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1:777
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2022/05/23 (Mon) 10:16:44
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テレビドラマ 早勢美里 木村拓哉『伊豆の踊子』TX 1993年
脚本:井手俊郎、恩地日出夫
音楽:毛利蔵人
制作会社:東北新社クリエイツ、TX。
動画
https://www.youtube.com/watch?v=ObO-KxTsNkU
出演:
早勢美里(早瀬美里)
木村拓哉
加賀まりこ
柳沢慎吾
飯塚雅弓
大城英司
石橋蓮司
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2022/05/23 (Mon) 10:25:10
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2021/11/10
秋の伊豆・・・文学探訪
夫婦の自転車旅の続編の動画を作っていますが、家内が仕事でPCを占拠しているので、動画が先に出来上がった先週の自転車キャンプをお楽しみください。
20211107伊豆キャンプ - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=6JjV-_U6fCA
■ キャンプ場の予約が取れない・・・ ■
このブログをお読みになっている方は、私に計画性が無い事をご存じだと思います。実は、あまり早くプランを立てると、旅行に行く前にテンションが下がって来ちゃうんです。小学校の遠足も、当日は結構ダウナーな気分で迎えていました。
そんなこんなで、休日のプランは早くて2日前、だいたいは前日、出発して電車の中で行先を決める事も多い。
緊急事態宣言下では宿の前日予約も出来ていましたが、現在は直前の宿の予約はほぼ無理。キャンプ場に至っては、コロナ禍になってから土日はマトモに予約が取れません。
それでも紅葉シーズンはどこかに出かけたい。先週の金曜日もキャンプに行きたくてたまらなくなり、関東のキャンプ場をネットで調べましたが、唯一確保出来たのが、伊豆半島の河津温泉郷にあるキャンプ場。(湯ヶ先温泉の近く)
海沿いは「伊豆イチ」で走っているので、今度は陸側から行く事に。何となく熱海からスタートすれば良いだろうと、適当にルートを引いてスタートします。
さて、今回は目的地に到達出来るのか・・・・?
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2774.html
▲△▽▼
伊豆紀行2・伊豆の踊子 2012-04-01
http://ameblo.jp/isa96/entry-11208128252.html
伊豆の滝と言えば石川さゆりさんの演歌「天城越え」に出て来る浄蓮の滝がよく知られています。伊豆半島を縦断して、修善寺から下田に抜ける天城峠に至る街道では最大らしいです。元々は秘境で、人が立ち入ることは難しかったそうですが、明治末期に湯ヶ島の旅館店主らの私費で観光開発したそうです。
浄蓮の滝
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886328591.html
水量が多いので、滝つぼに落ちる音に迫力があります。
ちなみに天城山も火山で、その寄生火山である鉢窪山の溶岩によってできた滝だそうです。
昔は上中下の三滝ありましたが、中滝は地震で無くなってしまったそうです。
下滝の近くに浄蓮寺があったので、「浄蓮の滝」と呼ぶようになったそうでした。
水が澄んでいて冷たいため、ワサビの栽培が盛んです。ワサビせんべい、ワサビ蕎麦、ワサビビールなど色々なお土産がありました。
ワサビ田
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886412222.html
川端康成の名作「伊豆の踊子」の舞台もこの地が舞台になっています。
昭和元年に発表され、その後、田中絹代さん、美空ひばりさん、鰐淵春子さん、吉永小百合さん、内藤洋子さん、山口百恵さんなど、当時の人気女優さんたちを主演に迎えて何本も映画化されています。動画で予告編が見られるのは、この山口百恵さん主演作品だけのようです。
そのお蔭もあり、伊豆は本作品発表後に注目されるようになります。その後、昭和初期に天皇がいらっしゃったこともあり、観光地化が進められ、浄蓮の滝も今では日本名滝100選の一つになっています。
河津一の滝
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886328590.html
ここからさらに下田方面へ下ると、河津七滝があります。天城峠を境として、水系が異なります。浄蓮の滝は修善寺方面へ流れる狩野川で、反対側の河津方面へ流れるのが、河津川です。
一の滝は晴れていたので滝壺の青色が綺麗でした。大滝は浄蓮の滝と同規模の美しく迫力のある滝です。個人的には浄蓮の滝よりこちらの方が好きです。
当時は海外旅行など夢の話で、新婚旅行が伊豆だったと言う話をよく聞きます。この天城峠を越える際に通るのが「伊豆の踊子」にも登場する天城トンネルです。石造りの重要文化財です。
旧天城トンネル河津出口
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886328592.html
トンネル内部は車がすれ違えるほどの幅は無いので、観光客は出口付近の駐車場に車を停めて歩きます。周辺は未舗装なので、悪天候やバイクでの通行は要注意です。
内部には明るい照明も無く、風が吹き抜けるために、歩いている途中で身の危険を感じるほどの凄い寒さでした。
入口に凍結や氷柱に関する警告がありましたが、納得です。
天城トンネル河津外
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11886412224.html
全長は400m以上ありますが、余りの寒さに、途中で引き返しました。手や顔が寒さで麻痺して来るほどで、驚きました。
昔はボンネットバスが通行していたそうです。
修善寺から河津に向かう峠道はくねくねと曲がった山道が続きます。伊豆の踊子の旅芸人一行と19歳の川端康成が出会ったのも、その道の途中にあった休憩茶屋でした。今は道の駅やお土産屋さんがあります。駐車場には河津桜が満開でした。
峠の河津桜
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11887013353.html
峠を下ると河津川沿いに湯ケ野温泉があります。「伊豆の踊子」によると、川端康成はランクが上の福田屋旅館に泊まり、旅芸人一行はランクが下の旅館に泊まりました。
福田屋1
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11887047774.html
当時からの雰囲気を残している旅館で、映画の撮影に登場する風景や部屋、風呂もそのままです。
これは、川端康成と旅芸人の座長が一緒に入った風呂です。
100年以上前のものです。地下へ階段を下りて入浴します。
泉質はナトリウム・カルシウム硫酸塩泉。お湯の温度は高め、透明で、匂いは薄目でした。
萱風呂
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11887075367.html
川端康成が旅芸人を招待したので、福田屋で入浴できましたが、当時の社会では彼らのような職業は蔑まされていたため、高級旅館には営業以外では出入りができなかったようです。
小説では細かく言及していませんが、旅芸人とは現在の温泉芸者やコンパニオンみたいな存在で、あちこちの湯治場に出稼ぎに回っていたのです。時には春を売る営業もあったため、下級の職業だと言われていました。
性病などの心配があるので、一般人は一緒に入浴することを嫌いました。映画の中でも梅毒で死んでいく同郷の少女が登場します。その少女のためにお守りをお土産に買って来た踊り子が健気でした。
そういう彼女たちは、誰でも入れる共同浴場を使いました。
中央の三階建ての日本家屋の一階部分が現在の公衆浴場です。昔は露天風呂だったそうです。現在は地元民と湯ケ野温泉の宿泊客以外は入れません。
公衆浴場
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11887047773.html
「伊豆の踊子」の中の有名なシーンに、天真爛漫な踊り子が川向こうの福田屋にいる川端康成に全裸のままで手を振る場面があります。
「彼に指ざされて、私は川向うの共同湯の方を見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮んでいた。
仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊り子だった。
若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上がる程に子供なんだ。
私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。」
そこで、共同浴場前から踊り子の視線になって福田屋を見てみました。踊り子から見た福田屋はこう見えていたはずです。庭に咲いている河津桜が綺麗です。
19歳の川端康成が泊まった部屋は川に突き出している二階部分です。
公衆浴場からの福田屋
http://ameblo.jp/isa96/image-11208128252-11887047772.html
現在の女将さんは当時の女将のお嬢様だそうです。ご高齢ですがお元気で、当時のお話をして下さいます。ご本人は当時から店を手伝っていたそうですが、川端康成という認識は無く、学生客の一人だと思っていたそうです。
当時人気があった女性を主役に何度か映画化されています。歴代の主演女優達のパネル(修善寺湯本館)以外は福田屋さんの展示資料です。関係者のサイン入り色紙と写真が貴重です。
恋の花咲く 伊豆の踊子(1933年、松竹、五所平之助監督、田中絹代・大日方傳主演、白黒・サイレント映画)…初の映画化作品。
伊豆の踊子(1954年、松竹、野村芳太郎監督、美空ひばり・石濱朗主演、白黒映画)
伊豆の踊子(1960年、松竹、川頭義郎監督、鰐淵晴子・津川雅彦主演、カラー映画)
伊豆の踊子(1963年、日活、西河克己監督、吉永小百合・高橋英樹主演、カラー映画)
伊豆の踊子(1967年、東宝、恩地日出夫監督、内藤洋子・黒沢年男主演、カラー映画)
伊豆の踊子(1974年、東宝、西河克己監督、山口百恵・三浦友和主演、カラー映画)
テレビドラマとしてはあのキムタクも主演していたようです。しかし、私のキャスティングならクサナギさんか稲垣さんにしますね。書生役は二枚目よりも、ちょっと陰気な感じがする人の方が合うと思うのです。
TVドラマ伊豆の踊子(1993年、TX、早勢美里・木村拓哉主演)
私が想像する天真爛漫な踊り子のイメージとしては内藤さん、吉永さん、山口さんかなあ。
伊豆の踊子にちなんだ記念碑や銅像は吉永さんの時代に多く作られたようで、川端康成さんとの記念写真も多かったような気がします。知的な可愛らしさがありますね。
福田屋さんの庭にも踊子像がありましたが、誰をイメージして作ったのでしょうかね?
http://ameblo.jp/isa96/entry-11208128252.html
『伊豆の踊子』(松竹) 1960年(昭和35年)5月13日公開。カラー87分。
監督:川頭義郎
脚本:田中澄江
出演:鰐淵晴子、津川雅彦、桜むつ子、田浦正巳、城山順子、瞳麗子
踊子役には鰐淵晴子は美人すぎます。
内藤洋子の踊子が良かった。
吉永小百合の踊子は学芸会みたいで嫌だった。
山口百恵の踊子はいかにもアイドル映画で、これも嫌だった。原作の良さが出ていない作品はダメ
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3:777
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2022/05/23 (Mon) 10:33:00
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【ゆっくり解説】孤高の天才小説家「川端康成」!悲恋に孤独…。ノーベル文学賞受賞・雪国や伊豆の踊り子など数々の名作を残した彼の苦悩の生涯とは…?
https://www.youtube.com/watch?v=AWzLKAMPL84
魔界の住人・川端康成 森本穫の部屋 2014-08-14
『魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―』
https://www.amazon.co.jp/%E9%AD%94%E7%95%8C%E3%81%AE%E4%BD%8F%E4%BA%BA-%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%A3%AE%E6%9C%AC-%E7%A9%AB/dp/4585290753
本書は、世界中の、川端康成の生涯と文学に関心をもつ人々を対象として書かれた。
川端康成は、1899年から1972年まで、72年の生涯を生きた。だから今や、彼の静謐な自裁から42年の歳月が経過したことになる。しかし今日、〈魔界〉というテーマから検証するとき、川端作品は、これまで以上に、いっそう重要な意味をもつ。
第二次世界大戦の後、彼の作品は突然に深まり、〈美〉の妖しい光を放つようになった。 私は、ちょうどこのとき、川端が〈魔界〉の門をくぐったのだと考える。
のちの1968年、ノーベル文学賞を受賞したとき、川端は「美しい日本の私」と題した講演を行った。この講演において彼は、日本の、伝統的な〈美〉の精神と魂について語った。
しかし、この中で最も重要なのは、禅の一休の「仏界入り易く 魔界入り難し」という言葉を引用した部分であろう。そして、この〈魔界〉とは、真の芸術家の、運命的・必然的な魔の世界を意味するのだ。
川端はつづけた。「究極は真・善・美を目ざす芸術家にも「魔界入り難し」の願ひ、恐れの、祈りに似通ふ思ひが、表にあらはれ、あるひは裏にひそむのは、運命の必然でありませう」と。
これらの言葉は、川端自身の決意と、彼自身がすでに〈魔界〉に入っていること、そして彼の作品がこの永遠の理念によって書かれている事実を語っている。この時点において、彼はまさに〈魔界〉の住人だったのである。
では、川端文学における〈魔界〉とは、いったい何だろう?
「みづうみ」(1954)において、この小説の主人公・銀平は、しょぼくれた中年男である。彼は今、職がない。しかし彼はいつも、美しい少女や若い女性のあとを追いかける。彼は〈美〉の探求者なのだ。そして時たま、稀(まれ)に、そうした女性と恍惚とした瞬間を持つが、そこから彼は逃亡する。彼はこの世の永遠のバガボンド(漂泊者)であり、そうして世界の底へと沈んでゆく。
銀平は、父親をとても早くに失ったので、子供の頃から、いつも〈寂しさ〉を感じつづけてきた。そしてしばしば、自分の脚が猿の脚に似ていて〈醜い〉、という劣等感に悩まされている。彼にはまた、自分の行為が道徳に反しているという〈悪〉の悔恨がある。しかもなお、彼は常に、地獄の底から、聖なる世界の美少女に〈憧憬〉しつづけている。
これが、川端康成の〈魔界〉作品の基本的構造である。
「住吉」連作(1948-71)、「千羽鶴」(1949-54)、「山の音」(1949-54)、「眠れる美女」(1960-61)、「片腕」(1963)、「たんぽぽ」(1964-68)は、〈魔界〉を内蔵する作品群だ。
本書を通じて、私は川端文学の個々の作品を解明し、川端内面の精神世界・魂の世界の、生涯の軌跡を解明しようとした。
私は読者に、川端の〈孤児〉としての宿命、伊藤初代との悲しい初恋、肉親や女性や友人との邂逅と別離、戦争の深い傷痕(きずあと)、源氏物語を初めとする日本の伝統的な文化や〈美〉を深く自覚していたことを、知っていただきたいと願う。また、川端の、前衛的な手法への挑戦を知っていただきたいと思う。
最後に私は、読者が川端作品の豊かな〈魔界〉の世界を楽しんでくださることを願っている。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/1ad45a88c5dd04acb486669cfcf0e718
拙著が刊行されることになりました。
下の写真は、その外箱の装幀です。デザイナー盛川和洋氏の手になるものです。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/75693d1279ef9c6b832a1edcc18e79ac
まず、上巻の写真に、ご注目ください。
そう、最近話題になった、川端康成の初恋のひと、伊藤初代を中心に、三人がうつった写真ですね。
ところは、岐阜市瀬古写真館、ときは、今を去ること93年、大正10年(1921年)10月9日のことです。
右端の人物は、新聞では、カットされていることが多かったですね。ところが、この人物・三明永無(みあけ えいむ)こそ、川端の恋を応援し、婚約も、じつは、この三明が初代を説得して成立したものなのです。
三明永無は、名前が表すように、仏門の出身です。島根県大田市温泉津(ゆのつ)の名刹(めいさつ)瑞泉寺に生まれました。浄土真宗の寺です。石見銀山の傍らにあり、その冨を象徴して、絢爛(けんらん)たる内陣が、今も残っています。
三明永無は、杵築(きづき)中学(現、大社高校)を首席で卒業した秀才でした。
一高の寮で同室になると、三明永無を先頭に、4人の仲間ができました。石濱金作、鈴木彦次郎と、この二人の、計4人です。
一高3年のころから、彼ら4人は夕食後、散歩に出かけ、寮に近い本郷のカフェ・エランに通うようになりました。
そこに、14歳の可憐な少女、伊藤初代が女給として、いたからです。
彼女は、会津若松で生まれ、早くに母親をなくし、父親とも別れて親戚と一緒に上京した、貧しい少女でした。親戚から見捨てられた形になった初代を、お母さんのように世話したのは、偶然に出会った、山田ます、という女性でした。
山田ますは、夫とともに、カフェ・エランを開きました。そして初代も、その店に出たのです。
松井須磨子の全盛期でした。彼女が舞台で歌い、評判になった歌を、初代と3人の学生たちは、一緒に歌いました。でも、恥ずかしがり屋で、臆病な康成は歌えず、黙って聞いていました。
しかし、彼らが一高を卒業し、東大に進んだころ、山田ます(そのころは、すでに夫と別れていました)の新しい恋によって、ますは、カフェを閉じ、新しい恋人と結婚するため、台湾に行きました。恋人が、台湾銀行に就職することが決まっていたからです。
しかし、ますは、初代のことが心配で、自分の実の姉が岐阜の寺にとついでいることから、その住職夫妻の養女になるように、取り計らいました。
このため、伊藤初代は、岐阜にいたのです。
三明永無に誘われて、岐阜に途中下車した康成たちは、その西方寺という寺を訪ねました。そして初代は、康成にも、やさしい口をきいたのです。
しかも初代は、あの、東京本郷で、学生たちの人気者であった日々を忘れかねていました。貧乏なお寺はいやだ、東京に帰りたい、と言いました。
その言葉で、康成の恋が再燃したのです。ずっと、初代を好きでいて、でも、あきらめていたのでした。
物心がついたとき、すでに両親が病死していた康成は、自分が〈孤児〉であることを自覚していました。
そして、母親を早く亡くし、父親とも縁のうすい伊藤初代に、自分と似た境遇を感じ、それがいっそう、恋情をつよくかきたてたのでした。
初代と結婚したい、と打ち明けた康成を、三明永無は応援する、と誓いました。
そして実際、大正10年10月に、二人は夜行列車に乗って岐阜に行き、寺を訪れました。
三明永無の巧みな話術で、初代を長良川沿いの宿に誘うことに成功しました。
三明は、康成がいないところで、初代に、「お前にはお似合いの相手だ。結婚しろ」と説きました。
かねてから、三明を兄のように慕っていた初代は、その言葉に従いました。
康成から訊(たず)ねられた時、「もらっていただければ、幸せですわ」と初代は答えました。
3人は、夜、宿の二階から、鵜(う)飼いの舟が下ってくるのを見ました。
舟で燃やす、かがり火が、初代の顔を染めていました。
「初代がこんなに美しいのは、今夜が初めてだ。彼女の人生にとっても、今がいちばん美しい時だ」と、康成は思いました。
そのことを書いたのが、「篝火」(かがりび)という作品です。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/75693d1279ef9c6b832a1edcc18e79ac
昨夜は、上巻の写真について説明いたしました。
今夜は、下巻表紙の写真について説明いたします。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c
この、少女がこちらを向きながら仰向けに横たわっている絵は、石本正(しょう)画伯の「裸婦」という作品です。晩年の康成が愛蔵した絵です。
康成は石本正の絵が大好きで、二人のあいだに深い交流のあったことも、本書では、詳しく描いています。
さて、晩年の川端康成がこの絵を愛蔵したのには、深いわけがあります。
この絵は、康成晩年の渇望、といおうか、憧れ、といおうか、康成の深い願望をこめた、まことに象徴的な絵画なのです。
昭和29年(1954年)に、生涯の最高作ともいうべき「みづうみ」を発表した康成は、その6年後の昭和35年(1960年)に、多くの評家と読者をあっと驚かせた奇想天外な小説「眠れる美女」を発表します。
主人公は、江口老人。友人から教えられた秘密の家に行きます。そこでは、別室に通されると、睡眠薬で深く眠らされた少女あるいは若い女性が裸身で横たわっているのです。
この家のただ一つの禁制は、眠った女性に手荒なことをしないこと、だけです。
実際、この秘密のクラブである家に通うのは、お金はあるが、すでに性的能力を失った、哀れな老人たちだけなのです。
江口老人だけは、見かけとは異なり、まだ性的能力は残っているのですが、とにかく、秘密の密室で、眠った裸身の女性と、ひと晩、一緒に眠れるということは、至高の歓びなのです。友人は、この家の一夜を「秘仏と寝るようだ」と表現しました。
まことに、老人たちは、この家に通い、一夜、裸身の少女と寝床を共にするだけで、生きている歓びを得ることができます。
もちろん、歓びだけではありません。この家は、海に面した高い崖の上に建っているようです。冬が近く、海面にみぞれが降るイメージも出てきます。
つまりそれは、遠からず老人を襲う死の恐怖です。暗黒の死の恐怖とうらはらに、一夜の、観音様のような全裸の美女と過ごすという稀(まれ)な幸運を得るのです。
江口は5夜、この家を訪れ、眠って意識のない裸身の女性の傍らで、過ぎ去っていった女性たちを思い出します。特に第1夜に思い出す、結婚前に北陸から京都まで旅を共にして処女を奪った女性の記憶は鮮烈です。
その2~3年後の昭和38年(1963年)に、康成は「片腕」という短い作品を発表します。これも、深い濃霧の夜に、一人の少女から、片腕だけを借りてアパートに帰り、片腕と一夜を過ごす、という物語です。
晩年の康成が、若い女性、あるいは少女の裸身に、どれほど憧れを抱いたか、よくわかるでしょう。
私のお薦(すす)めは、「掌(たなごころ)の小説」と呼ばれるショート・ショートの一編、「不死」という作品です。新潮文庫に、「掌の小説」を1冊にまとめたものがあります。この、終わりの方に出てきます。
ひとりの老人と、若い娘が、手をつないで歩いています。若い娘は、昔、老人の若かったころ、恋人だったのですが、おそらくは身分の違いのため一緒になれず、娘は海に飛び込んで死にました。
その娘が今、生き返って、昔の恋人で、今は人生に敗残した老人と一緒に歩いているのです。
くわしい話は、私の本(下巻)で読んでください。
やがて二人は、ゴルフ場の端にある、大きな樹の、洞穴(ほらあな)に、すうっと入ってゆきます。そうしてもう、出てこないのです。
永遠の生命を得て、二人は永遠に、その樹の洞(ほら)の中で過ごすのです。
ここに、康成の晩年の渇望(かつぼう)がよく表れています。
私は、そのような康成の晩年の渇望を具現した作品として、この絵を下巻の口絵写真の一つに選びました。
装幀家の盛川さんは、私の意図をよく汲んで、この絵で表紙を飾ってくれました。
女性の読者は、この表紙を見て、ちょっと、どきっとされるかも知れませんが、男性読者は、この絵の美しさに惹(ひ)かれることでしょう。
康成が死の半年前(昭和46年、1971年)に発表した「隅田川」という作品があります。これは、敗戦後まもなく書き始められた「住吉」連作の、22年ぶりの続編なのですが、その中に、象徴的な言葉がでてきます。
主人公の行平(ゆきひら)老人が、海岸の町の宿に行こうとして、東京駅に行きます。すると、ラジオの街頭録音の、マイクロフォンを突きつけられます。
「秋の感想を一言きかせてください」という質問です。行平は、
「若い子と心中したいです」と答えます。
「えっ?」と驚くアナウンサー。その意味を問います。すると行平の答えは、こうです。
「咳をしても一人」
この一節は、最晩年の川端康成の心境を、如実にあらわした部分です。
咳(せき)をしても一人……これは、放浪の俳人・尾崎放哉(ほうさい)が、晩年、小豆島に渡って独居し、死に近いころ読んだ自由律の俳諧です。
咳をしても、その、しわぶきの声が、壁に反響して、空しく自分にはね返ってくるだけだ、という、孤独と寂寥(せきりょう)の極みを詠んだものです。
つまり康成は、自分の根底の願望を「若い女性と心中したいです」と語り、その背景として、恐ろしい孤独の意識を、ここで告白したのです。
ノーベル賞を受賞して、晴れがましい騒ぎの余波から、わずか3年後のことでした。
以上が、下巻の写真の意味するところです。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c
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2022/05/23 (Mon) 10:35:08
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運命のひと 伊藤初代 2014-07-10
カフェ・エラン
1919(大正8)年の秋……そのころ、一高の寮や学校からほど近い本郷元町2丁目に、小さなカフェがあって、4人の一高3年生が毎夜のようにこの店に姿を現した。一高寄宿舎の和寮十番室で、文字通り寝食をともにしていた親しい四人組であった。そのカフェの女給、「千代」と呼ばれている美しい少女に惹かれてのことであった。
その四人とは、川端康成、三明永無(みあけえいむ)、石濱金作、鈴木彦次郎である。
名前は川端を筆頭にあげたが、実際は、康成は彼らのなかで積極的に千代に近づいたりするわけではなかった。むしろ仲間たちの後ろにかくれるように静かに腰かけているばかりだった。
千代は快活な少女で、康成たちが来ると、よくそのころ流行していた「沈鐘」の森の精の歌をうたった。
