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イングマール・ベルイマン『仮面/ペルソナ Persona』1966年

1:777 :

2022/05/24 (Tue) 11:17:36

イングマール・ベルイマン『仮面/ペルソナ Persona』1966年

監督 イングマール・ベルイマン
脚本 イングマール・ベルイマン
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
公開 1966年10月8日

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%EF%BC%8F%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A%20%20%20%2F4?ref=watch_html5


『仮面/ペルソナ』(スウェーデン語: Persona、英語: Persona)は、1966年のスウェーデン映画。イングマール・ベルイマン監督作品。主演はビビ・アンデショーンとリヴ・ウルマンが務めた。


ストーリー
冒頭、映写機のカーボンライトが点き、その後、脈絡のない複数のイメージが流れる。アニメーションを映し出す映写機、男性器、蜘蛛が這う姿、羊を殺す様子、手のひらに打ち付けられる釘…。場面は病院のような場所に変わる。ベッドで寝ていた少年が起き上がり、カメラに向けて手をかざすと、その先に2人の女性の顔が交互に大きく映し出される。タイトルロールが流れ、物語が始まる。

若い看護婦のアルマは、医師からエリーサベット・ヴォーグレルという患者の世話をするよう命じられる。エリーサベットは舞台女優で、ある日突然ひと言も喋らなくなってしまったが、医師によると身体的・精神的な異常ではなく彼女の意思によるものだという。アルマはエリーサベットの夫から届いた息子の写真付きの手紙を読んで聞かせるが、エリーサベットは写真を引き裂いてしまう。見かねた医師は海の近くの別荘での療養を勧め、アルマとエリーサベットを滞在させることにする。

エリーサベットはアルマのよき話し相手となり、アルマは自身の体験をエリーサベットに打ち明ける。婚約者のカール・ヘンリックと別荘に滞在中、ビーチでカテリーナという女の子と全裸で日光浴をしていたところ、見知らぬ少年がやって来て乱交に発展したという話だ。アルマはその後妊娠し、中絶したものの、現在では罪悪感や後悔に苛まれていると泣きながら告白した。後日、アルマが手紙を届けるため車で運転中、エリーサベットが医師へ宛てた手紙の封が開いていることに気づいた。手紙にはエリーサベットがアルマを観察していること、アルマが乱交や堕胎の話を告白したことが書かれていた。手紙を読んだアルマは激怒し、エリーサベットを責めたてた。

ある夜、エリーサベットの夫が別荘を訪ね、アルマをエリーサベットと呼んだ。最初は否定するアルマだったが、次第に状況を受け入れていく。エリーサベットの夫に抱かれたアルマは、泣きながら殺してくれと懇願する。「自分はひどい人間ですべてが嘘で出来ている」と。

エリーサベットが破いた息子の写真を隠していると、アルマがやって来て息子の話を聞かせて欲しいとエリーサベットに頼む。エリーサベットが話そうとしないので、アルマが次のように話す。ある日母性が欠けていると言われ焦ったエリーサベットは、夫とセックスして妊娠するものの、出産や親としての責任への恐怖心から中絶を試みる。中絶は失敗し子供が生まれてしまうが、どうしても子供のことを愛せない。話の終わりにアルマは、自分はエリーサベットではないと主張するが、その直後に顔の半分がエリーサベットに差し替わった映像が映し出される。

エリーサベットの病室。アルマはエリーサベットを胸に抱いて「無」と復唱させる。

クレーンに乗ったカメラがポーズを取るエリーサベットの姿を捉える。島のバス亭で荷物を持ったアルマが1人バスに乗り、去っていく。再び女性の顔に手をかざす少年が映し出されるが、女性の顔は以前よりもおぼろげになっている。フィルムが切れ、カーボンライトが消える。


キャスト
ビビ・アンデショーン:アルマ
リヴ・ウルマン:エリーサベット
マルガレータ・クローク:医師
グンナール・ビョルンストランド:エリーサベットの夫
ヨルゲン・リンドストレム:エリーサベットの息子

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A


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後世に多大な影響を与えた前衛的な問題作
『仮面/ペルソナ』(1966)

 デヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』(1999)やデヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』(2001)など、後年の作品にも影響を及ぼしたといわれる前衛的な作品。古いアメリカのコミックやベトナム戦争時に焼身自殺をした僧侶のイメージなど、多様な映像が怒涛のようにモンタージュされるオープニング映像や、途中でフィルムが切れてしまったように映像が途切れる演出でも知られる。精神分析的な解釈の余地を与えるようなメタファーも多く、そうした作品の持つ多様性が後々の影響へと繋がっているのだといえる。


 物語は、分身=ドッペルゲンガーをテーマに、舞台上で言語障害を起こした女優と彼女を看護する女性の関係が、療養期間中に異常なものへと変わって、やがて意識を共有するようになっていくというもの。性格の異なる2人の女性が内的な会話を経て、愛し合い、そして争う。劇中では実際に顔の似た2人の女優(ビビ・アンデショーンとリヴ・ウルマン)の顔が重なって、それぞれのアイデンティティーが同化していく。ベルイマン監督は、主人公の女性の内面に迫ろうとする作品を手掛けてきたが、本作はその極致といえる作品だ。


 ベルイマン監督は本作で、リヴ・ウルマンを初めて主役として起用しているが、この作品をきっかけに2人の関係は恋愛へと発展。その後の5年間、共に暮らした後、破局するもののおよそ40年の間、協力関係にあった。その恋模様はドキュメンタリー映画『リヴ&イングマール ある愛の風景』(2011)に描き出された。ちなみにベルイマン監督は華麗なる恋愛遍歴を辿った人だったが、生涯で5度の結婚を経験している。
https://www.cinematoday.jp/page/A0006148


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精神の冬へ、ベルイマンの視点#1・・・映画「仮面/ペルソナ」(1967年)
2010-05-17

