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チャップリン『犬の生活 A Dog's Life』1918年

1:777 :

2022/05/23 (Mon) 12:13:41

チャップリン『犬の生活 A Dog's Life』1918年

監督 チャールズ・チャップリン
脚本 チャールズ・チャップリン
音楽 チャールズ・チャップリン
(1959年『チャップリン・レヴュー』公開時)
撮影 ローランド・トザロー ジャック・ウィルソン
公開 1918年4月14日

動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm8200062

https://www.youtube.com/watch?v=txSJDmt4u6Q
https://www.youtube.com/watch?v=q6cXSg975f4
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3++%E7%8A%AC%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB


『犬の生活』(原題: A Dog's Life )は、1918年公開のサイレント映画。ファースト・ナショナル(英語版)による製作で、主演・脚本・製作および監督はチャールズ・チャップリン。チャップリンの映画出演64作目にあたる[注釈 1]。

一連のチャップリン映画の中でターニングポイントに位置する作品であり、チャップリンの「放浪者」、いわゆる「チャーリー(英語版)」のキャラクターが完全に確立された作品とみなされている。また、異父兄のシドニー・チャップリンともこの作品で共演したが、映画で兄弟が共演するのはこれが最初だった。一方で不幸な事件により、チャップリンが亡くなるまで維持された秘密主義が確立されたきっかけとなった作品でもある。タイトルの「A Dog's Life」は、「惨めな生活」を意味する英語の慣用句でもある。

なお、チャップリン映画に関する著作権は、この作品から1967年の『伯爵夫人』まではチャップリン家が保有している[1]。


あらすじ
放浪者(チャップリン)は職を得るために職業安定所に行くが、失業者仲間との争いに負けて職を得られなかった。その帰途、野良犬の群れにいじめられている一匹の犬を助け、「スクラップス」と名付け一緒に生活する。路地の屋台で盗み食いをしつつ生活を共にし、お金を持たず入った酒場で歌手(パーヴァイアンス)と出会うが店を追い出される。その後、強盗(オースチン)が紳士から盗んで埋めた財布をスクラップスが掘り当て大金を手にし、再び酒場へ。一度は財布を強盗に奪われるが二人羽織の策で取り戻し、歌手と犬と共に田舎で幸せに暮らすのだった。

製作の経緯
『チャップリンの冒険』(以降『冒険』)をもってミューチュアル社(英語版)との「友好的な」契約を終えたチャップリンは、自分の力量を最大限に発揮するために独立を画策していた[2]。一方、映画界の実力者アドルフ・ズーカー率いるパラマウントに脅威の念を抱いて対抗する映画館主は、自前の映画をパラマウントの影響から遠ざけて自前で配給及び上映が可能な組織を1917年4月に結成する。この組織がファースト・ナショナルであり、結成早々にチャップリンとの契約に成功する[3]。秋に入ると自前の撮影所であるチャップリン・スタジオ(英語版)を建設し[4]、独立への屋台骨は徐々に組み立てられていった。

新スタジオでの第一作は仮に『心配無用』と命名され、新スタジオが完成した1918年1月までには大方の準備が整った[4]。ところが、この1918年1月に一つの事件が起こる。チャップリンは新スタジオが完成するとPRの一環で一般客向けに内部を公開したが、その一般客の中にジャーナリストのふりをした2人の男が製作会議を盗み聞きしているところを取り押さえられるという事件が起こる[5]。2人の男を調べると『心配無用』の完成セットのスケッチ8枚とストーリー会議の速記ノート、登場人物の衣装に関するノートなどが次々と見つかり、この事件を重く見たチャップリンは、以降スタジオの一般公開を厳禁として秘密主義を貫くこととなった[6]。

チャップリンが犬と共演している映画は、本作の他にキーストン期の『チャップリンの総理大臣』(1914年)と『チャップリンの拳闘』(1915年)、ユナイテッド・アーティスツ時代に入ってからの『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)がある。少なくとも、『拳闘』の時点で喜劇における犬の重要性を理解していたチャップリンは、1916年12月の時点で「喜劇センスの優れた犬を求む」と題された記事の中で喜劇向けの犬を探すことに苦労していることを語っている[7]。チャップリンによれば雑種犬が大本命であり、ダックスフントやパーヴァイアンスが連れてきたポメラニアン、ポメラニアンと入れ替えで持ち込まれたプードル、さらにやってきたボストン・テリアやブルドッグといった一流の品種はまったく気に入らなかった[8]。ついにはロサンゼルスの野犬場から21匹も持ち出すこととなったが、近隣住民から苦情が出てその数を半減せざるを得なかった[9]。試行錯誤の末に起用されたのは、「マット」と命名された雑種の小型犬であった[9]。

作品は1918年1月15日に撮影が開始されるが[4]、一週間後の1月22日にはスコットランド出身のコメディアンであるハリー・ローダー(英語版)の訪問を受けて撮影は中断[9]。2月11日、チャップリンは突然気まぐれを起こして「『心配無用』の製作を中止して『ウィグル・アンド・サン』の製作を始める」と宣言し、カタツムリ6匹と塩の調達を側近に命じるが、翌2月12日になると『ウィグル・アンド・サン』は影も形もなくなっていた[10]。このような出来事を経て3月22日に撮影が終了[11]。作品は自由公債募集に合わせて封切る約束がしてあり[12]、それに間に合うように3月26日から29日まではバーグマン、カメラ担当のローランド・トザロー(英語版)およびジャック・ウィルソン、さらには2人のカメラ助手を交えての編集作業が行われ、3月31日には一連の作業が終わった[11]。この時、仮に『心配無用』と呼ばれていた作品は、チャップリンによって『犬の生活』と正式に命名された[11]。

作品の意義
映画史上初のトータルな芸術作
— ルイ・デリュック、[13]
汚い裏街を描いているだけなのだが、本年度の数少ない真の傑作の一本である。
— 『フォトプレイ』誌、[13]
1918年4月14日に封切られた『犬の生活』は、従来は格下に見られていたコメディを芸術として扱われるきっかけを作った[14]。チャップリンの伝記を著した映画史家のデイヴィッド・ロビンソン(英語版)は、『犬の生活』は「彼のもっとも完成された作品のひとつ」[13]であり、また次のようにも評している。

テンポが早くギャグが惜しみなく使われているところはカーノーの寸劇ばりであり、個々のシーンはそれぞれが集まってひとつのまとまりのある全体を構成している。と同時に、これまでのどのチャップリン映画よりも強烈な、生々しい現実感が脈打っていて、ここで語られるのは街の生活、下層生活、貧困、飢え、堕落、搾取である。気取りもなければ、喜劇的な活力をみじんも犠牲にすることなく、チャップリンは、一匹の野良犬スクラップスと運に見放された二人の人間 -放浪者チャーリーと酒場歌手のエドナ- の生き方を重ね合わせ、三者が相似た者同士であると見る者に訴える。
— デイヴィッド・ロビンソン、[13]
チャップリン研究家の大野裕之は、『犬の生活』を「特別な断絶点」と表現している[15]。キーストン期の『ヴェニスの子供自動車競走』で初めて登場した「チャーリー」は、ミューチュアル期までは決して弱者の味方のキャラクターではなく、むしろ弱者を貶して性的にもいやらしいキャラクターであった[16][17]。この傾向は『冒険』まで続き、『冒険』で使用されなかったシーンの中には従前の「性的にいやらしいチャーリー」が多く登場する[18]。しかしチャップリンは、そういったシーンを完成版では採用せず、代わりに「金持ちに対する貧乏人の抵抗」を暗示するシーンを採用した[19]。ミューチュアル期最終作の『冒険』で性的な意味を持つシーンを使わなかったのは、結果的に『犬の生活』の位置づけに大きな影響を与えた。『冒険』は製作に4か月かかっているが、これについてロビンソンは当時のチャップリンが「創造上の壁にぶつかっていた」と論じ、大野はこれを補うように「『冒険』が性的にいやらしいギャグをカットすることで、心やさしくイノセントなチャーリーの『犬の生活』を産むために必要な踏台だった」と説明している[15]。先に掲げたフランスの批評家ルイ・デリュックの『犬の生活』への賞賛は、「悪いチャーリー」と決別したチャップリンに対する賞賛であるとも解釈できる。チャップリン自身、この『犬の生活』を製作するころには「喜劇というものを、ようやく構造的に考え、その建築的様式を考えるようになっていた」と自伝で回想している[20]。

他方、『犬の生活』はチャップリンの意図していないところでもう一つの「ある流れ」を断ち切る作品でもあった。「ある流れ」とは、ロシア帝国出身の俳優ビリー・ウェストの、チャップリンの高度な模倣者としての活動であった。チャップリンが『犬の生活』を完成させた後もウェストは依然としてチャップリンの模倣作品を製作していたが、1921年になっても『冒険』を模倣した作品しか生み出せず、やがてチャップリンの模倣をあきらめて別のキャラクターを創造し、活動を続けざるを得なかった[21]。

後日談
チャップリンと映画で初めて共演した異父兄シドニーは、路地の屋台の主人の役で出演している。作品中、スクラップスを連れたチャーリーが主人の目を盗んでパンを盗み食いするというシーンがあるが、黒柳徹子はかつて坂本九とともに、当該シーンを再現しようとしたものの無理だったことを、2006年に開かれたチャップリンのシンポジウムで述べている[22]。
チャップリンはすべての作業を終えた翌日の1918年4月1日から自由公債募集のツアーに出かけた。スクラップスを「演じた」マットはチャップリンに相当なついていたため、チャップリンがツアーでいなくなると悲しみのあまり食事をとらなくなり、4月29日に亡くなってしまった。マットの亡骸はスタジオ内に埋葬され、その墓碑には「マット、4月29日、傷心によりて死去」と記された[23]。
初公開からおよそ40年後の1959年、チャップリンは他のファースト・ナショナルでの2作品、『担へ銃』(1918年)および『偽牧師』(1923年)とともに『犬の生活』の再編集を行い、再編集された3作品は『チャップリン・レヴュー』として公開された。この再編集版はチャップリンにより音楽とナレーションが付け加えられており[24]、現行版はこの1959年版である。


