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チャップリン『殺人狂時代 Monsieur Verdoux』1947年

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2022/05/23 (Mon) 15:30:47

チャップリン『殺人狂時代 Monsieur Verdoux』1947年

監督 チャールズ・チャップリン
脚本 チャールズ・チャップリン
原案 オーソン・ウェルズ(アイデアのみ)
音楽 チャールズ・チャップリン
撮影 ローランド・トザロー クルト・クーラン(クレジットなし)
製作会社 ユナイテッド・アーティスツ
公開 1947年4月11日

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E7%8B%82%E6%99%82%E4%BB%A3%20%20%2F4?ref=watch_html5


『殺人狂時代』(Monsieur Verdoux)は、1947年のアメリカ映画。製作・監督・脚本・主演チャールズ・チャップリン。原案にオーソン・ウェルズがクレジットされている(詳細は後述「#制作の経緯と公開」を参照)。


金の為に殺人を続ける男アンリ・ヴェルドゥが、真相が発覚し死刑台に送られるまでの顛末を描く。

長年親しまれた「チャーリー」のスタイルを捨て、チャップリンの映画にしては珍しく喜劇色が少なく、シリアスな展開であると評価されている。生前、チャップリン自身がこの映画を最高傑作と評価していた。それに加えて、主人公が処刑に向かう前の以下のセリフが、チャップリンの代表作に押し上げた原因とされている。

Wars, conflict - it's all business. One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify.[注 1]
戦争や紛争、これは全てビジネス。1人の殺害は犯罪者を生み、100万の殺害は英雄を生む。数が(殺人を)神聖化する。
一方で、この作品がきっかけとなり、赤狩りによるチャップリン排斥の動きがますます加速。1952年のアメリカ追放へとつながった。

あらすじ
物語は生前を回顧するアンリ・ヴェルドゥの独白から始まる。

北フランスの商家・クーヴェ家の婦人セルマが、多額の預金を引き出した直後に行方不明になる。すでにフランス国内で同じような状況の行方不明が連続して起こっており、事態を重く見た警察が動き出す。犯人はアンリ・ヴェルドゥといい、30年勤めた銀行をリストラされた元銀行員である。彼は「取り付け騒ぎが起こる」などと言って裕福な中高年女性をそそのかし、預金を解約させたのちに殺害して、その奪った金を株に投資して生活費に充てていたのだ。彼はリディアをいつもの手口で殺害したのち、グロネイ夫人を口説いて結婚に持ち込もうとする。その一方で、キャプテン・ボヌールを名乗り、すでに関係をもっていたアナベラを殺害しようと画策する。

そんなヴェルドゥの家庭は、車椅子生活の妻と幼い子供一人。家族や友人には投資で稼いでいると説明しながら、多忙な二重生活を送っていた。

ある雨の晩、ヴェルドゥは刑務所から保釈されたばかりの身寄りのない若い女性に出会う。一度は新しい毒薬のテストのために殺害しようとするヴェルドゥだったが、彼女の話を聞くうちに殺害を思いとどまる。セルマの件でヴェルドゥを追ってきたモロー刑事を心不全に見せかけて毒殺するが、アナベラ殺害はアナベラの悪運の強さに阻まれ果たせない。仕方なくグロネイ夫人との結婚を一刻も早く進めようとするヴェルドゥだが、結婚式の場でアナベラと鉢合わせしてしまい、その場から逃げ出す。やがて世界恐慌の波がヴェルドゥに押し寄せ、ヴェルドゥは財産も妻子も失う。

数年後、かつて雨の夜に出会った女性と再会するが、彼女は成金の軍需会社の社長の妻になっていた。彼女と話をするうちにヴェルドゥは運命に身をゆだねる決心をし、自らすすんで逮捕される。そして、裁判の場やメディアとのインタビューで「(戦争と軍需産業に比べて)大量殺人者としては、私などアマチュアだ」「殺人はビジネス、小さい規模ではうまくいかない」などの言葉を残し、ヴェルドゥは死刑場へと連行されていく。


キャスト

アンリ・ヴェルドゥ:チャールズ・チャップリン
アナベラ・ボヌール:マーサ・レイ
グロネイ夫人:イソベル・エルソム
若い未亡人(後に軍需会社社長の愛人):マリリン・ナッシュ
モーリス(ヴェルドゥの友人):ロバート・ルイス
モナ(ヴェルドゥの妻):メイディ・コレル
ピーター(ヴェルドゥの息子):アリソン・ロダン
アネット(アナベラのメイド):エイダ・メイ
グロネイ夫人のメイド:マージョリー・ベネット
リディア・フローレイ:マーガレット・ホフマン
モロー刑事:チャールズ・エヴァンズ
マーサ(モーリスの妻):オードリー・ベッツ
花屋の女:バーバラ・スレイター
ヴェルドゥの弁護士:リチャード・アボット
刑吏:ジュリアス・クレイマー
検察官:レスター・マシューズ
医者:フランク・レイカー


制作の経緯と公開
第二次世界大戦真っ只中の1942年秋、1920年代のフランスに実在したアンリ・デジレ・ランドリュー (Henri Désiré Landru 1869-1922) という殺人鬼をモデルにした映画の脚本を書くので、その映画の主演をしてもらいたいという話をオーソン・ウェルズがチャップリンに持ち込んだ。アイデアだけで脚本を書く以前の段階であったため、その場は断るが、後にそのアイディアを別の形で映画化することを思いつく。トラブルを避けるために、ウェルズに連絡して「原案」のクレジットを入れ、5000ドルを払うが、実質はウェルズは何もしていない。ただし、後にウェルズが『殺人狂時代』の産みの親は自分だと吹聴したことにチャップリンは心を痛めたという。チャップリンは映画化に際し、ランドリューのエピソードにウェインライトというイギリスにいた殺人鬼を掛け合わせた形の主人公「アンリ・ヴェルドゥ」を考案。脚本の完成に、検閲の影響を挟んだこともあったが2年をかけ、1946年5月から撮影を開始した(ラストシーンから撮影した)。しかし、この頃のチャップリンは様々な困難にぶち当たっていた。

まず時代の変化であった。第二次大戦では圧倒的物量で勝利したアメリカであったが、フィルムなど軍用に優先的に回される資材は不足していた。気が済むまで撮り直しを繰り返すことが常であったチャップリンにとっては、フィルム不足は頭の痛い話であった。さらに、信頼していたスタッフの多くが亡くなったり引退して、かつてのような手法で撮影することははなはだ困難であった。さらに、チャップリン自身にも何かと厄介な問題が付きまとっていた。この映画の撮影に入る前、チャップリンは別の映画の企画をしており、その映画に主演で起用する予定であったジョーン・バリーという女優にストーキング行為をされた挙句、バリーの子供の認知裁判に巻き込まれる。血縁関係がないことは証明されたが、平和主義者・共産主義者として糾弾されていたチャップリンに不利な判決(慰謝料・扶助料等の支払い)が下った。そして、一番大きな困難はやがて来る「赤狩り」であった。大戦中、ソ連を助け第二戦線構築を訴えていたチャップリンを反共団体などが「共産主義者」として糾弾。大戦後、アメリカに亡命していた友人で作曲家のハンス・アイスラーが共産主義者として糾弾された際、アイスラーを擁護するコメントを発したことが、さらにバッシングを大きくさせた。

撮影は1946年9月に終了し、後は公開するだけとなった段階で、チャップリンに対する非難は手の付けられないレベルに達していた。在郷軍人団体やカトリック団体などが猛烈な上映反対運動を繰り返し、上映を予定していた映画館などに脅迫を繰り返して上映をやめさせる動きを盛んに行った。こうした妨害を何とか排除しつつ1947年4月11日にニューヨークで封切られたが、興行成績は悲惨なものであった。チャップリン自身は1200万ドル(約43億円。1ドル=360円で計算)の利益を目論んでいたが、結果は32万5000ドル(約1億円強)であった。これはチャップリン映画で通常「興業的失敗作」と呼ばれる『巴里の女性』などよりも悪い興行成績であり、チャップリン映画で唯一純損失が出た映画でもあった。失敗の影響は、以前から経営不振が伝えられていたユナイテッド・アーティスツの経営をさらに圧迫させることにもなった。

アメリカでの失敗の一方で、遅れて封切られたヨーロッパなどではまずまず好評だった。しかし、そういったニュースも1943年に結婚した愛妻ウーナの深い愛情も傷ついたチャップリンの完全な癒しにはならず、やがて苦難のアメリカ追放を迎えることとなる。アメリカでこの作品が正当に評価されるようになったのは、ベトナム戦争に対する反戦運動が高まった1970年代になってからである。

なお、純粋にランドリューを主人公にした映画もある。1962年に製作されたフランス映画 Landru (日本では劇場未公開[2]、ビデオ題『青髭』)で、監督は「殺人狂時代」を高く評価しているクロード・シャブロルである。シャブロルは「ランドリューは単なる変わり者だが、ヴェルドゥは哲学者」と述べている。

チャップリンは、チャーリーにおいてはアザラシから作った付け髭をつけていたが、この作品では自前の髭を蓄えている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E7%8B%82%E6%99%82%E4%BB%A3_(1947%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
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2022/05/23 (Mon) 17:06:10

内田樹 「なぜ人を殺してはいけないのか?」

2020-03-02 20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ - 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2020/03/02_1756.html
『ペスト』がいきなり売れ出したということで、集英社の伊藤さんからカミュ論の旧稿をウェブに上げたいという提案を頂いたけれど、これがとてもそのままではお目にかけられるようなクオリティではない。その時にHDの筐底から「こんなもの」が出て来た。たぶん1995年くらいに大学のリレー講義の一部で、「20世紀の倫理」というのを3回くらい担当したことがあって、その時に作ったノートである。そのあと大学の紀要に載せたのだけれど、単行本には採録されていないと思う。カミュ論の部分はのちに改稿して『ためらいの倫理学』という論文になって、同名の論集に収録されている。前半の「倫理についての思想史的概説」は学生向けに書いたので、たいへんにわかりやすい。

                              

1・倫理なき時代の倫理

 神戸の小学生殺人事件のあと、あるトーク番組で「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と発言した中学生がいて、物議をかもしたことがあった。おそらく、彼はそのときまで、その問いに対して納得のゆく答えをしてくれる大人に出会ったことがなかったのだろう。それだけ、この問いは「ラディカル」な問いかけだということである。その場に私たちが居合わせたとしても、限られた時間のうちに彼を説得できたかどうかは分からない。たぶんできなかっただろうと思う。

 しかし、この問いは立てられて当然の問いであると私たちは思う。思春期の少年がこの問いを立てることは、精神の成長にとってはしごく健全なことである。むろん、この問いに容易には答えが出せない。自分自身の責任において、暫定的な解答を絞り出してゆくほかない。自力でその答えを出すことが私たちの社会においては一種の「通過儀礼」に相当すると私は考えている。

 「なぜ人を殺してはいけないのか?」経験的に言って、この問いに対するとりあえず穏当な回答は「そういうふうに決まっているから」というものである。

 人間社会は、私たちが平和的に共存してゆけるようにさまざまな制度を整えている。言語や親族制度や貨幣はそのためにつくられた装置である。それがどういう「起源」に由来するのかは仮説でしか答えられない。なぜ人間は分節音声を言語として使うのか? なぜ人間は集団を作るのか? なぜ人間は「もの」を交換するのか? こういった問いには「そういうふうに決まっている」という以外に答えようがない。説明できないことについては説明しないのが大人の態度である。

 だからといって、この中学生の問いかけを「そんな問いを立てること自体が不道徳である」と圧殺することには私は反対である。それは「倫理とは何か?」という問いかけに対して「そのような問いかけは倫理的ではない」と答えるのに似たナンセンスである。というのも「なぜ人を殺してはいけないのか?」というのは、おそらくもっとも根源的な倫理の問いだからである。 

 議論を先に進める前に、まず「倫理」という術語の語義を確定しておきたいと思う。倫理とは「これをしなさい、あれをしてはいけない」という善悪の項目を列挙した「カタログ」のことではない。倫理とは、そのような「カタログ」を「そのつど決定するプロセスそのもの」のことである。文法用語を借りれば、成文化された道徳律が「決定されたこと」であるとすれば、倫理とは「決定する」の動詞形である。例えば、「人を殺してはいけない」という準則そのものは倫理ではない(それは倫理に媒介されて事後的に定律されたものである。)「なぜ人を殺してはいけないのか」と自らに問うこと、そのような思考の運動をこの論考では「倫理」と呼ぶことにする。

 私たちは重大な決定を前にして、たいていの場合、ためらい、迷う。なぜなら「なすべきこと、なしてはならないことの網羅的なカタログの決定版」が私たちには与えられていないからである。数学では、あることを真実であると証明するためには、それより上位の、より包括的な真実(「公理」と呼ばれる)による根拠づけが求められる。しかし、善悪、正邪、理非の判断については、万人に普遍的に妥当する「公理」のようなものはない。

 かつては「至高者」が君臨して、すべてを覆い尽くす「聖なる天蓋」を形成していた時代があった。行動の規範は「神」から私たちに絶対的命令すなわち「啓示」というかたちで与えられた。アブラハムはエホバの声を聞き、釈迦は菩提樹の下で成道を遂げ、マホメットはヒラー山の洞窟でアッラーの啓示を受けた。彼らが了解した「最初の言葉」は絶対的な真実であり、人知による懐疑の余地を残さない。この「啓示」という前提を受け容れるならば、人間の遭遇しうるすべてのケースを予測して、「なすべきこと」と「なしてはならないこと」の網羅的なカタログを作成することは、理論的には可能である。

 ユダヤ教の場合、行動規範は「・・・すべし」248条、「・・・すべからず」365条、計613条の網羅的戒律によって「カタログ化」されている。もちろんいくら古代とはいえ、613の条項で、あらゆるケースを網羅できるはずはないから、戒律だけからは判定しかねる係争が起きれば、ラビたちはどのような条文解釈によって決着をつける鳩首協議した。

カトリック教会には、「決疑論」の専門家がいて、複数の行動規範のあいだに矛盾がある場合の決定について議論を重ねた。(「名誉を守るために決闘に応じるべきか、殺してはならないという戒律に従うべきか」といったアポリアについては、神学者が考えてくれたのである。)しかし、そのような解釈学が可能であるのも、「啓示」という、真実性の最終的な保証があればこそである。

 時代や場所が変われば、人間は次々とあたらしい難問に遭遇する。道徳が網羅的なものであろうとすれば、「カタログ」は絶えず増補改訂されなければならない。その作業は容易ではない。しかし、「啓示」が根本にある限り、信仰が集団成員の全体に共有されている限り、「あらゆる場面を想定した行動規範についての網羅的なカタログ」を作るというアイディアは、理論的には可能だったのである。

 だから「神」が生きている時代には「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは発せられることはなかった。十戒には、はっきりと「あなたは殺してはならない」と定めてあるし、仏教でも五戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒)の筆頭に殺人の禁止は挙げられている。しかし、私たちが生きている時代では、「啓示」や「戒律」をもってこの問いに答えることはほとんど説得力をもたないだろう。

 私たちの時代は「なすべきこと・なしてはならないこと」のカタログが存在しない時代である。けれども、それは倫理が不可能になったという意味ではない。神なき時代、戒律なき時代にあっても、私たちが具体的な決断の場に立ち会うたびに、そのつど善悪、正邪、理非を決せざるをえないという事実に変わりはないからだ。つまり私たちは仕事をふやしてしまったということである。

 とはいえ、網羅的なカタログがあった時代に、必ずしもすべての人間たちが道徳的ではなかったのと同じく、カタログがない時代でも、必ずしもすべての人間が野蛮であるわけではない。現代において、倫理とはかたちある規範ではなく、そのようなかたちある規範を希求する激しい欲求、あるいは「規範をつくり出さなくてはすまされない」という痛切な責務の感覚といった運動的なかたちをとって息づいている。その感覚が痛切なものであるかぎり、この「倫理なき時代」を「すぐれて倫理的な時代」へと鋳直してゆくことはつねに可能であると私たちは考える。

 私たちはさきに現代における倫理とは「決定する」の動詞形であると書いた。同じことをアルベール・カミュは次のように言い表している。

「私の興味はいかに行動すべきかを知ることにある。より厳密に言えば、神も理性も信じないときにひとはいかにして行動しうるのかを知ることにある。」(1)  

 以下の論考では、おもにヨーロッパにおける倫理の変遷をたどりながら、現代における倫理問題の緊急な主題である「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにひとつの回答を試みたいと思う。


2・啓示はいつその効力を失ったのか?

