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『存在の耐えられない軽さ The Unbearable Lightness of Being』1988年

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2022/05/26 (Thu) 01:58:39

『存在の耐えられない軽さ The Unbearable Lightness of Being』1988年


監督 フィリップ・カウフマン
脚本 ジャン=クロード・カリエール フィリップ・カウフマン
原作 ミラン・クンデラ
音楽 レオシュ・ヤナーチェク
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
公開 1988年2月5日


動画
https://www.nicovideo.jp/search/The%20Unbearable%20Lightness%20of%20Being%20%E3%80%80%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E8%80%90%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E8%BB%BD%E3%81%95%20%E3%80%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E5%AD%97%E5%B9%95%E3%80%80%2F9?ref=watch_html5
https://www.youtube.com/watch?v=k7ph0Z21kik


『存在の耐えられない軽さ』(The Unbearable Lightness of Being)は1988年製作のアメリカ映画。 冷戦下のチェコスロバキアのプラハの春を題材にしたミラン・クンデラの同名小説の映画化。


ストーリー

舞台は、1968年前後のチェコスロヴァキアのプラハ。主人公トマシュは優秀な脳外科医だが、複数の女性と気軽に交際するプレイボーイでもあった。ある日、執刀のために小さな温泉街に行ったトマシュは、カフェのウェイトレスで、写真家の道を志すテレーザに出会う。街から逃げ出したかったテレーザは、トマシュを追ってプラハに上京してくる。うぶそうに見えたテレーザの、思いがけない情熱にほだされたトマシュは、彼女と同棲生活に入り、まもなく結婚する。

社会主義からの自由化の空気の中で、まずは幸福な新婚生活が始まったが、すぐにトマシュに女の影がちらつき始める。一度遊んだ女には見向きのしないトマシュであったが、例外的な女もいた。自由奔放な画家のサビーナである。彼女とはお互いに束縛し合わない関係が長く続いており、彼女にも別に愛人がいた。

都市プラハで孤独に苛まれたテレーザは、毎晩悪夢に苦しむようになる。それでもトマシュのもとからは去ろうとしない。結婚生活が暗礁に乗り上げた頃、1968年8月20日、ソ連軍によるチェコスロヴァキア侵攻(英語版)の夜が来た。 ソ連軍の戦車と、糾弾の声をあげる民衆の波に交じって、無心にカメラのシャッターを切るテレーザ。トマシュは彼女を守りつつ、群衆に交じってスローガンを叫ぶ。しかし次第に、チェコの民衆の声は弾圧され、再びソ連支配の重苦しい空気が流れていく。

トマシュはテレーザと共に、一足先に亡命していたサビーナを頼って、スイス・ジュネーブへと逃避する。テレーザはサビーナの紹介で、雑誌のカメラマンの職を得る。急速に距離を縮めるテレーザとサビーナをよそに、トマシュはサビーナとの逢瀬を続け、行きずりの女性とも関係を持つことをやめない。トマーシュの止まない女癖の悪さ、生きることへの軽薄さに疲れ果てたテレーザは、手紙を残して、愛犬を連れてひとりプラハへと帰っていく。「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとっては軽い。私はその軽さに耐えられない。」

ようやくトマシュは失ったものの大きさに気づき、ソ連の監視の厳しいプラハへと戻る。2人はこの時はじめてお互いを理解しあった。自分の主義を曲げようとしないトマシュは医師の職を得られず、窓拭きの仕事に甘んじるようになる。やがて2人は、プラハを逃れ、地方の農村でつましくも幸福な生活を送っていたが、それも唐突に終わる―。

後日アメリカで暮らすサビーナのもとに、2人が交通事故で死んだことを知らせる手紙が届いた。三角関係の恋愛といえど、大切な2人の人間を失ったサビーナは、異郷で涙にくれるのであった。


キャスト
ダニエル・デイ=ルイス:トマシュ
ジュリエット・ビノシュ:テレーザ
レナ・オリン:サビーナ
デレク・デ・リント:フランツ
ステラン・スカルスガルド:エンジニア
ダニエル・オルブリフスキー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E8%80%90%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E8%BB%BD%E3%81%95_(%E6%98%A0%E7%94%BB)


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存在の耐えられない軽さ


「人生は私にはとても重いのに、あなたにはごく軽いのね。私、その軽さに耐えられないの」

一人の男と二人の女。彼らは"プラハの春"を生きた---。
1968年のプラハ。国内外に民主化の風が吹き荒れる中、有能なる脳外科医トマシュは自由奔放に女性と付き合い、人生を謳歌していた。そんな彼の生活が、出張先で立ち寄ったカフェでウェイトレスをしていたテレーザと出会ったことで一変する。テレーザはトマシュのアパートに押しかけた挙句、同棲生活を始めると言い出したのだ。女性と真剣に付き合ったことのないトマシュは困惑しつつも承諾するが、以前から付き合っている画家のサビーナとの関係も終わらせたくない。こうして一人の男と二人の女の微妙な三角関係が始まった---。

"プラハの春"を生きた三人の男女を描いたミラン・クンデラの同名ベストセラー小説を名匠フィリップ・カウフマンが映像化。

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もう今から15年近く前でしょうか、当時付き合っていた女性が観たいと言って付き合いがてら映画館に入りました。いわゆる自称アート系文化人を気取った(当時はそんな言葉はまだ無かったが)連中が観にいきそうなこの手の映画(と決め付けていた)で正直あまり気は乗りませんでした。上映開始後、30分、1時間、2時間・・・「長げぇなー」と正直少々退屈したりもしていたのですが、

主人公2人が死んだと知らされた後のラストシーン、ダニエル・デイ・ルイスがビノシュから、

「今何考えているの?」
と聞かれ、
「How Happy I am」

と答え、物語は終わり、エンドロールが静かに流れ始めてから・・・ポロッ、ポロポロッ、と涙が静かにこぼれ始め、暫く止まらなくなり、なかなか席を立てなかった事を、今でも鮮明に覚えてます。

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画面に漂うアンニュイと哀しみが印象的な映画でした。「あのラストは何だろう」という感想を目にしましたが、この映画の結末は(ゲーテの)『ファウスト』第一部の結末とオーバーラップしています。因みに「むく犬」や「メフィスト」という名の豚などが出てきました。それを思い合わせると、いろいろなことが考えられるでしょう。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005R236/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4087603512&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=0BJ7FT9YMKB5NS5T8D5R


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全編にわたってヤナーチェクの音楽が使われている。

”プラハの春”でソ連軍が戦車でプラハに侵攻してくるシーンで、ビートルズの「ヘイ・ジュード」が流れていた。


1. 「おとぎばなし」~第3楽章

2. フリーデックの聖母マリア~ピアノ組曲「草かげの小径にて第1集」より

3. 「霧の中で」~第2曲

4. ヘイ・ジュード

5. ヨーイ,ヨーイ,ヨーイ

6. 弦楽四重奏第2番「ないしょの手紙」~第4楽章

7. ヴァイオリン・ソナタ~第4楽章

8. 病気の鳥はなかなか飛ばない~ピアノ組曲「草かげの小径にて第2集」より第4曲

9. 弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」~第3楽章

10. 飛んでいった木の葉~ピアノ組曲「草かげの小径にて第1集」より

11. おやすみ~ピアノ組曲「草かげの小径にて第1集」より

12. 弦楽のための牧歌~第5曲アダージョ



もう一つの「ヘイ・ジュード」

1989年のチェコスロヴァキアのビロード革命の折に、1960年代のチェコの歌手マルタ・クビショヴァーによる、チェコ語でのカバー曲が、民主化運動を行う民衆を励ます曲として、「マルタの祈り」と共に民衆によって歌われた。

クビショヴァーによる「ヘイ・ジュード」は、1968年にチェコにソヴィエト軍が侵攻し、いわゆる「プラハの春」を弾圧した事件に抵抗する為に「マルタの祈り」等と共にレコーディングされていたのであった。
なお、チェコ語版の歌詞においては「ジュード」は女性という事になっている。

The Beatles, in Hey Jude
https://www.youtube.com/results?search_query=The+Beatles++Hey+Jude

Hey Jude -- by Marta Kubišová
http://www.youtube.com/watch?v=g9QLFJKqaMw

Marta Kubišová - Modlitba pro Martu (1968)
http://www.youtube.com/watch?v=S3UaBQSYQCU&NR=1



ヘイ ジュード
Hey Jude / Marta Kubišová, recitál Proudy, FSB 1969
http://www.youtube.com/watch?v=g9QLFJKqaMw

Hey Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
Remember to let her into your heart
Then you can start to make it better
Hey Jude, don't be afraid
You were made to go out and get her
The minute you let her under your skin
Then you begin to make it better
And anytime you feel the pain
Hey Jude, refrain
Don't carry the world upon your shoulders
For well you know that it's a fool who plays it cool
By making his world a little colder
Hey Jude, don't let me down
You have found her now go and get her
Remember to let her into your heart
Then you can start to make it better
So let it out and let it in
Hey Jude, begin
You're waiting for someone to perform with
And don't you know that it's just you
Hey Jude, you'll do
The movement you need is on your shoulder
Hey Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
Remember to let her under your skin
Then you'll begin to make it better



最後のダンスで使われているのは

ジプシー歌謡『二つのギター』
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/472.html


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片足走者の長距離レース~クンデラの「めぐり逢い」を読む

クンデラの父、ルードヴィクはヤナーチェクに師事した音楽学者だった。そんな縁もありヤナーチェクの死の翌年にブルノで生まれたクンデラは幼少より彼の音楽に馴染んでおり、本書でも「最初の愛」と題された章においてヤナーチェクの音楽こそが自分の芸術上の原点であるとして、2編のエッセイ(「片足走者の長距離レース」、「最もノスタルジックなオペラ」)を寄せている。

クンデラは、機会あるごとにヤナーチェクについて触れており、邦訳されたものにはエッセイ集「裏切られた遺言」に納められた「一家の嫌われ者」があった。本書の「片足走者の長距離レース」は、「一家の嫌われ者」と通じる内容で、いかにヤナーチェクが誤解され、現代音楽としての真価が認められていないかについて語っている。

クンデラは、亡命先のフランスで、ヤナーチェクについてラジオで語る機会を何度か得て、その後は音楽誌にCD評を寄せるようになった。しかし、満足できる演奏が少なく、その原因は技術的な問題というより作品の独自性への無理解にあるという。そして、ヤナーチェクは、その作風が長く誤解され、彼を理解する擁護者も少なかったと述べ、そうしたハンディを背負った苦しい戦いを「片足走者の長距離レース」に喩える。

クンデラはヤナーチェクへの無理解はいまだにあると嘆き、CDのライナーノートに

「スメタナの精神を受け継ぐ者※」という記述を見つけては腹を立て、有名なラルース大辞典(Larousse)の項に

「彼は民謡の体系的な収集を行い、その成果は彼の作品と政治意識全般に影響を与えた。」

「(彼の作品)はきわめて愛国的で民俗色が濃い」

「(彼のオペラ)は社会主義的なイデオロギーに裏打ちされている」という記述を拾っては、「ありえない戯言」、「現代音楽の国際的文脈外におく言い草」、「まるでナンセンス」と痛罵している。

また、この辞典に初期作品『シャールカ』は記されているのに、晩年の傑作『死者の家から』の記述がないことに強い不満を示している。

クンデラが評価する数少ない例外は、録音ではアラン・プラネスによるピアノ曲集(HM)とアルバン・ベルクSQの弦楽四重奏曲(EMI)、その他、演奏家ではマッケラスやブーレーズである。

私からみるとクンデラのヤナーチェク観は少々脱チェコ音楽に傾きすぎているように思える。どこまで意図的なのかわからないが、ヤナーチェクとドヴォジャークの強い繋がりや、民謡への傾倒、チェコの演奏家については触れていない。また、クンデラほどの大作家が、なにもライナーノートや辞典の記述にそんなに目くじらを立てなくても良いのにとも思う。