キャスト

放浪者:チャーリー・チャップリン
酒場の歌手:エドナ・パーヴァイアンス
スクラップス:マット(犬)
屋台の主人:シドニー・チャップリン
太った失業者/酒場の客の女(二役):ヘンリー・バーグマン
職業安定所の職員・酒場のドラマー(二役):チャールズ・リーズナー(英語版)
悪漢:アルバート・オースチン
警官:トム・ウィルソン
ダンスホールの人々:ミニー・チャップリン[注釈 2]、グレイス・ウィルソン[注釈 3]、アルフ・リーヴズ[注釈 4]、ジェームズ・T・ケリー
etc
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB#:~:text=%E3%80%8E%20%E7%8A%AC%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB%20%E3%80%8F%EF%BC%88%E5%8E%9F%E9%A1%8C%3A%20A%20Dog%27s%20Life%20%EF%BC%89%E3%81%AF%E3%80%81%201918%E5%B9%B4,%EF%BC%88%20%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E7%89%88%20%EF%BC%89%20%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E8%A3%BD%E4%BD%9C%E3%81%A7%E3%80%81%E4%B8%BB%E6%BC%94%E3%83%BB%E8%84%9A%E6%9C%AC%E3%83%BB%E8%A3%BD%E4%BD%9C%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AF%20%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%20%E3%80%82%20%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E5%87%BA%E6%BC%9464%E4%BD%9C%E7%9B%AE%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%9F%E3%82%8B%20%E3%80%82


犬の生活 1918年 ‧ ファンタジー映画/自主映画 ‧ 40分

『犬の生活』(原題: A Dog's Life )は、1918年公開のサイレント映画。ファースト・ナショナル(英語版)による製作で、主演・脚本・製作および監督はチャールズ・チャップリン。チャップリンの映画出演64作目にあたる[注釈 1]。

一連のチャップリン映画の中でターニングポイントに位置する作品であり、チャップリンの「放浪者」、いわゆる「チャーリー(英語版)」のキャラクターが完全に確立された作品とみなされている。また、異父兄のシドニー・チャップリンともこの作品で共演したが、映画で兄弟が共演するのはこれが最初だった。一方で不幸な事件により、チャップリンが亡くなるまで維持された秘密主義が確立されたきっかけとなった作品でもある。タイトルの「A Dog's Life」は、「惨めな生活」を意味する英語の慣用句でもある。

なお、チャップリン映画に関する著作権は、この作品から1967年の『伯爵夫人』まではチャップリン家が保有している。

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“チャーリー”サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、コメディアン、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。左利き。
2:777 :

2022/05/23 (Mon) 12:41:14

チャーリー・チャップリンはロマ出身だ。

ロマと言えばヨーロッパでは極貧の民族の代表になっているが、チャップリンもまた幼児期を極貧の中で暮らして、その映画もまたコメディにも関わらずそこに流れているのは極貧の描写である。


チャップリンが貧しい人たちと、虐げられている人たちの中に自分の役柄を置いた根源的な由来が、彼の血がロマ(ジプシー)の出だということで分かったような気がした。

ロマ(ジプシー)は今でも虐げられ、ヨーロッパ全土で差別の対象になっている。

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Flamenco Dance
https://www.youtube.com/watch?v=xqxJMCQxb_Q


2015-06-09
1000年も「ロマ」と共生できないのに多文化主義など絵空事
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150610T0603560900.html

ヨーロッパは日本のように島国ではないので、様々な民族が国境を越えて行き来する。多くの民族は土着して、その国の「国民」となっていくのだが、中には定住するのを拒絶し、旅の生活を続ける民族も出てくる。

ヨーロッパではその最大勢力が「ロマ」である。単純な強盗や万引きなどの事件には、流れ者の民族であるロマも関わってくることが多い。

もちろんロマの人たちが全員「盗人」ではないが、やはり彼らの一部が強盗・万引き・麻薬売買に関わっているのは否定できず、ありとあらゆる場所で嫌悪されている。

この「ロマ」はヨーロッパに約1000万人いるというのだから、尋常ではない。国を持たず、流浪する民族が1000万人と言えば、さすがに目立つ。

このロマが定住する最大の国がルーマニアなのだが、ルーマニアもひどく貧しい国であり、そんな貧しい国に定住しているロマはどん底の貧しさであると言われている。


人種も、文化も、宗教も、気質もまるで違っている

ロマがルーマニアに200万人近くいて、人口の一割を占めているとは言っても、この1割のロマが受け入れられているというわけではない。

受け入れられているというよりも、やはりルーマニアでも嫌われていて、「泥棒」の代名詞となっている。

ロマが嫌われるのは、4つの理由があるというのは、以前にも書いた。

(ヨーロッパで、ロマ(ジプシー)が凄まじく嫌われる4つの理由)
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20101126T0324000900


彼らは、人種も、文化も、宗教も、気質も、何もかもヨーロッパとは違っている。時には言葉すらも通じない。

それでいて忽然と現れて、好きなところに「勝手に住み着く」のだから、地域住民から見たらまさに不法侵入者でしかない。しかも、この民族の子供たちは「万引き」をするために他人にまとわりつく。

「ロマの子供たちは学はないが、泥棒の仕方だけは親に学ぶ」

ヨーロッパの多くの国の観光地で、窃盗・万引き・置き引きが毎度のように発生するのは、ロマの子供たちがいるからであると言われている。

彼らはその街や村にやって来ると、そこの原っぱのようなところで誰の許可もなく勝手にキャンプを張る。

そして、ガラクタにしか見えないものを持ち込み、ゴミも周辺に放り出してゴミ山を作り出す。環境が手に負えなくなったら、ゴミ山を残してさっさと移動していく。これでは地域住民に好かれるわけがない。

そんな民族が1000万人もいる。だから、ヨーロッパではそれこそ1000年も昔からロマは頭痛の種だった。彼らはヨーロッパ中をさまよい歩き、今もその流浪と独自性で嫌悪と拒絶の対象になっている。


ガラクタにしか見えないものを持ち込み、ゴミも周辺に放り出してゴミ山を作り出す。環境が手に負えなくなったら、ゴミ山を残してさっさと移動していく。これでは地域住民に好かれるわけがない。


文化は受け入れられても、民族は排除されてしまった

ロマはロマの文化がある。彼らは以前は「ジプシー」と呼ばれていたが、流浪の民の文化は一部では崇拝を呼ぶほど信奉者も多い。

彼らは陽気で歌や踊りが大好きだ。その中で、最もよく知られているのはジプシー特有のけたたましい音楽だろう。

女性がスカートをなびかせ、足を踏み鳴らし、激しく踊るその様は見ている者を陶酔すら呼び起こすものである。

このジプシーの文化は、やがてヨーロッパ中の音楽にも取り入れられ、その踊りもまたヨーロッパ人に大きな影響を与えた。特に大きな影響を与えたのはスペインだ。

スペインに流れ着いたジプシーたちが、その土着の音楽と自分たちの音楽を融合させて生まれた独特の音楽は「フラメンコ」と呼ばれるようになった。

フラメンコは15世紀にはすでにスペインで定着していたわけで、その歴史は相当古い。まさに歴史的音楽であると言える。

とは言っても、この「ジプシー」がスペインで受け入れられたというわけではなく、やはり忌避されていたのである。

フラメンコという文化はスペインの文化になったが、皮肉にもそれを伝えた「ロマ」は相変わらず嫌われて、スペインのどこに言っても迫害され続けていた。

ジプシーと言えば、「占い」もまたひとつのビジネスだが、この占いもまたキリスト教徒から見れば「悪魔の業(わざ)」のように見えたわけで、キリスト教徒から見て不吉なものでもあった。

リタ・ヘイワースがジプシーの女を演じた映画『カルメン』でも、ジプシー女性がやたらと独自の因習を信じているのが描かれていた。

「黒猫は不吉な存在で、それが目の前を通ると誰かが死ぬ」というようなものだ。


リタ・ヘイワースがジプシーの女を演じた映画『カルメン』でも、ジプシー女性がやたらと独自の因習を信じているのが描かれていた。

Flamenco Dance
https://www.youtube.com/watch?v=xqxJMCQxb_Q


「多文化主義」など絵空事であると誰もが知っている

ロマの流浪と文化は本当に異質であり、泥棒文化が嫌われ、何度も何度も地域住民と衝突して、今もヨーロッパはロマとどのように折り合いを付けたらいいのか分からないまま、困惑し、嫌い、排除しようとしている。

もっとも、そのロマも流浪する生活を頑なに守る人々が減っており、そのほとんどが定住するようになっているという。

ところが、定住しても独自文化を守ろうとして、地域の教育も無視するので、どこの国でもロマの人々は極貧の生活を強いられているようだ。定住はしたものの、地域と同化したわけではないということである。

ロマを支援する人々は、支援も理解も足りないと訴えるのだが、当のロマ自体が支援も理解も拒絶して自分たちの独自文化の中に引きこもることもあり、問題の解決は容易ではない。

また、地域に同化させようと努力するロマや、それを支援する人たちがいる一方で、逆にロマを強制的に排除して国から追い出してしまおうとする動きも巨大だ。

イタリアは、ロマの人たちが公営住宅に入れないように、政府が自らロマ排除に動いていたし、スロバキアでも機動隊を投入してロマのキャンプを叩き潰して追い出した。

ロマが200万人も定住するルーマニアでも、ロマは政府と国民に就職も住居も結婚も一般国民と交わらないように「積極的排除」されている。

ヨーロッパでは「多文化主義」など絵空事であると誰もが知っているのは、誰もがロマの問題を解決できないことを知っているからである。


地域に同化させようと努力するロマや、それを支援する人たちがいる一方で、逆にロマを強制的に排除して国から追い出してしまおうとする動きも巨大だ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150610T0603560900.html

2010-11-26
ヨーロッパで、ロマ(ジプシー)が凄まじく嫌われる4つの理由
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20101126T0324000900

スリランカ・シンハラ系民族の女性に惹かれて付き合っていたことがあるのだが、それが自分の美の概念を根底から変えてしまった。

あっという間にインド・アーリア系の女性の美しさに魅せられ、悩まされ、そして当惑させられ(Bewitched, Bothered and Bewildered)、今でも、世界で一番美しいのはインド女性だと信じて疑わない。

