777投稿集 2457081


『チェーホフのかもめ』(1971年、 ソビエト連邦)

1:777 :

2022/05/23 (Mon) 05:14:26

『チェーホフのかもめ』(1971年、 ソビエト連邦)
Чайка / The Sea-Gull

監督 ユーリー・カラーシク
原作 アントン・チェーホフ
脚本 ユーリー・カラーシク
撮影 ミハイル・スースロフ
音楽 アレクサンダー・シニートケ

動画
https://www.youtube.com/watch?v=SaRhIQB7_wo


設定→字幕→自動翻訳→日本語 で日本語の字幕が出ます


キャスト

Arkadina
アッラ・デミートワ

Treplev
ウラジミール・チェトヴェリコフ

Sorin
ニコライ・プロートニコフ

Nina
リュドミラ・サベーリエワ
2:777 :

2022/05/23 (Mon) 05:15:18

『かもめ』(ロシア語で「チャイカ」、Чайка)は、ロシアの作家アントン・チェーホフの戯曲である。
チェーホフの劇作家としての名声を揺るぎないものにした代表作であり、ロシア演劇・世界の演劇史の画期をなす記念碑的な作品である。

後の『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』とともにチェーホフの四大戯曲と呼ばれる。
その動きの少なさから、5プードの恋とチェーホフは述べた。


「モスクワ芸術座版『かもめ』」も参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/モスクワ芸術座版『かもめ』

湖畔の田舎屋敷を舞台に、芸術家やそれを取り巻く人々の群像劇を通して人生と芸術とを描いた作品で、1895年の晩秋に書かれた。

『プラトーノフ』(学生時代の習作)、『イワーノフ』、『森の精』(後に『ワーニャ伯父さん』に改作)に続く長編戯曲で、「四大戯曲」最初の作品である。

初演は1896年秋にサンクトペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場(ru)で行われた[2]が、これはロシア演劇史上類例がないといわれるほどの失敗に終わった。その原因は、当時の名優中心の演劇界の風潮や、この作品の真価を理解できなかった俳優や演出家にあるともいわれている。チェーホフは失笑の渦と化した劇場を抜け出すと、ペテルブルクの街をさまよい歩きながら二度と戯曲の筆は執らないという誓いを立てた。妹のマリヤは後のチェーホフの結核の悪化の原因をこの時の秋の夜の彷徨に帰している。

しかし2年後の1898年、設立間もないモスクワ芸術座が逡巡する作者を説き伏せて再演する[3]と、俳優が役柄に生きる新しい演出がこの劇の真価を明らかにし、今度は逆に大きな成功を収めた。この成功によりチェーホフの劇作家としての名声は揺るぎないものとなり、モスクワ芸術座はこれを記念して飛翔するかもめの姿をデザインした意匠をシンボル・マークに採用した。

作品

主要な登場人物の一人であるニーナにはモデルがあり、妹のマリヤの友人のリジヤ・ミジーノワがその人である。リカと呼ばれたこの女性はチェーホフ家に出入りするうちにチェーホフに恋したが報われず、チェーホフ家で出会った別の妻子ある作家、イグナーチイ・ポターペンコと駆け落ちした。娘も生まれたもののやがてポターペンコに捨てられ、まもなくその娘にも死なれたこの女性をめぐる顛末が劇中のニーナの悲恋の元になっている。

このほかにも『かもめ』には作者の身辺に実際に起きた出来事がいくつも盛り込まれており、チェーホフの「最も私的な作品」とも呼ばれている。第3幕でニーナがトリゴーリンに作品のタイトルとページ数を記したロケットを贈るシーンは、チェーホフと一時恋愛関係にあった人妻の女流作家、リジヤ・アヴィーロワから実際にそうしたロケットを贈られた出来事を元にしている。また、劇中でトリゴーリンやコスチャなどによってたたかわされる芸術論はしばしば作者自身の芸術観を代弁するものとなっており、特にトリゴーリンが吐露する作家生活の内情はチェーホフ自身の姿が投影されたものである。