それはハウプトマンの原作になる歌劇で、松井須磨子が劇中でうたう歌である。北原白秋作詞、中山晋平作曲の歌は、こういう歌詞だった。
くるしき恋よ、花うばら
かなしき恋よ、花うばら
ふたりは寄りぬ、しのびかに
ふるえて目をば見かはしぬ
鈴木彦次郎も、石濱金作も、三明永無も一緒に声をあげてうたった。ただ、康成だけが、生来の臆病のせいか、羞恥のせいか、うたわなかった。
その康成が、仲間の前で突然、自分は千代と結婚する、としずかに宣言したのは、それから2年たった1921(大正10)年、数え23歳(満22歳)の秋のことである。東京帝大の2年生になっていた。
そのころエランはいったん店を閉じ、千代は岐阜にいた。
その岐阜に、夏休暇の終りに上京するとき、出雲出身の三明永無と京都の停車場で落ち合った康成は、岐阜で汽車をおりて、一緒に千代を訪ねた。
そのときの印象に自信をもったことから、康成はいきなり、結婚すると宣言したのである。仲間たちは驚いたが、若者らしく、康成の願望をかなえるよう協力しようという体制がととのった。
なかでも、奥手(おくて)で、話すことの苦手な康成を励まして、この恋の成立に熱心に働いたのが三明永無である。出雲の杵築(きつき)中学出身で、僧院の育ちであるが、闊達な若者であった。
10月8日、三明にともなわれてふたたび岐阜に千代を訪ねた康成は、ちよから「結婚」の同意を得ることができた。
伊藤初代の生い立ち
しかしここで、カフェ・エランの内情と、千代こと、伊藤初代が岐阜にいた事情を説明しておこう。
――1910(明治43)年の大逆事件のとき、幸徳秋水らの特別弁護人をつとめた平出(ひらいで)修というひとがいた。彼は前年、石川啄木、平野万里、木下杢太郎、吉井勇、高村光太郎たちと耽美的な雑誌『スバル』を出した同人のひとりで、その出資者でもあった。明治法律学校に学び、弁護士になった人なので特別弁護人をつとめたわけだが、文学にも造詣が深かったのである。
幸徳秋水が獄中から平出に送った陳弁書を、石川啄木が秘かに借り出して読み、大きな感動を受けた事実も、よく知られている。
その平出修の義理の甥にあたる平出(ひらいで)実(みのる)が、吉原の娼妓であった美貌の山田ますを請け出して、ふたりで始めた店がカフェ・エランである。平出修の縁で、文壇関係者がよく顔を出したという。谷崎潤一郎や佐藤春夫も店に来た。
ところが平出実は、たった1年で、店の女給と出奔し、山田ますは捨てられた形になった。
しばらく店を休んだあと、山田ますは平出修や実の思想上の仲間であった百瀬二郎に励まされて、店をつづけることになった。
康成たちが訪れたのは、このころである。
菊池一夫『川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯』(江刺文化懇話会、一九九一・二・二七)、菅野謙『川端康成と岩谷堂』(江刺文化懇話会、1972・12・28)、及び羽鳥徹哉「愛の体験・第一部」によると、店で「千代」と皆から呼ばれた、この娘の本名は伊藤初代(戸籍名ではハツヨ)。1906(明治39)年9月16日、伊藤忠吉を父、大塚サイを母として、福島県会津若松市川原町25番地、若松第4尋常小学校(現、城西小学校)の使丁(してい)室(用務員室)で生まれた。のちに康成が繰り返し描いたように、1906(明治39)年、丙午(ひのえうま)の生まれである。
忠吉とサイはまだ入籍しておらず、ハツヨは、母方の戸主、大塚源蔵長女サイの私生子として届けられた。
用務員室で生まれたのは、サイが臨時の使丁として時々学校の仕事を手伝っていたからだという。
父伊藤忠吉の出身地は、岩手県江刺郡岩谷堂(現、奥州市江刺町岩谷堂)字上堰14番地である。
だが忠吉は一度、村でS家の婿に入ったが、この結婚生活に破れて家を飛び出し、北海道および仙台を経て、会津若松に来ていたのであった。
母サイの父は前述の大塚源蔵であるが、会津若松市博労町で雑貨商をいとなんでいた。かつては鶴ヶ城に出入りする御用商人であったという。
3年後に大塚源蔵はふたりの仲を認め、1909年8月に結婚届けが出された。サイは伊藤忠吉の籍に入り、ハツヨは嫡出子の身分を獲得したことになる。
田村嘉勝の調査によると、若松第4尋常小学校の沿革史、1907(明治40)年3月1日の項に、「同日ニ於イテ伊藤忠吉月俸5円、同サイ月俸4円ニテ使丁ノ任命アリ」と明記されているそうである。
使丁とは、小使、現在の用語でいえば用務員である。
しかし不幸にもハツヨの母サイは、1915(大正4)年、病死する。サイ行年29歳、初代10歳、妹マキ3歳(いずれも数え年)であった。
妻サイに死なれて、父忠吉は翌年、マキひとりを連れて、故郷江刺に帰った。親の農業を手伝うことにしたのである。悄然たる帰郷であった。
残された初代は、叔母キヱ(母サイの妹)の子の子守や使い走りをしながら学校に通った。成績はよかった。(菅野謙は、首席と書いている。)
3年生から4年生に進級するとき、学校長から表彰されることになった。その日も初代は小さな身体に小さな子をくくりつけ、受章式に出た。その姿を見て、参列した来賓や父兄が感涙にむせんだという話が残っているそうだ。
そのころ、祖父の大塚商店の商売が行きずまり、一家を挙げて東京へ行くことになった。初代は4年の初めで学校をやめ、祖父の一家の一員として上京した。
一方、岩谷堂に帰っていた父忠吉の方は、1916(大正5)年になって、岩谷堂小学校の使丁として採用された。昭和5年(ママ)に老齢の故をもって退職するまで、実直にその仕事をつづけたという。
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運命のひと 伊藤初代(2)
カフェ・エランのマダム
大塚源蔵一家の上京によって上京した初代は、子守として働いた。口入れ屋がいて、医者、弁護士、旅館、料理屋……子守を必要とする子がいると、そこに雇われ、その子が大きくなると、次の家の子守をしたという。
そうしたなかで、山田ますと知り合った。
山田ますは、岐阜市加納の出身で、郷里に姉がいた。1887(明治20)年生まれであるから、初代より19歳年上、ということになる。
吉原で娼妓をしていたが、初代と出合ったころは、すでに自由の身になっていたらしい。美貌で知られ、平出実もその美貌に惹かれて身請けしたのであろう。
しかし、心のやさしい、親切で義侠心にとむ気質のひとだった。
康成らと知り合った1919(大正8)年、初代は数え14歳であった。
カフェ・エランが繁盛したのは、この初代を目当てにした学生たちが多かったのも理由の一つであるが、マダムの山田ますの美貌に惹かれて訪れる年長の学生たちもいた。
平出実が出奔したあと、店には男手がなかった。また小学校にもろくろく行っていなかった山田ますは、帳付けに不安をもっていた。このため、二階に住み込んで、帳付けを見てくれる学生をもとめていた。
このとき、百瀬二郎から紹介されたのが、のちに「『南方の火』のころ」(東峰書房、1977・6・5)を書く椿八郎である。
椿は信州松本の生まれで、慶應義塾大学の医学部予科の学生であった。
椿によると、店はカフェとは名ばかり、むしろミルクホールのような感じで、テーブルが4、5脚とカウンターがあるばかり、簡素な雰囲気であったという。マダムと千代のほか、もう一人、20歳前後の女給がいた。
店ははじめ平出修の関係から文士がよく出入りし、「エラン」の名も、与謝野鉄幹がフランス語の「飛躍」という語からつけてくれたのだという。(与謝野晶子が名づけた、という証言もある。)
ところが一高3年生の川端たち4人グループが出入りしていたころ、彼らとは別に、マダムの山田ますを目当てに、毎晩やってくる東大法科3年生の客があった。福田澄男というひとで、卒業したら台湾銀行に就職することが決まっていた。
やがて福田の卒業のときがきて、ますは7歳年下の福田と結婚して台湾までついて行くことに決めた。しかし千代こと伊藤初代のことが気がかりである。
幸い郷里の岐阜で、姉が浄土宗の寺に嫁いでいて、夫婦のあいだに子がなかったところから、初代を養女にするということで、岐阜の寺にあずけたのだった。寺の名を西方寺(さいほうじ)という。
初代が岐阜の寺にいたのは、そういうわけであるが、康成は東大2年の夏休暇の終わり、上京の途上、三明永無と京都駅で落ち合い、岐阜で途中下車してこの寺に初代を訪ね、自分にも親しく口をきいてくれたところから、初代に対する恋情が燃え上がり、東京に帰ってからの結婚宣言となったのである。
康成が1924(大正13)年から1927(昭和2)年にかけて書いた「篝火(かがりび)」(『新小説』1924・3・1)、「南方の火」(『新思潮』1923・7・20)、「非常」(『文藝春秋』1924・12・1)、「暴力団の一夜(のち改題されて「霰」)」(『太陽』1927・5・1)、など初代との愛を描いた作品は、康成自身、モデルの名を明かし、「これら4編に書いた通り」と証言しているように(「独影自命」2ノ6、2ノ7)、作中に登場する初代が多く「みち子」と呼ばれているので、ふつう「みち子もの」(時には「ちよ物」)と呼ばれている。命名者は、伊藤初代をはじめて広く世に知らしめた川嶋至である。
「みち子もの」は、「掌(たなごころ)の小説」にも少なからずある。
これらの作品には、康成の一途に思いこんだ恋情と、それがあっけなく裏切られた経緯、その後長く尾をひく恋情が、フィクションをほとんど交えず、描かれている。
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川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(3)
喪われた物語「篝火(かがりび)」
長良川のほとり
「篝火(かがりび)」(『新小説』1924・3・1)は、その発端を描いた作品である。
「私」は、朝倉(三明永無みあけ えいむ がモデル)とふたりで岐阜に来る。岐阜名産の雨傘と提灯を作る家の多い田舎町にある澄願寺に、みち子を訪ねる。
半月のうちに二度も、東京から岐阜のみち子を訪ねてくるのは、養父母の手前、穏やかではないので、名古屋方面に行く修学旅行のついでに寄るといつわって、手紙を書いての訪問だった。
みち子は、和尚が壁塗りをする手伝いをしていた。やがて「私」の前に着疲れた単衣(ひとえ)で坐っているみち子を見ながら、「私」はこの二十日ばかり空想してきたみち子と、現実のみち子の隔たりを感じて、自分の願望がどんなにみち子を苦しめているかを思って暗澹たる思いになる。自分の一途な恋情が、恋に未経験なみち子を懊悩させていることへの反省である。
しかし朝倉の機転で、みち子を寺から出させることに成功したふたりは、長良川の川向こうの宿に来る。そこで「私」が湯に入っているあいだに朝倉がみち子を口説いて「私」との結婚を承諾させる、という筋書きだった。
朝倉は、「私」の知らないうちに、みち子を口説いていた。「俊さんが君を望んでゐる。お前の身にとって、こんないいことはないと僕も思ふし、それに第一、非常に似合ひだ」と言ってくれたのである。
「朝倉さんから聞いてくれたか。」
さつと、みち子の顔の皮膚から命の色が消えた。と見る瞬間に、ほのぼのと血の帰るのが見えて、紅く染つた。
「ええ。」
煙草を銜(くは)へようとすると、琥珀(こはく)のパイプがかちかち歯に鳴る。
「それで君はどう思つてくれる。」
「わたくしはなんにも申し上げません。」
「え?」
「わたくしには、申し上げることなんぞございません。貰つていただければ、わたくしは幸福ですわ。」
幸福といふ言葉は、唐突な驚きで私の良心を飛び上らせた。
「幸福かどうかは……。」と私が言ひかかるのを、さつきから細く光る針金のやうにはきはき響いてゐるみち子の声が、鋭く切つた。
「いいえ、幸福ですわ。」
抑へられたやうに、私は黙つた。
みち子は、今の養父母が自分のうちからお嫁に出すと言っているから、「一旦私の籍を澄願寺へ移して、それから貰つて下されば、わたくしは嬉しいんですわ」と言う。これに対して「私」は、「私のやうな者と婚約してしまつてと、なぜだか、無鉄砲なみち子が可哀想でならない」と思うのである。
そして三人は宿の廊下から、長良川を下ってきた鵜飼いの船を印象深く見る。
「私は篝火をあかあかと抱いてゐる。焔の映つたみち子の顔をちらちら見てゐる。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい」と思う。――
「篝火」は、およそこのような作品であるが、「私」がみち子を痛ましく思ってならないでいる心がつよく全編を流れている。昨夜の汽車の中で見た女学生たちよりも、みち子が子供であることを思って胸を痛めたりする。
瀬古写真館と故郷・岩谷堂の父
1921(大正10)年10月8日、意外なほど簡単に、みち子は結婚を承諾した。それも、康成が直接口説いたのではなく、友人朝倉が初代を説いて、なかば強引に結婚を納得させたのである。このとき康成は数えで23歳、初代は16歳であった。「篝火」に書いてあるとおりである。
いったん初代を寺に帰した翌日の10月9日、3人は、婚約の記念に、岐阜の裁判所の前にある大きな写真館で、幾枚かの写真をとった。
このときのことを、康成は「南方の火」(第4次37巻本『川端康成全集』第2巻)の第4章に、以下のように書いている。
岐阜市の裁判所前の写真屋だつた。
「髪は?」と時雄が小声に言つた。弓子はひよいと彼を見上げて頬を染めると、子供の素直な軽さでぱたぱたと化粧室へ走つて行つた。 (中略)それを見ただけでも時雄は夢のやうに幸福だつた。微笑が温かくこみ上げてきた。(中略)
しかし男の前では恥かしくて化粧の真似も出来ないほんの小娘だつた。だから、初め時雄と一緒に行つた水澤といふ学生を加へて三人 で写す時には、彼女は海水帽を脱いだばかりのやうにほつれた髪だつた。それからもう一枚二人で写したのが、弓子の父に見せた写真だつた。
弓子が化粧室を出てくると、写真師が生真面目に、
「どうぞそこへお二人でお並びになつて。」と白いベンチを指さしたが、時雄は弓子と並んで坐ることが出来なかつた。うしろに立つた。彼の親指に弓子の帯が軽く触れた。その指の仄かな體温で彼は弓子を裸でだきしめたやうな温かさを感じた。
時雄は康成、水澤は三明、弓子が初代であることは、言うまでもない。このとき、三人で並んだ写真と、康成と初代と二人だけの、二枚の写真が撮影されたはずであるが、93年後の今日、三人の写真だけが残って、二人だけの写真は、すでにない。
ここに登場する写真館が瀬古写真館であることは、地元の人々によって、簡単に明らかになった。岐阜裁判所の向かいにある、当時も群を抜いた写真館であったからだ。
瀬古写真館は創業1875(明治9)年の、三層の塔をもつ、瀟洒な洋館の写真館だった。
このとき三人が一緒に写した写真は、後年、長谷川泉が三明永無を説いて譲ってもらい、世に出た。
しかし実は、瀬古写真館にも、原板が残っていた。
岐阜では、若き日の康成が恋人を求めて岐阜を訪れた事実を検証しようと、島秋夫、青木敏郎といった人たちが調査を進め、その結果、「篝火」に澄願寺と記されている寺――初代が養女として預けられていた寺が正しくは浄土宗の西方寺(岐阜市加納新本町)であること、などが明らかにされてきた。
わたくしは、三木秀生『篝火に誓った恋 川端康成が歩いた岐阜の町』(岐阜新聞社、2005・5・5)を入手して、そこに当時の瀬古写真館の写真のあることに驚いた。それがあまりにも見事な洋風建築であったからだ。
川西政明『新・日本文壇史』第三巻(岩波書店、2010・7・15)の第16章「川端康成の恋」には、この瀬古写真館が岐阜市今沢町、と明記されているので、現在も存続しているにちがいない。早速、104番で電話番号を訊ね、康成らの写真がそちらに存在するなら、譲ってほしいと店主夫人らしき方に懇願した。
数日後、現在の社長(正社員36名を擁し、名古屋、四日市にも事業所を持つ瀬古写真株式会社に成長していた)瀬古安明氏より、4葉の写真が恵送されてきた。
当時の写真館主、瀬古安太郎が撮影した3人の写真2葉のほかに、3人の署名を写した写真があった。
大正十年十月九日
於 瀬古写真館
三明永無 東大二年(23)
伊藤初代 十六才
川端康成 東大二年(23)
「篝火」に書かれた10月8日の翌9日に、確かに3人は、瀬古写真館で写真をとったのだ。
そして、康成と初代が二人で撮った写真は、今度、岩手県岩谷堂に住む、初代の父に結婚を承諾を得るために行く、いわば二人の愛の証拠写真として機能させる目的を秘めていたのである。
もっとも、このときの約束を、「婚約」と表現するのは、大げさすぎるかもしれない。康成がのちに「文学的自叙伝」に書いているように、「結婚の口約束」という表現が、真実にいちばん近いだろう。
なお、初代をめぐる岐阜の西方寺との関わり、西方寺の住職夫妻、あるいはカフェ・エランのマダムであった山田ますのその後などについては、早い時期に『図書新聞』に発表された三枝康高「川端康成の初恋」が詳しい。この文章は、山田ますのその後の人生についても教えてくれ、流転する人生の不思議をも示唆して味わい深い名文である。
――それはさておき、東京に帰ると、康成は早速、新居の準備をはじめた。といっても先立つものは金である。
菊池寛と康成のかかわりについては後述するが、まだ二、三度会ったばかりの先輩である。翻訳の仕事でも紹介してもらえれば、ぐらいの気持だった。
私の二十三歳の秋であつた。菊池氏は今の私より若い三十四歳であつた。私は小石川中富坂の菊池氏の家を訪れて、二階の部屋に対坐するなり、娘を一人引き取ることになつたから、翻 訳の仕事でもあれば紹介してほしいと、突然頼んだ。菊池氏はうんと力強くうなづいて、引き取るつて、君が結婚するのか。ええ、結婚は今直ぐぢやないと、私が弁解めいたことを言ひ出さうとすると、だつて君、いつしよにゐるやうになれば結婚ぢ やないか。そして、その後に直ぐ続いた菊池氏の言葉は、僕は近く一年の予定で洋行する、留守中女房は国へ帰つて暮したいと言ふから、その間君にこの家を貸す、女の人と二人で住んでればよい、家賃は一年分僕が先払ひしておく、別に毎月君に五十円づつやる、一時に渡しといてもいいが、女房から月々送るやうにしといた方がいいだらう。
それに君がもらふ学資の五十円くらゐを合せたら、たいてい二人で食へるだらう、君の小説は雑誌へ紹介するやうに芥川によく頼んでおいてやる、そんなことで僕がゐなくてもなんとかやつて行けるだらう、僕が帰つたらその時はまた考へてやる。私はあまりに夢のやうな話で、むしろ呆然と聞いてゐた。
だから、帰りの富坂は、足が地につかぬ喜びで走つて下りた。
二十三の私が十六の小娘と結婚したいと言ふのも非常識だつたが、菊池氏はただ娘の年と居所を聞いただけで、なんの批判も加へず、穿鑿 (せんさく)もしなかつた。
「文学的自叙伝」(『新潮』1934・5・1)の冒頭部分に描かれた告白である。ここにもあるように、伊藤初代と、恩人としての菊池寛は、康成の文学を成立せしめた二つの重要な要素である。
さて、 経済的な目処はついたが、次に康成が必要と考えたのは、初代の父親の承諾を得ることだった。
初代は、数え10歳のとき母を喪い、まもなく父と別れ、尋常小学校の3年を終えたあたりで学校をやめて上京している。
初代の父伊藤忠吉の故郷は、先述したように岩手県江刺郡岩谷堂(現、奥州市江刺町岩谷堂 いわやどう)である。
妻に死なれたあと、忠吉は幼いマキをつれて岩谷堂に帰り、岩谷堂小学校の使丁(用務員)になっていた。会津若松でもこの仕事をしていたこともあり、堅実実直な仕事ぶりであったという。
その父の承認をとって、晴れて結婚したいと康成は考えた。
友人たちも賛成した。友人のひとり鈴木彦次郎は同県盛岡市の名家の出身である。鈴木の先導で、康成をふくめた四人――三明永無、石濱金作――が岩谷堂をたずねることになった。
このとき彼らは東京帝国大学の学生であった。制服角帽のきちんとした身形(みなり)で父親に面会した方がよいだろうと三明が提唱し、それを実行した。
彼ら四人は、水沢の駅から約六キロの距離を、自動車で岩谷堂小学校に到着し、校長に面会を求めた。それから使丁の伊藤忠吉を呼んでもらった。
おずおずと現れた父親に、彼らは、代わる代わる、初代が自身の意志で康成と婚約したと説明し、その証拠として、岐阜で撮影した写真を見せた。
父親は、写真の初代を見て涙をこぼした。
そして、本人がそう希望したなら、それでよい、と小さな声で答えた。
四人は、盛岡の鈴木彦次郎の家に一泊し、翌日、東京に凱旋した。
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川端康成の手紙 初恋 運命のひと伊藤初代(4)
迎える準備
1921(大正10)年10月8日に岐阜で伊藤初代との婚約が成り立ち、10月末には岩手県岩谷堂に初代の父親を訪問して、結婚の承諾を得た。
あとは初代の上京を待つばかりである。
その間にも、初代からの手紙はとどいた。
私は私をみんなあなた様の心におまかせ致します。私のやうな者でもいつまでも愛して下さいませ。
私は今日までに手紙に愛すると云ふことを書きましたのは、今日初めて書きました。その愛といふことが初めてわかりました。
又あなた様のお手紙によれば、11月の中頃に岐阜へ私を迎へに御いで下さいますさうですが、私として、来て下さいますのはどんなに うれしきことでせう。しかし御母様(養母)はどこまでもあなた様や岩佐様のことを悪く申してゐるのです。
11月の1日には行けませんやうになりましたが、10日頃には行きたいと思って居ります。しかしあなた様が岐阜においで下さいます なら待つてをりますが、私があなた様のところへ行つてよければ、十日頃に逃げて行きます。
唯今の私が東京に行つたらよいのか、あなた様に来ていただくか、2つのことをおさしづお願ひ致します。わたしはどのやうなことがあ りましてもお傍へ参らずには居られません。お手紙を待つて居ります。
10月23日の手紙(「彼女の盛装」)を写し出したものだが、いずれの部分にも、稚拙な表現のなかに、みち子の、康成に対する愛情と全幅の信頼があふれている。
康成は、幼いみち子をひとりで上京させるにしのびず、自分で岐阜まで迎えにゆくと手紙を書いたようだ。
これに答えて、みち子は、来てくれるのはありがたいが、養母がふたり(康成と三明であろう)に悪感情を持っているから、かえって事態が難しくなると、婉曲に、迎えに来ない方がよい、と書いている。しかし最終的には、「おさしづお願ひ致します」と康成に判断をゆだねている。
しかも行間にあふれる愛の言葉は、稚拙なだけに、かえって真情がこもっている。「私は今日までに手紙に愛すると云ふことを書きましたのは、今日初めて書きました。その愛といふことが初めてわかりました」とは、何と美しい愛の言葉であろうか。
「わたしはどのやうなことがありましてもお傍へ参らずには居られません」という言葉にも、娘らしい一途な心があふれている。
これに応じて、康成も着々とみち子を迎える準備をすすめた。
秋岡さん(菊池寛)に資金をもらって、本郷に、二間つづきの二階の小ぎれいな部屋を借りた。鍋や釜の所帯道具はもちろん揃えた。
それでも足りずに、みち子のために用意する、若い娘にふさわしい品々を原稿用紙に書きつけた。
鏡台 女枕 手袋 化粧手拭い 髪飾り 針箱
針 糸 指ぬき 箆(へら) 鋏(はさみ) アイロン
鏝(こて) 箆板(へらいた) 鏝台 鏡台掛け 手鏡 洋傘と雨傘
部屋座布団 衣装盆
櫛 ブラッシュ 髪鏝(かみごて) 元結い 髷(まげ)形
手絡(てがら) 葛(かずら)引き 鬢(びん)止め おくれ毛止め
ゴムピン毛ピン すき毛 かもじ
ヘヤアネット 水油 固煉油
鬢附け油 香油 ポマアド 櫛タトウ
康成はこのように準備万端をととのえて、いったいみち子とどんな暮らしをしようと考えたのだろうか。この結婚に何をもとめていたのだろうか。
私はその娘の膝でぐつすりと寝込んでしまひたいと思つてゐたのだつた。その眠りからぽつかり目覚めた時に、自分は子供になつてゐる だらうと思つてゐたのだつた。幼年らしい心や少年らしい心を知らないうちに、青年になつてしまつたと云ふことが、たへ難い寂しさだつたのだ。 (「大黒像と駕籠」、『文藝春秋』1926・9・1)
ここでようやく、康成がみち子にもとめていたものが明らかになる。
康成には、自分が両親を知らず家庭の味を知らずに育った、という抜きがたい寂しさがあった。
みち子はどうだろうか。
みち子もまた、早くに母親を失い、父親や妹と別れて育ってきた。自分と同じように、幸福な少女時代をもたなかった。
そのふたりが結ばれることによって、ふたりとも子供に返る――娘の膝でぐっすり眠りこんでしまいたいとは、そんな願いをこめた表現だった。娘もまた自分のふところでぐっすり眠る――そうしてぽっかり眠りから目覚めたとき、幸福な少女に戻っている。……
康成がみち子にもとめたのは、そのような幸福の形だった。そうして、この願いは達せられたのだろうか。
「非常」の手紙
「非常」は、「みち子もの」の中核となる作品である。主人公の「私」は北島友二という名、友人の柴田は三明、そして新進作家の吉浦は横光利一、今里氏は菊池寛と、モデルはすぐわかる。
今里氏は人通りの中で無造作に大きな蟇口(がまぐち)から札(さつ)を出して「私」にくれる。明日引っ越しをする「私」の資金である。
上野広小路で今里氏に別れると、「私」は友人の柴田を訪ね、誘い出して、冬の座布団を五枚買う。
「鏡台、お針道具、女枕――みち子が来るまでに買はなければならない品々が私を追つかけてゐる。」
「私」は明日その二階へ引っ越す家に立ち寄る。その家の主人と対話する。
「では、明日御一緒に?」
「明日は僕一人です。4、5日のうちに岐阜へ迎へに行くんです。」
実際4、5日のうちに迎へに行くはずなのである。みち子からその日を報せてくる手紙を私は待つてゐるのだ。その手紙が来さへすればいいのだ。なんとかして、みち子が東京に来てしまひさへすればいいのだ。
そして浅草の下宿に帰ると、みち子の手紙が来ている。「私」は2階へ駆け上がった。みち子が東京に来たと同じではないか。
しかし、その手紙は、余りにも意外な文面だった。
おなつかしき友二様。
お手紙ありがたうございました。
お返事を差上げませんで申しわけございませんでした。お変りもなくお暮しのことと存じます。
私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。私今、このやうなことを申し上げれば、ふしぎにお思ひになるでせう。あ なた様はその非常を話してくれと仰しやるでせう。その非常を話すくらゐなら、私は死んだはうがどんなに幸福でせう。
どうか私のやうな者はこの世にゐなかつたとおぼしめして下さいませ。
あなた様が私に今度お手紙を下さいますその時は、私はこの岐阜には居りません、どこかの国で暮してゐると思つて下さいませ。
私はあなた様との○! を一生忘れはいたしません。私はもう失礼いたしませう――。
私は今日が最後の手紙です。この寺におたより下さいましても私は居りません。さらば。私はあなた様の幸福を一生祈つて居りませう。
私はどこの国でどうして暮すのでせう――。
お別れいたします。さやうなら。
おなつかしき友二様
「私」は茫然としながら、幾度も手紙を読み返す。消印を調べると、岐阜、10年11月7日、午後6時と8時との間、である。
「私」は柴田のところへ駆けつける。
「非常」とは、いったい何だろう。
處女でなくなったこと?
生理的欠陥?
悪い血統か遺伝?
明るみへ出せない、家庭の、親か兄弟の恥?
○! も、わからない。
いずれにしても、わからない。もう、あの寺にはいないんだろうか? とすれば、今、どこにいるのだ。東京へ来る汽車にでも乗ったのだろうか?