あの瞳、あの笑み、時に甘美で、時に凶暴で、全体的に力強く、視線の強さや、横顔の端正なシルエットは他のどの民族からも受けないインパクトがある。

カルカッタでも、ムンバイでも、そしてスリランカでも、バングラデシュでも、はっとするような女性があちこちに存在する。その美しさに心を揺さぶられる。


ロマが、インド系の民族だというのを知って仰天

だから、アフガニスタンのヘロインがヨーロッパに到達するルートを調べてバルカン半島にまで知識の探究が辿り着いたとき、たまたまロマ(ジプシー)が、インド系の民族だというのを知って仰天した。

子供の頃から、ハイエナはずっとイヌ科の動物だと思っていたのに、実はネコ科のほうだと分かったとき以来の驚きだったかもしれない。

いや、それよりも数倍インパクトが強い。何しろ、ハイエナに恋焦がれたことはないが、インド女性には何度も恋焦がれている。関心の度合いが違う。

ロマ(ジプシー)の存在は私の中では非常に影の薄いものであったが、彼らがインド圏であるというのであれば話は別だ。

アジアは私の最大の関心であり、ましてインド女性は私がもっとも惹かれる民族なのだから、ロマという民族がその血を受け継いでいるのであれば、関心を持たないほうがどうかしている。


ロマ(ジプシー)の少女

今年9月からアジアに流通する麻薬に興味を持って調べていたのだが、トルコからバルカン半島まで入ったところで、関心がロマにそれた。それもまた一興なのかもしれない。

それから急いで数冊の本を買って、時間のあるときに読み耽っているのだが、以前から知っていた何人もの人物が実はロマ(ジプシー)出身だと知ったり、その凄絶な歴史を知ったりして興味深い。

たとえば、ユル・ブリンナーという古い俳優がいたが、彼がロマ(ジプシー)出身だったとは知らなかった。世界ロマ連盟の初代会長がユル・ブリンナーだった。


ユル・ブリンナー

イギリスで「ブレイク・アウェイ」等のヒットを飛ばした女優・歌手のトレイシー・ウルマンという女性もまた母方がロマ出身だったというのも知らなかった。


トレーシー・ウルマン

チャーリー・チャップリンもロマ出身だ。ロマと言えばヨーロッパでは極貧の民族の代表になっているが、チャップリンもまた幼児期を極貧の中で暮らして、その映画もまたコメディにも関わらずそこに流れているのは極貧の描写である。


チャールズ・チャップリン

チャップリンが貧しい人たちと、虐げられている人たちの中に自分の役柄を置いた根源的な由来が、彼の血がロマ(ジプシー)の出だということで分かったような気がした。

ロマ(ジプシー)は今でも虐げられ、ヨーロッパ全土で差別の対象になっている。


ヨーロッパ人が排除したい民族

スイスと言えば、美しいアルプスの山脈と素朴に暮らす人たちの光景が思い浮かぶ。あるいは、時計職人、銀行家というイメージも別にある。

そのどれもが保守的で物静かな感じを受けるのだが、ロマの歴史からスイスを見たとき、スイス人はとても残酷な歴史を隠蔽している民族なのではないかという疑念がふつふつ湧いてくるようなものもある。

たとえば、スイス政府の認定を受け、閣僚も名を連ねる「青少年のために(Pro Juventute)」という組織の十数年にも渡って続けてきた行為などは、私が想像に描いていたスイス人のイメージとは違う。

この団体は、「ロマの子供を両親から引き離し、ロマ民族と文化を殲滅する」というスローガンを抱えて、実際にロマの子供たちを誘拐し、強制収容し、ロマの言葉や文化を一切教えず、暴行や性的虐待を繰り返してきたという。

これが、政府公認だった。誘拐されたのは分かっているだけでも、1,000人を越えており、意味もなく電気ショックを与えていたり、殴りつけていたという。

スイスだけではない。チャウシェスクはロマ民族を毛嫌いしていて、ルーマニア民族優等主義を標榜してロマを迫害・排除に動き、財産や職を取り上げた上で強制隔離してしまった。

ルーマニアではロマ人の隔離された場所をゲットーと呼び捨てていたようだが、ゲットーとはドイツ人がユダヤ人を強制隔離した場所を指す言葉ではなかったか。それと同じ目をロマの人々は味わされていた。

今でもルーマニアではロマ人を差別しており、その差別の内容も一方的で容赦がない。ロマ人に対する、虐待・集団暴行・レイプが今もルーマニアで横行しているという。

では、ゲットーという概念を作り上げたドイツではどうだったのかというと、やはりロマは排除の対象だったようだ。いや、排除ではなく、虐殺の対象だと言うべきだろう。

ナチス・ドイツはドイツ・アーリア人の優等主義を打ち出していて、そこから漏れる民族は片っ端から「強制収容所」に送り込んでいた。ユダヤ人がその最大の被害者だったが、そこにロマ人も含まれていたのである。

アウシュビッツで死んだのはユダヤ人ばかりではなく、ロマ人もまた含まれている。その数は約二万人だと言われており、スイスの「青少年のために(Pro Juventute)」とはケタ違いに被害が大きい。


アウシュビッツのロマの少年少女。アウシュビッツで殺されたのは、ユダヤ人だけではなかった。


迫害される要素をすべて持つロマ(ジプシー)

ヨーロッパのありとあらゆる国で迫害を受けてきたロマだが、どの国の迫害を見ても分かるのは「凄まじく嫌われている」ということだ。

嫌われ、迫害される主な理由が4つほどある。

・流れ者の民族で文化が違う。
・キリスト教徒ではない。
・コーカソイド(白人系)ではない。
・個人主義で、決して地域に同化しない。

要するに彼らは異質であり、異教徒であり、異端だった。地域に同化しない人間というのは得てして目立つ。そして、その非協調性によって排斥される。

宗教が違うというのも、また広い意味で、非協調性だと思われるものがあるだろう。つまり、同化しない人間は地域社会から許しがたい存在である。

おまけに肌の色が違ったら、ますます異端者扱いされる。「他所者だ」と思われて、頭から拒絶されるのである。

ヨーロッパでロマという民族は何か得体の知れないものであり、理解できないものであり、地域の秩序を乱すものだと捉えられた。

まして、彼らは一箇所に定住せず、適当な場所に勝手に泊まり、身なりは汚いことが多く、子供たちは平気で物をたかったり盗んだりする。言葉は通じないことも多いし、動物を引き連れていて不気味な集団なのである。

ロマ(ジプシー)という民族を調べながら、私が思ったのは、ここに迫害の要素がすべて詰まっていることだった。

「文化が違う、宗教が違う、人種(国)が違う、個人主義」というのは、迫害される要素の最大のものだ。

ロマは不幸なことに、そのすべてを兼ね備えてヨーロッパを徘徊している。だから、彼らは今もヨーロッパと共存できていない。

(1000年も「ロマ」と共生できないのに多文化主義など絵空事)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150610T0603560900.html


ふと、そのような要素を持つ人間が個人にいることも気がつくが、そういう人は大抵、嫌われ者だ。「他人と違う」というのは、往々にして、そういう悪感情を他人に呼び起こす。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20101126T0324000900


2015-06-12
激しい差別と迫害の中でユダヤ人がサバイバルできた理由
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150613T0010550900.html

ヨーロッパを流浪する民族「ロマ」は、地域社会に同化せず、独自の文化を頑なに守り続けて今もヨーロッパ社会の底辺をさすらいながら問題を起こしている。

(1000年も「ロマ」と共生できないのに多文化主義など絵空事)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150610T0603560900.html


ところで、ヨーロッパには、このロマと同じく毒蛇のごとく嫌われた流浪の民族もいる。ユダヤ民族である。

ロマが流浪していたのは自らの意思だったが、ユダヤ人が流浪していたのは、国を失ってどこに定住しようとしても排斥されたからだ。

キリスト教社会の中にあって、イエス・キリストを殺した民族として新約聖書に記されたユダヤ人は、キリスト文化が続く限り迫害の対象になる運命だった。

ユダヤ人の流浪は1948年5月14日にイスラエルという国が建国されるまで続いてきた。いや、イスラエルができてもイスラム教徒と激しい闘争を繰り広げ、今もまだ流浪していると言っても過言ではない。


イエス・キリストを挑発し、迫害するユダヤ人の姿

新約聖書の物語は、イエス・キリストが奇跡を行う前半と、ユダヤ人に売られて十字架に張り付けにされる後半に分かれている。イエス・キリストが戦っていたのはユダヤ人だった。

ユダヤ人はイエス・キリストを告訴し、死刑にしろと叫び、実際に十字架に追いやった「主犯」だった。銀貨30枚でイエス・キリストを売り飛ばしたユダという男もまたユダヤ人だった。

「人類の救済者」という位置付けのイエス・キリストを迫害して死に追いやったのはユダヤ人だと、聖書は繰り返し述べているのである。

新約聖書は、イエス・キリストを挑発し、迫害するユダヤ人の姿でいっぱいだ。

そのキリスト教がローマ帝国の国教となり、そこからユダヤ人の受難が始まった。ユダヤ人は「イエス・キリストを殺した民族」として、どこに言っても迫害され続けたのである。

ユダヤ人は流浪するしかない民族となった。そして、どこを流浪しても迫害される民族となった。まさに「イエス・キリストの呪い」を受けた民族だったから、キリスト教徒にとってユダヤ人は許すことのできない敵だったのである。

この迫害は1000年以上も続いてきた。19世紀の東ヨーロッパで「ポグロム」という激しいユダヤ人虐殺が行われたが、このポグロムというのは「破壊」という意味のロシア語である。

「ユダヤ人は殺してもいい」「ユダヤ人からは奪ってもいい」というのがポグロムだった。このユダヤ人排斥は組織的に、そして継続的に行われ、土地を追われたユダヤ人は、新天地を求めてさまよい続けた。

迫害の中で、悠々と屋根の上に登ってバイオリンを弾く英雄は現れなかった。こうしたポグロムの中で、6万人のユダヤ人が殺されたウクライナのリヴィヴ・ポグロムは写真でも記録されている。


ユダヤ人の老人を後ろから蹴り飛ばすウクライナ人。「ユダヤ人は殺してもいい」「ユダヤ人からは奪ってもいい」というのがポグロムだった。


資産家として成り上がって行くユダヤ人も多かった

ロマと共に迫害されていたユダヤ民族だが、ではユダヤ人が各地で極貧の身であったのかと言えば、実はそうではない。

もちろん、ユダヤ人ゲットーという隔離地に押し込まれて、まともな仕事を与えられない貧困のユダヤ人も多かった。しかし、それでもその地で資産家として成り上がって行くユダヤ人もまた多かったのである。