チェコを代表する作家といえば多くの方がクンデラの名を挙げるだろうが、彼としては祖国に対し少々複雑な思いがあるのだろう。実際、チェコ国内ではクンデラに対し外国に逃げて成功した作家という妬みの混じった評価もあると聞く。クンデラがチェコ音楽を越えた現代音楽の文脈にヤナーチェクの独自性を位置づけることに拘るのは、多分に個人的な思いも含まれているのかもしれない。


※スメタナ、ドヴォジャーク、ヤナーチェクはチェコの国民楽派として一括りにされるが、スメタナは当時国際的な主流だったワグネリズムから国民音楽を創造しようとし、ドヴォジャークやヤナーチェクは独自路線を歩んだ。そのため、ドヴォジャークやヤナーチェクはスメタナ派から激しく攻撃されたという背景がある。

クンデラの最新エッセイ集「めぐり逢い」の中のもう一編、「最もノスタルジックなオペラ」では、『利口な女狐の物語』の幾つかの場面を例に、ヤナーチェクがオペラ作品においてどのように音楽に主導的な役割を与えたのかについて論じられている。

その場面とは、序曲の冒頭や、2幕で泥酔した校長先生が想いを寄せる女性と間違えてヒマワリを口説くシーン、3幕、居酒屋で森番と校長先生、パーセクのおかみさんがしんみり語り合うシーン、そして森番が回想するラストシーンである。いずれもオペラの筋に大きく影響しないがユニークが音楽が付けられているところだ。

少し長いが当会対訳解説書からヒマワリの場面のセリフを引用する。

校長(小道を歩みながら)

 わしの重心が動いてるのかな,
 それとも地球が西から東へ回ってるのかな。
 今日は何かおかしい。

 ・・・・

 ありゃりゃ!(倒れる)

(ビストロウシカがヒマワリの後ろに入りこむ)

(校長はびっくり眼でヒマワリをみつめる)

 スタッカート!【校長の心の中で音楽が鳴る】

(ぎくっとして人差指を高くあげる)

 フラジオレット!

【お気に入りのコントラバスのように,杖の首根っ子をなでる】

(一陣の風,ヒマワリは妖しげに震える)

(校長は驚いて目を上げる)


 ああ,テリンカ! 君にここで会えると分かってたら,
 あんな酔っ払い二人ととっくに別れてたのに。
 わたしを愛してる? さあ,言ってくれ!


(謎の存在は頭を振る)


 わたしはもう長いことあなたを愛してる,

 わたしの運命は君の手中にある,そして答えを待ってる!

 恋の炎に燃える,か弱き男を許してくれ!

 わたしは君についてく。この腕に君を抱きしめたい!

(ヒマワリは垣根からお辞儀する)

http://members3.jcom.home.ne.jp/janacekjapan/vixen.htm

クンデラは、太字のセリフについて手描きの譜例を添え、この短く何気ない音楽にもストラヴィンスキーばりのどきりとするような不協和音が含まれていることを指摘し次のように述べる。

これが老いたヤナーチェクの智恵なのだ。彼は感情のおける馬鹿げた要素に芸術性が乏しいわけではないことをよく分かっている。校長先生の情熱が真剣で偽りないほどに、この場面はいっそうコミカルで、また物哀しいものになる。(この点、このヒマワリの場面に音楽がないことを想像してみるがいい。滑稽なばかりだろう。薄っぺらで滑稽だ。音楽があってこそ隠された痛みが示されるのだ。)

ヒマワリへの恋歌についてもう少し考えてみよう。このわずか7小節ばかりは反復も回帰もされず長引かされることはない。これは、長い旋律を深め拡げることにより単相の感情状態を増幅させるワグネリアンの主情主義と対極にあるものだ。ヤナーチェクとって感情は強調されるのではなく高度に集中すべきもので、だからこそ短くなる。この世は回転木馬のようなもので、感情は通り過ぎ、回転して、飛び散り、はじけていく。そして、その矛盾にもかかわらず、しばしば間髪入れず手応えを感じさせるだろう。これこそがヤナーチェクの音楽全てに独特な緊張感を与えているのだ。

(Kundera:Encounter 137-138p)


そして、気怠くノスタルジックなモチーフとスタッカートのモチーフがぶつかる序曲の冒頭を例に、整合しない感情的要素が重ね合わされる効果を指摘する。

また、森番にカエルが語りかける幕切れを例に、ヤナーチェクが19世紀のロマンチシズムから脱していることを指摘し、次のように書いている。

19世紀において中欧はバルザックもスタンダールも産まなかった一方、オペラを崇めた。中欧以外では見られない程にオペラは社会的、政治的、国家的役割を果たした。そしてオペラにまつわる諸々、その精神、人口に膾灸した大言壮語は偉大なモダニストたちに皮肉な苛立ちを巻き起こした。例えばヘルマン・ブロッホにとって、ワーグナーのオペラはその虚飾性と感傷性、非リアリズムからキッチュの典型の最たるものだった。

その作品の芸術性において、ヤナーチェクは中欧の偉大な(そして孤立した)反ロマンチシズムの星座に位置していた。彼は生涯をオペラに捧げたが、オペラの伝統や慣習、身振りに対する考えはブロッホと同様に批判的なものだった。

(Kundera:Encounter 141p)

このエッセイは、いささか老いの繰り言めいた「片足走者の長距離レース」よりもずっと面白かった。といっても、ここでクンデラが指摘したことはヤナーチェク好きなら皆感じていることだろう。しかし、クンデラは、それらを明晰な言葉にしてヤナーチェクの芸術を中欧の文化の文脈に位置づける。そこが刺激的だった。「ヤナーチェクとって感情は強調されるのではなく高度に集中すべきもので、だからこそ短くなる。」というのは、まさにこの作曲家の本質だと思う。

ヤナーチェクのオペラを愛する人なら誰でも、ささやかなフレーズに心揺さぶられる思いをしたことがあるだろう。

例えば『利口な女狐の物語』の3幕パーセク亭での校長先生の一言。

パーセク夫人
 うちの人に手紙をよこしたわ。淋しいって・・・

森番(不意に)
 勘定だ,わしは帰る。

校長(驚き,優しい口調で)
 こんなに早くどこへまた?

(歌劇『利口な女狐の物語』)


例えば『マクロプロスの秘事』の第2幕で若い二人を横目に「あの二人、もう寝たのかしら」という会話。人生に倦み果てた337歳のヒロインが漏らす一言。

エミリア
 いずれそうなるってことよ。そんなのとるに足らないことよ。

プルス
 じゃあとるに足るというのはどういうこと。

(歌劇『マクロプロスの秘事』)

確かに、このような味わいは、この作曲家ならではだ。そして、このような箇所を聴きこむほどに発見するのも、ヤナーチェクのオペラを聴く醍醐味といえるだろう。
http://pilsner.blog100.fc2.com/blog-entry-133.html
http://pilsner.blog100.fc2.com/blog-entry-136.html



まあ お国自慢はともかく、クンデラが愛したヤナーチェクの“重い音楽”より酒場でジプシーが歌っていた“軽い音楽”Two Guitars の方が遥かに名曲でしたね (嘲笑い)


ジプシー歌謡『二つのギター』

【ロシア語】二つのギター (Две гитары) (日本語字幕)
https://www.youtube.com/watch?v=UEGU-1gOPWE&feature=emb_title


イリーナ・スルツカヤ 2007 EX Gipsy
https://www.youtube.com/watch?v=u2NEzk4Jgp4

Guest skater for Japan Super Challenge in Jan 2007




2:777 :

2022/05/26 (Thu) 02:14:36

人生に、重さはあるのか?――『存在の耐えられない軽さ』
佐竹 2019年10月12日
https://note.com/c53x3x3/n/n19a7655d5baa


 我々の人生に、重さはあるのだろうか?


 例えばたいていの物語では、主人公の〈重さ〉がドラマの起点となる。彼/彼女は逃れられない使命を背負っており、その重荷に耐え、なすべきことをなせるか、というところにドラマが生まれる。重荷は人に試練を与えるが、同時に生きる意義をも与える。

 しかし人生というものは本質的に軽い。なぜなら人は一度きりしか生きられないから。

 『存在の耐えられない軽さ』冒頭では、この人生の〈軽さ〉についてニーチェの永劫回帰という思想に触れたうえで次のように述べられている。

永劫回帰という神話を裏返せば、一度で永久に消えて、もどってくることのない人生というのは、影に似た、重さのない、前もって死んでいるものであり、それが恐ろしく、美しく、崇高であっても、その恐ろしさ、崇高さ、美しさは、無意味なものである。
永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。(中略)もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現れうるのである。

 人生が永遠に繰り返されるものだとしたら、人生は宿命を帯びた重いものになる。しかし一回きりで消えてしまう人生にはいかなる必然性もなく、ただ「どうとでもなりうる」という偶然性があるのみである。我々の人生は羽のように軽く、自由で、そして無意味だ。

 その無意味さに耐えられないとき、我々は人生に〈重さ〉を与えようとする。自分の使命を見出したり、愛する人のために生きたり、ある思想を信じることで、自分をより大きいものに接続させようとする。だがその〈重さ〉は我々を縛りつけ、思考と行動の自由を奪いもする。

 そこで、作者は我々に次の問いを投げかける。

重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?

 〈重さ〉と〈軽さ〉。この「あらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的」な二項が、この美しい物語の川床を流れつづけるのである。


1.あらすじ

 『存在の耐えられない軽さ』は、チェコ出身でフランスに亡命した作家ミラン・クンデラが1984年に発表した小説である。

 舞台は1968年前後のチェコスロバキアのプラハ。優秀な外科医のトマーシュは前妻と離婚してから数多くの短期の恋人との関係を楽しんでいたが、小さな田舎町でウェイトレスとして働いていたテレザと恋に落ち、プラハで共に生活を始める。しかしそれからもトマーシュの浮気癖は直らない。数多の女の中でも、トマーシュが継続的に関係を持っているのが画家のサビナだ。彼女は以前のトマーシュと同様に夫婦や家族といった規範的な関係性を嫌い、一人で生きる聡明な女性である。一方テレザはサビナのはからいで新聞社の写真室で働くようになるが、トマーシュの浮気に苦悩し、悪夢ばかり見るようになる。

 そんな折、1968年8月20日にソ連軍のチェコスロバキア侵攻が起き、トマーシュとテレザはスイスのチューリッヒへ逃れる。
チューリッヒに来てからも、トマーシュは同じくスイスへ逃れていたサビナと、そして他の女ともまた関係を持ち始めてしまう。テレザは見知らぬ町でひたすら嫉妬心に苦しめられる生活に耐えきれず、一人でプラハに戻る。トマーシュはまたプラハに戻ればもう二度と国外に出られないことを承知のうえ、テレザを追ってソ連軍に占領されたプラハへ戻る。

 その後、トマーシュは侵攻以前に投稿したある文章がもとで警察に目を付けられ、外科医の職を追われ、田舎でトラック運転手の仕事につく。トマーシュとテレザはその田舎での生活に幸福を見出すのだった。

 この小説はトマーシュとテレザ、サビナという三人の人物を軸に展開する。一人で奔放に生きるサビナと、トマーシュただ一人に愛情を注ぎ続ける無垢な田舎娘テレザ。この二人の女は対照的な人物として描かれる。サビナは〈軽さ〉、テレザは〈重さ〉の側に属しているように見える。しかしこの二人の女はどちらも自身の〈存在の耐えられない軽さ〉に苦しめられているのだ。彼女たちが抱えている〈軽さ〉とはそれぞれどのようなものであろうか?