そのとき、柴田がぽつりと言う。
「この前来ると言つた時に、東京に来さしてしまへばこんなことはなかつたんだ。機会の前髪を掴まなかつたからいけないよ」
――10月の中頃に来たみち子の手紙のことだった。11月の1日に岐阜を逃げ出すから汽車賃を下さいと言ってよこしたのである。
しかしそのとき、みち子は5歳年上の近所の娘と一緒に来る、というのだった。「私」はそれが不愉快だった。
東京へ着く時は、みち子一人であってほしいのだ。みち子の感情を真っ直ぐに一ところへ向けて置いて、それを真っ直ぐに受け取りたいのだった。
そんなことで「私」は、みち子が近所の娘と一緒に来ることに反対したのだった。
その時のことを柴田に言うと、「なんだ。女一人くらゐ僕がなんとでも片づけてやつたんだ」と言った。
今になってみれば、あんな綺麗好きなことを言はなくて、とにかくみち子を東京へ受け取つてしまつておけばよかつたのだと、「私」もひしひし感じる。しかしもう遅い。
とにかく「私」は今夜の夜行で岐阜へ行くことにする。友人たちから金を借り集め、岐阜の寺へ電報を打っておく。
ミチコイヘデスルトリオサヘヨ
もちろん差出人の名は書かない。みち子を家出させようとしている「私」が、取り押さえよ、というのだから。
東京駅の待合室で「私」は今里氏に手紙を書く。柴田を行かせるから、また金を貸して欲しいと。
汽車の窓から首を出して、「私」は柴田にきっぱり言った。
「みち子のからだがよごれてゐないなら何としても東京へつれてくる。若(も)しだめになつてゐたら、国の実父の手もとへ帰れるやうにしてやらう」
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川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(5)
岐阜のみち子
みち子は、もう寺にはいない、と書いていた。とすると、いったいどこにみち子はいるのだ。岐阜の町のどこかだろうか。それとも汽車に乗って東京に出てくるのか。
夜汽車に乗っている間にも、「私」は必死でみち子の姿を探した。
新橋や品川の、明るいプラットフオウムの女たちを一人も見落とすまいと、眼を痛くした。
そうして翌朝、岐阜につく。
車に乗り、車を待たして寺に入ると、内庭に面した障子のない部屋で養母が縫い物をひろげている。落ち着いた姿だ。
「私」は挨拶をする。「東京から今着いたのです」という。
養母は驚いて、「わざわざ?」
「ええ。お話したいことがありまして参つたのです」
「みち子のことでございますか」
「さうです」
「この頃はみち子を決して家から外へ出さないやうにして居ります」
「え! うちにいらつしやるんですか」
「ええ。使ひにも一人では出してやりません。ちつとも目が放せません」
ようやく養母は寺に上げてくれる。そして、みち子を呼ぶ。
「みち子。みち子。」
音がない。私は固くなつた。養母は隣室へ立つて行つた。襖(ふすま)が明いた。
「いらつしやいまし」
針金のやうな声で、みち子が両手を突いてゐる。
一目見て、私の心はさつと白くなつた。その瞬間は怒りでも喜びでも愛でも、失望でもない。私は謝罪の気持で縮かんだのだ。
この娘のどこが一月前のみち子なんだ。この姿のどの一点に若い娘があるのだ。これは一個の苦痛のかたまりではないか。
顔は人間の色でなくかさかさに乾いていた。白い粉が吹いていた。干魚の鱗のやうに皮膚が荒れている。
この姿は、昨日今日の苦痛の結果ではない。この一月の間にみち子は、毎日父母と喧嘩をしている、泣いている、という手紙を十通「私」によこした。みち子には手紙の上ではなく、現実の苦痛だったのだ。
どんな「非常」があるのかは分らない。しかし、私との婚約がみち子を挽(ひ)きつぶしたのだ。その重荷に堪へられなくてあの手紙か。
一個の苦痛が私に近づいて、火鉢の向う側に硬く坐つた。
作品「非常」は、ここで終わっている。「非常」の手紙も衝撃だったが、このみち子の憔悴した姿も、康成には衝撃だったのだ。自分と婚約したという一事が、みち子をこんなに憔悴させている。
康成には、空しく東京に帰っていくしか方途がなかった。
その後のみち子
その後も、みち子から手紙は来た。しかし最後の手紙は康成をうちのめした。
私はあなた様のお手紙を拝見いたしましてから、私はあなた様を信じることが出来ません。
あなた様は私を愛して下さるのではないのです。私をお金の力でままにしようと思つていらつしやるのですね。(中略)
私はあなた様を恨みます。私は美しき着物もほしくはありませんです。私がいかにあなた様の心を恨むことか。私を忘れていただきませう。私もあなた様を忘れます。
あなたは私が東京に行つてしまへば、後はどのやうになつてもかまはないと思ふ心なんですね。(中略)
あなた様がこの手紙を見て岐阜にいらつしやいましても、私はお目にかかりません。
あなたがどのやうにおつしやいましても、私は東京には行きません。
手紙下さいましても、私は拝見しません。
私は自分を忘れ、あなた様を忘れ、真面目に暮すのです。私はあなた様の心を恨みます。私を恨みになるなら沢山恨んで下さい。(中略)
私は永久にあなたの心を恨みます。さやうなら。
11月24日 「彼女の盛装」『新小説』1926・9・1)
ところが、それから幾ばくもなく、みち子が東京に現れて、本郷3丁目のカフェ燕楽軒に勤めている、と友人が報せてくれる。康成はその店に行く。とりつく島もないような、みち子の態度であった。そしてまもなく、店を変わってしまう。
新しい店は、浅草の大カフェ・アメリカだった。また友人が報せてくれて、康成はその店へ行くが、みち子は当てつけのように21歳の学生内藤(仮名)の下宿に泊まったりする。その下宿にまで追いかけた康成であったが――その一段を描いたのが「霰」(あられ)(原題「暴力団の一夜」)である――しかし、ついにみち子は、康成の前から姿を消してしまった。
みち子の幻影
いったい康成は、みち子のどこにそれほど惹かれたのだろうか。康成の眼に、みち子はどう映ったのだろうか。
カフェ・エランで見たみち子の姿を、康成の仲間であった鈴木彦次郎は、次のように回想している(「新思潮前後」、『太陽』8月号、1972・7・12)。
エランは、カフェというよりも、むしろ、喫茶店というほうがふさわしい地味な店だった。マダムは、30をちょいと出たか、大柄な、目鼻立ちのぱっちりした女性で、いつも、こんな商売とも思えない主婦並みな束髪を結っていた。その養女格に、ちよと呼ぶ14の少女がいた。
ちよは、すきとおるような皮膚のうすい色白な小娘であったが、痩せぎすの薄手な胸のあたりは、まだ、ふくらみも見えず、春には程遠い、かたいつぼみといった感じであった。でも、マダムの好みか、たいていは、やや赤味がかった髪を桃割れに結い上げ、半玉ふうなはで な柄の着物に、純白なエプロンをつけ、人なつっこく、陽気に歌など唄いながら、卓子のまわりを泳ぎまわっていたが、時折、ふっと押し だまると、孤独な影が濃く身辺にただよって、さびしげに見えた。(中略)
マダムは、……私どもは「おばさん」と、呼んでいたが、ちよを実の娘のように可愛がっていて、時たま、酔っぱらいの客が、彼女に悪 ふざけなどすると、たちまち、目に険を見せて、
「止して下さい。大事な娘をからかうのは!」
と、きつく極めつけるのであった。
この印象は、カフェ・エランの雰囲気と、みち子の姿を非常に正確に捉えていると思われる。康成自身もまた、みち子のことを、「篝火」の中で、次のように描写しているからである。
私は歩いてゐるみち子を見た。体臭の微塵もないやうな娘だと感じた。病気のやうに蒼い。快活が底に沈んで、自分の奥の孤独をしじゆう見つめてゐるやうだ。
康成たちと初めて出合ったとき、みち子は数え14歳で、鈴木彦次郎がいみじくも表現しているように、「すきとおるように皮膚のうすい色白な」小娘で、「痩せぎすの薄手な胸のあたりは、まだ、ふくらみも見えず、春には程遠い、かたいつぼみといった感じ」であったに違いないのである。
その、まだ成熟していない少女に、康成は恋した。あれから2年たっているが、数え16歳のみち子はまだ十分には成熟していなかっただろう。その小娘に、「結婚」という重大事を突き付けたのだ。
その結果が、みち子の落ち着きのない半狂乱状態をみちびきだしたのだった。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/e657a19f59ad6bfc5e40e45d44da751a
川端康成の手紙 初恋 運命のひと 伊藤初代(6)
康成の執着
康成が書いた「南方の火」という作品は、現在、4編が残されている。康成の執着を語る、作品の多さだ。
第一は、一九二三年七月十日、再刊された『新思潮』創刊号に載せた作品である。しかし康成はこの作品を未熟と見て、生前、どの刊行本にも全集にも載せなかった(37巻本全集第21巻収録。)。
第二は、この『新思潮』作品の続稿と思われる原稿用紙四枚の断片である(37巻本全集第24巻収録)。
第三は、のち小林秀雄たちと『文学界』を創刊したとき、それに連載しようと一度だけ掲載した(1934年7月1日)したものの、息がつづかず、そのままに放置されたもの(三十七巻本全集第22巻収録)。
第4は、1927年8月13日から12月24日まで、129回にわたって連載された、康成の初めての新聞小説『海の火祭』から分離したものである。
この長篇の第12章「鮎」に康成は改訂削除をほどこして、「南方の火」と名づけ、戦後、第一次全集に掲載した(37巻本全集では、第2巻収録)。
これが現在、「みち子もの」の全体を語った完結版というところだろう。しかし内容には「篝火」「非常」「霰」などと重複がある。この長篇を、ここでは完結版「南方の火」と呼ぶことにしよう。
康成は「独影自命」2の7で、その事情について、次のように述べている。
「篝火」、「非常」、「霰」、「南方の火」の四篇は同一の恋愛を扱つた作品である。この事件を書いたものは一つも作品集に入れなかったわけである。
大正10年のことで、私は23歳の学生、相手の娘は16歳、これらの4篇に書いた通りで、恋愛と言へるほどのことではなく、事件と言へるほどのことでもなく、「篝火」で10月8日に岐阜で結婚の約束をしてから「非常」の手紙を受け取るまで僅かに一月、あつけなく、わけもわからずに破れたのだつたが、私の心の波は強かつた。幾年も尾を曳いた。
さうしてほかに女とのことはなかつたので、私はこの材料を貴ぶところから、「篝火」、「非常」、「霰」(原題「暴力団の一夜)などは草稿のつもりで作品集には入れずにおいた。私はこの材料を幾度か書き直さうとして果さなかつた。
こういう事情で「南方の火」は、なかなか成稿にならなかったのである。
しかし「南方の火」という題名について、康成にはよほど執着があったようである。その理由は、「南方の火」に託した、康成の思いの深さにある。
丙午(ひのえうま)の女
「丙(ひのえ)は陽火なり、午(うま)は南方の火なり。」と「本朝俚諺(りげん)」に出てゐる。時雄はこの言葉が好きだつた。火に火が重なるから激し過ぎるといふのだ。弓子は火の娘なのだ。「丙午の二八の乙女」――この古い日本の伝説じみた飾りも彼が夢見る弓子を美しくする花火だつた。その上に弓子の星は四緑だつた。四緑は浮気星だ。四緑丙午だと思ふことは一層彼の幼い小説家らしい感傷を煽り立てるのだつた。
美しくて、勝気で、強情で、喧嘩好きで、利口で、浮気で、移り気で、敏感で、鋭利で、活発で、自由で、新鮮な娘、こんな娘が弓子と同い年の丙午生れに不思議に多いことを、時雄は六七年後の今でも信じてゐる。
(「海の火祭」、「鮎の章)
康成の女性に対するきらびやかな夢を託した言葉――それが「南方の火」だったのである。
漂泊の姉妹
この恋は、婚約してから一ヶ月足らずで終わってしまったが、康成の中では長く尾をひいた。
康成は「独影自命」の中に、古い日記を引用して、繰り返し、みち子への慕情を告白している。
大正11年(注、1922年)4月4日
岐阜の写真屋より送り来し例の写真袋を取り出して、みち子と二人にて撮りし写真を見る。いい子だつたのに、いい女だのにの念しきりなり。彼女の手紙読む。一時は本当に我を思へる如き文言の気配を嗅ぐ。いい性質文面に現はれたりと思ふ。哀愁水のごとし。(3ノ1)
大正12年(注、1923年)11月20日
地震に際して、我烈しくみち子が身を思ひたり。他にその身を思ふべき人なきが悲しかりき。
9月1日、火事見物の時、品川は焼けたりと聞きぬ。みち子、品川に家を持ちてあるが、如何にせるや。我、幾万の逃げ惑ふ避難者の中に、ただ一人みち子を鋭く目捜しぬ。(3ノ4)
大正12年1月14日
九段より神田に徒歩にて出で、神保町近くにて、電車の回数券を石濱(注、金作)拾ふ。金なき折なりしかば、これに勢ひを得て、浅草行きを決す。
松竹館の前に立ち、絵看板を見て、余愕然とす。「漂泊の姉妹」のフイルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。ふと、みち子、女優になりしにあらずやと思ひしくらゐなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子を思ひ、強ひて石濱を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。十四五歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子としか思へず、かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀恋の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを、辛うじて堪ゆ、石濱、「みち子に似てるぢやないか。」余ハツとして「さうかなあ。」と偽りて答へたるも、後で是認す。痛く動かされて心乱る。余の傾情今もなほ変るはずなく、日夕アメリカのみち子に思ひを走らす。(中略)活動小屋を出でしばし言も発し得ず。(4ノ1)
そのころ既に、みち子が浅草のカフェ・アメリカに出て働いていることも、品川辺に住んでいるらしいことも、噂で知っていたようだ。しかし、このような思い込みは、まだつづく。
大正15年(注、1926年)3月31日
大仁駅にて、仙石鉄道大臣そつくりの老人の後より車室に入り来りし女、彼女にあらずや。小説「南方の火」、「篝火」なぞに書いた女だ。傍を通る時、よく見る。首白く、手白し。その昔、彼女手を上げて髪を直す時なぞ、紅き袖口よりこぼるる肘(ひじ)の鉄色なるが悲しかりしを忘れず。20になれば肌白くなるべしと祈るやうに思ひしを忘れず。神わが祈りを哀れみしか、彼女今や白し。されど彼女のうしろに青年紳士の従ふあり。小 意気なる季節の洋服を纏ひ、温雅なる風貌なり。
30を過ぎたるべし。彼女も臙脂色(えんじいろ)のコオトの下に趣味よく着飾れり。賢き女なれば教養ある良家の子女の如き趣味に進みたるらし。二人の身辺に豊かなる生活の匂ひ温かなり。彼女僕に気附けるものの如く、車室の最後部の席に坐す。僕屡(しばしば)、首を廻らして、女の顔を見る。
藤澤駅より片岡鉄兵、池谷信三郎君と共に乗り来る。(中略)
二人座席なかりしかば、僕も席を棄てて立ち話す。これにて彼女の胸から上見ゆ。彼女目を閉ぢ頬を紅らめなぞして、苦痛を現はす。何 が故に苦しむや。僕これを悲しむ。僕憎めるにも咎めるにもあらず。唯単純に顔が見たいのだ。五年振りにて会い、またいつ見られるか知 れぬ顔を見たいのだ。美しくなり幸福になつた顔を明るい気持で見せてくれることが出来ないのか。彼女何が故に苦しみの色を現はすや。 彼女にも巣食へる感情の習俗を悲しむ。(6ノ5)
別れてから5年たっている。あのころ悲しかった鉄色の肘(ひじ)も、今は白くなっている。豊かで幸福な妻になっている。それを康成は素直に祝福したいと思う。それなのに、彼女は顔に苦痛の色を浮かべて自分の視線を避ける。
しかしこれも康成の思い込みに過ぎなかった。みち子が栗島すみ子でなかったように、この女性も遠い別人であった。
というのは、そのころみち子は、悠長な旅行を出来るような境地にはいなかったからである。
前引『伊藤初代の生涯』によると、そのころすでに初代は、浅草のカフェ・アメリカで支配人をしていた中林忠蔵と結婚し、一女珠江をもうけていた。中林は長身の美男子であった。多くの女給の中から、支配人であり目の肥えた中林が初代を妻に迎えたということは、初代のよき気質を見抜いてのことであったろう。
ところが1923(大正12)年の関東大震災でカフェ・アメリカも倒壊した。とてもすぐには再建できない。
青森県黒石町(現、黒石市)の出身であった忠蔵は、思い切って仙台に行き、そこでカルトンビルのカフェに勤め、支配人になった。カルトンビルは、当時、仙台で唯一の五階建てビルであったという。忠蔵は能力を買われたのであろう。
11月、初代は母となった。逆算すると、遅くとも1922年(大正11年)末には、中林と結婚していたことになる。
母となった初代は、江刺から父親忠吉と妹マキを招いた。苦労した父に孝養を尽くすことが、初代の永年の夢だったからである。しかし忠吉は来ず、マキだけが来た。
それでも、4人の幸福な生活が現出した。初代の生涯で、あるいはいちばん幸福な時期であったかもしれない。
1924年になって、忠蔵が病に倒れた。結核性の病気であった。よい医者のいることを考え、一家は東京に戻ることにした。赤ん坊の珠江は忠蔵の伯父にあずけ、マキを連れて東京に出た。初代はふたたびカフェにつとめて夫の療養費をかせいだ。妹マキが忠蔵の世話をした。
忠蔵は1926(大正15)年の半ばに世を去った。初代は夫の郷里黒石で立派に法要をいとなんだ。
そのような夫の療養のさなかに、初代が鎌倉近くの汽車に乗るはずもなかった。すべて康成の幻想である。
岐阜・長良川の「篝火」において頂点に達した康成の夢は、こうして無惨な終幕を迎えることになった。
そして時間を経るにつけ、結婚の約束をして長良川の鵜飼を見た、あのときの情景が、あたかも原風景のように、康成の脳裡に浮かぶようになったのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/6b3463112ea4f24da758ea5dd9c2089b
川端康成の初恋 手紙 運命のひと 伊藤初代(7)
6年後の「時代の祝福」
この時から6年たった1927(昭和2)年、5月末から康成は改造社の「円本」宣伝のため、講演旅行に加わり、池谷信三郎、新居格、高須芳次郎と4人で大阪、奈良、津、桑名、岐阜、和歌山……とまわった。
このとき岐阜を再訪した康成の、事実を基礎として書いたと思われる興味深い小説「時代の祝福」が、〈未発表作品〉として、37巻本『川端康成全集』第26巻(新潮社、1982・10・20)に収録されている。
この小説は、6年後の6月初めに、講演旅行で偶然に岐阜に立ち寄ることになった「彼」が、講演を途中で切り上げて長良川ほとりの宿に急ぎ、鵜飼の篝火を見る、というものである。
この作品の重要性については、早くに川端香男里が「川端康成の青春――未発表資料、書簡、読書帳、『新晴』(二十四枚)による」(『文学界』1979・8・1)のなかで、次のように紹介していた。
一番風変りなものとしては、26枚の未完の下書き『時代の祝福』がある。これは『篝火』でも書かれている長良川の鵜飼の描写から始まる。女主人公は16歳の加代子、ただこれは後日譚で、講演旅行に岐阜が選ばれた時に、その機会を利用して、加代子といっしょに鵜飼を見たことを思い出して、また長良川に行こうと空想する。草稿はその時に聴衆を前に講演するという話が大部分を占めている。大震災の話、心霊学の話がきわめてシニカルな口調で語られている。
これ以後、この作品について触れているのは、『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版、1998・6・20)の原善「時代の祝福」があるばかりであった。原は、作品執筆の時期を「昭和2年5月以降昭和2年内の執筆」と推定し、「その時期に何故『篝火』の体験を相対化するような作品を書こうとしたのか」などを今後の研究課題として挙げている。
この、いわば忘れられた作品に光を当てて愛情をこめて論じたのが金森範子「―川端文学―『時代の祝福』を読む」「『西国紀行』と『時代の祝福』」(いずれも『小品』第32集、2012・11・14)の2論考である。
岐阜市に住む金森は、「篝火」に描かれた鵜飼の篝火の場面と、「時代の祝福」の冒頭にたっぷりと描かれた6年後の篝火を見る「彼」とを重ねて、そこに康成の、忘れられぬ深い愛着を見るのである。
「彼」は「8時が近づいて参りました。もう川原に篝火が燃え出した頃と思ひます。私は鵜飼を見に行かねばなりません」と強引に講演を打ち切って長良川の宿に急ぐ。
鵜飼いの感動的な描写
闇が流れてゐる――彼には広い川幅が布のやうに沈んだ闇の滑らかな肌に見えた。それだけに、漂つて来る7つの篝火は感情的だつた。1列に並んだ篝火は次第に房のやうな長い尾を振り初めた。黒い船の形が火明りに浮び出した。鵜匠が、中鵜使ひが、そして火夫が見えた。楫で舷(ふなばた)を叩いて声をはげます舟夫が聞えた。松明の燃えさかる音が聞えた。舟は瀬に乗つて、彼の宿の川岸へ流れ寄つて来た。舟足は早かつた。彼はもう篝火の中に立つてゐた。炎の旗が船からゆらゆら流れてゐた。
黒い鵜が舷でしたりげな羽ばたきをしてゐた。(中略)烏帽子のやうな頭巾をかぶつた鵜匠は舳先(へさき)に立つて、12羽の鵜の手縄を巧みに捌いてゐた。
彼は頬に篝火を感じた。この焔があかあかと映つてゐた加代子の頬を思ひ出した。その時彼女は云つた。
「あら、鮎が見えますわ。」
「どこ、どこ。」
「ほら、あすこにあんなに泳いでゐますわ。」
彼は今もまた篝火が萌黄色に透き通つた水底を覗き込んだ。しかしやつぱり鮎は見えなかつた。
「時代の祝福」は3章から成っている。冒頭と第3章が鵜飼の篝火の場面で、第2章は「彼」の講演の内容である。
その冒頭で「彼」は宣言する。
私の処女作は「篝火」といふ小説でしたが、舞台はこの岐阜です。つまり、長良川の川岸の宿から娘と一緒に鵜飼の篝火を眺める、だから「篝火」といふ題を附けたのでした。さつき出がけに玉井屋旅館で聞きますと、今
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2022/05/23 (Mon) 10:36:09
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その冒頭で「彼」は宣言する。
私の処女作は「篝火」といふ小説でしたが、舞台はこの岐阜です。つまり、長良川の川岸の宿から娘と一緒に鵜飼の篝火を眺める、だから「篝火」といふ題を附けたのでした。さつき出がけに玉井屋旅館で聞きますと、今夜は中鵜飼で八時の船出ださうですな。これから半時間ばかりしやべつて居りますと、ちやうど8時になりますが、そしたら話の糸口であらうと中途であらうと、仔細かまはずこの演壇を逃げ出して、もう1度長良川へ船の篝火を見に行くつもりであります。
2つの鵜飼の篝火の場面の間に置かれた、この講演の内容は、まことに乱雑である。人工妊娠、発生学の研究、輪廻転生説、心霊学……のちの「水晶幻想」、「海の火祭」、「抒情歌」の先触れとなるような素材を乱暴に書きなぐっている。
そして最終章では、篝火が消えはじめる。
篝火の消えた川を見てゐてもしかたがなかつた。向ふ岸に町外れのともし火があるにはあつた。しかしそれが沈めたやうに低く見えた。そしていぢけて見えた。その上に、彼は加代子とこのともし火を見たことを思ひ出さずに弓子を思ひ出した。
加代子とは、伊藤初代のことである。その思い出をふたたび体験するために宿に帰って篝火を見たというのに、作品の最後では、別の女性・弓子を思い出しているのである。弓子とは、「彼」の処女作品集の出版記念会で見た女性であると、作品の末尾に明かされている。
このように、婚約のあと美しい表情を見せた初代の思い出を確かめるために宿に帰ったはずの「彼」の、予想外の心変わり――原善のいう「相対化」によって、この作品は閉じられている。
貴重な記録「西国紀行」
同じ年の『改造』8月号(1927・8・1)に発表された「西国紀行」は、金森が指摘しているように、「時代の祝福」の背景を知ることのできる貴重な記録であるが、そこには、「講演会の時間に後れるので、大垣駅から自動車で急ぐ。途中岐阜郊外の名物の雨傘を作る家の多い加納町を注意してゐたが、通つたか通らないかも分らぬうちに玉井屋旅館に着いてしまふ。加納町は小説『篝火』に書いた思ひ出がある」と記されている。金森が解説を加えているように、「篝火」冒頭は「岐阜名産の雨傘と提燈を作る家の多い田舎町」と始まるが、「加納」という地名は書かれていない。しかし康成の脳裡には、しっかりと、この地名が刻まれていたのである。
さらに、5月30日、「講演を8時にすませ、僕一人長良川へ急ぐ。長良橋を渡り、北詰の鐘秀館へ行く。『篝火』に書いた鵜飼の篝火を見たのも、矢張り鐘秀館の二階だつた」と記し、旧作「篝火」の一節を書き写したあと、「今日も同じである。公園の名和昆虫館にも思ひ出があるが、そこの名和氏はこの間死んだと新聞で見た」と書いている。
6年前、康成は名和昆虫館も、紹介されて見学に行ったのだった。つまり康成は「西国紀行」においては「相対化」することなく、素直に岐阜の思い出の一つ一つに深い愛着を示して、1字1字刻むように、6年前の記憶を反芻しているのである。
それほどに、六年後においても、伊藤初代の思い出、とりわけ結婚の約束をしたあとで一緒に鵜飼の篝火を見た、そのときの美しい顔を決して忘れることはなかったのである。
そして、私は篝火をあかあかと抱いてゐる。焔の映つたみち子の顔をちらちら見てゐる。こんなに美しい顔はみち子の一生に2度とあるまい。
「篝火」は、康成が一瞬に見た美しい夢であった。だが、康成の描いた、その夢を、だれが非難することができようか。ただわたくしたちは、康成の描いた美しい夢の物語が永遠に喪われたことを、慨嘆するほかにないのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9e3c029700cb22dfd916aa455ae64138
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2022/05/23 (Mon) 10:37:23
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川端康成の初恋 伊藤初代 10年後の再会「父母への手紙」(1) 2014-07-22
")「抒情歌」(じょじょうか)から「父母(ちちはは)への手紙」へ
康成にとって、「抒情歌」の書かれた昭和7年(1932年)は、重要な転機をなす年であった。
「抒情歌」と踵を接して「父母への手紙」が書きつがれ、翌昭和8年には「禽獣」が発表され、さらに10年から『雪国』の断続掲載がはじまる。また、康成のこの期における自己確認の書「末期の眼」と「文学的自叙伝」が8年と9年に書かれている。
川端康成は自作の意味するところを最もよくわきまえた、鋭利な批評精神の持ち主であった。たとえば敗戦後の再出発期には「哀愁」、昭和40年代には「美しい日本の私」というように、生涯のそれぞれの転機に、それまでの歩みを検証し、再出発のための文学理論を提示することによって、あらたな創造の世界に踏みこんでゆくという、きわめて自覚的な作家であった。
そのような康成の、初期作品に訣別し、新しい一歩を踏みだそうという時期に「抒情歌」は書かれているのである。
しかもこの昭和7年(1932年)は、康成の青春を支配したといっても過言ではない伊藤初代と、1922(大正11)年に別れてから、ちょうど10年めにあたる年であった。康成の一人相撲といってもよいこの恋愛もようやく緊張が薄らぎ、康成の内部で整理されて、客観的にこの愛の意味を顧みる余裕のできた時期である。
初代との再会があったのは「抒情歌」の発表直後、羽鳥徹哉によれば、この年の「『文学時代』4月号締切まぎわの3月頃」であるが、すでに再会以前に、康成の内面において、この一方的な恋愛はほぼ正確に見据えられていたと思われる。
すなわち愛とは執着であり、そのよって来たるところは人間の自我にほかならぬ、という認識である。この絶望的な認識を得るまでに、康成は10年間の痛切な葛藤の期間を必要としたのである。その結果として発見されたのが、自我を離脱し、執着を滅却して「偽りの夢に遊ぶ」という秘法であった。
草花への転生という「抒情歌」の奇抜な発想は、みずからの苦い10年間の執着の果てに生みだされたものなのである。
川端文学初期の根本的テーマが〈孤児根性〉であることは言うまでもないが、その〈孤児根性〉からの脱出のねがいをこめた初代との恋愛もまた、康成を救抜してはくれなかった。「父母(ちちはは)への手紙」は、亡き父母に呼びかける形式によって、〈孤児根性〉の本質をいま1度問い直し、そこからの脱却を宣言した作品である。