ユダヤ人がどこかに定住して自由にビジネスできるようになると、彼らは常にその地の民族を圧倒して富裕層になっていく。そして気が付けば、ユダヤ人が彼らを雇って主従関係が逆転するようなことにもなっていった。

ドイツでも18世紀にはユダヤ人のゲットー(隔離地)からロスチャイルドという一族が銀行業によって資産家に成り上がっていく動きがあった。

ウクライナでもユダヤ人はその地域の富裕層として君臨し、ウクライナ人の上に立っていたのである。

このあたりは、流浪しながら窃盗やバイシュンや胡散臭い占いビジネスで底辺を這い回っていたロマ民族とは、まるっきり立場も運命も違っていた。

ロマとユダヤのこの差はどこから生まれていたのか。

それは、まぎれもなく「教育」に対する姿勢であったと言われている。

ユダヤ人は「本の民族」であると言われている。迫害されても、貧困に落ちても、流浪の中の絶望にあっても、彼らは教育と書に対する熱意をまったく失わなかった。

モーセ五書を記した「トーラー」と呼ばれる書を子供の頃から教え、子供たちは旧約聖書を何度も何度も反復してそれを暗唱できるまで鍛え上げられた。

そして、激しい迫害の中で、どのように生きればいいのかを「タルムード」を通して教育されてきた。


ユダヤ人排斥の中で、人前で服を剥ぎ取られたユダヤ人の女性。どこに定住しても、ユダヤ人に対する迫害は止まることはなかった。


「迫害される環境から、いかに生き残るか」の書

ユダヤ人は、国もなければ安住の地もない。常に迫害され、差別され、時には略奪の対象とされて、築いてきたものは一瞬にして破壊された。

彼らは生き延びるために、土地にも財産にも共同体にも頼れなかった。頼れるのはただひとつ、サバイバルするための「頭脳」だけだったのである。

だから、教育は彼らの最大の武器であり、旧約聖書も、トーラーも、タルムードも、「迫害される環境から、いかに生き残るか」について微に細を入れて書かれていた。

ユダヤ人にとって本を読むというのは娯楽ではない。教育とはサバイバルだったのだ。本を読んで学ぶことが、ユダヤ人にとっては殺されるか生き残るかの苛烈な社会の中のサバイバルの指針だったのである。

だから、同じ流浪の民族であっても、ロマ民族と、ユダヤ民族は、その運命はまるで違っていた。

ユダヤ人は、外からふらりとやってきて底辺を這い回るのではなく、その頭脳によっていつしか富裕層に成り上がって現地の民族を支配する立場になっていく。

それが激しい恐怖を生み出し、宗教的な憎しみも加わって、激しい虐殺を生み出す元になっていったのだ。

東ヨーロッパで吹き荒れた「ポグロム」は、1930年代以降は自分たちの上に君臨する豊かなユダヤ人から奪うという歴史的な背景もあった。

異質な民族が自分たちの上に君臨して自分たちを支配することの恐怖も、ユダヤ人に対する過剰な虐殺の原因のひとつであったとしても不思議ではない。

ユダヤ人の武器である「教育」とは、それほどまで凄まじいものであったとも言える。


集団で暴行され、服を脱がされるユダヤ人女性。こうした「ポグロム」の後、ユダヤ人はナチスによる「ホロコースト」で民族虐殺に追いやられていった。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150613T0010550900.html



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チャーリー・チャップリンはジプシー系英国人であった。

喜劇王チャップリンは、その類い希なる才能ゆえに、「もしかしたらユダヤ人じゃないのか?」と囁かれていた。チャップリン本人は「ユダヤ人」という噂を否定していたので、筆者も「たぶん違うんじゃないか」と思っていた。そうしたところ、2010年頃になって、ようやくチャップリンの親戚が認(したた)めた手紙が表に出て来て、彼の母親がジプシー藝人であることが判ったのである。

("The secret letter that claimed Charlie Chaplin was the son of a gypsy queen", Daily Mail, 21 February 2011) チャーリーの母ハンナ・チャップリン(旧姓 / Hannah Hill)は旅藝人の役者で、「リリー・ハーレー(Lily Harley)」という藝名で通っていた。

ところが、息子が3歳の時に夫のチャールズと別れてしまったという。チャーリーは大人になっても母親をいたく慕っており、その優しさを忘れられなかったのか、愛する女性にも亡き母の面影を求めていたらしい。

ただし、母親の素性に関しては固く口を閉ざしていたから、ジプシーの血筋だけは絶対に明かしたくなかったのだろう。「サー(Sir)」の称号をもらった名優が、ジプシーの倅(せがれ)だなんて、恥ずかしくて人に言えないじゃないか。(これは筆者の勝手な推測だが、チャップリンが左翼思想のを持っていたのは、人間を家系や種族で差別する西歐人が赦せなかったからだろう。)


Charlie Chaplin 4Hannah Chaplin 1Charles Chaplin Sr 1
(左: チャーリー・チャップリン / 中央: 母親のハンナ・チャップリン / 右: 父親のチャールズ・チャップリン)

  ちなみに、チャップリンの母親は三人の子宝に恵まれたけど、その人生は悲惨なものだった。二番目の夫チャールズに出逢う前、彼女はシドニー・ホーク(Sydney Hawke)という男に惚れてしまい、一攫千金を夢見る夫に従って南アフリカにまで移住したのだが、その地で亭主からバイシュンを強要されてしまったのだ。恐らく、この商売が原因で、彼女は梅毒に罹ったのだろう。ハンナはこの“碌でなし”との間にシドニーという長男を出産し、二番目の夫であるチャールズとの間に次男のチャーリーをもうけている。

ところが、間もなくチャールズとも離婚。この再婚相手と別れた後、ハンナはレオ・ドライデン(Leo Dryden)という役者と恋に落ち、彼との間に三男のウィーラー・ドライデンを産んだという。しかし、梅毒のせいで精神に異常をきたし、衰弱したハンナはやがて息を引き取る。

後に、恋多きコメディアン、我らがチャーリー・チャップリンが女性と寝るとき、矢鱈と神経質で性病に感染するのを極度に恐れたのは、母親の病気が深く心に刻み込まれていたからだろう。それにしても、有名な喜劇王がベッドに入る前、股間に沃素(ようそ)を塗るなんて、ちょっと哀しくて笑う気になれない。

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2018年03月23日
ララ・クロフトの素性はどこにあるのか? / スウェーデンにおけるジプシー
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68707220.html


二番煎じのシリーズ映画
Alicia Vikander 10Alicia Vikander 3
(写真 / 「ララ・クロフト」を演じたアリシア・ヴィキャンデル)

  ハリウッドは新しいネタ不足なのか、やたらとヒット作のシリーズ化やスピン・オフの制作、リメイク版での再稼働で儲けることばかり考えている。ディズニー社は映画『スター・ウォーズ』を3セットの三部作で終わらせず、アニメ化やスピン・オフ作品を展開させ、向こう百年先まで稼ぐつもりだ。マーヴェル・コミックを原作としたヒーロー映画も同じで、キャプテン・アメリカやスーパーマン、アイアンマン、ワンダーウーマン、超人ハルク、マイティー・ソーなどはバラ売りされたり、セット商品として利用され、配給会社のドル箱になっている。

Angelina Jolie 22(左 / アンジェリーナ・ジョリー )
  今年公開された『トゥーム・レイダー / ファーストミッション(Tomb Raider)』も、アンジェリーナ・ジョリー主演でヒットした『ララ・クロフト / トゥーム・レイダー(Lara Croft : Tomb Raider)』の改新版(reboot)である。2001年の第一作と2003年の続編はパラマウントが配給会社となっていたが、同じタイトルでも2018年度版はワーナーブラザーズへと変わっていた。そして主人公の「ララ・クロフト」役もアンジェリーナ・ジョリーから、スウェーデン出身女優のアリシア・ヴィキャンデル(Alicia Vikander)に交替している。同じシリーズでも役者が変わると、批評家と観客の賛否が分かれ、「以前の女優の方が良かった」とか、「今度の役者も中々いい」、「主役が代わっても同じだ」など、意見が様々だ。

Tobey Maguire 6Andrew Garfield 2Tom Holland 1

(左: トビー・マグワイアー / 中央: アンドリュー・ガーフィールド / 右: トム・ホランド )

  シリーズ物で観客の意見が割れるのは珍しくない。例えば、映画『スパイダーマン』では主役のピーター・パーカー役がトビー・マグワイアー(Tobey Maguire)からアンドリュー・ガーフィールド(Andrew Garfield)、トム・ホランド(Tom Holland)に替わっていたし、映画『バットマン』になると、一作ごとに主役が替わっていたのだ。最初は、マイケル・キートン(Michael Keaton)で、次がヴァル・キルマー(Val Kilmer)、三番目がジョージ・クルーニー(George Clooney)で、その後にクリスチャン・ベール(Christian Bale)が起用されて、やっと落ち着いたという感じである。007シリーズは今のところダニエル・クレイグ(Daniel Craig)で続行しそうだ。

Michael Keaton 2Val Kilmer 1George Clooney 1Christian Bale 11

( 左: マイケル・キートン / ウァル・キルマー / ジョージ・クルーニー / 右: クリスチャン・ベール )

  役者を変えて失敗した例も幾つかある。有名なのは『ターミネーター』シリーズだ。アーノルド・シュワルツネッガーがカルフォルニア州知事になってしまったので仕方がないが、第4作目でサム・ワーシントン(Sam Worthington)が「ターミネーター」役になったが、これといったインパクトが無く凡庸な作品となってしまった。そして、第5作目でシュワルツネッガー復帰となった訳だが、残念ながら脚本が殊のほか酷く、見るに堪えない代物だ。筆者も期待を膨らませて劇場に足を運んだが、肩すかしを食らったような気分だった。だいいち、初老のターミネーターなんて冗談みたいな設定である。蛇足だが、「ジョン・コナー」役の交替も酷かった。名作の「T-2」ではエドワード・ファーロング(Edward Furlong)が好評だったのに、続編の「T-3」ではニック・ストール(Nick Stahl)が演じることとなり、ファンは「えぇ~ぇ、何これ?」と唖然としたものだった。ニックには悪いが、美少年が数年後に劣化したという感じが否めなかった。誰か別の二代目が見つからなかったのか、と疑問に思う。