映画の冒頭から意味深な前衛的な映像が流れます。ショッキングなのは、種々のイメージ映像の中に挟み込まれた僧が焼身自殺する部分。そして映像を補完するように、これまた心の中の暗部をえぐり出すかのような実験的な現代音楽が流れます。メインの映像も構図が斬新で、如何にも問題をはらんでいる雰囲気。もう今では珍しいいきなりの実験映画のテイストです。

続く映像も、失語症となった女優とその彼女を看護する女性がほぼ出ずっぱりの展開となり、ユニークといえばユニークな、実験的といえば非常に実験的な展開であります。それも映像の中で喋っているのは女優を看護する女性のみという極端さ。これがまた、矢継ぎ早に、あるいは速射砲のように言葉が途切れないのです。そして彼女が喋れば喋るほど、看護婦としての社会的役割の会話から逸脱し、話の中に個人的な感情の側面が吐き出されるようになり、思わぬ過去の吐露(行きずりの男性との性的交渉とどの直後に彼と交わったらすごくよかったなどという打ち明け話)や激情に駆られガラスの破片を床に置いて女優がそれを踏むように仕掛けたりと彼女の無意識なコンプレックスはエスカレートしていくのです。

そして訪問してきた女優の旦那らしき男とも本人(=女優)に成り代わったかのように彼女の名前を名乗って寝てしまうという展開に・・・。もともとこの映画は、観念的・実験的な作り方をしているため、的確に話を捉えるのが難しいのですが(難解な映画ですね)、その場面に差し掛かりボクの心にはいくつかの疑問も浮かんできます。看護婦は自他の境界が薄れ人格的に崩壊し始めたのか?あるいは失語症となった女優とは実は看護婦のことで、今までの映像は看護婦の幻想であったのか?という疑念。見ていていろいろな考えが錯綜してしまい、こちら側もややおかしくなってしまいます。

さらに、看護婦が女優に対して彼女自身の子供を愛せなかった深層部分(女優は良き母という仮面を被っていたのか?彼女の失語症は仮面の裏の本当の自分の逆襲なのか?)を暴くにあたり、同じ台詞がリフレインする演出。と同時に看護婦と女優の顔が重なる映像が・・・。それは、驚くことに別の人間なのに、目や鼻の顔における位置がピタリと一致してしまう衝撃。(これは見事だった)そうなると一体どう見ていけばいいのでしょうか?この二人は表と裏の表裏一体の関係と意味しているのか?境界は消えさった。人は半分の人格しか生きていない。

ラストはそれぞれの持ち場にいる映像を映し出したので、ボクが途中に思った看護婦が実は女優であったという疑念は違ったのですが、女優の沈黙により饒舌な看護婦の無意識の部分が溶解し、女優の無意識の部分と混ざりあったことにより、それぞれの人人間性が少しばかり回復したと見たい希望的な観測が残った映画でありました。
https://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/7ed72a7300fcde6371acfc86a7c18817
2:777 :

2022/05/24 (Tue) 11:55:19


Makoto Yoshida
5つ星のうち5.0 綺麗な女優さん見てるだけで楽しい

すごいスタイリッシュなお洒落映画ちょっと変態入り。コントラスト強めのモノクロで北欧美女二人を写してるだけで何だか官能的な雰囲気が漂うw。

ストーリーはわけわからないところもあって大して面白くはないけど美人だと何でも絵になっちゃうし何だか思わせぶりな感じで芸術的に感じてしまうし眼福です笑。

逆にこれ登場人物が美人じゃなかったら10分経たずに観るの止めてるよきっと僕だけじゃなくてw
強烈に印象に残る映画でエロい雰囲気もあり好き嫌い別れると思うけど僕は好き。短いのもいいね。


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デルスー
5つ星のうち3.0 何だろうこの「前衛」臭・・

ベルイマンという監督は、キャリアの比較的早い時期に撮られた
『野いちご』(1957)が最高傑作であり、その後も撮り続けて
それなりの作品は残したものの、やや迷走したような印象がある。

『野いちご』の10年後にあたるこの作品になると、冒頭の変に
「前衛」を衒ったかのような映像が、半世紀という時間を隔てて
見ると、かえって手垢がついた古臭いものに感じられ、いきなり
若干残念な印象を受けてしまった。

その後、言葉を失った女優と看護婦の2人が海辺の別荘で過ごすと
いう展開は、荒涼とした海岸の景色も相俟って悪くないのだが、
結末近くになって、看護婦が同じ科白を何度も繰り返したり、
果ては女優と看護婦の顔が半分ずつ組み合わさったりするあたり
になると、また「前衛」か・・と若干醒めてしまうものがあった。

話としても、女優が本当は喋れるにもかかわらず無言を通す理由に
もうひとつ納得感がなく、そこを「前衛」的な映像でごまかそうと
したかのような、消化不良感が残るものだった。


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しんしん
5つ星のうち5.0 自己と演技。人は常に自己を演じているのか?