「抒情歌」もまた、いまは亡き恋人に語りかける形式によって、わが青春を支配した愛からの離脱を歌った物語であるといえる。
最終的には、因果応報の輪廻思想を除いた仏教=ギリシア神話の花ことばに帰依することにより、自我を離脱して自由な世界に羽ばたくという「おとぎばなし」を造型し得たのである。
かくて康成は初期のテーマに一応の決着をつけ、「禽獣」から『雪国』に至る次の道程に踏みだしてゆくのである。
川嶋至の伊藤初代論
ところで、康成の青春に深い影響を残した伊藤初代のことは、第1章第6節、第7節において述べたが、ここでふたたび、初代の存在が大きな意味をもつことになる。
作品における初代の役割を最初に指摘したのは山本健吉の前掲『近代文学鑑賞講座13 川端康成』を嚆矢(こうし)とするが、実地調査を加えて、という面からすると、三枝康高「特別レポート 川端康成の初恋」(『川端康成入門』有信堂、1969・4・20)、長谷川泉「川端康成における詩と真実」(『川端康成論考 増補版』1969・6・15)、羽鳥一英(徹哉)の「愛の体験・第1部」「愛の体験・第2部」「愛の体験・第3部」を収録した『作家川端の基底』(教育出版センター、1979・1・15)を挙げなければならないだろう。
特に羽鳥の重厚な3部作は、伊藤初代の全体像を俯瞰したという意味で逸することのできぬものである。
地道な実地調査によって貴重な発見をした点で、田村嘉勝の功も大きい。
しかしながら、伊藤初代の存在を広く世に知らしめたという点では、川嶋至の果たした役割に及ぶ者はないであろう。
川嶋は早くも大学院時代に伊藤初代の存在に着目し、「『伊豆の踊子』を彩る女性」(上下)を発表したが、これは注目されることなく終わった。
川嶋はこの仮説にみずから信ずるところがあったのだろう、細川皓の名で雑誌『群像』の新人文学賞に応募した。
入選はしなかったが、選考委員のひとり伊藤整の推挽によって、この評論は『群像』1967(昭和42)年年9月号に「原体験の意味するもの―『伊豆の踊子』―」として発表された。
さらに、これを機縁に、講談社から川端康成論を書く機会を与えられた川嶋は『川端康成の世界』(1969・10・24)を出版した。
この書において川嶋は、伊藤初代をモデルに描いた康成の一連の作品を非常に重要なものと考え、康成が青春時代の日記において、この女性に佐川みち子と名づけて記していることから、これらの作品を「みち子もの」と呼んだ。(一方、三枝(さえぐさ)康高は、「ちよ物」と呼んでいる。
……私は、この恋愛事件を川端氏の生涯の転機となった決定的な事件と見るし、後で触れることになる、事件の後日談と合わせて、氏の文学の方向を決めた、いわば川端文学解明の重大な鍵と見るのである。
川嶋はこう考え、鈴木彦次郎、三明永無ら当時の友人、それに初代の妹まきなどに面接して独自の調査をおこなった。
この調査をもとに、川嶋は「伊豆の踊子」について、驚嘆すべき仮説を発表した。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/72478de8526256ee001679d129f28fd5
川端康成の初恋運命のひと 伊藤初代 10年後の再会(2)
川嶋至の仮説
川嶋の所説の中心は、以下の点であった。
康成がはじめて伊豆に旅して踊子と旅をともにしたのは、1918(大正7)年の秋である。
一方、康成がみち子の不可解な翻意によって深く傷心したのは、3年後の1921(大正10)年の秋だ。
康成が、のちに「伊豆の踊子」となる踊子との旅を描いた草稿「湯ケ島での思ひ出」を書いたのは、1922(大正11)年の夏である。それは、みち子によって傷ついた自己の心を癒すことを目的に、いわば自然発生的に描かれたものであった。
その草稿に、4年も前の踊子の像よりも、つい最近のみち子の像が入りこんだのではあるまいか。
みち子との恋愛のはかなさを思うそうした日々に、川端氏の脳裏に去来したものは、寝顔の目尻にさしていた古風な紅も鮮かな、幼く氏を慕ってくれた踊子の姿であったろう。
四年前の踊子は、「湯ケ島での思ひ出」を書く川端氏の眼前に、一年前のみち子の面影を帯びて現われたのである。四年前の、印象も薄れかけた踊子の姿を、失恋の記憶もなまなましいみち子の面影によって肉づけするということは、あり得ないことではない。もしそうであったとすれば、川端氏にとって、「伊豆の踊子」は、古風な髪を結い、旅芸人姿に身をやつした、みち子にほかならなかったのである。
川嶋はこの説の根拠に、大正12年1月14日、浅草の松竹館の前に立った康成が絵看板を見て愕然とした、あの日記を挙げた。
「漂泊の姉妹」のフィルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子 を思ひ、強ひて石濱(友人)を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。14、5歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子と しか思へず。かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀愁の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを辛うじて堪ゆ。
この日記は「湯ケ島での思ひ出」の書かれた翌年のものであるが、日記である以上、純粋な体験による告白とみてよいであろう、として、川嶋は、ここではみち子像と「伊豆の踊子」像が康成の脳裏で一致した姿を現出している、と断定した。
さらに川嶋は、「伊豆の踊子」の最終部分と、「非常」の一節の似通った描写を挙げた。
「伊豆の踊子」の最終部分には、踊子と別れた「私」が、船中で、入学準備に東京へ行く河津の工場主の息子である少年から親切にされる場面がある。
「非常」にも、みち子の不可解な手紙を受け取った主人公が夜汽車に乗って岐阜へ行く途中、汽車のなかで、向かい合った学生から親切にされ、それに甘える場面がある。
これを川嶋は、「伊豆の踊子」の主人公と「みち子もの」の主人公が共通した心の動きを示す例として、次のように結論づけた。
こうしたことからも、「伊豆の踊子」が、4年前に出逢った記憶も薄れかけた踊子の姿を、1年前に別れていまだ印象も鮮かなみち子の姿で補色し、氏のみち子に対する強い慕情を踊子に対する淡い恋心にすりかえるという作業を通して成立した作品であることは、ほぼ確実 であろう。
康成の反応
この仮説を読んだ康成は驚愕したらしい。そのとき雑誌『風景』に連載していたエッセイ『一草一花――「伊豆の踊子」の作者――』に、その驚きを率直に表明した。
作者の私には、この「仮説」は思ひがけないものであつた。あるひは、気がつかないことであつた。「伊豆の踊子」の面影に「みち子」の面影を重ねることなど、まったく作者の意識にはなかつた。踊子と「みち子」とのちがひは、まだ20代の私の記憶で明らかだつたし、踊子を書く時に「みち子」は私に浮かんで来なかつた。
しかし、「伊豆の踊子」の草稿である「湯ケ島での思ひ出」を書いた、大正11年、23歳(数え)の私は、恋愛(ではないやうな婚約)の「破局」の前後だから、相手の娘は強く心にあった。(中略)これは(注、受験生のこと)2つとも事実あつた通りなので、いはば人生の「非常」の時に、2度、偶然の乗合客の受験生が、私をいたはつてくれたのは、いつたいどういふことなのだらうか、と私は考へさせられるのである。ふしぎである。
(「一草一花」13、1968・5・1)
川嶋の説に対して、珍しく康成は反論を加えている。自作を解説することは、自作を狭めることだというのが持論の康成には、珍しいことであった。
このような論や調査によって、伊藤初代の全体像は、かなり明らかになったといえる。しかし、それは初代との別れがどれほど深い傷跡を康成に残したか、が中心であった。
初代との再会
川嶋至の仮説は、「伊豆の踊子」にとどまらなかった。
『川端康成の世界』の第五章「ひとつの断層―みち子像の変貌と『禽獣』の周辺―」において、初代と康成がその後、再会したことを述べ、そのとき康成の感じた深い幻滅が、康成の人間観、文学観に大きな影響を与え、それが作風に根源的な変化をもたらした、と詳細に論じた。
そののち、川嶋はさらに、初代がのちにつとめた浅草のカフェ・聚楽(じゅらく)に、同じ時期、新人作家であった窪川いね子(のちの佐多稲子)が女給としてつとめ、そのカフェの内幕を「レストラン・洛陽」(『文藝春秋』昭和4年・9・1)に描いて発表したとの情報を得て、「レストラン洛陽」を読み、それについての論考を発表した。
「『レストラン洛陽』の夏江」(『北方文芸』1970・6・1、のち『美神の叛逆』北洋社、1972・10・20に収録)がそれである。
そのなかで川嶋は、佐多稲子自身が、文壇に出発して間もないころ、その作品を川端康成が文芸時評で賞讃してくれ、そのおかげで作家として立つ自信が出来たと述べている、とも明かした。
しかしこのとき、川嶋は、康成のその文芸時評を手にすることはできなかった。まだ今日のような整備された37巻本全集もなく、基礎研究がそのあたりに及んでいなかったからである。
しかし川嶋は、かなり詳細にこの作品の内容を語り、初代の最初の結婚生活が初代にどのような結果をもたらしたかを、窪川いね子の作品から抜き出して、説明している。
だがこれについて語る前に、康成と伊藤初代の再会が、どのように果たされたのかを、明らかにする必要があるだろう。
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川端康成の初恋 運命のひと伊藤初代 10年後の再会(3)
上野桜木町の家
この再会は、上野桜木町36番地の家を、ある日突然、初代が訪問してきたことによって果たされた。
その時期については、川嶋は「別れてから、ちょうど十年め」という言葉を根拠に、「父母への手紙」第1信発表までの「昭和6年末から7年1月までの間」とし、羽鳥は、「父母への手紙」第2信(原題「後姿」、『文学時代』1932・4・1)中の記述「一昨日」から、その原稿締切寸前の「昭和7年春」と推測している。
川端秀子『川端康成とともに』も「昭和7年3月上旬」としている。
しかし、いずれも曖昧な推測で、その訪問が一度だけのものであったのか、幾度かあったのかも、明確ではなかった。
ところがつい最近、精細な論証によって、訪問の時期と回数が明確にされた。
森晴雄の掌篇小説論「川端康成『父の十年』――『旅心の美しさ』と『明るい喜び』」がそれである。
「父の十年」は四百字詰原稿用紙約十枚の『掌の小説』であり、『現代』1932(昭和7)年6月号に掲載された作品であるが、生前、単行本未収録であった。37巻本では第21巻に収録されている。
伊藤初代との結婚を許してもらうために父親を訪ねた旅と、それから10年後に初代と再会した事実を素材として描かれた作品である。
森によれば「過去の”古傷”を明るく清算する内容」であり、「父母への手紙」第2信との違いは大きい。
森はそこから論を進め、初代との再会が康成自身の発言からも、2度あったことを明らかにし、同じ1932(昭和7)年3月号に発表された「雨傘」(『婦人画報』)と「見知らぬ姉」(『現代』)の発行日などを勘案しながら、初代の訪問は1度目が二月前半、2度目は3月上旬、と推測する。論証の詳細な内容は本論を読んでいただくしかないが、その思いがけぬ再会が康成の内部に大きな波紋を起こしたので、この訪問の回数や時期も問題となってくるのである。
「後姿」
では、再会した初代は、作品中でどのように描かれているのだろうか。
「父母への手紙」第2信は、『文学時代』1932年4月号に、「後姿」と題して発表されている。
その中に、初代とおぼしき女性が康成の家を訪ねてきたことを、次のように書いているのである。
長いので、ところどころを引用すると、
「……実は一昨日、ちやうど10年目で、その少女が私の家へ訪れて来たのですよ。そしてたいへん寂しい後姿を残して帰つて行つたのですよ。」
私は後姿といふ言葉を、幾つもこの手紙に書きましたけれども、人間が人間の後姿を、深く心に刻みつけるほど感情こめて見る折は、さうたくさんないのではないかと思はれます。一昨夜の少女の後姿などは、確かにその見る折の少い後姿の1つでありましたでせうか。彼女は夕方の6時頃に来て、11時頃に帰つて行つたのでありましたが、玄関へ送り出してみると、もう夜もおそいので、うちの女共が銭湯の帰りに閉めたものか、雨戸が引いてありましたから、それをあけるついでに、黒い羽織の上へ黒いコオトを着る彼女の先きに表へ出て、門まで行つたのでありました。(中略)
昔の少女が10年振りで私を訪ねて来たのは私が小説家だからでありませう。彼女のふしあはせな半生は、10年前に小説家の卵と結婚の約束をしたばかりに、恐らくはそのふしあはせの思ひが一層強められたことでありませう。しかも、彼女自身はそのことに気がついてゐないやうであります。そればかりでなく、彼女のことを書いた私の小説を読み、そして私を思ふことは彼女のふしあはせの1つの慰め、または彼女のふしあはせからの1つの逃げ場になつてゐたやうであります。
一昨日訪ねて来たことを、彼女の昔なじみであり、私の一番親しい友だちにも、黙つてゐてくれと、彼女は頼んで行つたのでありました。この訪れを、2,3年も、もしかすると7,8年も、彼女は考へてゐたほどに、私の家は来づらいものだつたにちがひありません。ま さか私が来るとはお思ひにならなかつたでせうとか、さぞづうづうしい女だとお思ひになるでせうとか、彼女は何度も繰り返しました。(中略)
彼女の先きに玄関を出て門まで行つただけで、門の戸は彼女があけて、彼女がしめたのでありました。その彼女に思はせぶりな身のこなしがあらうはずはなく、従つて私は彼女の後姿など見る暇もなかつたのですけれども、門の戸がしまると同時に、たいへん寂しい後姿を見たやうな、少女を遠くの国へ見送つたやうな、時の流れの果てへ見失つたやうな思ひが、ふいと私の胸へ突き上つて来たのでありました。少女が私に会ひに来るまでに10年の歳月があつたのですから、この次会ふまでにまた10年かかるかしらといふ気がしたのでありました。
一昨日来た少女は、もう3年で30ですわといふやうなことを、度々繰り返してをりました。私は17から後の彼女を見ないのです。私の思ふ彼女はいつも17歳の少女でありました。けれども、10年後に訪れた彼女が27となつてゐることに、なんの不思議はないのであります。彼女の長女はもう10になるさうであります。
初代の10年間
私が北国の町で1度会つたことのある彼女の父は、去年も東京の彼女の家へ来たさうですが、もうすつかり耄碌(もうろく)してしまひましたわ、どうせ長くはないのですわとの彼女の話です。私が結婚したら彼女の妹を呼び寄せてやらうと思ひ、また彼女が結婚の約束を破つてからは、せめて彼女の幼い妹といつか恋をしようかなぞと、私は夢みたこともあつたのですが、その妹も彼女が引き取つて育て上げ、去年19で結婚させてやり、今年はもう赤ん坊が生れるさうであります。10年、この次の10年の間には、君はもう娘さんを結婚させなければならないねと私が言ふと、いいえ、10年経たないうちに、もう7,8年ですつかり一人前の娘になりますわと、彼女は寂しげに笑つてをりました。
18で長女を産むと、彼女は夫の病を4年間看護し、そして死なれたのださうであります。今の夫との間の長男は去年亡くなり、満1歳にならぬ女の児をミルクで育ててゐるさうであります。夫は去年から失業してをります。
ここで語られている伊藤初代の、康成の前から姿を消して以後の境涯は、川嶋至や羽鳥徹哉が、のちに調査した事実と、ほとんど違いはない。しいていえば、「彼女は夫の病を4年間看病した」というところは、実際は、結婚生活は4年、そのうち残りの1年半、結核を発病した夫を看護した、と直すべきであろうという。
しかし羽鳥もいうように、たくさん聞いた話の中で、この程度の聞き誤りは、許容範囲であろう。康成は、初代から聞いた話をほとんどそのまま、この作品に書きつけた、といっていいのである。
結核にかかった夫を看護し、その死を看取り、それから再婚して、その夫は去年から失業中であるという。
さすがの初代も、今後の生活の見通しが立たず、つい、10年前、あれほどの好意を自分に見せてくれた、そして今は作家として成功している康成を訪ねたくなったのであろう。
初代の訪問の目的が何であったか。単なる懐旧の情からであるか、あるいは具体的な目的があったのか。また、その訪問は1回きりであったのか、あるいは数度に及んだのか。
初代の訪問を素材にのちに書いたと思われる「姉の和解」(『婦人倶楽部』1934・12・1)の記述は、基本的に事実にもとづいて書かれていると考えられるが、訪問の目的は、やはり金を貸してほしい、ということだった。
初代の妹の嫁いだ夫が遣いこみをしたという。もうどこにも、借りにゆく相手がいないのだった。
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川端康成の初恋 運命のひと伊藤初代 10年後の再会(4)
滓(かす)のやうな女
再会した初代の印象について、康成はあちこちに書いている。
「……女が身も心も敗れた今のありさまを見えもなく話すのを聞いては、女から成功者と見られてゐるらしい自分の作家面が、虚飾に過ぎぬと思ひ知る」(「文学的自叙伝」)
「母の初恋」(『婦人公論』1940・昭和5年・1・1)の記述は、もっと残酷である。
さうして、10幾年の後の今、民子は佐山の目の前にゐるが、使い果した滓のやうな女を、味はつてみようといふ気は、もう 起らない男であつた。
初出では、「滓(かす)のやうな女」とルビが振られている。
17歳の少女から10年会わなかった康成にとって、初代の変貌は、大きなショックであったろう。
だが、初代には、その10年間で「身も心も破れる」実生活があったのだ。
川嶋が指摘し、羽鳥も確認した作品に、窪川いね子(のちの佐多稲子)の小説「レストラン・洛陽」がある。
「キャラメル工場から」で作家デビューして間もない窪川いね子は、前述したように、1926(大正15)年6月から、翌年7月まで、浅草のカフェ・聚楽(じゅらく)につとめた。『驢馬(ろば)』同人の窪川鶴次郎や中野重治と知り合い、窪川と同棲しはじめたころである。
一方、初代は浅草の大カフェ・アメリカの女給になったが、その支配人をしていた中林忠蔵と結婚し、1女の母となった。しかし関東大震災でカフェ・アメリカが倒壊したため、中林は仙台のカルトン・ビルディングの支配人となり、一家は仙台に移住した。
ところがまもなく、忠蔵が胸をわずらったため、一家は困窮し、一家は1926年末に上京、初代はカフェ・オリエントやカフェ・聚楽を転々として生計を立てた。
こうしてみると、窪川いね子と初代は、1926(大正15)年末から1927(昭和2)年にかけて、浅草の聚楽で、およそ半年ほど同じ女給として働いたことになる。
この聚楽の内幕を、窪川いね子は「レストラン・洛陽」(『文藝春秋』1929・9・1)に発表した。
いね子は、「キャラメル工場から」の好評により、「発表後まもなく『文藝春秋』に『レストラン洛陽』を書くことになり、このときから私の今日に至る道が決定したようなことです」(『佐多稲子作品集』Ⅰ「あとがき」筑摩書房、1959・4・15)と書き、また板垣直子の「佐多稲子」(『明治・大正・昭和の女流文学』桜楓社、1967・6・5)には、「第1作が好評を受けたせいか、じきに『文藝春秋』から小説の依頼があって、『レストラン洛陽』をのせたところ、時評で川端康成にほめられ力づけられた」と記されている。
では、「レストラン洛陽」に、初代は登場するのだろうか。また、登場しているとすれば、どのように描かれているのだろうか。
「レストラン・洛陽」の夏江
レストラン・洛陽は、震災後に出来た店なのだ。復興の東京にいち早くどんどん殖えていつたカフエーの1つである。
かつては浅草でカフェ・オリオンの次に挙げられる店であったが、年々に客は減り、だんだん寂れてきて、今では閉店も間近と思われる、すさんだ店だ。
初代がモデルと思われる夏江は、21人いる女給たちのうちで、詳しく描かれる3人のひとりである。
夏江は、「病気で寝たつきりの亭主と子供を養ふ」ために働いている。「痩せぎすのすらりとした」「派手な」姿で、「グラジオラス」の花にたとえられている。
夏江がごむのやうな足どりですらりとはひつて来た。
「田中さん、私今日はうんと酔ふの、いゝでせう。」蓮(はす)つぱにさう言つた。笑ふ彼女の目はもう細くなつてゐる。
「大きく口を開いてあハハと面白さうに笑ひ散らす」、「人の好い」、からりとした気性をもつ女性としても描かれている。
しかし、夏江には、「公然のパトロン」がいる。華族の息子の保(やす)河徳則という男で、「無表情な色の悪い男」である。しかし彼に買ってもらった反物が店にとどくと、「あら、夏江さんのえり止め、葵(あおい)の紋ぢやないの」といって朋輩たちが騒ぐ。事実、羽鳥徹哉の調査によると、保河徳則のモデル徳川喜好は、徳川慶喜の孫であったという。(「愛の体験」第三部)
そういう実力者をパトロンにもつ夏江だが、寝たっきりの夫に対する態度は冷たい。「あの病気は、気ばかりとてもしつかりしてるんでせう。何だかんだつて、やかましくてね」といい、また「疲れて帰つた彼女に○○を強要する」と、同輩に愚痴をこぼす。
そしてある日、彼女が外泊して帰らなかった翌朝、病夫の遺書が店にとどけられて、ひと騒動が持ち上がる。
それは「病気の夫の心苦しさと、この頃の夏江の仕打ちに対する悩ましいうらみを書きつらね、早晩、死んでゆく自分だ、死期を早めて夏江の負担を軽くする」という内容の手紙であった。眠り薬を多量に飲んで自殺をはかったのである。かろうじて命はとりとめたが、夏江は、それにも心を動かしたふうもない。
夫は、6月に入って死ぬ。しかし、
危篤の知らせが店に来たときもやはり夏江はいなかつた。
保河が病気で、看病のため彼女はその方へずつと前から泊つてゐたのである。
知らせを受けて店へ戻ってきた夏江は、「大丈夫よ、どうせ死ぬことは分つてゐるんですもの」と平然としている。
物語は、次のように結ばれている。
夏江は子供を連れて洛陽の近くに間借りをした。彼女はこの頃ますます酒を飲んだ。
かんばん過ぎて、女部屋は帰り支度をする女たちが立ちはだかつて暗かつた。その蔭に、その夜も、夏江は泥酔して転がつてゐた。
迎ひに来て待つてゐた可愛い子供が、くりくりと悲しさうに目を動かして、周囲の女たちを見上げながら、母親の夏江を引つ張つた。
「母ちやん、早く帰らうよ」
「あいよ、今帰るよ。母ちやんはね、酔つぱらつちやつたんだよ。華(はな)ちやん母さんにキッスしてお呉れ」
さう言つて畳に顔をすりつけて眼をつぶつたまま、あてずつぽに子供の首に巻きつけてゆく母おやの腕から、子供は笑ひもせずくぐり抜けてまた母親の手を引つ張るのだつた。
泥酔して、女部屋に転がっている夏江の姿。夫の死後、いっそうすさんでゆく夏江の姿を描写したこの一節は、哀切である。加えて、無心な、可愛い子供の姿が読者の胸をかき乱す。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/4d1a331dbbf2f3d937600e0a7d4bdd8a
川端康成の初恋 運命のひと 伊藤初代 10年後の再会(5)
康成の文芸時評
この「レストラン・洛陽」に対して、川端康成は、『文藝春秋』の「文芸時評」(9月)で、次のように批評を書いた。
窪川いね子氏の「レストラン・洛陽」(文藝春秋)を批評するに当つて、私は新しく別のペンを持ち出して来たい。がさつな文章を、つつましい光のひそんだ文章に改めたい。そのやうに――この作品は、とりわけ作者のしつかりとした落ちつきは、 私に尊敬の念を起させたのである。
これは、レストラン女給生活の真実である。彼女等の内から見た真実である。カフエやバアの女給達の姿は、咲きくづれた大輪の花のやうに、近頃の文壇の作品に、けばけばしく現れ出した。余りに外面的に、従つて猟奇的な対象として――だが、一群の彼女等がこの作品の中の彼女等のやうに、ほんたうの姿を見せたことはないであらう。
真実はいつも真実である。―― そのやうな言葉をこれは思ひ出させる。透徹した客観と、女性的なものとが、このやうに物柔かに融け合つて、作品を構成したことは、全く、珍らしい。ここに描かれた彼女等の生活の流れは、余りにわびしい。しかしそのわびしさを、ぢつと支へた作者の筆致から、われわれは作者の作家的な大胆な落ちつきと、 心のこまやかさを、同時に感じる。
本誌に出た作品だから、詳しい説明は略するが――文壇はこの作者によって、1個の真実を加へたと云へよう。つつましくて、同時に大胆で、冷くて、同時に温い――。
ほとんど絶讃である。若い作者の汚れのない筆つきに、康成は素直に感動したのであろう。
一時、初代を追ってカフェに出入りした康成にとって、うらぶれたカフェの内側の女たちを描いたこの作品は、他人事とは思えなかったろう。しかし、いかに炯眼(けいがん)の康成でも、この作品の夏江が、初代の一時期を活写したものであるとは、夢にも思わなかったであろう。
この時評の3年後、「父母への手紙」第1信で、康成は次のように書く。
康成の愛のかたち
ついでに、私がどういふ女を愛するかも申し上げませうか。平和な家庭に育つた少女のほのぼのしさは、涙こぼれるありがたさで見惚れはしますけれども、私は愛する気にはなれないのです。とどのつまり、私には異国人なのでありませう。
肉親と離れたがためにふしあはせに育ち、しかも自らはふしあはせだと思ふことを嫌ひ、そのふしあはせと戦つて勝つて来たけれども、その勝利のために反つて、これからの限りない転落の坂が目の前にあり、それを自らの勝気が恐れることを知らない、ざつとさういつた少女の持つ危険に私は惹きつけられるのです。
さういふ少女を子供心に帰すことによつて、自分もまた子供心に帰らうといふのが、私の恋のやうであります。
この、肉親と離れて不幸な境涯に育ち、これまではその不幸と戦って勝ってきた、そのためにかえって、「これからの限りない転落の坂が目の前にあ」ることに気づかぬ少女の危険こそ、康成を初代に釘づけにする魅力であった。康成は、初代の転落をほとんど予測していた、といっても過言ではない。
はたして、別れて10年後に、かつての少女は、人生の深い谷底に転落した経験をもって、その姿をあらわした。
彼女は、見えもなく、転落の結果、自分が今どんな惨状にあるかを隠すことなく語った。
しかし、「夫の病を4年間看護し、そして死なれた」という彼女の話の内実が、カフェ・聚楽の女部屋に、連夜、泥酔して転がっていた、というものであったとは、神ならぬ身の康成の、思いも及ばぬところであったのだ。
ただ、その内実は知らずとも、そのような生活が彼女にもたらしたもの――もはや、17歳の初代とはあまりに変わってしまった淪落した女の姿は、康成の想像の外にあったのである。
川嶋至が、この堕天使との再会後、康成が大きく変貌したと力説しているのは、あながち川嶋の思いこみではないだろう。
古い恋の墓標
伊藤初代の訪問を描いたのは、「父母への手紙」だけではない。
前引の「姉の和解」も、この訪問を直接素材にした作品である。
新吉は、妻の芳子と、その妹照子と3人で暮らしている。彼の収入が少ないので、妻の妹が女給に出て、家計を支えてくれているのが実情だ。
そんなある日、妻の芳子があわただしく玄関を駈け上がって、鏡台の前にすわりこんでしまう。
「変な人が来てゐたのよ」と芳子はいう。新吉がのんびり「物貰ひか、押売りだらう」と言うと、芳子は怒った調子で「女よ。」と答える。
まもなく、玄関に、はばかるような女の声が聞こえる。幾分の好奇心も手伝って、新吉が玄関に出てみると、思いがけない、房子が立ってゐるのだった。
芳子の怒つた理由が分つた。
新吉も8年ぶりで見る房子だつた。
夕闇を背に受けて、黒つぽい地味な着物で、顔の色もやつれて、肩を縮めながら、弱々しく微笑んでゐた。
ずゐぶん御無沙汰致して居りました。ほんたうに伺えた義理ぢやございませんわ。何度もお宅の前を行つたり来たりしましたわ。」
なるほど二人はこんな挨拶をしなければならぬ間柄になつてしまつたのかと、彼は房子の丁寧な言葉を幾らかくすぐつたく聞きながら、
「まあ上り給へ。」
新吉が茶の間に引っ込んで、「おい、房子だよ。」と妻にいうと、「なにしに来たんです。なんの用があるんです。」と言われ、新吉はぐっと言葉につまる。
「昔あなたを苦しめて棄てた女を、家へ上げるなんて、そんな意気地のないこと、私は嫌いです。」
芳子はそう言って、家を出てゆく。新吉は応接間に戻る。
それとなく昔の裏切りを詫びる言葉には、あの頃の勝気な虚栄心は跡形もなく、あきらめに近い素直な悔恨の響きがあつた。それを聞くと、新吉は妙に寂しくなつた。