Arnold Schwarznegger 1Sam Worthington 1Edward Furlong 4Nick Stahl 3

(左: アーノルド・シュワルツネッガー / サム・ワーシントン / エドワード・ファーロング / 右: ニック・ストール )

  その他にも主役を変えて駄目になった作品は多い。例えば、人気TVドラマの『24』である。このシリーズはキーファー・サザーランド(Kiefer Sutherland)が「ジャック・バウアー」を務めるから成り立つ作品なのに、スピン・オフのような『24 Legacy』では、事もあろうに黒人俳優のコリー・ホーキンズ(Corey Hawkins)を主役に抜擢してしまったのだ。制作陣は「ジャック・バウアー」の代理を黒人俳優にしてヒットするとでも思ったのだろうか? 筆者は最初から興味が無かったので観なかったが、案の定、日本でも米国でも人気沸騰とならず、シーズン1で打ち切りだ。まぁ、当然だろう。いくら凄い経歴のキャラクターに設定しようが、アフリカ系の「ジャック・バウアー」なんて、ブロンクスかデトロイトのチンピラ黒人を見ているようで不愉快だ。

Kiefer Sutherland 4Corey Hawkins 1


(左: キーファー・サザーランド / 右: コリー・ホーキンズ)

  脱線したので話を戻す。再始動となった『トゥーム・レイダー』の評価は微妙だ。「スリリングなアクション映画に仕上がっていて良かった」と褒める批評家もたいが、「まるで『インディアナ・ジョーンズ』シリーズの『失われたアーク』みたいだ」と酷評する観客もいたそうだ。筆者も予告編の宣伝映像を観たとき、「あれっ、何かハリソン・フォードのインディアナ・ジョーンズをパクった映画みたいじゃないか ?」と思ったものである。映画のストーリーは、主人公のララ・クロフトが亡き父の残したプロジェクトを引き継ぐという内容だ。彼女の父リチャード・クロフトは日本近海に浮かぶ「ヤマタイ島」を探っていた。(映画の中でララが広げた地図によると、「ヤマタイ島」は四国の近くにある。だが、日本人の我々には馴染みがない、というより聞いたことがない。) このミステリアスな島には、「ヒミコ」の墓があり、その石棺の中には世界を変える不思議な魔力が秘められているという。リチャードはこの謎を追っている途中で亡くなってしまったのだ。

  リチャードの娘ララは「クロフト・ホールディングズ」ビルを訪れ、父のビジネス・パートナーであるアナ・ミラーに会う。ララは父が遺した「カラクリ(karakuri)」という仕掛け箱を渡され、ルービック・キューブのように捻っていると、偶然その箱から写真と鍵を手にすることが出来たのである。彼女は「エンデュアランス」号の船長ルー・レン(Daniel Wu)を連れ、「ヤマタイ島」を目指す。(ここでも“やはり”人種的配慮を示し、アジア系男優をセッティングして、マイノリティー観客にアピールだ。本当に、イヤらしい胡麻スリである。) 彼女を待ち構えていたのは「トリニティー」という組織と、悪党のマティアス・ヴォーゲル(Walton Goggins)であった。驚いたことに、父のリチャードは生きていた。ヴォーゲルは捕まえたララにヒミコの墓暴きを命じる。しかし、日本の女王が眠る棺の中には、財宝といった素晴らしいものではなく、人間を一瞬にして殺してしまう恐ろしいウィルスだった。このウィルスを拡散させぬために、リチャードは自らの命と共に爆薬で破壊してしまうのだ。

Daniel Wu 2Harrison Ford 3

(左: ダニエル・ウー / 右: ハリソン・フォード)

  ララが墓の洞窟に侵入して色々な罠や仕掛けをかいくぐるシーンは、ハリソン・フォードが演じたインディアナ・ジョーンズとソックリだ。コンピューター・グラフィックスを駆使して豪華にしているが、肝心の脚本が凡庸なので、あまり感心するようなオリジナルティーは無い。「お決まり」のスリルと派手なアクションで画面を飾っているだけ。これならアメリカ人の観客が「なぁ~んだ、この程度か !」と呆れてしまうのも無理はない。(もっとも、アメリカ人の観客はこういった単純明快なアクション映画が好きなので、もしかしたら続編も有り得る。) 映画の質はさておき、ヴィキャンデルの評価は高く、まあまあの好感度を得ている。アンジェリーナ・ジョリーほどのセクシーさを持っていないが、クラシカル・バレーをやっていただけのことはあって、均整の取れた肉体を持っていて素晴らしい。以外と「ララ・クロフト」役に合っているのかも知れない。

Alicia Vikander 14Alicia Vikander 12


(写真 / 地肌のアリシア・ヴィキャンデル)

  でも、一つだけ気になることがある。アリシア・ヴィキャンデルはスウェーデン出身なのに、どうも北歐人に見えない。どちらかというと南米に住むヨーロッパ系女優みたいだ。筆者は最初に彼女を目にしたとき、「あれっ、ペルーかブラジル出身のヨーロッパ系モデルかな?」と思ったほどである。彼女自身が認めている通り、その皮膚はユリのように白い肌というより、ちょっと日焼けした感じの小麦色であった。映画やドラマに出演しているときは、白粉を塗って色白にしているという。彼女の両親は共にスウェーデン人である。母親のマリアは女優で、父親のスヴァンテは精神科医であるそうだ。マリアの家系にはバルト系フィン人やドイツ人がいても基本的にはスウェーデン人であったし、スヴァンテの家系も代々スウェーデン人であるという。アリシアは対談番組の中で、どうして自分の肌が小麦色なのか不思議であると語っていた。彼女は「スウェーデン人がみんな色白なんて単なる先入観だわ」と述べていたが、たぶんそれは事実だろう。

異民族の血が混じっていたスウェーデン人

  人間の遺伝子というのは複雑怪奇で、生まれてきた子供は基本的に両親の面影を宿すが、祖父母の肉体を再現する場合もある。いわゆる「隔世遺伝」というのがあるから、両親とはちょっと違った容姿を持つ赤ん坊が生まれてしまうケースが稀にあるらしい。とりわけ、米国オハイオ州で生まれた双子のケースは刮目に値する。男の子のガブリエル(Ghabriael)は青い目と金髪を持って生まれたのに、女の子のトリニティー(Trinity)はくすんだ色の肌に、黒い瞳と黒い縮れ毛を持っていた。彼らの両親は異人種カップルで、父のチャールズ・カニンガム(Charles Cunningham)は黒人。一方、母のクリスティー(Khristi Cunningham)は白人女性だ。ただし、息子のガブリエルは白人でも顔附きはアフリカ人に近く、その金髪は縮れている。ABCテレビがこの家族を取材し、報道番組で支那系局員のジュージュー・チャンが紹介していた。この番組はいかにも極左放送局が作ったという内容で、人種平等のイデオロギーに凝り固まっている。

Cunningham, Ghabriael 1Cunningham, Trinity 1Cunningham twins

(左: ガブリエル・カニンガム / 中央: トリニティー・カニンガム / 右: 二人で一緒に撮影された写真 )

  もっと驚くのは、1955年に南アフリカで生まれたサンドラ・ラング(Sandra Laing)のケースである。彼女の父アブラハム・ラング(Abraham Laing)と母サニー(Sannie Laing)は共に白人で、彼女の弟はややくすんだ肌ではあるが「白人」と見なされたので差別されずに済んだ。興味深いことに、サンドラの祖父母や曾祖父母も白人であったのだ。ところが、彼女だけ黒人の肉体に生まれてしまったのである。サンドラの先祖に黒人はいないとの話だったが、もしかしたらムラート(mulatto / 白人と黒人との混血児)がいたのかも知れない。アフリカ系混血児と結婚する白人は、セックスで自分の容貌が変形・変色する訳じゃないから以外と無頓着だが、妊婦から生まれてくる赤ん坊には黒人の遺伝子が優性となる可能性が高いのだ。たとえ息子や娘に浅黒い子供が生まれなくても、孫や曾孫の代に黒い子供が誕生する虞(おそれ)がある。それにしても、数世代を経て黒人の遺伝子が子孫に現れてくるんだから、肉体を形成する塩基配列とは不思議なものだ。

Sandra Laing & her motherSandra Laing & brother & motherAbraham Laing 1


(左: サンドラ・ラングと母親のサニー / 中央: 母と弟と一緒に写っている幼い時のサンドラ / 右: 父親のアブラハム・ラング)

  アリシア・ヴィキャンデルは自分の血統について詳しくは知らない、と語っていたが、もしかしたら祖先の誰かに有色人種、もしくは非北歐系の混血児がいたのかも知れない。筆者は彼女のケースについて何も言えないが、スウェーデン国民の中にはジプシーの血が混ざっている人がいるので、数世代を経てアジア人的容貌を持つ人が現れたりする。つまり白人なんだけど、骨格とか人相、皮膚の点で北歐人らしからぬ人が居るということだ。日本人でもちょっとアフリカ人的な容貌を持つ人がいて、髪が太くて縮れていたりする。また、ある人はタイ人とかベトナム人みたいな顔附きなりで、友達からアジア系混血児と誤解されて憤慨したりすることもあるらしい。最近は、フィリピン人とかタイ人の母親を持つ幼稚園児が増えたので、従来の日本人とは違った子供が珍しくない。

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(写真 / ヨーロッパにやって来るジプシーたち )

  北歐人らしからぬ国民がなぜいるのか、という謎を解く鍵がスカンジナヴィアの歴史にある。実は、1512年頃にジプシーがスカンジナヴィア半島にやって来たのだ。スウェーデンの年代記『En Swensk Cröneka』によれば、大天使の聖ミカエルを祝う9月29日にエジプトの方から旅行者の一団が上陸し、彼らはアントニウス伯爵に伴う取り巻き連中であった。古文書の中では、「放浪者(zigeunae)」とか「タタール(tattare)」と呼ばれているが、要するにジプシーのことだ。人権屋が「ロマ」と呼ぶ浮浪者どもは、オリエントからやって来た野蛮人のように見えたから、誤って「タタール」と呼ばれてしまったのだろう。ジプシーの民族的起源は定かではないが、ある学説によるとインドから各地に散らばった流浪民らしい。現在、ジプシーはフランスとかブリテンにも住んでいるけど、元々はバルカン半島やアナトリア地方をうろついていた人々である。随行者としてスウェーデンにやって来たジプシーだが、現地人からは歓迎されなかったようで、1637年7月28日の勅令で、「タタール」の追放が決まったそうだ。そして、1914年から1954年の間、ジプシーのスウェーデン入国は禁止されていたのである。

