たちの遺言 投稿者 tvpickup

「ウインザー通信」さんによる文字起こし:(その1)(その2)

「字体」で番組内容の否定を試みるウヨブログ
当然右派にとってこの番組は痛撃だったわけで、産経をはじめ、なんとか否定しようと無い知恵を絞っている。

そんな中、この番組内容を「検証」すると称して否定を試みているウヨブログがあったのだが、昔から虐殺否定論者たちが繰り返している使い古されたネタに加えて、一つ面白い観点を提示していたので取り上げてみる。

NNNドキュメント 「南京大虐殺 兵士たちの記録 陣中日記」を検証してみた。(南京事件 兵士たちの遺言)時々更新します:

重要な事なので、ここに緊急に追記します。

実は調べると上の動画の中で表紙に「支那事変日記帳」と書かれていますがこれがおかしいのです。

当時使われている漢字では「支那事變日記帳」と書かれないとおかしいのです。

使われている漢字が 「変」は新字体で旧字体なら「變」が正解です。

そこで日記に使われている漢字を色々と調べると新字体や旧字体がまざっています。

捕虜の「虜」の字も旧字体なら「虜」で男の部分の田の部分が毌でなければなりません。

当時の日本の漢字と今の日本の漢字では当然旧字体の方が正しい漢字なので今とは使い方が違います。

(略)

漢字は今まで何度も変更されています。

そこで当時「支那事変」で使われていた漢字を調べると「支那事變」の漢字が使われています。

「支那事変」画像検索結果

https://www.google.co.jp/search?q=%E6%94%AF%E9%82%A3%E4%BA%8B%E5%A4%89&lr=lang_ja&hl=ja&biw=1253&bih=678&tbs=lr:lang_1ja&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjbv5aFrtTPAhXGKpQKHVG2DbMQ_AUIBygC



読み方が右から左で今と逆ですがやはり「支那事變」の漢字が使われています。

当時の新聞でも「支那事變」と書かれています。

他にも使い方がおかしな漢字がないか現在検証中です。

調べればすぐ見つかる反証
番組に出てきた従軍日記に「支那事変」と新字体で書いてあるのはおかしい、これが当時書かれた本物なら「支那事變」と書くはずだ!と言いたいようだが、果たしてそうだろうか。

はい、反証。↓



これは南京攻略戦当時のグラフ雑誌の表紙だが、堂々と「支那事変」と書かれている。当時は「變」も「変」も、両方普通に使われていたのである。実際、戦時中の1942年に国語審議会が定めた「標準漢字表」でも、「変」は「一般に使用せらるべき」簡易字体として明示されている。





上記のブログ記事の続編では、さらに従軍日記に出てくる他の多くの字についても「追求」し、

特に「来・発・残・剣・変」はどう調べても当時にはまだ無い漢字だと思われますが絶対では有りません。

現在調べている最中です。

(略)

「略字表」で検索して当時使われていた略字を見ると確かに「発・残・変」等は当時から使われています。

ただ「剣」は???の状態です。

他の文字も検索して後で更新します。

などと書いているが、「剣」だって江戸時代から使われている。

どうもこの人、「旧字体」「新字体」という言葉の印象から、今使われている字体は敗戦前にはほとんど使われていなかったはず、的な思い込みがあるようだが、そんなことはない。当時学校で教えられていた煩雑で書きにくい字の代わりによく使われていて馴染みがあったからこそ、戦後の当用漢字に採用されたのである。まして、戦闘や行軍の合間に書かれる従軍日記に略字が多用されるのは当たり前のことだ。

それにしても、番組名で検索するとこんなウヨブログがトップに出てきてしまう困った現状を何とかして欲しいものだ。>Google先生

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/10/04/202507
7:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:55:39

2017-04-19
南京大虐殺紀念館に行ってきたよ
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/04/19/221550
念願だった紀念館をようやく訪問

被害者たちの彫像
館内展示
本多勝一氏のカメラと取材関係資料
江東門万人坑
「30万人」は象徴的数字
和平(平和)


念願だった紀念館をようやく訪問

3月19日、前から行きたいと思いつつなかなか機会のなかった南京大虐殺紀念館(侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆)を、ようやく訪れることができた。南京大学を卒業し、今は上海で働いている友人が南京の街を案内してくれて、その一環で行くことができたのだ。

南京大虐殺紀念館は、南京市街中心部から西に数キロ離れた、地下鉄云锦路駅近くにある。

南京大虐殺

南京大虐殺

被害者たちの彫像
駅からすぐのところに入口があり、入場は無料。展示館までの道で最初に来館者を迎えるのは、様々な被害者たちの姿を表現した彫像群だ。

南京大虐殺

死んだ子を手に嘆く母の像。

南京大虐殺

南京大虐殺

レイプされ、銃剣で刺された妻を抱えて逃げようとする夫の像。

南京大虐殺

死んだ母の胸にとりすがり乳房を吸う赤子の像。

南京大虐殺

殺された孫を抱えて、なすすべを知らず彷徨う老人の像。

南京大虐殺

怯えと怒り。今まさに銃殺されようとする人々の像。

南京大虐殺

館内展示
残念ながら館内は撮影禁止なのだが、館内展示では主に写真パネルを使い、上海戦、南京渡洋爆撃から首都防衛戦、大虐殺、そして戦後の南京軍事裁判に至る全過程を丁寧に説明している。パネルのほか、各種の戦争遺物(斬首に使われた日本刀など)の展示や、蛮行の行われた室内の状況を再現した展示などもあった。また、南京安全区国際委員会の人々をはじめ、危険を承知で大虐殺下の南京にとどまり、少しでも多くの人々を助けようと努力した外国人たちの活動についても詳細に解説されている。なお、展示の解説文はすべて中国語、英語、日本語の三ヶ国語併記となっている。

虐殺関連写真のうち、最も大きなサイズで展示されていたものがこちら。これは輜重兵として南京戦線に従軍した村瀬守保氏が揚子江岸で撮影したものであり、ニセ写真だの何だのとケチのつけられないものである。後ろ手に縛られている死体が複数確認でき、戦死した中国兵の死体などではないこともわかる[1]。(下はパネルを写したものではなく、村瀬氏の写真集から[2]。)

南京大虐殺

揚子江岸には、おびただしい死体が埋められていました。虐殺した後、河岸へ運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから虐殺したのでしょうか。

本多勝一氏のカメラと取材関係資料
館内は撮影禁止とはいえ、まわりの中国人たちを見ると、みんなスマホで盛んに写真を撮っている。そこで私も後半少しだけ撮らせてもらった。

こちらは1972年に本多勝一氏が『中国の旅』の取材を行った際に使ったカメラとペン。取材ノートやネガなどとともに2006年に本多氏から寄贈されたもの。

南京大虐殺

江東門万人坑
大虐殺は、市内の至るところにその爪痕を残している。そして、この紀念館の敷地内にもそれはある。

まず1984年、館の建設中に多数の遺骨が発見された。このとき収集された遺骨が、展示館内の「犠牲者同胞遺骨陳列室」に展示されている。さらに、1998年から1999年にかけて再び敷地内から遺骨が出土し、発掘調査の結果、何層にも重なり合った200体以上の遺骨が見つかった。こちらの遺骨は、発掘現場をそのまま保存した「万人坑遺跡保存館」として公開されている。この紀念館自体、江東門付近に放置されていた一万体余りの遺体を集めて埋葬した「江東門万人坑」の上に建っているのだ。[3]

南京大虐殺

「30万人」は象徴的数字
この紀念館でなければ見られない展示の一つが、虐殺の犠牲者一人ひとりの名前を刻んだ壁だ。(この他、館内には各犠牲者の名前、遺体の発見場所や死因等を記録した犠牲者名簿を並べた巨大な棚もある。)

南京大虐殺

とはいえ、ここに刻まれている名前は現在でもわずか一万程度で、被害者全体から見ればほんの一部でしかない。現実問題として、自宅で死体が見つかったようなケースを除けば、遺体の身元を確定するのは困難だったろう。集団で虐殺され万人坑に埋められた遺体の身元など、どうにも確認しようがないはずだし、揚子江に流されてしまったケースなどはなおさらだ。

ところで、この紀念館では、あちこちに犠牲者数を示す30万という数字が刻まれている。これに対して日本の右派は、この数字は過大だ、中国は被害を水増しして世界の同情を買っていると、盛んに非難を浴びせてきた。



否定派の言う1万だの4万だのという数字は論外としても、日本の歴史学者の研究によれば、被虐殺者の総数は軍民合わせて15万から20万人程度と推定されており[4]、30万は確かに多すぎるようにも見える。

南京大虐殺

しかし、だからといって、右派の言うような非難は正当とは言えない。それは次の例と比べてみれば明らかだろう。

広島原爆の犠牲者数は、以前は約20万人とされており[5]、私も学校でそう習った記憶がある。だが、いま広島市のサイトを見に行くと、犠牲者数は約14万人と、ずいぶん目減りしている。では、以前の数字は水増しした過大な数字だったのか?



また、Wikipedia英語版によると、広島での死者数は9万人から14万6千人で、これは軍人2万人を含むとされている。投降した捕虜の処刑すら合法だと強弁する右派の論理に従うなら、軍人が爆撃で死ぬのは単なる戦死に過ぎず、犠牲者とは言えないだろう。すると広島原爆による殺戮の犠牲者は7万人程度だったかも知れないことになるわけだが、この数字を盾に、日本は犠牲者数を水増しして被害者面しているとアメリカ側が非難するのは正当だろうか?

もちろんそんな非難は正当なものではない。そもそも、南京にせよ広島長崎にせよ、人道に反する大殺戮を行った加害者側が、被害者側の人数の数え方にケチをつけること自体がどうかしている。犠牲者数の議論をするのなら、まずは加害責任をきっちりと認めて謝罪するのが先だろう。

和平(平和)
南京大虐殺紀念館の見学コースの最後は和平公園区という広場になっており、そこには「平和の像」が立っている。これは、戦争とは必然的に残虐行為を生み出す大災厄であり、戦争を遠ざけるためには歴史の教訓を忘れてはならないという、この紀念館の基本理念を具象化したものだ。

もし南京を訪れる機会があれば、この紀念館には必ず行ってみることをお勧めする。

南京大虐殺

南京大虐殺

[1] タラリ 『南京事件の真実 写真判定の杜撰-村瀬守保撮影写真編』 2004.1.14
[2] 村瀬守保 『私の従軍中国戦線』 日本機関紙出版センター 1987年 P.48
[3] 青木茂・舟橋精一 『万人坑を知る旅2017 南京江東門万人坑』
[4] 笠原十九司 『南京事件』 岩波新書 1997年 P.228
[5] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.441

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/04/19/221550
8:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:56:07

2016-12-19
補給無視が略奪を生み、略奪が強姦・虐殺を生んだ
https://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/19/203639
前回記事でも書いたように、旧日本軍は大戦末期どころか日中戦争初期の段階でもまともな補給を行わず、飢えた兵たちが住民の食糧を盗んで腹を満たすしかない状態を放置していた。三好氏の部隊は10月中旬には予備隊となって後方に下げられたので厳しい飢えはおよそ一ヵ月半程度で終わったが、前線部隊では上海戦に続く南京攻略戦の過程でも大差のない状態が続いていただろう。

補給がなければ食糧は「徴発」と称する略奪に頼るしかない。そして兵たちが略奪に慣れ、それが当たり前の日常になれば、奪った者勝ちで必要以上に奪いつくすようになっていく。中国で日本軍は「蝗軍」とも呼ばれた。何年かに一度大発生して作物を食い尽くす蝗いなごの大群のように、日本軍の通った後には何も残らなかったからである。以下、南京攻略戦に従軍した兵士たちの陣中日記から、「徴発」関連部分を紹介する[1]。(注:日記の執筆者名はすべて仮名。カタカナ書きは平仮名に直した。)
 
近藤栄四郎(伍長)日記:

[11月16日] 途中敗残兵の屍体等参[散]見する、(略)支那民を使って荷物を負はせ服従しなければ直ちに射殺であるから仕方なくついて来る、でも処々に屍体あり、また行軍中も射殺実況を見た事も数度、戦敗国の惨。

 団子等して食ふ、途中食物や砂糖等徴発しての行軍等今日も八里位か。(P.320)

[11月21日] 今日も行軍、でも割合に昨日より道がよくてよかった、顧山鎮を通過して先きの部落へ宿営する、途中の町々の徴発には実際目を覆はしむるものあり、各部落の火災も其通り、人を殺傷するも其通り、敗残兵及其他の死体も相当見ゆ、精米所の建物の中へ宿り米には不自由なし、餅米もある粳うるち米もある。(P.321)

[11月22日] 今日は一日滞在である。午前中徴発の為町へ各分隊より出て行く、塩、醤油、甘藷等町の一軒へ徴発品を集積する。

 午后洗濯したり休養する、徴発品の分配もする。

 久しぶりに風呂入る、徴発のシャツで寒さも苦にならずよかった、(略)(P.322)

黒須忠信(上等兵)日記:

[11月22日](略)陳家鎮に午后五時到着、米味噌醤油等の取集めで多忙な位である、或は濡もち米を徴発或る者は小豆をもって来て戦地にてぼた餅を作っておいしく食べる事が出来た、味は此の上もなし、後に入浴をする事が出来て漸ようやく我にかへる、戦争も今日の様では実に面白いものである、(略)

[11月23日](略)午后四時南国に着す時に雪は少し降って来た、始めての雪である、暴飯[飲?]から腹をこわしたらしい、今后充分体の保養に務[努]めなければならない。

[11月25日](略)午后四時祝塘郷に着して宿営す、(略)我等五分隊二十四名は宿舎に着く毎ごと大きな豚二頭位宛あて殺して食って居る、実に戦争なんて面白い、酒の好きなもの思ふ存分濁酒も呑む事が出来る、漸く秋の天候も此の頃は恵まれて一天の雲もなく晴れ渡り我等の心持も明朗となった。(P.346)

[11月28日] 支那の学生軍らしきもの五名我が宿舎の前にて突殺す、自分も此の際と思ひ二回ばかり銃剣にて突き刺す、三十〆[貫]もある豚二匹並に雞にわとり三拾以上を我が×隊にて徴発おかずにして御馳走此の上もなし。(P.347)

宮本省吾(少尉)日記:

[12月7日] 午後五時、常州東方二粁の村落に露営す。

 給養は徴発に依る。

 豚、鳥、チャンチーの御馳走にて満腹となす。(P.132)

[12月12日] 本日は出発を見合せ滞在と決定す、早朝より徴発に出掛ける、前日と違ひすばらしい獲物あり、そうめん、あづき、酒、砂糖、鶏、豚、皿、ランプ、炭あらゆる物あり正月盆同時に来た様にて兵隊は嬉しくて堪らず、晩にはぼた餅の御馳走にて陣中しかも第一線と思はれぬ朗らかさである。(P.133)

高橋光夫(上等兵)日記:

[12月15日] 四時に竜潭に着す、この途中にて支那人二人を殺す、この日も夕食、朝食をうべく一里余部落に入る、聯隊中の食料を集めてきた、其の途中一方わ[は]水郷口月一方わ[は]川にて、ニーヤにちようはつ[徴発]品をおわせて、銃を片[肩]に故郷を望むも戦場の風景と思ふ、夜わ[は]なにかの工場に宿舎をとる。(P.289)

柳沼和也(上等兵)日記:

[12月15日] 其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た、支那饅頭うまかった、(略)(P.166)

近藤栄四郎(伍長)日記:

[12月16日] 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お蔭で随分酩酊した。(P.326)

柳沼和也日記:

[12月21日] 小隊は中隊の先[尖]兵として進んだが本道上の大きな橋が三つもこわれて居たので進軍に大きな支障を来たした、◯◯部落に入る、此の部落に入ると支那酒がうまかった。

[12月22日] 第七中隊は先[尖]兵中隊として一路全椒に向って行った、后[午]後二時に全椒に着いたが本隊の来るまで侍って居た、そして設営により好い家に入ったが六中隊と交代して別な家に入る、二階でかへって好い家だ、品物を徴発して又うまい御馳走もある。(P.167)

宮本省吾日記:

[12月24日] 滁県にて守備の説も当らず午前八時出発、滁県を後に全椒県に向ふ、風は肌に寒く行軍には良い日和である、途中雞にわとりの徴発物あり夜はしばらくぶりで雞汁を馳走になる(略)

[12月25日] 兵は馬並に野菜、豚の徴発に出掛ける、種々の御馳走を作る。(P.135)

遠藤高明(少尉)日記:

[12月27日](略)第一分隊に於て支那糯もち米を徴発、杵をつくり石臼にて餅を搗つきたり、志るこ雑煮を馳走になる。(P.221)

大した戦闘もなくほとんど行軍ばかりの追撃戦で、食い物でも酒でも奪い放題となれば、貧しい出身の兵たちにとってはそれこそ「実二戦争ナンテ面白イ」ということになるだろう。そして、徴発するには民家に踏み込むわけで、そこで略奪に抵抗などされれば殺し、若い女など見つければ強姦する、という結果になる。

南京占領から10日ほども経ってから、ようやく略奪や強姦、発砲(=殺人)を禁止する命令が出された。軍がわざわざこんな命令を出すということは、こうした非行がよほど目に余る状態になっていたということだ。
 
斎藤次郎(輜重特務兵)日記:

[12月22日](略)今日の目的地は滁より南方七、八里の全椒県、午后三時到着、住民は日章旗を振りかざし爆竹をあげて我が部隊を歓迎した、聯隊長よりの注意がある、「婦女子に対し暴行をせぬ事。徴発の際は相当なる代価を支払ふ事。みだりに発砲せぬ事等」、我が部隊も此の処に守備に就くらしい(略)(P.40)

宮本省吾日記:

[12月27日] 風寒し、午前八時半出発、江浦県に向ふ、(略)当街は今迄になく支那軍も日本軍も未だに入らず、営業も正午迄行って居る様で日本軍の到来にて驚き然し日本軍を歓迎する有様にて種々好意を見せて居る、徴発も無理な事をせぬ様命令が出て物を始めて売買する様にて勿論支那の貨幣にて買ふ、(略)(P.136)

そして、自軍の食糧さえ略奪に頼っている状態で捕虜に食わせる米などない、面倒だから始末してしまえ、ということになる。

遠藤高明日記:

[12月16日] 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分のーを江岸に引出しIに於て射殺す。

 一日二合宛あて給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し。(P.219)

補給を無視した無茶な作戦が略奪を生み、略奪が南京大虐殺にまで至る強姦・大量殺戮を生んだのである。

【2016/12/23追記】
この記事だけ読んで、引用中に出てこないから「強姦」は憶測だとか言い出す人がいるので、加害証言を一例だけあげておく。(南京戦当時第十六師団歩兵三十三連隊第三大隊の兵士の証言[2])

 (強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじや。もう無茶苦茶じゃ。
 陥落して二日ばかりたったころじゃ。下関あたりに徴発に出たときじゃ。民家のあるとこに米や食べ物を徴発したんじゃ。そんな時に女も徴発するんじや。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。ズボン一つでパンツみたいな物は穿いておらんで、すぐにできた。やった後、「やめたれ」て言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。暗黙のうちの了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。それを知っとるさかい、やった後、殺すんじや。

[2] 松岡環編 『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』 社会評論社 2002年 P.275-276
【追記終り】

[1] 小野賢二・藤原彰・本多勝一編 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年

https://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/19/203639
9:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:56:28

2019-02-03
加害者証言抑止装置としての「戦友会」
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/03/092906
都城23連隊兵士の陣中日記をめぐる騒動

先日、南京戦当時のカメラの値段について書いたが、話の発端となった朝日新聞の記事は、南京戦に従軍したある兵士が書いた陣中日記を紹介したものだ。

朝日新聞(1984年8月5日):

南京虐殺、現場の心情

宮崎で発見 元従軍兵士の日記

 日中戦争中の昭和十二年暮れ、南京を占領した日本軍が、多数の中国人を殺害した「南京大虐殺」に関連して四日、宮崎県東臼杵郡北郷村の農家から、南京に入城した都城二十三連隊の元上等兵(当時二三)の、虐殺に直接携わり、苦しむ心情をつづった日記と惨殺された中国人とみられる男性や女性の生首が転がっているシーンなどの写真三枚が見つかった。

(略)

 この日記は、縦十九センチ、横十三センチで約四百ページ。昭和十二年の博文館発行の当用日記が使われ、元日から大みそかまで毎日、詳細に記録されている。(略)
 だが、十五日には「今日、逃げ場を失ったチャンコロ(中国人の蔑称=べっしょう)約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に婉々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行しだした様子」。惨劇が始まったことを記録している。
 二十一日。「今日もまた罪のないニーヤ(中国人のことか)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ。これでたたらなかったら因果関係とかなんとかいうものは(意味不明)ということになる」。自ら手を下したことを認めるとともに後悔の念をみせている。さらに虐殺が日常化していることもわかる。