房子の姿はもう全く古い恋の墓標としか、新吉の眼には写らなかつた。
寧(むし)ろその墓標の前に房子と二人で立つて、はかない夢を追つてゐるやうな気持だつた。裏切られた時の血の涸れるやうだつた未練も、その前の息苦しいやうだつた恋心も、当の相手の房子と今向ひ会つてみると、反つてひとごとのやうに遠ざかる思ひだつた。房子は新吉が変らないと言つたけれども、新吉は房子が変らないとは、義理にも言へなかつた。
房子の帰っていったあと、妻は妹照子と一緒になって帰ってくる。もう機嫌は直っている。その妻に、新吉は、「僕も幻滅したから、来ない方がよかつたのにね。」と語るのである。
房子は、やはり金の無心に来たのであった。
この作品を書いた康成の、苦い顔が見えてくるようである。伊藤初代が実際に10年後の姿を彼の前に現わしたことによって、康成の長年にわたる「命の綱」であった「恋心」が、がらがらと崩落したのである。
こののち、「命の綱」を失った康成は、どのように生きてゆくのであろうか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/50fbb280735ec977f976278dd1c9d4bd
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2022/05/23 (Mon) 10:38:54
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伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」 (1) 2014-08-16
はじめに
……康成が伊藤初代の姿を見失ったのは、婚約と「非常」事件のあった翌年、大正11年(1922年)のことであった。
それから、ちょうど10年後の昭和7年(1932年)春、突然、初代は上野桜木町の康成の家を訪問したのであった。康成は昭和4年に『東京朝日新聞』に「浅草紅団」を連載して好評を博し、浅草ブームに火をつける役割をはたして人気作家としての地位を確立していた。
その、作家として成功した康成の家を、初代は訪問したのであったが、「10年後の再会」で見てきたように、この再会は、康成に深い幻滅を与えたようである。
長い間、康成の内部に輝いていた〈美神〉の像が、ガラガラと崩壊したのである。
……じつは、拙著においては、このあと、昭和8年の小説「禽獣」(禽獣)、エッセイ「末期の眼」(まつごのめ)、翌9年のエッセイ「文学的自叙伝」について書いたあと、昭和10年(1935年)から発表の始まった「雪国」についての、長い章が入っているのだが、伊藤初代に焦点を合わせたこのブログでは、これらの章を割愛する。
そして、次に登場するのが、昭和15年(1940年から『婦人公論』に連載された「あいする人達」の冒頭の一編、「母の初恋」なのである。
この美しい作品に、康成の内部における、〈美神〉の変化が暗示される。以下の章で、そのありかたを見ようと思うのだ。
では、「父母への手紙」から8年後の「母の初恋」を検討するところから、論を再開しよう。
その後の康成
昭和12年(1937)年6月に〈旧版『雪国』〉を刊行してから、康成はそののち、どのように日々を過ごしたのだろうか。
構想上の問題が残っていたとはいえ、いちおう「雪国」からは卒業した気分になっていただろう。
「雪国」を断続して書いているあいだに、康成は昭和10年(1935年)12月に上野桜木町を去って、鎌倉に居を転じた。はじめは林房雄の招請で鎌倉町浄妙寺宅間ヶ谷に、2年後の5月には鎌倉市二階堂に居を移した。
さらに「雪国」が尾崎士郎「人生劇場」とともに文芸懇話会賞を受賞したので、その賞金に出版社からの借金を加えて、軽井沢に別荘を購入したりしている。
この軽井沢に取材した諸短篇が、のち『高原』にまとめられる。
北条民雄の世話をしたのも、この少し前のことであった。
北条からはじめて手紙を受け取ったのは、昭和9年、「雪国」を書きはじめる前夜であるといっていい。「雪国」分載と雁行するように、鎌倉で北条と会い、「間木老人」「いのちの初夜」を『文学界』に掲載するよう取り計らい、特に後者は文学界賞を受賞するなど、文壇に大きな衝撃をもたらした。
〈旧版『雪国』〉を刊行した半年後に北条は死亡し、その遺骸と対面した康成は、翌昭和13年(1938)年に『北条民雄全集』上下2巻(創元社)を編集刊行し、印税をすべて遺族にわたるように取り計らう。美談というより、康成にとっては自然な行為であった。
昭和12年から翌年にかけて、康成は、『婦人公論』に長編「牧歌」を連載している。
この昭和13年(1938年)には、7月から12月にかけて、囲碁の本因坊秀哉(しゅうさい)名人の引退碁があり、その観戦記を書いた。これがそののち「名人」執筆につながったことは、よく知られているとおりだ。
昭和14年には、『少女の友』に盲学校の少女を主人公とした「美しい旅」の連載をはじめ、昭和16年には『満洲日日新聞』の招きで満洲に赴(おもむ)き、北京にも足を踏み入れている。また、関東軍の招きで再度満洲を訪ねたことも、記憶に残る足跡である。
しかし、わたくしが最も注目したいのは、1940(昭和15)年1月から『婦人公論』に9回にわたって連載され、翌年12月、新潮社から刊行された『愛する人達』である。なかでも、最初の「母の初恋」は、康成の生涯全体を眺望するときに、欠かすことのできない重要作品である。
「母の初恋」
現在ではなかなか手に入りにくいが、川嶋至に「『母の初恋』論のための序章」という論考がある。
この論で川嶋は、単行本『愛する人達』に収載された「母の初恋」をはじめ、「女の夢」「ほくろの手紙」「夜のさいころ」「燕の童女」「夫唱婦和」「子供一人」「ゆくひと」「年の暮」の9編について考察を加えた。いずれの作も、「作者川端に近似した風貌と感性を持つ主人公が登場して、その男の眼を通して相手を観察し、過ぎ去った日々を詠嘆的に回顧するという点で、共通した基盤の上に成立した作品である」という結論を導きだしている。
そしてこの結論を出発点として、川嶋はさらに「『母の初恋』をめぐる一つの推論」を発表した。
この論考は、みち子――伊藤初代の存在を世に送り出した川嶋らしく、熱気を帯びた「母の初恋」論である。
今この論を詳細に紹介する余裕はないが、この論考に示唆(しさ)されて、わたくしはわたくしなりに、「母の初恋」を論じてみたい。
私見によれば、「母の初恋」は、康成がこの時期、書かずにはいられなかった作品である。内的衝迫(しょうはく)によって、自己の内部に存在する伊藤初代事件の総括と、そこから発展した美しい夢を織りなした作品である。
「母の初恋」を発表した1940(昭和15)年といえば、いわゆる「非常」事件があって康成のもとから伊藤初代が飛び去った1922年(大正11)年冬から18年の歳月が流れている。おおかた20年といっていい。
その20年前の古い傷が、ここでは動かしがたい事実として、作品の背後にどっしりと腰を据えている。
雪子の婚礼
物語は、現在からはじまる。
婚礼の時に、白粉(おしろい)ののりが悪いとみつともないから、もう雪子には水仕事をさせぬやうにと、佐山は妻の時枝に注意した。
雪子の結婚がせまっているのだ。妻時枝にしたがって台所仕事を、これまでどおりにつづけている雪子の肌のことにまで気づいて、佐山は妻に注意する。
それが一昨日の夕方のことだった。ところが今日の昼も、雪子はやはりお勝手ではたらいている。
この分では、式の日の朝飯の支度までして、うちを出てゆくことになりそうだ。そう思って佐山が見ると、雪子は小皿にしゃくったつゆを、ちらちらと舌を出して味わってみながら、楽しそうに目を細めている。
佐山は誘ひ寄せられて、
「可愛いお嫁さんだね。」
と、軽く肩にさはつた。
「お料理しながら、なにを考へてるんだい。」
「お料理しながら……?」
雪子は口ごもつて、じつとしてゐた。
雪子は料理が好きで、女学校のころから、時枝の手伝いをしている。女学校を卒業してからは、もうまかせられたように、味つけまで雪子がする。そしていつのまにか、雪子は、時枝とまったく同じ味つけになっている。
雪子は16歳で佐山のところへ引き取られて、時枝の味をそっくり受け入れて、それを持って、嫁にゆくのである。
佐山は今日、1時03分の大垣行きに乗って、雪子と若杉の新婚旅行の宿を決めに、熱海へゆくのである。
雪子がカバンを持つて、門口へ先廻りしてゐた。
「いいよ。」
と、佐山は手を出したが、雪子は佐山の顔を悲しさうに見上げたまま、首を振つて、
「バスのところまでお送りしますわ。」
なにか話があるのかと、佐山は思つた。(中略)
佐山がわざとゆつくり歩いても、雪子はなにも言はなかつた。
「どんな宿がいいの?」
と、佐山はもう幾度も聞いたことを、またたづねた。
「をじさんのおよろしいところで、いいんですの。」
バスが来るまで、雪子は黙つて立つてゐた。
佐山が乗つてからも、しばらく見送つてゐた。そして、道端のポストに手紙を入れた。気軽に投げ込むのでなく、すこしためらつてゐるのか、静かなしぐさだつた。
さりげない描写だが、のちの伏線となる重要な記述である。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/e5a43bbb34be774df2c8f7d480a9327e
伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」 (2)
民子との再会
新婚旅行の宿の部屋まで父親が決めるなど余計なことだと時枝は言ったが、佐山は、ついでに芝居の腹案を練るという口実で、わざわざ出かけてきた。
雪子はものごころつく頃から、継父と貧乏とに苦しめられ、佐山の家へ引き取られてからは、落ちついたとはいうものの、いわば居候である。一種の牢獄であったかもしれない。
結婚によって、初めて自分の生活と家庭が持てるようなものである。
解放と独立の強い感じのなかに、婚礼の翌朝は目覚めさせてやりたいというのが、佐山の心づくしであった。
――40歳を少し出たばかりの佐山は、シナリオ作家である。しかしもう隠居役で、面白くもない小説の脚色などは後輩に押しつけて、気の合った監督と組んで、好き勝手なものが書ける地位にあったが、ひるがえって考えると、それはもう自分が現役のシナリオ作家ではなくなったということだった。シナリオ作家として立ち直るか、撮影所をよして、彼の元来の道である戯曲で出直すか、迷っている時期であった。
……6年前のこと、妻の時枝が子供をつれて、買い物から帰ってくると、門の戸にへばりついて、家の様子をうかがっている女があった。
それが民子だった。雪子の母である。
むかし佐山にそむいて去った恋人が、十幾年ぶりで、ひょっこり彼を訪ねて来たのだった。
そのとき民子は、まだ30を2つ3つ出たばかりなのに、関節がぼろぼろにゆるんだように、疲れ果てた姿だった。
「ほんたうに御成功なすつて、私も喜んでをりますわ。」
と、民子は心からそう信じているように言った。また、
「御作はいつも拝見させていただいてますの。よく、子供をつれて参りますのよ。」とも民子は言った。
佐山が脚本を書いた映画のことである。
佐山は面映ゆく、話をかえて、民子の子供のことをたずねたものだった。――その子が、今度嫁入りさせる雪子である。
民子は、最初結婚した男が結核になって、男の田舎へ帰り、四年間看病して死別したことや、一人の女の子をつれて、今の夫の根岸と再婚して5年になることなどを、こまごまと話した。
滓のやうな女
この作品では、佐山と民子の初恋についても、簡潔に説明されている。
――民子は、佐山が友人達と劇研究会をつくつて、学生芝居などを催した時に、女優代りの手伝ひに来た娘だつた。そのうちに、佐山が結婚したいと言ふと、民子はたわいなく承知した。 佐山は卒業と同時に撮影所に入つた。芝居よりも新しい芸術として、映画に理想と情熱を持つたが、それを愛人の民子の上に、花咲かせてみたかつた。彼は民子を撮影所に入れた。(中略)
そのやうな民子を、紙屑のやうな映画新聞の記者が、撮影所へ無心に通つてゐるうちに、宣伝してやるとか言ひくるめて、連れ出してしまつたのである。
そのために民子は、雪子を産み、田舎へ行つて、男が死ぬまで看病したといふ。
民子を失つた当座、佐山は電車などに乗つて、民子とおなじ年頃の17,8の娘の着物が、手にさはつたりすると、泣き出しさうでならなかつた。
脚色されてはいるが、かつての康成と初代の婚約のころが、明らかに踏まえられている。
そしてその次に、突き刺さるような恐ろしい言葉が、この作品には書きこまれている。
さうして、十幾年の後の今、民子は佐山の目の前にゐるが、使ひ果した滓のやうな女を、味はつてみようといふ気は、もう起らない男であつた。
この部分は、底本とした第4次37巻本『川端康成全集』第7巻(1981・7・20)と本文に異同はないが、初出の『婦人公論』は、総ルビである。
そして「滓(かす)のやうな女(をんな)」とルビを付されているのである。
別れてから10年後に初代が訪ねてきて再会した、そのときの衝撃が今も尾をひいている。「使ひ果した滓のやうな女」とは、何とむごい、初代の人格を無視した言葉であろう。
なるほど、初代はあのとき、洗いざらい、すべてを語ったようだ。康成が「父母への手紙」や、この作品に書いた内容と、その後の調査によって確認された事実を突きあわせると、ほとんど隔たりはないようである。しかし康成は、窪川いね子の「レストラン洛陽」を読んではいるけれど、そのモデルの一人が初代であったなどとは、夢にも想像しなかったはずである。それなのに、この言葉は、ひどい。
また、民子の最初の夫、第二の夫も、作品の上だからであろうか、事実よりもひどく書かれていると思われる。
その延長であろうか、初代をモデルとした民子は、作品の上で、殺されてしまうのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/7e4279b8c0b1b775f1ddc53d7a97f3b2
伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」(3)
「父母への手紙」との類似
再会したとき、民子は、こんなふうにも語った。
「随分苦労ばかりして来ましたわ。罰(ばち)があたつて……。あの時、自分の幸福を自分で逃がしたんですから、しかたがないとあきらめてますの。つらい時は、佐山さんを思ひ出して、よけい悲しくなりますの。自分勝手ですわね。」
再婚した根岸は朝鮮を浮浪してきた鉱山技師だが、内地へ帰っても山気が抜けないで、なかなか落ち着かないとも言って歎いた。
そして、今度こそ根岸と別れる決心をしたので、ついては、娘と2人の糧に喫茶店を出したいから、500円貸してはくれまいかと、遠慮がちに切りだすのであった。
民子は長年の無理がたたって、體にひびが入り、今は医者がよく起きて働いているとあきれるほど、心臓と腎臓とが悪くなっていた。
ここまで読んでくると、わたくしたちは、「父母への手紙」第2信の「後姿」を否応なく想起する。
1032(昭和7)年春、10年前に別れた伊藤初代が上野桜木町の康成の家を訪ねてきて、無心をした。そのときの状況と告白と、あまりに内容が似ているからだ。康成がその無心を断ったことも、妻が腹を立てて数時間家を出ていったことも。
川嶋至は、前記の論考で、第1次全集の「あとがき」(のち「独影自命」)に引かれた康成の日記をいくつも引用しながら、次のように述べている。
「母の初恋」の佐山と民子の初恋が、実生活における川端とみち子の恋愛に基づいて描かれていることは、ほぼ間違いない事実なのである。
この事実にもとづいて、康成は作品をさらに押しすすめてゆく。
佐山はまた子供のことをたづねた。せめてその娘には、以前の恋人の面影があらうかと思つて、
「あんたに似てるの?」
「いいえ、あんまり似てないやうですの。眼が大きくて、皆さんから可愛いつて言はれますわ。つれて来ればよかつたですわ。」
「さうですね。」
「佐山さんの映画を見て、よくお噂を聞かせてありますから、雪子も佐山さんのことは、よく知つてをりますの。」
佐山はふとにがい顔をした。
それから2ヶ月ほどあと、佐山が撮影所に出て留守の間に、民子は子供を連れて佐山の家をおとずれた。そうして妻の時枝に何も彼も告白した。鉱山技師の夫とも別れたといった。
家庭の平和を脅かすような力は、すでに民子にはなかった。このこともあって、時枝はもう民子になんの反感もなく、同情しているのだった。同情する自分に、満足を感じているようだった。
民子の死
それっきり民子は訪ねてこなかったが、半年ばかりして、佐山は銀座で偶然、民子に行き会った。妻の時枝が雪子をほめていたと言うと、民子は、佐山にもぜひ雪子をちょっと見てほしいと、もう自分でタクシーを捜すのだった。
麻布10番の裏町の家では、水兵服を着た雪子が、粗末な机で勉強してゐた。女学校へ通つてゐるのだらうか。
御挨拶しなさいと民子が呼ぶと、雪子は立つて来て、少女らしいおじぎをしたが、その後は、黙つてうつ向いてゐた。母に紹介されるまでもなく、佐山を知つてゐる素振りだつた。
「いいから勉強してらつしやい。」
と、佐山が言ふと、雪子はにこつと笑つて、うなづいた。しかし、そのまま佐山の前に坐つてゐた。(中略)
「あの時分は、まだ私ほんたうに子供で、なんにも分りませんでしたわ。まるでなにもかも、夢中でしたの。――だんだん分つて来て、いつも心でお詫びしてましたけれど、こんなにして、会つていただけるとは思へませんでしたわ。」
と、民子はまた古いことを言ひ出した。
娘がそこにゐるのにと、佐山は困つた。
民子はちよつと雪子を見て、
「かまひませんの。この子は、みんな知つてをりますのよ。――佐山さんの奥さんに、親切にしていただいてもいいのつて、聞くんですの。」
母の初恋を、雪子はどんな風に話して聞かされてゐるのだらうか。
「雪子は頼りの少い子供ですから、私に万一のことがありましたら、見てやつていただけませんでせうか。佐山さんのことは、よく言ひ聞かせてあるつもりです。」
民子の言葉は奇怪にひびいた。
そのあとの一節が、読者の胸をうつ。
佐山がそこそこに民子の家を出ると、民子は雪子をつれて送ってくる。
坂道だつたが、雪子は二人から離れて、片側の溝の縁ばかり歩いた。
「雪子。」
と民子が呼んでも、雪子はまた溝の縁へ寄つて歩いた。
雪子のこれまでの境涯がしのばれる一節である。抱きしめてやりたいような、頼りない、不安な境涯の、そして心もその境涯にちぢみすくんだ、雪子のほそい體つきが浮かんでくる。
そして章が変わり、第4章になる。冒頭に、電文が示される。
……ハハタミコシスユキコ
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/ed90f66c1b83046158c72bbf5503a999
伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」(4)
けなげな雪子
電報が来たのは、あくる年の4月だった。
電文を見て、妻の時枝が、「ユキコ……、差出人が、雪子となつてますよ。あの子が一人で、どんなに困つてるかもしれませんわ。行つておやりになつたら……?」と言ってくれる。
佐山にも、どうしてだか、「ユキコ」といふ3字の音が、悲しく胸にしみる。麻布の家に1度行ったきりで、向こうからも音沙汰がなかったのに、雪子はどういうつもりで、自分の名前で母の死を報せてよこしたのか。
葬式はいつかわからないが、その前に行くとなると、少し金を準備して行かなくちゃならんかもしれんね、という佐山の言葉に、「そんなこと……」と時枝は一時、気色ばみかかったが、「しかたがないわ。最後の御奉公と言ふんでせうかね」と笑いにまぎらわして、それを許し、喪服も用意してくれる。
民子の家には近所の人らしいのがごたごたゐたが、むろん佐山を誰だかわからうはずがなく、
「雪ちやん、雪ちやん。」
と呼んだ。
雪子は走り出て来た。母に死なれたとは見えない、元気な少女だつた。
佐山を見ると、よほどびつくりしたやうだが、なんとも言ひやうなく純真にうれしい顔を、ぱつと見せた。そして、ちよつと頬を染めた。
ああ、来てやつて、よかつたと、佐山は心が温まつた。
佐山は黙つて、仏の方へ行くと、雪子がついて来た。
佐山は香をたいた。
雪子は民子の頭の方に坐つて、少しかがみながら、
「母ちやん。」
と民子を呼ぶと、死顔の上の白い布を取つた。
佐山は、民子が死んでゐることよりも、雪子が佐山の来たことを母に報せて、民子の顔を佐山に見せたことに、よけい心を突かれた。(中略)
「母ちやんが……」
「母ちやんが?」
「佐山さんによろしくつて言ひました。」
そして、雪子は急にむせび泣くと、両手で顔をおさへた。
雪子は、ほかの客は眼中にないかのように佐山につくす。佐山は雪子を外に呼び出して、通夜のときに食べるものを用意してあるか訊ねると、それもしていなかった。近所の寿司屋に頼むのがいいと、佐山は雪子をつれてゆく。
暗い坂を下りて行くうちに、佐山の方が悲しくなつて来た。
雪子はまた溝の縁を歩くのである。
「真中を歩けよ。」
と、佐山が言ふと、雪子はびつくりして、ぴつたり寄り添つて来た。
「あら、桜が咲いてますわ。」
「桜……」
「ええ、あそこ……。」
と、雪子は大きい屋敷の塀の上を指さした。
帰ってくると、近所の人たちが相談して、佐山を重んずべきだと決めたらしかった。その夜、佐山はお隣の二階に寝た。
あくる朝、雪子は火葬場で、佐山の渡しておいた金を払った。用意しておいてよかったのだ。
雪子の失踪
第5章で、作品は、ふたたび現在に戻る。
婚礼の日の朝も、雪子はいつものように、佐山の二人の子供たちの弁当をつめる。それも自発的に、自然に、である。
それから、雪子を家に引き取った経緯がしるされる。
民子の葬式からしばらくして、佐山は雪子に手紙を出してみたが、宛名人の転居先不明という付箋がついて手紙は戻ってきた。
ある日、時枝が百貨店に行くと、食堂の給仕をしている雪子に会った。そのなつかしがりようが、ちょっとやそっとではなかった。夜学校をやめて、百貨店の寄宿舎にいるというのを聞いて、時枝が「あなたなら、きつと、うちへおいでつて仰しやるわよ」というような話から、雪子は16歳で佐山の家の人になったのだった。
女学校をつづけることになった雪子は、子供たちの世話から台所のことまで、じつによく働いた。時枝がすっかり雪子を気に入った。
そして後々のために、佐山の家へ雪子の籍を入れて養女にしたのも、時枝の考えだった。
縁談があった。相手の若杉は、大学を出て3年ばかりたった銀行員で、係累も少なく、申し分ない話だった。
婚礼の日の朝、しるしばかりの祝いの膳について、雪子の挨拶があってから、
「雪ちやん、どうしても、どうしてもつらいことがあつたら、帰つてらつしやいね。」
と、時枝が言ふと、急に雪子はくつくつくつと涙にむせんで、手をふるはせて泣いた。部屋を走り出てしまつた。
式場では、親戚のいない雪子の側は寂しかったが、披露の席では、雪子の女学校の友達を10人ばかり招いておいたので、華やかだった。しかし佐山は、民子のことが切なく思い出されてならなかった。民子の幽霊が、娘の花嫁姿をのぞいてはいないかと、窓の方を振り向いたりした。
披露の席から帰る車のなかのさびしさと言ったらなかった。そのとき、時枝がずばりと言う。「あなた、雪ちやんが好きだつたんでせう?」
「好きだつた。」と佐山は、静かに答える。
――ところが、思いがけないことが起こる。3日目には新婚旅行から帰って、仲人の家などへ挨拶に歩くことになっているので、佐山が若杉と雪子の新居へ行ってみると、なんということか、民子の第2の夫であった根岸が新居に坐りこんで、脅迫しているのだった。根岸は、佐山にも、雪子をことわりなしに嫁入りさせたのは、けしからんと食ってかかった。
根岸は雪子の養父ではあったが、雪子は彼の籍には入っていないし、民子とも別れたのだから、無法な言いがかりであった。
佐山は根岸を帰すつもりで、あるビルの地下室で説得していると、その間に、雪子がちょっと出ていったきり、戻ってこないのである。
その夜、雪子は若杉の家にも佐山の家にも戻らなかった。
愛の稲妻
雪子は失踪したのか、自殺しはしまいか。
佐山は雪子の最も親しかった女学校友達に電話をかける。
その友達は、結婚のすぐ前に、雪子から長い手紙をもらったと言ったが、次の言葉をいいよどんだ。
それを、あえて訊くと、
「あの、よくは分りませんけど、雪子さんに、好きな人があつたんぢやありませんの?」
「はあ? 好きな人ですか? 恋人ですか?」
「存じませんのよ、私……。でも、初恋は、結婚によつても、なにによつても、滅びないことを、お母さんが教へてくれたから、私は言はれるままにお嫁入りするつて、そんなことがいろいろ書いてありましたの。」
「はあ?」
佐山は受話器を持つたまま、ふつと眼をつぶつてしまつた。
そして次の日、佐山が撮影所に顔を出すと、雪子が朝早くから来て、彼をしょんぼり待っていたのである。
佐山は直ぐに車を呼んで、雪子を乗せる。
自分の愚かさと言おうか、うかつさと言おうか――。
しかし、今さらそれには触れられないので、
「ほかにも、なにかつらいことあつたの? ――つらいことがあれば、帰つておいでと、時枝は言つたが……。」
雪子はぢつと前の窓を見つめたまま、
「あの時、私、奥さんは幸福な方だと思ひましたわ。」
雪子のただ1度の愛の告白であり、佐山へのただ1度の抗議だつた。
雪子を若杉のところへ送りとどけるために、車を走らせてゐるのかどうか、それは佐山自身にも分らなかつた。
民子から雪子へと貫いて来た愛の稲妻が、佐山の心にきらめくばかりだつた。
……結びの文章の木霊のような響きの美しさは、類を見ない。読者の心を、母から娘へと受け継がれた、長い歳月の愛への想いにさそう。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/342b1416e76a93664024ccae47f91710
伊藤初代のその後 〈美神〉の蘇生 「母の初恋」(5)
「母の初恋」の最終行
……民子から雪子へと貫いて来た愛の稲妻が、佐山の心にきらめくばかりだつた。
康成が書きたかったのは、まさにこの1行だったのである。
民子は死んだが、その愛は生きていた。地下水のように脈々と流れて雪子に至り、雪子の心の奥深く、清冽な流れとなって、流れつづけてきた。
〈美神〉の蘇生
1922(大正11)年冬、不可解なままに愛を喪った康成だったが、その真剣な思慕は、ちゃんと初代に通じていた。
初代が不如意な結婚生活に苦しんでいるあいだに、康成の愛は初代によって思い出され、次第に大切な思い出となって、苦境にある初代の心の支えとなった。
10年後に、思いあまって初代は上野桜木町の康成の家を訪ねた。
しかし、すさんだ生活のあいだに、初々しさも、若さも、美しさも、すべてを失ってしまった零落(れいらく)した姿に、康成がその後も内部ではぐくんできた〈美神〉の像は、がらがらと崩壊した。
――ここまでが、川嶋至のいう「実生活における川端とみち子の恋愛に基づいて描かれている」部分である。
けれども、1度消えたかに見えたみち子――初代への想いは、康成と別れたあと、初代が康成の代わりに育んでいてくれた。その想いが、娘に引きつがれて、何10年にもわたって愛の稲妻となって戻ってくる。
すなわち、康成のなかに固着した伊藤初代という〈美神〉は、いったん崩壊しても、そのままでは終わらなかったのである。康成の内部に、痛切な希求(ききゅう)として生きつづけ、ひそかに成長しつづけた。
それが、母の愛が娘のなかに生きつづけるという発想につながったのである。別れたのちも想いつづけてくれた初代の愛は、娘に受け継がれるという思いがけないかたちで、ふたたび甦ったのである。
〈美神〉の蘇生――「母の初恋」は、そのような康成の悲痛なまでのねがいが成就された作品である。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/ca4d781a89f6476b9198ac6d6b95fa19
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2022/05/23 (Mon) 10:39:44
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川端康成の恋 伊藤初代のその後 日記に告白された恋情(1) 2014-09-01
これまでの復習
1932年(昭和7年)春、伊藤初代は10年ぶりに、康成の前に姿をあらわした。
その時の様子を康成は、「父母への手紙」や「姉の和解」にくわしく描いている。そうして再会した初代に幻滅したかのような印象がしるされる。
そこから、今は亡き研究者・川嶋至は、これまで康成の内部ではぐくまれていた初代の美しいイメージが崩壊し、それ以後、康成は「禽獣(きんじゅう)」、「末期(まつご)の眼」など、冷徹な作品を描くようになった、との説を提示した。