ペルソナとはユングが考え出した心理学の概念で、
自分の外的側面を言います。
人間関係に適応しようと、ペルソナを被るわけです。
普通の人であれば何らかのペルソナを被っていると
言わざるおえませんが、
それが度を越すと、自分は二重人格ではないかとか、
人と接する時の自分と、一人で居るときの自分のギャップに悩み、
病気になってしまいます。
また、一方であまりに自分に正直で周囲との摩擦を生み、
周りの人間や自分自身をも苦しめることがありますが、
これもペルソナと言います。
男性は男性らしさ、女性は女性らしさということで
一般的にはペルソナが表現されます。
女性の場合ペルソナが女性らしさであれば、
内面的側面は男性的で、
これはアニムスと呼ばれています。
また、ペルソナは自分の夢の中では起こらず、
一般的には、衣服などの
自分の外的側面で表現されることが多いと言われています。
さて、心理学の勉強はここまでにして、

この映画は舞台女優ウルマンの映画デビュー作で、
ベルイマン自ら彼女を見出し、
彼女とアンデルソン二人のために
ベルイマンが自ら脚本を書きました。

ウルマン演じる舞台女優のエリザベートは、
失語症になり、入院をします。
入院をしても一向に言葉が戻らないエリザベートを見て、
医者は自然の中での静養を進めます。
エリザベートは、アンデルソン演じる看護婦と一緒に、
別荘に行って静養をすることになります。
そこで、明らかになっていくのが、
エリザベートは舞台の上だけではなく、
人生の全てを演じていたと言うこと、、
妻であり母であることの幸せを演じていたと言うことです。
これがエリザベートのペルソナです。

本当の自分は、母性も愛情もない、
全く違う人格であるにもかかわらず。
これがエリザベートのアニムスです。

失語症で全く喋れないエリザベートと、
喋り捲る看護婦、「沈黙」と「喋り続ける」という対比を使い、
二人きりの閉鎖的な長い共同生活の中で、
精神的なカオスが生れ、自己と他者の区別が無くなり、
「沈黙」を「喋り続ける」が代弁することで、
ペルソナとアニムスの解明がされていきます。

物事の表裏、鏡像といった、
ドッペンヘルガー現象を上手く使い、
エリザベートと看護婦が同一人物の表裏であるかのごとく、
モンタージュされていきます。
事実、エリザベートと看護婦は、
外見的には、それ程似ているわけではないのですが、、
顔半分がモンタージュされた時には、
目鼻口眉の位置が全く同じでびっくりしました。。
同一人物になってしまったのではないか?
と思えるほどです。

冒頭に現れる子供が母を求め
母の映像が次第に鮮明になっていく、
一方で最後に現れる子供が母を求めているにもかかわらず、
母の映像が次第に希薄になっていく。
これは、ある意味女優が自己を見つけることが出来た
という象徴なのかもしれません。。
うがった見方をすれば、、
ベルイマンとであったことで、
本当の自分が見つかったという
ウルマンの姿なのかもしれません。

カメラワーク、構図、ライティングが素晴らしく、
無論秀逸な脚本もあり、他に類を見ない傑作になりました。
設定は超リアルですが、お話がメタファーで、
とても不思議な映画です。

タルコフスキーっぽいなと思う方もいると思います。
事実、タルコフスキーはこの映画から
多大なる影響を受けているのです。

そして、ウルトラセブン世代だったわたしは、
監督の実相寺昭雄さんは、
ベルイマンが好きだったと確信を持ちました。
現実味を含んだ夢幻なのか、
幻想のような現実なのかカオス的な世界を舞台にした話が多く、
構図やライティングが似ているからなのです。


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統計力学
5つ星のうち5.0 ペルソナ=仮面は誤訳

あんまり人が嫌がる事ばかり言うのもなんだかなとは思うのですが、根が正直なもんで、思ったことはすぐ言わないと気がすまない性分なので一言。

スカンピンボーイさんとhwさんが、お二人のレビューの冒頭で、ペルソナを「仮面」と解した前提での説明をされていますが、ペルソナという言葉にはもうひとつ「位格」という意味があり、この映画の題名である「ペルソナ」はこっちの意味だと思われます。邦題をつけた当時の配給会社のミスでしょう。

位格というのは「他者に対して区別されうる自らの主体」というような意味で、キリスト教特有の概念です。
この映画の筋書きは一言で言うと、共同生活をする二人の女の精神が交じり合って、どっちがどっちかわからなくなるという話なので、こちらの訳語が適切だと思われます。

この作品は無数のイメージが交錯するので、初めて観た人間は惑わされて混乱します。それらの中から今述べた基本的な骨格を抽出して掴み取り、この映画が一体どういう映画なのかを規定するのは、案外眼力がいるのです。それと、ペルソナという言葉の宗教的な方の意味を、一般常識として把握しておく教養も必要です。邦題をつけた配給会社の人は、その二つとも持ってなかったんでしょう。

ペルソナという原語をカタカナで先に出すのなら、その後に「仮面」と続けて、わざわざ恥を晒さなくていいものを、という気がします。

ベルイマンの作品は、個々のメタファーの解釈などは、研究者によって解釈が分かれてますが、まずおおづかみに、これはどういう映画なのかということを掴むのが難しいのだと思います。

そこが掴めてないと、例えばこの映画の中で、女優の夫が別荘に会いに来るシーンがありますが、これを現実のシーンだと思ったりする。ここは看護婦の意識が睡眠中の女優の夢の中に入って二人の人格が融合した状態で体験する事なのですが、そのまんまに捉えてる人は批評家でも案外多いんじゃないかと私は考えてます。 
さらに付け加えると、看護婦が寝ている女優の傍まで来た事も「現実の出来事」ではありません。ベルイマンの演出が極めて先鋭的なので、勘違いしちゃう人は少なくないと思いますが・・・

ベルイマン映画というのはけっこう難解です。
80年代後半に自分たちのイチオシ映画を押し立てるため、シネフィルが「ベルイマンはエンターティメント」「難解さもエンターティメントの一種」というプロパガンダを流し、それに沿った文章を書いたとんまな人が日本でも結構いました。

本当に優れた芸術は自分達の推薦する作家たちの作品で、エンターティメントのベルイマンは・・・という少々幼い論理なんですが、ここにはベルイマン作品を低く評価した自分達が「その内容の説明を求められたらどうしよう」という怯えも伺えました。事実、説明を求められ「難解さもエンターティメントなのだ」で逃げ切ろうとした人もいました。(あんた意味分からなくて、一体どうやって楽しんでるの?と思った覚えがありますが)。