 神の戒律がその効力を決定的な仕方で失ったがいつのことか、それは思想史にはっきり刻まれている。神の死を確認したのはフリードリヒ・ニーチェであり、それは1882年のことである。

 神は自然死したわけではない。殺されたのである。人間たちが「神」という倫理の根拠を抹殺したのである。しかし、その過激な言葉ゆえに多くの人に誤解されているのとはうらはらに、その死亡宣告は、まったく無秩序な世界を作りだし、世界を混沌のうちにたたき込もうという悪意によってなされたわけではない。ニーチェは神とは別の、神よりもっと堅固な基盤の上に倫理を根付かせようとしてそうしたのである。

「神は死んだ。」中世以来、ヨーロッパの文明を、ヨーロッパの人々の世界観、その日常の判断と経験のありかたを決定的な仕方で規定してきたキリスト教が、その支配的な影響力を失ったこと。これが現代世界の決定的な初期条件である。

「おれたちが神を殺したのだ-お前とおれがだ!おれたちはみな神の殺害者なのだ!」
 ニーチェの文章はそのあとこう続く。

「世界がこれまでに所有した最も神聖にして強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ。おれたちが浴びたこの血を誰が拭いとってくれるのだ?どんな水でおれたちは体を洗い浄めたらいいのだ?どんな贖罪の式典を、どんな聖なる奏楽を、おれたちは案出しなければならなくなるのだろうか?こうした所業の偉大さは、おれたちの手に余るものではないのか?それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?」(2)

 単に「神は死んだ」のではない。「私たちが神を殺した」のであり、それは単なる無神論に落ち込むためではなく、「私たち自身が神となり」、「これまでのいかなる歴史もなしとげなかったような偉大な歴史」を構築するために必要だからだとニーチェは考えた。
 ニーチェの主張はふたつの命題にまとめられる。

ひとつは、「超越者」が否定され、空席になった「神」に代わるものとして「人間」(ニーチェは「超人」と呼ぶ)が置かれなければならないということ。ひとつは、神から下された「戒律」を祖型とする古典的な「当為」はすべて否定され、「超人」が体現する「悦ばしき知識」が人間の行動を律する新しい基準とならなければならないということ、これである。

「超人」とは何か?「悦ばしき知識」とは何か? この問いについて考えるためには、少し思想史を遡ってみる必用がある。


 
3・人間中心主義の流れ-ラブレー、モリエール、ラ・ロシュフーコー公爵

 この「反キリスト教=人間主義的」的な考え方はニーチェの創見ではない。中世以来、多くの思想家は、ときには暴力的な弾圧や迫害に耐えて、なお神の命じる道徳のうちよりも、それが抑圧しようとしている「人間の本能」の方に「善」を見出そうとしてきた。

 その代表的な思想家のひとり、フランソワ・ラブレー(1490?-1553) は『ガルガンチュア物語』(Gargantua, 1534)の中、彼が創造した理想の共同体である「テレームの僧院」にただ一つの戒律しか与えなかった。それは「汝自身の欲するところを為せ」(Fais ce que voudras.)である。

 ラブレーの陽気な世界観によれば、世界は善であり、人間は善であり、世界と人間はその本性の赴くままに行動するときにはじめて善き目的へと向かうことができる。自然に発生する生命の奔出こそが善であり、その生命ののびやかな流れをたわめたり、阻害したり、抑えつけるもの、それが「悪」である。ラブレーは「よきものとしての自然」(Physis)と「悪しきものとしての反自然」(Antiphysie)という単純な二項対立のうちに、世界のすべての矛盾を流し込んだ。

 ラブレーやモンテーニュ(1533-92)によって代表される人間中心主義思想は、モリエール(1622-1673)やラ・ロシュフーコー公爵(1613-1680)に受け継がれる。けれども17世紀の歴史的経験はこの自然礼賛の思想のうちに少し苦い味わいを加えた。すれっからしの近代人は人間の「本来的な善性」なる観念をラブレーのように手ばなしでは信じることができない。彼らは善なる人間本性と悪しき制約としての「道徳」という二項対立を信じるには、あまりにも人間の邪悪さを知りすぎたからだ。人間はもう少し屈折した手順を踏んで道徳とかかわっている、という新たな知見が登場する。

 彼らはこう考えた。道徳は利己的な欲望達成のために功利的に活用されている道具にすぎない。自己犠牲とか誠実とか無私とか呼ばれる「道徳的行動」は、それ自体が価値であるから実践されるべきなのではなく、実はそのような「非利己的行動」を迂回して、利己心に奉仕しているから価値があるとされるのだ。これが17世紀の人間観察者(モラリスト)たちの発見である。

 モリエールの芝居には、純粋な偽善者、どこから見ても悪人というような単純な登場人物は出てこない。単純そうな農夫は利己的で邪悪な本性を無邪気さの衣で覆っている。猫かぶりの女は純潔を装うことでうまみのある結婚相手をつかまえようとする。大酒のみで徹底的に現世主義者の従僕はミステリアスな主人を畏怖している。ドン・ジュアンは悪行を尽くしながらも、超人的な勇気と冷静さを失わない。アルセストは人間嫌いのくせに、社交的でコケッティシュなセリメーヌに夢中になる。

 モリエールの登場人物たちはいずれも「ひとすじなわではゆかない」人物たちである。別の言い方をすれば「外面から判断しては内面が推測できない」人々である。それは、彼らの外面的な行動が内面的な動機の忠実な反映ではなく、内なる動機が外なる行動に現れるまでの間に抑圧や屈折や迂回や偽装などが介在して、内面が見えにくくなっているからである。そのせいで生じた誤解や行き違いや勘違いや取り違えがモリエール流の笑劇の不可欠の要素となっている。

「人間の内面は(ある種の解読装置を使わないと)見えない」という考え方、あるいはもっと踏み込んで言えば、「人間には『内面』がある」という近代的な考想そのものが公的に承認されたことの、モリエールはひとつの指標であると言えるだろう。

 とはいえ、モリエールにはまだラブレー的な人間中心主義の流れが生きている。つまり、無垢なるものが「善」であり、人工的なもの作為的なものが「悪」であるという基本的な発想である。だから、作劇術の上では、「善」は無知で衝動的で健康な欲望に身を任せている若者たちによって、「悪」は社会の汚れにまみれ、打算でしか行動しない大人たちによって定型的に演じられることになる。しかし、無垢なるものは同時に無知であり無力であり、偶然の幸運がないかぎり、自力で運命を切り開くことも、おのれの正しさを承認させることもできないことをモリエールは熟知している。
 
 同時代のモラリスト、ラ・ロシュフーコーはモリエールよりもさらに人間について手厳しい。彼に言わせればこの世には利己心しか存在しない。もっともよく知られた彼の箴言をいくつか拾ってみよう。

「われわれの美徳は、たいていの場合、偽装された悪徳にすぎない。」

「美徳は虚栄心が同伴していなければ、それほど遠くまでは行けないだろう。」

「利己心はあらゆる言葉を操り、あらゆる人間を演じてみせる。無私の人さえも。」

「多くの人にとって、感謝とはより多くの恩恵を引き出そうとする密やかな願いに他ならない。」

 ラ・ロシュフーコーのこれらの嫌味な箴言に共通するのは「美徳の迂回構造」である。私たちが何かを譲ったり、与えてみせるのは、一度手放すことを通じて、もっと多くのものを取り戻すためであると彼は考える。これは道徳についての「近代的な」解釈といってよい。彼の考え方には、宗教的な道徳観から「離陸する」新しい知見が含まれている。

もし道徳が功利的な装置であるとしたら、道徳はそのつどの社会関係に即して、利己心の達成のためにもっとも効果的なすがたを「偽装」するはずである。(他人を密告することが有利な場では、「自分の気持に忠実であること」が道徳的とされ、面従腹背が有利な場では、「自分の気持を抑制すること」が道徳的であるとされるだろう。)道徳は終わりなきプロテウス的な変身をとげ、決して同一のものにはとどまらない。美徳と悪徳、正義と邪悪とを決定するのはそのつどの社会関係であるという「道徳の歴史主義」がここに出現する。


4・道徳の歴史主義-ホッブス、ロック

 善悪の観念はそれぞれの社会集団の歴史的・場所的規定性によって恣意的に決定されるという「歴史主義的」道徳観はトマス・ホッブス(1588-1679)、ジョン・ロック(1632-1704)、ジェレミー・ベンサム(1748-1832) らに代表されるイギリスの功利主義哲学においてもその基幹をなしている。

 ホッブスの「万人の万人に対する戦い」(bellum omnium contra omnes) という言葉が端的に語っているように、自然状態にある人間は、それぞれの自己保存という純粋に利己的な動機によって行動しているとするのが、功利主義の考え方である。自己実現と自己保存という「汝の欲するところ」は、人為的に定められた「実定的権利」に対して、いついかなる場所においても人間がその享受を要求できる権利ということで、「自然権」(natural right)と呼ばれる。

 この自然権の行使を万人が同時に求めた場合(ラブレーの夢想とは違って)、人々は自分のほしいものは他者から奪い取り、自分の欲求を暴力的に他者に強制することになる。この絶えざる戦闘状態にある社会では、自分の生命財産を安定的に確保することがきわめて困難であり、結果的には(ひとにぎりの圧倒的な強者をのぞく)ほとんどの社会成員が所期の自己保存、自己実現の望みを十分にかなえることができずに終わる。自然権行使の全面的承認は、自然権の行使を不可能にしてしまうというアポリアがここに生じる。

 それゆえ、とりあえず直接的・自然的欲求を断念し、そして社会契約(social pact)に基づいて創設された国家に自然権の一部または全部を委ねる方が結果的には利益が大きいと功利主義者は考える。 

 例えばロックは自然状態から社会契約による政治権力装置への移行を次のように説明する。

「人間たちが共同体を構成し、ひとつの政府に服従するとき、彼らがたがいに認め合った最も重要で基幹的な目的とは連帯し、自分たちの私有財産を保全することであった。というのは自然状態にあっては、私有財産の確保のためにはあまりにも多くのものが欠落していたからである。

 第一に自然状態には、共同的な同意によって定立され、認知され、受容され、承認された法律、生じうるさまざまな係争を終結させる共通の尺度として、これに基づいて正当な請求と不当な請求、正義と不正が判定されるような法律が欠けている。(・・・)第二に、自然状態には、公正な立場にあって、法律に則って係争を終結させるだけの権威を備えていると承認された裁判官がいない。(・・・)人々は自分の利害に関係することには夢中になるが、他人の利害についてはいい加減で冷淡である。これが際限のない不正と無秩序の原因となる。第三に、自然状態には下された判決を支援し、維持し、執行する力を持った権力が通常は存在しない。罪を犯したものであっても、可能であればまず実力を行使して、おのれの不正を押し通そうとするだろう。犯罪者の抵抗はときには彼を罰しようと企てるものをかえって危険にさらし、ときにはその命を失わせることもあるだろう。

 こういうわけで、人間たちは自然状態において享受していた数々の特権にもかかわらず、彼らのおかれていたきわめて不都合な条件のうちにいつまでもとどまることを止めて、社会を構成して暮らす方向へと強く押しやられたのである。」(3)

 この考え方は私たちにはそれほど抵抗なしに理解できる。ここにはラ・ロシュフーコーと同じ発想パターンが読みとれる。すなわち、「短期的・直接的な利益を断念することによって、より大きな長期的・間接的利益を回収する」という「迂回のメカニズム」である。人々は自然権の無制約な行使を断念する代わりに、社会契約の合意に基づいて形成された国家権力装置を通じて、より効果的に自分の私有財産を保全する。一時的に特権を断念するほうが、結果的にはより有効に特権を確保することができる。だから社会契約は、あくまでも私有財産の保全、個の自己保存、自己実現つまり自然権の最大限行使を目指しているのである。

 ホッブスによれば、たとえ国家主権といえども、その本義は国民の自然権の保障にある。だから、国民は自分たちが自然権を十分に享受できていないと判断した場合、「抵抗権」あるいは「革命権」という名目のもとに、現体制を他の政体に替える権利を保留している。17-18世紀の近代市民革命(イギリスの清教徒革命、アメリカの独立戦争、フランス革命など)がこのような理論に導かれて果たされたことは改めて指摘するまでもないだろうし、この社会契約理論は現在でも(日本国憲法をはじめとして)ほとんどの先進民主国家の憲法において、国家の正統性の根拠づけのために採用されているのも周知のことである。

5・道徳の系譜学へ

 近代の哲学者はホッブス、ロックからモンテスキュー、ルソー、エンゲルスに至るまで、道徳的な行動準則の成立について基本的には同じ考え方をしている。自然状態においては「社会が欠如」しており、そのために道徳は存在しないか、あるいはきわめて原始的なかたちでしか存在しない。そのような原始状態から社会契約によってテイク・オフが果たされる過程で、擬制としての道徳が法律に準じる仕方で成立した、とするのが彼らの近代的な倫理観である。

さて、このようにして(歴史学的にも考古学的にも実は根拠がない)「社会契約による社会の欠如から現存の社会への移行」という進化史観に与することは、ひとつの重要な態度決定-社会秩序の起源についてのある考え方を採用すること-を意味している。 

「人間の社会は契約から生まれると述べることは、結局あらゆる社会制度の起源がただしく人間的であり、人為的であることを宣言することである。それは社会は神の制度や自然の秩序の結果ではないと言うことである。それはなによりもまず社会秩序の基盤にかんする古い観念を拒否し、新しい観念を提出することである。」(4)