しかし、康成の内部に、ありし日の初代の像は、まだまだ大切に抱かれていたのである。その証拠に、再会から16年もたった、しかも戦争をへだてたのちの、敗戦後の文章に、伊藤初代を想った痛切な日々のことが、くわしく告白されたのだ。
敗戦から3年たった昭和23年、川端康成は数え年で五十歳を迎えた。そしてこれを機に、『川端康成全集』を出さないかと、新潮社から申し出があったのである。
康成は喜んで、これを受け入れた。そうして、各巻の「あとがき」を書いて作品解説としたいと、みずから申し出たのだ。もちろん新潮社は喜んでそれを受け、5月から刊行がはじまった。
これが、第一次川端康成全集、いわゆる16巻本全集である。
この「あとがき」において、康成は読者をあっと驚かせることをした。
それは、若き日々の日記を、この「あとがき」において、惜しみなく発表し、それまで読者が想像もしなかった事実を、次々と告白したのである。
たとえば、茨木中学の寄宿舎にいたとき、下級生の清野少年と、真剣な同性愛におちいっていた事実を、当時の日記を書き写しながら、告白したのだ。
そればかりでなく、伊藤初代が去っていった後も、どれほど自分が彼女を恋したか、ということを、次々と日記を公開して告白していったのだ。
全集「あとがき」の告白
康成は、大正10年に岐阜をたずねて初代と結婚の約束をしたことから、「非常」事件を経て、彼女が去ってゆくまでの経過を、「篝火(かがりび)」「非常」「霰(あられ)」「南方の火」などに描いて、雑誌に発表していた。
しかし、それらの作品を、単行本には載せないで来た。もっとうまく、全体を描き直したいと思ってのことだった。しかし、それはもう出来ない。
で、今回の全集第1巻には、「篝火」「非常」を載せた。2巻には、「霰」や「南方の火」を載せた。その解説を書くときに、大胆にも、当時の日記を引用して、赤裸々な自己の内部を告白したのである。
以下、その、発表された日記を読んでいこう。康成は、日記の中で、初代のことを、「みち子」と名づけている。
大正11年(1922年)4月4日
岐阜の写真屋より送り来し例の写真袋を取り出して、みち子と二人にて撮りし写真を見る。いい子だつたのに、いい女だのにの念しきりなり。彼女の手紙読む。一時は本当に我を思へる如き文言の気配を嗅ぐ。いい性質文面に現はれたりと思ふ。哀愁水のごとし。(3巻ノ1)
大正12年(1923年)11月20日
地震に際して、我烈しくみち子が身を思ひたり。他にその身を思ふべき人なきが悲しかりき。
9月1日、火事見物の時、品川は焼けたりと聞きぬ。みち子、品川に家を持ちてあるが、如何にせるや。我、幾万の逃げ惑ふ避難者の中に、ただ一人みち子を鋭く目捜しぬ。(3巻ノ4)
大正12年1月14日
九段より神田に徒歩にて出で、神保町近くにて、電車の回数券を石濱(注、金作)拾ふ。金なき折なりしかば、これに勢ひを得て、浅草行きを決す。
松竹館の前に立ち、絵看板を見て、余、愕然(がくぜん)とす。「漂泊の姉妹」のフイルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。ふと、みち子、女優になりしにあらずやと思ひしくらゐなり。
みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子を思ひ、強(し)ひて石濱を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。14,15歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子としか思へず、かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀 恋の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを、辛うじて堪ゆ、石濱、「みち子に似てるぢやないか。」余ハツとして「さうかなあ。」と偽(いつわ)りて答へたるも、後で是認(ぜにん)す。痛く動かされて心乱る。余の傾情今もなほ変るはずなく、日夕、アメリカのみち子に思ひを走らす。(中略)活動小屋を出でしばし言も発し得ず。(4巻ノ1)
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川端康成の恋 伊藤初代のその後 日記に告白された恋情(2)
全集「あとがき」と伊藤初代
康成は、第一次全集(昭和23年5月から刊行が開始された)に「あとがき」を書きつづけた。
その最初の方には、茨木中学時代、寄宿舎に入っていたころ、下級生の清野少年と愛し合った日々のことが告白され、当時の日記が掲載された。
当時の読者もさぞ驚いたことだろうが、康成は、「あとがき」に告白したばかりでなく、このとき見つかった古い日記や手紙を利用して、「少年」という、随筆とも回想録とも小説ともつかぬものを、雑誌『人間』に発表しはじめた。
そのように、「少年」と並行して「あとがき」を書きつづけていた康成だが、全集はこの昭和23年に、第4巻までが刊行された。
第3巻と第4巻の「あとがき」は、悲痛な別離に終わった「みち子もの」、すなわち伊藤初代との恋愛の経過、というより一方的な恋に終わった失恋の痛みを、当時の日記を引用するかたちで回想している。
その失意の深さと、いつまでもつのる恋慕の情については、わたくしも、すでに第2章においてこの日記を引用したが、ここでは、第4巻「あとがき」から、康成が浅草のカフェ・アメリカを訪れた日のことを引用したい。
みち子(伊藤初代)は、康成に「非常」の手紙を寄越したのち、直後に岐阜を訪れた康成に会うことは会ったが、もう心は戻らなかった。
岐阜に駆けつけてくれた三明永無(みあけ えいむ)の説得によって、いったん、心はもどったかに見えたのだが、11月末、一方的に「私はあなた様を恨みます」と絶縁を宣言した手紙を寄越したまま、音信を絶った。
まもなく岐阜を失踪して上京。その後は、あちこちのカフェで女給になった。康成は、みち子が今は浅草のカフェ・アメリカに勤めていると友人から教えられたが、金がないのと、自分の身なりが貧しいこととで、なかなかアメリカに行くことができなかった。
その日は、友人朝倉(三明永無)のインバネスを借りることができたので、少し雪が降るなか、思い切ってアメリカを訪れたのである。
遂に、遂にアメリカに到る。来らざること初夏以来。ドキドキす。階下奥まで見渡して、みち子なし。2階に行く。矢張りゐず。石浜、丁寧に信子に問ふ。20日程前、帰国せりと。よく聞けば、都を棄てて、父の懐にかへれるなり。父老いたればとて、父より度々手紙来りし由なり。
「さうか。」「たうとう。」と心静まる思ひもあれど、失望、落胆、張り合ひ抜けて、呆然(ぼうぜん)たり。千々の思ひす。雪の岩谷堂(いわやどう)を思ふ。戸外降りやみたれど、一面に白し。
みち子さへなくば、アメリカなぞ天下取つた気分にて、楽なものなり。
彼女に語るべかりし多くのことあり。日夜よみがへる恋心に、夢を新にし新にすること、幾月ぞや。浅草に来る度、物書かんとする度、女や恋を思ふ度、なににつけかにつけ思ふはみち子なり。(中略)
ひとり電車に乗れば、感傷胸を洗ひて、憂(うれ)へ清まるが如き涙流れんとす。悲しげに頭を垂れてみち子を思ふ。わが心の通ぜざりしことを、せめてかねがねまたこの頃も思へることを、両方の心を同じ正しき位置に据ゑて、一度十分に語ればよかりし。
何の故に帰国せるや。何の故ぞや。父恋しとてか。父の言葉に動かされてか。1年ばかりの彼女の東京生活は、悲風惨雨にとざされし月日にあらざりしや。わが心、われに都合よき慰めを見出す。甘きこと限りなきかもしれねど、彼女は遂に心安らかなる場所を見出さざりし。何の故に東京生活は、ああまで荒々しく、白け切つたものなりしや。問うて語らまほし。安住の地、余の傍(かたわら)の他になし。(中略)
彼女岐阜にありし時、いかに東都にあこがれしや。昨2月一旦(いったん)帰国して、東都に出しもあこがれなり。みち子に東京はいかばかりの魅力なりしぞ。しかも今や傷つきし心を抱きて、遂に都を棄て、老父の愛に帰る。岩谷堂の町のたたずまひ、彼女の家及び暮しのいかなるものか、いかに彼女に味気なきものか、彼女十分にこれを知る。しかも遂に老父と妹の許(もと)に帰る。彼女の如き性格の女ゆゑ一入(ひとしほ)涙す。さすらへる魂、先日見し「漂泊の姉妹」の栗島すみ子がみち子にあんなに似しは、彼女の魂の表象ならずや。帰国せる彼女が余に神秘的に語れるにあらずや。因縁事らしき諸々の暗示を新に思ひ起す。夢に夢を織りて果しもなし。
彼女の国に帰りしは自然なり。彼女の心のため、魂のため、よきことなり。父のもとに願はくは静かに憩へ。静かなるくつろぎ、安らかなる楽しさ、明るきのびのびしさこそ、みち子によきもの、また余の与へんと夢みしもの。余、みち子の根を流るる、張り切つた、一本気な、美しき魂を信じ居りし。よき心あれ、よき心あれ。よき魂を護りて伸びよ。 (大12・1・25)
このような、みち子に対する一途の慕情を書き写しながら、康成は何を思ったことであろうか。
10年後の再会によって、康成のみち子に抱いていた夢想は無惨に打ちくだかれたけれど、青春の時期、そのように必死に想いつづけた日々を康成は思い起こし、自身の真剣で純粋な心と、みち子のその後の人生の転変を、感慨深く、時には涙しながら反芻(はんすう)したのではあるまいか。
――「みち子もの」の作品数そのものは、それほど多くはないが、この一連の日々が康成にとって青春期最大の事件であったことに間違いはない。康成はここでも、自身の過去と遭遇し、その詩嚢(しのう)をふくらませたのである。
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川端康成の恋 伊藤初代のその後 日記に告白された恋情(3)
川端康成が全集「あとがき」に、かつて一方的に別れていった、遠い日の伊藤初代への恋情を記したのは、昭和23年、康成数え50歳のことであった。
このころから、康成の文学は異常な充実期を迎える。
私は、この昭和23年の短編小説「反橋」(そりはし)から、康成の〈魔界〉文学が始まった、と考えている。「反橋」につづいて、「しぐれ」「住吉」と、三つの連作が発表される。この連作は、ずっと後、22年後の昭和46年11月に、その続編「隅田川」が発表されることになる。康成の自裁の半年前のことである。
それほどに、この連作は、すぐれたもので、川端康成の作品中でも最高峰の一つと目される傑作であるが、なぜこの時期に、産み出されたのだろうか。
拙著の〈魔界〉文学の誕生、という部分で、私は、以下のように書いた。
〈魔界〉文学の誕生
……思うに、戦争が進行するにつれて深められていった康成の〈かなしみ〉は、敗戦によって、その極みに達した。
戦時下に受容した中世文学や、源氏物語から自覚を深めた日本古来の〈かなしみ〉と、それは深く重なるものであった。
加えて、戦時下に書きつづけた「故園」と、全集「あとがき」を書くために読み返した初期作品は、幼少期から舐めつづけてきた康成深奥の〈かなしみ〉を、ありありとよみがえらせた。それは〈孤絶〉の意識と深く通底するものだった。
しかも敗戦後に目撃しつづけた、被占領国の世相風俗の惨状――。相次いで経験した知友の死も打撃となった。
このように幾重にもかさなった〈かなしみ〉が、流離漂泊の生涯という主題を康成に発見させ、「反橋(そりはし)」冒頭の数行を導きだしたのだ。
ここから、康成の〈魔界〉は覚醒する。己れの生涯が「汚辱と悪逆と傷枯の生涯」以外の何物でもないと悔恨を深め、自己の内部に〈悪心〉を自覚したところから、康成の〈魔界〉は現実味を帯びる。康成の内部で、〈悪〉は際限もなく広がり、想像の翼は果てしもなく羽ばたいて、未踏の領域へと筆は進んでゆく。
それが敗戦後、突如、姿をあらわにした康成の〈魔界〉文学である。「住吉」連作を嚆矢とし、「山の音」「千羽鶴」を経て「みづうみ」「眠れる美女」に至る、〈美〉と〈悪〉と〈醜〉の混淆した妖しい花を咲かせる、〈魔界〉の誕生だ。その流離漂泊する魂の、人生のどん底から、遙かな高みにある〈美〉を希求する、〈魔界〉の構造が、「反橋」「しぐれ」「住吉」の連作に現れる。
この連作を端緒に、川端文学の最高の連峰をなす諸作品が以後20年間にわたり、産み出されてゆくことになるのである。
ところで、この連作の価値を最初に見出し、その解説をしたのは、三島由紀夫であった。
毎日新聞の「川端康成ベスト・スリー」という文章において、三島は、この三部作を、とりあえず、反橋連作と呼び、ここに川端康成の戦時下から戦後に至る、きびしい自己改革の成果を指摘したのである。
さすがに三島由紀夫だ、と思う。三島ほど、川端康成の文学を深く理解した作家は、ほかにいなかった。三島は、康成の紹介によって、当時の一流雑誌『人間』に短編小説を発表して作家の地位を確立したのだが、川端も、自作に深い理解をもつ三島を身近に得たことで、どんなに作家として勇気づけられたか、わからないのである。
〈魔界〉の作品群
さて、ではその後、川端康成はどんな作品を書いていったのだろうか。
「住吉」連作につづいて、昭和24年には、『千羽鶴』と『山の音』の連載をはじめた。
これらは、川端康成の代表作として誰もが認める傑作であるが、『山の音』を、私は「末期の夢」(まつごのゆめ)と題して論じた。
昭和8年に、康成は「末期の眼」(まつごのめ)という評論を書いたのだった。
これは、自殺した芥川龍之介の遺作に残された言葉――「死を意識した自分に、自然はいつもよりいっそう美しい」――を引用して、芸術家と死の関わりの深さを論じたものだ。
この言葉を使って、私は『山の音』のテーマを「末期の夢」と名づけた。
去年、還暦を迎えた61歳の尾形信吾が、深夜に山鳴りの音を聞いて、自分の死期を自覚する、という物語だ。終戦後まもない時期だから、満61歳は、今日の80歳ぐらいの感覚であろう。
その尾形信吾は、同居している長男の嫁・菊子に慕情を寄せている。
そのような作品である。死を自覚した信吾の、人生最後の夢として、菊子への抑制された愛が描かれている。
そこから、私は「末期の夢」と題したのである。
同時期に、『山の音』と併行して描かれた『千羽鶴』を、私は「夢魔の跳梁(ちょうりょう)」と題した。
『山の音』では抑制されていた、信吾の慕情の底にある欲望が、夢の中の出来事のように奔出(ほんしゅつ)したのが『千羽鶴』という作品である。
ここでは、道徳や倫理が失われ、三谷菊治を中心に、背徳の限り、といっていい、美しい愛欲の果てしない具現が、妖しい夢のように描かれる。
〈美〉という点では、最高にうつくしい、絵巻物のような逸品である。
道徳的な見地から、この作品を、『山の音』より劣る、というのが一般的な評家だが、倫理性を除けば、この作品ほど、彫琢(ちょうたく)された作品はない。
『千羽鶴』の続編が、『波千鳥』(なみちどり)という作品である。これも、菊治と過ちを犯してしまった文子が、贖罪(しょくざい――罪をつぐなう)と、浄化を願って九州の奥地を旅し、菊治に美しい手紙を書きつづけるところが美しい。
この文子の贖罪と浄化をもとめて、という構造は、じつは、源氏物語の、宇治十帖の、浮舟(うきふね)の物語と、まったく同じである。
つまり康成は、戦中の昭和18年から戦後の、昭和23年までかけて、ついの読了した源氏物語の、その最後にある浮舟の物語を、無意識のうちに下敷きにして、この作品を描きつづけたのである。
そうして、昭和29年に、畢生(ひっせい)の傑作「みづうみ」が発表される。
すこし、伊藤初代から離れたようだが、明日は、また伊藤初代に戻る予定である。川端康成の最高峰をなす作品群を、すこし紹介しておきたかったのである。
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2022/05/23 (Mon) 10:40:20
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川端康成の恋 伊藤初代の死(1) 2014-09-12
「眠れる美女」で見たように、川端康成の〈魔界〉文学は、次第に衰微の色をおびはじめていた。
その数年後、康成は『週刊朝日』に、沈痛な文章を寄せた。
「水郷」の懐旧
康成に「水郷」という文章のあることは、椿八郎『「南方の火」のころ』を、図書館相互貸借制度によって、姫路市立城内図書館に取り寄せていただいた時に知った。
椿八郎は、最近康成にこの文章のあることを知ったのだが、と断った上で、「水郷」の末尾で告げられた、伊藤初代の死について述べていたのである。
それは『週刊朝日』(昭和40年7月2日)の「新日本名所案内62 水郷」という文章である。シリーズだが、戦時下の康成に「土の子等」という千葉県印旛郡本埜村周辺のルポルタージュのあったことを知って、千葉県の水郷を、康成に依頼したのであろうか。あるいは康成の鹿屋航空基地体験から、霞ヶ浦の航空隊を連想しての依頼であったのだろうか。
「「船頭小唄」に歌われた水の風景に昔の恋人を追憶し特攻隊をしのぶ」と、リードの部分に紹介されている。
水郷佐原市、観光ホテルの離れで、これを書く。――裏窓からよしきりの鳴きしきるのが聞えてゐる。鳴くといふよりも、さへづりと言ひたいやうな鳴き方が、絶え間なくつづいてゐる。
と始まる紀行文だが、文頭からどこか沈痛なひびきがある。
霞ヶ浦から利根川へ連なるあたりに水郷があると記しながら、謡曲『桜川』の哀話を語ったり、筑波山のありかを探したりしているが、主題は、次の一節から始まる。
今井正監督の映画「米」の、美しい帆船の群れの画面を、私はカンヌ映画祭で、日本出品作として見た。それはこの霞ヶ浦の帆引き網の帆ださうである。水郷の映画は少くないやうだが、私になつかしくて忘れられないのは、栗島すみ子(現在は水木 流の家元、当時、松竹蒲田撮影所の大女優)が主演の「船頭小唄」と「水藻(みずも)の花」である。
「船頭小唄」はもちろん、野口雨情の歌の流行につれて作られたものであつた。「水藻の花」は「船頭小唄」を追つて出来た、小さい映画であつた。40年あまり前の映画である。
康成は、つづけて書く。次第に核心に迫ってゆく。
「水藻の花」の栗島すみ子
栗島すみ子がおそらく20ころであつたらう。私は浅草で見た。私は22,23で、本郷の大学生であつた。大正の終りであつた。「おれは河原の枯れすすき、同じおまへも枯れすすき……おれもお前も利根川の、船の船頭で暮らさうよ。」の「船頭小唄」は、歌詞も曲もよく出来てゐて、今もをりをり唄はれ、流行歌の歴史からははづせない。
「枯れた真菰に照らしてる、潮来(いたこ)出島のお月さん。」などの句もある。そのころの世情人心に訴へるものがあつて、あんなに唄はれたと言ふ人もある。佐原で與倉(よくら)芸座連の人たちに聞かせてもらつた「佐原ばやし」は、もちろん祭ばやしなのだが、それにまで「船頭小唄」が演奏されて、私はおどろいたものであつた。
しかし、私が40幾年前の映画をおぼえてゐるのには、私ひとりのわけがある。21の私は14の少女と結婚の約束をして、たちまちわけなくやぶれ、私の傷心は深かつた。関東大震災にも、私はその少女の安否を気づかつて、「焼け野原」の東京をさまよつた。
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川端康成の恋 伊藤初代の死(2)
その少女が「船頭小唄」、殊(こと)に「水藻(みずも)の花」の、潮来(いたこ)の娘船頭姿のやうな栗島すみ子に、じつにそつくりであつた。私にはさう見えた。満員の映画館で立見してゐた私は、連れの友人の手前、涙をこらへるのに懸命であつた。その少女も今は世にゐない。姪(めい)の手紙で、私はその死を知つた。
この「水郷」の栗島すみ子のところを読んだ読者は、その20年近く前の、第1次全集「あとがき」(――のち「独影自命」)2の7の、あまりにも印象的な、あの一節を、思い出さずにはいられないだろう。
康成は、当時の日記を引用して、去っていった伊藤初代への思慕がつのり、浅草の松竹館で栗島すみ子を見た衝撃を、次のように語っていたのであった。ここでは、37巻本全集補巻1「大正12年・13年 日記」から、直接、引用してみよう。
大正12年1月14日
九段より神田に徒歩にて出で、神保町近くにて、電車の回数券を石濱(金作)拾ふ。金なき折なりしかば、これに勢いを得て、浅草行きを決す。
松竹館の前に立ち、絵看板を見て、余愕然(がくぜん)とす。「漂泊の姉妹」のフイルム引伸しの看板の女優、みち子そつくりなり。ふと、みち子、女優になりしにあらずやと思ひしくらゐなり。みち子の他の誰なるや見当つかず。それに動かされ、伊豆の踊子を思ひ、強ひて石濱を入らしむ。みち子に似し、娘旅芸人は栗島すみ子なり。
14,5歳につくり、顔、胸、姿、動作、みち子としか思へず、かつ旅を流れる芸人なり。胸切にふさがる。哀恋の情、浪漫的感情、涙こみあぐるを、辛うじて堪ゆ、石濱、「みち子に似てるぢやないか。」余ハツとして「さうかなあ。」と偽(いつは)りて答へたるも、後で是認す。痛く動かされて心乱る。余の傾情今もなほ変るはずなく、日夕(にっせき)(カフェ)アメリカのみち子に思ひを走らす。(中略)活動小屋を出でしばし言も発し得ず。
このとき、康成は、映画の題を「漂泊の姉妹」としている。(37巻本全集補巻1の「大正12年・大正13年 日記」によれば、「漂泊の姉妹」という題名は、同年1月25日にも登場する。)
しかしその大正12年から40数年たった今、「船頭小唄」と並べて、「漂泊の姉妹」ではなく、はっきり「水藻の花」と明記しているのだ。しかもその記憶の内容は、大正12年の日記よりも鮮明である。
康成はこのとき初めて、あの忘れがたい映画の、ほんとうの題名を読者に明かしたのではなかろうか。
それはともかく、康成は、10後に再会していったん幻滅したはずの伊藤初代を、今も、くっきりと記憶に刻んでいた。
そして水郷の風光に誘い出されたように、その思い出と、その死を語ったのである。
――その少女も今は世にゐない。姪の手紙で、私はその死を知つた。
この簡潔な1行が、康成の無限の思いを語っている。
羽鳥徹哉は、「愛の体験・第3部」において、初代ののちの結婚による3男・桜井靖郎らに面接し確認したことを記している。
それによると、伊藤初代は1951(昭和26)年2月27日、東京の深川砂町で、満45歳5ヶ月の生涯を閉じた。その3年前の脳溢血による後遺症で、足を引きずり、杖をついていたという。
もちろん康成はその死を知るべくもなかった。「水郷」に記されているように、初代の姪の手紙によって、その数年後に事実を知ったのである。
羽鳥はこの「姪」の名を、初代の妹伊藤まきの、次女・白田紀子(としこ)であると確定し、紀子が康成に手紙を出した経緯を書いている。
紀子は多少の文学少女趣味で、有名作家にちょっと手紙を出してみたくなり、1955年(昭和30)年前後、14,5歳のころ出したのだという。むろん返事は来なかったというが、康成は自分の青春にあれほどの足跡をきざみつけた初代の死を黙して語らず、ようやくそれから10年ほど経った時点で、水郷の風景に託して、その死をしずかに告白したのである。
「水郷」の文章は、単に伊藤初代の死を語っただけの文章ではない。戦争末期に鹿屋(かのや)基地に滞在して特攻機の出撃を見送った日々をも追想し、その少年航空兵の訓練場が「水郷」近くの霞ヶ浦にあったことを書きもらしてはいない。
「今は青い真菰やよしが、秋、冬に枯れて、満目蕭条(しょうじょう)の水景色、そして水の月夜も、私は思つてみた。」と「水郷」は結ばれている。
この文章で、しずかに伊藤初代の死を書きつづり、その冥福を祈ったとき、康成の底深い内部で、養女麻紗子の結婚についで、また一つ、生涯の節目が1段落ついたのではあるまいか。
康成を実人生に結びつけていた強力な力がうせて、ここから康成自身の、死への足取りが早くなるのである。
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2022/05/23 (Mon) 10:41:00
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川端康成の未投函書簡の意味するもの ――「非常」事件の真相――
森本 穫
川端康成に関心をもつ者にとって、2014年(平成26年)の最大事件は、7月8日から9日にかけてNHKと新聞各紙に公開された、康成の未投函書簡1通と、伊藤初代の書簡10通であった。
その書簡は、1枚の用紙に、万年筆のブルーの色もあざやかに、次のように書き出されていた。
「僕が10月の27日に出した手紙見てくれましたか。君から返事がないので毎日毎日心配で心配で、ぢつとして居られない。」
どうやら、伊藤初代から手紙の返事が急に来なくなったので、あせって、切迫した調子で書いたものらしい。
冒頭の「10月の27日」という日付と、内容から、この手紙の書かれた時期が推定される。書かれたのは大正10年(1921年)10月末か11月初めである。今から94年前の秋のことだ。
その秋、川端康成の生涯最大の出来事といってもいい事件が進行しつつあった。伊藤初代との婚約、そして突然の婚約破棄である。
10月8日、三明永無(みあけえいむ)とともに夜汽車で岐阜につき、初代と結婚の約束に漕ぎつけた康成は、帰京すると岐阜の寺にいる初代に手紙を送りつづけ、ひと月足らずのうちに、初代も9通の手紙・葉書を康成に送った(あと1通は、三明永無宛ての葉書だ)。
10月23日付けで康成に届いた手紙には、こんな言葉もあった。
「私は私をみんなあなた様の心におまかせ致します。私のやうな者でもいつまでも愛して下さいませ。」
「私は今日までに手紙に愛すると云ふことを書きましたのは、今日初めて書きました。その愛といふことが初めてわかりました。」
「私はどのやうなことがありましてもお傍へ参らずには居られません。」(「彼女の盛装」)
これはもう、立派な「愛の手紙」と呼んでいいものだろう。そのわずか数日後の27日に、手紙の返信がない、といって康成は、あせっているのだ。その少し前から初代の手紙が急に途絶えた、ということだろう。
――この未投函書簡公開の少し前、昨年初夏の6月、私は個人的に重要な体験をした。田村嘉勝、水原園博両氏のご紹介により、伊藤初代のご令息・桜井靖郎氏にお目にかかり、重大な証言をいただいたのである。それは、第一次川端康成全集第4巻「あとがき」(のち「独影自命」4ノ3)、大正12年11月20日の記録として残された言葉に関するものだった。
「10月、石濱(金作)、昔みち子が居りしカフエの前の例の煙草屋の主婦より聞きし話。―みち子は岐阜○○にありし時、○に犯されたり。自棄となりて、家出す。これはみち子の主婦に告白せしことなり。」
桜井靖郎氏は、この言葉が正しいこと、より具体的な内容を、異母姉・珠江(初代と先夫との間に生まれた子)からはっきり聞いたと、お話しくださったのである。
この重要なお言葉を伺って、私はこの問題について頭を振り絞って考えていた。そしてふと、或ることに気づいたのである。
それは、第4次川端康成全集(いわゆる37巻本全集)の「補巻1」に、「あとがき」の原型が記載されていはしないか、ということだった。周知のように、「補巻1」には、康成の少年時代・青年時代のおびただしい量の日記が、解読されて収録されている。
もし、「補巻1」に、大正12年の日記が収録されていて、しかも11月20日の項目が記されているとしたら……。
私は急いで帰宅し、「補巻1」を開けてみた。すると「大正12年・大正13年日記」が収録されている。そして、587頁には、11月20日の記録として、無造作に、その原型が記されていたのだ。
「十月、石濱、旧エラン前の例の煙草屋の主婦より聞きし話。/千代は西方寺にて僧に犯されたり。自棄となりて、家出す。これは千代の主婦に告白せしこと。」
千代とは、カフェ・エラン時代からの、初代の呼び名である。
さて、この婚約から、婚約破棄の手紙を受け取る、いわゆる「非常」事件の核心は、約束から、ちょうど1ヶ月後の11月8日に康成が受け取った「非常」の手紙の内容だ。そこには、こうあった。
「私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。(中略)その非常を話すくらゐなら、私は死んだはうがどんなに幸福でせう。」(「非常」)
康成はこの手紙を持って三明永無の下宿へ駆けつける。そして「非常」の意味を二人で考える。
「男だね。」/「僕もさう思ふ。女が言へないと言ふのは、處女でなくなつたことしかないね。」
二人で語りながら、その先へは進めなかった。「しかし、みち子が今男に騙(だま)されるなんてことはあり得ないと思ふがな。とてもあの年頃とは思へないしつかりした賢さを持つてゐるからね。」と柴田(三明)が言うように、今の初代が處女でなくなる可能性が見出せなかったのである。だが、そこから先が謎だった。
しかし、この「補巻1」日記の記述が正しいとすると、すべての謎は解ける。