(略)

 写真はアルバムに三枚残っていた。(略)撮影場所は南京城内かどうか記されていないが、生前家族に「南京虐殺の際の写真」とひそかに語っていたという。
 この兵士は帰国後、農林業を営み、四十九年に腎臓(じんぞう)病で死去した。家族の話では、生前写真を見ては思い悩んでいる時もあったという。死ぬ前には当時の戦友や家族に「罪のない人間を殺したためたたりだ」ともらしていた。

この兵士は自分が直接手を下した虐殺行為をその当日に書き記しており、まさに(ウヨさんたちが大好きな)第一級の一次史料である。

12月21日の日記(画像出典:[1])

この記事が出ると、日記を書いた兵士の所属部隊として名前の出た都城23連隊(宮崎)の「連隊会」が、さっそく「犯人探し」を始めた。わが連隊の名誉を汚した不届き者は誰だ!というわけだ。

しかし、情報提供者を守るため、朝日新聞は兵士の身元特定につながる情報を事実とはずらして記事に載せていたため、連隊会は別人を日記を書いた兵士と思い込み、その遺族から「日記などつけていなかった」という言質を取った上で、朝日新聞宮崎支部に押しかけた。そして、この抗議への朝日側の対応が拙劣だったこともあって、騒動は不買運動から訴訟にまで発展した。[2][3]



この騒動の過程からも、この「連隊会」のような戦友会組織が、元兵士たちやその遺家族の口を封じ、加害の証拠・証言を外部に漏らさないようにする機能を果たしてきたことがよく分かる。[4]

(略)もっとも苦しんだのは、最初のうち日記提供者と誤認された(A--氏名削除)未亡人で、村人から白眼視され肩身の狭い思いで暮しているという。
(略)どうやら真相は、連隊会からただされた(B--氏名削除)未亡人が、面倒を恐れて日記は焼き捨てたと述べたこと、その前に連隊史のため(B)日記を借り出して読んだ人が、読んだと言いそびれてしまったことにあったようだ。

ちなみに、同連隊には他にも虐殺はあったと主張している元兵士がおり[1]、日記の信憑性は高い。また、中国側にもこれと符合する証言がある。[5]

【陳秀英(女性)の証言】*一九二二年八月生まれ 当時の住所 進香河

 十二月十三日、大勢の日本兵が縄梯子を使って水西門から入って来るのを見ました〔「水西門は城西の主要城門で十三日八時、歩二三〔第六師団歩兵第二十三聯隊、都城〕は城壁西南突角の破壊口を通って城内に…と『南京戦史』にある〕。日本兵は人を見れば殺しました。女性を見つければ強姦した後に殺しました。日本軍が私たちの家の近くに迫ってきたと聞いてまもなく、日本兵がきて私がいるのを見ているので、いずれきっと強姦されるに違いないと思って私一人が逃げたのです。(略)逃げる途中、日本鬼子は民家に入り込んでは女性を引き出し、家に火をつけて回るのを見ました。日本兵に見つからないよう隠れて難民区にたどりつきました。私は食事をとるために、あまり日本兵のいない夜になってから毎日家と五台山を往復しました。
 十二月十三日夕方、夫は食べ物を探しに出かけたところを日本兵に見つかり、胸を銃剣で刺され、殺されました。(略)
 道沿いに大勢の死体が転がっていました。日本軍が入ってきた初日は中央軍の死体が多かったのですが、翌日になると一般民衆の死体が多くなっていました。

不都合な証言を封じる相互監視機構として作用した「戦友会」
戦後、各地で自然発生的に作られた「戦友会」は、親睦団体とは言うものの、内部では旧軍の精神構造をそのまま引きずっていた。[6]

 さきほど述べたように、天皇の戦争責任が免責されていることとかかわって、旧日本軍全体がまだ過去の戦争を肯定する立場にあります。旧軍人社会では靖国神社奉納、参拝が依然として重視され、各地域、各部隊ごとの各種の戦友会が旧軍隊の精神構造をそのまま引きずって網羅的に組織されている日本社会においては、九割以上の旧軍人は、日本軍と自己の「正当性」を保持するために、自分、あるいは部隊仲間が行った加害・残虐行為については、公に証言しない態度を堅持しています。さらに、不法・残虐行為について証言を行った旧軍人に対して「皇軍」の名誉を汚すものとして、証言封じのための種々の嫌がらせや圧力を加える軍人社会の体質もそのまま残っています。

その結果、旧軍兵士たちは仲間内だけの席では平気で加害行為を口にしても、外部に向けてそれを語ることはほとんどなかった。

「戦友会」が旧軍人同士の相互監視・抑圧の機構として作用してきたことが、南京大虐殺に限らず、日本側の加害証言・資料が極めて少ない原因の一つであることは間違いないだろう。

[1] 秦郁彦 『昭和史の謎を追う(上)』 文藝春秋 1993年 P.137
[2] 同 P.135-136
[3] 大井満 『仕組まれた“南京大虐殺”』 展転社 1995年 P.12-13
[4] 秦 P.136-137
[5] 松岡環 『戦場の街南京』 社会評論社 2009年 P.253-254
[6] 笠原十九司ほか編 『歴史の事実をどう認定しどう教えるか』 教育史料出版会 1997年 P.107-108
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/03/092906
10:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:56:54

2017-12-03
写真の誤用ひとつで本多勝一に勝ったと信じ込むネトウヨの脳内勝利法
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/12/03/114643
本多勝一は嘘つき?

『中国の日本軍』における写真の誤用
戦場の現実に近いのはどちらか
フェイクニュースを根拠に本多氏を嘘つき呼ばわりする右派の脳内勝利法
本多勝一は嘘つき?
当ブログでは、被害者証言の引用などでしばしば本多勝一の著書を参照する。

すると、こんな反応が飛んでくる。

f:id:Vergil2010:20200503093754j:plain

本多勝一は嘘つきであり、だからその著書など信用に値しないと言いたいらしい。

この人が本多氏を「嘘つき」だという根拠は何なのか。リンク先の「ぼやきくっくり」というブログでは、本多氏の著書に掲載されている写真の一枚が「捏造」だとして非難している。

 先日ツイッターでも紹介しましたが、週刊新潮9月25日号にて、「中国の旅」の著者で元朝日新聞記者の本多勝一が、「南京大虐殺」派が使っていた象徴的写真を捏造写真であることを認めました。

この話の元ネタは、週刊新潮2014年9月25日号掲載の記事 『伝説の記者「本多勝一」が“誤用”を認めた「南京事件」捏造写真』 だ。

 笑顔の日本兵と一緒に、少年少女、防空頭巾をかぶった女性もまた笑顔で橋を渡る――。

 上の写真のキャプションには〈我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群〉とある。朝日新聞社が発行していた『アサヒグラフ』1937年11月10日号に掲載された1枚である。

 そして、同じ写真が72年発行の『中国の日本軍』という書籍に使われている。著者は、当時、朝日新聞が誇るスター記者だった本多勝一氏(82)。だが、そのキャプションには、〈婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は七、八歳の幼女から、七十歳を越えた老女にまで及んだ〉とあるのだ。

(略)

 本多氏に問い合わせると、文書で回答が寄せられた。

「『中国の日本軍』の写真説明は、同書の凡例に明記してあるとおり、〈すべて中国側の調査・証言にもとづく〉ものです。(略)『中国の日本軍』の写真が、『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに『誤用』のようです」

 伝説の記者が誤用を認めた。

『中国の日本軍』における写真の誤用
虐殺の現場写真でもなんでもないこの写真が「「南京大虐殺」派が使っていた象徴的写真」だとは思えないが、これがもともと『アサヒグラフ』1937年11月10日号に掲載された、従軍記者撮影の写真であることは事実である。

この写真を南京市当局が南京大虐殺関連写真として収録し、それを本多氏が『中国の日本軍』にキャプションも含めそのまま転載した[1]。当時(1970年代)中国側の写真検証はかなり甘く、出所のはっきりしない「それらしい」写真を安易に南京大虐殺関連のものとして採用する傾向があった。(現在は改善されている。)その意味では確かに誤用ではある。

戦場の現実に近いのはどちらか
だが、これだけなら単なる写真一枚の誤用に過ぎない。本多氏を「捏造」「嘘つき」と言うためには、写真に付されたキャプションも含めて、南京戦当時の日本のプロパガンダ報道こそが正しく、強姦・虐殺が続発したとする本多氏の著書はデタラメだと証明する必要がある。

では、当時の実相はどうか。南京戦に従軍した日本軍兵士自身の証言[2]を見てみよう。

第16師団歩兵第33連隊第1大隊 兵卒(階級不明):

 掃蕩する時、家を一軒一軒まわり女の子を見つけるとその場で強姦した。(略)何人ぐらいしたか覚えていないけど、印象に残るのは逃げている母と娘を捕まえた時、母親は我々に娘は小さいから自分をやってと頼んだ事だった。我々は「アホカー」と母をふりはらった。やる時は二、三人で行ってやる。もちろんやる時悪いと思ってたし、逆に日本がやられ自分たちの子ども、あるいは女性がやられたらどうなるかを考えたこともある。それでも、自分もいつ死ぬか分からない状況なので、生きている間に、天皇の命令とかは関係なくて自分がやりたいことをした。そんなことは当たり前になった。(略)南京城内ではなく郊外では、憲兵に見つかったらうるさいから女の人を殺したりした。(略)

第16師団歩兵第33連隊第3大隊 伍長:

(強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじゃ。もう無茶苦茶じゃ。

 陥落して二日ばかりたったころじゃ。下関あたりに徴発に出たときじゃ。民家のあるとこに米や食べ物を徴発したんじゃ。そんな時に女も徴発するんじや。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。ズボン一つでパンツみたいな物は穿いておらんで、すぐにできた。やった後、「やめたれ」て言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。暗黙のうちの了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。それを知っとるさかい、やった後、殺すんじや。

(略)十人おって九人まで強姦しとらん者はおらん。自慢話にもなっとる。

(略)

 街の中でも女が隠れとる所を良く知っとるわ。若いもんも、お婆あも、みんなやった。それからばれたらまずいから殺すんじゃ。南京に入る前から、南京に入ったら女はやりたい放題、物はとりたい放題じゃ、と言われておった。「七十くらいのお婆あをやった。腰が軽うなった」と自慢しよる奴もおった。(略)慰安所作っても強姦は減らんわ。(略)街に行ったら“ただ”やからな。

第16師団歩兵第33連隊第3大隊 一等兵:

(略)腹へってくたくたになっても女を見るといきり立って捕まえよったわ。恥ずかしいからもうこれ以上言わさんでや……。部隊のもんはみんなやっとたわ。黙認じゃ。女は殴って、殴って半殺しにしたわな。抵抗されるからじゃ。若い女は腰振って入れさせんようにするからじゃ。嫁〔既に結婚している女性〕はやりやすかったわな。恥ずかしいからこれ以上は勘弁してください。

 抵抗するから殴りつけたんじゃ。させたもんは殺しはせんかったが、させんもんは殺したわな。

(略)

 戦友が戦死すると、復讐心が出て、中国人に酷いことやるようになったわな。(略)家に入っていって親に女を出せと言うたんやが、出さんかったから殺したんじゃ。殺した後、娘が飛び出してきてな、バッと捕まえてみんなでやったわ。六人くらいでやったかな。娘は死んだようになっとったわな。かわいそうなんか思わんかった。「恨むなら蒋介石を恨めよ」ってな具合じゃだった。徴発でも女でも、「蒋介石が悪い」と思うとった。

(略)(強姦した中国の女性は)十人じゃきかんわさ、三十人くらいじゃろうか、ようは覚えとらん。それは勘弁してくれ……。第一線部隊はそんなもんじゃ。第一線部隊は非情な部隊じゃ。討伐しに行ったら女漁りさね。討伐はいきなり襲うんで、女は逃げることできんから、よう捕まえたわ。これが目的みたいなもんじゃった。(略)

第16師団歩兵第33連隊第2大隊 兵卒(階級不明):

 南京では、暇でほかに何もすることないから、女の子を強姦した。部隊の兵隊が、勝手に出ていって、クーニャン徴発していると知っていても、将校は何も言わず黙認やった。(略)

 クーニャン捜しは分隊や数人で行くことが多いな。見つけるとな、分隊の何人もで押さえつけたんや。それで、女の子を強姦する順番をくじで決めた。一番のくじを引いた者が、墨を塗っている女の子の顔をきれいに拭いてからやった。交替で五人も六人も押さえつけてやったら、そらもう、泡を吹いているで。兵隊もかつえ〔飢え〕ている。女の子は殺される恐ろしさでぶるぶる震えている。(略)

 十九や二十の娘を引っ張り出すと、親がついてきて頭を地面にぶつけてな、助けてくれという仕種をするんや。助けてくれと言われても、兵隊はみんなかつえてるから、だれも親の言うことを聞かん。まだ男と寝たことのない女の子を、三人も五人もで押さえ込んだら泡を吹いて気失うとるで。親がやめて!と言っても、やらな仕方ない。(略)日本中の兵隊がこんなことをいっぱいしてきた。言うか言わんだけのことや、男やもの、分隊十人のうちみんなやっとる。(略)

 現役の兵隊は、あまり経験がないからおとなしいけどな。召集兵ほどひどかった。妻帯して女を知っとるから、寝たいんや。赤紙一枚で天皇陛下の御ために、編されてみな戦争に行ったわけや。

第16師団歩兵第33連隊第1大隊 兵卒(階級不明):

 同年兵が女を捕まえるときわしもついて行ったことありました。(略)女の人は顔を黒くしていた。鉄砲を持ってるので怖くて泣きながらついてきた。家の中で分隊の者が強姦して、わしは、外で歩哨、見張りやな。立たされた。きつい女で抵抗して強姦できない時は、腹立てて胸など撃って殺してましたな。射撃の目標にしたこともありました。命令やからしょうがない。木にくくりつけて射撃の練習でみんなで撃ちました。かわいそうと思いましたが命令やからな。

第16師団歩兵第33連隊大隊砲 兵卒(階級不明):

 自分は初年兵やったんで、女の子のさがし役や。さがさんと怒られるので、背に腹は代えられん。上の人の言うことは絶対やで、必死で女の子を引き出した。家の中でもなんでもないところに隠れてる。壁やレンガの裏に隠れてる。家を出たら竹やぶとか、畑のわらの中にも隠れてたな。女二人連れてきたら、中隊長にもあてがわんならん。あとの一人を分隊十人ほどがえらいさんの班長さんから交替してやるわけや。(略)そうやって女の子を輪姦して後で殺してしまうわけや。

フェイクニュースを根拠に本多氏を嘘つき呼ばわりする右派の脳内勝利法
『アサヒグラフ』掲載の写真には下のようなキャプションがついているが、いったいこの兵士は誰から女子供を護るというのか。女子供を襲い、強姦虐殺していた最大の脅威は日本軍そのものだろう。

当時日本のマスコミが大々的に展開していた翼賛プロパガンダ報道は、戦場の現実とはおよそかけ離れたフェイクニュースに過ぎない。それはそうした報道に携わった記者たち自身が後に語っていることからも明らかだ。そんなものを根拠に本多氏を「嘘つき」だとする右派の妄想は、現実を見ずに頭の中だけで「勝った、勝った」と自惚れる「脳内勝利法」とでも呼ぶべきだろう。

ちなみに、週刊新潮が「笑顔の日本兵と一緒に、少年少女、防空頭巾をかぶった女性もまた笑顔で橋を渡る」と解説するこの写真だが、写っている女性や少女たちの表情がまったく笑顔に見えないのは私だけだろうか。

[1] 本多勝一 『中国の日本軍』 創樹社 1972年 P.118-119
[2] 松岡環 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』 社会評論社 2002年 P.269-335

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/12/03/114643
11:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:57:19

2017-08-26
南京のプロパガンダ写真とその裏の真実
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/08/26/111850
前回記事で取り上げた、学び舎の教科書を採用した中学校への集団攻撃では、抗議はがきの大部分は「中国での旧日本軍進駐を人々が歓迎する場面とみられる写真を載せた絵はがきに抗議文をあしらった同一のスタイルだった」という[1]。

現物を見ていないので、はがきに使われた写真が具体的にどのようなものかは分からないのだが、ネットで検索すると、それらしい写真を載せて「支那の民衆は日本軍が来ると大歓迎した!」「南京市民たちは日本軍の入城を歓声をもって迎えた!」などと主張する右派サイトが大量にヒットする。

彼らは、虐殺場面の写真に対しては、影の角度がどうの日本兵の服装がこうのと必死で難癖をつけて否定していたはずだが、こうした「歓迎」写真には、「演出じゃないの?」という当然の疑問すら湧かないらしい。猜疑と盲信が簡単に切り替えられる便利な頭を持っているのだろう。

では、以下代表的な写真を例にとって、そこに写っているものとその背後の真相を比較してみよう。


このツイートが載せている写真は、「占拠後の南京」と題して毎日新聞系の「支那事変画報」第15輯(1938年1月11日)に掲載されたものだ。キャプションには、「わが軍から菓子や煙草の配給を受け喜んで日本軍の万歳を叫ぶ南京の避難民」とある。

こちらはその入城式を報じた朝日新聞1937年12月18日付夕刊:

実際にはどうだったのか。入城式についてこんな翼賛記事を書いた朝日新聞の今井正剛記者自身が、戦後になって当時の南京の実情を語っている[2]。

 こうして準備された南京入城式は、なるほど豪華荘厳であったにはちがいないが、奇妙なことにこの“大絵巻”を見物するものといえば、兵隊と同じようなカーキ色の従軍服をきた新聞記者の他は、一般民衆と名のつくものは唯一人もいなかったことである。

 つまり入城式の沿道は、堵列の兵隊のほかは、ネコの子一匹たりとも通行を許さなかったからである。軍司令官閣下に、あるいは畏くも宮殿下のお通りに、万が一にも無礼なことをするフテイの輩がいては一大事、という考えの方が強かったのにちがいない。敵国民の憎悪の瞳をあびることは、皇軍の汚れであるとも思ったのかもしれぬ。歩武堂々たる閲兵の行列の両側に堵列した、部下の騎兵の捧げ銃と頭右いの声の中を静かに進んで行った。そしてそれをとりまくものはうちくだかれた瓦礫と死の空虚とがあるばかりだったのだ。

(略)

 中山門を入ったばかりの所へ、臨時支局を開設していたわれわれは、十五日になって市内もどうやら危険はなくなったというので、朝から三々五々見物に出て行った。

(略)

 メインストリートでは人ッ子一人見かけなかったのに、何とこのあたりは中国人で一ぱいなのだ。老人や女子供ばかりではあるが、どの家の窓からも、不安そうにおびえた瞳が鈴なりになっている。この地区一帯が、難民の集中区になっているのだろう。幾日かぶりでみる民衆の顔である。社会部記者の興味がモクモクと頭をもたげてきた。

(略)

 以前の支局へ入ってゆくと、こゝも二三十人の難民がぎっしりつまっている。中から歓声をあげて飛び出して来たものがあった。支局で雇っていたアマとボーイだった。

「おう無事だったか」

 二階へ上ってソファにひっくり返った。ウトウトと快い眠気がさして、われわれは久しぶりに我が家へ帰った気持の昼寝だった。

「先生、大変です、来て下さい」

 血相を変えたたアマにたたき起された。話をきいてみるとこうだった。

 すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の洋服屋の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人とも兵隊じゃないのだから早く行って助けてやってくれというのだ。アマの後ろには、楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員(現朝日新聞アメリカ総局長)と私はあわでふためいて飛び出した。

 支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向って六人ずつの中国人が立つ。二三十歩離れた後ろから、日本兵が小銃の一斉射撃、バッタリと倒れるのを飛びかかっては、背中から銃剣でグサリと止めの一射しである。ウーンと断末魔のうめきが夕陽の丘一ぱいにひびき渡る。次、また六人である。

 つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされてゆくのを、空地にしゃがみ込んだ四五百人の群れが、うつろな眼付でながめている。この放心、この虚無。いったいこれは何か。

 そのまわりを一ぱいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。その顔を一つ一つのぞき込めば、親や、夫や、兄弟や子供たちが、目の前で殺されてゆく恐怖と憎悪とに満ち満ちていたにらがいない。悲鳴や号泣もあげていただろう。しかし、私の耳には何もきこえなかった。パパーンという銃声と、ぎゃあっ、という叫び声が耳一ぱいにひろがり、カアッと斜めにさした夕陽の縞が煉瓦塀を眞紅に染めているのが見えるだけだった。

 傍らに立っている軍曹に私たちは息せき切っていた。
「この中に兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」
 硬直した軍曹の顔を私はにらみつけた。
「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」
「どいつだかわかりますか」
「わかる。女房がいるんだ。呼べば出て来る」

 返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声をあげて女房が呼んだ。

 群衆の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳位の青年が飛び出して来た。
「この二人だ。これは絶対に敗残兵じゃない。朝日の支局へ出入りする洋服屋です。さあ、お前たち、早く帰れ」

 たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群衆を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群衆が殺到した。

「まだやりますか。向うを見たまえ。女たちが一ぱい泣いてるじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」

 私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君とは空地を離れた。何度目かの銃声を背中にききながら。

この空き地での一般市民虐殺シーンは、まるで南京大虐殺祈念館にあったレリーフの場面そのままだ。

ちなみに今井記者は、上の入城式記事についても、実は式典を見て書いたものではなく、前日のうちに予定稿として仕上げてしまったことを告白している。このように、南京関連の翼賛記事は、写真も含め、日本軍に都合のいいストーリーに合わせて書かれたプロパガンダに過ぎなかったのだ。

[1] 「慰安婦言及 灘中など採択学校に大量の抗議はがき」 毎日新聞 2017/8/8
[2] 今井正剛 『南京城内の大量殺人』 特集文藝春秋「私はそこにいた」 1956年12月号 P.155-157

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/08/26/111850
12:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:57:44

2017-12-24
南京攻略戦従軍記者たちの「虐殺否定」座談会
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/12/24/140038
「虐殺の“ギャ”の字もない」従軍記者座談会?