2.サビナの〈軽さ〉ーー隊列を離れること
 サビナは家族、恋人、共産主義下のさまざまな抑圧から逃れ続け、一人で自由に生きる。サビナはそれを「裏切り」と呼び、あらゆる〈重さ〉と同調することを拒み続けた。

裏切りとは隊列を離れて、未知へと進むことである。サビナは未知へと進むこと以外により美しいことを知らなかったのである。
 「隊列」のわかりやすいイメージはメーデーのパレードや抗議集会での行進である。みんなで同じリズムで行進し、同じタイミングで同じスローガンを叫び、歌を歌い、こぶしを突き上げること。隊列のなかで人々は、その思想が達成されたあとに待っている完璧で理想的な世界観に酔いしれ、その世界観をここにいる全員と共有していることに感激する。この世界観の美的な理想を「俗悪なもの(キッチュ)」という。

 キッチュとは本作を読み解く鍵となる概念である。本作をはじめ多くのクンデラ作品を訳した西永良成は、キッチュとは「なにがなんでも「存在との無条件の一致」に同意したいと願う人間の価値観・美意識・倫理観に基づく欲求のこと」(1)だと述べている。それをわかりやすく言い表しているのが作中の次の記述だ。

俗悪なものは続けざまに二つの感涙を呼び起こす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!
第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのはなんと素晴らしいんだろう!
この第二の涙こそ、俗悪を俗悪たらしめるのである。
世界のすべての人びとの兄弟愛はただ俗悪なものの上にのみ形成できるのである。
 例えば共産主義、人類愛、世界平和。これらの思想が提示する世界観は絶対的に肯定すべき理想郷であり、そこに汚いものは存在しない。汚いものはその世界の外に、その世界観に同意できない者たちのなかにのみ存在する。そのような、「糞が否定され、すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界」が、キッチュな美的理想ということになる。 

 しかし西永が指摘するように、「いかなる具体的な「存在」も完全無垢なものではありえず、なにかしらの汚点、欠陥、どうしても許容しがたいものをかかえている」(2)。そこでその矛盾を覆い隠すために、その世界を感情で支配してしまうのだ。感情が支配している世界で、理性が疑問を差し挟むことは不作法である。サビナは全体主義が人々を迫害している現実そのものよりも、人々を行進させるその美的な理想に身震いを感じた。

 ちなみに、この〈キッチュなもの〉は全体主義にのみ現れるものではなく、全体主義と戦う者たちのなかにも表れる。

だがいわゆる全体主義的な体制と戦う者たちは単に質問することと、疑うことによってのみかろうじて戦えるにすぎない。この者たちもできるだけ多くの人に理解でき、集団の涙を喚起させるために、自分自身の確実さと単純な真実を必要としていえる。
 だから、彼らが何を叫んでいるかはサビナにとって問題ではないのだった。例えばチェコの抗議集会で叫ばれていたソビエト帝国主義反対のスローガンは彼女の気に入ったが、そのスローガンを一緒に叫ぶことはできなかった。ただ、全員と同じ身ぶりをし、感涙を共有することが彼女にはできなかったのである。

 彼女の裏切りの旅の先には何が待っていたのだろうか。サビナは新しい恋人の大学教授フランツのもとから去ったとき、自分にはもう裏切るべき何物も残っていないことに気が付く。

サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。
これまではそれぞれの裏切りの瞬間が裏切りという新しい冒険に通ずる新しい道を開いたので、彼女を興奮と喜びで満たしてきた。しかし、その道がいつかは終わるとしたらどうしたらいいのか?人は両親を、夫を、愛を、祖国を裏切ることができるが、もう両親も、夫も、愛も、祖国もないとしたら、何を裏切るのであろうか?
サビナは自分のまわりに虚しさを感じた。ところで、もしこの空虚さが彼女のこれまでのすべての裏切りのゴールだとしたら?
 隊列から離れるということは、外部からの動員に応じず、理性によって自らの道を切り開いていくことだ。それは自由になることであり、世界を正しく見つめようとすることである。そのサビナの生を、空しいと断じることはできない。しかしそうしてあらゆる〈重さ〉から逃れた先には、ただ〈存在の耐えられない軽さ〉があるのみだった。

 さて、ここでもう一度冒頭の問いに戻ろう。


 重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?




3.テレザの〈軽さ〉ーー裸の女たちの行進

 テレザはサビナとは対照的に、愛に生真面目な女である。〈軽さ〉という概念を語るときにはサビナをその体現者として論じられることが多いが、しかしテレザもまた、〈存在の耐えられない軽さ〉に苦しめられてきた。それはサビナの〈軽さ〉とは性質を異にする。

 トマーシュはテレザと結婚してからも、浮気を止めることができなかった。テレザはそれに苦悩し、悪夢ばかり見るようになる。とりわけて印象的なのが、プールサイドで裸の女たちと行進させられる夢だ。

「大きな室内プールだったの。我々二十人くらいいたわ。みんな女。みんな裸で、プールのまわりを行進させられていたの。(中略)あなたがみんなに命令してたの。あなたがどなっていたわ。我々は行進しながら歌うの、そして、兎跳びをするの。兎跳びがうまくできないと、あなたったら、ピストルで撃って、女が一人死んでプールに落ちたわ。そうするとみんな笑いだして、より大きな声で歌うの。そして、あなたったら我々から目をずっと離さないでいて、また誰かが何かをやりそこなうと、その人を撃つの。プールには死体が一杯になり水面のすぐ下まで盛り上がっていたわ。私には分っていたの、もう次の兎跳びをする力がないのが、そして、あなたが私を撃つのが!」

 この夢は一体何を示しているのだろう。裸で行進する女たちというのはトマーシュの浮気相手たちのイメージだと思われるが、彼女たちはなぜ行進し、兎跳びをしているのか。ここを読み解くには、テレザと母親との関係について語る必要がある。


 テレザの母親は若いころから自分の美しさを誇りに思っていた。彼女はたくさんの男に求婚された。しかし愛し合っているときに男がわざと「注意をしなかった」せいでテレザが生まれ、不本意な結婚をしてしまう。そして結局夫と別れ、「すでに何回かの詐欺を働き、二回離婚している男らしくない男」と結婚し、小さな田舎町に追いやられる。そこでお店の売り子として働き、さらに三人の子どもを産んだ。そのあと鏡を見たとき、自分が年老いて、醜いということを見出した。母親は何もかも失ったことを確認した。

 そこで母親はどうしたか?

 彼女は「自分が過大評価していた若さとか美しさというものが実際には何らの価値もない」と思うことにした。彼女は家のなかを裸で歩きまわり、大声で自分の性生活について語り、大きな音をたてておならをして笑った。

 そして母親はテレザにも、「羞恥心のない世界に彼女と共に残ることを断固として主張した。その世界とは若いということや美しいということが何の意味も持たず、全世界が一つの巨大な、身体の強制収容所以外の何物でもなく、その身体というのは一つ一つが似ていて、心が身体の中で見えなくなっているのである。」 

 だから、テレザが裸を見せるのを嫌がったり、風呂場に鍵をかけたりすると母親は激怒した。娘が何か自分固有の価値に固執することを許さなかった。母親は次のように言おうとしたのである。「お前の身体は他の身体と同じようなもので、恥ずかしがる権利などない。他の何億という同じような例があるのに、それをかくす理由など持ち合わせていない」と。

 テレザはその世界を嫌悪する。そして、母親に隠れて鏡の前で自分の裸を眺めるようになる。これは若かりし頃の母親のような自惚れからではない。自分の身体が他と同じようなものではなく、内面がそのまま投影されたような、自分固有のものであると確認したいという願望からであった。


 この母親の話によって、先ほどの夢の意味が明らかになってくるだろう。テレザは母親によって裸の女たちと行進させられていたのだ。女たちは自分たちの身体が同じで、同じように無価値であることに喜んでいた。「それは魂なき者たちのうれしい連帯であった。女たちは心の負担、このおかしな誇り、個体であるという幻想をかなぐり捨て、誰もが同じであることに幸福を感じていた。」
 これは前述のキッチュな行進と重なる。彼らもまた、一つの美的幻想の下に全員が同一化できることに感激の涙を流し、同じ動きをして同じ歌を歌っていた。

 それではなぜ、母親のもとから逃れたのに、彼女は夢の中で行進しているのだろう。それはまさにトマーシュが、彼女を隊列のなかに再び送り込んだからである。

 トマーシュは、愛と性は全くの別ものだという思想のもとに浮気を続けた。しかし愛と性が切り離されるとしたら、テレザとのセックスと他の女とのセックスが区別されないということになる。テレザは愛においてトマーシュのただ一人の女だったが、テレザの身体は他の多数の女のうちのひとつにすぎない。テレザは母親の世界から逃れてトマーシュのもとへたどり着いた。しかしトマーシュもまた、彼女の身体を裸の女たちの隊列に送り込むのだ。


 サビナの〈軽さ〉が、あらゆる価値を裏切り続け、隊列を離れて一人きりで歩いていくことだとすれば、

 テレザの〈軽さ〉は、隊列のなかで無理やり歩かされているときの、自分という存在の耐えがたい無意味さであった。



 キッチュな行進においては、その世界観に絶対的重みがあり、そこに連なる個人の存在は限りなく軽くなるのである。



4.個別的な〈重さ〉

 我々は軽いままでは耐えられず、何らかの〈重さ〉を手に入れようとする。ある者は愛する人のために生き、ある者は夢や使命のために生きる。そしてある者は行進に加わる。自分が偉大な流れの一部であることに〈重さ〉を見出そうとする。彼らが行進しながら何を叫んでいるかは関係がない。(3)宗教も世界平和も人類愛も、「糞など存在しない完璧な世界」を提示して我々を陶酔させる。

 それは現代も全く変わらない。資本主義だって我々に同一の欲望を抱かせて、消費の高揚感のもとに狂ったお祭り騒ぎを永遠に続けさせようとしているのだし、「一人前の社会人」であることや、結婚や家族とかいう出来合いの幸福観をありがたがることもそうだ。ほとんどの場合、我々は自分がその隊列に組み込まれていることにすら気が付かない。

 社会的価値だけではなく、愛という個別的な価値でさえ、我々はすぐ他者を動員させてしまう。クンデラは『ジャックとその主人』のなかで、「感受性は人間にとって欠くことのできないものだが、価値として、真理の基準として、行動の言い訳とみなされるとすぐに、恐るべきものになってしまう」(4)と指摘している。 例えばトマーシュの元妻や両親が、トマーシュの薄情さの非難として「自分たちの模範的な態度や正義感を見せつけた」ように、 愛はかくあるべしという規範を振りかざすようになってしまう。

 そんなふうに、与えられた価値によって自分の人生の意義を見出して満足できるならそれでもよいかもしれない。でもその行進のなかでふと我に返ってしまうと、全員で同じタイミングで同じ動きをし同じことを叫ぶ身振りのなかで、自分という一個の存在の無意味さに気付いてしまうのだ。

 隊列に加わっても、そこから離れても、我々は〈軽さ〉に耐えられない。



 それではどうしたらよいのだろうか? 