 ルイ・アルチュセールによると、社会契約説による説明は、社会は人間以外の原理(神あるいは自然)によって作られたとする「古い」仮説を退ける。この「古い」仮説はひさしく封建社会に固有の信念である「人間の本来的な不平等性」という考え方の根拠となってきたものである。人間の理解を超越し、人間の力によっては動かしようのない神や自然の摂理によって社会が成立したとする限り、ある人間が権力をもち、富を独占していたとしても、それはその人に帰された「本来的な社会性」によって説明される。(例えばボシュエの「王権神授説」)

 これに対して、社会契約説は社会的不平等を含む「自然」を欺瞞として退け、「諸制度を人間の約束の上に築き上げる。この思想は、人間に、古い制度を拒否し、新しい制度を立て、そして必要とあらばそれらの制度を新しい約束に基づいて廃しあるいは改革する機能を与えるのである。」(5)

「社会制度は人間の同意の上にはじめて成り立つ」という「新しい」考え方が「社会制度は人間を超える原理によって措定されたものである」という「古い」考え方にとって代わった。「道徳は神(あるいは自然)が制定したものである」とする「古い」考え方(哲学史的な術語で言えば「道徳の先験主義・絶対主義」)が退けられ、「道徳は人間が社会契約によって制定したものである。それゆえ「制定」することも「改正」することも、「廃絶」することも、集団の同意さえあれば可能である」とする「新しい」思想(「道徳の経験主義」)が支配的になったのである。

 しかし、私たちは「道徳についての二つの理念のあいだの覇権闘争は新しい理念の勝利のうちに推移した」という教科書的説明をそのまま鵜呑みにして済ませるわけにはゆかない。というのは、社会契約説は、それ自体が論争的、権利請求的な政治イデオロギーであり、目の前に現存する当の制度を革命するための論拠として要請されたものであり、その目的は「世界のあらゆる民族の制度を説明することではなく、既成の秩序を打破し、あるいは生まれつつあるかやがて生まれるであろう秩序を正当化することであった」からである。この説の唱道者たちは「あらゆる事実を理解することを望んだのではなく、新しい秩序を築く、つまり新しい秩序を提案し、正当化することを望んだのである。それゆえホッブスやスピノザのなかに、ローマの没落や封建諸法の出現の真の歴史をさぐることは間違いであろう。彼らは事実にはかかわりをもたなかったのだ。(・・・)彼らは自分が選んだ立場から歴史の理由そのものを作りだした、そして彼らが科学とみなしていた彼らの諸原理は、彼らの時代の闘争の中に組み込まれた-そして彼らが選んだ-諸価値にすぎなかった。」(6)

 アルチュセールの言葉をもう少し私たちの関心に即して言い換えると、「私利」をあらゆる行動の基本原理とする功利主義哲学の唯一の難点は、その哲学自体が、ひとつの党派的・階級的立場の「私利」に奉仕する哲学だったということである。

 ひとは「私利」によって動くということを論証しようとしている功利主義者自身が「私利」によって動いているとすると、これは論証すべきものを論証の前提に組み込んでいる「論点先取の虚偽」を犯していることになる。別にアリストテレスを持ち出すまでもなく、ある特定の社会集団にだけ選択的に有利な理説を、「一般的に妥当する学知」としていくら宣布してもふつうはあまり信用されない。

 いずれにせよ、19世紀の末に、近代の功利主義的な道徳観、すなわち「利己心の合理的な充足のための社会契約」としての道徳という前提をもう一度洗い直す学的な作業が思想的課題の日程にのぼることになったのである。

 その作業は一人の哲学者によって定式化された。

 あらゆる社会に妥当する、道徳を基礎づけているファクターとは何か?「人間を超越した」原理ではなく、また「人間に内在する」利己心でもないとしたら、それはいったい何か?超越でも内在でもなく、それとは別の水準にあって、人間を駆動しているものとは何か?

 この問いかけから始まる学的考究をニーチェは「道徳の系譜学」と名づけた。この学の原則は次のふたつのテーゼに集約される。

(1)「道徳の本来の問題たるものはすべて、多くの道徳を比較するところに始めて現れでるものである。」(7)つまり、道徳の系譜学は「比較道徳学」というかたちをとることになる。

(2)道徳が神の導きであるとする先験説も、道徳が合理的利己心の成果であるとする功利主義も、そのいずれをも認めない。「すべての道徳に本質的で貴重なことは、それが永年にわたる拘束だということである。」(8)

 こう宣言したニーチェによって『道徳の系譜学』(Zur Genealogie der Moral,1887)と題された書物が19世紀末に登場することになった。現代の倫理をめぐる根本的な問いはこの一冊の書物のうちに集中的に表現されているといってよい。この書物においてニーチェは彼の「人間中心主義」を極限にまで推し進めて、19世紀までのすべての道徳観を完膚なきまでに叩き潰した。

 ニーチェは、神や自然の介入を借りることも、利己心という怪しげな動機に依拠することも、ともに退け、「おのれ自身によっておのれ自身を主体的に根拠づけ、かつおのれの行動の理非を客観的に判定しうる方法はあるか」という19世紀までの思想家が問うことのなかった無謀な問題を設定し、その困難な問いに正面から取り組んだのである。ニーチェの回答の試みが成功したかどうかは別として、少なくともニーチェ以後、この問いを回避して倫理について語ることは誰にもできなくなった。


6・大衆社会の道徳

 功利主義者たちとニーチェを隔てる最大の状況的な差異は、前者が「市民社会」における、ニーチェが「大衆社会」における倫理について語ったということである。ニーチェの既成道徳批判は、つきるところ、「大衆社会において倫理的であるとはどういうことか」という、それまでの思想家が誰一人自らに問いかけることのなかった問いを引き受けたことにある。当然のことだが、それまで人類は「大衆社会」というものを知らなかったからである。

「大衆社会」とは何か?

 それは成員たちがもっぱら「群」をなし、「隣の人間と同じようであること」を指向して判断し行動するような社会のことである。そこでは、群がある方向に向かえば、全員が大勢に従って、批判も懐疑もなしに、同じ方向に雪崩打つ。そこではひとびとは自立的な個としてではなく、アモルファスで均質的なmasse(塊)をなしている。ニーチェ以前の思想家には切実な論件ではなかったこのような人間の集合的なあり方のもたらす災厄をニーチェはきわめて悲観的に予見した。

「群」をなして行動する人々をニーチェは「畜群」(Herde)と名づける。畜群の行動基準は「隣の人と同じことをする」「大勢に従う」ということである。集団から突出すること、特異であること、卓越していること、畜群的本能はそれを嫌う。畜群の理想は、「みんな同じ」という状態である。それが彼らの行動規範、「畜群道徳」となる。

「今日のヨーロッパにおける道徳なるものは、畜群的道徳である。」(9)

 畜群的道徳が目指すのは、なによりも社会の平準化・等質化である。

「万人が平等であること」こそ畜群の輝く理想である。だから彼らは「心をひとつにして、あらゆる特殊な要求、あらゆる特権や優先権に対して頑強に抵抗する」し、「ひとしく同苦(同情)の宗教を信奉し、およそ感じ、生き、悩むかぎりのすべてのものに同情する」。(10)

 こうしてひとびとは、互いに共感し合い、理解し合い、慰め合い、苦しみも喜びもひとしく分かち合いつつ、相互を隔て差異化する輪郭を失って、不定形的でねばねばしたマッスのうちに溶け込んで行く。もはやその成員たちが区別しがたいほどに等質的な集団を形成することを、畜群たちは「人間における極頂、人間の達し得た絶頂、未来の唯一の希望、現在のものたちにとっての慰めの具、過去のあらゆる罪過からの偉大な解放」と考えている。

 畜群的道徳もある意味では「功利的」である。けれども、それはホッブスやロックが考えていたような功利とは別種の功利である。「功利主義的」な道徳観によれば、個人は(慈善や謙譲や寛容や禁欲などの)「道徳的」行為をすることによってこうむる短期的な不利益と、結果的に獲得される長期的利益を「計量して」行為を決定する。この理論は、行為の決定者は、その行為が得か損かについて算盤をはじくことができる程度の知的能力をもっていることを前提としている。だから、仮にある一人の判断が集団成員の大多数の判断と一致したとしても、それは集団の成員全員が、彼と同程度に利己的であり、彼と同程度に計算高いというにすぎず、判断はあくまで個人の資格において、個人の責任において、主体的に下されたのである。

 しかるに、このような功利主義的判断は畜群には不可能である。なぜなら畜群とは(その定義からして)主体的には何一つ判断できないからである。畜群の関心はもっぱら「集団の保持」「集団の存続」に向けられている。つまり群をなし続けていること、いつまでも等質の集団のまま、塊として運動すること、それが最優先の目標なのである。そのためには全員がその隣人と同じ判断をし、同じ行動をすることが必要である。功利的な判断の結果がたまたま全員一致するのではなく、全員一致することそれ自体が自己目的化するのである。そのとき、ひとつの「倒錯」が発生する。畜群においては、ある行為が道徳的であるか不道徳的かについての判断は、その行為に内在する道徳的価値でもなく、その行為が行為者本人にもたらすはずの利益の多寡でもなく、「ほかの人々と同じであるか否か」によって決定されるからである。

 外部から到来する命令に集団的に屈服させられ、畜群化されるという事態は歴史的にはこれまでもいくらもあった。しかし、それと近代の畜群のあり方は似ているようで決定的に違っている。

「人間が存在するかぎり、あらゆる時代に人間畜群も存在したし(血族共同体、共同団体、部族、民族、国家、教会)、またつねに少数の命令者に対して、非常に多くの服従者が存在した。(・・・)今ではすべての人間が、一種の形式的良心として『汝すべし』と命ずるものに対する欲求を生まれながらに持っている。この欲求は満足を求めるし、その形式をある内容で満たそうとする。(・・・)それはだれかれとない命令者-両親なり教師なり法律なり階級的偏見なり世論なり-から吹き込まれるものを受け入れる。」(11)

 単に強権によって屈服させられ、同一の行動を強制されるだけではひとは「奴隷」(Sklave)にはならない。「奴隷」とは、強権に屈服するだけでなく、屈服することを幸福と感じ、そこに快楽を見出すようなもののことである。外部から強いられた思念を自分の内部からわきあがってきた自分自身の思念であるとシステマティックに取り違えるようなもののことである。

ニーチェによれば、この服従への欲求には歴史的淵源がある。ある特殊な民族集団とそれを母胎とする宗教がこのメンタリティを育み、それをヨーロッパ世界に持ち込んだのだ、とニーチェは論断する。

「ユダヤ人とともに道徳上の奴隷一揆は始まった」とニーチェは書く。

「ユダヤ人-タキトゥスや全古代世界のひとびとがいうところでは、『奴隷として生まれた民族』、また彼ら自身が言いもし信じもしたところでは『民族の中の選ばれた民族』-このユダヤ人が、価値の逆倒というあの奇跡劇をやってのけたのだ。(・・・)彼らの預言者たちは、〈富〉と〈背神〉と〈悪〉と〈暴戻〉と〈肉欲〉というものを一つに融け合わせてしまい、かくてはじめて〈この世〉(世界)という言葉を汚辱の言葉にしてしまった。価値のこの逆倒という点にユダヤ民族の意義がある。この民族とともに道徳における奴隷一揆が始まったのだ。」(12)

 ニーチェのいう「奴隷一揆」とは、奴隷たちが支配者に抵抗することを意味するのではない。そうではなくて「奴隷である」という「事実」を「奴隷であるのは幸福であり、勝利である。だから努めて奴隷にならなければならない」という「当為」に読み替える「倒錯」を指すのである。「弱者」であり、それゆえに私的な欲望の実現可能性を阻まれたものが、その不能と断念を、あたかもおのれの意思に基づく主体的な決意であるかのようにふるまい、「弱者であることが正統的な生き方である」と宣言したときに「価値の逆転」が始まる。

「惨めなるもののみが善きものである。貧しきもの、力なきもの、卑しきもののみが善きものである。悩めるもの、乏しきもの、病めるもの、醜きものこそ唯一の敬虔なるものであり、唯一の神に幸いなるものであって、彼らのためにのみ至福はある。」(13)

 だから、ニーチェによればキリストの教えとはユダヤのロジックを全面展開したものに他ならない。

「愛と福音の化身としてのこのナザレのイエス、貧しきもの、病めるもの、罪あるものに至福と勝利をもたらすこの『救世主』-彼こそは最も薄気味の悪い、最も抵抗しがたいかたちの誘惑ではなかったか。(・・・)この『救世主』、このイスラエルの疑似敵対者、似非解体者の迂路によってこそ、イスラエルはその崇高な復讐欲の最後の目標に到達したのではなかったか。」(14)


7・「超人」道徳

 ユダヤ=キリスト教に始まる「奴隷道徳」の根元的なメンタリティをニーチェは「遺恨(ressentiment)」と呼ぶ。「ルサンチマン」とは「遺恨・反感」を意味するフランス語であるが、語源は「反応する」(ressentir)という動詞である。「奴隷」は自己に先行し、自己よりも強大な、自己外部のなにものかによる「働きかけ」に対して「反応する」というかたちで存在する。「リアクション」というのが「奴隷」の行動元型なのである。
「奴隷道徳が成立するためには、常にまず一つの対境、一つの外界を必要とする。生理学的に言えば、それは一般に行動を起こすための外的刺激を必要とする。奴隷道徳の行動は根本的に反動である。」(15)

「奴隷」は「外界」を必要とする。「奴隷精神」とは「外界」から到来する「外的刺激」によって引き起こされた「反応」を、自分の「内面」から自然発生的に生まれ出た「本性の発露」であるというふうにシステマティックに錯認する知の構造のことである。この論断は暴力的な表現にもかかわらず、人間の存在論的構造についての深い洞見を含んでいることを私たちは認めなければならない。ここでニーチェはこんにちラカン派精神分析理論が「私」について教えていることとほとんど同じことを語っているからである。

 ラカン派の理説によれば、人間は発生的には無力で、根拠の不確かな存在として出発する。「私」は「私」の起源について厳密に自己言及することができない。(「私」は「私の誕生」に主体としては立ち会っていないからだ。)「私」は「私」いまここに存在していることの意味や根拠を「私」自身で構築した論理や言語では語りきることができない。「私」とは、ある精神分析家の卓抜な比喩を借りて言えば、自分の髪の毛をつかんで、おのれ自身を中空に吊り上げるような仕方でしか存在できないのである。

この根源的に無力な「私」は、あまりに無力なので、「おのれが無力である」という事実を受け容れることが出来ない。それゆえ、人間はおのれの無力を、自分の「外界」にあって「自分より強大なもの」の干渉の結果として説明しようとする。「私の外部」にある「私より強大なる者」が私の十全な自己認識や自己実現を妨害しているという「物語」を作り出すのである。「私」が弱いのではなく、「強大なる者」が強すぎるのだ。そのようにして私の外部に神話的に作り出された「私の十全な自己認識と自己実現を抑止する強大なもの」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。「父」はそのような仕方で、「私」の弱さを含めた「私」をまるごと正当化し、根拠づける神話的な機能であり、それを私たちは場合に応じて「神」と呼んだり、「絶対精神」と呼んだり、「超在」と呼んだり、「歴史を貫く鉄の法則」と呼んだりするのである。