従軍記者たちの座談会発言と戦後の回想
座談会での記者たちの発言
足立和雄記者の回想
今井正剛記者の回想
右翼雑誌の編集者にプライドはないのか?


「虐殺の“ギャ”の字もない」従軍記者座談会?
右翼雑誌「Will」の2007年12月増刊号に、「朝日新聞支那特派員大座談会」という記事が載っている。

「むろん、虐殺の“ギャ”の字もない」という煽り文句から、てっきり戦後の座談会で従軍記者たちが当時を振り返り、「見なかった」「虐殺などなかった」といった発言でもしているのかと思ったら、なんと南京陥落当時の朝日新聞に載っていた記者座談会の再録なのである。

バカじゃなかろうか。

軍による検閲済みの新聞に虐殺の話など出ているはずがない。しかも当時の新聞といえば、朝日も含め、どこもイケイケドンドンで戦争を煽るプロパガンダに熱中していたのだ。


こんなものが虐殺否定の根拠になると考えるほうがどうかしている。

従軍記者たちの座談会発言と戦後の回想
この座談会で面白おかしく「武勇伝」を語っている従軍記者たちのうち、足立和雄、今井正剛の両氏は、戦後、当時自分たちが本当は何を見たのかを書き残している。また、守山義雄、中村正吾の両氏については、それぞれ足立氏、今井氏が証言の中で言及している。

それでは、再録された座談会での彼らの発言と戦後の証言を比べてみよう。

座談会での記者たちの発言
今井 とにかく、これから先どうなるのかは知らないが、兵隊さん達が「南京、南京」とうわ言のようにいいつづけて行軍して来たのと同じように、僕達も南京が最後のゴールだった。それだけに「ああ、あれが南京だ」と最初に見出した南京の街、南京の山というものは忘れられない。僕は南京を敗残兵の中に立ちながら見出したのだ。
 九日の朝だった。上方鎮から東村站を経て秦淮河に抜ける時、東村站で丁度正午ごろ人ッ子一人通っていない街の真中でクルマを止め、さてどうしようかな、と考えているところへ、街の裏の壕の中からヒョッコリ顔を出したのが敵の正規兵だ。又一人、又一人、流石さすがに井上映画班氏も写真の熊崎君も、勿論僕も顔色はなかったな。

 その緊張した気持の中で、ふと前面を見ると、三段の稜線を描いている山の中腹に、ぼうっと白く「中」の字型の陵らしいものが見えたのだ。「おい、あれが中山陵だ、紫金山だぞ」と怒鳴り合いながら、もう何もかもそっちのけで一目散だ。南京へ、南京へ。そして、砲弾と銃弾とがもう身の置きどころもないほど落ちて来る前線へ飛び出してしまったのだ。

(略)

足立 僕たちが麒麟門のこちらで集中射撃を受けたとき、一人の敵兵が我が軍の陣地の中の掩蓋えんがい壕の中で捕えられた。大胆にも壕の中から味方の陣地に向って電話通信をしていたのだ。敵の集中射撃が正確を極めたのも道理だったのだ。それがやはり二十歳前後の若い教導総隊の兵だったよ。

 中山門が落ちた日の朝、僕は紫金山連山の峰伝いに太平門に降りて来たんだが、紫金山のてっぺんの塹壕の中には敵の死骸が折重なるように埋まっていた。それは百メートル以上も続いていたろう。皆んな教導総隊の兵だった。一人も逃げる姿勢をとっていない、見事に頭をやられているんだ。

(略)

守山 皮肉な話を一つ披露しよう。十三日の未明、太田部隊が南京城門を乗り越えて真先に軍官学校横の敵砲兵陣地を占領したが、そこにあった十五センチの大砲四門がどこ製であったと思うか? 「昭和二年大阪工廠」というマークがついているではないか。驚いたなあ。しかもここには占領される瞬間まで支那兵が頑張っていて、大きな弾丸をボカンボカンぶっ放しているのだ。

 日本の兵隊さんも呆れていたが、将校に聞くと、昔支那に兵器を売渡したことがあったそうだ。句容付近でも日本の三八野砲一門を支那陣地から鹵獲ろかくした。

 それからもう一つおやッという感に打たれたのは軍官学校の校庭に立つ国民党総理孫文の銅像だ、従軍した清水画伯は「これは拙い銅像だ」といっていたが、裏の銘を読むと「民国十八年日本梅屋庄吉製造」とあるのだ。この銅像の前で抗日の軍事教練をやっていたのかと思うと感慨無量だったね。

足立和雄記者の回想
南京の大虐殺
 昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集ってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。
 朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間(注:今井正剛記者と中村正吾記者)がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。“便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。

 「悲しいねえ」

 私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。

 「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。

 内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。(朝日新聞客員)[1]

今井正剛記者の回想
屠所にひかれる葬送の列
 電燈のない、陥落の首都に暗い夜がきた。(略)

 ふと気がつくと、戸外の、広いアスファルト通りから、ひたひたと、ひたひたと、ひそやかに踏みしめてゆく足音がきこえてくるのだ。しかもそれが、いつまでもいつまでも続いている。数百人、数千人の足おと。その間にまじつて、時々、かつかつと軍靴の音がきこえている。
 外套をひっかぶって、霜凍る街路へ飛び出した。ながいながい列だ。どこから集めて来たのだろうか。果しない中国人の列である。屠所へひかれてゆく、葬送の列であることはひと眼でわかった。

「どこだろうか」
「下関(シャアカン)だよ。揚子江の碼頭だ」
「行って見よう」
 とって返して外套の下にジャケツを着込むと、私たちは後を迫った。
 まっくらな街路をひた走りに走った。江海関の建物が、黒々として夜空を覆っている。下関桟橋である。

「たれかっ」
 くらやみの中から銃剣がすっとにぶい光を放って出て来た。
「朝日新聞」
「どこへ行きますか」
「河っぷちだ」
「いけません。他の道を通って下さい」
「だって他の道はないじやないか」
「明日の朝にして下さい」
「今ここを大ぜい支那人が通ったろう」
「――」
「どこへ行った」
「自分は知らない」
「向う岸へ渡すのか、この夜半に」

 拍子抜けのしたように、ポンポン蒸汽の音が遠くから伝わってきた。
「船が動いてるね」
「そうらしい。部隊が動いてるのかな」

 気をゆるめたらしい歩哨が、足をゆるめて話しかけて来た。
「吸わないか、一本」
 キャメルをポケットから出した。
「はあ、でも立哨中ですから」

 人のよさそうなその兵が、差し出した煙草を受けとってポケットへ入れようとしたとたんだった。

 足もとを、たたきつけるように、機関銃の連射音が起って来た。わーんという潮騒の音がつづくと、またひとしきり逆の方向から機関銃の掃射だ。

「――」
「やってるな」
「やってる? あの支那人たちをか」
「はあ、そうだろうと思います。敗残兵ですから。一ペんに始末しきれんですよ」
「行くぞ」
「いけません。記者さん。あぶない。跳弾が来ます」

 事実、花火のようにパッパッと建物の蔭が光り、時々ピーンと音がして、トタン板にはね返る銃弾の音が耳をはじいていた。

 何万人か知らない。おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であったほかは、その大部分が南京市民であっただろうことは想像に難くなかった。

 揚子江の岸壁へ、市内の方々から集められた、少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかなくて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びているのだ。

「うっ、寒い」
 私たちは、近くから木ぎれを集めてきて焚火をした。
「さっき、支局のそばでやってるとき(注:“便衣隊”銃殺事件のこと)、車が一台そばを通ったねえ」

 中村君がそういった。

「毛唐が乗ってたぜ」
「あれは中国紅卍(まんじ)会だろうと思うな。このニュースはジュネーヴヘつつ抜けになるな」
「書きたいなあ」
「いつの日にかね。まあ当分は書けないさ。でもオレたちは見たんだからな」
「いや、もう一度見ようや。この目で」
 そういって二人は腰をあげた。いつの間にか、機銃音が断えていたからだ。

消えた二万人

 河岸へ出た。にぶい味噌汁いろの揚子江はまだべったりと黒い帯のように流れ、水面を這うように乳色の朝霧がただようていた。もうすぐ朝が来る。とみれば、碼頭一面はまっ黒く折り重なった死体の山だ。その間をうろうろとうごめく人影が、五十人、百人ばかり、ずるずるとその死体をひきずっては河の中へ投げ込んでいる。うめき声、流れる血、けいれんする手足。しかも、パントマイムのような静寂。

 対岸がかすかに見えてきた。月夜の泥濘のように碼頭一面がにぶく光っている。血だ。

 やがて、作業を終えた"苦力たち"が河岸へ一列にならばされた。だだだっと機関銃の音。のけぞり、ひっくり返り、踊るようにしてその集団は河の中へ落ちて行った。

 終りだ。

 下流寄りにゆらゆらと揺れていたポンポン船の上から、水面めがけて機銃弾が走った。幾条かのしぶきの列があがって、消えた。

「約二万名ぐらい」
 と、ある将校はいった。その多くはおそらく左右両方から集中する機銃弾の雨の中を、どよめきよろめいて、凍る霜夜の揚子江に落ちていっただろう。その水面にまで機銃弾はふりそそいだが、さらに幾人かは何かにつかまり、這いあがって、あるいは助かったかもしれない。しかしこれは完全な殲滅掃蕩である。

 南京入城式は、こうして大掃除された舞台で展開された。そして私はあの予定原稿を書きなぐった。みんな同じ日の出来事だ。(略)[2]

右翼雑誌の編集者にプライドはないのか?
それにしても、こうした右翼雑誌の編集者たちというのは、いったい何を考えて仕事をしているのだろうか。まとめサイトを見ていきり立つだけのネトウヨではあるまいし、仮にもプロである。それなりの情報は掴んでいるはずだ。知っていて、商売のためにこんなものを書き飛ばしているのか。

おのれの仕事を振り返って、悔いることはないのだろうか。

[1] 守山義雄文集刊行会 『守山義雄文集』(非売品)1975年 P.448
[2] 今井正剛 「南京城内の大量殺人」 特集文藝春秋「私はそこにいた」 1956年12月号 P.157-159

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/12/24/140038
13:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:58:18

2018-10-28
学者をなめてる小林よしのり
https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/10/28/214152
倉橋耕平氏をエセ学者呼ばわり

「反省のできない漫画家」小林よしのりが、ゴー宣を批判されてまたこんなことを書いている。

BLOGOS(10/24):

漫画家をなめてるエセ学者・倉橋耕平

今朝、10月24日の朝日新聞の「耕論」というページで、倉橋耕平という自称・社会学者が『ゴーマニズム宣言』は読者参加型でポピュリズムであり、「真実」を描いていない、「主観」で描いていると、批判している。

生憎だが、わしは膨大な専門家の書籍・歴史資料を基に、「客観」で描いている。
つまり「史料批判」は厳密にやっているということだ。

(略)

実際の小林よしのりはというと、書斎の中だけでも、数千冊の本が収容されていて、もう置き場所もなく、リビングにも、食卓にも書物が積み重ねられていて、妻からいつも怒られる事態になっている。

さらに福岡には3LDKのマンションを持っていて、ここも書庫になっているから、まあ、そこいらの学者より本は読んでいるだろう。
少なくとも、確実に言えるのだが、この倉橋耕平よりも、わしの読書量の方が多い。これは確実である。

(略)

倉橋くん、少なくとも、わしの読書量を上回ってから、「学者」を名乗った方がいいよ。

小林はこう言うが、問題は読書量などではなく読んでいるものの中身だろう。たとえ蔵書が何万冊あろうが、読んで影響を受けている本というのが、『戦争論』の引用・参考文献に挙げられているような、こんな代物↓ばかりでは意味がない。

『仕組まれた“南京大虐殺”』 大井満/展転社
『南京事件の総括~虐殺否定十五の論拠~』 田中正明/謙光社
『正論』平成10年4月号 「改めて『ラーベ日記』を徹底検証する」 東中野修道/産経新聞社
『散華の心と鎮魂の誠』 靖国神社編/展転社
『教科書では教えない戦後民主主義の幻想』 藤井厳喜/日新報道
『歴史教育を考える』 坂本多加雄/PHP新書
『歴史を裁く愚かさ』 西尾幹二/PHP
『償いは済んでいる』 上坂冬子/講談社
『国が亡びる』 中川八洋/徳間書店
『世界から見た大東亜戦争』 名越二荒之助/展転社
『検証 戦後教育』 高橋史朗/広池出版
『従軍慰安婦問題の経緯』 上杉千年/國民會館叢書
『「従軍慰安婦」論は破綻した』 西岡力/日本政策研究センター
『教科書が教えない歴史』 藤岡信勝・自由主義史観研究会/産経新聞社
『大東亜戦争への道』 中村粲/展転社
『封印の昭和史~「戦後50年」自虐の終焉~』小室直樹・渡辺昇一/徳間書店
『正論』平成8年12月号「『三光作戦』の教科書削除を要求する」 田辺敏雄/産経新聞社
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実際『戦争論』では、たとえば大井満『仕組まれた“南京大虐殺”』に書かれていたデタラメ(元ネタは自称ジャーナリスト鈴木明が拾ってきた戦場の噂話)を鵜呑みにしたあげく、実際には国民政府軍と激闘を交えながらの敵前強行上陸だった呉淞ウースン上陸作戦をまったく違う話に書き換えてしまっている[1]。しかも、こんなウソを根拠に女性や子どもの殺戮まで正当化しているのだからタチが悪い。

知るのだ! 日本人に隠されている事実を!
事実から目をそむけて歴史を語ることはできない!

まず第9章でも少し触れたが便衣兵についての事実を紹介しよう

第三師団の先鋒部隊が上海の呉淞ウースン桟橋に上陸したおりであった

桟橋近くには 日本人の婦人団体とおぼしき人々が列をなし
手に手に日の丸の小旗を振っての歓迎で
上陸する将兵たちの顔にも思わず微笑が浮かんだ

そして隊列が婦人団体のすぐ近くまで来た時であった

突如小旗は捨てられ さっと身をひるがえすと 背後に隠していた数丁の機銃が 猛然と火をふいた

あっという間もない
たちまちのうちに一個中隊はほぼ全滅

かろうじて難を逃れた兵士らは ただ無念の涙を飲むばかりであった。
この一事は広く将兵の知るところとなり 中国兵への怒りと憎しみを倍加させたのである

大井満『仕組まれた南京大虐殺』からの引用である

よく「女子供の死体まであった」とかいう証言があるが 女子供が便衣兵なら殺されたって仕方がない

デタラメな元ネタから妄想を膨らませてあり得ない絵を描いてしまうような漫画家に、倉橋氏をエセ学者呼ばわりする資格はないだろう。

「一次史料」が重要と言いつつ自分では無視するダブルスタンダード
上のBLOGOS記事でも重要だと言い、自分は厳密にやっていると主張する「史料批判」だが、この点について小林は、以前にもこんな文章を書いている[2]。この「論文」の趣旨は今回同様、自分と意見の合わない(南京大虐殺の存在や「従軍慰安婦」に対する日本軍の加害を認める)学者や知識人たちへのディスりである。

歴史を歪めるのは誰か 学者・知識人へのわが一撃!
史料批判なき叙述は単なる読み物でしかない

 本来、漫画家であるはずのわしが今回、「論文」という形式を取らねばならなかったのには、やむにやまれぬ理由がある。今から書くことは漫画という表現では不可能であり、漫画という表現に偏見すら持っている知識人には、一度活字のみでたっぷりと、ねっちりと説明して聞かせるしかないと判断したからである。(略)全知識人諸君へ、歴史を叙述する際の、基本的なトレイニングについて忠告させて頂きたい。

(略)

 というのも史料区分としては「第一次史料」は事件発生当時、発生場所で当時の関係者が記したものであり、『終戦秘史』のように事件から暫く時間が経過した後に、関係者が記したものは第二次史料と解すべきだからである。この一次史料、二次史料を基に作成されたものを、「第三次史料」としてよい。四次史料となると、作者・作成年代。作成場所が判明しないものなので史料価値はほとんどなくなる。

 どの史料にも「史料批判」を加えることは「歴史を書くトレイニング」の基本中の基本。本来、歴史学者ならば当然に日常行っていることであろう。

(略)

 正式な作戦行動であれば、命令書が存在するはずである。たとえ命令書などの書類が処分されたとしても、日付も場所も特定されているのだから、実行した部隊の陣中日誌や将兵の日記に当たることができる。第一次史料の裏付けは不可欠である。少なくとも実行した部隊、命令した人物の特定だけはしなければならない。ところがそれがどこにも書かれていない。福田和也氏も、そういう必要不可欠な裏付け作業を全く行っていない。奥宮著書を丸写ししただけである。

(略)

「史料批判」は、わしのような素人にもできる。入手した史料が一次、二次、三次、四次史料のどの区分に属するか判断して読み、著者の経歴や、当時書かれた日記、当時の報道、他の関係者が残した記録など、できるだけ一次史料に当たってみるのである。それを日本の義務教育卒業程度の「国語力」で読む。疑問や不明瞭な箇所を発見したら、他の史料で確認を取るまで信じ込まない。名の通った歴史家、評論家諸氏が、たまたま手元にあった本の一冊や二冊を読んで、頭から信じ込んで歴史叙述の根拠にしてしまう愚は、どうか避けて頂きたい。

史料批判というのは、一次史料で裏付けが取れないことは事実じゃない、というような単純なものではないし、そもそも検閲済みの「当時の報道」など一次史料ではない。だが、現場で事件を体験した当事者が間を置かずに書いた日記の類が事実関係を判断するための極めて重要な史料であることは、確かに小林の言うとおりである。

では小林は、南京攻略戦に従軍した兵士たちが残した次のような陣中日記をどう評価するのか。日時も場所も明確であり、これらはまさに正真正銘の一次史料である。これらの日記では、1937年12月16日から17日にかけて揚子江岸で行われた無抵抗の捕虜(一般市民も含む)の大量虐殺事件が、当事者として関わった複数の兵士によって別々に記録され、しかもその内容はよく一致している。この事実を否定することは不可能だろう。

画像出典:NNNドキュメント「南京事件II 歴史修正を検証せよ」

黒須忠信(仮名・山砲兵第19連隊第3大隊・上等兵)陣中日記[3]:

拾二月拾六日 晴
 午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯〔蕩〕の目的にて馬風〔幕府〕山方面 に向ふ 、二三日前捕慮〔虜〕せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、自分も此の時ばが〔か〕りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
 山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひヽ〔し〕がん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった、(略)帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。

近藤栄四郎(仮名・山砲兵第19連隊第8中隊・伍長)出征日誌[4]:

〔十二月〕十六日
(略)
 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本の様だ、お陰で随分酩酊した。
 夕方二万の捕慮〔虜〕が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
 月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光影〔景〕であった。

宮本省吾(仮名・歩兵第65連隊第4中隊・少尉)陣中日記[5]:

〔十二月〕十四日
 午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃揚〔蕩〕すべく出発す、攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す、夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、直ちに警備につく、(略)捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、中には二、三日中食を採らぬ者もあり喝〔渇〕を訴へる者あり全く可愛想なるも戦争の上なればある程度迄断乎たる処置をとらねばならぬ 、(略)通訳より「日本軍は皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった、唯水と食料の不足で、全く平公〔閉口〕した様である。