この時期以後、それまであった60年代の前衛作品へのまじめな読解の努力が日本の映画ファンから途絶えてしまうわけですね。

ちなみに、この映画のあと「狼の時刻」「恥」「情熱」とベルイマンの自画像三部作が続きますが、最後の「情熱」(「passion」)も誤訳です。
この映画は仮邦題で「情熱」、テレビ放映題で「沈黙の島」と、訳されていますが、「情熱」の方は訳者が明らかに作品内容を理解してない事と、passionの宗教上の意味の方を把握してない事が伺える誤訳だと思います。

passionという言葉には、キリストの受難を意味する用法があり、映画の内容が正確に把握できていれば、受難と訳していた筈です。
こんなのは、映画を観てそれが何の映画か皆目分かってなかったのでは?とみられても仕方がないと思います。
ショットとつなぎだけを我流の基準で評価し、あとは「おらむずかしいことはわからねえだ」みたいなシネフィル系が跋扈して以来、専門家なのにアホみたいな人が増えてきて寂しい近年ですが、最近飯島正さんの本を読んでみると、この映画をちゃんと「受難」と訳されてたのでさすがだなと感じました。

https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%AE%E9%9D%A2-%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A-%E2%89%AAHD%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%89%88%E2%89%AB-DVD-%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BD%A5%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/B00ZEIEXYW


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2020-03-03
『仮面/ペルソナ』ベルイマンの難解映画を考察!『ファイトクラブ』『ブラックスワン』への影響も

ファイトクラブも影響を受けた仮面/ペルソナ

ブラッド・ピット主演の『ファイトクラブ』を観て、ラストの演出にビックリした人は多いでしょう。ナタリー・ポートマン主演の『ブラック・スワン』を観て、ホラー真っ青の演出にビビった人もいるでしょう。

でも、こういった衝撃的な映画をつくった監督たちに、多大な影響を与えた作品があります。それが、イングマール・ベルイマン監督の『仮面/ペルソナ』です。


『仮面/ペルソナ』は、1966年に作られたスウェーデンの映画。舞台女優と看護婦が一緒に暮らしているうちに、ふたりの境界線があいまいになってゆく・・・という心理サスペンスです。

監督・脚本はイングマール・ベルイマン。スウェーデンを代表する映画監督で、彼の作品に影響を受けた映画監督はあげたらキリがありません。



スタンリー・キューブリック、ウディ・アレン、フェデリコ・フェリーニ、ギレルモ・デル・トロ、スティーヴン・スピルバーグ・・・

一見すると、ベルイマン作品はアート系映画です。しかし、実際はハリウッドの娯楽作品が彼の演出技法をことごとくマネしています。


スピルバーグは、「彼の作品はすべて観た」とまで語っています。


あらすじ
舞台女優のエリザベートは、仕事もプライベートも順調。人もうらやむような生活を送っていましたが、ある日、失語症を患ってしまいます。エリザベートは、海辺にある別荘で療養することにします。

彼女の世話をすることになったのが、看護師のアルマです。親しくなった二人は共同生活を始めます。最初は関係も良好。



ところが、アルマがエリザベートの手紙を盗み見たことをきっかけに、二人の関係は不穏な方向へ。お互いに執着するあまり、自意識の境界線が剥がれてゆくのでした・・・

強烈なモンタージュ! 彼女は分身?
映画の冒頭。映写機。男の下半身。クモのドアップ。少年。無関係のモンタージュ映像がつづきます。



なんじゃこりゃ?

訳はわからないが、あきらかに普通じゃない。



そして、女優と看護師の物語は始まります。看護師のアルマは、言葉を失ったエリザベート相手に、一方的にしゃべりつづけます。アルマは、エリザベートのような人に憧れていました。みんなの注目を浴び、退屈でない日常を送る女優へ憧れていたのです。



ところが、実はアルマのほうが性に奔放で、エリザベートは欲望を抑えて生きてきたことがわかります。価値の逆転が起きるのです。

ふだんは聴衆の前で役を演じていたエリザベートが聞き役にまわり、ふたんは観客だったアルマがひたすら喋っている。この構図も、すでに逆転現象をあらわしています。

観ているほうは、いつしか奇妙な感覚にとらわれます。



これは、よく似た二人の女の物語なのか? それとも同じ人物の二面性をあらわしているのか?

モチーフはユング心理学? 『ファイトクラブ』『ブラックスワン』への影響も
ユング心理学に、ペルソナという概念が出てきます。ペルソナとは、もともとは古代演劇で役者が付けていた仮面のこと。私たちも学校や会社、友だちの前や家族の前で、「仮面」を使い分けています。

この映画がユング心理学を下敷きに作られているのは、想像に難くありません。



そして、エリザベートとアルマの自意識が剥がれ、境界線があいまいになったところで、びっくり仰天の演出! どんでん返しとか、意外な結末とか、そういうレベルのびっくりではありません。


これか! 世界の映画人に影響を与えた神演出ってのは!


『仮面/ペルソナ』の影響をあからさまに受けているのが、『ファイトクラブ』と『ブラックスワン』です。いずれも、“隠された自意識”がテーマになっていますので。

タルコフスキーやコッポラ、フェリーニといった巨匠が嫉妬したという、ベルイマン作品。映画好きなら、一度はチャレンジしてみて下さい。
https://www.entafukuzou.com/entry/bergman


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仮面 / ペルソナ(Persona):イングマル・ベルイマン


イングマル・ベルイマンは「第七の封印」以後宗教的なテーマを描いた作品を作り続けてきたが、「仮面 / ペルソナ」は一転して、宗教とはかならずしも結びつかない、人間同士の葛藤を描いた作品だ。その人間同士の葛藤は、心と心が直接ぶつかり合うのではなく、仮面を通じて展開する。外面と内面が一致しない二人の人間同士が、外面のぶつかりあいを通じて内面のぶつかり合いに至った挙句、外面と内面とがねじれあうように融合してしまう。外面はそのままで内面を交換する、あるいは内面はそのままで外面を交換する。なんとも不可解な事態に陥った二人の人間(女性)の、不思議な関係を描いた映画なのである。