第1幕で上演されるコスチャの劇中劇は当時流行していたデカダン芸術のパロディといわれている。この劇中劇が受ける冷笑的な扱いは作者自身のこうした芸術への態度の表れでもあり、チェーホフは以前にも短篇小説「ともしび」(1888年)で登場人物にこうした虚無的思想傾向への批判を語らせていた。

ニーナがたどった運命と同様のテーマは、すでに中期の小説「退屈な話」(1889年)でも扱われていた。そこではやはり女優志望の若い娘、カーチャが挫折して絶望に陥り、養父の老教授に「私はこれからどうすればいいのか」と尋ねたのに対し、老教授は「私にはわからない」としか答えられず、カーチャは寂しく立ち去っていった。この結末は人生の意義を見失い疲弊した当時のチェーホフの心境を映し出すものでもある。

しかし『かもめ』におけるニーナはカーチャとは異なり、終幕において自分の行くべき道を見出している。名声と栄光にあこがれて女優を志したニーナが全てを失った後に終幕で語る忍耐の必要性は、まさにチェーホフが苦悶の末にたどり着いた境地にほかならない。カーチャからニーナへの成長は、サハリン島旅行(1890年)を経て社会的に目覚めていったチェーホフの進境を示すものであり、本作に提示された忍耐の必要性というテーマはさらに「絶望から忍耐へ」、「忍耐から希望へ」というモティーフへと発展を遂げ、後の作品に引き継がれていくことになる。

登場人物

コンスタンチン・ガヴリーロヴィチ・トレープレフ
コスチャ。作家志望の青年。

イリーナ・ニコラーエヴナ・アルカージナ
トレープレフの母。大女優。

ボリス・アレクセーエヴィチ・トリゴーリン
流行作家。アルカージナの愛人。

ニーナ・ミハイロヴナ・ザレーチナヤ
裕福な地主の娘。女優志望。

ピョートル・ニコラーエヴィチ・ソーリン
アルカージナの兄。

イリヤ・アファナーシエヴィチ・シャムラーエフ
ソーリン家の支配人。退役中尉。

ポリーナ・アンドレーエヴナ・シャムラーエワ
シャムラーエフの妻。

セミョーン・セミョーノヴィチ・メドヴェージェンコ
教師。

エヴゲーニイ・セルゲーエヴィチ・ドールン
医師。

マリヤ・イリイニチナ・シャムラーエワ
マーシャ。シャムラーエフの娘。いつも黒い服を着ている。

ヤーコフ
下働きの男。

料理人

小間使い

あらすじ


第1幕

ソーリンの湖畔の領地、湖に面した屋外に急設された舞台の前。アルカージナが愛人のトリゴーリンとともに久しぶりに滞在している。コスチャが恋人のニーナを主役に据えた劇の上演を準備している。

メドヴェージェンコがマーシャに言い寄るが、マーシャはつれない。コスチャはソーリンに母への鬱屈した思いや芸術の革新の必要性について語る。「必要なのは新しい形式です。それがないくらいなら、何にもない方がましです」

両親の厳しい監視の目を抜け出してきたニーナが到着する。コスチャは二人きりになるとニーナにキスする。ポリーナとドールンが連れ立って現れる。ポリーナはドールンに色目を使うがドールンはやり過ごす。さらにアルカージナやトリゴーリンなど一同も姿を現し、観客が揃う。

折よく月も顔を出し、いよいよコスチャの劇が幕を開ける。「人も獅子も鷲も鸚鵡も、生きとし生けるものはみな、悲しい循環を終えて消えてしまった。もう何十万年もの間、大地は生命を宿すこともない…」

しかしアルカージナはコスチャの試みをまじめに受け取ろうとせず、芝居の趣向を揶揄する。度重なる嘲笑にコスチャはかっとなって芝居を中断し、いたたまれなくなって姿を消す。ニーナは芝居を続けなくてよくなったらしいことを確認すると一同の前に現れる。一同はニーナを喝采で迎え、アルカージナはぜひとも女優になるべきだとそそのかし、トリゴーリンに引き合わせる。