〔十二月〕十五日
(略)
 夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて捕慮〔虜〕兵の給食は勿論容易なるものでない。

〔十二月〕十六日
 警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎〔束〕の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮〔虜〕兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。

〔十二月〕十七日(小雪)
 本日は一部は南京入場式に参加、大部は捕慮〔虜〕兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入場式に参加、壮〔荘〕厳なる史的光景を見〔目〕のあたり見ることが出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。
 中隊死者一傷者二に達す。

〔十二月〕十八日 曇
 昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付〔就〕く、起床する間もなく昼食をとる様である。
 午后敵死体の片付けをなす、暗くなるも終わらず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。

遠藤高明(仮名・歩兵第65連隊第8中隊・少尉)陣中日記[6]:

十二月十六日 晴
(略)午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、(略)捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しI(注:第1大隊)に於て射殺す。
 一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し。

十二月十七日 晴
 幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差し出す、南京入場式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、(略)帰舎午後五時三十分、宿舎より式場迄三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、(略)風出て寒し。

十二月十八日
 午前一時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く、寒風吹き募り同三時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明けの待遠しさ言語に絶す、同八時三十分完了、(略)午後二時より同七時三十分まで処刑場死体壱万有余取片付けの為兵二十五名出動せしむ。

十二月十九日 晴
 前日に引続き死体取片付けの為午前八時より兵十五名差出す、(略)

小林が「歴史を叙述する際の、基本的なトレイニング」がどうこうと説教するこの「論文」が掲載されたのは、『正論』2000年6月号である。対して、これらの陣中日記を収録した『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』の発行はその4年前の1996年3月、日記の一部が「週刊金曜日」誌上で初めて公開されたのは更に前の1993年12月である。つまり、小林がこれらの日記の存在を知らなかったはずはない。

ではなぜ小林は、「一次史料」の重要性を得々と説いてみせる「論文」の中で、これらの日記を無視しているのか。一次史料の存在(あるいは不在)を理由に他者を攻撃しながら、自分にとって都合の悪い一次史料は否定的言及すらせず完全スルーでは、ダブルスタンダードそのものだろう。



何の史料的裏付けもないヨタ話に騙されてあり得ないシーンを描くような漫画家が、決定的な一次史料を無視したまま「史料批判」について説教し、あげく「倉橋くん、少なくとも、わしの読書量を上回ってから、「学者」を名乗った方がいいよ」などと語ってしまうのだから、もはや笑うしかない。

[1] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.127-128
[2] 小林よしのり 『歴史を歪めるのは誰か 学者・知識人へのわが一撃!』 正論 2000年6月号 P.56-73
[3] 小野賢二・藤原彰・本多勝一 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年 P.350-351
[4] 同 P.325-326
[5] 同 P.133-134
[6] 同 P.219-220

https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/10/28/214152
14:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:58:51

2017-04-29
小林よしのり徹底批判【目次】
https://vergil.hateblo.jp/entry/2016/10/31/194530
大東亜戦争とか言ってる時点で既にダメ
 
偽りの「アジア解放」「大東亜共栄圏」
 
ガンディーには見抜かれていた
 
戦争が政策なら植民地主義だって政策
 
続・ガンディーには見抜かれていた
 
ワラン・ヒヤ(恥知らず)
 
噂を根拠に中国軍を悪魔化
 
家族や故郷を守るために死んだ日本兵など一人もいない
 
浅薄な聞き取り

南京には便衣兵などいなかった

卑怯な便衣兵ならここにいる

新千歳空港騒動で本性を露呈した差別排外主義者

この少年たちをも殺せというのか?

【番外編】なぜ小林を許してはならないか

(準備中)
https://vergil.hateblo.jp/entry/2016/10/31/194530
15:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:59:18

2018-05-19
責任逃れの詭弁「自衛発砲説」に止めを刺したNNNドキュメント「南京事件II 歴史修正を検証せよ」
https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/19/220701
今回のテーマは歴史修正主義との対決

前回番組への唯一の「反論」だった自衛発砲説
自衛発砲説のルーツを追跡し、戦犯逃れのために言い出された詭弁であることを立証
卑怯な弁明は被害者を二度殺す行為
今回のテーマは歴史修正主義との対決
前回の『南京事件 兵士たちの遺言』(2015年10月4日放送)に続き、南京大虐殺の実証に正面から取り組んだNNNドキュメント『南京事件II 歴史修正を検証せよ』が、5月13日に放送された。(5月20日、BS日テレにて再放送予定。)


www.ntv.co.jp

前回の番組も、従軍兵士たちの陣中日記や現場に居合わせた元兵士たちの証言、さらには各種の公的記録を突き合わせ、南京を占領した日本軍が行った大量虐殺の事実を否定し難い形で立証した優れたドキュメンタリーだったが、今回はそこから更に踏み込んで、日本中にはびこる歴史修正主義(=史実の改ざん・捏造)の検証を行った、すばらしい番組だった。

前回番組への唯一の「反論」だった自衛発砲説
前回と今回の番組で共通して扱われているのは、南京陥落(1937年12月13日)後の16・17日に揚子江岸で連続して行われた中国軍捕虜(一部一般市民も含む)の大量虐殺事件である。実行部隊は山田支隊(第13師団の一部)歩兵第103旅団歩兵第65連隊ほか、被虐殺者数は推定約1万5千から1万8千名。これは、南京大虐殺を構成する大小無数の虐殺事件の中でも、一度に行われたものとしては最大級の虐殺と言っていい。

番組でも紹介された、この虐殺に参加した日本兵の従軍日記にはこう書かれている。(文中のカタカナ書き部分はひらがなに変更。)

黒須忠信(仮名・山砲兵第19連隊第3大隊・上等兵)日記[1]:

拾二月拾六日 晴
 午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯〔蕩〕の目的にて馬風〔幕府〕山方面 に向ふ 、二三日前捕慮〔虜〕せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、自分も此の時ばが〔か〕りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
 山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひヽ〔し〕がん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった、(略)帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。

他にもこの事件を記録した従軍日記がいくつも残っており、それぞれ独立して書かれた日記の内容がよく一致していることから、この虐殺事件の存在と、これが軍命令による殺戮だったことを疑う余地はまったくない。

近藤栄四郎(仮名・山砲兵第19連隊第8中隊・伍長)日記[2]:

〔十二月〕十六日
(略)
 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本の様だ、お陰で随分酩酊した。
 夕方二万の捕慮〔虜〕が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
 月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光影〔景〕であった。

宮本省吾(仮名・歩兵第65連隊第4中隊・少尉)日記[3]:

〔十二月〕十四日
 午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃揚〔蕩〕すべく出発す、攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す、夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、直ちに警備につく、(略)捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、中には二、三日中食を採らぬ者もあり喝〔渇〕を訴へる者あり全く可愛想なるも戦争の上なればある程度迄断乎たる処置をとらねばならぬ 、(略)通訳より「日本軍は皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった、唯水と食料の不足で、全く平公〔閉口〕した様である。

〔十二月〕十五日
(略)
 夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて捕慮〔虜〕兵の給食は勿論容易なるものでない。

〔十二月〕十六日
 警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎〔束〕の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮〔虜〕兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。

〔十二月〕十七日(小雪)
 本日は一部は南京入場式に参加、大部は捕慮〔虜〕兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入場式に参加、壮〔荘〕厳なる史的光景を見〔目〕のあたり見ることが出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。
 中隊死者一傷者二に達す。

〔十二月〕十八日 曇
 昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付〔就〕く、起床する間もなく昼食をとる様である。
 午后敵死体の片付けをなす、暗くなるも終わらず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。

遠藤高明(仮名・歩兵第65連隊第8中隊・少尉)日記[4]:

十二月十六日 晴
(略)午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、(略)捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す。
 一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものヽの如し。

十二月十七日 晴
 幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差し出す、南京入場式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、(略)帰舎午後五時三十分、宿舎より式場迄三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、(略)風出て寒し。

十二月十八日
 午前一時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く、寒風吹き募り同三時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明けの待遠しさ言語に絶す、同八時三十分完了、(略)午後二時より同七時三十分まで処刑場死体壱万有余取片付けの為兵二十五名出動せしむ。

十二月十九日 晴
 前日に引続き死体取片付けの為午前八時より兵十五名差出す、(略)

これに対し、前回番組が放送された約1年後、産経新聞が反論を試みている。その際に持ち出したのが、日本軍はこれらの捕虜を解放する目的で揚子江岸に連れ出したのに、殺されると誤認した捕虜が暴動を起こしたためやむを得ず射殺したという「自衛発砲説」だ。

産経新聞(2016/10/19):

◆暴れる捕虜にやむなく発砲

 番組は昭和12年12月16、17日に南京城外の揚子江岸で、大量の捕虜が旧日本軍によって殺害されたと伝えた。この捕虜は南京郊外の幕府山を占領した歩兵第103旅団の下に同年12月14日に投降してきた大量の中国兵を指す。東中野は前掲の著書で、おおよそ当時の状況を次のように再現した。

 16日の揚子江岸での処刑対象は宿舎への計画的な放火に関与した捕虜だった。17日は第65連隊長、両角業作(もろずみ・ぎょうさく)の指示で、揚子江南岸から対岸に舟で渡して解放しようとしたところ、北岸の中国兵が発砲。これを日本軍が自分たちを殺害するための銃声だと勘違いして混乱した約2千人の捕虜が暴れ始めたため日本側もやむなく銃を用いた。

 17日には日本軍側にも犠牲者が出た。このことは捕虜殺害が計画的でなかったことを物語るが、番組はこうした具体的状況やその下での国際法の解釈には踏み込まなかった。

自衛発砲説のルーツを追跡し、戦犯逃れのために言い出された詭弁であることを立証
事件の体験者によってリアルタイムに書かれた一次史料である従軍日記には、捕虜が放火したという話も、中国側からの発砲も、捕虜の暴動も一切現れないことから、この自衛発砲説が成立し得ないことは明らかだ。しかし、今回の「南京事件II」ではそのレベルにとどまることなく、この説のそもそもの始まりにまで遡って、その正否を追求している。

ナレーション「ネットを中心に広がる自衛発砲説は、そのほとんどが、近年発行された本からの引用でした。」

ナレーション「それらの情報を遡ると、1970年から80年代に発行された本からの引用なのです。」

ナレーション「さらに年代を遡っていくと、1964年に出された一冊の本にたどり着きます。郷土部隊戦記。それは、南京に派兵された、あの65連隊の地元、福島県で出版された本でした。」

番組は第65連隊の地元、福島県会津若松市を訪ねる。そして、『郷土部隊戦記』出版のさらに2年前、1962年に地元紙「福島民友新聞」に連載された記事にたどり着く。

ナレーション「12月17日に捕虜を解放しようとして、思わぬ事態が発生、たちまち大混乱が起こった。いくら制止しても聞かず、恐怖を感じた兵は発砲するほかはない。部隊でも将校一人、兵六人が捕虜の群れに引きずり込まれて死亡した、と書かれていました。」

ナレーション「取材に応じていたのは、やはり両角連隊長、つまり、部隊の責任者が、自衛のための発砲だったと主張しているのです。」

さらに番組は取材を進め、両角連隊長の残したメモには17日の記事として「捕虜解放」の記載があるが、前日の16日に海軍倉庫で行われた数千人の銃殺については何の記載もないこと、また17日には連隊長自身は現場に行っておらず、現場で銃殺作業を指揮した第1大隊田山大隊長からは、戦後、戦犯訴追を恐れて「あれだけはしゃべらないでくれ」と箝口令が布かれていたことが明らかになる。

現場にいた兵士たちの証言:

さらに番組は、この連載記事を書いた阿部輝雄氏(両角連隊長から直接この話を聞いて記事にした唯一の記者)を訪ね、両角メモは戦後になって書かれたものであり、事件当時の一次史料ではないことを確かめている。

そして阿部氏自身も、今は、あの状況は「虐殺と言われても仕方がない」ものだったと述べている。

ナレーション「自衛発砲説。その根拠を遡っていけば、軍の責任者たちが、戦後に言い出した弁明でした。そして、戦犯になることを恐れた幹部たちの弁明を、一部の本やネットが引き写していたのです。」

卑怯な弁明は被害者を二度殺す行為
自衛発砲説は、抵抗の意志もその手段もない人々を一方的に虐殺しておいて、「お前たちが反抗したから射たざるを得なかったのだ」と、加害者が被害者に責任を転嫁する卑劣極まりない言説である。このような言説の横行を、決して許してはならない。

「自衛発砲説」に止めを刺したこの番組の意義は極めて大きい。前回の番組も含め、4年もの歳月をかけて旧日本軍の歴史的犯罪行為の実証に取り組んでこられた番組スタッフの皆さんに、改めて敬意を表したい。

[1] 小野賢二・藤原彰・本多勝一 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年 P.350-351
[2] 同 P.325-326
[3] 同 P.133-134
[4] 同 P.219-220

https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/19/220701
16:777 :

2022/05/29 (Sun) 13:59:47

2017-10-29
日本兵は赤ん坊を串刺しにしたか?
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/10/29/095521

日中戦争やアジア太平洋戦争において、日本兵が何の罪もない赤ん坊を銃剣で串刺しにした、という話が、日本軍の残虐性を象徴するエピソードとして語られることがある。

これは本当のことなのだろうか?

試しに「日本兵 赤ん坊 銃剣」といったキーワードでウェブを検索してみると、これは嘘だ、中国側のプロパガンダだ、と(例によって何ら根拠を示すことなく)主張するウヨサイトが続々と引っかかる。

だが、ネットde真実の皆さんには残念だろうが、どの程度一般的な行為だったかはともかく、日本兵がこのようなことを行った事例がいくつも存在したことは間違いないのだ。

被害証言(中国)
まずは、1932年9月16日に中国遼寧省北部で起きた平頂山事件の際の事例。これは、前日に起きた抗日ゲリラによる撫順炭鉱襲撃事件との関係を疑った日本軍守備隊が、炭鉱に隣接する平頂山集落の住民約3000名をほぼ皆殺しにした大虐殺事件である。日本軍は、まず住民を近くの崖下に集めておいて、包囲した部隊が機関銃で銃撃を加え、生き残った住民は銃剣で刺殺し、さらに遺体を焼いた上、崖を爆破して事件の隠蔽を図った。

この事件で奇跡的に生き残ったうちの一人、韓樹林さん(事件当時12歳)が次のような体験を語っている[1]。

 二度目の掃射が終わると、兵隊たちは銃剣をかざして死体の山に近づいた。思い思いに、死体を蹴とばしたり、銃剣で刺したりしながら、折り重なった死者たちの上を歩いてくる。生存者がいるかどうか調べているのだ。韓さんはこのとき、上半身は表面に出ていたが、下半身は誰かの死体の下に埋まっていた。父親は頭と両足先が表面で、胴と大腿部あたりはやはり誰かの死体の下だった。

 「動くな」と、父が韓さんに小声で、鋭く言った。兵隊たちが近づいてきた。薄目をあけてみると、生き残りの女子供たちが、次々と刺されたり銃口をあてて撃たれたりしている。韓さんから数メートル離れて、一人の赤ん坊が、死んだその母の乳房に抱きついて泣いていた。兵隊はこの乳児を銃剣で突き刺すと、そのまま空中に放り上げて捨てた。そのすぐ近くに妊婦が死んでいた。別の兵隊が銃剣でお腹を切開し、何かをとりだした。他の兵隊たちの笑い声がきこえた。

 とうとう韓さんと父親のところへも来た。二人はじっと死んだふりをしていた。兵隊は父の上になっていた誰かの死体を銃剣で突き刺した。剣は死体を貫通し、さらに父の大腿部まで突き通った。父は激痛を耐えて黙っていた。兵隊は通りすぎた。小柄な子の韓さんは、幸い“テスト”の目こぼしになった。

次は日中全面戦争が始まった1937年秋、上海近郊の農村で起こった事件を、生き残った弟(事件当時11歳)から聞いた姉が語った内容[2]。

 目的(注:強姦)を達した日本兵たちは、全員に向かって「ここを離れるな。逃げたりすると命はないぞ」と言い残し、その日は引き揚げた。しかし隣家の逃げおくれていた人びとは、強姦された娘も含めてその夜のうちに逃亡した。あくる日、またしても同じ顔ぶれの日本軍が現れた。娘が逃げたことを知ると、金さん一家全員を外庭へ出した。一列に並べた。銃剣をつけ、弾丸を装填した。

(略)

 このとき弟は、列の一番端にいた。(略)隣りに母がいた。十数人の兵隊たちは、一部は家の中を略奪しており、他の家族らを取り調べるなどうろうろしていて、一瞬の盲点があった。母が小声で、しかし鋭く「早く逃げて」といった。弟は走った。100メートルほど離れて川があり、その手前に池がある。池をかこむ草むらにとびこんだ。小柄な子供の脱出は、さいわい兵隊たちの目にとまらなかった。弟は草むらの中から様子を見守っていた。

 殺人の用意を終えた兵隊十数人は、一列に並べた16人に対して一斉に襲いかかった。ある者は剣で突き、ある者は発砲した。(略)女子供のほとんどは銃剣で刺し殺された。とくに前日強姦された従兄の嫁は、あとで見ると衣服を全部はぎとられ、腹をたち割られていた。

 皆殺しが終わると、兵隊たちは家に放火した。引き揚げる前に、一人の兵隊は死体を調べて、生存者がないかと確かめた。生後4ヵ月の赤ん坊はオムツにくるまっていたが、蹴とばすと泣きだした。兵隊は片手でつかみあげた。ひも一本で結ばれている赤ん坊の着物は、ぱらりと落ちて裸になった。兵隊は泣きさけぶ子を地面にたたきつけると、銃剣で突き刺した。背中から腹に貫通した。そのまま、銃剣の先に赤ん坊を串刺しした形で、肩にかついだ。日本軍の一行は、号令とともに整列し、号令とともに出発した。赤ん坊をかついだ兵隊は、隊列の最後尾に加わった。赤ん坊はまだ生きていて、串刺しにされたまま動いている。軍歌をうたいながら、隊列は去った。

証言者の金月妹さんは、この事件で父母を含め、家族・親戚17人を殺されている。

被害証言(フィリピン)
フィリピンでも、日本軍による同様な残虐行為についての証言がある。こちらは大戦末期の1945年2月、バタンガス州アンチポロでの事例[3]。

 その夜は、朝めしを食べに行く食堂の夫婦に、夕食に呼ばれた。(略)

 この家の夫人は、パミンタハンの虐殺当時、アンチポロの集落に住んでいた。1945年2月27日、男たちがカルメルの神学校に行った後の午前10時頃、日本兵はバランガイ(注:村)に男たちが残っていないかどうか、家々を回って捜しにやって来た。

 「私たちは日本兵が恐いんで、30人位の女や子どもたちが一つの家に集まって震えていたのよ。そこに二人の兵隊がやって来て、戸を開けたの。恐くって子どもたちが泣き出した。私も泣いたわ。特に一人の赤子が烈しく泣き続けたのよ。すると日本兵が怒り出し、母親から赤ん坊をひったくると上に投げたの。それを別な兵隊が銃剣で突き刺したのよ」

 「それ、ほんとうに目撃したの?」

 私は思わず聞き返した。

 「見たわよ、ほんとうに。そして、深井戸に投げ込んだの。私も母親と一緒だったけど、泣きやまなかったので、深い傷ではなかったけど、ここを突かれたの」

 彼女は、左胸の上をブラウスの上から指先で示した。

 「痛いよりも恐かったわ。後で痛みを感じたけど、あの時は恐くて恐くて。日本兵が来るとすぐ逃げて、物陰からそっとのぞき見したものよ。全部で十人は突かれて傷ついたはずよ」

こちらは同年3月、同州ブリハンで起きた集団虐殺事件の中での事例[4]。

 マリシリーノ・マガリンさんは、7歳で戦争孤児になった。1945年3月4日で、パミンタハンの大虐殺から数日後のことだ。

(略)

 「家族は、両親と兄弟姉妹の11人だった。ルンバンのバランガイに住んでいたけど、アメリカと日本の戦争が激しくなってきたんで、ブリハンに疎開していた。そこに日本兵が来て500人位の人たちを、夜の8時頃に谷川の近くの広場に連れて行った。最初に、赤ん坊が放り上げられて殺されたんだ」

 「ほんとうに目撃したんですか?」

 よく耳にすることなので、思わず聞き返した。

 「ほんとうですよ。その夜は月夜だったんです。日本軍はみんなに列を作るように、大声で言った。でも、子どもたちは異様な雰囲気におびえて泣きだした。私も泣きましたよ。兵隊は目をつり上げて恐い顔をしていたが、激しく泣く赤ん坊を母親からひったくると、突き殺して川の方に投げてしまった。