このラカン派の説明はそのままニーチェの「奴隷」精神の構造に適用できる。「奴隷」は「おのれが無力である」という事実を隠蔽しつつ説明するために、「強大なる父」の幻影を外界に作り出す。そして、この「父」のうちにおのれを教導し、おのれを救済するものを見出そうとするのである。そのときにおのれの無力さは一気に「父」による救霊をけなげに待望する「子羊の無垢性」に読み替えられる。

 こんにち、私たちは精神分析によるこのような人間の思考定型にかかわる説明を学術的には有効なものとして受け入れている。私たちの了解するところでは、ニーチェのいう「奴隷」とは人間という種に固有の存在論的構造なのである。フロイトの言葉を借りるならば、「私たちは全員が神経症患者」なのであり、それをニーチェ的な語法で言い換えれば、「私たちは全員が奴隷なのだ」ということになる。

 だが、ニーチェはそれを認めない。彼は「おのれをおのれの力では根拠づけられない人間」の対極にあえて「おのれをおのれの力で根拠づけることのできる人間」という仮説的存在を想定するからである。この不可能な仮説的存在をニーチェはさしあたり「貴族」と名づける。ここからニーチェの思想的迷走は始まる。

「貴族」の属性はすべて「奴隷」と反転している。「貴族」とはなによりも「外界を必要としないもの」「行動を起こすために外的刺激を必要としないもの」のことである。「貴族」の行動は熟慮の末に導き出されたものではないし、外部から強要された命令や戒律への盲従でもない。「貴族」とは、なによりもまず、イノセントに、直接的に、「自然発生的」に、彼自身の真の「内部」からこみあげる衝動に身を任せて行動するもののことである。

「騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは、力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な活動をふくむすべてのものである。(・・・)すべての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずる。(・・・)それは自発的に行動し、成長する。」(16)

 この貴族=騎士的存在者は「われら高貴なるもの、われら善きもの、われら美しきもの、われら幸いなるもの」という根源的な自己肯定から出発する。無反省的な自己肯定に立つがゆえに、当然にもこの貴族的・騎士的存在は、無思慮で単純で残忍で野蛮である。
 「ローマの、アラビアの、ゲルマンの、日本の貴族、ホメーロスの英雄、スカンジナビアの海賊」といった歴史上の貴族的種族は「通ってきたすべての足跡に『蛮人』の概念を遺した者たち」(17)

 彼らは「危険に向かって」「敵に向かって」「無分別に突進」する。そして「憤怒・愛・畏敬・感謝・復讐の熱狂的な激発」によってこの「高貴な魂」たちはおのれの同類を認知するだろう。

 ニーチェはこの「高貴な野蛮人」こそが「人間」の本来的なあり方だと考えた。彼らの行為は、いかなる局外者の介入もなしに、自然発生的に彼らの内部からのほとばしり出るエネルギーが具現化したものである。彼らの衝動は「奴隷」のそれのように「内面化された外部」ではなく、純粋な内部を淵源としている。その純粋性、真正性は、彼らの行為のすべてを浄化し、正当化するだろう。こうして、ニーチェは行為の正邪理非は、その行為が「自発的であるか」「反応的であるか」によって決すべきであるとするきわめてユニークな倫理観にたどりつく。

「高貴な人間」が自発的に行うこと、それが「高貴な行為」なのであり、「善い人間」の内部から止めがたく奔出するもの、それが「道徳的な行為」なのである。

「『よい』のは『よい人間』自身だった。換言すれば、高貴な人々、強力な人々、高位の人々、高邁な人々が、自分たち自身および自分たちの行為を『よい』と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賤民的なものに対置したのだ。(・・・)上位の支配種族が下位の種族、すなわち『下層民』に対して持つあの持続的・支配的な全体感情と根本感情、これが『よい』と『わるい』との対立の起源なのだ。」(18)

 行為に外在する汎通的な道徳は存在しない。「主人」(すなわち貴族的=騎士的存在者)がなすことはすべて「善い」ことであり、「奴隷」(すなわち畜群的存在者)がなすことはすべて「悪い」ことである。問題は「誰が」その行為をするかであって、「何をするか」ではない。同じ行為であっても「善い人間」がすれば「善い行為」であり、「悪い人間」がすれば「悪い行為」なのである。

「道徳的な価値表示はいつでもまず人間に対してつけられ、それが派生的に転用されていった末に、ようやく行為に対してつけられるようになった」のである。(19)

「問題はつねに、自分が何者であり、他の者は何者であるか、ということなのだ。(・・・)われわれは道徳を強制して、なによりもまず位階の原則の前に身を屈せしめなければならない。(・・・)かくしてついには道徳をして『ある者にとって正しいことは、他の者にとっても正しい』と言うのは不道徳であることを、はっきり分からせねばならない。」(20)
こうして、行動に際して、局外の規範に準拠するものと、内発的な動機に身を任せるものという二分法によって、ニーチェは人間を「畜群」と「貴族」に二分し、それぞれのなすところを「悪い行為」と「善い行為」と名づける。行為の道徳性の判定は「何をなすか」ではなく、「何ものであるか」というかたちで立てられることになる。

では、「高貴なるもの」とは誰のことなのか?ここでニーチェの論理的迷走は深まる。なぜならニーチェが「高貴なるもの」を「当為」の語法で語ってしまうからである。

「およそ〈人間〉という型を高めることが、これまで貴族社会の仕事であった。-これからもつねにそうであるだろう。こういう社会は、人間と人間とのあいだの位階と価値差の長い階梯を信じ、何らかの意味での奴隷制度を必要とする。身分の差別がこりかたまって、支配階級が不断に隷従者や道具を眺め見下ろし、かくてまた不断に双方のあいだで服従と命令、抑圧と敬遠が行われることから生じるような〈距離の激情(pathos)〉がなかったならば、あの別のより秘密にみちた激情も決してうまれなかったであろう。それはすなわち、魂そのものの内部にたえず新たに距離を拡大しようとするあの熱望であり、いよいよ高い、いよいよ希有な、いよいよ遥遠な、いよいよ広闊な、いよいよ包括的な状態を形成しようとする熱望である。要するに、これこそは(・・・)絶えまなき、〈人間の自己超克〉の熱望である。」(21)

 ここでのニーチェのロジックは一見してそれと分かるほどに危うい。さきにニーチェは貴族の起源を「勝ち誇った自己肯定」だと断定していた。しかし「勝ち誇った自己肯定」を自己の根拠とする人間が果たして「おのれを高める」というような向上心を持つものだろうか? おのれの「低さ」「卑しさ」を自覚したものだけが「おのれを高めよう」とする自己否定・自己超克を指向するのではなのか? ニーチェの「貴族」についての最初の定義を受け容れる限り、「向上心を備えた貴族」「人間の自己超克を熱望する貴族」というのは形容矛盾である。
 
 同じ背理は『ツァラトゥストラ』にも見ることができる。なるほど、ニーチェはそこでたしかに「超人」を語っている。しかし、そこでも彼は「超人が何であるか」ではなく、「超人は何ではないか」しか語らない。

「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか。(・・・)人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならない。」(22)

「超人」概念は「人間の超克」という「移行の当為」として語られる。あるいは「移行の当為」としてしか語られない。「超人」とは「人間を超えるなにものか」であるというよりは、「人間であることを苦痛であり恥辱であると感じる感受性、その状態から抜け出ようとする意志」のことである。超人とは「人間ではないもの」という否定形でのみ語られる記号であって、実体的な内容を持たない「超越への緊張」である。

「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である-深淵の上にかかる綱である。(・・・)人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落である、ということである。」(23)

ツァラトゥストラは結局「超人とは何か」という問いにはついに回答しない。彼はひたすら「人間とは何か」についてだけ語る。堕落の極にある現代人について火を吐くような熱弁を揮う。しかし「超人とは何か?」という問いはそのつど「人間とは何か?」という問いにすり換えられ、「高貴とは何か?」という問いはそのつど「卑賤なものとは何か?」という問いにすり換えられる。

 このすり換えはニーチェのロジックの必然である。ニーチェは「自己超克」の動機を「より高いもの、より尊いものを指向する向上心」にではなく、「より低く、より卑しいものに対する嫌悪」のうちに求めているからである。貴族性とは高みをめざす指向ではなく、低く卑しく醜いものを激しく嫌悪し憎悪し破壊しようとする情熱、ニーチェのいう「距離のパトス」に他ならないからだ。

 ここから不思議な結論が導かれる。人間が高貴な存在へと、超人へと高まってゆく推進力を確保するためには、彼に嫌悪を催させ、彼をそこから離れることを熱望させるような、忌まわしい存在が不可欠だということになるからである。貴族社会が存立するために「奴隷制度」が不可欠であったように、超人が存立するためには、畜群が不可欠である。おのれの「高さ」を意識するためには、絶えず参照対象としての「低きもの」にそばにいてもらわなければならないのだ。人間を高めるという向上の指向は、不可避的に人間の一部を「畜群」として選別し、有徴化し、固定化することを要請する。

 超人「計画」にとってもっとも効率のよい体制は、ある人種が超歴史的、永遠的に「本来の賤民型」というものを体現している場合である。不変の参照項、「高さ」の観測定点としての「永遠に低いもの」がかたわらにいることは、おのれの「自己超克」の進み具合を計測するときにどれほど便利だろう! こうしてニーチェの超人道徳は、人類全体を「人種」に分類し、それぞれの遺伝的・生得的「本質」にしたがって、それが貴族人種か畜群人種かに分別するという暗鬱な作業に堕してゆくことになる。

「人間がその両親と祖先の固有の性質や偏愛を体内に宿していないということは金輪際ありえない。(・・・)もし両親についてそこばくのことが知られていたとすれば、その子について結論をくだすことがゆるされる。」(24)

「あらゆるヨーロッパおよび非ヨーロッパの奴隷階級の子孫たち、とりわけすべての先アーリア的住民の子孫たち。彼らこそ、人類の退歩を表しているものだ!」(25)

 遺伝的に畜群であることを宿命づけられている(ユダヤ人に代表される)「先アーリア土着民」と遺伝的に支配者であることを宿命づけられている「アーリア系征服種族」は髪の色、肌の色、頭蓋の長短といった生物学的な差異によって客観的に識別される。世界史とはこの非アーリア種族とアーリア種族の2000年来の確執の歴史のことであり、この和解なき闘争は近代にいたって前者の圧倒的な増殖の前に、後者が全戦線で後退を強いられている危機的状況として展望される。

「すべては目に見えてユダヤ化し、キリスト教化し、あるいは賤民化しつつある。この毒が人類の全身をすみずみまで侵してゆく成り行きは止めがたいものにみえる」(26)
 このニーチェの言葉はもう(ほぼ同時期に書かれた)エドゥアール・ドリュモンの『ユダヤ的フランス』の次のようなプロパガンダと選ぶところがない。

「ユダヤ人を他の人間たちとは違ったものにしている本質的特性とは何かをより注意深く、より真剣に考え、私たちの作業をセム人とアーリア人の民族的・生理学的・心理学的な比較から始めることにしよう。セム人とアーリア人は、はっきりと分かたれ、たがいに決定的に敵対し合う人種の人格化であって、この両者の対立が過去の世界を満たしており、将来においてさらに世界をかき乱すことになるであろう。」(27)

 ニーチェの超人道徳はこうしてその壮大な意図も空しく「反ユダヤ主義神話」のうちに崩落してゆく。たとえ本来の意図は人類の進歩であり、限界の超克であるとしても、その思想がある人間集団に劣等な「固有の本質」をあてがい、それを「否定する」というしかたで戦略化される限り、その思想に未来はない。そこから帰結されるものは排他的でエゴサントリックな暴力だけである。果たして、ニーチェのテクストはのちにドイツの国家社会主義者たちのうちに熱狂的な賛美者を見いだすことになる。

とはいえ、私たちがニーチェの「超人道徳」から学びうる教訓は決して少なくない。ニーチェは、大衆社会における倫理の可能性についてのつきつめた省察から、「精神の貴族がいなければならない」という結論を導いたところまでは間違っていなかったからである。私たちがニーチェと袂を分かつのは、そのあとのことである。

 私たちが希望をよせるのは、「卑俗なもの」たちへの嫌悪や排除による「斥力」をばねとして「距離」を稼ぐような相対的「貴族」ではない。さりとて、大衆から孤絶した脱俗の境地でひとりシリウスを仰ぐような絶対的「貴族」でもない。世俗の汚泥にまみれて、なお精神の貴族性を失わない人間に私たちはいかにして出会うことが出来るか、それがニーチェ以後の倫理の問いである。


8・大衆の反逆

 ニーチェの超人道徳は現代の倫理に二つの重要なアイディアをもたらした。

 ひとつは、倫理を静態的な「善い行為と悪い行為のカタログ」としては定立せず、「いま、ここにおける倫理的なる行動とは何か?」という問いを絶えず問い続ける休息も終わりもない絶望的な「超越の緊張」として、ひたすら前のめりに走り続けるような「運動性」として構想したことである。

 いまひとつは、倫理を、万人がめざすものではなく、「選ばれたる少数」だけが引き受ける責務
3:777 :

2022/05/23 (Mon) 17:06:55

「なぜ人を殺したらいけないのか?」答えは逆を考えたら正解が分かるはずだ
2021.03.09
https://blackasia.net/?p=22918
私が「人を殺したらいけない」という社会を支持するのは、別に私が優しいからではない。その方が自分にとってメリットがあるからだ。もし私が殺したいほど憎い人が出てきたとしても、それでも「人を殺したらいけない」という社会の方を支持した方が絶対にトクであると考える。(鈴木傾城)


「今日から誰でも殺していい。罪にならない。どんどんやって下さい」

なぜ人を殺したらいけないのか。それは逆を考えたらいい。もし「人を殺して良い社会になったら自分は生き残れるのだろうか」と想像するのだ。

「今日から誰でも殺していい。どんどんやって下さい」
「誰を殺しても逮捕されません。完全に自由です」

このようになった時、多くの人は自分が誰を最初に殺すのかを考える。しかし現実は、まったくの逆の心配をしなければならなくなるはずだ。殺人が自由になる時は「自分は誰に殺されるのか?」を考えなければならない瞬間なのである。

そもそも、自分は誰にも殺されないくらい強いのだろうか。

腕力や体力や瞬発力や判断力は誰よりも優れているのだろうか。そうでないのであれば、自分が誰かを殺すよりも前に自分が誰かに殺される方が先ではないだろうか?