 

 テレザとトマーシュは物語の最後に、その答えの一つに近づく。トマーシュがプラハで暮らしていけなくなったことで、二人はチェコの田舎に移る。彼は医師をやめてトラック運転手として働く。テレザはその穏やかな生活に幸福を見出すが、彼をそんな境遇に追いやってしまったことに罪悪感を抱いている。最後、彼らは田舎の安ホテルで踊りながらこんな会話をする。

「トマーシュ、あなたの人生で出会った不運はみんな私のせいなの。私のせいで、あなたはこんなところまで来てしまったの。こんな低いところに、これ以上行けない低いところに」(中略)
「テレザ」と、トマーシュはいった。「僕がここで幸福なことに気がつかないのかい?」
「あなたの使命は手術をすることよ」
「テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ」

 いまや彼らは外的な重みから解放されて軽くなり、ただ内発的な結びつきによって、お互いの個別的な重みを感じることができた。誰にも何も振りかざさない、ある規範のもとに人を動員しない個別的な愛。誰もが誰に対しても力を持たない地点。

 我々にできるのは、ただ誰かの個別的な重みを受けいれることなのだ。紋切り型に落とし込まないこと、キッチュな感傷に落とし込まないこと。それは個人間でも、共同体のなかでも可能なはずだ。

 そんなところに人が到達するのは不可能で、そんな理想郷こそキッチュな美的幻想なのだろう。それでもそこに近い地点に彼らは辿り着いた。だからこそこの小説の終わりは途方もなく美しいのだ。
 



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参考文献
(1) 西永良成『小説の思考 ミラン・クンデラの賭け』平凡社 2016/04/06 p114
(2) 『小説の思考』p115
(3) 『小説の思考』p115「このときの「存在」はキリスト教の神であろうと、民族・国家であろうと、左翼もしくは右翼の運動であろうと、男性あるいは女性一般であろうと、なんでもかまわない。だから、キッチュは宗教的、政治的、社会的、あるいはジェンダー的その他あらゆる種類の形態をとりうる。」
(4) ミラン・クンデラ『ジャックとその主人』近藤真理訳 みすず書房1996/5/9 p6

『存在の耐えられない軽さ』のテクストは、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳、集英社文庫、1998/11/25)から引用した。

https://note.com/c53x3x3/n/n19a7655d5baa
3:777 :

2022/05/26 (Thu) 07:02:57

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫) ミラン・クンデラ (著)

原作を読んだものの立場からだと・・・。, 2006/9/16 By gizaemon -


 小説と、それを基にした映画はまったく違うものであり、異なる評価をすべきという意見もあるだろうが・・・。

 まず、映画版ではかなりのシーンがカットされている。テレザの母親とのかかわり、フランツとサビナとの「理解されなかったことば」のほぼすべて、ペトシーンの丘のくだりなど。

それがいけないのではない。だが、フランツとサビナのすれ違い感を知ることなしには、なぜサビナが「軽く」振舞ったのかよくわからないし、テレザの母親との関係を知らずして、なぜ彼女が「重く」あろうとしたのかがよくわからない。プロットは同じでも、その内実が少々浅いように思えてしまうのである。

永遠回帰的なテーマ性も含ませていない(それなくしては「重さ」「軽さ」いずれかをえらぶかという必然性が生まれないのでは?)。どうも映画のほうはよくある表層的なストーリーとして捉えられてしまうような気がして少々さびしく感じる。

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重さと軽さをめぐる万華鏡, 2001/7/15 By uno


重さと軽さという「もっともミステリアスでもっとも多義的」な対立をめぐり、クンデラお馴染みの小説的思弁が繰り広げられる、面白くて仕方がない「哲学的」小説。映画も評判だったが、原作の方が遥かに面白い。それも当然、この小説でクンデラがラブストーリーに託して展開する考察、時にはエッセイにまで逸脱して行く考察は、はじめから映像化不能なのだ。

重さと軽さをメインテーマに、心と身体、偶然、キッチュなもの、等々を語るクンデラの口調は軽やかで優雅、時にはアイロニックで、深い洞察に満ちているが決して難解ではない。面白いばかりでなく、哲学や思考が美しいポエジーになることをこの小説は確信犯的に証明してくれる。

「存在の耐えられない軽さ」とは、トマーシュが浮気性で「軽い」ためにテレザが苦しむ、などどいうつまらない意味ではない(映画だけ観た人、そう思ってませんか?)。

愛とは宿命的な(重い)ものなのか、それともたまま偶然に発生した置換可能な(軽い)ものなのか? 物語の進行とともにクンデラの「軽さ」はネガティブにポジティブにとその色合いを変え、読者を幻惑する。そしてそれらの「小説的思考」を従えて展開するラブストーリーの深さと美しさは、巷にあふれる恋愛小説の比ではない。この哀切かつ美しい結末を見よ!時には時間が入れ替わり、作者が顔を出し、メタフィクショナルな遊びや洒落っ気にも事欠かず、これはとことん優雅で楽しめる知の饗宴です。


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Unique, 2009/9/19 By DESIRE


私にとってのこの小説のいう「軽さ」は、私たちは本来ひとりひとりまったく異なったUniqueでかけがえのない(重い)存在である筈が、国にとって(特に共産国では)、社会にとって(今や日本では特にそうであろう)、また愛しい恋人にとって、簡単に取り替えの効く居なくなっても大して影響のない「軽い」存在なのだという視点です。

テルザの母親は、その美しさから自分を「かけがえのない、誰よりも幸せを手にする権利を持つ者」から、どこにでもいる中年女へと転落し、娘を初めからどこにでもいるありふれた小娘とみなして育て、娘のユニークな美点を認めなかった。

テルザは自分を「かけがえのない取り替えのきかない存在」と認めてくれる他者が必要な娘に育ち、「どの女も違う(Unique)」ことを正当に評価するからこそドンファンであるトマーシュと出会う。しかし彼にとって、自分がやはり簡単に取り替えの効く軽い存在であるかも知れないことに苦しみ続ける。

トマーシュの外に自分のUniqueを見つけ出そうとして挫折し、その結果選択する行動がトマーシュを成功=自己実現から遠ざけてしまう。常にトマーシュに苦しめられていると思いこんでいた彼女が「自分が大きな愛で彼をみていたら彼を不幸にしなかっただろう」と気づくところがとても哀しく、自分のもたらした今の不幸について彼に確かめたとき、トマーシュが「テルザが幸福であれば自分は幸福なのだ」のように応える。きっとトマーシュは同じことを何度もテルザに伝えていたであろうに、テルザは自分と同じように他の女を抱くトマーシュばかり見ていて気づかなかったのだろうと思います。救いは二人が幸福のうちに死んだであろうことです。

一方「トリスタン(ひとりの女を愛し抜いた人物)として死んだトマーシュ」と受け止めたサビナの心を考えると、息苦しくなります。トマーシュは求めるまま「自分」として生き、その結果は「重さ」に行きついた。サビナもまた「キッチュなもの」=ステロタイプを敵とする「個」として生き抜き、死後は風葬されることを望み、限り無く「軽さ」へと向かう。サビナの孤高さと強さが、テレザの孤独と弱さを対比させ、登場人物の持つ個性がもたらす必然(重い)としての死(軽い)は衝撃的です。

テルザのように恋人のハンティング・ゲームの的になる夢は、恋愛における女性の苦しみの典型だと思います。そして、人生に同じことは2度なく、常に私たちは未経験の選択にさらされていること。私たちには過去の経験はなく、今の自分にとって必然の選択を、間違っているかもしれないとしても選ぶ。 読後に息苦しさを覚えるほど感動したのは久々です。ギリシャやヨーロッパの神話が挿入され、相当に読みにくい本でありながら、生涯読み続けたい本です。

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暗く悲惨な体験だからこそ、軽く羽のように書きたい。


『存在の絶えられない軽さ』の原著は1984年。まさにクンデラがチェコスロバキアからパリに脱出し、チェコスロバキアの国籍も剥奪された時期の発表なんだ。それにしてもクンデラは、プラハの春が蹂躙されるように終った後で、占領軍の政府に運命をさんざん翻弄され、悲惨な体験をかいくぐったはずなのに、この文体の軽さはどうだろう。この(意地でもの)軽さにこそ、クンデラの真骨頂がある。おれはそこに、「暗く悲惨な体験だからこそ、軽く羽のように書きたい。」というクンデラの意思を感じる。

小説『存在の絶えられない軽さ』は、一方で、ドンファンで女たらしの男とおぼこで嫉妬深い女の悲恋、そしてそのドンファンと芸術家肌の美女との三角関係、(いや、正確にはもうひとりサビナの愛人で学者のフランツが出てくるから、四角関係)を描いたものである、と同時に、それは「プラハの春」とその終りを描いたレクイエムでもある。

この小説は、書き方が凝っているから、一回読んだだけでは、かなりとっつきにくいだろう。しかし、2度めに読み返してみると、不思議なことに、物語がぐいぐい胸に染み込んでくる。あるいは、一度読んだ後で、映画版を見るのもいいだろう、
(クンデラはこの映画版を不快におもったらしいだけれど、しかし)、無防備に横たわる女優レナ・オリンは伝えてくれる、サビナのお尻の夢のような美しさを。そしてその映像は、あなたをふたたび小説の世界へと連れ戻すだろう。

読み進んでゆくと、物語はけっこうイイ感じなんだ。女好きでドンファンで次から次へと女とやってる遊び人の外科医が、ちょっとした気のゆるみで、ほんらいだったらゼッタイ恋愛対象に入らないような、おぼこで純情な田舎のウェイトレスのねえちゃんに、憐憫の情と愛情と性欲の入り混じったパッションを萌えあがらせちゃって、そこから人生を狂わせてゆくわけよ。

お、いいじゃない、そうこなくっちゃねぇ。この遊び人外科医の名前は、トマーシュ、これまでの人生でざっと200人の女とセックスを重ねてきた。(がんばるね)。かれは3の規則を遵守してきた、

「同じ女と短い間隔で会ってもいい、

ただし3度以上はだめだ。

その女と長期にわたって何度つきあってもかまわない、

ただしデートのあいだには少なくとも3週間の間隔を置くこと。」

こうしてこれまでかれは軽く、軽く、人生を楽しみ続けてきた。ところがあるとき、なんの気の迷いか、その、おぼこで純情な田舎のウェイトレスに、ちょっとした憐憫の情を寄せてしまう。さぁ、たいへん、彼女はかれを追って、かれの住む都会まで追いかけてきて、なんとかれの「おしかけ女房」になってしまうのだった。
その田舎のウェイトレスだった彼女の名前は、テレザ。 テレザにとって、トマーシュは救いの神だった。なぜって、そもそもテレザは自分の母親との関係に厄介を抱えていたからね。

だって彼女のママは(2度の結婚に失敗し、人生の夢破れ)、いつのまにか、品のない女になり果てていてね。窓の外の人目も気にしないで裸になったり、恥ずかしげもなくおならをぷーぷーするような下品なおばちゃんなんだ、いわばね。テレザはそんな母親を嫌だなぁ、っておもってるわけだけれど、でもその他方で、娘である自分自身が、ママの失敗した結婚の、負の遺産なのね、なんておもっちゃって、いわれのない負い目も感じてもきた。

テレザ、かわいそうでしょ、けなげだよね。しかも彼女は15歳のときからウェイトレスをして働いて、稼ぎはママに渡してきた。そりゃテレザはママとの暮らしが息苦しかったろう、でも、テレザは逃げ出すことができなかった。そんなときテレザは、トマーシュと出会ったってわけ。テレザにとってトマーシュこそが、まさに、それまで甘んじてきたみじめな牢獄かから、文化の香りのする高い世界へ、「わたし」を救い出し、「わたし」を向上させてくれさせてくれる、そんな救世主のような存在だっておもったわけ。

そんなふうにふたりの暮らしが始まったものの、しかしトマーシュのドンファン・ライフはいっこうに収まらない。そりゃそうだよね、女好きとか尻軽とか、たいてい一生治らない。あるときテレザはサビナという名の女からのトマーシュへのラヴレターを発見して、しかもそれが自分と付き合いはじめてからのものだったから、もう嫉妬の炎が燃え上がっちゃって、たいへん。いつしかテレザは、世界中の女が潜在的なトマーシュの女、って疑心暗鬼になっちゃって、すべての女に警戒心を抱くようになってゆく。怖いですねぇ、超怖い。そんなかテレザはおもいがけず写真家になってゆく。

他方、もちろんトマーシュにはあいかわらずたくさんの恋人がいる、モテるのよ、トマーシュはほんっと女たちを惹きつけるフェロモン出してる。そしてそんなトマーシュにとって心が休まるのが、絵描きのサビナ。映画版ではレナ・オリンが演じていたね。