やがて一同が去り、ドールンが一人残っているところにコスチャが現れる。ドールンはコスチャの劇に可能性を感じたことを話し、創作を続けるよう励ます。感激して涙ぐむコスチャだが、ニーナが家に帰ったことを聞かされると打ちひしがれる。コスチャを探していたマーシャが現れて家に帰るよう言い聞かされるが、コスチャは邪険にはねつけて去っていく。マーシャはドールンにコスチャを愛していることを打ち明ける。

第2幕

真昼の屋外。

アルカージナ、ドールン、マーシャが話している。厳しい両親が旅行に出て束の間の自由を手にしたニーナがソーリンなどとともに現れる。アルカージナは外出用の馬車をめぐって支配人のシャムラーエフと口論になり、アルカージナは泣き出してモスクワへ帰ると言い出す。ポリーナは相変わらずドールンに言い寄っている。

一人になったニーナのもとに銃を持ったコスチャが現れ、撃ち落としたかもめをニーナの足元に捧げる。「今に僕はこんなふうに自分を撃ち殺すのさ。」コスチャは芝居の失敗の後に心変わりしたニーナを詰るが、ニーナは冷たく突き放す。トリゴーリンが現れるのを見たコスチャは立ち去る。

ニーナは名声への憧れをトリゴーリンに語る。「有名ってどんな心地がするものなんでしょう? ご自分が有名であることをどうお感じになります?」それに対しトリゴーリンは作家として生きることの苦渋に満ちた感慨を吐露する。「昼も夜も、一つの考えが頭から離れないのです。書かなければならん、書かなければならん、書かなければ…。何というすさんだ人生でしょう」

トリゴーリンはふと撃ち落とされたかもめに目を止めると、新しい短編の題材を思いつき手帳に書きとめる。「湖のほとりにあなたみたいな若い娘がかもめのように自由で幸せに暮らしている。ところがふとやってきた男が退屈まぎれにその娘を破滅させてしまう。このかもめのように」

アルカージナが現れ、モスクワへの出立を取りやめたことを告げる。



第3幕

ソーリン家の食堂、昼前。コスチャは自殺未遂をした後、トリゴーリンに決闘を申し込む騒ぎを起こしている。アルカージナはニーナとトリゴーリンを引き離すためにトリゴーリンとともにモスクワへ帰る算段をしている。

食事をするトリゴーリンに、マーシャがメドヴェージェンコと結婚する決意をしたことを打ち明ける。「この恋を胸から根こそぎ引き抜いてみせますわ。」

トリゴーリンが食事を済ませるとニーナがロケットを贈る。ロケットには彼の著作のタイトルとページ数、行数が書かれている。トリゴーリンは書棚に自分の本を探しに行く。

コスチャはアルカージナに包帯を取り替えてもらいながら打ち解けて話すが、話題がトリゴーリンのことに移ると途端に激しい口論になってしまう。泣き出すコスチャとなだめるアルカージナ。アルカージナはコスチャに決闘は思いとどまるよう諭す。

トリゴーリンは本の該当の場所を探し当てる。「もしいつか私の命が必要になったら、いつでも差し上げます。」トリゴーリンは滞在を引き延ばそうとするが、アルカージナはうまく丸め込んでその日のうちに発つことを承諾させる。
モスクワに発とうとするトリゴーリンに、ニーナは自分もモスクワに出て女優になる決心をしたことを告げる。トリゴーリンは自分のモスクワでの連絡先を教える。二人は長いキスを交わす。



第4幕

2年後、ソーリン家の客間。現在はコスチャの書斎として使われている。コスチャは作品が首都の雑誌に掲載されるようになり、気鋭の作家として注目を集めるようになっている。

メドヴェージェンコがマーシャに家へ帰って赤ん坊の面倒を見なければ、とさとすがマーシャは取り合わない。ポリーナは今もコスチャへの思いを捨て切れずにいる娘を不憫に思い、仲を取り持とうとするがコスチャの機嫌を損ねてしまう。マーシャは母の余計なお節介を詰る。「胸の中に恋が芽生えてきたら、捨ててしまうだけのことよ。」

コスチャはドールンに尋ねられニーナのその後を話して聞かせる。ニーナはトリゴーリンと一緒になり、子供をもうけたもののトリゴーリンに捨てられ、子供にも死なれてしまっている。女優としても芽が出ず、今は地方を巡業して回る日々を過ごしている。「手紙にはいつもかもめと署名してあるんです。彼女は今この近くにいますよ。」