 子どもが泣き、大人たちが悲鳴を上げる中で、5人位ずつ殺し始めた。私は兄や姉たちと一緒に銃剣でやられた。その前に私はジュウドウで倒されて、後ろから突かれた。

 日本兵はみんなを殺してしまうと、死体の上に枯れたココナツの葉をかけたんで、火をつけられやしないかと思った。

 気がついたら、朝だった。日本兵がやって来て、まだ生きている人がいると、銃剣で殺していった。

 私は死んだふりをしていたけど、すぐ上の姉は日本兵を恐がって逃げ出そうとしたんで、本当に殺されてしまった。

 日本兵が行ってから、ゆっくりゆっくり這い出した。疎開して誰もいない小さな家にたどりついた。(略)

 その後で、知り合いの人に助けられた。医者も薬もないから、ココナツオイルとからしを傷につけておくだけだった。元気になったのは一年後だった。ヤシ油とからしだけでは、背中から胸に突き抜けた銃剣の傷が治らないので、アメリカ軍はマニラのジェネラルホスピタルに運んで治療してくれた。病院に6ヵ月入院してましたよ。

こちらは同年4月から5月にかけて、マニラ東方インファンタ地区一帯で「ゲリラ討伐」と称して行われた住民虐殺の中での事例[5]。

 バランガイ・キャプテン(注:村長)の家の近くで、油気のないぼさぼさ髪の主婦のソンニャ・ポハルテさんに会った。

 「私が7歳の時でしたよ、日本兵がここで虐殺したのは……。うちでは、母と妹三人に弟一人が殺されたんです。母は妊娠していたから、もう一人殺され、残ったのは父と私だけでした。

 日本軍はココナツの枯葉を燃やし、明かりの代わりにして家に来ると、眠っていた一歳の弟を足でけり、上に放り上げて銃剣で突き殺した。驚いて、父と私は飛び出して逃げたけど、後の者はみんな殺されてしまった。私は父とばらばらになって湿地に逃げ込んで震えていましたよ。父と会ったのは一週間後でした。その後で、ポレリオにボートで疎開したの。

 母や妹たちが急にいなくなったから、ときおり、思い出して泣きましたよ。妹と口げんかをよくしたけど、にぎやかな家が急に寂しくなってしまったの」

 「近所の人から日本人のあんたが来たと知らされた時は、また殺しに来たんじゃないかと思って、びっくりしたわ。昔の日本兵は残酷だったから恐くって恐くって。長い間恨みました。なぜ母を殺したんだと……」

加害証言
「赤ん坊の串刺し」を証言しているのは被害者側だけではない。加害者である日本軍側の証言もある。これは1937年12月、南京攻略戦途上の行軍中に起きた事件についての、陸軍第6師団輜重兵小隊長による証言だ[6]。

 約二十日ほど航海して、やがて杭州湾沖に停泊、杭州湾上陸作戦の開始となった。第一線部隊は上陸後、上海を占領。輸送部隊は上海へ迂回して上陸した。軍需物資、その他の装蹄準備に約一週間を費し、昭和12年11月30日に、南京へ向けて不眠不休の強行軍を開始した。

(略)

 約二十日間、輸送船の中で過ごし、消耗した直後の行軍であったため、兵も倒れんばかりであり、乗馬もことごとく輓馬に転用のやむなきにいたるほどの状態であった。

 まったく、兵と馬の疲労はその極に達していたのだ。将校の乗馬も、落伍者のために使われ、徒歩を強要されることもあった。

 兵は、過労と病気でつぎつぎと倒れていく。そして、兵が少なくなっても補充兵もなく、輸送は過重を強いられ、困難をきわめた。

 南京までの途中、通過する部落は、そのほとんどの家々が破壊され、焼き払われ、道路には敵兵の死体だけでなく、民間人の死体も数えきれないほどころがっていた。

(略)

 途中にころがる無数の死体の中でも、とくに婦女子の死体には、下腹部に丸太棒をつき刺してあり、目をそむけたくなるような光景であった。

 日本軍の急進撃のため、路傍に取り残されて泣いている赤ん坊がいた。母親が殺されたのか置いて逃げたのかわからないが、一人ぽつんと残されていた。その子を歩兵の一人が、いきなり銃剣でブスリと、串刺しにしたのである。

 赤子は、声を出す間もなく、即死した。

 突き刺した兵は、さらに、刺したまま頭上に掲げた。それも誇らしげに……。「やめろ」という間もない、アッという間の出来事であった。

 つねに、最前線をゆく兵士としてみれば、戦友の戦死等により、毎日が、生と死の間に身を置く状態である。自然と気も荒くなり、また、敵慌心も増すのであろう、死骸に対して、あるいは無抵抗の民間人に対して、さらには赤ん坊にまで目をそむけたくなるような仕打ちをしていく。

 だが、注意しても聞くような兵たちではなかったし、そのような状況ではなかったのだと思う。このように、行軍中あらゆる場所で、悲惨な状況が繰り広げられていた。

ちなみに、この証言が載っている『揚子江が哭いている』では「赤ん坊の串刺し」以外にも様々な残虐行為が告白されているが、同書のあとがきによれば、「これ以上は話せない」とか、「これが本になるのなら、やはり私は退かせて頂きたい」と取材を拒否されることも多かったという。加害証言が表に出るのは極めて稀有なことであって、語られないままに墓場に消えていった残虐事件が無数にあったことを忘れてはならない。

[1] 本多勝一 『中国の旅』 朝日文庫 1981年 P.105-106
[2] 同 P.199-202
[3] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年 P.240-241
[4] 同 P.274-276
[5] 同 P.384-385
[6] 創価学会青年部反戦出版委員会 『揚子江が哭いている ― 熊本第六師団大陸出兵の記録』 第三文明社 1979年 P.92-94

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/10/29/095521
17:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:00:14

2018-11-03
歴史学者を唸らせた素人
https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/11/03/122428
東中野修道の史料批判が立派?

自分はこんなに専門家の書籍や歴史資料を読んでいるし、厳密な史料批判のもとでマンガを描いているのだと小林よしのりは自慢する(BLOGOS 10/24)。確かに、歴史は歴史学者だけの専有物ではないし、史料批判で専門家の鼻を明かす素人がいてもおかしくはない。

ただし、小林よしのりにそれができるかと言えば、こんなことを書いていることからしてまあ無理だろう。[1]

 わしが今のところ東中野修道氏の『南京虐殺の徹底検証』を最も支持する理由は、何も個人的心証を元にしているわけではない。あくまでもこの歴史学的な見地における「史料批判」の文脈からなのである。(略)

東中野はこの著書『「南京虐殺」の徹底検証』で、一家九人のうち自分と妹一人を除く七人を惨殺された(自らも銃剣で刺され負傷した)夏淑琴さんを「ニセ被害者」呼ばわりしたあげく、名誉毀損で告訴され敗訴している。(2009年2月5日、最高裁が被告側の上告を棄却し敗訴確定。)

この裁判の東京地裁判決では、東中野の学問研究の姿勢について、次のような厳しい指摘がなされた。[2]

(略)判決では、東中野が書いた結論について、「通常の研究者であれば上記の不合理性や矛盾を認識し、再検討して他の解釈の可能性に思い至るはずであるが、被告東中野はこれらには一切言及しておらず、被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとはいえない」と指摘し『「南京虐殺」の徹底検証』を「学問研究の成果というに値しない」とまで明言している。つまり、南京事件の否定派の中心的論客である東中野は「通常の研究者」が行うような当たり前の検証をおこたっており、彼の著作は「学問研究の成果」とはいえないと断罪されたわけである。

裁判の判決に、わざわざ「学問研究の成果というに値しない」などと書かれる歴史学者というのも珍しいだろう。そんな東中野を高く評価するというのだから、小林の「史料批判」理解の程度も分かろうというものだ。

ちなみに、東中野の方法論のどこがダメかについては、笠原十九司氏が次のように明確に指摘している。[3]

 東中野の方法は、「大虐殺派」が根拠にしている史料に「一点でも不明瞭さ、不合理さ」が発見できれば、「大虐殺派」のつかっているのが四等史料、五等史料にすぎないことが「検証」できるというのが「徹底検証」の論理なのである。そこで「南京大虐殺派」の歴史書に使われた史料や証言を「一つ一つしらみつぶしに調べ」それが「一点の不明瞭さも不合理さもないと確認されないかぎり、(南京虐殺があった)と言えなくなる」、つまり「(南京虐殺はなかった)という間接的ながらも唯一の証明方法になる」としているのである。
 史料の一つ一つには不明瞭、不合理なものがあっても、他の史料と照合しながら史料批判をおこない、それでもこの史料からこのことは証明できる、とするのが歴史学の方法であるが、東中野にはわかっていない。というより、「南京大虐殺派」の研究を正面から批判できないので、膨大な引用史料の一つでも批判できれば全体の信憑性が批判できるという否定のための否定の方法をつかっているのである。

歴史学者を唸らせ反省させた小野賢二氏の業績
ところで、近現代史の専門家たちを唸らせ、反省させた素人は実在する。NNNドキュメント『南京事件 兵士たちの遺言』『南京事件II 歴史修正を検証せよ』でも紹介された「化学労働者」小野賢二氏である。吉田裕一橋大学助教授(当時)が次のように書いている。[4]

 このような現実(注:公的記録の組織的廃棄・隠蔽・表現の歪曲等)があるため、戦争犯罪を立証するためには、その犯罪の直接の実行者であった人々の記録を調査することがきわめて重要なこととなる。南京事件に即していえば、第一線の小・中隊長クラスの下級将校、下士官や兵士の陣中日記や回想録などの諸記録である。ところがこのような記録類は基本的には個人の記録であるため、国会図書館・公文書館・防衛庁戦史部などの公的史料館に保存されている例はほとんどない。その多くは個人の手に残されたままで、いわば「死蔵」されているか、本人や遺族の手で処分されている可能性が高いのである。
 各種の史料館に保存されている公文書などの文献史料だけに基づいて研究をすすめるというスタイルが体質と化してしまった私たち「職業的」訓練をうけた「専門研究者」の場合、このような現実に直面した時点で、まるで金しばりにあったように足がとまってしまう。個々人の、それも誰とも特定できない人々が所持している資料を探し歩くなどという気が遠くなるほどの労力と気力を要する非効率的な作業を想像しただけで足がすくんでしまうからである。
 小野賢二さんは、私たちが跳びこえることもせず跳びこえようともしなかった大きな溝を実に淡々と踏みこえていった。戦友会の名簿をほとんど唯一の手ががりにしながら、二◯◯名近い元兵士の人々を次々に訪ね歩き、その中から第六五連隊による捕虜の虐殺を確実に立証する陣中日記などの重要資料を発掘していったのである。
 小野さんの仕事は、南京事件の実態解明に大きな貢献をしただけでなく、ともすれば文献史料至上主義におちいりがちな私たち研究者のあり方をも鋭く問うものになっているように思う。

小野氏の業績とその意義については、いくら強調しても強調し足りないほどだ。

消えていく記録と記憶
その小野賢二氏が、南京大虐殺関連の陣中日記を探し求める過程で遭遇した、こんなエピソードを書いている。[5]

 こんなことがあった。ある資料で陣中日記の存在は分かっていた。だが住所や存命しているかどうか、所属中隊も分からなかった。諦めていた頃、偶然ある当事者から名前が飛び出した。住居を探し出し、生存していることも分かった。
 そのS氏は快く受けいてくれたが、捕虜虐殺の事実は最初から否定した。行き場をなくした俺は仕方なく陣中日記の件を切り出してみた。自分で書いた陣中日記の存在すら忘れていたようだ。本人は何を言っているのだという顔をした。俺は再度関係者の名前を出してみた。S氏ははっと気がついたらしく奥の部屋に引きこもったままなかなか出てこない。ようやく出てきたS氏が持ち出してきた大きな段ボール箱には戦争中の資料がびっしり詰まっていた。その中に陣中日記が三冊含まれていた。
 ところがである。関連部分を読んでいたS氏は突然、陣中日記をぱたっと閉じてしまい、「俺は絶対だれが何と言おうとこれは見せられない。絶対みせられないんだ」と自分に言い聞かせるように言って、再び段ボール箱にその陣中日記をしまい込んでしまった。その後、何度か交渉を試みたが、拒否され続けている。
 自分の書いた陣中日記で虐殺情景を蘇らえせたS氏の表情に、見てはならないものを見てしまったと俺は思った。

80年の時を経て、体験者のほとんどは既に亡くなっており、彼らの死とともにその記憶も消えている。小野氏のような人々が探し出した記録も、当時書かれたもののほんの一部でしかなく、また書かれたものをすべて合わせても、当時実際に起きたことのほんの一部でしかないことを忘れてはならない。

[1] 小林よしのり 『歴史を歪めるのは誰か 学者・知識人へのわが一撃!』 正論 2000年6月号 P.72
[2] 俵義文 「政治家・メディアと南京事件」 戦争責任研究 2007年冬季号 P.57
[3] 笠原十九司 『南京事件論争史』 平凡社新書 2007年 P.247
[4] 吉田裕 「兵士たちの陣中日記――小野賢二さんの仕事」 週刊金曜日 1993年12月10日号 P.7
[5] 小野賢二 「南京事件の光景――歩兵第六五連隊兵士の『陣中日記』を追って」 週刊金曜日 1993年12月10日号 P.12-13

https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/11/03/122428
18:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:00:53

2017-01-28
ヘイト番組『ニュース女子』でも使われた「取材もどき」は史実否定派の伝統芸
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/01/28/132750
放送法違反のヘイト番組「ニュース女子」
井上和彦による沖縄現地「取材もどき」
南京大虐殺否定本の「取材もどき」
放送法違反のヘイト番組「ニュース女子」
年明け早々の1月2日に流された、TOKYO MXテレビ『ニュース女子』はひどかった。

番組冒頭から沖縄の基地反対運動を誹謗中傷するデマの連続。そのひどさは、このパートの終りまで1分たりともデマのない部分はなかったと言っていいほどだ。明らかに放送法第4条3項「報道は事実をまげないですること」に違反している。こんなヘイト番組が公共の電波を使ったテレビで流されるなど、到底許されることではない。

番組内で垂れ流されたデタラメを逐一指摘していったらきりがないので、それは以下のようなまとめを見ていただくことにして、ここではこの番組で行われた「取材」を取り上げることにする。

togetter DHCが提供する最凶ネトウヨ番組「ニュース女子」、地上波で沖縄ヘイト:前編
togetter DHCが提供する最凶ネトウヨ番組「ニュース女子」、地上波で沖縄ヘイト:後編
togetter DHCが提供する沖縄ヘイトの最凶ネトウヨ番組「ニュース女子」が「検証」でデマ隠し
NAVERまとめ TOKYO MX「ニュース女子」が沖縄ヘイトデマを垂れ流すなどひどかった模様
NAVERまとめ TOKYO MX「ニュース女子」が沖縄ヘイトデマ垂れ流しで炎上した件のその後
NAVERまとめ のりこえねっとがニュース女子への抗議文公表。この機会に沖縄ヘイトの一つである日当デマについて解説
井上和彦による沖縄現地「取材もどき」
この回で沖縄を「取材」してみせたのは自称「ジャーナリスト」の井上和彦だ。しかし、井上の「取材」はまったく信用に値しない。たとえば井上は、シンガポールを取材し、現地で見たという山下泰文大将の銅像や戦跡記念碑を根拠に、シンガポールなどアジア各国は日本が「アジア独立のために戦ってくれた」ことに感謝している、と主張している[1]。しかし、これがデタラメであることは現地を確認した山崎雅弘氏やシンガポール在住のうにうに氏の検証[2][3]を見れば一目瞭然だ。(この件については私も以前関連記事を書いた。)

今回の『ニュース女子』でも、井上は東村高江のヘリパッド建設現場から約40Kmも離れた二見杉田トンネル(名護市)手前で車を停め、反対派の暴力が危険だから現場に入れないという、虚偽のアピールをしている。

井上:えー、二見杉田トンネルの手前までやってきたんですけれども、ここはですね、辺野古よりさらに北のほうにに来たところなんですけれども、実はですね、このトンネルをくぐっていきますと、米軍基地の高江、ヘリパッドの建設現場ということになります。

ニュース女子

井上:実は、ここに来る前に、ほうぼうからですね、今ここは、ちょっと我慢してほしいと…

ナレーション:高江に向かっているロケの途中、地元関係者から、高江ヘリパッド建設現場が緊迫してトラブルに巻き込む可能性があるので、今回の撮影を中止すべきだ、との要請があり、残念だが井上さんにはロケを断念してもらうことに。

井上:このトンネルの手前で、私は、はるばる羽田から飛んできたんですけど、足止めをくっているという状況なんですよ。

ニュース女子

二見杉田トンネルから高江の現場までは、車で普通に走っても1時間かかる。取材と言いつつ実際には現場に近寄りもせず、虚偽の情報を流して印象操作をする。井上の「取材」は、視聴者にリアリティを感じさせて説得力を増すための手段でしかない。ちなみに、ロケ断念の映像を撮る場所としてここを選んだのは、暗く長いトンネルが「異界への入口」的な印象を与えることを計算した上でのことだろう。

南京大虐殺否定本の「取材もどき」
しかし、自称「ジャーナリスト」によるこの手の「取材」は、井上の発明品ではない。たとえば40年以上も前の『「南京大虐殺」のまぼろし』で、鈴木明が同じようなことをしている。

南京攻略戦の途上で百人斬り殺人競争を行った向井・野田両少尉は、戦後、国民党政府により戦犯として裁かれ、処刑された。『「南京大虐殺」のまぼろし』は、この百人斬り競争が新聞記者によるでっち上げだったかのように印象づけることでこれを否定し、そうすることで南京大虐殺自体をも「まぼろし化」しようとした否定本である。



鈴木は、台湾の現地取材を行って両少尉に死刑判決を下した南京軍事法廷の石美瑜裁判長(当時)にインタビューし、次のように書いている[4]。

 目ざす石裁判長を訪問することのできたのは、帰国する日の昼頃であった。わずか四日間の滞在中に、台湾人のインテリであるSさんが、実に物凄い熱心さで石氏と推氏の消息をたずね、そしてツテからツテを求めて紹介状をもらってきてくれたのである。(略)

 石氏は、想像していたような尊大な人物では決してなかったが、「南京事件」ときくと、やはり一瞬顔をこわばらせた。しかし、僕が、「向井少尉ゆかりの者である」という説明をすると、彼は直ちに「おお向井、よく憶えている。大きな軍人、いつも堂々としていた」と日本式の敬礼のジェスチュアをし、それから北京語でペラペラと話しはじめた。

 通訳のRさんは、石氏の北京語について行こうと必死だった。(略)

 残念ながら、わからないのである。しかし、僕は「わかりません」とはいえなかった。それをいえば、全然話が進まないのである。石氏は食事を交えて、二時間余りも、僕の為に時間を割いた。「ミスター向井の息子なら大きいだろう」というところはわかった。だが、こと裁判のことになると、全く細かいことは理解できないのである。(略)

 僕の唯一の武器は、小型のテープレコーダーであった。東京に持ち帰ったテープを解読するのに、実はまた時間がかかった。北京に二十年居たという中国語の先生も、このテープをきいて「この、ひどい上海訛は私にはわかりません」と匙を投げたのである。結局、これを解読してくれたのは、上海生れの日本語のできる在日華僑であった。

        「国のために死んだのです」

 テープの中で、石氏はこういっていた。

 「終戦のとき、中国には百万位の日本軍がいたが、約二千人の戦争犯罪人を残して、すべて帰国させた。しかも、その二千人の中で実際に処罰されたのは数百人で、死刑になったのは、数十人である。(略)この百人斬り事件は南京虐殺事件の代表的なもので、南京事件によって処罰されたのは、谷中将とこの三人しかいない。南京事件は大きな事件であり、彼等を処罰することによって、この事件を皆にわかってもらおうという意図はあった。無論、私たちの間にも、この三人は銃殺にしなくてもいいという意見はあった。しかし、五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定されたし、何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた。私個人の意見は言えないが、私は向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えたことだけはいっておこう。彼は自分では無実を信じていたかも知れない。彼はサムライであり、天皇の命令によりハラキリ精神で南京まで来たのであろう。先日の横井さんのニュースをきいた時、私はこれら戦犯の表情を思い出した。

(略)

 昔中国は日本と戦ったが、今はわれわれは兄弟だ。われわれは憶えていなければならないこともあるし、忘れなければならないこともある。最後に、もし向井少尉の息子さんに会うことがあったら、これだけいって下さい。向井少尉は、国のために死んだのです、と――」