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(左: 北歐系の女性 / 中央: ゲルマン人の子供 / 右: スカンジナヴィア系の男性 )

  ナチス・ドイツによる対ジプシー政策は悪名高いが、スウェーデンにも人種や民族に関する暗い過去がある。日本ではほとんど知られていないのだが、スウェーデン政府はジプシー達の個人情報を“こっそり”集め、違法なデータベースを作っていたのだ。この機密ファイルは2013年、スウェーデンの報道機関にリークされ、一般国民に知られるようになった。人種を基本にした最大のジプシー登録ファイルには、4029名の個人情報が記載され、そのうちの842名が10代の少年達で、52名が赤ん坊であったという。(Mattias Gardnell, "Sweden's dirty little secret", Open Democracy, 9 October 2013) 発覚当初、スウェーデンの警察当局はファイルの存在を否定したが、このデータベースの作成は通常行われる情報収集の一環であると、仄めかしたそうだ。まぁ、手癖の悪いジプシーによる犯罪は結構多いから、警察としては防犯対策と犯罪捜査を兼ねた極秘資料であったのだろう。

  ジプシーの入国が禁止されていた1920年代に、政府当局は残存していたジプシー達をどう扱うべきか頭を悩ませていたらしく、治安担当者はジプシーとスウェーデン人を統合することは無理と考え、彼らを「解決不可能な問題」と見なしていたそうだ。それゆえ、この問題を解決できるのはただ一つ、彼らをスウェーデンから追い出すことであった。政府当局者はジプシーの国内移住に制限を設け、勝手気ままに放浪できぬようにすることで、彼らがスウェーデンを“自主的”に去るよう仕向けたのである。ジプシーは自由を奪われることが嫌いで、好きな時に好きな事をする性分だから、スウェーデンが「居心地の悪い土地」になれば、自然と居なくなるという訳だ。

  それでも、国を去らずに居坐る者がいたので、スウェーデン政府は個別にジプシーを尋問し、一人一人に「Zナンバー」を割り振り、彼らの性格を詳しくファイルに書き留めたのである。例えば、Aというジプシーは「狡賢い」とか、「怠惰である」、「暴力的だ」などと記載したそうだ。ところが、このプロファイリングは単なる人別帳に留まらなかったから問題になった。というのも、当時は「優生学」が全盛期の時代だ。歐米諸国では何処でも健全な社会を目指していたから、少しでも社会の負担となる犯罪者や精神異常者、福祉依存者、厄介者を減らそうとしていた。その一環として「断種」という手段もあったのだ。学会では悪質な性格は遺伝すると考えられていたので、その「悪循環」を断ち切るためにも、あるタイプの女性たちに不妊手術を施していたのである。

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(左: スウェーデン人の女性たち / 右: ジプシーの親子)

  スウェーデン政府はジプシーを劣等民族と見なしていたので、彼らの悪質な特性が広まらぬよう、つまり彼らがスウェーデン社会で繁殖しないよう、ジプシー女性を掻き集め、「断種」に同意するよう強制したのだ。もし、彼女達が拒否すれば、その子供を取り上げて引き離すぞ、と脅したらしい。「Zファイル」に登録された賤民は、「国民」に属さなかったから、当然、スウェーデン国民の権利も無かった。1960年代半ばまで、ジプシーたちは完全な公民権を持たず、投票権も無かったらしい。参政権というのは正式な国家の成員に対して付与される特権だから、浮浪者のジプシーに渡すなど狂気の沙汰だ。現在では各方面から糾弾されているが、スウェーデン政府の方針は間違っていないと思う。

  しかし、人権団体や左翼活動家にとっては許しがたい暴挙だ。とりわけ、この「Z登録書」が非難されるのは、ナチスによるユダヤ人認定と似ていたからだろう。少なくとも1996年まで、「Zファイル」に登録されたジプシーは、血統的に「完全」「半分」「4分の1」と分類されていたそうだ。さらに、この登録書にはジプシーの評価も記されていたそうで、「単純な性格だが、まあまあ良い」とか「陽気だが、大した知能は無い」、「暗愚である」「知恵遅れ」といった観察結果が附け加えられていたという。でも、こうした人物評定は如何にも北歐のヨーロッパ人らしく、厳格なゲルマン人の精神科医とか文化人類学者、ないしは動物学者の鑑定を偲ばせる。歴史に無知なアメリカ人だと、正義漢ぶって高飛車に非難するが、第二次大戦前はアメリカ人も似たようなもので、優生学がアカデミック界で流行っており、断種強制も珍しくなかった。優生学や人類学に関する米国史を述べると長くなるので割愛するが、アメリカ人はドイツ人を糾弾できるほど清廉ではなかった。人種差別に関しては似たり寄ったりである。

ジプシーの母を持っていた喜劇王

  同種族が多数派の日本だと、「ジプシー」と聞いても、いまいちピンとこない。せいぜい、音楽や映画で耳にする程度なんじゃないか。例えば、日本の人気ロック・バンド「アンセム」が奏でる名曲「Gypsy Ways」とか、英国の「ディープ・パープル(Deep Purple)」でお馴染みの曲「The Gypsy」とかである。筆者はジプシーに関して二つ挙げたい。一つは子供の頃に観たアラン・ドロンの映画『ル・ジタン(Le Gitan)』である。日本ではあまり話題とならなかったが、ドロンがジプシーの血を引く犯罪者を演じており、世間から蔑まれる「よそ者」が妙に似合っていたのを覚えている。たぶん、ドロンにも人に隠しておきたい過去があったから、警察に追われる犯罪者で流浪民の「ジタン」を上手く演じることが出来たのだろう。単なる子供に過ぎなかった筆者だが、アラン・ドロンの哀愁を帯びた表情が印象的で、今でも記憶に残っている。

Alain Delon 523Alain Delon Le Gitan 1

(右: 私生活でのアラン・ドロン / 右: 「ル・ジタン」に出演したアラン・ドロン)

  もう一つは、チャーリー・チャップリンがジプシー系英国人であったことだ。喜劇王チャップリンは、その類い希なる才能ゆえに、「もしかしたらユダヤ人じゃないのか?」と囁かれていた。チャップリン本人は「ユダヤ人」という噂を否定していたので、筆者も「たぶん違うんじゃないか」と思っていた。そうしたところ、2010年頃になって、ようやくチャップリンの親戚が認(したた)めた手紙が表に出て来て、彼の母親がジプシー藝人であることが判ったのである。("The secret letter that claimed Charlie Chaplin was the son of a gypsy queen", Daily Mail, 21 February 2011) チャーリーの母ハンナ・チャップリン(旧姓 / Hannah Hill)は旅藝人の役者で、「リリー・ハーレー(Lily Harley)」という藝名で通っていた。ところが、息子が3歳の時に夫のチャールズと別れてしまったという。チャーリーは大人になっても母親をいたく慕っており、その優しさを忘れられなかったのか、愛する女性にも亡き母の面影を求めていたらしい。ただし、母親の素性に関しては固く口を閉ざしていたから、ジプシーの血筋だけは絶対に明かしたくなかったのだろう。「サー(Sir)」の称号をもらった名優が、ジプシーの倅(せがれ)だなんて、恥ずかしくて人に言えないじゃないか。(これは筆者の勝手な推測だが、チャップリンが左翼思想のを持っていたのは、人間を家系や種族で差別する西歐人が赦せなかったからだろう。)

Charlie Chaplin 4Hannah Chaplin 1Charles Chaplin Sr 1

(左: チャーリー・チャップリン / 中央: 母親のハンナ・チャップリン / 右: 父親のチャールズ・チャップリン)

  ちなみに、チャップリンの母親は三人の子宝に恵まれたけど、その人生は悲惨なものだった。二番目の夫チャールズに出逢う前、彼女はシドニー・ホーク(Sydney Hawke)という男に惚れてしまい、一攫千金を夢見る夫に従って南アフリカにまで移住したのだが、その地で亭主からバイシュンを強要されてしまったのだ。恐らく、この商売が原因で、彼女は梅毒に罹ったのだろう。ハンナはこの“碌でなし”との間にシドニーという長男を出産し、二番目の夫であるチャールズとの間に次男のチャーリーをもうけている。ところが、間もなくチャールズとも離婚。この再婚相手と別れた後、ハンナはレオ・ドライデン(Leo Dryden)という役者と恋に落ち、彼との間に三男のウィーラー・ドライデンを産んだという。しかし、梅毒のせいで精神に異常をきたし、衰弱したハンナはやがて息を引き取る。後に、恋多きコメディアン、我らがチャーリー・チャップリンが女性と寝るとき、矢鱈と神経質で性病に感染するのを極度に恐れたのは、母親の病気が深く心に刻み込まれていたからだろう。それにしても、有名な喜劇王がベッドに入る前、股間に沃素(ようそ)を塗るなんて、ちょっと哀しくて笑う気になれない。

  人間の種類を区別する際に、どれが良くてどれが悪いと決める基準は無い。アフリカの部落では黒人が普通で、たまにアルビノ(突然変異で肌が白い子供)が生まれたりするけど、大半はアフリカ人の容姿を素晴らしいと思っている。この大陸を侵略するヨーロッパ人なんか白い悪魔に過ぎない。一方、ゲルマン種族が住む北歐では白い肌の人間が普通で、アフリカ人と違った容姿の者が美しいと評されている。北歐人は黒い縮れ毛よりも、ゆるやかに波打つ栗色の毛や直毛の金髪を尊ぶ。鼻の形もユダヤ人のような鉤鼻とか、アフリカ人のような獅子鼻を嫌い、鼻孔が狭く筋の通った細い鼻を良しとする。日本のテレビや雑誌は理想的なアーリア人を採用するが、白人の中にも様々なタイプがいるから、全員が美男美女という訳ではない。各民族はそれぞれ独特の美意識を持っているので、「ミス・ユニバース」や「ミス・インターナショナル」みたいに世界基準を設けようとするのが、そもそもの間違いの素である。