題名にある「ペルソナ」は、人間の人格という意味と、仮面という意味の、二つの意味を持っている。人格という意味では、それは人間の内面をあらわすが、仮面という意味では人間の外面をあらわす。普通の人間は外面を通じてかかわりあう。その係わり合いを通じて他者の内面を理解するのであるが、もし、相手の外面(顔と言ってよい)がその人の内面(心と言ってよい)と一致していなければ、彼あるいは彼女の顔を通じて、その心を理解するということは出来ない。理解できないにかかわらず、係わり合いをつづけるとどのようなことになるか。この映画はそんな疑問をテーマにしているようである。とにかくわかりにくい。


失語症に陥った女優を、ある看護婦が担当する。病院の院長はその看護婦をつけて女優を自分の別荘で転地療養させるように計らう。別荘は海辺にある小さなキャビンだ。その小さなキャビンに二人きりになった彼女らは、そこで共同生活を始めるが、女優はあいかわらず言葉を発することはなく、看護婦が一方的に語りかけるという構図になる。看護婦は饒舌と言ってよいほどのおしゃべりで、しかも気がやさしい、つまり単純な性格なのだ。失語症の患者とおしゃべりな看護婦という組み合わせで、はじめのうちは一方通行のような関係が続くが、互いに日常的に触れ合っているうちに、次第に相手に感情移入していくようになる。その挙句に、あるとき突然互いの内面を入れ替えてしまう、あるいはそれぞれの内面が相手の姿形としての外面に乗り移ってしまう。つまりペルソナを交換し合うわけである。

お互いのペルソナを交換し合ったあとで、女優の姿となった看護婦の心が、看護婦の姿となった女優に語りかける。しかし、そこに不思議な現象が起きる。女優の姿になった看護婦の心は、心のパフォーマンスにおいては看護婦のときのままなのだが、記憶の中身は女優のままなのだ。だから彼女は、看護婦の立場から女優としての自分を語るということになる。看護婦の姿になった女優についても同じ事が起きる。彼女の心は女優のままなのだが、記憶の中身は看護婦のものを引き継いでいる。その記憶の中身には、看護婦が少年としたセックスの記憶も含まれている。看護婦はその少年によって身体の中に精子を植え付けられた過去があるのだが、その折に味わった官能が、こんどは女優の官能としてよみがえるのだ。


ともあれ、人間の行動は心によってコントロールされるわけであるから、外面的な行動という点では、それまでの役割が逆転し、看護婦が患者となり、患者が看護婦となって、いままで自分の世話をしていたものを世話するようになる。こんな具合で、わけのわからない幻想的な世界が繰り広げられるのだが、最後の土壇場になって、じつはこれらすべてのイメージは、いまや患者となったもと看護婦の見た夢だったということが明らかにされる。すべてはやはり幻想だったのだというわけである。

ベルイマンはなぜこんな仕掛けをしたのか、その意図を正確に推し量ることは困難だが、ひとつの解釈として考えられるのは、宗教的な遠慮が働いたということである。つまりベルイマンは、これはよくある幻想の一つの例だと断ることで、幻想の内容を、宗教とは違う次元のところで、思い切り奔放なものにすることが出来たという解釈である。もしこんな奔放な出来事が幻想ではなく現実だと主張するとすれば、それは神を恐れぬ不敬なやりかただと非難されても仕方がない。ベルイマンはそう考えて、このような演出を施したのではないか。

なお、看護婦を演じたビビ・アンデルソンと女優を演じたリブ・ウルマンは、顔つきと雰囲気がよく似ていて、混同させられることがたびたびだった。まるで彼女らが映像のメタレベルで互いのペルソナを交換し合っているように、それは映った。
https://movie.hix05.com/Nordic/bergman07.persona.html


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その後、多くの映画に影響を与えたプロット。難解と言われていますが、ユング心理学のペルソナをテーマにしているのは明らかなうえに、決して説明排除でもなく思い切り説明もしてくれてるので決して難解ではない。もはや使い古されてますが。

 ひたすら喋り続けるビビ・アンデショーンと見事に一言も発しないリブ・ウルマン。二人の女優さんの対比も素晴らしい。世間一般的な知名度は知りませんが、コアな映画ファンにとっては不朽の名作。


ネタバレあらすじ

 女優エリサベートは、舞台の本番中、突然、失語症になりセリフが言えなくなった。検査の結果、精神的にも肉体的にも問題はなかったが、病院で療養していた。

 アルマは25歳の新人看護士。エリサベートの担当となる。アルマは農場の娘、母も看護師。地味なアルマは、派手な世界にいるエリサベートの担当は「荷が重い」と婦長に告げるが、あなたにやってほしいと言われる。

 ベッドのエリサベートは一言も喋らない。アルマが気を紛らわそうとテレビを見せるが、ブラウン管の中の女優やタレントを見て無表情のまま、画面は暗転していく。

 アルマは今の平凡な日々に「これでよかったの、私は幸せなの」と自分に言い聞かせている。

 エリサベートに手紙が届く。夫から。同封されていた息子の写真を破る。

 婦長がエリサベートに告げる。「本当の自分でいたいと思っているのね。すべてが演技、自意識にとらわれている 沈黙することで現実を遮ろうとしている。でもダメよ、安心できるのは演技をしているときだけなのだから、気が済むまで芝居を続けなさい。」