サビナはいたって気も軽く、しかも尻も軽い。その上、トマーシュの魂に美質さえ見てくれる。しかもサビナは(トマーシュに紹介されてテレザと知り合い)、実はテレザはサビナに嫉妬を抱いてるのに、テレザからの要望に応じて、彼女のヌード写真のモデルを務めさえするわけ。ちなみにここは映画版だと、テレザ役のジュリエット・ビノシュがニコンのカメラのファインダー覗きながら、横たわるサビナ(レナ・オリン)の美しい背中を舐めるように眺めたあげく、なにか決心したようにひとおもいに、サビナのパンティを引き摺り下ろし、桃のように美しいお尻を露わにする場面がある。フィルムは即座にカットアップして、サビナのぎょっとした表情に繋いだっけ。(いやぁ、生きてて良かったっておもったよ)。


さて、そんななかソヴィエトの軍隊がチェコに侵入して来る。この事件はむろん悲劇なんだけれど、ただしクンデラはそれを

「たんに悲劇であったばかりでなく、不思議な幸福感に満ちた憎悪の祭典であった」

なんて書くわけ。こういうとこがクンデラの文学者としての凄みで、表現の奥行きを感じる。

さて、テレザはこの歴史的瞬間の写真を大いに撮りまくる。こうして、ドンファン男と嫉妬深い妻の物語は、そして気の軽い絵描きの美女の、奇妙な三角関係の物語は、政治の惨劇とともに、おもいがけない方向へと転調し、それぞれの人生は、風にもてあそばれる木の葉のように変転してゆく。社会主義国家、怖いね。もっとも、運命がおもいがけない偶然に左右されるのは、われわれだって一緒だけれど。

http://bookjapan.jp/search/review/200805/002/01/review.html
http://bookjapan.jp/search/review/200805/002/01/review2.html
4:777 :

2022/05/26 (Thu) 07:21:50

因みに、ミラン・クンデラが大好きなニーチェの永劫回帰の話は旧約聖書の「伝道の書」のパクリです。

それから、ニーチェの思想の殆どはドストエフスキーのパクリだとわかっています。

ニーチェは哲学者ではなく文献学者、神学者、音楽家 兼 文学者なのです。
『ツァラトゥストラ』の『重さの霊』の話も純粋に文学的なものでしょう。


舊約聖書 傳道之書

第1章

1:1ダビデの子 ヱルサレムの王 傳道者の言

1:2傳道者言く 空の空 空の空なる哉 都て空なり

1:3日の下に人の勞して爲ところの諸の動作はその身に何の益かあらん

1:4世は去り世は來る 地は永久に長存なり

1:5日は出で日は入り またその出し處に喘ぎゆくなり

1:6風は南に行き又轉りて北にむかひ 旋轉に旋りて行き 風復その旋轉る處にかへる。

1:7河はみな海に流れ入る 海は盈ること無し 河はその出きたれる處に復還りゆくなり

1:8萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず 目は見に飽ことなく耳は聞に充ること無し

1:9曩に有し者はまた後にあるべし 曩に成し事はまた後に成べし 日の下には新しき者あらざるなり

1:10見よ是は新しき者なりと指て言べき物あるや 其は我等の前にありし世々に旣に久しくありたる者なり

1:11己前のものの事はこれを記憶ることなし 以後のものの事もまた後に出る者これをおぼゆることあらじ

1:12われ傳道者はヱルサレムにありてイスラエルの王たりき

1:13我心を盡し智慧をもちひて天が下に行はるる諸の事を尋ねかつ考覈たり此苦しき事件は神が世の人にさづけて之に身を勞せしめたまふ者なり

1:14我日の下に作ところの諸の行爲を見たり 嗚呼皆空にして風を捕ふるがごとし

1:15曲れる者は直からしむるあたはず缺たる者は數をあはするあたはず

1:16我心の中に語りて言ふ 嗚呼我は大なる者となれり 我より先にヱルサレムにをりしすべての者よりも我は多くの智慧を得たり 我心は智慧と知識を多く得たり

1:17我心を盡して智慧を知んとし狂妄と愚癡を知んとしたりしが 是も亦風を捕ふるがごとくなるを暁れり

1:18夫智慧多ければ憤激多し 知識を増す者は憂患を増す

第2章


2:1我わが心に言けらく 來れ我試みに汝をよろこばせんとす 汝逸樂をきはめよと 嗚呼是もまた空なりき

2:2我笑を論ふ是は狂なり 快樂を論ふ是何の爲ところあらんやと

2:3我心に智慧を懐きて居つつ酒をもて肉身を肥さんと試みたり 又世の人は天が下において生涯如何なる事をなさば善らんかを知んために我は愚なる事を行ふことをせり

2:4我は大なる事業をなせり 我はわが爲に家を建て葡萄園を設け

2:5園をつくり囿をつくり 又菓のなる諸の樹を其處に植ゑ

2:6また水の塘池をつくりて樹木の生茂れる林に其より水を灌がしめたり

2:7我は僕婢を買得たり また家の子あり 我はまた凡て我より前にヱルサレムにをりし者よりも衆多の牛羊を有り

2:8我は金銀を積み 王等と國々の財寶を積あげたり また歌詠之男女を得 世の人の樂なる妻妾を多くえたり

2:9斯我は大なる者となり 我より前にヱルサレムにをりし諸の人よりも大になりぬ 吾智慧もまたわが身を離れざりき

2:10凡そわが目の好む者は我これを禁ぜす 凡そわが心の悦ぶ者は我これを禁ぜざりき 即ち我はわが諸の勞苦によりて快樂を得たり 是は我が諸の勞苦によりて得たるところの分なり

2:11我わが手にて爲たる諸の事業および我が勞して事を爲たる勞苦を顧みるに 皆空にして風を捕ふるが如くなりき 日の下には益となる者あらざるなり

2:12我また身を轉らして智慧と狂妄と愚癡とを觀たり 抑王に嗣ぐところの人は如何なる事を爲うるや その旣になせしところの事に過ざるべし

2:13光明の黑暗にまさるがごとく智慧は愚癡に勝るなり 我これを暁れり

2:14智者の目はその頭にあり愚者は黑暗に歩む 然ど我しる其みな遇ふところの事は同一なり

2:15我心に謂けらく 愚者の遇ふところの事に我もまた遇ふべければ 我なんぞ智慧のまさる所あらんや 我また心に謂り是も亦空なるのみと

2:16夫智者も愚者と均しく永く世に記念らるることなし 來らん世にいたれば皆早く旣に忘らるるなり 嗚呼智者の愚者とおなじく死るは是如何なる事ぞや

2:17是に於て我世にながらふることを厭へり 凡そ日の下に爲ところの事は我に惡く見ればなり 即ち皆空にして風を捕ふるがごとし

2:18我は日の下にわが勞して諸の動作をなしたるを恨む其は我の後を嗣ぐ人にこれを遺さざるを得ざればなり

2:19其人の智愚は誰かこれを知らん然るにその人は日の下に我が勞して爲し智慧をこめて爲たる諸の工作を管理るにいたらん是また空なり

2:20我身をめぐらし日の下にわが勞して爲たる諸の動作のために望を失へり

2:21今茲に人あり 智慧と知識と才能をもて勞して事をなさんに終には之がために勞せざる人に一切を遺してその所有となさしめざるを得ざるなり 是また空にして大に惡し

2:22夫人はその日の下に勞して爲ところの諸の動作とその心勞によりて何の得ところ有るや

2:23その世にある日には常に憂患あり その勞苦は苦し その心は夜の間も安んずることあらず 是また空なり

2:24人の食飮をなしその勞苦によりて心を樂しましむるは幸福なる事にあらず 是もまた神の手より出るなり 我これを見る

2:25誰かその食ふところその歓樂を極むるところに於て我にまさる者あらん

2:26神はその心に適ふ人には智慧と知識と喜樂を賜ふ 然れども罪を犯す人には勞苦を賜ひて斂めかつ積ことを爲さしむ 是は其を神の心に適ふ人に與へたまはんためなり 是もまた空にして風を捕ふるがごとし


第3章


3:1天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり

3:2生るるに時あり死るに時あり 植るに時あり植たる者を抜に時あり

3:3殺すに時あり醫すに時あり 毀つに時あり建るに時あり

3:4泣に時あり笑ふに時あり 悲むに時あり躍るに時あり

3:5石を擲つに時あり石を斂むるに時あり 懐くに時あり懐くことをせざるに時あり

3:6得に時あり失ふに時あり 保つに時あり棄るに時あり

3:7裂に時あり縫に時あり 默すに時あり語るに時あり

3:8愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり

3:9働く者はその勞して爲ところよりして何の益を得んや

3:10我神が世の人にさづけて身をこれに勞せしめたまふところの事件を視たり

3:11神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり

3:12我知る人の中にはその世にある時に快樂をなし善をおこなふより外に善事はあらず

3:13また人はみな食飮をなしその勞苦によりて逸樂を得べきなり 是すなはち神の賜物たり

3:14我知る凡て神のなしたまふ事は限なく存せん 是は加ふべき所なく是は減すべきところ無し 神の之をなしたまふは人をしてその前に畏れしめんがためなり

3:15昔ありたる者は今もあり 後にあらん者は旣にありし者なり 神はその遂やられし者を索めたまふ

3:16我また日の下を見るに審判をおこなふ所に邪曲なる事あり 公義を行ふところに邪曲なる事あり

3:17我すなはち心に謂けらく神は義者と惡者とを鞫きたまはん 彼處において萬の事と萬の所爲に時あるなり

3:18我また心に謂けらく是事あるは是世の人のためなり 即ち神は斯世の人を撿して之にその獣のごとくなることを自ら暁らしめ給ふなり

3:19世の人に臨むところの事はまた獣にも臨む この二者に臨むところの事は同一にして是も死ば彼も死るなり 皆同一の呼吸に依れり 人は獣にまさる所なし皆空なり

3:20皆一の所に往く 皆塵より出で皆塵にかへるなり

3:21誰か人の魂の上に昇り獣の魂の地にくだることを知ん

3:22然ば人はその動作によりて逸樂をなすに如はなし 是その分なればなり 我これを見る その身の後の事は誰かこれを携へゆきて見さしむる者あらんや

第4章


4:1茲に我身を轉して日の下に行はるる諸の虐遇を視たり 嗚呼虐げらる者の涙ながる 之を慰むる者あらざるなり また虐ぐる者の手には權力あり 彼等はこれを慰むる者あらざるなり

4:2我は猶生る生者よりも旣に死たる死者をもて幸なりとす

4:3またこの二者よりも幸なるは未だ世にあらずして日の下におこなはるる惡事を見ざる者なり

4:4我また諸の勞苦と諸の工事の精巧とを觀るに 是は人のたがひに嫉みあひて成せる者たるなり 是も空にして風を捕ふるが如し

4:5愚なる者は手を束ねてその身の肉を食ふ

4:6片手に物を盈て平穩にあるは 兩手に物を盈て勞苦て風を捕ふるに愈れり

4:7我また身をめぐらし日の下に空なる事のあるを見たり

4:8茲に人あり只獨にして伴侶もなく子もなく兄弟もなし 然るにその勞苦は都て窮なくの目は富に飽ことなし 彼また言ず嗚呼我は誰がために勞するや何とて我は心を樂ませざるやと 是もまた空にして勞力の苦き者なり