  スウェーデンの世論は「Zファイル」を糾弾するが、ジプシーに関する議論が白熱することを望まない人々が居ることも確かだ。なぜなら、スウェーデンにはジプシーの血統であることを恥じる人々がいるので、自分の祖先を他人に知られたら一大事。就職や結婚、住宅購入の際にどんなトラブルが起きるか分からない。もし、「Zファイル」の情報が世間の注目を浴びれば、隠していた個人の秘密が“ひょんな事”でバレる恐れもある。人権屋とか大学教授は「民族差別はけしからん !」と大騒ぎするが、一般人は綺麗事で暮らしていないから、やはり穢らわしい血筋を隠そうとするし、理屈はどうあれ内緒にしようとするのは人情だ。日本でも朝鮮人の家系を恥じる在日鮮人や帰化鮮人がいて、1980年代くらいまでは必死に隠そうとする人が多かった。現在では朝鮮人の出自を明らかにする人が増えたけど、できれば闇に葬りたいと願う人もいるはずだ。

kids in thai 2Filipino children 3
(左: タイ人の子供たち / 右: フィリピン人の子供たち)

  最近の日本では多民族共生とか国際化時代と叫んで、大いにアジア人やアフリカ人との結婚を祝福しているが、本当に問題が無いのか日本人はよく考えるべきだ。例えば、黒人と結婚する日本人女性も増えたが、彼女達は子供や孫の感情を考えたことがあるのか? 確かに、アフリカ人留学生とか米軍の黒人兵と恋に落ち、結婚をして妊娠するけど、生まれてくる赤ん坊は母親と違った人種になるし、通常は黒人の遺伝子が優性となる。また、もしも、実家の両親が生まれたての初孫を見れば、「えっ、この子が?!」と驚きの表情となるだろう。自分の娘が産んだ子供とは思えないから、かなりのショックを受けるはずだ。祖父母としては動揺を隠せない。なぜなら、たとえ自分達が納得したとしても、隣人や友人、後輩、同僚といった第三者がどう思うのか不安だからだ。表面上、笑顔で孫を受け容れてくれたとしても、他人が心の奥底でどう受け止めるのか判らない。詮索好きな近所のオバちゃんたちは、ファミレスか病院の待合室に集まり、あれこれ陰口を叩くから、やはり世間の目が気になる。

Mixed race family 1Mixed Race 5
(左: 白人と黒人のカップルとその子供 / 右: 混血児の子供)

  悲劇はまだ続く。こうした混血児が物心をつく年齢になれば、周りの子供と自分が肉体的に違う、と厭でも気付くだろう。その時、日本人の姿をした母親は、どのように子供と向き合うのか? もし、幼稚園や小学校で馬鹿にされた息子が、「ママ、どうしてボクだけみんなと違うの?」とか、お洒落に目覚めた娘が「私、パパみたいな顔じゃイヤだ。ママみたいになりたい !」と泣き出したら、出産した責任のある母親は何と答えるのか? 「そんなの気にするんじゃない !」とか、「差別する友達の方が悪いのよ !」と言い聞かせても無駄である。たとえ幼くても子供は現実を解っている。恋愛時代には気付かなかった重大事項を、育児になって気付く日本人女性は少なくない。日本人は自分がしっかりすれば、困難を克服できると信じる傾向がある。だが、遺伝子だけは自分の努力ではどうにもならない。自分の容姿に劣等感を持つ娘が、その腹癒せに学校でグレ出したら、母親は通常通りに叱る事ができるのか? もし母親から怒られた娘が、「じゃあ、日本人の体にしてちょうだい !」と反撃したら、普通の日本人女性は言葉を失ってしまうだろう。

black kids 1Korean & Black family 1
(左: アフリカ人の少女たち / 右: 黒人と朝鮮人の家族)

  一般の日本人は我が子を可愛がり、その子の将来を考えて一生懸命に働く。しかし、黒人と結婚した場合の悲劇は考えない。浅黒く生まれた息子や娘から責められるのは辛いものである。が、その孫からも責められればもっと辛いだろう。もし、アフリカ人の形質を受け継いだ孫から「お婆ちゃんが黒いお爺ちゃんと結婚したからだ !」と責められたとき、日本人の祖母はどう答えるのか? 「あたしゃ知らないよ !」と逃げる手もあるだろう。だが、大抵の祖母は「済まないねぇ。赦しておくれ」としか言えないんじゃないか。優生学を学校で習わなかった日本人は、結婚するとき「子孫への配慮」など考えない。相手がどんな素性・容姿であれ、惚れたから夫婦(めおと)になる、というのが一般人の行動パターンだ。教科書では「人種平等」とか「人類兄弟」、「多民族共生」と書いてあるから、多数派の国民はそれを鵜呑みにしてしまうが、現実社会は違うぞ。他人事なら仙人ヅラできるけど、自分の事となれば大変だ。

  最近のテレビ局は、異常なほど外国人をバラエティー番組に招いて喋らせたり、日本に暮らすアジア人やアフリカ人を取材し、無防備な視聴者をターゲットにして東南アジア人や北アフリカ人、南米人などに親しみを持つよう刷り込んでいる。つまり、「今や、様々な外国人があなたのご近所に住んでいるんですよ」と言いたい訳だ。伝統的な日本社会をぶっ壊したい左翼制作者は、内部から徐々に、しかも着実に破壊しようと企む。同質的な素晴らしい共同体を崩壊させるには、日本人の質を変えてしまうことが最も合理的である。手間暇掛
3:777 :

2023/10/08 (Sun) 00:15:13

雑記帳
2023年10月07日
水谷驍『ジプシー史再考』
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_7.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B8%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC%E5%8F%B2%E5%86%8D%E8%80%83-%E6%B0%B4%E8%B0%B7-%E9%A9%8D/dp/4806807044

 柘植書房新社より2018年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本でも名称自体はよく知られている「ジプシー」の概説です。著者の執筆動機は、日本社会における「ジプシー」理解が、1970年頃以降の研究の進展を踏まえていない、「インド起源の放浪民族」という古い研究段階に留まっていることです。「ジプシー」の名称は差別的だとして、現代日本社会では代わりに「ロマ」の使用が多くなっているように思います。しかし本書はこの問題について、「ジプシー」という呼称への視線が賤視・蔑視のみだったわけではなく、「ロマ」以外にもシンティやマヌーシュなど自称が多数あり、そうした人々は自らを「ジプシー」と峻別するので、総称としては「ジプシー」が妥当になる、と指摘します。

 ジプシー研究の問題点は、ジプシー社会に文字による伝承という伝統がないことで、ジプシーの歴史を書くのはほぼヨーロッパ主流社会に委ねられてきました。ヨーロッパ主流社会は、15世紀初頭にジプシーらしき遊動民集団がヨーロッパに初めて出現した時以降、ヨーロッパでは珍しいその集団の起源地に高い関心を寄せてきました。ジプシーの正体と原郷をめぐっては、18世紀後半に啓蒙主義ドイツの歴史学者であるハインリッヒ・M・G・グレルマンが「インド起源の放浪民族」説を提唱するまで、さまざまな議論がありました。当初ヨーロッパでは、ジプシーは広くエジプト人と呼ばれ、そこからエジプシャン→ジプシャン→ジプシーと呼ばれるようになりました。それは、15世紀初頭にヨーロッパ中央部各地で記録され、主流社会により最初の「ジプシー」とされた集団が、「小エジプト(または低地エジプト)から来た巡礼」と称した、と伝えられたからです。フランスでは、ボヘミア方面から来たとされ、ボエミアンと呼ばれることが多く、現在でもフランスにおけるジプシーの一般的な呼称の一つです。またジプシーは、当時東方もしくは南方から侵入してくる「野蛮人」の総称的代名詞だったタタール(モンゴル人)やサラセン(ムスリム)と呼ばれることもあり、東方起源ということでグレカ(ギリシア人)とも呼ばれました。ともかく、ジプシーは当初ヨーロッパにおいて、ヨーロッパ東方の辺境もしくは異境から来た異邦人の集団と考えられました。当時のヨーロッパの知識人は、ジプシーの起源について、シリアの古代神官の子孫とか古代ペルシアとかアナトリア半島とか、さまざまな見解を提唱しました。

 16世紀には、ジプシーが「外国」起源ではなく、ヨーロッパ起源との学説も提示されました。たとえば、ジプシーとは信仰を持たずに毎日「犬のように」生きる「諸民族の人間の屑」で、「一緒になりたいと望む男女を仲間として受け入れる」無節操な混成集団であり、多様な出身地域の浮浪者や泥棒や乞食などが加わっていた、というものです。17世紀にはジプシーの起源をユダヤ人とする説が提唱され、14世紀半ばに迫害を逃れて森に隠れ住んだユダヤ人が、フス派が迫害されるようになった15世紀に、もはや厳しく追及されることはなくなったと判断して町に戻ってきたものの、ユダヤ人と見破られないようにし、一方でキリスト教徒とも称せずに、エジプト人と自称した、というわけです。こうした確たる学説とまではいかずとも、ジプシーの「インド起源」を示唆する「証拠」は15世紀からありました。

 ジプシーの起源について一定水準以上の科学的探究が始まったのは18世紀半ば以降で、その最初の試みがグレルマンの著書(1783年)でした。グレルマンは、ヨーロッパ各地に住み、さまざまな名称で呼ばれるジプシーは同じ民族で、その共通する身体的特徴として、暗褐色の肌や長い黒髪や黒い瞳や均整のとれた四肢を挙げました。ジプシーの大半は集団で移動する放浪生活を送っており、鍛治や博労や楽師や占いや砂金採取やバイシュンなど独特の生業に従事し、怠惰で勤勉を嫌い、実際には乞食と泥棒で暮らしており、独特な踊りは卑猥で、飲酒と喫煙をとくに好み、人肉食が疑われ、独自の宗教はなく、内婚制で、若くして結婚して多産である、といった特徴をグレルマンは上げました。ジプシーは「ヒンドスタン」起源の独自の言葉を用いており、その原郷はインドと考えられ、インドにはジプシーとよく似た、「シュードラ」と呼ばれる最下層カーストが存在する、とグレルマンは指摘しました。シュードラ」の一部が1408~1409年にティムールの侵略により故郷を追われ、西方へと放浪の末にヨーロッパに到来し、その子孫がジプシーである、とグレルマンは考えました。ジプシーの起源を青銅器時代のヨーロッパに求める説や、オーストラリア方面から到来したとする説も提唱されましたが、グレルマンの主張が国際的にも広く受け入れられ、最近まで「科学的ジプシー論」の「定説」として確立し、日本に置おけるジプシー論も基本的にグレルマンの主張に依拠しています。