ソーリンの容体が悪くなったために呼び寄せられたアルカージナがトリゴーリンとともに訪ねてくるが、ソーリンは小康を得ていて一同はロトに興ずる。シャムラーエフがトリゴーリンにコスチャが撃ったかもめを剥製にするよう頼まれていたことを話題にするが、トリゴーリンは思い出せない。

やがて一同は食事のために部屋を出ていくが、コスチャは一人残り仕事を続ける。かつて新しい形式の必要を訴えていたコスチャは、今では自分が型にはまりつつあることを感じとる。「問題は新しいとか古いとかいう形式にあるのではなくて、形式になんかとらわれずに書く、魂から自由にあふれ出るままに書くということなんだ。」

そこへ巡業で近くまで来ていたニーナが訪ねてくる。病的に張りつめた様子のニーナは何度も「私はかもめ」と繰り返し、トリゴーリンとのいきさつをほのめかす一方で、その度に「私は女優」と言い直す。「大切なのは名誉でもなければ成功でもなく、また私がかつて夢見ていたようなものでもなくて、ただ一つ、耐え忍ぶ力なのよ。私は信じているからつらいこともないし、自分の使命を思えば人生もこわくないわ。」片やコスチャは今も信じるべきものを見つけ出すことができずにいる。「僕には信じるものもなく、何が自分の使命なのかもわからずにいるんだ。」

何か食べるものを、というコスチャの申し出を断り、懐かしむように2年前の失敗した芝居のセリフをひとしきりそらんじてみせると、ニーナはコスチャを抱き締め、外へ駈け去っていく。コスチャはしばらくの沈思の後に自分の原稿を尽く引き裂き、部屋の外へ出て行く。

食事を終えた一同が部屋に戻るとシャムラーエフが完成したかもめの剥製を見せるが、それでもトリゴーリンは思い出せない。やがて外で一発の銃声が鳴り響く。調べに出て戻って来たドールンは「エーテルの薬瓶が破裂した」と説明して怯えるアルカージナを落ち着かせたあと、トリゴーリンに小声で「コンスタンティントレープレフが自分自身を撃った」と告げる。

本稿の参照文献

神西清訳 『かもめ・ワーニャ伯父さん』 新潮文庫、改版2004年。解説池田健太郎
近年刊の日本語訳書[編集]
浦雅春訳『かもめ』 岩波文庫[4]、2010年
沼野充義訳『かもめ』 集英社文庫、2012年
中本信幸訳『かもめ』 新読書社(新書版)、2006年
堀江新二訳『かもめ 四幕の喜劇』 群像社、2002年
小田島雄志訳『かもめ ベスト・オブ・チェーホフ』 白水社、1998年(英訳版をもとにした上演用訳書)
松下裕訳『チェーホフ戯曲選』 水声社、2004年。旧版は『チェーホフ全集(11)』(筑摩書房+ちくま文庫)

映画

映画化された作品は以下の通り。

『The Sea Gull』(1968年、監督:シドニー・ルメット)[5]
『チェーホフのかもめ』(1971年、 ソビエト連邦)[5]
『リリィ』(2003年、監督:クロード・ミレール。設定を現代のフランスに置き換えている)

https://ja.wikipedia.org/wiki/かもめ_(チェーホフ)
3:777 :

2022/05/23 (Mon) 05:16:18

「かもめ」評釈 (中公文庫) 文庫 – 1981/4/10
池田 健太郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/product/4122008239/ref=as_li_tf_tl?camp=247&creative=1211&creativeASIN=4122008239&ie=UTF8&linkCode=as2&tag=asyuracom-22
三輪そーめん 5つ星のうち5.0

「かもめ」の演出ノート

遥か昔に絶版していますが、「かもめ」の評論本としては最高の本。

形式的には演出ノートっぽい作りになっています。
場面や台詞の区切りでかもめ本文(日本語訳)を切っていて、解説するという角川の「クラッシックスビギナーズ」のような構成になっています。

当時のロシアの社会情勢や風俗も少し書いてあります。

また、ニーナのモデルの女性や、「かもめ」初演(チェーホフ存命時)の記録レポなど資料性が高い作品。

難点を一つ言えば、各場面の登場人物の心理状況の解釈がやや著者の主観が入っていることでしょうか?