「人を殺して良い社会」になったら、私も絶対に生き残れない。私自身は特に殺したいほど憎んでいる人はいないのだが、逆に私を殺したいと思っている人は大勢いる。誰かが数日中に私の目の前に現れて、私は惨殺されるだろう。

私だけでなく、いろんな人がいろんな理由で殺されるに違いない。

性格の悪い人は真っ先に殺されるというのは想像が付くだろう。犯罪者、傲慢不遜な性格の人、高圧的な人、パワハラをするために生きている人、他人を平気で罵る人、家庭内暴力を繰り返す夫、子供を虐待する親は真っ先に殺されるだろう。

問題は、わかりやすく殺される理由を持っている人だけが殺されるわけではないということだ。もし「誰を殺しても問題ない、合法だ」という社会になったら、すべての人が殺される対象と化す。

どんな人でも殺される理由を持っている。

富裕層もホームレスも美人もハンサムもみんな殺される
富裕層は真っ先に殺されるだろう。金を持っているからだ。殺して奪えるのだから、恰好の標的だ。どんなに社会のことを考えて真面目にやってきた経営者も、金を持っているのであれば十把一絡げで殺される。

経営者も殺されるだろう。上司も殺されるだろう。部下にあれこれ命令する人はどこかで恨みを買っている。「誰でも殺してもいい」という話になったら、襲撃してくる部下がひとりやふたりはいるはずだ。いや、ひとりふたりどころではないかもしれない。会社や上司に不平不満を持った社員はかなり多いはずだ。

貧困層はどうか。ホームレスも真っ先に殺されるだろう。ホームレスは今でも「目ざわりだ」「景観の邪魔だ」と言われて街の片隅で寝ているだけで襲撃されている。法が整備されている今もそうなのだ。

「社会に役立っていない人間は邪魔だ」というゆがんだ正義感を持った人間が世の中には大勢いる。こうした人間が正義を振りかざしてホームレスを殺しまくる醜怪な光景が生まれるはずだ。

しかし、人を殺してもいいという社会になったら、今度はホームレスの中からも一般の人間を片っ端から殺す人間が現れる。今まで自分を抑圧していた人間たちに恨みがあるのだから、ここぞとばかりに恨みを晴らすはずだ。

容姿の良い女性もハンサムな男性も殺されるだろう。彼らは「顔が良い、スタイルが良い」というだけでチヤホヤされてるので、そうでない人の恨みを買っている。恵まれた彼らに対して殺したいほど不公平感を持っている人は大勢いる。

逆に容姿の悪い男性や女性も殺されるだろう。容姿の良し悪しで人を判断する人間に不要だと思われるからだ。

成功している人は殺されるだろう。成功するというのは他人を蹴落としたということでもあるし、嫉妬の対象にもなるからだ。同じ理由で、幸せそうに見える人も殺されるだろう。「自分ひとりだけで幸せになるなんて許せない」と思われるからだ。

逆に失敗を重ねている人も殺されるだろう。「もっと苦しめ」「人生の落伍者は生きている価値なんかない」と思う優生学的な思想を持った人もいるからだ。そして、優生学的な思想を持った人も殺されるだろう。そういう偏った思想を持った人間が社会を悪化させていると思う人もいるからだ。

そして、日本人は日本人であるというだけで殺されるだろう
高齢者も殺されるだろう。高齢化して働くことができなくなった人は生きている価値はないと思う若者がいるからだ。障害者も殺されるだろう。障害を持った人たちは死んだ方が幸せだと思う人間がいるからである。

右翼や保守派も殺されるだろう。左翼やリベラルに憎まれているからである。左翼やリベラルも殺されるだろう。右翼や保守派に憎まれているからだ。

政治家も殺されるだろう。主義主張がはっきりしているからだ。活動家も殺されるだろう。体制の邪魔だからだ。警察官も検事も税務署の職員もみんな殺されるだろう。犯罪者にとっては邪魔だからだ。

裏社会の人間も、セックスワーカーも殺されるだろう。表社会の人間から見ると彼らは「社会の秩序を乱す人間たち」でしかないからだ。逆に裏社会の人間は表社会の人間を殺すだろう。自分たちの力を誇示して成り上がりたいと思うからだ。

社会に恨みを持った人間は誰でもいいから殺すだろう。彼らは「誰でもいい」ので毎日のように連続殺人を行うだろう。あちこちに火を付けて回る人もいるかもしれない。人を殺すのが合法なのだから、ひとりでも多く殺した方が勝ちだと思ってあらゆる手を使って大量殺戮を目論むだろう。

しかし、そういう彼らも「こいつを生かしておいたら自分が危ない」と思われて一般人に殺されるだろう。危害を加えそうな人間は先手先手で殺される。そうしないと自分が危ないのだから先手で殺すのは正当防衛でもある。

そして、日本人は日本人であるというだけで殺されるだろう。日本の領土を欲しいと思う国があるからだ。逆に日本の領土を狙っている国も、どこか他の国に狙われているので、国と国との対立と衝突はすぐに大量虐殺の殺し合いとなっていく。

「誰を殺してもいい」ということになった瞬間に終わらない仁義なき世界大戦が起こるということだ。

効率的に他国民を殺すためには核兵器を使用するのが最も早い。まずは、自国の敵となる国の首都や主要都市に向かって核ミサイルを飛ばすだろう。日本で言えば、これで東京都民や大阪府民は全滅する。

日本だけに核が落とされるだけではない。多くの国が先手必勝の論理となり、全世界で毎日のように核ミサイルが飛び交う世界になっていくはずだ。

「人を殺してもいい」という社会になったら生き残れるか?
このように考えると、「なぜ人を殺したらいけないのか」という答えが見えてくるはずだ。人を殺していいという話になったら自分自身が生き残れない。自分だけでなく、ほとんどの人が生き残れない。

間違いなく文明も崩壊する。文明は「人を殺してはいけない」という規則で成り立っているので、この部分が崩壊したら今の文明は維持できない。地下のシェルターに隠れていても、文明が崩壊したのであれば原始時代からやり直す必要があるわけで、現代人の大半はサバイバルできない。

なぜ人を殺したらいけないのか。

それは、自分が死なないためであり、文明を崩壊させないためである。人間は無法であると過酷な人生を歩むことになる。無法の中から「人を殺してはいけない」という決まりをひとつ付け加えるだけで文明は向上する。

殺したいほど憎い人もいるのかもしれないが「人を殺したらいけない」というルールを持つだけで、私たちは計り知れないほどのメリットを享受することができる。

確かに殺したいほど憎い人間を持っている人もいるのかもしれないが、それでも「人を殺しまくっていい」という社会にしない方が、自分が生き残れて快適な生活を送れる確率が高まるのである。

私が「人を殺したらいけない」という社会を支持するのは、別に私が優しいからではない。その方が自分にとってメリットがあるからだ。もし私が殺したいほど憎い人が出てきたとしても、それでも「人を殺したらいけない」という社会の方を支持した方が絶対にトクであると考える。

私が殺したいと思う人数と、私を殺したいと思っている人の人数を考えると、どう考えても私を殺したいと思う人数の方が多いわけで、それは私にとっては不利なのである。さらに、今の文明が継続してくれた方が私にとっては生きやすい。私だけでなく、誰にとってもそうだと思う。

なぜ人を殺したらいけないのか。あなたは「人を殺してもいい」という社会になったら生き残れるだろうか?
https://blackasia.net/?p=22918
4:777 :

2022/05/23 (Mon) 17:08:29

平和よりも、もっと大切なものがある

世界人口の人口の62.5%は、「平和が第一」とはまったく思っていない


最近、また気になったことがある。「平和」に関する日本人の認識だ。次の元号が「令和」に決まって、日本人は「平和への祈りが込められている」と世界に誇っているのが、とても無邪気で無防備に感じた。

平成の「平」は平和の「平」だ。令和の「和」は平和の「和」だ。いずれも日本人に平和思想が強く根付いているというのが分かる。平和であることは良いことだと日本人は思う。そして、平和を願うことは当たり前だと日本人は信じて疑わない。

もうひとつ日本人が疑いもしない言葉に「平等」というものがある。平和と平等は美しい概念であり、世界中の人たちがこの概念を一緒に追求していると日本人は信じているかも知れない。

しかし、現実はそうではない。平和と平等の限りない追求は日本独自のものであって、世界は必ずしも「平和と平等」を第一に追求しているとは限らない。受け入れられない可能性もある。

「受け入れられない」と言うと多くの日本人は仰天するはずだ。「平和であることや、経済を優先することや、平等であることがなぜ受け入れられないのか分からない」と思うはずだ。(鈴木傾城)

平和よりも、もっと大切なものがある?

なぜ受け入れられないのか。それは、世界は「そんなもの」よりも、もっと大切なものがあると考える国も多いからだ。平和や平等や経済よりも、大切なものなどあるのか。もちろん、ある。

平和よりも大切なもの。イスラム教徒に聞けば、それは「神であり宗教である」と答えるだろう。その点に関しては絶対に妥協はない。

イスラムを侵す者があれば平和より闘争が優先されるのだ。宗教が優先される。そして、コーランは人間が平等など一言も書いていない。平和よりも、平等よりも、イスラムが大事であり、重要であり、神聖なのだ。

イスラム教徒の人口は全世界で約15億人。すなわち、日本の12.5倍の人口が、平和を優先しないし、経済を優先しないし、平等であることも是としないということだ。すなわち、「価値観が違う」のである。

ところで、人口10億人を抱えるインドではヒンドゥー教が主流となっており、ここにシーク教やイスラム教やジャイナ教が絡んでインドが構成されている(仏教はインドでは少数)。

これらの宗教もまた「平和よりも大切なものは、神であり宗教である」と考えている。インドに根付くカースト制度を見ても分かる通り、人間が平等だとも考えていない。要するに、ここでも日本人の価値観とは違う価値観がある。

日本の人口の約8.3倍の人口が、日本人の持つ価値観とはまったく違う価値観を信じているということだ。

キリスト教はどうか。キリスト教は平和主義だろうか。

キリスト教が平和主義だったら、中南米は侵略されなかったし、アジア・アフリカは植民地にされなかったし、日本は核爆弾を2発も落とされたりしなかったはずだ。

彼らはキリスト教を信じない異教徒は虐殺しても奴隷化しても構わないという特異な特権意識を心の奥底に持ち続けて歴史を育んできた。それが過去の話であればいいが、今もまたそういった意識を心の中で持ち続けている可能性がある。

キリスト教徒の人口は世界で約20億人。すなわち日本の約16.7倍の人口が、平和を優先しないし平等であることも是としない。


62.5%は日本人の価値観を理解できない

キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教の3大宗教だけで、約45億人。世界人口が約72億人だとすると、それだけで人口の62.5%を占めている。この62.5%は日本人の平和への無邪気な盲信から一線を引いている人口であると言える。

残りの37.5%も、平和や平等が正しいと思っているかどうか分からない。

むしろ、我々の神を信じない異民族は滅びろとか、イデオロギーが正義だとか、戦争で他民族で打ち負かすことが正義であるとか、他から奪うのが正義だとか、自分の一族だけが栄えるのが正義だとか、そのように思っている可能性が高い。

神よりも平和を優先したいと思う民族は、世界ではまったくの「少数派」である。日本が異質だと言われるのは、そこから来ている。日本人が思っている世界と、現実が乖離しているのだ。

そして「平和や経済や平等」を世界に押しつけるのは、世界にとっては「冒涜」だと思われる可能性が高い。なぜか。「信仰や神よりも平和や経済を優先せよ」というのは、神が侮辱されても信仰が侵されても戦うなということだからだ。

また、「人類はみんな平等だと思え」というのは、自分の神を信じていない人間も自分と同じレベルであると認めることになる。神を熱烈に信じる自分と、神を信じない「未開人」が平等であるとは彼らは本音では認めないだろう。

ユダヤ教もキリスト・イスラムと同じ神を信じているが、このユダヤ人は神を信じない人間を「家畜」だと考える風潮もあった。「ゴイム」と彼らは異教徒を呼んでいたはずだ。日本以外の多くの国では、それほど神は重要な存在である。神以上に重要なものはない。

平和は決して第一優先ではない

「平和や平等」は、実に建前的なものだ。それが唱えられた時は、誰も意固地になって反対しない。

しかし本音の部分を言うと、平和や平等は信仰やイデオロギーが優先される社会にとって害悪であり社会を崩壊させるものである。

もちろん世界の多くの個人は、ほとんどが平和な社会が平等な社会を望んでいるのは間違いない。略奪と暴力が横行する社会では強者と強運者しか生きられない。ある程度の平和がなければ人生は過酷なものになる。

しかし、自分のアイデンティティを構築している宗教や共同体が侵されるとなると話は違ってくる。平和よりも前に、宗教や共同体が優先される。

これらが維持された中で、次に平和が来るのであって、平和が最優先ではない。

ちなみに、日本以外の国々で言われている「平等」というのは、日本人が言う平等とは程遠い。同じ言葉なのだが、概念が違っている。世界の人々が言う「平等」とは、「機会が平等であること」を意味している。

全員が同じ収入や、全員が同じ生活水準であることを世界の人々はまったく望んでいない。

「スタートは平等であるべきだが、結果は平等であるべきではない」というのが欧米先進国の考える平等なのである。だから、欧米では「一億総中流」のような考え方はない。ひとりひとり個人の能力も嗜好も目指す目的も生き方も時代も何もかもが違う。

だから、結果は違って当然で、結果を同じにする平等とはむしろ個人の自由を奪うものであると考える。「機会の平等」であって「結果の平等」はまったく違うものである。

現代の日本的倫理観は、あくまでも現代の日本人が考えるものだ。これが異質だと気がついていないのは、当の日本人だけかもしれない。

日本人はあまりにも無邪気に「平和や平等」を口にするが、それが日本人の「見識のなさ」であれば悲しいことだ。

自分の信じている宗教を侵されたら平和よりも闘争が優先される。自分たちの共同体が侵されたら平和よりも闘争が優先される。

この感覚が分からなければ、自分の国が侵される時のことを思い浮かべばいい。国というのは巨大な共同体である。この「共同体=国」が侵略されたら、平和主義者であっても侵略者と戦って当然だ。侵略されても戦わないというのは、おかしいと思わないだろうか?