 エリーサベットとアルマは、二人で海辺の別荘にいくことになった。

 二人での別荘生活は快適だった。相変わらず一言も喋らないエリサベートだが、喋り続けるアルマの話を聞きながら時折笑顔を見せる。

 アルマの「自分語り」が続く。

 アルマには五年つきあった妻子持ちの彼氏がいた。今は分かれたが、あれは嘘の自分だったと言う。でも苦しみは本物だったと。

 七人兄弟の末っ子で女は自分だけだったアルマにとって、彼氏が自分の話を聞いてくれるだけで満たされていた。

 カテリーナという友達と海辺で裸で寝たいた時の話。気が付くと少し離れた場所に少年が二人いて、こっちを見ている。悪戯心でアルマとカテリーナは少年に裸を見せてあげていた。
 やがて少年が寄って来た。カテリーナは「こっちへ来なさい」と誘うと、乳房を吸わせ挿入させた。
 アルマも興奮してきて、少年を自分の上に乗せ、何度も絶頂に達した。その後、妊娠、中絶。

 あの時の私はなんだったのか?自分の中にふたつの人格があるのかしら?と泣く。
 
 エリサベートが先生に書いた手紙を投函しにいくアルマ。手紙は封がされていなかったので、アルマは好奇心から手紙の中身を読むが、そこには「こんな静かな生活が夢だった。」という別荘生活の快適さと共に「アルマはとても献身的にやってくれている。でも面白いの。ずっと自分のことを話すの。過去の堕胎や少年との乱交の話までする。時々泣く。観察していると面白い。」と、自分を見下しているような内容にショックを受ける。

 翌朝、あきらかに不機嫌になったアルマは、割れたガラスの破片をわざと庭におく。破片を踏んで足を怪我するエリサベート。

 海辺、戯曲を読みだすエリサベートを見て「回復は近いわね。」「そろそろ街に帰りたい」と言うアルマ。そして「お願いがあるの。簡単なことよ。なんでもいいから話して。少しでいいから声を聞かせて。」「私ばかりが喋ってるなんて変よ。」とキレる。

 そして「芸術家の心は温かいと信じていた。でも間違いだった。私を利用して用済みになったら捨てるのね。私の言葉も自分のため利用したのね。そして陰で笑ってたたのね。先生への手紙を読んだのよ。私のことをバカにしてたのね。」となじる。

 二人は小競り合いとなり、エリサベートはアルマを張り手で殴る。エキサイトしたアルマは煮えたぎった熱湯の鍋を手にとるが、思いとどまる。エリサベートの怖がった顔を見たからだ。
 さすがに怒ったらしきエリサベートに、今度は許しを請う。私が悪かった、許して、と足早に歩くエリサベートにすがるが、エリサベートはさっさと行ってしまい、アルマはその場に泣き崩れる。

 エリサベートが写真を眺めている。どこかの国、どこかの子供が、軍に銃をつきつけられている写真。

 寝ているエリサベートの枕元、カラダをさすりながらアルマの独白。「貴女が寝ている時の、無防備で醜い寝顔を見ると安心する。首に傷があるわね、普段は化粧で隠すの?」

 別荘にエリサベートの夫が訪ねてくる。

 夫は、アルマを見て「エリサベート」と呼ぶ。「私はエリサベートじゃない。」と言うアルマだったが、夫はかまわず話を続ける。エリサベートがアルマの後ろに現れ、アルマの手をとり夫の頬に誘う。夫と抱き合いキスをするアルマ。完全に夫婦の姿。最後に「なにもかも嘘と芝居よ!」と言うアルマに、エリサベートがハッとする。

 再び二人になったアルマとエリサベート。アルマは「なぜ子供の写真を破ったのか。子供の話を聞かせて。」と言うが、エリサベートは首を横にふる。「じゃ私から言ってあげる。」と、エリサベートのエピソードをアルマが語る。

『妊娠した。子供は欲しくなった。でも私は女優、幸せな妊婦を演じた。何度か堕胎したが失敗、死産してほしいと願った。難産で何日も苦しめられてやっと産まれた。産まれた子供を見て思った、このまま死んでくれないかと。息子を憎んだ。子供を親族に預けて舞台に復帰した。子供が会いたがる。無下にはできないから会い、なんとか愛情を見せいようとしたが無理だった。どうしても自分の子供を愛せない。なぜ私の邪魔をするのかと思った。」

 ※このシーンは二度繰り返される。一度目はアルマの語り。二度目はエリサベートの語り。最後の二人の顔が半々に合成され、ひとりの女性の顔となる。

 アルマは「違う!私は貴女じゃない、看護師のアルマよ。子供も欲しい。」と否定する。

 看護士の制服を着たアルマが、エリサベートに向かって激しい口調で言う。「多くを学んだわ。私は負けない、貴女のようにはならない。取り込まれないわ。言葉は無力よ、言うだけならなんとでも言える。もう手遅れよ、貴女は何もしなかった。私は貴女とは違う。他人を見捨てず、苦しむ人に忠告してあげる。貴女をなんと呼べばいいの?私?私たち?」
 何度もエリサベートを殴るアルマ。

 朝、目を覚ますアルマ。リビングを覗くと、エリサベートが身支度をしている。トランクに荷物を詰めている。

 ベッドを整え、椅子を片付け、別荘を出る準備をしているアルマ。外出着に着替え、トランク(さきほどエリサベートが荷物を詰めていたトランク)を持って出かけるアルマ。

 バス停。一人でバスに乗り、町に戻っていくアルマ。

つまりこういう映画(語りポイント)
 本当はひとりの人間?
 ひとりの人間の心の中を描いた映画?
 だとすれば、どちらが実体なのか?
 それとも、二人とも存在するのか?