鈴木が台湾「取材」をした翌年(1973年)、ジャーナリストの和多田進が同じく台湾に渡って石氏にインタビューし、検証取材を行っている[5]。同じ人物へのインタビューなのに、そこから受ける印象はまったく違う。

 私は『「南京大虐殺」のまぼろし』が単行本になって発売された1973年、台湾に行って鈴木氏の本にも出てくる石美瑜氏(南京裁判の判事のひとり)にインタビューしました。石氏のほか、『還俗記』という著書をもつ元軍人、鈕先銘氏にも会って、南京陥落当時の話を聞きました。

(略)

 私の通訳には、台湾政府の新聞司の人が当たってくれました。台湾生まれの人でしたが、上海なまりがひどいと鈴木氏がいう石氏との会話に、なんの不自由もありませんでした。石氏の話によって、鈴木氏が身元をごまかし、取材目的も告げずに会っていることがわかりました。これではインタビューは成立しないはずです。石氏の事務所での小一時間ほどのインタビューにおける石氏の発言を要約して書けば以下のようになります。

 (略)

 (3)――南京裁判は、裁かれる人間の地位・階級に関係なく、事実によって処理されました。確証に重点をおき、証拠があって逃れようのない者だけを有罪にしました。

 (略)

 (5)――鈴木明という日本人を私は知りません。『「南京大虐殺」のまぼろし』という本も私は読んでいません。

 (6)――昨年(1972)、向井か野田の息子の友人だという人物か、息子本人か、詳しいことは忘れたが、そういう日本人が私を訪ねてきたことは記憶しています。

 (略)

 (10)――殺人については彼ら(注:向井・野田両少尉)は否定しました。戦争だから人を殺すのは仕方ないのだと二人は主張しました。

 (11)――二人は夫子廟までの間に「百人斬り」競争をしたと記憶するが、これは明らかに戦争の範囲を逸脱していました。

 (12)――裁判で明らかになったことのひとつは、「百人斬り」競争に際して、二人はブランデーを賭けていたということです。

 (13)――二人の家族にも言ってもらいたいことだが、中国人はこの戦争でおそらく1000万人も死んでいるだろうということだ。もし証拠がなくても処刑できるのだということになれば、日本の軍人はすべて処刑しなければならないということになるだろう。しかし、われわれは報復主義はとらなかったということです。

 (略)

 もうこのくらいでよいだろうと思います。通訳もきちんと用意せずに台湾まで出かけ、南京事件を「まぼろし」にしようというのですから、大変な度胸というほかはないと思います。(略)

 実は、台湾には南京事件当時を語ることができる元軍人がまだ何人も生存しているのです。鈴木氏は、台湾に四日間も滞在して石裁判官にしか会っていないのでしょうか。もし本当に南京事件の真相、「百人斬り」の真相を究明したかったのなら、そうした元軍人たちに対する取材こそ不可欠だったのではないかと思うのです。「過去現在のマスコミのあり方に対」して怒る(あとがき)のは結構ですが、ごく普通のマスコミやジャーナリストならばこの程度の取材は常識なのです。

 とにかく、鈴木氏の台湾取材はズサンのそしりをまぬかれぬものだと思います。私程度のジャーナリストでも、この程度のことはやっています。

主張にリアリティを与えるためだけに行う恣意的な「取材もどき」は、昔からの史実否定派の伝統芸なのだ。もっとも、鈴木明と井上和彦を比べてみれば明らかなように、この分野でも彼らの質の劣化は激しい。
 
[1] 『「アジアの日本評価を知るべし」シンガポールに山下大将像 比では特攻隊式典も ジャーナリスト井上和彦氏』 産経West 2016.2.17
[2] togetter シンガポールと「大東亜戦争」と「昭南島」について 《山崎雅弘》
[3] 今日もシンガポールまみれ 井上和彦氏「日本が戦ってくれて感謝しています」をシンガポールで検証する
[4] 鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋 1973年 P.103-106
[5] 和多田進 『鈴木明氏の「取材」を取材する』/藤原彰・本多勝一・洞富雄編 『南京事件を考える』 大月書店 1987年 P.194-197

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/01/28/132750
19:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:01:23

2018-05-27
「南京大虐殺」への脊髄反射で飛んできたクソリプを観察する
https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/27/102619

南京大虐殺の最中にも日本兵が赤ん坊を串刺しにした事例があったよ、という記事を書いてTwitterでつぶやいたところ、さっそくクソリプが飛んできた。

半年ほど前、もっと多くの事例について書いたこちらの記事には反応がなかったので、恐らく記事タイトルに入っている「南京大虐殺」に脊髄反射して飛ばしてきたのだろう。


面白いので、果たしてどんな文句をつけてきたのか観察してみた。

呆れたねぇ。バトルオブチャイナの空飛ぶ赤子を串刺しするシーンを本当に信じてるのかねぇ。このような【証言】が【根拠】にならない事は、【当時儂は南京戦で戦っていた】と書いて居ることと均しいのだがねぇ。やれやれ。 https://t.co/NAbZyJHcPI

— sibuta (@subutano) 2018年5月23日
バトルオブチャイナ?なんて見たこともないし、日本兵側の証言もあれば中国以外の事例もあるのでそんなもの関係ないのだが、恐らくこれしかケチをつけるネタが見つけられなかったのだろう。

ところで、実は下のように「昔見た映画のシーン」を根拠に「便衣兵ガー」とわめいている人が実際にいるのだが[1]、こちらには抗議しなくていいのだろうか?

昔見た映画のシーンに こんなのがあった

日本兵が大陸の田畑の中の道を歩いていると……

むこうから来る農民とすれ違う

気軽にあいさつを交わし たわむれに作物をかじる

すれ違ってしばらく経った時…

後ろから農民たちが撃ってくるのだ!

彼らは農民に化けた便衣兵だったのだ!


他にはこんなリプも。


撫順や太原での抑留を経て戦争犯罪の認罪に至った中帰連の人たちは南京戦など経験していない(ので告白もしていない)のだが、この人は何を言っているのか?


日本兵が赤ん坊を殺した事例が一つあったと指摘すると、南京では赤ん坊を皆殺しにした(と主張している)ことになるらしい。

「呆れたねぇ」はこちらのセリフである。ネトウヨというのは、本当に教育の失敗事例としか言いようがない。

[1] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.118-119

https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/27/102619
20:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:01:50

2016-12-30
小林よしのり徹底批判(10)南京には便衣兵などいなかった
https://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/30/113911
南京に便衣兵がいないと都合が悪い右派たち
小林が言う「便衣兵」は単なる敗残兵
【卑劣】助命すると言って投降させた捕虜を殺した日本軍


南京に便衣兵がいないと都合が悪い右派たち
「便衣(biànyī)」とは、中国語で軍服ではない民間人の服装を指す。つまり「便衣兵」とは、平服を着たまま戦闘行動を行うゲリラ兵を意味する。

しかし、当時の南京にゲリラなどいなかったことは、南京大虐殺について多少なりとも調べたことのある人にとっては常識と言っていいだろう[1]。

(略)「便衣兵」とは民間人の平服を着用して、単独または小グループでゲリラ的な戦闘行動をおこなう戦闘者のことで、民兵や義勇隊もこれに属した。上海戦においては市民や学生も抗日戦に参加し、そのような「便衣兵」や「便衣隊」が存在したが、南京においては、そうした民衆の側の武装組織はなかった。南京で日本軍が「便衣兵」とみなしたのは、戦闘意欲を失って武器と軍服を捨てて市民や難民のあいだに逃げこんだ敗残兵であって、本来の「便衣兵」ではなかった。

ところが小林ら右派は、何とかして南京にも便衣兵がいたことにしようとする。それはそうだろう。南京における虐殺被害者の大きな部分を「便衣兵狩り」で狩り出された敗残兵や兵士と誤認された民間人が占めている以上、南京にも便衣兵がいた(そして日本軍に脅威を与えていた)ことにしなければ、大虐殺の存在とその犯罪性を否定しようがなくなるからだ。

小林が言う「便衣兵」は単なる敗残兵
では、どうやって南京における「便衣兵狩り」被害者の殺戮を正当化するのか、『戦争論』における小林の手法を見てみよう。これがなかなか傑作なのである。

まず小林は、徹底的にゲリラを卑怯者扱いする[2]。

この戦いは 近代戦の歴史の中でも 日本が初めて経験した 便衣兵との戦いであった

便衣兵――つまりゲリラである

軍服を着ていない 民間人との区別がつかない兵である

国際法では ゲリラは殺してもよい

ゲリラは 掟破りの卑怯な手段だからである

もちろん国際法はゲリラは卑怯だから殺してよいなどとは言っていないのでこれだけでも噴飯モノなのだが、次はもっとすごい。

昔見た映画のシーンに こんなのがあった

日本兵が大陸の田畑の中の道を歩いていると……

むこうから来る農民とすれ違う

気軽にあいさつを交わし たわむれに作物をかじる

すれ違ってしばらく経った時…

後ろから農民たちが撃ってくるのだ!

彼らは農民に化けた便衣兵だったのだ!

それって、映画だろう…(呆

だったら逆に、中国の抗日映画に出てくるシーンを根拠に日本軍の残虐性を主張したら小林が何と言うか、聞いてみたいものだ。

そして、これもデタラメな呉淞桟橋での襲撃事件などでさらにゲリラへの憎悪を煽っておいて、南京での「便衣兵」をこう描写する[3]。

あの南京事件の時 国民党軍の兵がどんな有様だったのか 「ニューヨーク・タイムズ」のダーディン記者が記事にしている 次のように…
 
 一部隊は銃を捨て軍服を脱ぎ 便衣を身につけた。
 記者が十二日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。
 多くの兵士は下関シャーカンに向かって進む途中で軍服を脱いだ。
 小路に走りこんで便衣に着替えてくる者もあった。
 中には素っ裸となって 一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた。
 軍服とともに武器も遺棄されて 街路は小銃・手榴弾・剣・背囊・軍服・ヘルメットでうずまるほどであった。
 
兵が同胞の一般市民の服をはぎ取って化ける!
なんという卑劣さ…!

「卑劣」もなにも、引用されている記事の中身を見れば、兵たちは軍服だけでなく武器まで洗いざらい捨てているではないか。戦闘意欲を失い、武器を捨て、ただ逃げ隠れしているだけの元兵士たちはゲリラなどではあり得ない。単なる敗残兵・逃亡兵である。引用部分にこう書いてあるのに、小林が描く無根拠な絵面と断定的な論調に引きずられて南京にも便衣兵がいたと思い込んでしまうような人は、読解力にかなり問題のある「純粋まっすぐ君」だろう。

【卑劣】助命すると言って投降させた捕虜を殺した日本軍
ちなみに、普通に考えれば、国民党軍の兵士たちは逃げ隠れなどせず投降すればよかったはずである。しかし、当時の日本軍は、投降すれば命を助けてくれるような「普通の」軍隊ではなかった。第114師団歩兵第66連隊第1大隊の戦闘詳報にはこうある[4]。

[12月12日午後]

 第三中隊方面は大なる抵抗を受くることなく予定の通り進捗せり
 午後七時頃手榴弾の爆音も断続的となり概ね掃蕩を終り我が損害極めて軽微なるに反し敵七〇〇名を殪たおし捕虜一、五〇〇余名及多数の兵器弾薬を歯獲し該方面に遁入南門城扉を鎖され退路を失いし敵を城壁南側「クリーク」の線に圧迫し殆んど殲滅し其策動を封ずるを得たり
 最初の捕虜を得たる際隊長は其の三名を伝令として抵抗断念して投降せば助命する旨を含めて派遣するに其の効果大にして其の結果我が軍の犠牲を尠すくななからしめたるものなり
 捕虜は鉄道線路上に集結せしめ服装検査をなし負傷者は労はり又日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ更に伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり
 一般に観念し監視兵の言を厳守せり

(略)

[12月13日午後]

 午後二時零分聯隊長より左の命令を受く

   左 記

 イ、旅団命令により捕虜は全部殺すべし
   其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何

(略)

 午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果 各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は路営地南方谷地 第三中隊は路営地西南方凹地 第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることとせり

 但し監察室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感知されざる如く注意す

 各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り 聯隊に報告す

 第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり

 捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首を差し伸ぶるもの 銃剣の前に乗り出し従容とし居るもありたるも 中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり 特に隊長巡視の際は各所に其の声起れり

「投降すれば殺さない」と宣伝して多数の捕虜を得たのに、翌日にはこの捕虜たちを有無を言わさず皆殺しにしてしまったわけだ。これでは、たとえ民間人から略奪してでも便衣に着替えて隠れようとするだろう。

「卑劣」とは、こういう行為のことを言うのではないのか?
 
[1] 笠原十九司 『南京事件』 岩波新書 1997年 P.170-171
[2] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.118-119
[3] 同 P.128-129
[4] 南京戦史編集委員会編 『南京戦史資料集』 偕行社 1989年 P.667-674
https://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/30/113911
21:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:02:16

2018-05-23
南京大虐殺の最中にも赤ん坊を串刺しにしていた日本兵
https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/23/213213

ネットではもっぱら「反日」中国のプロパガンダだ、でっち上げだと主張されている「日本兵が赤ん坊を銃剣で串刺しにした話」だが、中国でもフィリピンでも、実際にそういうことが行われた、という証言がいくつもある。

先日、そうした事例を集めて上の記事にまとめたのだが、もう一事例見つかったのでメモ。

こちらは、南京大虐殺の真っ最中に行われた事例についての目撃証言である。目撃したのは張秀紅さん(女性・当時11歳)、時期は1938年2月頃、場所は南京城の西南郊外である[1]。

 趙家苑に逃げるとき、ふとんや米を持っていきました。冬なのでクリークの中は水が少なく、そこに隠れていました。夜になるとごはんを作り、布の袋に入れておき昼にお腹がすくとその袋の中から出して食べ、のどが渇くとクリークの水を手ですくって飲みました。クリークの中で十日間以上いました。その期間中に二~三回日本兵が若い娘を強姦するのをこの目で見ました。クリークから出て見ると大きな広場に、鍋底の墨を顔に塗り、古い綿入れの服を着た数十人の若い娘を並べ、日本兵がきれいな顔をした娘数人を選んで顔を洗わせ別の場所に連れていきました。残った娘はその場で機関銃で撃ち殺されました。
 もうひとつクリークから見た日本兵の暴行があります。三~四人の一歳にも満たない赤ちゃんを日本兵が面白がってお尻から銃剣をさしこんで持ち上げました。空中で振り回し赤ちゃんが泣き叫ぶと別の見学していた十数人の日本兵たちが笑い、拍手していました。赤ちゃんが(死んで)泣き止むと、放り投げて捨てました。また、他の赤ちゃんを刺し貫き持ち上げて遊んでいました。こういうことを三~四人の赤ちゃんにつづけてやりました。

張秀紅さんは、数々の残虐場面を目撃させられただけでなく、まだ11歳だったのに日本兵に強姦された性暴力被害者でもある[2]。

 しばらくすると村のみんなから沙州圩の方が安全になったと聞いて、村の人たちと一緒に戻りました。ある日突然日本兵が家にやってきました。私はまだ子供ですからおじいさんが私を守るために私を抱きしめ日本兵に渡すまいと抵抗しました。日本兵はおじいさんの背中を銃剣で突付きました。「もう離して、離さないと二人とも殺される」。私は子供だからおじいさんが殺されたら私も生きていけない、助かるわけがない、ふたりとも殺されるなら一人のほうがまだましだから……と思い、私は日本兵にとなりの空き家になっている部屋に連れて行かれました。日本兵は私をベッドに倒すと服を脱がせました。日本兵は無理やり股(性器)を強く開きました。苦痛でした。私は気絶し強姦されました。日本兵が去って行ったのも知りませんでした。とおじいさんは血がいっぱい出ている私の足を閉じて縄で股をしっかりしばり、お腹をさすって揉んでいてくれました。意識が戻ってくるとおじいさんは、私を抱きしめてこんな被害を受けて、と泣きながら一生懸命言ってくれました。長い間足は全然動けない状態でした。七十年も経っても天気の悪い日には後遺症が出て痛みます。座っていると立ち上がれません。まだあの時は十一歳でしたから、あまりにも傷が大きかったのです。

張秀紅さんは事件から70年後の2007年、ようやく南京大虐殺の生存者として名乗り出た[3]。日本での証言集会でも話をしているが、最初は「日本に行ったら殺される」と固辞していたという。そして2016年、90歳で亡くなられた。

70年もの間語り得なかった、日本軍によって強いられた少女時代の過酷な体験が彼女の人生をどれほど辛いものにしたか、「普通の日本人」には想像もつかないだろう。

[1] 松岡環 「南京 引き裂かれた記憶」 社会評論社 2016年 P.156
[2] 同 P.156-157
[3] 「南京大虐殺70周年記念会議開催 生存者の証言も」 人民網日本語版 2007/11/24

https://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/23/213213
22:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:02:40

2017-08-17
中国人は日本軍を歓迎した? そりゃするだろう。逆らえば命がないんだから。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/08/17/203943
【卑劣】学び舎教科書採択校に右派が集団攻撃
侵略軍を現地住民が「歓迎」するのは当然の生存戦略
しかし、相手が悪ければいくら「歓迎」しても無駄


【卑劣】学び舎教科書採択校に右派が集団攻撃
難関校として有名な私立灘中(神戸市)をはじめ、学び舎の歴史教科書「ともに学ぶ人間の歴史」を採用した中学校に、右派からの抗議・恫喝が殺到しているという。

毎日新聞(8/8):

教科書 慰安婦言及 灘中など採択学校に大量の抗議はがき

 慰安婦問題に言及する歴史教科書を採択した全国の国立、私立中学校のうち判明しただけで11校に昨年、内容が「反日極左」だとして採択中止を求める抗議のはがきが大量に送られていた。「執拗(しつよう)な電話もあり脅迫のようで怖かった」と語る教諭もいる。(略)

 慰安婦問題を取り上げたのは、出版社「学び舎」(東京都)発行の検定教科書「ともに学ぶ人間の歴史」。この教科書について、産経新聞は昨年3月19日朝刊で「中学校の歴史教科書のうち唯一、慰安婦に関する記述を採用」「最難関校を含む30以上の国立と私立中が採択」と報じ、神戸市の私立灘中学校などの名前を挙げた。

(略)

 和田校長によると職員の話し合いで採択を決めて間もない2015年12月、自民党の兵庫県議から「なぜ採択したのか」と聞かれた。「OB」や「親」を名乗る匿名の抗議はがきが舞い込み始めたのは16年3月ごろ。大部分は、中国での旧日本軍進駐を人々が歓迎する場面とみられる写真を載せた絵はがきに抗議文をあしらった同一のスタイルだった。

 さらに、差出人の住所や氏名を明記し抗議文をワープロ印刷したはがきが大量に届き始めた。やはり大部分が同一の文面で、組織的な抗議活動をうかがわせた。地方議員や自治体の首長を名乗るはがきもあり、抗議は半年間で200通を超えた。和田校長は取材に「検定を通った教科書なのに政治家を名乗ってはがきを送ってきたり、採択した学校の名前を挙げて問題視する新聞報道があったりして政治的圧力を感じた」と振り返る。

(略)

抗議はがきの主な内容

 学び舎の歴史教科書は中学生用に唯一、慰安婦問題(事実と異なる)を記した「反日極左」の教科書だとの情報が入りました。将来の日本を担う若者を養成する有名エリート校がなぜ採択したのでしょうか。反日教育をする目的はなんなのでしょうか。今からでも遅くはありません。採用を即刻中止することを望みます。

灘中のような難関校で学び舎の教科書が選ばれたのは、単純にその内容が優れていたからだ。


その教科書の内容が気に食わないからといって、親やOBと称して匿名で採択校に集団的・組織的攻撃を行う。いつもながら卑怯なやり口だ。

侵略軍を現地住民が「歓迎」するのは当然の生存戦略
ところでこの人たちは、中国で日本軍が歓迎されていた「証拠写真」があるから日本軍による残虐行為は嘘だと言いたいらしい。妄想力だけは十分以上にあるのにまともな想像力がないからそんな写真に飛びつくのだろう。

考えてもみればいい。自国軍は既に後退し、丸裸となった街や村に侵略軍が進軍してくる。身を守るために無力な住民にできることは何か? 全財産を失い難民となることを覚悟の上で逃げ出すか、侵略軍に迎合して被害の最小化を図るか、選択肢はこの二つしかないだろう。実際、南京攻略戦の途上で日本軍の進撃路にあたった不幸な街や村の多くは後者の戦略をとった。



一口に日本軍と言っても、部隊によってその資質は様々だったから、やってきた部隊が比較的まともな部類であれば、大事な食糧をごっそり「徴発」される程度で済む場合もあった。