4:9二人は一人に愈る其はその勞苦のために善報を得ればなり

4:10即ちその跌倒る時には一箇の人その伴侶を扶けおこすべし 然ど孤身にして跌倒る者は憐なるかな之を扶けおこす者なきなり

4:11又二人ともに寝れば温暖なり一人ならば爭で温暖ならんや

4:12人もしその一人を攻撃ば二人してこれに當るべし 三根の繩は容易く斷ざるなり

4:13貧くして賢き童子は 老て愚にして諌を納れざる王に愈る

4:14彼は牢獄より出て王となれり 然どその國に生れし時は貧かりき

4:15我日の下にあゆむところの群生が彼王に続てこれに代りて立ところの童子とともにあるを觀たり

4:16民はすべて際限なし その前にありし者みな然り 後にきたる者また彼を悦ばず 是も空にして風を捕ふるがごとし

第5章


5:1汝ヱホバの室にいたる時にはその足を愼め 進みよりて聽聞は愚なる者の犠牲にまさる 彼等はその惡をおこなひをることを知ざるなり

5:2汝神の前にありては軽々し口を開くなかれ 心を攝めて妄に言をいだすなかれ 其は神は天にいまし汝は地にをればなり 然ば汝の言詞を少からしめよ

5:3夫夢は事の繁多によりて生じ 愚なる者の聲は言の衆多によりて識るなり

5:4汝神に誓願をかけなば之を還すことを怠るなかれ 神は愚なる者を悦びたまはざるなり 汝はそのかけし誓願を還すべし

5:5誓願をかけてこれを還さざるよりは寧ろ誓願をかけざるは汝に善し

5:6汝の口をもて汝の身に罪を犯さしむるなかれ 亦使者の前に其は過誤なりといふべからず 恐くは神汝の言を怒り汝の手の所爲を滅したまはん

5:7夫夢多ければ空なる事多し 言詞の多きもまた然り 汝ヱホバを畏め

5:8汝國の中に貧き者を虐遇る事および公道と公義を枉ることあるを見るもその事あるを怪むなかれ 其はその位高き人よりも高き者ありてその人を伺へばなり又其等よりも高き者あるなり

5:9國の利益は全く是にあり 即ち王者が農事に勤むるにあるなり

5:10銀を好む者は銀に飽こと無し 豊富ならんことを好む者は得るところ有らず 是また空なり

5:11貨財増せばこれを食む者も増すなり その所有主は唯目にこれを看るのみ その外に何の益かあらん

5:12勞する者はその食ふところは多きも少きも快く睡るなり 然れども富者はその貨財の多きがために睡ることを得せず

5:13我また日の下に患の大なる者あるを見たり すなはち財寶のこれを蓄ふる者の身に害をおよぼすことある是なり

5:14その財寶はまた災難によりて失落ことあり 然ばその人子を擧ることあらんもその手には何物もあることなし

5:15人は母の胎より出て來りしごとくにまた裸體にして皈りゆくべし その勞苦によりて得たる者を毫厘も手にとりて携へゆくことを得ざるなり

5:16人は全くその來りしごとくにまた去ゆかざるを得ず 是また患の大なる者なり 抑風を追て勞する者何の益をうること有んや

5:17人は生命の涯黑暗の中に食ふことを爲す また憂愁多かり 疾病身にあり 憤怒あり

5:18視よ我は斯觀たり 人の身にとりて善かつ美なる者は 神にたまはるその生命の極食飮をなし 且その日の下に勞して働ける勞苦によりて得るところの福禄を身に享るの事なり是その分なればなり

5:19何人によらず神がこれに富と財を與へてそれに食ことを得せしめ またその分を取りその勞苦によりて快樂を得ることをせさせたまふあれば その事は神の賜物たるなり

5:20かかる人はその年齢の日を憶ゆること深からず 其は神これが心の喜ぶところにしたがひて應ることを爲したまへばなり


第6章


6:1我觀るに日の下に一件の患あり是は人の間に恒なる者なり

6:2すなはち神富と財と貴を人にあたへて その心に慕ふ者を一件もこれに缺ることなからしめたまひながらも 神またその人に之を食ふことを得せしめたまはずして 他人のこれを食ふことあり 是空なり惡き疾なり

6:3假令人百人の子を擧けまた長壽してその年齢の日多からんも 若その心景福に滿足せざるか又は葬らるることを得ざるあれば 我言ふ流產の子はその人にまさるたり

6:4夫流產の子はその來ること空しくして黑暗の中に去ゆきその名は黑暗の中にかくるるなり

6:5又是は日を見ることなく物を知ることなければ彼よりも安泰なり

6:6人の壽命千年に倍するとも福祉を蒙れるにはあらず 皆一所に往くにあらずや

6:7人の勞苦は皆その口のためなり その心はなほも飽ざるところ有り

6:8賢者なんぞ愚者に勝るところあらんや また世人の前に歩行ことを知ところの貧者も何の勝るところ有んや

6:9目に觀る事物は心のさまよひ歩くに愈るなり 是また空にして風を捕ふるがごとし

6:10嘗て在し者は久しき前にすでにその名を命られたり 即ち是は人なりと知る 然ば是はかの自己よりも力強き者と爭ふことを得ざるなり

6:11衆多の言論ありて虚浮き事を増す然ど人に何の益あらんや

6:12人はその虚空き生命の日を影のごとくに送るなり 誰かこの世において如何なる事か人のために善き者なるやを知ん 誰かその身の後に日の下にあらんところの事を人に告うる者あらんや

第7章


7:1名は美膏に愈り 死る日は生るる日に愈る

7:2哀傷の家に入は宴樂の家に入に愈る 其は一切の人の終かくのごとくなればなり 生る者またこれをその心にとむるあらん

7:3悲哀は嬉笑に愈る 其は面に憂色を帶るなれば心も善にむかへばなり

7:4賢き者の心は哀傷の家にあり 愚なる者の心は喜樂の家にあり

7:5賢き者の勸責を聽は愚なる者の歌詠を聽に愈るなり

7:6愚なる者の笑は釜の下に焚る荊棘の聲のごとし是また空なり

7:7賢き人も虐待る事によりて狂するに至るあり賄賂は人の心を壞なふ

7:8事の終はその始よりも善し 容忍心ある者は傲慢心ある者に勝る

7:9汝氣を急くして怒るなかれ 怒は愚なる者の胸にやどるなり

7:10昔の今にまさるは何故ぞやと汝言なかれ 汝の斯る問をなすは是智慧よりいづる者にあらざるなり

7:11智慧の上に財產をかぬれば善し 然れば日を見る者等に利益おほかるべし

7:12智慧も身の護庇となり銀子も身の護庇となる 然ど智惠はまたこれを有る者に生命を保しむ 是知識の殊勝たるところなり

7:13汝神の作爲を考ふべし 神の曲たまひし者は誰かこれを直くすることを得ん

7:14幸福ある日には樂め 禍患ある日には考へよ 神はこの二者をあひ交錯て降したまふ 是は人をしてその後の事を知ることなからしめんためなり

7:15我この空の世にありて各樣の事を見たり 義人の義をおこなひて亡ぶるあり 惡人の惡をおこなひて長壽あり

7:16汝義に過るなかれまた賢に過るなかれ 汝なんぞ身を滅すべけんや

7:17汝惡に過るなかれまた愚なる勿れ 汝なんぞ時いたらざるに死べけんや

7:18汝此を執は善しまた彼にも手を放すなかれ 神を畏む者はこの一切の者の中より逃れ出るなり

7:19智慧の智者を幇くることは邑の豪雄者十人にまさるなり

7:20正義して善をおこなひ罪を犯すことなき人は世にあることなし

7:21人の言出す言詞には凡て心をとむる勿れ 恐くは汝の僕の汝を詛ふを聞こともあらん

7:22汝も屡人を詛ふことあるは汝の心に知ところなり

7:23我智慧をもてこの一切の事を試み我は智者とならんと謂たりしが遠くおよばざるなり

7:24事物の理は遠くして甚だ深し 誰かこれを究むることを得ん

7:25我は身をめぐらし心をもちひて物を知り事を探り 智慧と道理を索めんとし 又惡の愚たると愚癡の狂妄たるを知んとせり

7:26我了れり 婦人のその心羅と網のごとくその手縲絏のごとくなる者は是死よりも苦き者なり 神の悦びたまふ者は之を避ることを得ん罪人は之に執らるべし

7:27傳道者言ふ 視よ我その數を知んとして一々に算へてつひに此事を了る

7:28我なほ尋ねて得ざる者は是なり 我千人の中には一箇の男子を得たれども その數の中には一箇の女子をも得ざるなり

7:29我了れるところは唯是のみ 即ち神は人を正直者に造りたまひしに人衆多の計略を案出せしなり

第8章


8:1誰か智者に如ん誰か事物の理を解ことを得ん 人の智慧はその人の面に光輝あらしむ 又その粗暴面も變改べし

8:2我言ふ王の命を守るべし旣に神をさして誓ひしことあれば然るべきなり

8:3早まりて王の前を去ることなかれ 惡き事につのること勿れ 其は彼は凡てその好むところを爲ばなり

8:4王の言語には權力あり 然ば誰か之に汝何をなすやといふことを得ん

8:5命令を守る者は禍患を受るに至らず 智者の心は時期と判斷を知なり

8:6萬の事務には時あり判斷あり是をもて人大なる禍患をうくるに至るあり

8:7人は後にあらんところの事を知ず また誰か如何なる事のあらんかを之に告る者あらん

8:8霊魂を掌管て霊魂を留めうる人あらず 人はその死る日には權力あること旡し 此戰爭には釋放たるる者あらず 又罪惡はこれを行ふ者を救ふことを得せざるなり

8:9我この一切の事を見また日の下におこなはるる諸の事に心を用ひたり時としては此人彼人を治めてこれに害を蒙らしむることあり

8:10我見しに惡人の葬られて安息にいるあり また善をおこなふ者の聖所を離れてその邑に忘らるるに至るあり是また空なり

8:11惡き事の報速にきたらざるが故に世人心を専にして惡をおこなふ

8:12罪を犯す者百次惡をなして猶長命あれども 我知る神を畏みてその前に畏怖をいだく者には幸福あるべし

8:13但し惡人には幸福あらず またその生命も長からずして影のごとし 其は神の前に畏怖をいだくことなければなり

8:14我日の下に空なる事のおこなはるるを見たり 即ち義人にして惡人の遭べき所に遭ふ者あり 惡人にして義人の遭べきところに遭ふ者あり 我謂り是もまた空なり

8:15是に於て我喜樂を讃む 其は食飮して樂むよりも好き事は日の下にあらざればなり 人の勞して得る物の中是こそはその日の下にて神にたまはる生命の日の間その身に離れざる者なれ

8:16茲に我心をつくして智慧を知らんとし世に爲ところの事を究めんとしたり 人は夜も晝もその目をとぢて眠ることをせざるなり

8:17我神の諸の作爲を見しが人は日の下におこなはるるところの事を究むるあたはざるなり 人これを究めんと勞するもこれを究むることを得ず 且又智者ありてこれを知ると思ふもこれを究むることあたはざるなり

第9章


9:1我はこの一切の事に心を用ひてこの一切の事を明めんとせり 即ち義き者と賢き者およびかれらの爲ところは神の手にあるなるを明めんとせり 愛むや惡むやは人これを知ることなし一切の事はその前にあるなり

9:2諸の人に臨む所は皆同じ 義き者にも惡き者にも善者にも 淨者にも穢れたる者にも 犠牲を献ぐる者にも犠牲を献げぬ者にもその臨むところの事は同一なり 善人も罪人に異ならず 誓をなす者も誓をなすことを畏るる者に異ならず

9:3諸の人に臨むところの事の同一なるは是日の下におこなはるる事の中の惡き者たり 抑人の心には惡き事充をり その生る間は心に狂妄を懐くあり 後には死者の中に往くなり

9:4凡活る者の中に列る者は望あり 其は生る犬は死る獅子に愈ればなり

9:5生者はその死んことを知る 然ど死る者は何事をも知ずまた應報をうくることも重てあらず その記憶らるる事も遂に忘れらるるに至る

9:6またその愛も惡も嫉も旣に消うせて彼等は日の下におこなはるる事に最早何時までも關係ことあらざるなり

9:7汝往て喜悦をもて汝のパンを食ひ樂き心をも汝の酒を飮め 其は神久しく汝の行爲を嘉納たまへばなり

9:8汝の衣服を常に白からしめよ 汝の頭に膏を絶しむるなかれ

9:9日の下に汝が賜はるこの汝の空なる生命の日の間汝その愛する妻とともに喜びて度生せ 汝の空なる生命の日の間しかせよ 是は汝が世にありて受る分汝が日の下に働ける勞苦によりて得る者なり