 明確な答えを語らず、曖昧に観念的に描いたことで、難解と言われ、いくつかの解釈が乱れ飛ぶ問題作となりました。

 といってもこの映画、決して説明を排除してませんし、さほど難解でもないです。むしろ、ところどころで思い切り説明してくれてます。そもそも題名からして、心理学者ユングの「ペルソナ」が元ネタであることが明白なので、二人の女性を、人間の「外的側面」と「内的側面」に例えていると云う解釈で間違いない。どっちがどっちではなく、双方にとって。

 冒頭などで出てくる「蜘蛛」「焼身自殺する僧侶」などのインサートカットは意味深ですが、いかにも意味深に見せようとしている意図を感じて個人的にはあまり好きではないです。だから言及しません。

 ユングのペルソナ・概要↓

 ペルソナ(英: persona)とは、カール・グスタフ・ユングの概念。ペルソナという言葉は、元来、古典劇において役者が用いた仮面のことであるが、ユングは人間の外的側面をペルソナと呼んだ。ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。逆に内界に対する側面は男性的側面をアニマ、女性的側面をアニムスと名付けた。(wikipediaより)

 生きるために仮面を被る。被り続ける。いずれ仮面を外せなくなり、本当の自分がわからなくなる。…誰しも、なにかしら思い当たるフシがあると思います。逆に、仮面を被らないことで自身や他者を傷つけてしまう場合もあると云うのも妙に納得できます。

 映画の設定について。冒頭に書いたいくつかの疑問(アルマとエリサベート、どちらが実体?二人とも実体?云々)ですが、ミもフタもない結論を先に書いてしまうと…。

 「(そんなこと)どっちでもいい」が答えです。

 この映画にとって「どちらが…」などと答えを出すことに、さほどの意味はない。だから、どちらでもいい。
 
 …ただ、そう言ってしまうと本当にミもフタもないので、以下、僕の解釈を書きます。

 Q)どちらが本当に存在するの?

 A)両方、存在すると思います。


 僕は、劇中の二人の葛藤は真実であると、ぜひ思いたいです。エリサベートの夫絡みのシーンや、アルマがエリサベートの独白を先に話すところなど、リアルに考えたらおかしい部分も出てきますが、そこは「一部、妄想」と考えれば成立します。

 現実と妄想が混在させた「ひとりの人間の内面を現す物語…のように見える物語」だと考えます。

 アルマにはアルマの葛藤があり、エリサベートには彼女なりの悩みがある。当然、両者に外的側面と内的側面があるわけですが、それが、偶然か必然かはさておき、真逆の位置にガッチリ噛み合っていることで「まるでひとりの人間のように見える」のだと。

 つまり「ふたりいるように見せている」のではなく、実は逆に「ひとりしかいないと思えるように見せている」。

 あえてそう断言してみます。

 でも、正解はやはり「どっちでもいい」でしょう。

 多くの作品に影響を与えた同作。「ファイトクラブ」「ブラック・スワン」などがありますが、僕は、この映画のテイストをそのまま流用したような(設定は全然違いますが)フランソワ・オゾンの「スイミング・プール」がおススメ。
https://cinema.kamuin.com/entry/persona
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2022/05/24 (Tue) 12:05:09


ペルソナと分身。『複製された男』に至る創作の歴史を紐解く

複製された男
2018.02.20高森郁哉

「ペルソナ」とユングの概念

 ほとんどすべての映画がそうであるように、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『複製された男』(2014年)も過去の創作物から影響を受けている。前回の記事では考えられる4通りの解釈を示したが、本稿ではそれを引き継いで、「ペルソナ」や「分身」を扱った映画を中心にその歴史を紐解いていこう。


 重要な作品の1つとしてイングマール・ベルイマン監督の『仮面/ペルソナ』を取り上げるが、その前に、「ペルソナ」という用語に関する予備知識を簡単に示しておきたい。


 時代は紀元前1世紀のギリシャにまでさかのぼる。当時の演劇では、大きな野外劇場でも観客が登場人物を識別できるよう、さかんに仮面が用いられた。この仮面をギリシャ語で「ペルソナ(persona)」と呼んだ。役者が舞台に出てくるたびに別のキャラクターを演じる場合は、そのつど別の仮面をかぶって登場したという(ここに多重人格との類似がみられる点も興味深い)。


 スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングは20世紀半ば、こうした古代ギリシャ演劇における仮面の役割を踏まえ、「人間の本来的な内面に対する外的側面」を表す概念として「ペルソナ」という言葉を用いた。


ベルイマンの『仮面/ペルソナ』

 ユングが提唱したこの概念を作劇に活かしたのが、スウェーデンの名匠イングマール・ベルイマンの『仮面/ペルソナ』(原題Persona、1966年)だ。映画は冒頭、強烈だが一見脈絡のなさそうな複数のイメージをモンタージュで示した後、有名な舞台女優エリザベート(リヴ・ウルマン)が失語症になるところからストーリーを紡ぎ始める。入院した女優の世話を任されたのが看護婦アルマ(ビビ・アンデショーン)。転地療養先の別荘にも付き添ったアルマは、沈黙するエリザベートに向かって一方的に語り続け、堕胎を含む過去の身の上を打ち明ける。


 エリザベートとアルマの関係性を示唆する重要な場面がある。エリザベートの夫が見舞いに訪れ、最初に出てきたアルマをエリザベートと認識して話し始める。アルマが人違いだと言っても夫は聞き入れず、さらにはすぐ近くに姿を見せたエリザベートに気づかないのだ。この出来事から、エリザベートとアルマは実は同じ人物の二面性を示しているという解釈が可能になる。役割に照らして考えると、舞台で役を演じる女優は外的側面=ペルソナであり、心にしまっていた過去の秘密を打ち明ける看護婦は「内面」だろう。


 ジョゼ・サラマーゴの小説『複製された男』(2002年)でも、瓜二つの男のうち1人の職業は俳優だった。もう1人は歴史の教員であり、過去に起きたことを語るという点では『仮面/ペルソナ』の看護婦アルマに対応すると言えよう。

 原作小説に見いだされる『仮面/ペルソナ』的要素を、さらに補強したのがヴィルヌーヴ監督と脚本家ハビエル・グヨンのコンビだ。先述した『仮面/ペルソナ』冒頭のモンタージュは、明示的ではないがエリザベートの心象と解釈することが可能であり、映し出される映像には蜘蛛も含まれている。蜘蛛=懐胎=母性の象徴として、映画化に際して蜘蛛のイメージを追加し、繰り返し強調したことがまず一点。また、俳優のアンソニーがフルフェイスのバイクヘルメット――これも素顔を隠す仮面だ――をたびたびかぶるのも、アンソニーが外的側面=ペルソナであることを示唆しているのではないか?