黒須忠信(上等兵・仮名)日記[1]:

[11月22日](略)陳家鎮に午后五時到着、米味噌醤油等の取集めで多忙な位である、或は濡もち米を徴発或る者は小豆をもって来て戦地にてぼた餅を作っておいしく食べる事が出来た、味は此の上もなし、後に入浴をする事が出来て漸ようやく我にかへる、戦争も今日の様では実に面白いものである、(略)

[11月23日] 午前四時起床、出発準備を整ひ食事をすます、陳家鎮の支那家屋では日の丸国旗を揚げて日本に好意を表し我が軍の行軍通路には藁等をす[し]きて援助をする処さへあった(略)

[11月25日](略)午后四時祝塘郷に着して宿営す、(略)我等五分隊二十四名は宿舎に着く毎ごと大きな豚二頭位宛あて殺して食って居る、実に戦争なんて面白い、酒の好きなもの思ふ存分濁酒も呑む事が出来る、漸く秋の天候も此の頃は恵まれて一天の雲もなく晴れ渡り我等の心持も明朗となった。

とはいえ、反抗などしたら命はない。

近藤栄四郎(伍長・仮名)日記[2]:

[11月16日] 五時起床にて朝食の準備して六中隊段列を誘へ[ひ]たるも出発の時間ある様なるに就き一足先に出発する、(略)此先どの位行進なすやら見当つかぬ為某町らしき処にて宿る。

 途中敗残兵の屍体等参見する、(略)支那民を使って荷物を負はせ服従しなければ直ちに射殺であるから仕方なくついて来る、でも処々に屍体あり、また行軍中も射殺実況を見た事も数度、戦敗国の惨。

 団子等して食ふ、途中食物や砂糖等徴発しての行軍等今日も八里位か。

 隣りに支那人の男六十位と女一人と女病人一人がゐる、火などたかせる、彼等の恐怖心や如何程ならん。(略)

しかし、相手が悪ければいくら「歓迎」しても無駄
しかし、相手が悪ければ、もちろんこんな程度では済まない。以下は南京市から東へバスで30分ほどのところに位置する村での事例[3]。

 (略)山へ避難した光秀さんら女性たちが村へもどったのは14日だが、あくる15日、村人たちは集まって、日本軍が村に現れたときの対応の方法を相談した。「歓迎大日本」と書いた旗をたてて迎えれば、家を焼かれないし虐殺もされないという噂をきいていたので、その準備をした。

 許巷村は200戸ちかくあって、その多くは道路ぞいに東西に細長い街村状に並んでいた。16日の午後、村はずれで見張りに出ていた親戚のおじが「日本軍が来た!」と叫んで村に知らせた。かねて打ち合わせておいたとおり、村の男たちは「歓迎大日本」の旗を何本もかかげ、村の道の両側に並んで出むかえた。光秀さんは寝台の下にかくれ、その前に木の肥たご(糞尿を運ぶ桶)を置いた。(略)外は騒然となっていたが、かくれているので何が起きているのか分からない。(略)

(略)

 村人たちが「歓迎大日本」の旗とともに出むかえたところへ到着した日本軍は、歓迎に応ずるどころか、その旗を奪って近くの積み草にさすと、男たちを並べていろいろ検査した。帽子のあとなどをみて兵隊かどうかを調べたらしいのだが、結局は兵役年齢に相当すると勝手に判定された若者が全部選ばれて100人くらいになり、そのなかに弟の陳光東(16)もいた。細長い村の中では比較的西の方の家の者が多かった。

(略)

 田んぼに連行された青年たちは、たがいに向きあってひざまずく格好で二列に並ばされた。この田んぼは陳家のもので、約0.8畝ムー(50平方メートル弱)のせまい面積だった。青年たちの列の一部は、L字状に道路ぎわの土手ぞいに並ばされた。そのまわりをとりかこんだ日本軍は、銃剣で一斉に刺殺した。死にきれず何度も刺され、「助けて!」と叫ぶ青年もいた。

(略)

 集団虐殺が行なわれたのは午後4時ごろだった。女たちは家で寝台の下などへかくれていたが、午後5時ころになって「沈」の妻(35,6歳)は夫のことが心配になり、様子を見るため虐殺現場のそばの「史」家へ行き、そこで惨劇を知らされた。夫もその弟も殺されて、彼女は声をあげて泣きながら外へ出た。まだいた日本兵がこれを見つけ、虐殺現場に近い池のそばへ連行し、強姦してから殺した。

(略)

 光秀さんの母は9人の子供を産んでいたが、男の子ばかり4人が死に、育った5人のうち光東は最後の男の子だったので特にかわいがっていた。その光東も夫も殺されたため、悲しみのあまり発狂状態になり、深夜に外へ出て大声で叫んだり、疲れると道ばたで寝てしまったりするようになった。頭にはれものもでき、翌年の春死んだ。

 集団虐殺や強姦などで地獄絵と化した許巷村は、これでは今後もどうなるか見当もつかないので、若い女性はみんな避難することになった。あくる12月17日、光秀さんも妹をつれて、棲霞というところにアメリカ人がつくった避難所へ、ほかの200人ほどの女性たちとともに行った。この日は光秀さんの誕生日(満19歳)であった。

日本軍を「歓迎」すればひどい目に遭わされずに済むという「成功例」を信じて劣悪な部隊を迎え入れてしまった村が、最も凄惨な地獄を味合わされたわけである。

[1] 小野賢二・藤原彰・本多勝一編 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年 P.346
[2] 同 P.320
[3] 本多勝一 『南京への道』 朝日文庫 1989年 P.260-264

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/08/17/203943
23:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:03:04

2021-12-14
南京の「便衣兵狩り」は不当な大量虐殺そのもの
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/12/14/185110

南京大虐殺の話を書くと必ず「便衣兵ガー」というウヨが出てくるので、やはりこのことは何度でも書いておく必要がある。


そもそも便衣兵とは
「便衣(biànyī)」とは、中国語で、軍服ではない民間人の服装を指す。つまり「便衣兵」とは、平服を着たまま戦闘行動を行うゲリラ兵を意味する。

右派が南京に関して必ず「便衣兵」を持ち出すのは、南京戦当時の国際法では、こうしたゲリラ兵には戦闘員としての資格が認められておらず、従って敵軍に捕まった場合、捕虜として扱われる権利がない(処刑されても文句は言えない)とされていたからだ。

つまり、南京陥落後に日本軍が狩り出した大量の中国兵は捕虜資格のない「便衣兵」であって、だから彼らを殺した行為も合法だった、と言いたいわけだ。

南京には便衣兵などいなかった
しかし、上記の論理は成立しない。南京には「便衣兵」などほとんどいなかったからだ。[1]

 しかし、本来の意味での戦闘者としての「便衣兵」は、南京ではほとんど存在しなかったといっていいだろう。この点について、陥落直後の南京で、撃墜された日本軍機の搭乗員の遺体捜索活動に従事した奥宮正武(第一三航空隊分隊長)は、こう書いている(『私の見た南京事件』PHP研究所、一九九七年)。

 便衣兵あるいは便衣隊といわれていた中国人は、昭和七年の上海事変のさいはもとより、今回の支那事変の初期にも、かなり積極的に、日本軍と戦っていた。が、南京陥落直後はそうとはいえなかった。私の知る限り、彼らのほとんどは、戦意を完全に失って、ただ、生きるために、軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって、彼らを、通常いわれているゲリラと同一視することは適当とは思われない。

小林よりのりは『戦争論』で、ニューヨーク・タイムズ紙のダーディン記者の書いた記事を引用して、次のように、いかにも悪そうな「便衣兵化する中国兵」を描いている。[2]

あの南京事件の時 国民党軍の兵がどんな有様だったのか 「ニューヨーク・タイムズ」のダーディン記者が記事にしている 次のように…

一部隊は銃を捨て軍服を脱ぎ 便衣を身につけた。
記者が十二日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。
多くの兵士は下関シャーカンに向かって進む途中で軍服を脱いだ。
小路に走りこんで便衣に着替えてくる者もあった。
中には素っ裸となって 一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた。
軍服とともに武器も遺棄されて 街路は小銃・手榴弾・剣・背嚢・軍服・ヘルメットでうずまるほどであった。
兵が同胞の一般市民の服をはぎ取って化ける!
なんという卑劣さ…!

だが、引用されている記事の中身を見れば、この中国兵たちは軍服だけでなく武器まで洗いざらい捨てている。つまり彼らは戦闘意欲を失い、武器を捨て、ただ逃げ隠れしているだけの敗残兵・逃亡兵であって、便衣兵などではなかったのだ。

そして小林が引用しなかった同じ記事の続きの部分で、ダーディン記者は次のように書いている。[3]

(略)袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、武器を手渡した。委員会はその時、日本軍は捕虜を寛大に扱うだろうと思い、彼らの投降を受け入れる以外になかった。たくさんの中国軍の集団が個々の外国人に身を委ね、子供のように庇護を求めた。

(略)

 南京を掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に匹敵するものは、ヨーロッパの暗黒時代の蛮行か、それとも中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。

 無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に連行された。

 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることもあった。最も一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。

日本軍が行った「便衣兵狩り」は、間違いなく、捕虜として扱うべき中国軍兵士たちを無慈悲に殺した虐殺にほかならない。しかもその過程で、軍とは関係ない一般住民の男性たちまで、兵士と誤認されて大量に殺されている。

南京陥落後、中国兵たちはどうすればよかったのか?
首都防衛軍司令部が逃亡し指揮命令系統が崩壊した後、南京に取り残された中国軍の将兵はどうすればよかったのか?

普通に考えれば、彼らは素直に日本軍に投降すればよかったはずである。

だが日本軍は、投降すれば命を助けてくれるような、まともな軍隊ではなかった。

第16師団長中島今朝吾は、12月13日(南京陥落当日)の日記にこう書いている。[4]

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之これを片付くることとなしたる〔れ〕共ども千五千万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず唯ただ彼等が全く戦意を失ひゾロゾロついて来るから安全なるものの之が一旦掻〔騒〕擾そうじょうせば始末に困るので

 部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ

 十三日夕はトラックの大活動を要したり(略)

一、後に到りて知るに依りて佐々木部隊丈だけにて処理せしもの約一万五千、大〔太〕平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る

一、此この七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ〔か〕処に誘きて処理する予定なり

つまり、彼にはそもそも捕虜をとるつもりはなく、投降してきた中国兵は皆殺しにするのが「方針」だったわけだ。そして実際にも、この日たった一日で、第16師団だけで約一万六千三百人を殺し、さらに「七八千人」を「片付ける」予定だと言っている。

また、第114師団歩兵第66連隊第1大隊の戦闘詳報にはこうある。[5]

[12月12日午後]

 第三中隊方面は大なる抵抗を受くることなく予定の通り進捗せり

 午後七時頃手榴弾の爆音も断続的となり概ね掃蕩を終り我が損害極めて軽微なるに反し敵七〇〇名を殪たおし捕虜一、五〇〇余名及多数の兵器弾薬を歯獲し該方面に遁入南門城扉を鎖され退路を失いし敵を城壁南側「クリーク」の線に圧迫し殆んど殲滅し其策動を封ずるを得たり

 最初の捕虜を得たる際隊長は其の三名を伝令として抵抗断念して投降せば助命する旨を含めて派遣するに其の効果大にして其の結果我が軍の犠牲を尠すくなからしめたるものなり

 捕虜は鉄道線路上に集結せしめ服装検査をなし負傷者は労はり又日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ更に伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり

 一般に観念し監視兵の言を厳守せり

(略)

[12月13日午後]

 午後二時零分聯隊長より左の命令を受く

   左 記

 イ、旅団命令により捕虜は全部殺すべし
   其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何

(略)

 午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果 各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は路営地南方谷地 第三中隊は路営地西南方凹地 第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることとせり

 但し監察室の周囲は厳重に警戒兵を配置し連れ出す際絶対に感知されざる如く注意す

 各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り 聯隊に報告す

 第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり

 捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首を差し伸ぶるもの 銃剣の前に乗り出し従容とし居るもありたるも 中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり 特に隊長巡視の際は各所に其の声起れり

こちらはさらに悪質で、「投降すれば殺さない」と宣伝して多数の捕虜を得たのに、翌日にはこの捕虜たちを有無を言わさず皆殺しにしてしまったわけだ。

戦えば殺される。投降しても殺される。これでは、中国兵たちはたとえ民間人から強奪してでも便衣に着替えて身を隠すしかなかっただろう。彼らの一部が南京安全区国際委員会に出頭したのも、直接日本軍に投降するのではなく欧米人に仲介してもらえば助かるかもしれないと考えたからだろう。(結局その願いはかなわなかったわけだが。)

卑劣だったのは見境なく殺しまくった日本軍
前記のとおり、南京には実際には便衣兵などほとんどいなかった。

しかし、仮にこのとき便衣兵が存在し、盛んにゲリラ戦を展開していたとしたらどうか。その場合、中国兵の大量処刑は正当化されるだろうか。

もちろんそんなことはない。

野蛮な日本軍の行為を正当化するのに腐心していた当時の日本の国際法学者の意見を採用したとしても、処刑が正当化されるのは実際にゲリラ戦に参加している便衣兵だけであって、それ以外の、武器を捨ててただ隠れているだけの敗残兵まで一緒くたに殺していいことにはならない。

さらに、捕まえた便衣兵を処刑するには、隠し持っている武器などの証拠に基づいてその敵対行為を認定する軍事裁判の手続きが必要だった。[6]

(略)確かに、当時の国際法の下では、「便衣兵」による戦闘行動は、「戦時重罪」にあたるとされていたが、前述したように、その処刑には軍事裁判(軍律法廷)の手続きを必要とした。この点については、法学博士、篠田治策の「北支事変と陸戦法規」(『外交時報」第七八八号、一九三七年)も、「死刑に処するを原則とすべき」行為の一つに、「一定の軍服又は徽章を着せず、又は公然武器を執らずして、我軍に抗敵する者(仮令ば便衣隊の如き者)」をあげてはいるが、そこに次のような条件をつけている。

而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれば、殺伐なる戦地に於いては動ややもすれば人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることあるが為めである。

しかし、南京の日本軍は ゲリラ/武器を捨てた敗残兵/一般市民 をきちんと判別するどころか、「青壮年は凡すべて敗惨兵又は便衣隊と見做し凡て之これを逮捕監禁すべし」(歩兵第六旅団長による「掃蕩実施に関する注意」[7])という乱暴さで「残敵掃蕩」を行い、裁判など一切行わずに即決処刑してしまった。当時の国際法にも明白に違反する戦争犯罪である。

このときの様子を、ダーディン記者が次のように書いている。[8]

 南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選びだすのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命びろいをする場合もあった 。

卑劣だったのは、小林の言うような、軍服を脱いで逃げる以外に生き延びる手段のなかった中国兵たちではない。捕虜も敗残兵も、兵士と誤認した一般市民まで平然と皆殺しにした日本軍であり、また、そんなクソ軍隊を正当化しようと史実を歪める歴史修正主義者の方である。

[1] 南京事件調査研究会編 『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房 1999年 P.165-166
[2] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.129
[3] 南京事件調査研究会編 『南京事件資料集 ①アメリカ関係資料編』 青木書店 1992年 P.436-437
[4] 南京戦史編集委員会編 『南京戦史資料集』 偕行社 1989年 P.326
[5] 同 P.667-674
[6] 『南京大虐殺否定論13のウソ』 P.166-167
[7] 『南京戦史資料集』 P.551
[8] 『南京事件資料集 ①アメリカ関係資料編』 P.437

https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/12/14/185110
24:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:03:30

2022-02-06
日本軍の残虐行為を必死で止めようとした従軍記者もいたらしい
https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/02/06/163249

南京攻略戦の過程で展開された日本軍による凄まじい暴虐に、従軍記者たちはどう向き合ったのか。

その場ではほとんど何もできず、戦後になってから当時目撃した内容を語りだしたり、「(虐殺の写真を)撮っていたら恐らくこっちも殺されていたよ」と言い訳するくらいがせいぜいだったようだが、中には体を張って虐殺を止めようとした勇気ある記者もいたようだ。

陸軍の嘱託カメラマンとして、杭州湾から上陸して南京を目指した第10軍(柳川平助兵団)に従軍した河野公輝氏が次のように語っている。[1]



杭州湾から南京まで三〇〇キロの虐殺(柳川兵団)

(略)

「川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山まで道端に延々とそういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられていて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコ丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ三万本』と俺たちはいっていたが、三〇〇〇人以上はいたろうな。遠くロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

 読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしょうがないのだが、飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。(略)



 蘇州の略奪はすさまじかった。中国人の金持は日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。兵隊たちは、捕虜にしこたまかつがせて持っていった。(略)

 蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな」

この「読売のカメラマン」氏や飛び出して虐殺をやめさせようとした記者が誰だったのか、彼らがその後どうなったのか分からないのが残念だ。

ちなみに、柳川兵団は南京攻略後の徐州作戦でも残虐行為を繰り返している。同じく河野公輝氏の証言。[2]

「そこ(注:蒙城)は城壁と堀があって堅固な陣地だった。占領まで二日ほどかかった。三〇〇〇人ほどを捕虜にしたが、南京と同じように片っぽしから殺していった。徐州へ進撃しなければならないので捕虜を保護するわけにいかないんだね。子供連れの兵隊もいたがかまわず殺した。子供は殺される親父をじっとみていたね。そしてその子供も殺されてしまった」

柳川兵団の主力は第6師団だったが、師団長の谷寿夫は戦後、南京軍事法廷で死刑判決を受け、銃殺されている。谷は、南京大虐殺は他の師団がやったことだと裁判で弁明したが、彼にも重大な責任があったことは明白だろう。

[1] 森山康平 『証言・南京事件と三光作戦』 河出文庫 2007年 P.56-57
[2] 同 P.59


https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/02/06/163249
25:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:03:55

2022-02-12
中国で「海外旅行みたいな」楽しい戦争をしてきたという兵たちの実態
https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/02/12/205546
小林よしのりは『戦争論』の中で1回だけ、自分で戦争体験者の親戚から聞き取ったという話を書いている。

この親戚氏は、戦争はまるで海外旅行のようだったと言い、多少の戦闘は経験したものの、あとは中国で美味いものばかり食っていたと、楽しげに語っている。[1]

「終戦前は 朝はブタ汁 晩はブタの煮付け 野菜の煮付けとか 食べとった」

「食糧は豊富にあった」

「さとうきび畑に入って ナマのさとうきび食べたらうまかった」

「ほし柿も よく食べとった」

…と食い物の話ばっかりする

(略)

「米をたくさん炊きすぎて 余ったのをおにぎりにして中国人にやると かわりにマントウをくれる」

「なしを5~6個くれることもある」

(略)

終戦後7カ月過ぎて 4月1日に長崎に着き 家に帰って来た時…

背中に上等の毛布をいっぱいしょって なんと丸々太って帰ってきたので 奥さんがびっくりしたらしい

まるで中国の人々となごやかに交流しながら食糧や物資を手に入れていたかのようだが、兵隊の給料でそんなことは不可能だろう。

では、彼らはどうやってそんな豊かな生活をしていたのか。

たとえば南京攻略戦に従軍した兵士たちの日記にはこんなことが書かれている。[1]

黒須忠信(上等兵・仮名)日記:

[11月22日](略)陳家鎮に午后五時到着、米味噌醤油等の取集めで多忙な位である、或は濡もち米を徴発或る者は小豆をもって来て戦地にてぼた餅を作っておいしく食べる事が出来た、味は此の上もなし、後に入浴をする事が出来て漸ようやく我にかへる、戦争も今日の様では実に面白いものである、(略)

[11月25日](略)午后四時祝塘郷に着して宿営す、(略)我等五分隊二十四名は宿舎に着く毎ごと大きな豚二頭位宛あて殺して食って居る、実に戦争なんて面白い、酒の好きなもの思ふ存分濁酒も呑む事が出来る、漸く秋の天候も此の頃は恵まれて一天の雲もなく晴れ渡り我等の心持も明朗となった。(P.346)

宮本省吾(少尉・仮名)日記:

[12月12日] 本日は出発を見合せ滞在と決定す、早朝より徴発に出掛ける、前日と違ひすばらしい獲物あり、そうめん、あづき、酒、砂糖、鶏、豚、皿、ランプ、炭あらゆる物あり正月盆同時に来た様にて兵隊は嬉しくて堪らず、晩にはぼた餅の御馳走にて陣中しかも第一線と思はれぬ朗らかさである。(P.133)

[12月24日] 滁県にて守備の説も当らず午前八時出発、滁県を後に全椒県に向ふ、風は肌に寒く行軍には良い日和である、途中雞にわとりの徴発物あり夜はしばらくぶりで雞汁を馳走になる(略)