9:10凡て汝の手に堪ることは力をつくしてこれを爲せ 其は汝の往んところの陰府には工作も計謀も知識も智慧もあることなければなり

9:11我また身をめぐらして日の下を觀るに 迅速者走ることに勝にあらず強者戰爭に勝にあらず 智慧者食物を獲にあらず 明哲人財貨を得にあらず 知識人恩顧を得にあらず 凡て人に臨むところの事は時ある者偶然なる者なり

9:12人はまたその時を知ず 魚の禍の網にかかり鳥の鳥羅にかかるが如くに世の人もまた禍患の時の計らざるに臨むに及びてその禍患にかかるなり

9:13我日の下に是事を觀て智慧となし大なる事となせり

9:14すなはち茲に一箇の小き邑ありて その中の人は鮮かりしが大なる王これに攻きたりてこれを圍みこれに向ひて大なる雲梯を建たり

9:15時に邑の中に一人の智慧ある貧しき人ありてその智慧をもて邑を救へり 然るに誰ありてその貧しき人を記念もの無りし

9:16是において我言り智慧は勇力に愈る者なりと 但しかの貧しき人の智慧は藐視られその言詞は聽れざりしなり

9:17靜に聽る智者の言は愚者の君長たる者の號呼に愈る9:18智慧は軍の器に勝れり一人の惡人は許多の善事を壞ふなり

第10章


10:1死し蝿は和香者の膏を臭くしこれを腐らす 少許の愚癡は智慧と尊榮よりも重し

10:2智者の心はその右に愚者の心はその左に行くなり

10:3愚者は出て途を行にあたりてその心たらず自己の愚なることを一切の人に告ぐ

10:4君長たる者汝にむかひて腹たつとも汝の本處を離るる勿れ温順は大なる愆を生ぜしめざるなり

10:5我日の下に一の患事あるを見たり是は君長たる者よりいづる過誤に似たり

10:6すなはち愚なる者高き位に置かれ貴き者卑き處に坐る

10:7我また僕たる者が馬に乗り王侯たる者が僕のごとく地の上に歩むを觀たり

10:8坑を掘る者はみづから之におちいり石垣を毀つ者は蛇に咬れん

10:9石を打くだく者はそれがために傷を受け木を割る者はそれがために危難に遭ん

10:10鐵の鈍くなれるあらんにその刃を磨ざれば力を多く之にもちひざるを得ず 智慧は功を成に益あるなり

10:11蛇もし呪術を聽ずして咬ば呪術師は用なし

10:12智者の口の言語は恩徳あり 愚者の唇はその身を呑ほろぼす

10:13愚者の口の言は始は愚なり またその言は終は狂妄にして惡し

10:14愚者は言詞を衆くす 人は後に有ん事を知ず 誰かその身の後にあらんところの事を述るを得ん

10:15愚者の勞苦はその身を疲らす彼は邑にいることをも知ざるなり

10:16その王は童子にしてその侯伯は朝に食をなす國よ 汝は禍なるかな

10:17その王は貴族の子またその侯伯は酔樂むためならず力を補ふために適宜き時に食をなす國よ 汝は福なるかな

10:18懶惰ところよりして屋背は落ち 手を垂をるところよりして家屋は漏る

10:19食事をもて笑ひ喜ぶの物となし酒をもて快樂を取れり 銀子は何事にも應ずるなり

10:20汝心の中にても王たる者を詛ふなかれ また寝室にても富者を詛なかれ 天空の鳥その聲を傳へ羽翼ある者その事を布べければなり


第11章


11:1汝の糧食を水の上に投げよ 多くの日の後に汝ふたたび之を得ん

11:2汝一箇の分を七また八にわかて 其は汝如何なる災害の地にあらんかを知ざればなり

11:3雲もし雨の充るあれば地に注ぐ また樹もし南か北に倒るるあればその樹は倒れたる處にあるべし

11:4風を伺ふ者は種播ことを得ず 雲を望む者は刈ことを得ず

11:5汝は風の道の如何なるを知ず また孕める婦の胎にて骨の如何に生長つを知ず 斯汝は萬事を爲たまふ神の作爲を知ことなし

11:6汝朝に種を播け 夕にも手を歇るなかれ 其はその實る者は此なるか彼なるか又は二者ともに美なるや汝これを知ざればなり

11:7夫光明は快き者なり 目に日を見るは樂し

11:8人多くの年生ながらへてその中凡て幸福なるもなほ幽暗の日を憶ふべきなり 其はその數も多かるべければなり 凡て來らんところの事は皆空なり

11:9少者よ汝の少き時に快樂をなせ 汝の少き日に汝の心を悦ばしめ汝の心の道に歩み汝の目に見るところを爲せよ 但しその諸の行爲のために神汝を鞫きたまはんと知べし

11:10然ば汝の心より憂を去り 汝の身より惡き者を除け 少き時と壯なる時はともに空なればなり

第12章


12:1汝の少き日に汝の造主を記えよ 即ち惡き日の來り年のよりて我は早何も樂むところ無しと言にいたらざる先

12:2また日や光明や月や星の暗くならざる先 雨の後に雲の返らざる中に汝然せよ

12:3その日いたる時は家を守る者は慄ひ 力ある人は屈み 磨碎者は寡きによりて息み 窓より窺ふ者は目昏むなり

12:4磨こなす聲低くなれば衢の門は閉づ その人は鳥の聲に起あがり 歌の女子はみな身を卑くす

12:5かかる人々は高き者を恐る畏しき者多く途にあり 巴旦杏は花咲くまた蝗もその身に重くその嗜欲は廢る 人永遠の家にいたらんとすれば哭婦衢にゆきかふ

12:6然る時には銀の紐は解け金の盞は碎け吊瓶は泉の側に壞れ轆轤は井の傍に破ん

12:7而して塵は本の如くに土に皈り 霊魂はこれを賦けし神にかへるべし

12:8傳道者云ふ空の空なるかな皆空なり

12:9また傳道者は智慧あるが故に恒に知識を民に敎へたり 彼は心をもちひて尋ね究め許多の箴言を作れり

12:10傳道者は務めて佳美き言詞を求めたり その書しるしたる者は正直して眞實の言語なり

12:11智者の言語は刺鞭のごとく 會衆の師の釘たる釘のごとくにして 一人の牧者より出し者なり

12:12わが子よ是等より訓誡をうけよ 多く書をつくれば竟なし 多く學べば體疲る

12:13事の全體の皈する所を聽べし 云く 神を畏れその誡命を守れ 是は諸の人の本分たり

12:14神は一切の行爲ならびに一切の隠れたる事を善惡ともに審判たまふなり

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『ツァラトゥストラ』

重さの霊


いっさいの重いものが軽くなり、いっさいの肉体が舞踏者に、いっさいの精神が鳥になることが、私のアルファであり,オメガなのだ。

見よ、上もなく、下もない。おまえを投げよ、まわりへ、かなたへ、うしろへ。

おまえ、軽快なものよ。歌え、もはや語るな。


――ことばはすべて重い者たちのためにつくられたものではないか。

軽やかな者にとっては、ことばはすべて虚言者なのではないか。

歌え、もはや語るな。――

わたしの弁舌は――民衆のそれである。

わたしは絹毛の兎に聞いてもらうには、あまりに乱暴に率直に語る。

そしてわたしのことばはすべてのインキ魚(いか)とペン狐にとっては、いっそう耳慣れぬものとして響く。


わたしの手は――落書き好きの阿呆の手である。すべての机と壁、また阿呆の装飾癖とぬたくり書きの癖をそそる余白をもっているものは、災難である。


わたしの足は――駿馬の足である。この足でわたしは広野をまっしぐらに、また縦に横に十文字に走る。そしていつも疾駆の喜びに夢中になる。

わたしの胃は――鷲の胃であろうか、子羊の肉を最も好むから。いずれにせよ、それは空飛ぶ一羽の鳥の胃である。
.
とるに足りない物をわずかの量だけ摂ることで身を養い、いつも飛ぼう、飛び去ろうという気短な身構え、これがわたしの性癖だ。それは鳥の性癖をもっているとは言えないだろうか。

そしてとくに、わたしが重さの霊の敵であること、これこそ鳥の性癖である。まことにそれは不倶戴天の敵、宿敵、根本の敵である。おお、わたしのこの敵意はすでに八方にむかって翼をふるったのだ。

それについてわたしは一篇の歌曲をうたうことができるくらいだ――そしていまそれを歌おうと思う。もっともわたしは森閑とした家にただひとりいて、それを自分自身の耳に歌って聞かせるほかはないのだが。

もちろん、ある種の歌い手たちは、会場が満員になってはじめて、その喉はやわらかになり、その手は能弁になり、その目は表情をまし、その心はいきいきとしてくる。――わたしはそういう歌い手ではない。

将来いつの日か人間に飛ぶことを教える者は、いっさいの境界石を移したことになる。かれにとっては境界石そのものが、いっせいに空に舞い上がったも同然である、大地にかれは新しい名を与えるだろう――「軽きもの」と。.

駝鳥は、最も速い馬より速く走る。しかしその駝鳥も、重い大地に頭を重々しく突き入れる。まだ飛ぶことのできない人間もそうである。

かれは、大地と生を重いものと考える。重さの霊がそう望むのだ。だが、重さの霊に抗して軽くなり鳥になろうと望む者は、おのれみずからを愛さなければならない――それがわたしの教えである。

もちろん病患の者たちの愛で愛するのではない。病患の者たちにおいては、自愛も悪臭をはなつ。

人はおのれみずからを愛することを学ばなければならない、すこやかな全き愛をもって。――

そうわたしは教える。おのれがおのれ自身であることに堪え、よその場所をさまよい歩くことがないためにである。

こういう、よその場所をさまよい歩くことが、「隣人愛」と自称しているのである。このことばで、今までに最もはなはだしい嘘がつかれ、偽善が行われてきた、ことに世界を重苦しくしてきた者たちによって。

そしてまことに、おのれを愛することを学びおぼえよという命令は、きょうあすに達成できるようなことではない。むしろそれは、あらゆる技術のうちで、最も微妙な、最もこつよ忍耐を必要とする、最終的な技術である。

という意味はこうである。真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。

――それは重さの霊がそうさせるのである。


ほとんど揺籃のなかにいるときから、われわれは数々の重いことばと重い価値とを持ち物として授けられる。「善」と「悪」――これがその持ち物の名である。この持ち物をたずさえているのを見とどけて、人々はわれわれにこの世に生きることを許すのである。

また人々が幼子たちを引き寄せて愛護するのは、幼子たちがおのれみずからを愛するようになることを早い時期から防ぐためなのだ。こういうことも重さの霊のせいである。

そしてわれわれは――人々から持たされたものを、忠実に運んで歩く。こわばった肩にのせ、険しい山々を越えて。

われわれが汗をかくと、人々はわれわれに言う、

「そうだ、生は担うのに重いものだ」と。

だが、重いのは、人間がみずからを担うのが重いだけの話である。そうなるのは、人間があまりに多くの他者の物をおのれの肩にのせて運ぶからである。そのとき人間は、駱駝のようにひざまずいて、したたかに荷を積まれるままになっている。

ことに、畏敬の念のあつい、重荷に堪える、強力な人間がそうである。かれはあまりに多くの他者の重いことばと重い価値の数々を身に負う。――そのとき生はかれには砂漠のように思われるのだ。

だが、まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだ――。

ところが、しばしばこういうことも起こる。貝殻がみずぼらしくて、悲しげで、あまりにも貝殻そのものであるために、人間のもつさまざまの特質が見すごされるのである。こうして多くの隠された善意と力がついに察知されることがなく、このうえもない美味が、その味わい手を見いださない。