10月23日付けの手紙を最後に、ぴたりと、初代からの手紙が途絶えたのだ。康成は10月27日に、思いをこめた手紙を書いた。だが、岩手県岩谷堂(いわやどう)の、初代の父への説得の旅を終えて11月1日に東京に帰ってきても、初代の返事はとどいていなかった。
あせって書いたのが、公開された、あの一通である。書きはしたものの、しつこすぎるのではないか――そう考え、康成はぐっとこらえて、この手紙を投函せず、結局この手紙は、初代から届いた一連の手紙とともに、手元に残されることになった。90数年間、これらの手紙は眠っていた。
だが真実は、意外なところにあった。こともあろうに、初代にとって養父にあたる岐阜の僧が、あの「愛の手紙」の直後、初代を襲い陵辱したのだ。
「非常」事件の真相――初代の心変わりの真因は、ここにあった。
初代からの手紙がぱたりと途絶えたのも、「非常」の手紙の内容も、この事実があったと考えれば、すべてが合理的に解明される。
これまで研究者は、「あとがき」の一節に注目しながらも、長谷川泉、三枝康高、川嶋至、羽鳥徹哉、田村嘉勝も、誰一人、この一節の真実の可能性を真剣に考察しなかった。言及しなかった。94年を経て、今ようやく、「非常」の謎は解明されたと私は考える。
(『文芸日女道』五六二号。姫路文学人会議、2015年3月5日)
巻頭時評「川端康成・未投函書簡の意味するもの」補記
森本 穫
上記の本文最後のほうで長谷川泉、三枝康高、川嶋至、羽鳥徹哉、田村嘉勝と、研究者の名を挙げたが、説明不足で、誤解を招いてはいけないので、補記させていただきたい。
長谷川泉『川端康成論考』(明治書院、1969・6・15)、川嶋至『川端康成の世界』(講談社、1969・10・24)は、まだ康成存命の時期であり、真相記述を遠慮した可能性がある。また三枝康高「川端康成の恋」(『図書新聞』1973・1・1)は、初代が「非常」を「事情」と書き誤った、という説である。
羽鳥徹哉「愛の体験・第3部」(『作家川端の基底』教育出版センター、1979・1・15)は、初代の「年端もゆかぬ少女ゆえの無考え」「動かされ易い心」「境遇から来る心の歪み」が「不可解な裏切り」を招いた、と説いている。羽鳥徹哉の説から約35年、反論が出ていないので、この説が現在、ほぼ定説化していると思われる。
田村嘉勝は、この問題について触れていないが、記述を控えている、という事情があるのかもしれない。
一方、川西政明「川端康成の恋」(『新・日本文壇史』第3巻、岩波書店、2010・7・15)は、明確には指摘していないが、真相をほぼ嗅ぎ当てているようである。
未投函書簡発表とほぼ同時(7月10日)に発売された『文藝春秋』8月号の川端香男里「川端康成と『永遠の少女』」(2014・8・1)は、「あとがき」と「補巻1」の日記を挙げた上で、「研究者諸氏のお心遣いにも感謝したい」と述べている。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9c80ffc19ae182c5d2ced7e6494aa9c6?fm=entry_awc_sleep
川端康成と伊藤初代 岐阜記念写真の原本(右端は、三明永無。島根県温泉津町・瑞泉寺・三明慶輝氏ご提供)
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/c9998491e2fa8178f372db6e1a5a8a30?fm=entry_awp_sleep
3人の記念写真
最近、ふたたび、川端康成と伊藤初代の恋について、話題が再燃している。
新聞にも、岐阜で撮影された三人の記念写真が掲載されて、読者の注目を集めている。
しかし、現在、新聞に掲載されている写真は、複製につぐ複製の結果、残っているもので、これらの複製写真の原本となった一枚が、現存するのである。
それが、ここに掲げる写真だ。
よく見ていただきたい。伊藤初代の顔の上方に、かなり大きな白いシミがある。他にも、白い小さなシミが、いくつか、ある。しかし、そう、これこそ、大正10年(1921年)から95年後に現存している、正真正銘の原本なのである。
この写真原本は、一昨年2014年秋、島根県大田市温泉津(ゆのつ)町西田の古刹・浄土真宗本願寺派 三明山(さんみょうざん)瑞泉寺(ずいせんじ)で発見されたものである。。
三明永無(みあけ・えいむ)という人物
この写真の右端に写っている人物、この人こそ、川端康成と伊藤初代の恋を取り持ち、大正10年10月8日、岐阜市の長良川沿いの宿で二人の結婚の約束ができた、そのお膳立てをし、何かと康成を助けた三明永無(みあけ・えいむ)である。
そして上記の瑞泉寺は、三明永無の誕生した寺であり、今も三明永無が眠る寺なのだ。
カフェ・エラン
三明永無は一高(第一高等学校)文科の、川端康成の同級生であり、寄宿舎で同室の親友であった。
この同室の四人の学生(他に、鈴木彦次郎、石濱金作)が大正8年から、寄宿舎の近くにあった、本郷のカフェ・エランに通いつづけ、そこで「千代」と呼ばれていた伊藤初代と親しくなった過程は、このブログ「運命のひと 伊藤初代」の章で、くわしく述べた。
翌大正9年、エランは店を閉じ、伊藤初代は、マダムの故郷、岐阜の貧しい寺に預けられた。
その初代をたずねて、まず三明永無が岐阜を訪問し、ついで康成を誘って一緒に岐阜へ行き、初代と会ったのである。
このまま岐阜にいたくない、東京へ出たい、という初代に、康成の恋心は再燃した。
その心を汲んだ三明永無が、二人の恋の成就(じょうじゅ)と結婚を応援することになり、その年の秋、9月と10月の二度、岐阜を訪ね、永無の努力で、康成は初代と、結婚の約束をすることができたのだ。
それが大正10年10月8日のことだった。
瀬古写真館の記念写真
翌日、3人は、岐阜市の繁華街、裁判所の前にある、瀟洒(しょうしゃ)な写真館、瀬古写真館で記念撮影をした。
写真は2種類あった。1つは、康成と初代の2人だけが写ったもの、もう一つは、三明永無も入って3人で写ったものであった。
それから東京に帰った康成と、岐阜の初代との間に、頻繁な手紙のやり取りがあった。初代から寄せられた10通が、一昨年7月、公開されたことは、周知のとおりである。そこには、次第に高まる初代の恋心が切々と表現されていた。
突然、途絶えた手紙
しかし突然、初代からの手紙は途絶えた。10月23日に投函された手紙が最後だった。
そして初代から突然に手紙の途絶えたことに苦しみ、寂しがった康成の手紙――それは、書かれたものの、あまりにしつこいことを懸念してか、ついに投函されずにしまったもの――が、一昨年(2014年)7月9日、新聞各紙に掲載されたものである。
やがて、11月8日(それは、結婚の約束をしてから、ちょうど1ヶ月後のことだった)、久しぶりに初代からの手紙が届いた。しかし、そこには、驚くべきことが書いてあった。
「非常」事件
「私には、或る非常があります。(中略)それを話すぐらいなら、死んだ方がましです」という内容の手紙だった。初代から、一方的に、結婚の約束を取り消すと言って寄越したものだった。
私は、この手紙を「非常の手紙」と呼び、この事件を「「非常」事件」と呼んでいる。
その後も、さまざまな経緯はあったが、結局、初代の心は戻りはしなかった。
初代は上京し、カフェからカフェへと勤めるが、翌大正11年(1922年)、ついに川端康成の前から姿を消した。
全集「あとがき」に発表
それでも、康成の、初代に対する激しい恋心は消えることはなかった。その思いを切々と書き綴った日記を、およそ30年後、川端は、活字にして発表する。
それは、太平洋戦争の終わったあと、昭和23年(1948年)から刊行され始めた川端康成全集の「あとがき」においてであった。
岐阜で写した写真を取り出し、初代に想いをめぐらす康成の真率(しんそつ)な心が、そこには描かれている。
失われた写真
この全集は、全12巻だった。第一次全集と呼ぶ(川端康成の全集は、これまで、4度、出ているので、最初の12巻の全集は、「第一次全集」と呼ぶのが、ふさわしい。)
この全集の各巻末尾に書かれた「あとがき」は、川端康成の秘密をさらけ出した重要なものなので、第三次全集には、まとめて掲載することになった。このとき、川端康成自身が命名して「独影自命」と呼ばれるようになった。
この「あとがき」によると、康成はこの2種類の写真を大切にしていたが、色んな事情で、とうとう失ってしまった。
一方、伊藤初代の方も、二度の結婚後も、大切にしていたが、晩年、とうとう、これらの写真も、康成から受け取った写真とともに、失ってしまった。
では、これらの写真は、永遠に失われたのか?
三明永無が保持していた!
昭和47年(1972年)4月16日、川端康成は、自宅のある鎌倉から近い、「逗子マリーナ・マンション」の一室において、みずから多量の睡眠薬を飲み、ガス管をひねっておいて自裁した。
その秋、日本近代文学館が主催して、『川端康成展――その芸術と生涯――』が開催された。新宿伊勢丹を皮切りに、全国諸都市を巡回したのである。
その展覧会の準備にあたった、当時、川端康成研究の第一人者であった長谷川泉は、この機会に、川端康成の青春、いや生涯にわたって大きな影響を与えた伊藤初代のことも展示したいと考えた。
長谷川泉は、すでに、川端の親友であった三明永無とも昵懇(じっこん)であった。
そこで、岐阜の写真を持っているのは、三明永無しかないので、この写真を展覧会に貸してほしいと言った。三明は、応じた。(2種類の写真のうち、2人だけの写真は、川端と初代しか持っていなかったので、すでに散逸して、失われていた。3人の写真が1枚だけ、三明永無が大切に保存して、残っていたのである。)
原本を複製
この展覧会には、事情があって、この写真は展示されることがなかった。(その事情は、別の項で、語ろう。)
そこで長谷川は、この写真を3枚ばかり、写真館に依頼して複製し、その3枚は、1枚は長谷川自身が持ち、1枚は川端家に返還、そして最後の1枚は、当時、岐阜と川端康成の関係を掘り起こししていた岐阜在住の研究者・島秋夫に渡った。
岐阜では、この島秋夫所持の写真が、さらに複製されて、出回っているようだ。
また、川端家は、現在、公益財団法人・川端康成記念会が保持し、日本近代文学館に寄託されている。そこで、各新聞社は、この写真を用いるとき、(所定の料金を支払い、)日本近代文学館から取り寄せて、紙面に掲載するのである。
三明永無の遺品の中にあった!
ところが、一昨年秋、それまで、名のみ知られて、その故郷も出自も明らかでなかった、三明永無の故郷が明らかになった。
(これについては、この発掘に一役割を果たした私の論考がある。近日、このブログに発表する予定である。)
三明永無の墓があり、誕生した寺でもある、島根県瑞泉寺を、『山陰中央新報』の石川麻衣記者が訪ねると、永無の遺品は大切に保存されており、その中に、「岐阜記念写真」も発見されたのだ。
90年余りの歳月を隔てたため、写真はセピア色に変色し、ところどころに、白いシミが浮き出ていたが、その裏面には「大正十年秋」と、永無自筆の書き込みがあった。
つまり、このとき発見された写真こそ、現在出回っている、岐阜の3人の記念写真の原本なのである。
『山陰中央新報』は、この発見を何度も紙面に発表し、石川記者の署名記事も出て、全国紙も後追いの記事と写真を載せた。
ところが惜しいことに、このとき『山陰中央新報』は、三明永無遺品の写真を修正してしまった。つまり、白いシミのない、きれいな写真にして、掲載したのである。このため、それ以前に発表された、長谷川泉経由の写真と区別がつかなくなってしまったのだ。
私は、三明永無遺品の写真を尊重する!
しかし私は、新しく発見された、三明永無の遺品として残された、このシミのある写真をこそ、重視するものである。永無が終生、生涯の大切な記念として身につけていたものだからだ。大正10年の息吹がこもっている。
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2022/05/23 (Mon) 10:42:02
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伊豆の踊り子を読む1-踊子のモデルを探してー 2012/1/6
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/2474409.html
里山便りから突然文学散歩になる。伊豆の踊子に関するユニークなブログを見て今まで書きためたものを整理してみた。研究というほどのものではなく、論文というほどのものでもない。強いて言えば私見「踊子探し」というほどのものである。長い文章なので2回に分けないと掲載できないので読む方には大変だと思いますがお付き合いください。
「伊 豆 の 踊 子」 を 読 む
私は「伊豆の踊子」の叙情性こそ小説の原点と思っている。それは「淡い初恋や別れの哀しみ」といったものを超えた、人の世の宿命による「別離傷心」という永遠の文学的テーマを有しているからである。
ストーリーは万人の知るところである「孤児根性で歪んでいると思い悩む一高生が、一人伊豆の旅に出てその途上で出会った旅芸人の一行と親しくなり中でも踊り子にひそかに心を寄せるが、余儀なき別れがあるだけだった」という川端康成の実体験を基に書かれたものである。
修善寺、天城峠、湯ヶ島、湯が野など伊豆の詩情豊かな風景の中を旅芸人との交流を通して旅情をかきたてながら最後は下田の港で別れるといういかにも絵に描いたような実体験を淡々と描いたところにこの作品の特色がある。感傷などからはるかに遠のいた今読み返してもなんともいえぬ感懐を抱くのである。
「伊豆の踊子」のもう一つの特色は何度も映画化され、その時々の人気女優を踊子に仕立てていることである。また、その都度歌にも歌われている。主題歌としてはヒットしなかったが昭和三十年代歌謡曲としても世に出て歌謡ベストテンのトップにもなっている。これらの事実からも「伊豆の踊子」が最も人気のある国民的な名作であることが肯けよう。
従って作品の解説や評論も多く、またモデルをはじめとして作品の背景も研究家によってほとんど隈無く調査された。さらには6回に亘って映画化されたそれぞれの作品についても十分すぎる論評がなされている。それらは作者川端康成の生前にも容赦なく行われ、時に作者を困惑させている。田中絹代主演の伊豆の踊子が映画化された、昭和8年その公開に当たって「―あの時14歳であった踊子は、今年はもう29になっている。
思い出に何よりあざやかに浮かぶのは寝顔の目尻にさしていた、古風な紅である。あれが彼女らの最後の旅であった。あの後は大島の波浮の港に落ち着いて、小料理屋を開いた。一高の寮の私との間にしばらく文通があった。似ているはずもないが田中絹代はよかった。―踊子は目と口、また髪や顔の輪郭が不自然なほど綺麗だった」と書いている。このとき大島に足を伸ばせば29歳の踊子に出会えたかもしれない。だが、絶対にそうさせたくない事情が作者にはあった。それは後述しよう。
伊豆の踊子の最終章に船の中で学生のマントにくるまり涙を出任せにする場面がある。その学生は探し出され昭和40年湯ヶ野の文学碑の除幕式で47年ぶりに再会を果たしている。
その文学碑建立に際し作者は「湯ヶ野に伊豆の踊子の文学碑を建てる世話人が、踊り子のモデルを大島に甲府にさがしもとめたと聞いて、私はぎょっとした、何の手がかりもなかったそうで、ほっとした。小説のモデルさがしなどは、作者にとってはにがいことで。ゆるしてもらいたく、見ぬふりをしてほしいものだが、好事家や研究家の詮索は、作者の妨げる限りではないようだ。踊子のモデルやその縁者の跡もわからないのは、作者の稀な幸い、この作品をすっきり守っているかに思える。」と書いている。
しかしながら作者の意に反して研究者たちは昭和四十年代からの踊子ブームに乗って執拗に踊子捜しを行っていく。そして一行のモデルと思われる一家を発見する。土地の古老は次のように語ったという「一家は岡本某と後妻、二人娘の姉と妹、他に貰い子がいた。
一家は旅芸人で、時々よそから回ってきていたが、大正5~6年ごろからは波浮に住み「鉄丸」というお茶屋にいるようになった。大正八年になってお茶屋「さかえや」を自分で開業した。妹は小柄で細面のきりょうよしで、気だてのよい、ほがらかな娘だった。芸がうまく港町にはもったいないくらいとの評判があった。郷里は甲州だと思うがよくわからない。」この一家は作者の述懐に符合する。小柄で細面のきりょうよしの妹が踊子だったにちがいない。だが、足跡はここで途絶える。作者の安堵した所以である。
評伝等の年譜によれば作者川端康成が伊豆を旅し踊子一行に出会ったのは大正7年19歳の時である。「伊豆の踊子」を作品として発表したのは昭和2年二八歳の時である。九年の間に実際の旅の記憶が作品として昇華された。一高生というエリートと旅芸人という当時最下層を生き「村に入るべからず」とまで蔑まれた人々の交流は現代では考えられぬ意味を持っていたのである。
作品として纏められた9年の間に作者は、一般に初恋として伝えられている劇的な体験をする。16歳のカフエの女給に恋をして婚約まで漕ぎつけたが一方的に破棄されてしまったのである。この間の事情は作者自身によっても書かれ初恋の相手とされる伊藤初代は徹底的に調査され岐阜や岩手に記念碑も建てられている。川端康成23歳、伊藤初代16歳の婚約と破局に至る経緯は当然川端文学に深い影響を与えている。
それは一般に初代のカフエでの源氏名「ちよ」にちなんで「ちよ物」と呼ばれ「伊豆の踊子」もその系列に属している。文学的自叙伝の中では「いったいに私は後悔というものをしない。―過去を思い出すことはない。だから23と16で結婚していたらどうなったか、考えてみたこともない―。結婚の口約束をしたものの、しかし私はこの娘に指一本触れたわけではなかった。14少女の「伊豆の踊子」も似たものである」と述べている。
19歳での伊豆の旅から「伊豆の踊子」が作品として世に出る間に遭遇した強烈な出来事が作品に影響を及ばさないはずもない。それが何人かの評論家の述べるところの「淡い初恋とか、別れの感傷とかの生やさしいものではなく、断念、ひたすら忘れる他はない断念を描いたのである」との論評にも繋がるのであろう。
踊子の「薫」と初恋の相手「初代」とはほぼ同年齢である。「初代」は徹底的に研究され写真も残されているが、「薫」はとうとう世に出なかった。初恋の顛末が衝撃的であっただけに研究者も「伊豆の踊子」はそっとしておきたい心理が働いたのではあるまいか。
踊子はあくまで汚れなき少女で永遠の憧憬でなければなるまい。研究者のあいだにもその程度の心理は働いたであろうし、よしんば踊り子に辿り着いたとしても作者の生前であれば流石に発表をはばかられたであろう。前述のように調査の手はかなりのところまで伸びた。そして栄吉のモデルは岡本文太夫本名は松沢要といい信州の生まれ。踊子のモデルは松沢たみ。そこまではほぼ確定できたようだ。そして松沢要のその後についてはほぼ調査された。ところが、松沢たみは30歳前後を境に消息が絶える。まさにあと一歩までたどり着いている。だが、作者の言うように幸運なことに作品はすっきりと守られた。
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/2474409.html
伊豆の踊子を読む2-踊子のモデルを探せたかー 2012/1/6
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%88%9D%E4%BB%A3&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwisjLuetJTUAhUCW7wKHWOLB5kQsAQIMg&biw=1107&bih=599#imgrc=mf95Pys2aaKjVM:&spf=1496037033294
川端康成は体験的小説の少ないことでも知られている。その数少ない体験小説の作品が「伊豆の踊子」である。作者自身が「ほとんど事実である」としながらモデルを始め謎も多い作品であるからこそ、何度も映像化され読者も自らの踊子像を形成するのであろう。ちなみに初恋の相手「伊藤初代」は川端の友人によれば「踊子のイメージを宿した、透き通る様に色白で儚げな少女であった」という。彼女も数奇な運命を辿る。初代は幼くして母と死別し父とも別れねばならなかった。12~3歳から子守などをして他家で暮らす。カフエの女給として働き始めたのは14歳のころでそこで川端と出会う。
彼女は川端と別れたのち1年後に結婚し子をなすが、夫に死別する。その後再婚するものの生活のためカフエの女給を続ける。川端は初代から一方的に婚約を破棄された後も執拗と思えるほど彼女の後を追う。東京のカフエを捜し歩き何度か探し当てるのであるが受け入れてはもらえなかった。その間の状況も川端自身によっても書かれ、研究者によっても徹底的に調べ尽くされている。
初代は流転に近い人生を歩むのであるが、小学校時代県知事の表彰にまで推薦された努力家で「頭の回転の速い環境に適応性のある美人であった」という。かなり一方的に川端の方が傾斜していったのはこれもほとんどの認めるところでもある。川端の孤児性と初代の境遇とはある種の共通点として川端のほうに強く作用している。伊豆の踊子の中では「孤児根性に歪んだと思い悩んでいる」自分に踊子一行は何の隔てもなく「いい人」として接している。その係わりを初代の中にも見出しまた求めたのであろう。
川端が初代と深く接して多くを語ったという形跡も見られない。常に友人を介しことを進めている。
15歳の折初代は東京を離れ岐阜の知人の下に貰われるように去って行く。それは相当辛かったに相違ない。しかしながら孤児同然の15歳の少女に運命に逆らう術などあろうはずもなく流されてゆくのである。岐阜に尋ねた川端らに東京に帰りたい心情を伝えていたのであろう。恐らく孤児性への同情が川端をして初代の保護者になりたいという願望に繋がり、恋愛感情以上に婚約を急がせたのではあるまいか。初代の中に伊豆の旅の踊り子の面影を見ていたのは疑う余地もない。
初代は27歳の時川端家を訪ねている。川端は変わり果てた姿に衝撃を受けるがその時をもって一連の初恋事件に対する訣別ができたとし、確かに作品の上では変化が見られている。そのときのことは川端夫人も書いているが哀れを誘う。頭のよい初代がなぜ川端家を訪ねたのか、金の無心ではないことは確かである。
初代は婚約事件のころから「金で私を買おうとして」と疑念をぶつけるのであるから、生活に困窮したからといって金銭のために川端を訪ねるはずもない。前夫との間の子どもを養子にして欲しいと願ったとも言われるが、それも定かではない。いずれにしてもこの再会は短時間で終わっている。川端婦人が書いているほどにあつかましい姿ではなかったであろう。だが川端家を訪ね再会したことは事実でありこれを境に川端の初代観が変化したことも否めない。
初代は40歳を過ぎたころから中風を患い紐も結べぬほど半身が麻痺をする。当然のことながら女給を続けることも叶わず病に伏し、困難な時代を背景に貧困の中に46歳で世を去った。川端のことはほとんど語らなかったが、一度だけ妹に、「川端と結婚していたらどうだったろうか」と遠くを見る目つきで呟いたという。
永く東京の寺に仮葬されていたがそこに時折焼香する人がいたという。名を尋ねたわけではないが、瘠せた目の大きい人だったというから川端に相違ない。
20年を経てようやく遺族によって鎌倉の霊園に納骨される日、あまりの人の多さと警戒ぶりに驚いて縁者が事務所に訪ねたところ、全くの偶然ながら奇しくもその日が川端康成の納骨の日で時の佐藤総理大臣も参列したとのことであった。魂が呼び合ったのではあるまいかと述懐する人もいた。初代が川端との婚約を破棄した理由や手紙にしるした『非常』の意味については結局詳しくは語られていない。初代は当時の女性にしては珍しく丹念に日記を書いていたという。晩年のものが多少残っているだけであとは自分で処理したらしい。日記を読むことはできぬのであるが、その中では語られていたのかもしれない。
初代が川端家を訪ねた翌年、田中絹代の主演で伊豆の踊子は映画化された。初代の変わり果てた姿と田中絹代の踊子の対比に作者は何を見たのであろうか。
さて、同時代を生きたほぼ同年齢の初代の生涯が完璧なほど調査され、写真もかなり残され墓も川端と同じ霊園と特定された。それに対して踊子薫のモデルはある時を境に忽然と消えた。それは第1回目に映画化されたころである。昭和の時代に入っているというのに一人の人間の生死も定かではないのはどうしたことであろう。「港にはもったいないくらい」の器量よしで気立てのよい薫のモデル(松沢たみ)はどこに消えたのであろう。また彼女たち旅芸人の一行は映画化されたことを知ったのであろうか。
川端康成は「後悔することも、思い出すこともない」と書きながらも踊子と初代は心の奥底に生涯強く生き続けたのである。
私は何回か踊り子の跡を辿り、江刺の文学碑も岐阜の文学碑も訪ねてみた。初代の何枚かの写真にも接する機会があった。読むにつけ調べるにつけて、初代と踊子が重なってならなかった。私たちが目にすることのできる初代13歳の写真は、13歳にしては大人びて見える、あるいは初代は薫の面影を宿していたのではないだろうか。
川端の中でも薫と初代は一体化していたのに違いない。初代との破滅的な恋が永く尾を曳き、それが踊子の思い出を際だたせ珠玉の名作を生んだのであろう。川端は伊豆の旅を終えた後、にわかに明るくなり口数が増えたと友人が証言している。急速に初代に惹かれたのも、初代の中に、踊子の屈託のない明るさと純粋さを見たからに違いない。一高生と踊り子、一高生と女給、結ばれるはずもない取り合わせも破局と別離の余儀はないのであるが。初代は踊子の影であったかも知れない。
川端は71歳の折りにもこの間のことを回想して「結婚の約束をしてから、『非常』の手紙を受け取るまでに僅かに一月、あっけなくわけもわからず破れたのだったが、私の心の波は強かった。幾年も尾を曳いた。」と書いている。自ら命を絶つ三年前のことである。変わり果てた初代に衝撃を受け失望し、その初代も既に世を去っている。それにもかかわらず心の波はおさまらず、終生尾を曳いていたのである。
読者の多くが感ずるように、まれなる文豪川端康成をして踊子こそが、憧れ続けた理想の女性像であった。そしてそこには初代の影がある。川端康成七十余年の生涯の中で踊子と出会い、旅をしたのはわずかに一週間程度である。その一週間こそが強烈な初恋事件を生み名作の根源となり、永遠となったのである。そうした意味において「伊豆の踊子」こそが文豪川端康成の原点であり終着点であるように思われる。
上の2枚はインターネット上でも見られる初代の写真13歳と14歳のもの。
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/GALLERY/show_image.html?id=2474683&no=2
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/GALLERY/show_image.html?id=2474683&no=3
下の2枚の写真はインターネットで調べても載っていない伊藤初代の写真。
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/GALLERY/show_image.html?id=2474683&no=1
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/GALLERY/show_image.html?id=2474683&no=0
初代の故郷岩手江刺の研究家菊田一夫氏の力作「エランの窓」の中から引用しました。「エランの窓」を閲覧できるのは国会図書館と江刺図書館だけです。
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%88%9D%E4%BB%A3&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwisjLuetJTUAhUCW7wKHWOLB5kQsAQIMg&biw=1107&bih=599#imgrc=mf95Pys2aaKjVM:&spf=1496037033294
コメント
少し 質問をさせてください。
現在、ヤフー知恵袋 に おいて、川端康成 の小説『伊豆の踊子』の 踊り子 (薫) の本名が 話題になっております。
① 松沢たみ 説
② 時田 〇〇 説
どうやら、2つの説がある様子です。
① は、主に 土屋寛氏が、著書『天城路慕情 伊豆の踊り子を探して』にて 展開している説で、踊り子 = 松沢たみ 栄吉 = 松沢要 であり、 たみ が30歳前後に 足尾 で亡くなった という説です。
②は、川端康成 の 弟 が発表した説です。
栄吉=時田かおる
踊り子=時田??