[12月25日] 兵は馬並に野菜、豚の徴発に出掛ける、種々の御馳走を作る。(P.135)

陸軍の嘱託カメラマンとして第10軍に従軍した河野公輝氏は次のように語っている。[3]

 蘇州の略奪はすさまじかった。(略)そういう金持の家では、柱をトントンたたいてみる。柱をくりぬいて銀貨がぎっしりつめてある。そいつを持ち出す。銀貨だけでなく壁の中には財宝も隠してある。もちろんそういうのもいただくわけだ。(略)

こちらは当時日本軍が占領した上海市内で警備に従事していた坂田甚蔵氏の話。[4]

「街頭に警備で立って、通りかかる支那人を呼びとめては体をさぐり、時計やドンペイ(一円銀貨)をいただいちゃう。一日歩哨に立ってドンペイ二、三枚もいただいちゃえば、その晩は支那料理の豪勢なテーブルが囲めた」

何事にも例外というのはあるので、小林の親戚氏個人の場合が実際にどうだったのかはわからない。

だが、一般的に日本軍がやっていたのは、こうした行為である。

中国で日本軍が「蝗軍」(イナゴの大群のように、通り過ぎたあとには何も残らない)と呼ばれていたのにはそれなりの理由があるのだ。

[1] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.273-275
[2] 小野賢二・藤原彰・本多勝一編 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年
[3] 森山康平 『証言・南京事件と三光作戦』 河出文庫 2007年 P.57
[4] 同 P.65
https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/02/12/205546
26:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:04:20

2022-02-21
戦時中のプロパガンダ写真を根拠に日本軍を擁護するビジウヨのあきれた手口
https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/02/21/190826

民衆が日本軍を歓迎している写真があるから南京大虐殺は嘘?
プロパガンダ写真が証拠になるならナチスも占領地住民に歓迎されていたしホロコーストなどなかったことになる

関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する加藤康夫・工藤美代子と同様の手口
民衆が日本軍を歓迎している写真があるから南京大虐殺は嘘?
時々TLにツイートが流れてくる某ウヨさん、日中戦争当時の新聞やグラフ雑誌に載った写真をツイートに貼って、このように日本軍は中国の人々に親切だった、歓迎されていた、だから南京大虐殺は嘘、などと繰り返している。

開いた口がふさがらないほどのアホな主張だが、ネタ元は何かというと、水間政憲というビジウヨだった。

水間は、例えば南京戦当時の国内グラフ雑誌の写真を引用して、こんなことを書いている。[1]

 106頁上の写真は、南京城陥落から1週間目の写真です。中国や反日日本人が「宗教」のように信じている「南京大虐殺」が、仮に事実であれば日々数千人が虐殺されていたクライマックスの報道写真がこれなのです。

 南京城内の広さは約40平方キロ、東京都世田谷区(約59平方キロ)の約4分3のスペースで、山手線の内側とだいだい同じ広さです。

 そして安全区は、南京城内の約10分の1(約3・8平方キロ)です。

 仮に南京城内で30万人が虐殺されていたとなると、南京の民衆は避難民地区(安全区)にいましたので、この写真が撮されている最中に「ギャー・ヒィー」とか、阿鼻叫喚の悲鳴が聴こえていた状況なのです。

南京城内だけで30万人虐殺されたとか、南京市民がみな安全区内にいたとか言っている研究者はいないので、まずこの点からしてデタラメなのだが、それはともかく、この手のプロパガンダ写真やニュース映画がどのようにして撮影されていたか、当時野蛮な日本軍から民衆を保護するために奔走していた南京安全区国際委員会のジェームズ・マッカラム牧師が次のように書き残している。[2]

(1938年)一月九日

 難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して一〇名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。

まさに阿鼻叫喚のかたわらで、日本国内向けに「平和立ち返る南京」みたいな演出がなされていたのだ。

また水間は、別の本ではこんなことも書いている。[3]

難民救済に奔走していた日本軍

 上海や漢口など都市部では、日本軍の勢力下になったことを聞きつけた難民が続々押し寄せ、日本軍は国連の難民救済業務のように忙殺されていたのです。

 これが実態だったにもかかわらず、中国戦線に従軍していただけで戦後「白い目」で見られていた軍人たちの無念は、想像するに余りあります。

自軍の兵隊に食わせる食糧も満足に補給できなかった日本軍が難民のために食糧支援とは、バカバカしいにも程がある。この写真で配って見せている米を、いったいどこから持ってきたというのか。

例えば、食糧に関して南京で日本軍が何をしていたか、当時第16師団歩兵第30旅団長だった佐々木到一少将が手記にこう書いている。[4]

◇(1937年)十二月十五日

 我第十六師団の入城式を挙行す、師団が将来城内の警備に当るのだとゆふものがある。終って冷酒乾盃。

 各師団其他種々雑多の各部隊が既に入城してゐて、街頭は先にも云つた如く兵隊で溢れ、特務兵なんかに如何いかがはしき服装の者が多い、戦闘後軍紀風紀の頽廃を防ぐため指揮官がしっかりしないと憂うべき事故が頻発する。

 城内に於て百万俵以上の南京米を押収する、この米の有る間は後方から精米は補給しないとゆふ、聊いささか癪だが仕方が無い、因ちなみに南京米はぽろぽろで飯盒の中から箸では掬へない。

だいたい、南京や漢口などを含む華中地域は、駐留日本軍の「現地自活」用食糧の主要な供給地であり、支援どころか、本来なら中国の人々の口に入るはずだった大量の米が日本軍に奪われていたのだ。[5]

 これより少し前の1940年度における中支全軍の所要米は年間約10万トン(1トン=約7石)であり(8),日本の粳米と同様の品質をもつ米を生産する蘇州を中心とする「三角地帯」から「現地自活」用に調達された。その他に,南京上流の「蕪湖米」が軍需用として約7万トン調達され,①軍の補給米,②「三角地帯」産出米10万トンの代替米,③軍票交換用米,④補給廠及び停泊場等の常備苦力の飯米,⑤その他宣撫治安維持用米,として使用された。

戦闘が終わり日本軍の占領支配が確立してからは南京戦当時のような強奪ではなく買上げという形をとってはいたが、代金として支払われたのは日本軍が何の裏付けもなく乱発する軍票(1943年4月以降は汪兆銘傀儡政権の発行する中央儲備銀行券)であり、その価値はわずかな間に際限なく下落していった。結果は経済破綻と飢餓である。[6][7]

(略)日本は占領地域において、価値維持のてだてが不十分なまま軍票を主要通貨として強制流通させただけでなく、戦局が悪化するとそのてだてすら放棄して、紙切れ同然の軍票を濫発した。その結果、中国本土、東南アジア諸国の経済をインフレのるつぼに陥れたのである。人びとは財産を失い、はなはだしくは餓死するところまで追いこまれた。さきの天文学的発行額をみるとき、軍票がアジアの民衆にあたえた被害がどれほどすさまじいものだったかを想像できるだろう。

(略)また、復旦大学のある教授は、儲備券インフレのひどさをつぎのように語ってくれた。

国際飯店で二、三人で食事をするのに、二〇センチほどの札束を二つ三つもっていく必要があった。お金を数えていては食事をする暇がないので、銀行の帯を信用してもらって支払った。敗戦まぎわになると儲備券はまったく信用されず、使用が禁止されているはずの法幣〔中国国民政府発行の紙幣〕がブラック・マーケットで流通していて、大きな取引には金の延棒が必要だった。四五年五月には、家を借りるにも金の延棒が必要になっていた。

プロパガンダ写真が証拠になるならナチスも占領地住民に歓迎されていたしホロコーストなどなかったことになる
戦時中のプロパガンダ写真を根拠に日本軍を擁護するこの主張がどれだけ馬鹿げているかは、次のような例と比べてみれば分かりやすいだろう。

例えばこれは、チェコスロバキア占領後、現地の子どもに温かい食事を与えるドイツ軍。ナチスさん親切ですねぇw

画像出典:alamy

こちらはドイツ占領下のフランスで、ドイツ軍の「移動スープキッチン」から食事の提供を受ける住民たち。喜ばれたでしょうねw

画像出典:alamy

こちらは逆に、ポーランドの占領後、ほほ笑む現地の女性から食事を提供されているドイツ軍兵士たち。歓迎されてたんですねぇw

画像出典:alamy

こちらはダッハウ強制収容所で、行列して食事の提供を受けている被拘禁者たち。収容所は人道的に運営されていたわけで、ホロコーストなんて嘘ですねw

画像出典:alamy

ネオナチが、こうした大戦中のプロパガンダ写真を根拠に、ドイツ軍は占領地域の住民に優しくしていて歓迎されていた、などと主張したら世界からどう見られるか。水間らがやっているのはこれと同レベルの恥知らずな行為でしかない。

関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する加藤康夫・工藤美代子と同様の手口
南京大虐殺否定論というのは、だいたい東京裁判での弁護側主張の中に原型があるのだが、こんな主張はさすがに含まれていない。当時の日本人は、大本営発表を始めとする戦時中の報道がいかにデタラメだったか、骨身にしみて思い知らされていたからだ。

水間のようなトンデモ主張は、戦争を体験した日本人がほぼいなくなり、また近現代史をまともに教えない文科省教育の成果で無知な日本人が大量生産された結果、初めて可能になったと言えるだろう。

こうした水間の主張と発想がよく似ているのが、震災発生当初の新聞に氾濫した誤報記事(避難民の間に流布した噂をそのまま記事にしたもの)を根拠に、関東大震災時には朝鮮人による暴動が実際に発生し、自警団は自衛のためにこれと戦ったのであって虐殺ではない、などと主張する加藤康夫・工藤美代子夫妻の朝鮮人虐殺否定論だ。こちらも、日本人の無知につけ込んだ悪質な歴史修正である。

まともな近現代史教育の欠如がどんどん日本人を愚かにしていく。やがてこの国はまた同じ過ちを犯すことになるのだろう。

[1] 水間政憲 『完結「南京事件」』 ビジネス社 2017年 P.105-106
[2] 南京事件調査研究会 『南京事件資料集 ①アメリカ関係資料編』 青木書店 1992年 P.266
[3] 水間政憲 『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』 PHP研究所 2013年 P.40
[4] 南京戦史編集委員会 『南京戦史資料集』 偕行社 1989年 P.380
[5] 平井廣一 『日中戦争以降の中国占領地における食糧需給』 北星学園大学経済学部論集 2011年9月
[6] 小林英夫 『日本軍政下のアジア』 岩波新書 1993年 P.4-5
[7] 同 P.13-14

https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/02/21/190826
27:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:04:42

2022-04-16
敗戦の翌年、中国での残虐行為を自慢していた元兵士
https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/04/16/173905

記事の趣旨からずれるので前回記事では取り上げなかったのだが、『砕かれた神』の著者渡辺清氏は、敗戦の翌年、中国帰りの元兵士が自分の犯罪行為を自慢気に語る場面に遭遇している。[1]

1946年3月11日の日記:

 夕じゃ(二時ごろの食事)に帰ったら、川端の火じろ端に宮前のほうの博労ばくろうが二人お茶を飲んでいた。肥った赤ら顔のじいさんと、こびんに大きな火傷の痕のある反っ歯の男だ。川端の種牛を見にきたらしく、はじめは牛の値がどうのこうのいっていたが、そのうちに戦争の話になっていった。おれは上がり框かまちに腰かけて夕じゃをよばれながら、反っ歯がじいさんにこんなことを自慢げに話しているのを聞いた。

 「上海から南京まで進撃していく間に、そうだな、おりゃ二十人近くチャンコロをぶった斬ったかなあ。まあ大根を輪切りにするみてえなもんさ。それから徴発のたんびにクーニャンとやったけや、よりどりみどりで女にゃ不自由しなかった。ほれ、この指輪も蘇州でクーニャンがくれたやつさ。たいしたもんじゃないらしいけんど、そのときもこれ進上するから命だきゃ助けてくれって泣きつきやがったっけ。でもさ、生かしておくってえとあとがうるせえから、おりゃ、やったあとはその場で刀でバッサバッサ処分しちゃった……まあ命さえあぶなくなきゃ、兵隊ってのは、してえ事ができて面白えしょうばいさ。それでお上から金ももらえるんだから、博労なんかよりもずっと割がいいぜ」

 おれはひどい奴だと思った。やったこともひどいが、それ以上におそろしいのは、そのことにたいしてこの男はすこしも罪の意識がないことだ。もし娑婆しゃばでそんなことをすれば、この男は極悪非道な殺人犯としてとうに自分の首が飛んでいるところだろう。ところが戦争ではそれがなんの罪にもならず、曹長にまで進級してこうしてそれを自慢しているのだ。たとえ敵国民にせよ、無辜むこの人間を殺したことには変わりはないのに……。

 反っ歯は南京でのことも話していたが、その残忍さにおれは耳をうたぐったほどだ。あらかじめ本人に穴を掘らせておいてその盛土の上で首をはねたり、女や子どもたちを学校の運動場に並ばせておいて、機関銃で射殺したり、ある場合には川原に連れていって頭から石油をぶっかけて生きたまま焼き殺してしまったそうだ。反っ歯の話では、そんなふうにして殺された人の数は南京だけでも五、六万人はいただろうという。

元兵士たちは、公の場でこうした残虐行為を認めることは決してなかったが、戦友会などの仲間内では平然とこうした話をしていた。それも、大抵は自慢話や笑い話としてである。

彼らはなぜこれほどまでに無反省・無責任だったのか。

先ほどの日記の続きで渡辺氏は次のように書いているのだが、これは正鵠を射ていると思う。まさに、戦後の日本人は、みんながみんな、それぞれの形で天皇を見習っていたのだ。

 おれは支那(中国)のことは入団前も戦地から帰還してくる村の兵隊からいろいろ聞かされて、その様子はうすうす知っていたが、こんなにひどいとは思わなかった。せんだっての新聞にもこんどの戦争で支那に与えた被害は、死傷者や家財を失った者をふくめて二千万人にのぼるだろうと出ていたが、二千万といえば日本の総人口の実に四分の一ではないか。

 しかも支那との戦争は、こちらから押しこんでいった一方的な侵略だった。この責任は重大である。償っても償いきれるものではない。だが日本はいまだに支那にたいしてなんの謝罪もしていないし、天皇もそのことでひと言だって謝っていないのだ。博労の無反省な自慢話ももとはといえば、政府や天皇のそういう無責任さからきているのかもしれない。無責任な天皇をそれぞれがそれぞれの形で見習っている。「天皇がそうならおれだって」というなかば習性化された帰一現象……おれにはそうとしか思えない。


[1] 渡辺清 『砕かれた神 ― ある復員兵の手記』 岩波現代文庫 2004年 P.267-269


https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/04/16/173905
28:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:05:07

2022-04-19
中国で残虐行為に手を染めた元兵士たちの晩年
https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/04/19/081155

前回記事で紹介したような、中国戦線で様々な残虐行為に手を染めてきた兵士たちは、その後どんな人生を送ったのだろうか。

敗戦後には連合軍によるBC級戦犯裁判が行われたが、中国での戦争犯罪に関する裁判は極めて限定的なものでしかなかった。いかに被害が甚大であっても、個々の事件について犯人を個人として特定できる証拠がほとんど残されていなかったためだ。中国国民政府による裁判で訴追された日本人戦犯はわずか883人、うち有罪判決を受けた者は504人しかいない。しかも服役者のすべてが、国共内戦による混乱の中、1949年2月には日本に送還されている。[1]

南京大虐殺に関してさえ、有罪(死刑)判決を受けた者は、東京裁判で裁かれた松井石根(中支那方面軍司令官)、南京軍事法廷で裁かれた谷寿夫(第六師団長)、向井敏明、野田毅、田中軍吉の5名しかいない。向井と野田は「百人斬り競争」、田中は「三百人斬り」で新聞報道されたりして有名になってしまい、言い逃れができなかったからで、それ以外の「無名の」虐殺者たちはすべて処罰を免れたわけだ。

こうして元兵士たちは、戦友会による箝口令などに守られて世間的な非難を浴びることもなく、戦後の長い時間を平穏無事に過ごすことができた。おそらく、時間が経つにつれ、自分がやったことを思い出すこともなくなっていったのだろう。


しかし、結局のところ、人間は自分に嘘をつき通すことはできない。

だから、何気ない会話をきっかけに、こんなことになってしまうこともある。


また、年老いて心身が衰え、近づいてくる自身の死に向き合わなければならなくなると、人は嫌でも自分の人生とは何だったのか、自分は何をしてきたのかを思い起こさざるを得なくなる。

保阪正康氏が、京極夏彦氏との対談の中で、そんな兵士たちの晩年についてこう語っている。[2]

保坂 (略)僕は医学システムの評論やレポートなんかも書くから医者からよく相談されるんですけど、八十代で死にそうなおじいさんがいるというんですよ。

京極 ほう。

保坂 四十代の医者が僕のところにきて、もう動けないはずの患者が、突如立ち上がって廊下を走り出すというんですよ。そして、訳わかんないことを言って、土下座してしきりにあやまるというんです。そういう人たちには共通のものがある。僕はこう言うんです。「どの部隊がどこにいって戦ったかというのを、だいたいは僕はわかるから、患者の家族に所属部隊を聞いてごらん」。みんな中国へ行ってますよ。医者はびっくりします。

京極 ひどいことをしたのをひた隠しにして生きて来られたんですね。

保坂 それを日本はまだ解決していない。

人を殺す、とりわけ無抵抗の相手を殺すという行為は、やってしまえばもう取り返しがつかない。銃剣が肉を突き通す感触も、吹き出す血の色も、呆然と自分を見つめる相手の眼の光も、忘れたつもりになることはできても、真に忘れることなどできないのだろう。

侵略戦争とは、死を前にしてこんな苦しみを味合わなければならない人間を量産する行為でもある。

[1] 林博史 『BC級戦犯裁判』 岩波新書 2005年 P.102~106
[2] 『スペシャル対談 京極夏彦×保阪正康』 IN・POCKET 2003年9月号 講談社 P.30-31

https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/04/19/081155
29:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:11:44


【永久保存版】南京大虐殺の証拠~当時の記録映像と生存者の確実な証言
2015/03/02
https://www.youtube.com/watch?v=uyVeMusrS-k


貴重資料『南京事件Ⅱ』
https://www.youtube.com/watch?v=yrLPTGCXPr0


【貴重証言】加害者としての日本軍
https://www.youtube.com/watch?v=vh64udZTUTs


CGで再現「南京大虐殺」
2018/10/24
https://www.youtube.com/watch?v=QJ38Hg7Vdw8


中村江里「旧日本軍の戦争神経症と見過ごされてきたトラウマ」
2018/11/01
https://www.youtube.com/watch?v=U_UrxS7zLYM


▲△▽▼


日本軍の記録に残る南京大虐殺(軍命令により実施)
2015/03/05
https://www.youtube.com/watch?v=20HWTlXY-Wc


The Battle of China (1944) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PLquddQhjZLFjqNKMr9NAe2oZo2Y-v0HYO
https://www.youtube.com/results?search_query=The+Battle+of+China++1944
https://www.youtube.com/watch?v=PtFJW-Vnfxw
https://www.youtube.com/watch?v=TIkrgOmsbVY

ザ・バトル・オブ・チャイナ

『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(The Battle of China, 「中国の戦闘」の意)は、フランク・キャプラが監督したプロパガンダ映画『我々はなぜ戦うのか』シリーズの6作目である。1944年(昭和19年)にアメリカで上映された。

戦争当事国の中華民国をはじめ、欧米や中華人民共和国などではニュースや報道番組において、現在でも日本軍による残虐行為の記録フィルムや記録写真として、これらの映画の一部が頻繁に使用されている。

1944年にアメリカで、一般に劇場公開された。数人の評論家から問題点(内容に誇張が多い・中国人自身の問題に全く触れていない)を指摘されたことにより、一時的に回収されたが再度上映され、戦争終結までに約400万人が観ることになった[1]。スタンフォード大学歴史学部長のデビッド・ケネディは南京大虐殺は反日プロパガンダの中核となり、この映画はその顕著な一例であるとしている[2]。

本編の内容は、南京陥落後、「市民自らが掘らされた穴に落とされ、折り重なるように生き埋めにされるシーン」や、「殺された息子にすがり付き、泣き叫ぶ年老いた父親の姿」等が日本軍の残虐行為として編集されている。
30:777 :

2022/05/29 (Sun) 14:19:23


南京事件資料集
http://kk-nanking.main.jp/

南京事件(南京大虐殺)の真実
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

▲△▽▼

南京大虐殺30万人は過大評価なのか?
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/108.html

日中戦争証言
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/103.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

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