女たち、この、最も外見の美しいものたちは、その消息を知っている。もう少し太りたいとか、もう少し痩せたいとかが、彼女たちの苦心である。

――おお、どんなに多くの運命の転変が、このようにわずかなことにかかわっていることか。

人間は、その真相を見つけだすことがむずかしい。ことに自分が自分を見つけだすことが、最もむずかしい。

しばしば精神が魂について嘘をつく。これも重さの霊のなすわざである。


しかし、次のような言を発する者は、自分自身を見つけだした者である、

「これはわたしの善であり、悪である」と。

これによって、かれは、もぐらと侏儒の口をつぐませたのだ。もぐらどもはこう言うのである。

「万人にとっての善、万人にとっての悪」と。


まことにわたしは、すべてのことをよしと言い、さらにはこの世界を最善のものと言う者たちをも好まない、この種の人間をわたしは、総体満足家と呼ぶ。

あらゆるものの美味がわかる総体満足、それは最善の味覚ではない。わたしは、強情で、気むずかしい舌と胃をたっとぶ。それらの舌と胃は、「わたし」と「然り」と「否」ということばを言うことを習得しているのである。

それに反してあらゆるものを噛み、あらゆるものを消化すること――これはまさしく豚の流儀だ。

いつも「イ・アー(然り)」としか言わないのは、驢馬と、驢馬的精神をもつものだけである。――

深い黄と熱い赤。わたしの趣味はそれを欲する。――わたしの趣味は、すべての色に血を混ぜるのだ。だが、おのれの家を白く上塗りする者たちは、白い上塗りの魂をさらけだしているのである。


ある者たちはミイラに惚れこみ、また別のある者たちは幽霊に惚れこむ。両者ともにいっさいの肉と血に敵意をもっている、――かれらはわたしの趣味に反する。わたしは血を愛する者だ。

みんなして痰やつばを吐き散らすところに、わたしは滞在しようとは思わない。わたしの趣味から言えば――それよりはむしろ盗賊や偽誓者のあいだで暮らすほうがましだ。そういうところには口に金をふくんでいる者は一人としていないのだから。

だが、それよりもわたしに厭わしいのは、ひとのよだれをなめるおべっか使いだ。そしてわたしが見いだした最も厭わしい人間獣に、わたしは寄生虫という名をつけた。

この生き物はひとを愛しようとはしないが、愛してもらって生きようとしているのである。

悪い動物となるか、悪い動物使いとなるか、この二つのうちの一つを選ぶことしか知らない者たちを、わたしはあわれな者と呼ぶ。こういう者たちのいる場所には、わたしは小屋を建てようとはしないだろう。

また、いつも待っているほかに能のない者たちをも、わたしはあわれな者と呼ぶ、――これらの者もわたしの趣味に反する。収税吏、小商人、王や国々の番人、店の番人などはこれである。

まことに、わたしも待つことを学びおぼえた。しかも徹底的に学びおぼえた。しかし、わたしが学びおぼえたのは、ただわたし自身を待つことである。しかも、何にもまさってわたしの学びおぼえたことは、立つこと、歩くこと、走ること、よじのぼること、踊ることである。

すなわち、わたしの教えはこうだ。飛ぶことを学んで、それをいつか実現したいと思う者は、まず、立つこと、歩くこと、走ること、よじのぼること、踊ることを学ばなければならない。


――最初から飛ぶばかりでは、空高く飛ぶ力は獲得されない。縄梯子で、わたしはいくるかの窓によじのぼることを学んだ。敏捷に足をうごかして高いマストによじのぼった。認識の高いマストの上に取りついていることは、わたしには些細ではない幸福と思われた。――


――高いマストの上で小さい炎のようにゆらめくことは、わたしには些細でない幸福と思われた。なるほど小さい光ではあるが、座礁した船の水夫たち、難船者たちには一つの大きい慰めとなるのである。――


わたしはさまざまな道を経、さまざまなやりかたをして、わたしの真理に到達したのだ。この高みにいて、わたしの目は、目のとどくかぎりの遠方へと遊ぶが、ここまで至りついたのは、かぎられたただ一本の梯子をよじのぼって来たのではない。

そしてわたしがひとに道を尋ねたときは、いつも心が楽しまなかった。――それを聞くことはわたしの趣味に反した。むしろわたしは道そのものに問いかけ、道そのものを歩いてためしてみたのだ。

わたしの歩き方は、問いかけてためしてみるということに尽きていたのだ。――そしてまことに、人はこのような問いかけに答えることをも学びおぼえなければならぬ。それは、――「わたしの趣味」と答えることである。


――よい趣味でも、悪い趣味でもない。ただわたしの趣味なのだ。この趣味をわたしはもはや恥じもしなければ、かくしもしない。


「さて、これが――わたしの道だ――君らの道はどこにある?」

「道はどこだ」とわたしに尋ねた者たちにわたしはそう答えた。

つまり万人の道というものは――存在しないのだ。

http://togetter.com/li/49200

われわれは結局、自分自身を体験するだけなのだ。

偶然がわたしを見舞うという時期は、もう過ぎた。

いまからわたしが出会うのは、何もかもすでにわたし自身のものであったものばかりだ!

 ただ戻ってくるだけだ。ついにわが家に戻ってくるだけだ。──わたし自身の「おのれ」が。

まことに勇気にまさる殺し屋はいない。──すすんで攻める勇気だ。

すすんで攻めるとき、われわれは喨々と鳴りひびく音楽を聞くのだ。


 人間は最も勇気に満ちた動物だ。それによって、人間はすべての動物を征服した。鳴りひびく楽の音によって、かれはさらにあらゆる苦痛をも征服した。しかも人間の苦痛にまさる深い苦痛はない。

 勇気はまた、深淵をのぞきこんだときのめまいをも打ち殺す。それにしても人間はいたるところで深淵に臨んでいるのではなかろうか! 

目をあけて見ること自体が、──深淵を見ることではないのか?


 勇気にまさる殺し屋はいない。勇気はまた同情をも打ち殺す。苦悩への同情こそ底の知れない深淵なのだ。深く仁政のなかをのぞけばのぞくほど、人間はそれだけ深く苦悩のなかを見るのだ。

 勇気にまさる殺し屋はいない。すすんで攻める勇気、それは死をも打ち殺す。なぜなら勇気はこう言うからだ。


「これが生きるということであったのか? よし! もう一度!」

 かかることばには、喨々とひびく音楽がある。耳のある者は聞くがよい。──


「この門を通る道を見るがいい! 小びとよ」

とわたしは言いつづけた。


「それは二つの面をもっている。二つの道がここで出会っている。

どちらの道も、まだそのはてまで歩いた者はいない。
 
この長い道をたどれば、永遠に果てしがない。

またあちらの長い道を出て行けば、──そこにも別の永遠がある。


 かれらはたがいに矛盾する、──この二つの道は。かれらはたがいに反撥しあう。

──そしてこの門のところこそ、かれらがまさにぶつかっている場所なのだ。

門の名は上に掲げられている。──『瞬間』と。

 ところで、誰かがこの道のひとつを選んで進んでいくとする、

──どこまでもどこまでもいくとする。

どうだろう、小びとよ、

これらの二つの道は、永遠に喰いちがい、矛盾したきりであろうか?」──

「直線をなすものは、すべていつわりなのだ」

と、小馬鹿にしたように小びとつぶやいた。

「すべての真理は曲線なのだ。時間そのものもひとつの円形だ。」


「重力の魔よ!」

と、わたしは怒って言った。

「そう安直に言うな! さもないと、おまえをその坐った場所におきざりにするぞ、足萎えめ!

──おまえをこの高みまで担いできたのは、このわたしだ!」

 さらに、わたしは言いつづけた。

「見るがいい、この『瞬間』を! 


この瞬間の門から、ひとつの長い永遠の道がうしろの方へはるばるとつづいている。

われわれの背後にはひとつの永遠がある。


 およそ走りうるすべてのものは、すでに一度この道を走ったことがあるのではなかろうか? 

およそ起こりうるすべてのことは、すでに一度起こり、行われ、この道を走ったことがあるのではなかろうか?

 すでにすべてのことがあったとすれば、小びとよ、おまえはこの『瞬間』そのものをどう思うか? 

この門もまたすでに──あったのではなかろうか?


そして一切の事物は固く連結されているので、そのためこの瞬間はこれからくるはずのすべてのものをひきつれているのではなかろうか? 

したがって、──自分自身をも?

 まことに、およそ走りうるすべてのものは、この向こうへ延びている長い道を──やはりもう一度走らなければならないのだ!──


 そして、ここに月光をあびてのろのろと這っている蜘蛛、この月光そのもの、そして門のほとりで永遠の問題についてささやきかわしているわたしとおまえ、──われわれはみな、すでにいつか存在したことがあるのではなかろうか?

 ──そしてまためぐり戻ってきて、あの向こうへ延びているもう一つの道、あの長い恐ろしい道を走らなければならないのではなかろうか、

──われわれは永遠にわたってめぐり戻ってこなければならないのではないかろうか?

──」

http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-63.html

まことに、われわれが生きることを愛するのは、生きることに慣れているからではない。愛することに慣れているからだ。

愛というもののなかには、常にいくぶんの狂気があるが、狂気のなかには常にまたいくぶんの理性があるものだ。

だから、わたしにも(わたしは生きることをたいせつに思っているのだから)、蝶やシャボン玉や、また人間のなかでそれらに似通っている者たちが、幸福について最もよく知っているものであるように思えてくるのだ。

これらの軽やかな、おろかしい、愛らしい、動きやすい小さな生き物たちが、ひらひら舞っているのを見ると、涙に誘われ、歌に誘われるのだ。

わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう。

わたしがわたしの悪魔を見たとき、その悪魔は、まじめで、深遠で、おごそかだった。それは重さの霊であった。この霊に支配されて、いっさいの事物は落ちる。


これを殺すのは、怒りによってではなく、笑いによってだ。

さあ、この重さの霊を殺そうではないか。


わたしは歩くことを学びおぼえた。それ以来、わたしは自分の足が軽やかに歩いてゆくのにまかせている。

わたしは飛ぶことを学びおぼえた。それ以来、わたしはひとに押されてから動き出すことを好まない。


いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。

いまわたしはわたし自身をわたしの下に見る。

いまわたしを通じて一人の神が舞い踊っている。

http://blog.goo.ne.jp/moguratanen


「わたしがわたしの悪魔を見たとき,その悪魔は,まじめで,深淵で,おごそかだった。

それは重さの霊であった。

この霊に支配されて,いっさいの事物は落ちる。

これを殺すのは,思りによってではなく,笑いによってだ。

さあ,この重さの霊を殺そうではないか

「わたしは,悪魔に対しては,神の代弁者だ。その悪魔とは,重さの霊なのだ。

かろやかな者たちょ,どうしてわたしが神々しい舞踏に敵意をもとう。

美しいくるぶしをもった乙女の足に敵意をもとう。


「上へ。ーわたしの足を下へ,深淵へと引き下げる霊,

私の悪魔であり,宿敵である重さの霊に抗して上へ。

なかば保儒,なかばもぐら,自分も足萎えで,そして他者の足を萎えさせるこの霊が,わたしの耳に鉛を,わたしの脳髄に鉛のしずくの思想をしたたらせながら,わたしにとりついているにもかかわらず,わたしは上へ進んだ。

「真に自己自身の所有に属しているものは,その所有者である自己自身にたいして,深くかくされている 地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発堀されることがもっともおそい。

それは重さの霊がそうさせるのである。

http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/5197/1/KJ00000113328.pdf


ツァラトゥストラ
フリイドリッヒ・ニイチェ 作
生田長江 譯
内容
沈默の塔(譯本ツァラトゥストラの序に代ふ)森鴎外

第一編
ツァラトゥストラの緒言
 超人と末人と
https://web.archive.org/web/20040820165808/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/zarathustra/zarathustra-toc.html



ニーチェについては

ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html

音楽家フリードリヒ・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/821.htm

フリードリヒ・ニーチェ『マンフレッド瞑想曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/822.html

フリードリヒ・ニーチェ ヴァイオリンソナタ『大晦日』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/823.html

超人エリーザベト~ニーチェを売った妹~
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1753.html

ニーチェの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html

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