平和は常に優先されるものではない。人々は宗教や共同体や国が侵略されたら、平和という建前をかなぐり捨てる。世界はそのようにできている。平和は決して第一優先ではない。

そういった意味で、すべての日本人が狂信的に「平和」という理想を疑わなくなっている時流を憂う。これが理解できないのであれば、日本という国は100年後は消えている。(written by 鈴木傾城)

平和は常に優先されるものではない。人々は宗教や共同体や国が侵略されたら、平和という建前をかなぐり捨てる。世界はそのようにできている。平和は決して第一優先ではない。
https://blackasia.net/?p=12503
5:777 :

2022/05/23 (Mon) 17:09:49

回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達

アメリカには「ポーン・アゲン」を なのり、そう呼ばれる人びとがいる。 人生の道半ばで、神に、キリスト に、聖書に出会い、キリスト教徒とし て新しく生まれ変わった人びとであ る。改宗ではなくて、回心と再生を誓 う、プロテスタント教会のなかの行動的な一派である。

◆40歳にして「回心再生」

ブッシュニ世はボーン・アゲンのひ とりになった。飲酒にふけって、安易 な生活を送っていたのが、名高い伝道師の説教を聞いてからは、四十歳にし て酒を断ち、回心再生の人となった。

朝は祈りと聖書の読誦にはじまり、閣議も祈りではじまる。

演説には聖書 のことばがちりばめられている。

「ア メリカに昧方しないやつは敵だ」というブッシュニ世の人物を特色づける発 言も聖書からでている。

「わたしの側 に立たない者はわたしに逆らう者、わたしと共に集めない者は散らす者である」


神仏の信仰を問わず、ボーン・アゲ ンの宗教体験をもつ人びとのおおく は、個人の内面の間題として回心をうけとめている。

ところが、アメリカの 「生まれ変わり」は異様に猛烈である。かれらは公の場で回心の体験を声高 に語って、人間は罪を負って生まれた存在であるから回心しなさい、改俊しなさいと、説得と折伏の活動に訴えることを神に奉仕する使命と信じている。

その特徴は徹底した二元論である。人間は神に選ばれて救われる者と、救 われない者に分かれている。回心者に は永遠の平和、福音に耳ふさぐ者は悪魔の子で永遠の地獄が待っている。

善と悪、神と悪魔、味方と敵、白と黒、光と闇が現世を二分して戦ってい るという論理を用いて、迷える小羊に選択をせまるのである。

原理主義(ファンダメンタリズム) はイスラムの 「専売」のように思われて いるが、この 言葉と運動は はじめて一九 二〇年代アメ リカの白人プロテスタントの環境からうまれた。

ボーン・アゲンは原理主義の三つの 教条を継承している。

聖書に書かれてあることはすべて神の言葉であって、解釈や考証はゆるされない。

人間は神によってつくられた被造物で、サルから進化したなどという「妄説」はゆるされない。

やがてキ リストがこの世に再臨して至福の千年 が始まるから、神への奉仕にいそしまなければならない。


◆悪魔うけいれる土壌

最近のギャラップ世論調査による と、アメリカ人の48%は神が人間をつ くったと信じ、28%が進化論に傾いている。そして、悪魔の存在を68%が信 じている。

テロリズムも「九・一一」の悲劇も、バグダッドに巣食う悪魔の仕業だ という圧倒的な政治宣伝がたやすくう けいれられる精神的土壌がそろっている。 プロテスタント教会の少数派であっ たボーン・アゲン原理主義と、帝国を夢みる新保守覇権主義の二つの特殊な 潮流と人脈が、アメリカ政治の中枢を乗とってしまった。

神の下なる道義の国アメリカの指揮 官ブッシュニ世は、「万軍の王の王、主の主」(ヨハネ黙示録)として、神の御業を実践する十字軍に立つのであ る。

しかし、利得の追求を宗教的熱狂で紛飾した十字軍は、中東のみならず、 世界の現状にひそむ限りない複雑さ と、そして、人間の惨害を無視して強行されるのだから、前途には、とほうもない魔の陥弊が待っている。


現在の狂ったアメリカ人の精神構造を探るには、アメリカを覆っているキリスト教原理主義的教義が分からないと理解できない。

回心再生と言ったって何のことか分からない。

回心再生して神に仕え、そうでない福音に耳を塞ぐ者たちを、悪魔の子として永遠の地獄に突き落とすことが、彼らの使命なのだ。


このようなキリスト教原理主義の教義が分かっていれば、ラムズフェルドの冷酷さも理解できる。

彼はアフガニスタンの戦場における、タリバン兵の捕虜達をクンドゥスに集め、爆撃して皆殺しにした。悪魔の子として地獄に突き落としたわけだ。

彼らにとっては異教徒は人間とはみなさないのだ。
http://www.asyura2.com/0304/bd25/msg/114.html


キリスト教原理主義

キリスト教原理主義の本質は、主に米国が過去に行った過失を正当化できるからこそ普及しているのであり、キリスト教よりもユダヤ教の亜種に近い性質を帯びている。

プロテスタントといえば、多くの日本人はルター派とカルバン派しか思いつかないだろうが、英米のプロテスタントの多くは、英国国教会の亜種である。

英国国教会は、設立当初から血塗られている。
ローマ教会が離婚を許さないのを理由に、ローマ教会を離脱して英国王が首長となる教会を設立したのであるが、そのヘンリー8世は6人の妻を持ち、2番目の妻アン・ブーリンと5番目の妻キャサリン・ハワードを姦通罪で処刑している。6人のうち死別は3番目の妻ジェーン・シーモアのみである。
英国国教会の成立には、ローマ教会を通して仏の影響力を廃したかったのもあるだろう。アビニョン捕囚(1309~77)の影響でフランスはローマ教会への影響力を強化していた。

また、ローマ教会自体が各国の王の上に己の存在を置く状態であり、英国内の反発があるからこそ、英国国教会は存続したのだろう。
つまり、設立自体が、エゴイズムとナショナリズムが動機である。
そのため、エリザベス一世時代に英国国教会から清教徒が反発して分離するのだが、彼らがローマ教会へ戻らずに新しい諸派を建てていった理由も、ナショナリズムによるローマ教会への反発があった。

もちろん、当時のローマ教会は相当腐敗していたのも事実だ。
つまり、英米のプロテスタントの場合、ルター派とカルバン派ほど純粋な動機とは言い難い部分が元来強かったのである。


ローマ教会を離れた時に、教皇に替わる宗教的権威は、何になるか。

自派内のヒエラルキーの頂点である。
古い宗派の中で頂点を極めることは難しいが、新派を建てれば己自身が頂点になりうる可能性がある。

「英国人は六十の宗派を抱えているが、料理のソースは一つだ」というイタリアの諺があるほど、英米のプロテスタントは多数の派がある。
己が宗教的権威になりたいという我欲こそが、多数の派が存在する理由の最大の要因ではないかと憶測している。

一番の問題は、聖書無謬性という偏向なのだが、これはルター派が聖書中心主義を唱えた影響から英米のキリスト教原理主義に多い。
キリスト教において本来一番大切なのは、イエス=キリストの言葉であった筈だが、イエス=キリストの言葉と矛盾する見解を米国人が頻繁に出すのは、聖書無謬性の影響ではないかと思う。

聖書無謬性、というよりも、旧約聖書無謬性こそが、キリスト教原理主義の中心に存在するのではないか。

旧約聖書は、無謬どころか矛盾だらけだが、キリスト教原理主義で重要視されているのは、旧約聖書の内容とヨハネの黙示録なのである。
ヨハネの黙示録の諸派にとって都合の良い解釈することと、旧約の内容が、キリスト教原理主義の根本のようだ。
これでは、キリスト教というよりも、選民思想が極端に強いユダヤ教の亜種である。


まず、北米インディアンの土地を奪ったことについては、「アメリカは約束の地である」と説明する。

鉄砲隊に向かって「特攻」を続けた北米インディアンを、虐殺し続けるのに当たって、「北米インディアンは聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と説明する。

奴隷貿易の中心は実は英国だったが、「黒人は聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と同様に説明している。

聖書の無謬性という信仰を利用することによって、自分達のエゴイズムや貪欲な物欲、選民思想を合理化できるのだ。

どんな人間だとて、異民族でも多数の人間を無差別虐殺すれば、潜在的に罪悪感を感じるものである。
もちろん、本物の「見せかけだけの善人」ならば、潜在的にも罪悪感を感じないだろうが。
米国人の心に在った潜在的罪悪感や不安感を薄れさせ、自らの虐殺・軍事的及び経済的侵略を正当化するために、聖書無謬性は、実に利用価値の高い説なのである。

聖書無謬性は、選民思想を強化し、エゴイズムの発現と経済侵略を正当化する。
だから、英国は「死の商人」として長年成功できたのだろう。日本で有名なグラバーも、英国の武器商人である。

第二次世界大戦後、英国の国土は荒廃していた。
戦争の被害のない米国が「世界の中心」となったのは必然であるが、その世界の中心とは、「世界の武器工場」なのである。この情けない地位は、この先当分揺るぎそうにない。

人殺しで儲ける「商売」は、私は世界中で最も卑しい職業だと思う。
殺傷兵器を多数生産することにも、自己正当化と合理化が必ず必要になる。
「我々は、民主主義を世界に普及するために武器を製造しているのである」とか工場で合理化の言葉を言わなければ、現場の労働意欲が必ず低下していく筈だからだ。


米国で武器を多数製造しなくても、たくさんある別の産業に大半を転換すればいいだけの筈だ。日本は、戦後ちゃんとできたのだから。
だが、恐らく、最早不可能だろう。

なぜなら、米国は「民主的な豊かな社会」から「憎悪と恐怖の対象」「言論を弾圧する強国」へと変質して行っているからである。
報復を恐れて先制攻撃し、無差別攻撃するために、他国民の憎悪と怒りが増し、死を賭しても抵抗を表したいという人々をどんどん増やしているという、ごく当たり前の論理が、米国人には理解できないようだ。

恐らく、欧米人以外の人々を、無意識下で「人間」と認めていないからである。

世界中から恨まれ憎まれていることを、米国人の大半が9.11まで気づかずに済めたのは、エバンジェリカルが米国民が潜在的に持つ罪悪感や不安感を合理化し、選民思想を強化してくれているためである。

戦争があるたびに、米国内のエバンジェリカルは信者数を増していく。
今や、聖書無謬性を信じる米国人が半数以上なのではないか。

例え、神が言ったことが正しかったとしても、転記を続けた古代ユダヤ人が自分達に都合の良い内容に書き換えなかったと何故信じられるのかは、理解に苦しむ。
古代ユダヤ人の知っている世界しか書かれていないからといって、それ以外の土地に住むのは人間ではない、あるいは被差別民族だと信じられるのは、何故なのか。
「木を見る西洋人 森を見る東洋人」に従えば、西洋人の世界観があまりに単純だからと説明できるだろう。
そんなに、世の中、単純なわけなかろうが。
あらゆる物事は、複雑に絡み合っている。
人体の一部が悪くなれば、全体に影響が及ぶようにだ。

潜在的罪悪感を引きずるからこそ、米国は犯罪大国になったのではないか。


エバンジェリカルは「核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 朝日選書」によると、ヨハネの黙示録の「ゴグとマゴク」、つまりイスラエルに進攻して戦う二つの大国とは、ロシアと中国だと教えているそうだ。

信者を増やすために、「核戦争はすぐ来る」とエバンジェリカルが米国民の恐怖を煽れば煽るほど、「どうせ先はないんだから」と自暴自棄の心境に陥り、犯罪に走る者は増えていったのだろう。

潜在的罪悪感や不安感は、潜在的犯罪者を増加させていき、米国民の人心を荒廃させて行ったのである。

「人のふり見て我がふり直せ」と言う。
経団連が武器輸出を求めた結果、内閣が勝手に、当座米国にのみミサイルを輸出することに決めてしまったが、これは米国の轍を踏むことになるだろう。
潜在的罪悪感を合理化する装置としての宗教は、日本において国家神道と靖国である。

次第に国粋主義者が再度増えて行っている現状を、よく考えてほしい。
米国の事実上支配下に入っている日本では、精神的には戦後の混乱が続いたままなのである。
恐らく、潜在的罪悪感や社会の矛盾を合理化するために、日本人の多数が、再び自発的に国家神道と靖国に縋り始めたのである。

それを否定する者に対して、「非国民」扱いが始まっている。
戦後の精神的混乱を「日教組の偏向が」等とする、安易な合理化を続けているようでは、昭和初期と同じ状況を自ら作り出してしまうだろう。

そして、潜在的罪悪感と社会の矛盾を合理化するのに、靖国では駄目だと考える人々が新・新興宗教に縋っていくのである。
この状況が長く続けば、オウムのような極端な教義を必要とする人々が増えていくはずだ。

武器輸出は、第二・第三のオウムを作り出し、アーレフを強化する。
エゴイズム、利己主義と物質主義、利益優先主義、選民思想などの、「アメリカナイゼーション」が「グローバリズム」の名で一層進行していけば、犯罪発生率が増加するのは当然である。


物事は連鎖していると考えるのは、東洋的発想らしいが、過去の清算が充分に済まないならば、潜在的罪悪感や不安感が、国を誤った方向へと導くのは避けがたいだろう。

良い商品を世界に供給するのを止めて、死の商人への道を進むのが、日本国の将来のために素晴らしいことと思いますか。
経済的論理のみを追求すれば、犯罪発生率は高まり、要人暗殺や報道機関への武力攻撃等の右翼テロが頻発する時代をもたらすだろう。
その先にあるのは、五‐一五事件(1932年犬養毅首相暗殺)、二‐二六事件(1936年陸軍クーデター)のような時代が来るだろう。

貴方は、奥田経団連会長や小泉首相が、そういうことまで考えて武器輸出を決めたと思いますか。

重要案件が国会の議決を経ないで決まる事態は、民主主義の形骸化の進行です。
「誰がなっても変らない」と賢しらに言う人々が多数日本にはいますが、本来、日本の未来を選ぶのは、国民の一票の筈です。
貴方は、どんな未来を選びたいと考えていますか?
何もせずに他人(政治家や官僚)のせいにするというのも、一つの選択であり、その選択に相応しい未来が待っているはずです。


【福音派】聖書の外典・偽書と「聖書の絶対不可謬性」

キリスト教史の中で、旧約聖書が正式に聖典の扱いを受けるようになった歴史は意外に浅く、トリエント公会議(1545)の時である。
2世紀には既に旧約聖書を認めない派が存在し、それに反対するためにも4世紀に聖書のラテン語訳が始まり、397年「正典」が一応決まった。

特に、ヨハネの黙示録を新約に残すかどうかで、随分揉めたらしい。
東方正教会は、長く認めていなかったという。

1世紀末に書かれたもので、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」の著者とは別人が書いているが、今でも諸説あり、作者が福音書作者でないと文献学等で否定されていることを聞くと激怒する宗派もあるらしい。

どの文書が聖書として認められるべきか否かで、長く揉めて来た歴史というのは、大抵の宗教にあることだ。例えば、「北伝仏教の経典の多数は偽書である」という研究もある(「梅原猛の授業 仏教」をご参照下さい)

そんな歴史があるのに、特に、キリスト教原理主義者達を中心に「聖書の絶対不可謬性」を固く信じているキリスト教徒が結構いるのだそうだ。

聖書の中には、これを聖書に含めるかで揉めた文書があるという歴史等を、清教徒は全く知らなかったらしい。そのため、アメリカを中心に「聖書の絶対不可謬性」という、珍奇な教義をもつ教団が多いのだそうだ。

しかも、彼らが「間違いがない」と主張するのは、大抵、本来は聖典ではなかった旧約聖書のほうで、新約と違って間違いだらけの書物だ。
281投稿者:狂ったアメリカ人の精神構造  投稿日:2007年06月10日(日) 08時50分55秒


旧約聖書は盲信されると、世界の迷惑になる話が多すぎるのだ。

聖書と言っても旧約聖書は、基本的に泊付けのために導入されたものであり、どう考えても新約聖書の「神」と矛盾している。
旧約聖書の「神」は、所詮民族宗教の神なので、イエスと違い、人を幸福にすることのない神なのだ。

その「神」とイエスが三位一体であると言ったものだから、それから、キリスト教の神は相当残虐な「神」に変化し、教会の教えも残虐なものに変質してしまったのかもしれない。