川端康成が 踊り子一行と伊豆で出会った 大正7年の大晦日に、時田かおる = 栄吉のモデル から 葉書 が 康成 へ届き、その後、数回 相互に手紙のやり取りがあった という説。
② の 説について、どのようにお考えですか?
2013/7/22(月) 午後 10:57[ jyugorojyugoro ]
私は時折女子大の論文指導をするほか看護学校で文学の講義をしています。また公民館で文学散歩を担当しそこでは必ずしも文献や事実に基づかない「推論」を展開しています。伊豆の踊子のモデルを探しても、私なりの解釈が多く入っています。天城路慕情も参考にしました。
文献としては川端康成に最も近い作家であった北条誠の「川端康成・文学の舞台」に中に「波浮を夜逃げしてからのたみ子は下田で芸者になり、伊東にもいたことがあるそうだ。―その後のたみ子が、結婚したか、死んだか、あるいは身を持ち崩したか、私はもう調べる気持ちを失っていた。踊子の美しい夢が壊れそうだ。波浮の港のたみ子は伊豆の踊子の薫とは別人だと思いたい。―
踊子は天城峠ならぬ、人生の峠、文学の峠で、若い日の川端が見た一瞬の虹であったようだ。と書いています。川端康成の最も身近に存在した作家の言葉です。様々な説がありますが結局モデルは特定されなかったというべきでしょう。
2013/7/22(月) 午後 11:41[ itabueki ]
失礼しました。お尋ねは2のはがきについてでしたね。川端康成は姉がおりましたが、父母姉共に早くに亡くし、育てられた祖父も喪い天涯孤独と言ってますので弟は誤りと思いますが踊子の一行とはがきのやり取りがあったのは事実で時田某というのも事実のようです。何枚かは残っているそうですから。ただ特定されなかったとはいえモデルとしては天城路慕情の作者の調査した、たみ子もしくはたみという方が近いと思います。
2013/7/23(火) 午前 0:29[ itabueki ]
「川端康成の青春」???の著者である 川端康成の弟・・・川端香男里氏の書簡に、時田かおる = 栄吉 説 が どうやら 載っているようです。
たしかに、川端康成は 天涯孤独な筈ですから、弟 というのもおかしな話だとは思います。
最近、私は、管野春雄氏著者『誰も知らなかった伊豆の踊子』の深層』という著作も読んで、その物凄い説得力と 本当に新しい「伊豆の踊子」のストーリーの深層に驚きました。
先生は『誰も知らなかった伊豆の踊り子の深層の』をおよみにお読みになられましたか?恐ろしい程の説得力です。
例えば、湯川橋 での 出会いはなかった! 等
踊り子(薫)のモデルは 結局 確定できていないようですね。
でも、私は、確定できなくて、よかったような気がしています。
2013/7/23(火) 午後 5:36[ jyugorojyugoro ]
訂正です。
川端香男里 さんは、川端康成の養女政子の夫で、義理の息子さんのようです。
Wikipediaで調べました。
川端香男里さんによると、時田かおる 氏から 大正7年の大晦日に川端康成へ 葉書 が届いた様子です。
伊豆の踊り子の薫
時田かおる
川端香男里
かおる が たくさんです。
2013/7/23(火) 午後 5:50[ jyugorojyugoro ]
ご教示頂いた管野春雄氏の著書さっそく取り寄せます。伊豆の踊子は作者がほとんど事実だといっていますが、私の書いた中にもある通り実体験から作品になるまでに数年の時間の経過があります。その中では書き換えや加除訂正もあったはずです。もちろん様々な経験を通して作者自身の人生観も変わったことでしょう。ある書物には、実は川端康成は伊豆の大島を訪問しているという説もあります。
それらの真偽も今となってはわかりません。作品は世に出るとある意味作者を離れます。自分なりの解釈を持っても一向にかまわぬのです。ただその説を学会などに発表する際は確かな証拠を必要とします。伊豆の踊子についてはモデルの問題も含めてほぼ定説化したように思います。作者自身もかなり踏み込んだ発言をしまた文章に残しています。
私は17歳の秋、伊豆の踊子の跡を辿って歩きました。列車の切符だけは買ってありましたが、湯ヶ野のあたりで資金が底をつき小雨の中をてくてく歩いていたらバスが止まってくれてぶっきらぼうな運転手と優しい叔母さんの車掌がバスに乗せてくれました。
2013/7/23(火) 午後 9:42[ itabueki ]
500文字まで という文字数制限 があるので、書いた文章を分割させていただいたのですが、申し訳ありません、順番がおかしくなってしまいした。
2013/7/24(水) 午前 0:04[ jyugorojyugoro ]
コメントいただいたおかげで伊豆の踊子関係の書物を読み返してみました。またユウチューブで流れている小田茜の踊子の最後の部分などを見ました。北条誠は川端康成は本当は踊子の行方を知りたかったのではないかと推論しています。
折に触れて初恋の相手伊藤初代と踊子のことは書いています。「落花流水」の中に―伊豆の踊子にはモデルがある。四十四、五年小空くは絶えているが、生きていれば、もう五十五歳から六十歳の間である。
映画、ラジオ、テレビジョンに度重ねて使われていることを、彼女や旅芸人の一行の人たちは知っているのだろうか。いくつかの国語教科書に載っていることはおそらく知らないであろう。―と書いています。遠い昔わずかに一週間ほどの旅をしただけのことを生涯忘れられなかったのです。それが伊豆の踊子なのでしょう。
2013/7/24(水) 午後 11:45[ itabueki ]
さて、『誰も知らなかった伊豆の踊子の真相』 静岡出版社 平成23年刊行 は、相当な現地取材を重ねた、緻密な倫理で、ものすごく説得力に富んだ力作です。
著者は元公務員のようです。
たとえば、
1.間道越え (本当に)大島は見えたのか?
2. 男(栄吉)は何故夕方まで座り込むのか?
特に印象に残ったのは・・・湯ケ野で、踊子(薫)が(共同湯から)真裸で飛び出してきた時、康成の泊まっていた旅館の風呂(←当時から、地下にあるので)からは踊子の姿は絶対に見えなかった。
しかし、康成の泊まっていた部屋の窓からは、共同湯が完全に(間近に)見えるので、踊り子が全裸で手を振ったのを康成が見たのは、康成が止まっていた部屋の窓からの筈だ といった按配です。
逆に言えば、踊り子(共同湯)からも康成の部屋の中がよく見渡せた ということです。
2013/7/25(木) 午後 10:43[ jyugoroujyugorou ]
私は、実は、井上靖さんのファンで、通算50回前後は伊豆半島へ行ったことがあります。
最も好きな小説は、『あした来る人』です。
この小説にも伊豆の戸田は出てきますね。
2013/7/25(木) 午後 10:50[ jyugoroujyugorou ]
当然、私は 天城湯ヶ島 や 湯ケ野 や 修善寺等 へも何度も何度も足を運んでいて、厭でも〈伊豆の踊子〉が視野に入ってきました。
そんな訳で、特に川端康成さんの著作を好んで読んだ訳ではないのですが、川端康成さんの著作では『伊豆の踊子』限定のファンです。
2013/7/25(木) 午後 10:52[ jyugoroujyugorou ]
もし、川端康成さんが、大島を訪問していて、踊り子と再会を果たしていたとしたら、素晴らしいことですね!??
先生に教えていただいたことを(勝手に)総合させていただくと、『伊豆の踊子』の薫は、時田某ではなくって、 松沢たみ(民子)の可能性が高いだろう と理解してよろしいのですね。
2013/7/25(木) 午後 11:04[ jyugoroujyugorou ]
先生のおっしゃった
「作品は世に出ると作者の手を離れるので、自分なりの解釈を持っても一向に構わない。唯 その説を学会等に発表する際には、確かな証拠を必要とする。伊豆の踊子 についてはモデルの問題も含めてほぼ定説化したように思う。康成自身もかなり踏み込んだ発言をしており、文章にも残している。」
の意図するところは、私なり理解した心算です。
2013/7/25(木) 午後 11:05[ jyugoroujyugorou ]
こんばんは。注文した「誰も知らなかった伊豆の踊子の真相」届きましたので興味深く読みました。緻密な調査や検証に驚きました。
結論から申し上げますが、私の感想では従来の価値観を覆すものではないということです。
伊豆の踊子は日記文学や紀行文あるいは伊豆の解説書ではありませんので創造や創作は当然のことです。実体験から9年を経て完成された作品ですので若き日の非日常的な甘美な体験のエッセンスが詰まっています。
私は素直に最終章の「涙を出まかせにしてあとには何も残らないようなあまい快さだった」という表現をそのまま読み取っています。長く国語の教員をしましたので生徒の感想を大切にし素直な読み取りや解説を心がけてきました。
2013/7/25(木) 午後 11:20[ itabueki ]
『誰も知らなかった伊豆の踊子の深層』をわざわざ取り寄せて読んでくださった様子で、本当にありがとうございました。
著者の菅野春雄さんは、何度も何度も『伊豆の踊子』舞台へ足を運んでいらっしゃり、何だかんだ言っても小説『伊豆の踊子』のファンであることは明白。
著者の探究心と分析力に対して感嘆と賞賛します。
また、先生のおっしゃっている通りで、小説『伊豆の踊子』の従来の価値観や定説を覆したりする意図はないものと思います。
2013/7/28(日) 午後 9:30[ jyugoroujyugorou ]
更に、2013年5月23日初版発行の小谷野敦著『川端康成伝 双面の人』中央公論社刊を一昨日に購入致しました。
3,000円もする650頁ある分厚い書籍で(時間の関係で)まだ殆ど読み終えていないのですが、第2章「一高へ、伊豆の踊子」と第3章「伊藤初代事件」のみ流し読み致しました。
2013/7/28(日) 午後 9:45[ jyugoroujyugorou ]
実は、私は、itabueki先生に今月24日に教えていただくまでは伊藤初代さんの存在すら(ほとんど全く)知らなかったのです。
『川端康成伝 双面の人』の著者小谷野敦さんは伊藤初代さんのことについて詳しく解説してくれております。
そういえば、先生のブログのも伊藤初代さんの写真がかなりの枚数掲載されていましたね!
川端康成さんにとっては、よっぽど重要な女性の様子ですね。
2013/7/28(日) 午後 9:58[ jyugoroujyugorou ]
『川端康成伝 双面の人』の中で小谷野敦さんは、第2章「一高へ、伊豆の踊子」において、以下のように断定しております。
旅芸人岡本文太夫の一行と道連れになったもので、踊り子の名前は加藤タミ、その兄は時田かおるで、踊り子の名前「薫」は時田かおるの名を使ったもの、兄の名「栄吉」は(康成の)父の名を使ったものだ。
兄と薫は姓が違うが、兄といっても、実の兄ではなかったのだろう。
2013/7/28(日) 午後 10:16[ jyugoroujyugorou ]
踊子一行は、その後、伊豆大島へ渡って興業を続けており、康成とも書簡の往来があって、暮れには横須賀甲州屋方 芸人時田かおるから年賀葉書が来ていて、これが踊子の兄である(香男里「川端康成の素顔」)。
伊藤初代の写真を見ると、美人ではなく、特に鼻が貧弱である。
川端は踊子(タミ)についても、やはり、鼻が小さかったと言っているから(初代と)似ていたのだろう。それはまた、今でいえば「ロリ顔」である。
2013/7/28(日) 午後 10:30[ jyugoroujyugorou ]
私が踊子のモデルを探しての文章を書いたのは、一つの文学論としてモデルを想像することの意味を考えてみたかったからであり、モデル探しの過程で必ず作者の体験に行き当たりますのでその作業も作品の解釈には欠かせません。
前のコメントに書いたように北条誠が途中でモデル探しの意欲を失ったとありますが、当時の踊子の生きた環境は私たちの想像の埒外のものだったと思われます。もし幸せな結婚をしたとすれば戸籍は様々な形で変えられたでしょうしある種のパトロンがついたとしても追及の手は妨げられたでしょう。ぷっつり足跡が消えたのは読者や研究者にも幸せなことだったように思います。
学校へも行けず文字もほとんど読めなかった踊子はおそらく「伊豆の踊子」を読むことはなかったと思います。
2013/7/28(日) 午後 10:47[ itabueki ]
五井に住む 仲の良い友人に誘われて、 南房総 和田浦へ行き、鯨を食べに言って参りました。
ミンク鯨ではない、クチなんとか鯨 が、美味しかったです。
私も 井上靖さんの自伝系の小説を読破しているので、当時の旧制高校 が 一般的に いかに狭き門だったのかは 容易に想像が可能です。
井上靖さんは たしか旧制4高でしたが、康成は旧制一高。現在の東京大学の教養学部のような機関で 現在よりも遥かに 権威 と エリート性 が高かったものと思われます。
ですから、恐らく 尋常小学校を中退している 旅芸人の踊り子 (薫) と、当時 一高生だった康成では、天と地の差のような (言葉は悪いですけど) 身分差があったのだろうことは (私でも) 容易に想像がつきます。
2013/7/29(月) 午後 7:22[ jyugorojyugoro ]
ただ、私が 現在読み進めている『川端康成伝 双面の人』の102ページに、「今東光によると、川端は、不幸な 身分の低い 貧しい少女が好みで、貴顕の令嬢といったものに関心がないのだ、という。自分でも 汚い中の美しさ が好きだと書いている。
川端は 一高生 から 東大生 になる訳で、素性の知れない女給 (伊藤初代のこと) と結婚するのは 狂気の沙汰であった という人もあった。・・・」というくだりがあります。
康成が、踊り子 (タミ) と出会った時の踊り子の満年齢は(恐らく)12~13才。
もし、踊り子が、あと 数才 年長であったならば、ひょっとして、康成の初恋の相手は 伊藤初代 ではなくて、踊り子(タミ)であった可能性もあったのではないか?
康成は「タミと結婚する」と言い出していた可能性もあったのではないか? などと 私は想像したりしております。
更には、タミ であったならば、初代のように 康成の求婚を無下には断らなかったのでは?などとも想像しております。
2013/7/29(月) 午後 7:51[ jyugorojyugoro ]
当時の 旅芸人の踊子 と カフェの女給 では どちらが社会的に上だったのか どちらが下だったのか が 私には よく分かりません。
ただ、踊り子 と 女給 の当時の身分差は ほとんど無かったのてはないか と推測しております。
でしたら、康成 が 踊り子を選択しても 決して不思議ではなかった筈です。
2013/7/29(月) 午後 8:08[ jyugorojyugoro ]
川端康成は自身で
「女性のにおいのしない自分の生い立ちのせいか大人の女性には興味が湧かなかった、子供から大人への中間点のような女性に興味があった」
と言ってますから今様に言えばロリコンと言ってもよかったのでしょうか。
踊子がもうちょっと歳が上だったらという仮定は何人かの評論家も指摘しますが、風呂から裸身を晒すほどの子供であったからこそ、印象に残ったのでしょう。
伊藤初代に出会ったのも彼女が14~5歳の時です。ただとんちんかんで教養のない踊子と違って初代は頭がよくカフエに来る学生たちとの会話の中でも頭の良さを示すことがあったようです。結婚の相談をした菊池寛に「そんな子供と結婚してどうするのだ」と言われて「しばらく家の手伝いをさせます」といったような答えを言っていることからも初代との結婚は孤児性への同情であったのだろうと考えられます。
ただ踊子も初代も長く心に残り折に触れて回想していることからも二人が一体となって初恋の対象のように思われます。若い時代にそうした出会いがあったということは文学の上でも稀有の幸いと思います。
2013/7/29(月) 午後 8:29[ itabueki ]
https://blogs.yahoo.co.jp/gfqyw880/2474409.html
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12:777
:
2022/05/23 (Mon) 11:01:39
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川端康成は藤圭子に嫌われたのを苦にして自殺した
川端康成が藤圭子にセクハラをしていたことをどう考えますか
川端の自殺は私へのセクハラに関係があると言っていたそうですが・・・
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10112817570
川端康成が藤圭子さんのファンであったことを、NHKラジオ深夜便で『川端康成と女たち』という生誕100年記念座談会である文芸評論家が言及していました。
『天授の子』(川端康成:新潮文庫)の年譜より引用:
「昭和四年(1929年)三十歳、日本最初のレビュー劇場として旗あげしたカジノ・フォーリーの文芸部員島村龍三(黒田義三郎)を訪ね、踊り子たちと知るようになる。
多量の取材ノートを取って、十二月から第二作目の新聞小説「浅草紅団」を連載したが、(後略)」
この「浅草紅団」に登場する女性が川端氏の創作した女性でしたが、デビュー当時の藤圭子さんに非常に似ていたため、川端氏が彼女の熱烈なファンになり、ゴシップになっていたそうです)
https://marugametorao.wordpress.com/2005/05/18/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E7%94%B0%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%EF%BC%9A%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%BA%A6%E5%88%A4%E5%AE%9A/
藤圭子の「母」と「川端康成」を書いた
By 牧 太郎2013年9月2日旧_編集長ヘッドライン日記
きょう(9月2日)東京地区発売のサンダー毎日で「僕が封印した藤圭子の『母』と『川端康成』」を書いた。
藤圭子が投身自殺して以来、「あの事」を墓場まで持って行くべきか?悩んだ。
「高度成長と全共闘」の時代を「藤圭子の存在」を通じて描こうとした時期(1996年ごろ)、突っ込んだインタビューをして、彼女が抱えていた「意外な出来事」を知った。
当時、これを書くには「勇気」が必要だった。
封印しよう!と思い、当時の主筆(編集最高責任者)と相談して、連載そのものを断念した。取材をして、一定の「新事実」を掴んで「字」にしないケースは、それまでほとんどなかった。
「藤圭子物語」は僕には荷が重かった。
彼女が自殺して……もう一度、考えてみた。
あの日、「連載するなら、これは書いて欲しい」と藤圭子は言っていた。
このままにして良いのか?
考え考え、ギリギリの表現で「あの事」を記録しておくことにした。
読んでくれ!
どこかで、藤圭子が「心の病」に追い込まれる原因の一つに、「母」と「川端康成」との出来事があるように思うのだ。
http://www.maki-taro.net/archives/2107
藤圭子資料館
「ノーベル賞作家が自室に異例の招待 川端康成氏の熱愛に感激
藤圭子が『先生、お肩を…』」 - 週刊明星
1971/7/25 - 藤圭子の熱烈なファンというノーベル賞作家川端康成氏に請われて滞在先のホテルオークラを訪ねた時の記事。
この時彼女は氏の肩を叩き、持参した全集にサインをもらうなどして川端氏の鎌倉の自宅訪問を約束したが、翌年突然の死により、その約束は果たせぬまま終わった。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/library/keiko_book1.htm
藤圭子について語るスレ
499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 01:59:57.25 ID:T06wKoxS
別のスレで見た投稿でふと思ったことを書き留めておく。
ご存知の川端康成『伊豆の踊子』は、大正時代の旅芸人の話。
繊細で、かつ感応しやすい川端にとって、自分が描いた
「もはや滅びる(忘れられる)日本人」の形態として、旅芸人たちの習俗を著した。
その思いがあったからか、生い立ちがまさにそれと思わせる阿部純子の存在は
川端には、自己の奥にある郷愁(サウダージ)にも感応して、どうにかして
純子(すでに藤圭子)に会ってみたいと思うようになった。
正史では、藤圭子と会う(予定)日の2日前に川端は自死したとなっている。
だが、身近で事情を知る人たちの証言によると(TVで紹介された)
じつは純子は何度かもうすでに川端に会っていて
おじいちゃん孝行みたいな奉仕をして(させられて?)いた、という。
ノーベル文学賞の人、その候補と言われた三島由紀夫をはじめ
五木寛之、筒井康隆、平岡正明、楳図かずお、松田政男、野沢あぐむ などなど・・・
ほんとうに多様なジャンルの有識者・文化人に、藤圭子は鮮烈な印象を与えていたのだとわかる。
カルメンマキ、浅川マキ、山口百恵、山崎ハコ、・・・・・椎名林檎、などなどよりずっと藤圭子は、深沢七郎のように、中上健次のように、インテリには衝撃的な存在だったのだと思う。
500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 11:40:37.08 ID:jLlW6i+W
>>499
これほど人の心に衝撃を与え眠りかけていた精神を覚醒させた歌姫は
藤圭子しかいないと思います。
ノーベル賞歌手といっても過言ではない。藤圭子を知る時代に生まれてきたことの
優越感、重厚な存在感を忘れることはありません。
501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 14:16:27.61 ID:xHmspCIb
川端とは対談してる雑誌あるよ。肩叩いてる写真がある。
死ぬ前にまた会いたくなったと思う。
514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/01(火) 00:10:54.92 ID:WwcQAebD
>>499
別のブログでは、川端康成が自死する1年前に川端康成の要望により藤圭子とホテルで会っており、藤圭子は川端康成の全集を持参しサインしてもらい、川端康成からは鳥の剥製を贈られた。1年後にまた会う約束をしていたが1年後の前日に自死したとなっている。
恐らく藤圭子は川端康成の大ファンだった筈だが、気にかかるのは川端康成と会っているのにその事は口にする事は無かった様に思う。また藤圭子は川端康成を嫌っていたともいう。
しかし、後に川端康成の自死について、藤圭子は「私に対してのセクハラも関係してると思う」と言っている。
とするとやはり、1年前から何度となく会っており、 おじいちゃん孝行みたいな奉仕をさせられていたと思う。石坂まさをに指示されていたのだろうか?
セクハラの関係で自死だとしたら強姦かその未遂だろうか?
川端康成は加賀まりこに対してもセクハラの話があり、女性とのスキャンダルで雑誌の発行停止を求めるの訴訟も川端側近からあった事もあると言う。少女に対するスケベ爺だったのだろうか?
515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/01(火) 00:30:27.11 ID:awWpS4p9
自殺後サンデー毎日で実は川端にセクハラのよなことをされた、て書かれいたと思う。牧記者のコーナー
川端に初めて会ったのはデビュー後1、2年だと思う。
517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/01(火) 00:54:15.15 ID:awWpS4p9
川端は自分の欲しい骨董は金に糸目をつけず必ず手に入れる、てのを読んだ記憶がある。国宝級の物を持っていた?
社会常識など無視して生きてきた男。唯美主義男だな。
519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 00:45:02.10 ID:KLUdMMz/
>>514
当時はまだ男尊女卑の風習が残っていたのでセクハラ等の言葉はなかったと思う。
何かで読んだが川端の方から林家三平の奥さんに藤圭子会わせてほしいと申しこまれ そのあと自殺したと聞いていた。
今だったらノーベル作家の思いあがりと大騒ぎになってたと思う。
520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 13:22:38.36 ID:eIyTv7SC
>>519
確かに、川端の方から林家三平の奥さんに藤圭子に会わせてほしいと申しこまれ
そのあと自殺したと言うのもある。
しかし、川端が林家三平の奥さんに藤圭子に合わせてほしいと頼んだと言うのはわからないですね。
確かに、藤圭子は何回か林家三平の家には行っている様だけど。そして、1年間、林家三平の家に住んでいたと言うのもあるけど、「流星ひとつ」「きずな 藤圭子と私」にも住んでいたとは書いてないし住んでいた事はないと思います。カムフラージュの様な気もします
521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 13:49:29.38 ID:pf60CHIT
>>520
519ではないですが。
昨年雑誌で、藤圭子さんの追悼として、海老名さんの書かれている文章を
読みました。
それにも、1年間、林家三平の家に住んでいたと言うのが書いてありました。
住んで居ないのに何故そんなこと言うんだろう?
522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 14:00:57.47 ID:CTS+zS7t
海老名は東京の母みたいなものでは?
海老名と関係が続いていたら自殺は無かったと思う。
523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 15:45:24.13 ID:Nhn2cuUl
西日暮里なのか林家なのかどっちなん?
海老名さんがわざわざ嘘つく意味ないしアパートの話の方が嘘っぽい。
何の切欠もなしには進まんだろうし。
524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 15:59:37.19 ID:eIyTv7SC
>>521
520です。石坂まさをが東芝専属だった時、担当の新コーラスグループの名前を林家三平に付けてもらった。
三平の家紋から花菱エコーズ。この時の縁でデビュー直前、石坂まさをが藤圭子を三平の家に連れて行き、 家の改築中だったが三平、妻、弟子、大工数名がいる中で藤圭子が「カスバの女」と「新宿の女」を歌った。藤圭子の宣伝も林家三平に頼んだ。
と言う事がきずなに書かれている。
どうも、川端康成の藤圭子に対するセクハラを否定するため側近が林家三平の妻に、藤圭子が1年間住んでいた事、川端康成が藤圭子に逢わせて欲しいと言う事にして欲しいと頼んだのではないか?
525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 19:16:39.46 ID:CTS+zS7t
藤圭子が三平の家にいたのは川端に会うはるか前では?
圭子は三郎と浅草で流しをしてたはず。
浅草のおでん屋に三郎とよく行ってたはず。
526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 19:31:33.48 ID:CTS+zS7t
川端はテレビで圭子(デビュー頃)を見て対談をしたいと出版社に頼んだはず。
そして雑誌で対談が実現。圭子の肩叩きの写真あり。
川端は死ぬ前に海老名にもう一度圭子に会いたいと頼んだと思う。
圭子は川端ファンてのは嘘だと思う。 これは雑誌社で作ったと思う。
圭子は中学から旭川の繁華街で流し、成積は優秀なら本を読んでいる暇ない。
東京に出てきてからも流し、レッスンと忙しく、すぐデビューだから。
527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 21:57:13.41 ID:eIyTv7S
>>525 >>526は、川端康成の側近の方では?
528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 22:36:25.89 ID:CTS+zS7t
↑
本、サイトをまとめただけ。
圭子と川端はそんなに会っていないと思う。
雑誌対談1回だけかも。
529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/03(木) 00:25:15.75 ID:EjtmwYv5
「ノーベル賞作家が自室に異例の招待 川端康成氏の熱愛に感激
藤圭子が『先生、お肩を…』・・週刊明星1971年
ファンサイトで発見
530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/03(木) 00:28:01.12 ID:EjtmwYv5
「『わたしは歌手になりたかったわ。でも、スターを望んだことは一度もありません。…いまこうして売れていますけど、これが本当の芸人の道とは思いたくありません』
彼女にとって、有名になることと歌手として生きることは、まったく別問題のようだ」
…藤圭子自身と両親など関係者のインタビューを交えた6ページの記事
ポケットパンチ1970年 ファンサイトより
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/cafe50/1386873978/
▲△▽▼
藤圭子 夢は夜ひらく - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%97%A4%E5%9C%AD%E5%AD%90+%E5%A4%A2%E3%81%AF%E5%A4%9C%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8F
次の動画のデビュー当時の藤圭子が川端康成が生涯追い求めていた女性の姿そのものなのですね
圭子の夢は夜ひらく/藤圭子 - ニコニコ動画GINZA
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1811038?ref=search_key_video&ss_pos=1&ss_id=710a4dab-8c3e-42e9-b055-2ae6b9790c9f
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2022/06/08 (Wed) 23:02:04
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川端康成「雪国」の世界
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14009970
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2022/06/16 (Thu) 16:47:11
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あげ547