 グレルマンのジプシー論を前提として、19世紀以降にジプシーの歴史を探る試みが本格化します。その主要な担い手は、19世紀末にイギリスで結成された民間の研究団体「ジプシー民俗協会」に結集することになる、欧米の熱心なアマチュア研究者でした。それとは別に、ジプシーの起源や移動経路を精力的に探究したのが、比較言語学でした。こうして、ジプシーの歴史について一定の共通認識が形成されました。それによると、ジプシーの原郷はインドですが、さらに詳しい起源地は議論百出で、紀元後1000年前後にインドを出た、と考える論者が多いものの、異論も多数あります。ジプシーはペルシアとトルコを経由して11世紀にはバルカン半島に到達し、15世紀初頭にヨーロッパ中央部に出現しました。ジプシーは当初、自称通りに巡礼として厚遇されたものの、やがて不気味な存在として畏怖されつつも、泥棒や乞食や浮浪者やスパイなどとして嫌われるようになり、迫害は18世紀に最初の頂点に達します。19世紀には、啓蒙主義の精神に従ってジプシーを「開花」しようとする試みが広がる一方で、ロマン主義的観点から「高貴なる野蛮人」との羨望もジプシーに向けられました。19世紀後半から20世紀初頭にかけてバルカン方面から「ジプシー」が大量に流入し、各国において人種主義思想の高まりの中で遊動民集団の規制と排斥が強化され、これがナチ体制のドイツによるジプシー絶滅策につながりました。

 欧米では、こうしたグレルマン説に基づくジプシー認識が1970年代以降に大きく変わります。この変化を促進したのは、第一に、「参与観察」の手法による世界各地のジプシー集団の実証的研究の大きな進展です。その結果、ジプシーが居住する国や地域の歴史と文化に深く規定されており、多様な人々が主流社会により「ジプシー」と扱われてきた、と明らかになりました。一方で、「ジプシー」とは全く無関係と自他ともに認めるにも関わらず、多くの点でジプシーと共通する要素を有する集団が世界各地に存在することも証明されました。第二に、ヨーロッパの社会史研究の飛躍的発展により、ジプシーの問題も中世以降のヨーロッパ史の具体的展開に位置づけて考察されるようになりました。とくに重要なのは、中世から近世への移行期である15~16世紀のヨーロッパ社会では、崩壊しつつある旧体制から放出された膨大な人数の流民層/貧民層が大きな社会問題となっており、その研究が本格的に始まることで、その実態や歴史および社会的意味が明らかにされていき、「ジプシー」もこうした社会層の一部を構成している、と認識されるようになりました。第三に、「民族」の理解が深まり、民族を固有の本質を備えたきわめて実体的で普遍的な人間集団と考える見解が見直されていきました。

 こうして、ジプシーの起源について、 封建制の崩壊から資本主義体制への移行過程でヨーロッパ各地に広く発生した雑多な出自の貧民・流民層にあり、こうした人々が定住民の主流社会と時空間的にさまざまな形で特殊な関係を締結する中で、「ジプシー」という特異な社会的存在形態が形成され、この過程で時の政治権力や教会権力による「烙印押捺」という過程が決定的役割を果たした、と考えられるようになりました。時の政治権力や教会権力にとって好ましくないと考えられた人間集団の分類が設定され、異端者もしくは犯罪者として社会から排除・排斥されていった、というわけです。排除・排斥の基準となったのは、近代ヨーロッパ国民国家に相応しい、善良なキリスト教徒で定住地があり、雇用されて賃金労働に従事していることでした。こうした条件を満たさない貧民・流民が排除・排斥の対象となったわけです。その結果、排除・排斥された側は、独特な生活様式や文化を形成していき、主流社会の「隙間」を埋めることで、主流社会から許容されてきました。

https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_7.html
4:777 :

2023/10/08 (Sun) 01:06:35

ジプシー(gypsy)は、一般にはヨーロッパ(欧州)で生活している移動型民族を指す民族名。転じて、様々な地域や団体を渡り歩く者を比喩する言葉ともなっている。ドイツ語の「ツィゴイナー(Zigeuner)」を含めて外名であり、当人らの自称ではない。自称としては「ロマ」のほか、「シンティ(ジンティ)」「トラヴェラーズ」などがあるが、それぞれがジプシー全てを包含しているわけではなく、確立された統一呼称は存在しない。宗教面ではキリスト教の諸宗派(カトリック教会、プロテスタント、正教会)信徒もムスリムもいる。言語的にも、ロマが話すロマ語(ロマニ―語)には60を超える方言があり、多様な人々である[1]。


歴史と名称について

ジプシーは「西暦1100年にアトスに現れた」とする記録が最古のものとされる。

15世紀には西欧各地に到達した。ドイツでジプシーを確認している最古の記録は1407年のものである。

フランスでは1419年、東部のシャティヨン・アン・ドンブに、「小エジプト」出身の伯爵ニコラを名乗り、神聖ローマ皇帝とサヴォイア公の保護状を持つと称する人物に率いられた一団が滞在した記録がある[2]。1421年のアラスで歓待された集団は、肌や髪が黒く、髭を伸ばし、服装を含めて当時の西欧市民と大きく異なる見かけで驚かれた[3]。1427年、パリに現れた彼らは、「自分たちは低地エジプトの出身である」と名乗った。ここから「エジプトからやって来た人」という意味の「エジプシャン」の頭音が消失した「ジプシー」 (Gypsy) の名称が生じたと言われる[4]。

「小エジプト」「低地エジプト」が具体的にどの地域を指すかを彼らはほとんど語らなかったが、エジプト出身であることは15世紀末には疑われるようになっていた。1611年の書物には、ギリシアやダルマチア(ともにバルカン半島)からやって来るとの目撃談が記されている[5]。ただし西欧に出現した当初、彼らは、故郷においてキリスト教徒であり、ムスリムに征服されて信仰を一時捨てたものの、再び改宗し、ローマ教皇の命で償いの巡礼をしていると説明した。このため欧州キリスト教圏で好意的に迎えられたが、次第に犯罪などのトラブルが警戒されるようになり、たどり着いた街から早く出立するよう求められることなどが増えた。一方で傭兵や占いでは重宝がられたが、欧州で国家の権力が強まると、都市や農村の共同体に属さないジプシーは取り締まられるようになった。追放令や国によっては死刑の対象とされたほか、囚人としてガレー船の漕ぎ手に送り込まれることもあった[6]。西ヨーロッパに進出したジプシーは、恐らく、彼らの新たな鋳掛け技術、馬の飼育や軍事技術のおかげで、当初国王や皇帝の保護下に各地で歓迎されたが、15世紀末から16世紀にかけての「絶対王政」の揺籃期にいたって厳しく統制されるようになった[7]。

18世紀のオーストリアとプロイセン王国では定住化政策が試みられた。後者ではフリードリヒ2世がノルトハウゼン近くのフリードリヒスローラにジプシー村を作り、ジプシーを職工として働らかせようとしたが、失敗した[8]。ジプシー迫害は各時代各地域でみられたが、ナチス・ドイツでの迫害は凄絶を極めた。最悪の1943年にはすべてのジプシーがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られるか不妊手術を強行された。ヨーロッパ全域でナチ時代に殺害されたジプシーは20万とも40万とも言われている[9]。

近年の日本においては、「ジプシー」は差別用語、放送禁止用語と見做され、「ロマ」と言い換えられる傾向にある[10]。

明治時代の日本の新聞ではジプシーが「西洋穢多」と報じられたことがあるが[11]、ジプシーの居住圏は西洋だけにとどまらない上、生活様式は日本ではむしろサンカに近い[12]。


ジプシーに分類される諸民族

主にインドが起源と考えられている諸族

ロマ
北インド・パキスタンに起源を持つインド・アーリア人系の移動型民族。ロマ語を話し、欧州における「ジプシー」の最大勢力である。
ロミ
ルーマニア、ルーマニア語圏に居住するロマニ系の民族。19世紀には現代のルーマニアに当たる地域で奴隷とされた。独自の文化や慣習を固守し、キング(王様)も存在する。
アッシュカリー、またはエジプシャン
コソボ及びその周辺諸国(旧ユーゴスラビア)に居住するロマ系の民族。当人たちは「ロマと異なるアイデンティティーを持つ」としているが、ロマ及び居住地域のその他住民からはロマの一部とみなされることが多い。
ロム (Lom people)
南コーカサス(アルメニア等)とアルトヴィン(トルコ)に居住する民族。欧州方面へ移動するロマの集団から別れ、11世紀頃の当地に留まった人々が先祖と考えられている。
ドム
主に中東のイスラム圏に居住するインド・アーリア人系の民族。彼らの話すドマリ語(Domari language)はロマ語と密接な関係にあると考えられている。
リューリ
中央アジア及びロシアに居住するドムの亜集団。
バンジャラ (Banjara)
インド及びパキスタン各地に居住し、ラージャスターン語系統のバンジャリ語(Banjari language)を話す民族。
スリランカ・ジプシー (Sri Lankan Gypsy people)
スリランカに居住し、主にテルグ語を話す民族。スリランカの主要言語であるシンハラ語ではahikuntakaと呼ばれている。


インド以外が起源と考えられている諸族

欧州における「ジプシー」は元々、 ロマ以外の移動型民族を含む場合があった。
イェニシェ
アイリッシュ・トラヴェラー
スコティッシュ・トラヴェラー (Scottish Travellers)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC
5:777 :

2023/10/27 (Fri) 19:02:56

ロマ、バスク、女真、朝鮮/宇山卓栄さんに聞く03(音声改善版)
もぎせかチャンネル
2022/11/11
https://www.youtube.com/watch?v=eOmg6PPzLa0

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