ローマカトリックが新教の発生と共に今までの教会のあり方を見直して現在に至るのと対照的に、「自分達こそ、(旧教の輩と違って)汚れなき者である」と主張し続けて来た人々は、随分人殺しが好きな人々になっていき、全く自分達の行動を振り返ろうとはしない。

「神に選ばれた」とか「(自分達だけは)清浄なるものである」とか、「アメリカは『神の国』である」とか言うのは、明らかな(誇大)妄想である。
民族宗教の神ならともかく、キリスト教の神が、そんなに驕り高ぶり尊大で、「自分達は選ばれているから何をやっても許される」といった論理で他国民を無差別虐殺するような信者を、そんなに高く評価するだろうか。

「汝の敵のために祈れ」と言った神がだ。

聖書を書き記したのは所詮古代ユダヤ人であり、聖書の中にサハラ以南の黒人、インド以東のアジア人、北米南米・オーストラリア・ミクロネシアの現地人の存在が書かれていないのは、単に、当時の古代ユダヤ人の知識が足らなかっただけである。


ところが、「聖書の絶対不可謬性」を盲信する人々は、聖書に出て来ない人々を「人間として認めてはならない」という、見解になりがちだ。

清教徒が最初にこの考え方を米国に伝え、英国の清教徒が奴隷貿易を擁護した。自分達は清い名を名乗り、その行動は実に血なまぐさい。

聖書が誤っていることを認めぬ代わりに、世界や現実のほうを自分達の信念に合わせようとすると、随分多数の人々の人権を侵害し、戦争を次々起こし、多数の国を弱体化させ、...たくさんの異教徒をアジア・アフリカ・南北アメリカで殺さなければならない。
実際に、合わせようと今まで努力してきたのが、アメリカ合衆国という国の「裏の歴史」ではないのだろうか。

「キリスト教原理主義のアメリカ」(p.94)では、「聖書の絶対不可謬性」を信じる信者の割合を表示している。

 ユニタリアン・ユニバーサリスト        6%
 統一キリスト教会              12%
 アメリカン・福音ルーテル教会        21%
 エビスコーパル・チャーチ(聖公会)     22%
 統一長老派教会               25%
 統一メソディスト教会            34%
 エホヴァの証人               51%
 チャーチ・オブ・クライスト         55%
 サザン・バプティスト会議          58%
 チャーチ・オブ・ナザレン          58%
 アセンプリーズ・オブ・ゴッド        65%
 ユナイテッド・ペンテコスタイル・チャーチ  69%
 チャーチ・オブ・ゴッド           80%
http://hoffnungenlied.cocolog-nifty.com/kaizen/cat1966234/index.html


「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景について
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html
アメリカに移住したピューリタンは、「キリスト教原理主義」を貫いて、「エルサレムの建国」を「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」として、西部開拓(実際は先住民殺戮)を推し進めた。


この「キリスト教原理主義」の精神性が連綿と続いているという。

「キリスト教原理主義」は聖書(:福音)絶対であるのと同時に、選民思想であるという。これが他部族みな殺しを正当化させているとのこと。


元々、ヨーロッパ自体が

「古代・地中海周辺における皆殺し戦争の結果としての共同体の徹底破壊」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=330205

により、選民思想も登場してきているという背景があります。


ヨーロッパは、17世紀中頃に徹底殺戮の宗教戦争(:「神」と「悪魔」の戦い)をやめる条約を取り交わしました。しかし、アメリカ(に渡った移民)はその後も長きにわたって、みな殺しの殺戮を繰り広げてきたことが、今尚「敵を妥協せず徹底的に叩く」という精神性に繋がっているのだと思います。


以下、

『世界を操るグローバリズムの洗脳を解く(馬渕睦夫著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B4%97%E8%84%B3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4908117144


からの紹介です。

****************************

■アメリカを新しいエルサレムの地にする

イギリスでピューリタン革命が起こる前、宗教的な迫害を受けたピューリタンの一部の人たちは、新天地を求めてイギリスからアメリカ大陸に向いました。1620年にピルグルム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに渡ったのです。

ピューリタン(清教徒)というのは、purity(純水、清浄)という言葉から来たものですが、文字通り、宗教的な純粋、純化を求めていた人たちです。


彼らは、当時のカソリックの腐敗した状況を見て、ルターの宗教改革をさらに徹底してやらなければいけないと考えました。

ある意味で、キリスト教の原理主義であり、相当極端な過激な思想であったと思われます。それゆえに、イギリス国内での迫害も強かったのでしょう。ピューリタンたちはイギリスで食い詰めた最下層の人たちだったという説もあります。


いずれにせよ、彼らの一部はイギリスを逃れてアメリカに移住しました。

彼らピューリタンは、司祭の言葉ではなく、聖書の言葉こそ神の言葉と考えて、聖書の言葉を忠実に実践しようとしました。そして「この地に自分たちにとってのエルサレムを建国しよう」と考えたのです。


ピューリタンたちは旧約聖書を重視しましたが、旧約聖書に忠実に従ったという点ではユダヤ人たちと考え方は同じです。

ユダヤ人は自分達を選民と考えていましたが、ピューリタンも自分達を現代の選民と考えて、アメリカという地をエルサレムにして、神の福音を世界に伝えようと考えました。これが「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」と呼ばれるものです。建国の精神に立ち戻って考えれば、アメリカと言うのは宗教国家であることが分かります。

彼らは、神の福音を伝えることを使命と考えていましたから、それを妨害する勢力は皆敵と見なしました。その観点に立てば、先住民の殺戮も正当化されました。


そして神の福音を妨害する勢力を西へ、西へとなぎ倒していったのがフロンティア・スピリットです。フロンティア・スピリットは、ピューリタニズムと表裏一体です。

西へ、西へと進んでいって最終的にたどり着いたのがカリフォルニア。そこから先は海に遮られています。しかし、太平洋を越えて福音を伝えようと考え、アメリカはハワイ、フィリピンに進出し、さらに日本、中国にも福音を伝えようと考えました。

このように、アメリカのたどってきた歴史は、マニフェスト・デスティニーの歴史と考えると筋が通ります。


■宗教国家のアメリカには「妥協」がない

現代のアメリカには、ピューリタニズムの精神はもうほとんど残っていません。アメリカの国体はすっかり変わってしまいました。国体は変質してしまいましたが、彼らのマニフェスト・デスティニーの考え方は変わっていません。アメリカ的な発想を世界に普及させる、あるいは押し付けるというやり方を続けています。つまり、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を世界に広げることが、一貫したアメリカの世界戦略です。


彼らは、「自分達は植民地主義者ではない。帝国主義者ではない」とずっと主張し続けていますが、実際の現象を見れば、遅れてきた帝国主義者の様相を呈しています。彼らは「門戸開放」という言葉を使いましたが、言い方を変えれば、「オレたちにも分け前をよこせ」という意味です。


神の福音を伝えることが目的であったにせよ」、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を広げることが目的であったにせよ、実質的には帝国主義と同じです。


建国の経緯を見れば、アメリカと言う国の本質は宗教国家であることが見えてきます。宗教を広げることを理念としている以上、彼らに妥協というものはありません。その点を理解しておくことが重要です。宗教国家の側面は、アメリカの戦争のやり方にも影響しています。


ヨーロッパにおける戦争というのは、妥協が成立することがよくあります。17世紀に宗教戦争によって疲弊しきったヨーロッパ諸国は、1648年にウェストファリア条約を結んで宗教戦争を止めることを決めました。


宗教戦争というのは、「神」と「悪魔」の戦いですから、悪魔は徹底的に叩くほかなく、どちらかが破滅するまで行われます。続けていけば際限が無くなり、ヨーロッパ全体が破壊されてしまうため、宗教を理由とした戦争を止めるウェストファリア条約が結ばれました。


ウェストファリア条約以降は、ヨーロッパでは戦わずして対立が終わることもありましたし、話し合いによって妥協が成立することもありました。

アメリカの場合は、選民思想によるマニフェスト・デスティニーが根本にあるため、アメリカにとっての戦争は、いずれも宗教戦争的意味合いが濃く、彼らには妥協というものがありません。


第二次世界大戦においては、アメリカは日本を徹底的に攻撃して壊滅状態に追い込みました。その後の占領政策では日本の国体を徹底的に潰そうとしました。一切の妥協はありませんでした。それが宗教国家のやり方です。

今は、ピューリタニズムのアメリカ的な精神を持った人たちは、ほとんどいなくなりました。アメリカの国体が変質して、宗教国家の要素はなくなっていますが、妥協しないやり方は変わっていません。
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html
6:777 :

2022/05/23 (Mon) 17:11:53

異教徒は「人間」ではないので殺してもいい


平和や愛を説いている宗教が大量殺戮を生み出す皮肉な現実
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180130T0221060900.html


アメリカの調査機関ピュー・リサーチ・センターは、2015年に世界人口における宗教人口の変動を予測した結果、今のままで推移すると、2100年にはイスラム教徒が最大勢力になると報告した。 アメリカの調査機関ピュー・リサーチ・センターは、2015年に世界人口における宗教人口の変動を予測した結果、今のままで推移すると、2100年にはイスラム教徒が最大勢力になると報告した。 

人口の35%はイスラム教徒になる。イスラム教徒と言えば、私たちは中東・北アフリカをイメージするが、世界最大のイスラム人口を抱えているのはインドネシアである。人口の35%はイスラム教徒になる。イスラム教徒と言えば、私たちは中東・北アフリカをイメージするが、世界最大のイスラム人口を抱えているのはインドネシアである。

今後はインドも巨大なイスラム人口を抱えることになるのが分かっている。アジアもまたイスラム人口で覆い尽くされていくことになる。今後はインドも巨大なイスラム人口を抱えることになるのが分かっている。アジアもまたイスラム人口で覆い尽くされていくことになる。

この予測は実は2008年頃にカトリック総本山のバチカンでも統計年鑑で示されていたことである。今後はキリスト教徒も全体数として増えるのだが、イスラム教徒の方が多産なので人口で完全に抜かれるのである。この予測は実は2008年頃にカトリック総本山のバチカンでも統計年鑑で示されていたことである。今後はキリスト教徒も全体数として増えるのだが、イスラム教徒の方が多産なので人口で完全に抜かれるのである。

この科学万能時代に宗教人口が増えるというのも興味深いが、どんなに科学が発達しても人々は神を捨てることはない。この科学万能時代に宗教人口が増えるというのも興味深いが、どんなに科学が発達しても人々は神を捨てることはない。

私は無宗教を通り越して確信的な無神論者だが、私のような無神論者は全世界の人口から見ると2.2%でしかなく、完全に少数派(マイノリティー)である。私は無宗教を通り越して確信的な無神論者だが、私のような無神論者は全世界の人口から見ると2.2%でしかなく、完全に少数派(マイノリティー)である。

人類の70%がキリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教のいずれかを信じている。人類の70%がキリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教のいずれかを信じている。

多くの国で、私は神に祈る人々に接してきた

多くの国で、私は神に祈る人々に接してきた。私が愛した女性たちもまた数多くの宗教を信じていた。多くの国で、私は神に祈る人々に接してきた。私が愛した女性たちもまた数多くの宗教を信じていた。

たとえば、タイ女性の多くは車の中から寺院や祠が見えると、そっと合掌(ワイ)をした。どんなに若い女性であってもそうだ。私はその姿が美しいと思った。たとえば、タイ女性の多くは車の中から寺院や祠が見えると、そっと合掌(ワイ)をした。どんなに若い女性であってもそうだ。私はその姿が美しいと思った。

インドネシアで知り合った女性たちは、もちろんイスラム教徒が多くて彼女たちの誰かと暮らすようになったら私もまたイスラム教徒にならないといけないのかもしれないと漠然と思っていたこともある。インドネシアで知り合った女性たちは、もちろんイスラム教徒が多くて彼女たちの誰かと暮らすようになったら私もまたイスラム教徒にならないといけないのかもしれないと漠然と思っていたこともある。

普段は派手な格好をしてタバコを吸って男とやり合っていた女性たちが、ある時にジルバブを付けてモスク(イスラム寺院)に行く姿を見た時、私は派手な格好をしている彼女たちよりもジルバブの姿の方に感銘を受けたものだった。普段は派手な格好をしてタバコを吸って男とやり合っていた女性たちが、ある時にジルバブを付けてモスク(イスラム寺院)に行く姿を見た時、私は派手な格好をしている彼女たちよりもジルバブの姿の方に感銘を受けたものだった。

インドネシアのジルバブはカラフルで美しい。

(ジルバブをつけたインドネシアの女性たちはとても華やか)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20141007T2223520900.html


インドでは、バイシュン宿にいる女性たちは自分に客が付くと、ドアの上やベッドの壁に飾っているシヴァ神の写真に向かって感謝の儀式をした。インドでは、バイシュン宿にいる女性たちは自分に客が付くと、ドアの上やベッドの壁に飾っているシヴァ神の写真に向かって感謝の儀式をした。

夕方、泊まっていたホテルを抜けてスラムに入ると、スラムの一角ではヒンドゥー教の何かの儀式があって、私も誘われてヒンドゥー教のお参りを見よう見まねでした。その儀式で私は彼らに受け入れられた。夕方、泊まっていたホテルを抜けてスラムに入ると、スラムの一角ではヒンドゥー教の何かの儀式があって、私も誘われてヒンドゥー教のお参りを見よう見まねでした。その儀式で私は彼らに受け入れられた。

フィリピンではどうだったのか。フィリピンでは出会う女性は、細かい宗派は違うとしても、基本的にみんなキリスト教徒だった。女性たちはみんな十字架のペンダントをしていた。フィリピンではどうだったのか。フィリピンでは出会う女性は、細かい宗派は違うとしても、基本的にみんなキリスト教徒だった。女性たちはみんな十字架のペンダントをしていた。

何気なく入ったショッピングモールでは礼拝堂があって、そこでも多くの客が礼拝を受けていたのに驚いたこともある。何気なく入ったショッピングモールでは礼拝堂があって、そこでも多くの客が礼拝を受けていたのに驚いたこともある。

私が行ったすべての国で、それぞれの人々が生活の中で神と密着した日常を送っていたのだ。それぞれの文化、それぞれの伝統はそこで定着している。そして、時には美しい。私が行ったすべての国で、それぞれの人々が生活の中で神と密着した日常を送っていたのだ。それぞれの文化、それぞれの伝統はそこで定着している。そして、時には美しい。

しかし、私が彼らに影響されることはない。私は依然として何も信じていない。私は無神論者である。しかし、私が彼らに影響されることはない。私は依然として何も信じていない。私は無神論者である。


私が行ったすべての国で、それぞれの人々が生活の中で神と密着した日常を送っていたのだ。それぞれの文化、それぞれの伝統はそこで定着している。そして、時には美しい。


信じなければ、生きていけない世の中だった

神を信じる人は圧倒的多数である。信じないのであれば、その時点で人類のデファクトスタンダード(事実上標準)から弾き飛ばされる。神を信じる人は圧倒的多数である。信じないのであれば、その時点で人類のデファクトスタンダード(事実上標準)から弾き飛ばされる。