『分身』から『ふたりのベロニカ』へ

 分身あるいはドッペルゲンガーを扱った創作の歴史もたどってみよう。後世の作品に影響を与えた有名な古典として、ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『分身』(1846年)を挙げないわけにはいかない。下級官吏のゴリャートキンが、上級官吏の娘との結婚と出世の夢に破れ、自らの分身である“新ゴリャートキン”との対面と対立を経て狂気を募らせていくというストーリーだ。ロシア語原題の『Двойник』(ドゥヴォイニク)はドイツ語の「ドッペルゲンガー」と同じ意味で、英訳版では『The Double』と題された。


 ベルナルド・ベルトルッチ監督は1968年の『ベルトルッチの分身』で、ドストエフスキーの小説を換骨奪胎し、主人公が融通のきかない真面目な青年と破壊的な殺人者という二つの人格に引き裂かれていくさまを描いた。




 一方、リチャード・アイオアディ監督、ジェシー・アイゼンバーグ主演(二役)の『嗤う分身』(2013年)は、舞台を近未来的世界に置き換えながらも、ドストエフスキーの『分身』に比較的忠実な筋となっている。ちなみに、本作の原題は原作小説の英題と同じ『The Double』。従って2013年から2014年の英語圏では、ドストエフスキーの小説を映画化した『The Double』と、サラマーゴの小説『The Double』(『複製された男』の英題)を映画化した『Enemy』(映画のオリジナルタイトル)が相次いで公開されるという紛らわしい状況になっていた。分身と対面するという内容を共有し、いわば双子のように似通った2本の映画が時を同じくして世に送り出された点に、奇妙なシンクロニシティーを感じずにはいられない。


 『複製された男』との接点がうかがえるもう一本は、クシシュトフ・キェシロフスキ監督、イレーヌ・ジャコブ主演(二役)によるフランス・ポーランド合作映画『ふたりのベロニカ』(1991年)。ポーランドで生まれ育ち、ステージデビューを間近に控えた歌手のベロニカは、外出先の広場で自分そっくりの女性を目撃する。その女性は、フランスで小学校の音楽教師をしているベロニカ。たまたま観光でポーランドを訪れたのだ。同じ名前、同じ容姿、同じ才能を持つ2人のベロニカは数奇な運命をたどることになる……。歌唱を通じて(本来の内面ではない)歌詞の世界を表現する歌手も、「舞台に立つ演者」という点で役者と共通する。演者と教師という役割が、『ふたりのベロニカ』のドッペルゲンガーにも振り分けられているのだ。ストーリーにはほかにも『複製された男』との共通点があるのだが、どちらの作品にとってもネタバレになるので言及は控えよう。


 『仮面/ペルソナ』の女優と看護婦。『ふたりのベロニカ』の歌手と音楽教師。これらの卓越したキャラクターの対置が、2002年にサラマーゴが発表した『複製された男』にインスピレーションを与えたことは想像に難くない。

傑作揃いの“関連作品”

 解離性同一性障害(多重人格)を扱った作品についても取り上げたかったのだが、長くなるのでまたの機会に改めたい。いずれにせよ、ペルソナ、分身、あるいは多重人格を扱う(またはそのように解釈できる)映画は、そうした要素をミステリーの仕掛けに使っていることも多く、具体的に言及するとネタバレの危険が増す。その一方で、こうしたカテゴリーに収まる映画に紹介したい傑作が目白押しなのもまた事実だ。映画ファンなら観賞済みであろうメジャーな作品がほとんどだが、未見の方に配慮した苦肉の策として、大雑把に“関連作品”というくくりでリストアップするのみにて今回の締めくくりとしよう。


アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(1958年)、『サイコ』(1960年)

ブライアン・デ・パルマ監督『レイジング・ケイン』(1992年)、『ファム・ファタール』(2002年)

デヴィッド・フィンチャー監督『ファイト・クラブ』(1999年)

デヴィッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』(2001年)

ジェームズ・マンゴールド監督『アイデンティティー』(2003年)

黒沢清監督『ドッペルゲンガー』(2003年)

ダーレン・アロノフスキー監督『ブラック・スワン』(2010年)

クァク・ジェヨン監督『風の色』(公開中)


文: 高森郁哉(たかもり いくや)
フリーランスのライター、英日翻訳者。主にウェブ媒体で映画評やコラムの寄稿、ニュース記事の翻訳を行う。訳書に『「スター・ウォーズ」を科学する―徹底検証! フォースの正体から銀河間旅行まで』(マーク・ブレイク&ジョン・チェイス著、化学同人刊)ほか。
https://cinemore.jp/jp/erudition/189/article_200_p4.html#a200_p4_1


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誤解している人が多いのですが、イングマール・ベルイマンや黒澤明は
タルコフスキーとかアンゲロプロスの様な芸術系の監督ではなく、前衛風に見えるだけの純粋娯楽映画の監督です。

この作品もユング心理学の専門用語を流用しているだけで、ユング心理学とは何の関係も有りません。

カフカの変身の様なコメディー小説でも背後に深淵な世界が有ると深読みしている人が多いのですが、
意味が無い作品に深い意味を考えようとするから難解に思えるだけです。

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