信じている人間から見ると、信じない人間は、共同体に属する意思がない人間であると認識される。信じている人間から見ると、信じない人間は、共同体に属する意思がない人間であると認識される。

共同体に帰属できない人間は爪弾きされるのだが、かつて「村」という狭い共同体の中で爪弾きされたら生きることすらも困難になる。共同体に帰属できない人間は爪弾きされるのだが、かつて「村」という狭い共同体の中で爪弾きされたら生きることすらも困難になる。

中世のキリスト教徒たちは、非キリスト教徒を人間扱いしなかったのはよく知られている。ユダヤ教徒も、異教徒は人間ではないと考える層もいた。中世のキリスト教徒たちは、非キリスト教徒を人間扱いしなかったのはよく知られている。ユダヤ教徒も、異教徒は人間ではないと考える層もいた。

現代のイスラム教でも、イスラム原理主義が跋扈するようになると、大勢の異教徒が殺されていった。これは中世ではなく、現代シリアで起きていたことだ。

(人類の歴史は殺戮の歴史であり、地獄はどこにでも口を開く)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170728T0151200900.html


戦争している国だからそんな悲劇が起きるので、普段は排斥なんか起こらないと思うのも間違っている。戦争している国だからそんな悲劇が起きるので、普段は排斥なんか起こらないと思うのも間違っている。

パキスタンでは、「イエス・キリストは人類の罪のために十字架で死んで下さった。ムハンマドは何をしたの?」と問いかけた普通の女性が死刑を宣告されている。

(少しでもイスラム教をけなすと、冒涜罪で死刑になる危険な国)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20130802T2244050900.html


宗教を信じている人たちの中で異端でいるというのは、このような恐ろしい目に遭うこともあるのだ。宗教を信じている人たちの中で異端でいるというのは、このような恐ろしい目に遭うこともあるのだ。

共同体の中で、人々が信じているものを信じないのは実は恐ろしいことなのである。信じないことを隠していればいいというわけでもない。信じていないことは、何気ない態度の端々に現れるからだ。共同体の中で、人々が信じているものを信じないのは実は恐ろしいことなのである。信じないことを隠していればいいというわけでもない。信じていないことは、何気ない態度の端々に現れるからだ。

人は信じていないものを信じていると言い続けることはできない。覆っていたものは暴かれる。口で言わなくても、態度で信じていないことが周知の事柄になっていく。公言してもしなくても結果は同じということだ。人は信じていないものを信じていると言い続けることはできない。覆っていたものは暴かれる。口で言わなくても、態度で信じていないことが周知の事柄になっていく。公言してもしなくても結果は同じということだ。

本音のところで共同体を構成する最も重要な部分を信じていなければ、それは共同体では危険人物と見なされていき、徐々に排斥の対象になっていく。本音のところで共同体を構成する最も重要な部分を信じていなければ、それは共同体では危険人物と見なされていき、徐々に排斥の対象になっていく。


共同体の中で、人々が信じているものを信じないのは実は恐ろしいことなのである。信じないことを隠していればいいというわけでもない。信じていないことは、何気ない態度の端々に現れるからだ。


異教徒は「人間」ではないので殺してもいい?

アメリカでは宗教の自由が保障されており、もちろんイスラム教徒も多い。アメリカでは宗教の自由が保障されており、もちろんイスラム教徒も多い。

しかし、全体を見れば依然としてこの国にはキリスト教が根を下ろしている。大統領も、日曜日になれば教会に行って牧師の話を聞く国でもある。しかし、全体を見れば依然としてこの国にはキリスト教が根を下ろしている。大統領も、日曜日になれば教会に行って牧師の話を聞く国でもある。

キリスト原理主義的価値観は、まったく廃れる気配もない。ドナルド・トランプ大統領を支持していたのもキリスト教の福音派、宗教右派、キリスト教原理主義者たちだった。キリスト原理主義的価値観は、まったく廃れる気配もない。ドナルド・トランプ大統領を支持していたのもキリスト教の福音派、宗教右派、キリスト教原理主義者たちだった。

福音派の定義は曖昧だが、狭義の意味で言うと「聖書を神の言葉であると信じ最終権威と考える人たち」を指す。ここから進化論すらも否定するのがキリスト教原理主義者となる。福音派の定義は曖昧だが、狭義の意味で言うと「聖書を神の言葉であると信じ最終権威と考える人たち」を指す。ここから進化論すらも否定するのがキリスト教原理主義者となる。

キリスト原理主義者の信じているもののひとつが、あの有名な終末論だ。キリスト原理主義者の信じているもののひとつが、あの有名な終末論だ。

すなわち、「世界が終わる(神の審判が下る)とき、イエス・キリストが降臨して千年王国が始まる」というものだ。すなわち、「世界が終わる(神の審判が下る)とき、イエス・キリストが降臨して千年王国が始まる」というものだ。

聖書は、確かに歴史書としては興味深いものがあるのかもしれない。しかし、それを一字一句信じるのは愚かであることは現代人であれば誰でも感じるはずだ。聖書は、確かに歴史書としては興味深いものがあるのかもしれない。しかし、それを一字一句信じるのは愚かであることは現代人であれば誰でも感じるはずだ。

処女懐妊から死者復活、そしてキリストの昇天まで、どう読んでも科学的ではない。しかし、信じないでいると、このように脅迫される。処女懐妊から死者復活、そしてキリストの昇天まで、どう読んでも科学的ではない。しかし、信じないでいると、このように脅迫される。

「信じない者は救われない」「サタンから来た者だ」「信じない者は救われない」「サタンから来た者だ」

キリスト教は世の中の文化にも定着している。人類の教養の基礎にもなっている。アメリカでも、そうした人々が選挙権を行使して世の中に影響を及ぼす。キリスト教は世の中の文化にも定着している。人類の教養の基礎にもなっている。アメリカでも、そうした人々が選挙権を行使して世の中に影響を及ぼす。

「隣人を愛しなさい」と説く美しい宗教なのだから、さぞかし世界は平和になりそうだ。「隣人を愛しなさい」と説く美しい宗教なのだから、さぞかし世界は平和になりそうだ。

ところが、現実は真逆だ。ところが、現実は真逆だ。

「隣人を愛しなさい」と説くキリスト教の国が世界最大の軍産複合体を持ち、「自由はただではない」と言い、全世界で戦争を仕掛けて回っている。どうしたことなのか。「隣人を愛しなさい」と説くキリスト教の国が世界最大の軍産複合体を持ち、「自由はただではない」と言い、全世界で戦争を仕掛けて回っている。どうしたことなのか。

宗教が平和や愛を説くのは、同じ宗教を信じている人たちに対して言っているというのが分かる。自分たちの宗教が否定されると、突如として牙を剥く。宗教が平和や愛を説くのは、同じ宗教を信じている人たちに対して言っているというのが分かる。自分たちの宗教が否定されると、突如として牙を剥く。

そして、「異教徒は自分たちの宗教が理解できない劣等民族であり、そもそも人間ではないので殺してもいい」という論理で正当化して大量殺戮に走っていく。平和や愛を説いている宗教が大量殺戮を生み出す。皮肉な現実だ。そして、「異教徒は自分たちの宗教が理解できない劣等民族であり、そもそも人間ではないので殺してもいい」という論理で正当化して大量殺戮に走っていく。平和や愛を説いている宗教が大量殺戮を生み出す。皮肉な現実だ。


世界最大の軍事力を持つアメリカ。「隣人を愛しなさい」と説くキリスト教の国が世界最大の軍産複合体を持ち、「自由はただではない」と言い、全世界で戦争を仕掛けて回っている。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180130T0221060900.html
7:777 :

2022/05/23 (Mon) 17:12:39

祈りとは「よけいなことを考えさせない」ための行為である 2013-09-02
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20130903T0014520900.html?a=l0ll

現代人は、もう宗教というのは勝手に考えた妄想だと知っているし、神を信じていない人も多い。

それでも、この時代にも宗教を必要とする人たちがいるのは、いったいなぜなのだろうか。それは、それを信じていることにしたほうが「共同体の維持」に好都合だからだ。

別に神がいようがいまいが、もうどうでもいい。全員が同じ妄想を信じることにしたら、それで対立が減るし、共同体が維持できる。

「みんな同じ考え方」というのは、余計な対立がないということなのである。つまり、共同体の中では安心して暮らせるということなのだ。

ある人がキリスト教を信じていて、右隣の人はイスラム教を信じていて、左隣の人は仏教を信じているとする。習慣も、文化も、何もかも違う。

違うだけならいいが、互いに「他の宗教は間違っている」と思っていたら、毎日がいがみ合いの生活になり、共同体が成り立たない。


宗教には必ず上下関係(ヒエラルキー)がある

だから、隣近所はみんな同じ宗教・同じ宗派であったほうが安心して暮らせる。いちいち、他人の思想を確認しなくても済むし、相手が理解できるし、自分も理解してもらえる。

人類はそれが欲しかったのだ。

また、権力志向の人間にとっても、それは重要だった。自分が司祭の立場になると、勘違いした信者が司祭を「神」か「神の使者」と間違えて一緒に祈ってくれる。それは、都合が良かったのだ。

宗教には上下関係(ヒエラルキー)がある。ヒエラルキーの上部にいる人間は、わざと一般的ではない、どこか奇妙な服を着て、神々しく振る舞う。それは、「演出」である。

演出して、無理やり自分を祈らせ、あがめさせようとする。

そうなると、宗教に名を借りた支配が可能になるので、人を疑うことを知らない人間を服従させることができるようになる。

宗教のコミュニティーの中では「疑うことを知らない純真さ」が尊ばれる。なぜ、それを徹底して教えるのか。

いちいち、他人のことを疑う人間がいたら、ピラミッドの上部にいる人が居心地が悪くて眠れないからである。

「神などいない」と考えるような人間が出てくると、上層部はとたんに「ただの人」にまで落とされる。

だから、信者がよけいなことを考えないように「祈りなさい」と祈りを強要し、共同体でがんじがらめにしてしまう。祈りとは、実は「よけいなことを考えさせないこと」なのである。


フィリピンでの子供たちの祈り。祈りとは、実は「よけいなことを考えさせないこと」なのである。


疑う人間は、一心不乱に祈らせて考えさせない

胡散臭い宗教であればあるほど、長時間祈らせたり、頻繁に祈らせたりする。疑問を感じると「それは雑念だ」と言って恫喝する。

祈るというのは、自分自身を自分で洗脳することだ。

キリスト教も、イスラム教も、そうやって長い間、子供の頃から祈りを通じて、自己洗脳を強制し、洗脳し、共同体に組み込んできた。

疑う人間は、一心不乱に祈らせて考えないように仕向けた。

大人になって、「実は神はいないのではないか?」「仏はいないのではないか?」「この宗教は間違っているのではないか?」と思ったときはもう遅い。

そう思った瞬間に、共同体から弾き飛ばされる。そして、今まで信じていたものが崩れると、人格崩壊の可能性もある。

だから、大人になってからの、「この宗教は、何か違う」という違和感や「宗教は妄想だ」という覚醒は危険なのだ。

みんなが妄想に浸っているときに自分だけ覚醒してしまうというのは、突如として自分が異分子になるということだ。信じている仲間を裏切り、文化を裏切ることにつながる。

信じ込んでいる人であればあるほど、「正気に返れない」ようになっている。正気に戻ったら、共同体から出て行かなければならないからだ。

そこで、洗脳が解けそうになると、共同体にいたいがために、人は必死で「祈る」ことになる。つまり、自己洗脳を強化するということだ。

もっとも、湧き上がる疑念は抑えられないこともある。

アメリカでもイタリアでも、あるいはアフガンやイランでも、本当はキリストやイスラムに懐疑的な人が山ほどいるのだが、あえてそれを言わない。何食わぬ顔をして、信じているふりをしている。

しかし、覚醒しているので、本当は心の中で馬鹿馬鹿しくてつきあってられないと考えている。


アフガニスタンで、イスラム教に疑問を持ったら、果たして生きていけるかどうか分からない。


不可知論者という、一種の「気配り」が考え出された

欧米では、無神論者だと思われたら共同体から爪弾きにされ、差別や報復の対象になってしまう。

だから、神を信じていなくても「自分は無神論者だ」と主張する人は少ない。

しかし、今どき「男から女を作った」「処女懐妊でキリストが生まれた」「キリストは死んでから3日後に復活した」と言われて純粋に信じる人も少なくなった。

そこで、「不可知論者」という概念が生まれている。

日本語も難しいが、英語も「アグノスチック」という難しい言い回しが使われている。不可知論というのは「神はいるともいないとも言えない」という立場である。

「神などいるわけない」と口に出して言えば危ない。自分は白い目で見られるし、相手も傷つく。親や友人が宗教を信じていて、それを嘲笑したくないときもある。

そういうときは、「神がいるかいないか私の中では未知なので、不可知論者なんですよ」とやんわりと無神論であることを主張できる。

欧米人が考え出した一種の「気配り」が、不可知論というものであると捉えれば分かりやすい。

欧米人は自分の考えや思いを主張して、ディベートする民族ではある。

それでも宗教批判はコミュニティを破壊し、相手の全人格を破壊するので、非常に「微妙」な扱いにされている。欧米人にして、「気配り」が必要なほど微妙な問題なのである。


こんな時代になっても、いまだに宗教は続いて行く

昔は、交通機関が発達していなかった。人類が「村」や「町」という共同体の中で、小さく暮らしていた。

そんな時代、宗教は共同体の維持に役に立った。

しかし、やがて人類が「国」単位で暮らすようになると、宗教は多種多様な考え方をする人を取り込めなくなってしまった。

そして、人類が「国際」「世界」単位で暮らす現代になると、今度は宗教そのものが、対立や紛争を引き起こす災厄の種になってしまっている。

宗教というのは、まだ人類が小さな共同体、つまり「村」や「町」で暮らしていた頃の伝統である。

これだけ世界がつながってしまうと、もう宗教という「共同体維持のための仕組み」は、かえって人類の足を引っ張る厄介者に過ぎなくなった。

宗教対立・宗教戦争・宗教弾圧をなくすにはどうしたらいいのか。本来であれば、「もう宗教は役に立たないので、みんなで一緒にやめましょう」と、やめてしまえばいい。

しかし、現実的にはそれは不可能である。

宗教という枠組みの中で、ヒエラルキーの上部にいる人間は、絶対にそれをさせない。共同体が崩れ去ると、自分がただの人に転がり堕ちるからだ。

また、宗教は、その人の思想、文化、両親の存在、共同体の存続すべてに関わっている。宗教を否定するというのは、その人の全人生と歴史を否定するということになる。

だから、こんな時代になっても、いまだに宗教は続いて行く。そして、裏切り者は殺され、異宗教との戦いも続く。

そして、疑い深い人がいたら、とにかく祈らせる。祈らせて、考えさせないようにする。一日に何度も、あるいは長時間に渡って祈らせる宗教は、そういうことなのだ。

祈りは、とても危険な行為なのである。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130903T0014520900.html?a=l0ll

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