それも些細な欠点で、「かもめ」や著者を理解するのに非常に役に立つ御本です。

かもめの訳文は非常に読みやすいです。
著者の池田さんは神西清(新潮版「かもめ」の訳者)さんと親交があった所為か
神西さんの文体に近いものでした。
4:777 :

2022/05/23 (Mon) 06:35:22

チェーホフ「かもめ」の劇中劇について 2010-01-21
https://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/c73cc06fb80002c5442b55e478dd08e4

ちょっと小難しいタイトルをつけましたが、まず前提となる解説をしておくと、チェーホフの書いた有名な戯曲「かもめ」の前半には、劇中劇が存在します。劇の中で上演される劇、ということですね。このことから、「かもめ」はしばしば『ハムレット』と比較されます。というのも、後者にもやはり劇中劇が存在するからです。

ロシア文学研究者の池田健太郎は、『「かもめ」評釈』において、チェーホフの劇中劇の特徴を3つ挙げています。

一つ目は、それがトレープレフ(劇中劇を書いた「かもめ」の主人公)の前衛性を示していること。具体的には、象徴主義の手法を取り入れていること。

二つ目は、そこにロシアの神秘哲学者ソロヴィヨーフの思想の一端が書き込まれていること。

三つ目は、それがチェーホフ自身の小説「ともしび」と関連性があること。

さらに補足として、ロシアの研究者エルミーロフの解釈を紹介しています。


劇中劇は、場合によってはその劇の本質や性格を縮約して表現しえていることがあり、見逃すことができませんが、「かもめ」の場合は、恐らくそういった解釈とは別の解釈が求められているような気がします。それはデカダン文学のパロディである、ということは多くの評者が指摘しているようですが、大いにありうることでしょう。象徴主義やデカダン文学が隆盛していたころに「かもめ」は執筆されているのです。

ただ、これはぼくの勝手な印象ですが、それだけではないような気もしています。この劇中劇は20万年後の世界が舞台であり、生あるものは流転した末に肉体は滅び、ただその霊魂だけが一つに集まって存在しています。ぼくはこの「流転」という点にひっかかっているのです。20世紀初頭のロシアで活躍した作家グループにオベリウというのがありますが、あるロシアの研究者は、オベリウの芸術思想とは「変転」という言葉で性格づけられるのではないか、という意味のことを言っています。変転というのは、ここではメタモルフォーゼや流転といった意味で使われているようです。一切は一切に変転しうる、という原始的な思想がそこにも認められると言うのです。

この流転という思想は、とても興味深い。もちろん輪廻転生とも関連してくるでしょう。オベリウのメンバーであるハルムスの仏教への関心をも考慮すれば、非常に重要なファクターであるように思えてきます。もしもオベリウにおいてメタモルフォーゼや流転といった概念が根幹にあるのだとしたら、それはなぜなのか。当時のロシア思想界にそのような概念が浸潤していたのか、もしくは生成される土壌があったのか。恐らく、ここにソロヴィヨーフの名前が挙げられる余地があります。彼の永遠の世界や時間の世界といった概念を検討してみる価値はありそうです。とすれば、チェーホフの劇中劇というのは、実はこの流転という考え方を焦点化したものではなかったのか、という仮説も生まれます。既に池田健太郎が述べているように、ここにはソロヴィヨーフの思想の一端が垣間見られるのであれば、それもありえそうなことです。

ということは課題としては、

1、流転の思想が19世紀末から20世紀初頭のロシア社会に芽生えていたのか。

2、ソロヴィヨーフの思想の検討。

3、オベリウと流転の思想との関連性。


などが挙げられます。当然フョードロフの思想も再検討してみなくてはいけないでしょうね。

かなり巨大なテーマですが、おもしろそうです。現段階では分からないことだらけですが、実際に調べてみる日も近い・・・のか?

https://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/c73cc06fb80002c5442b55e478dd08e4
5:777 :

2022/05/23 (Mon) 06:36:03

読むだけで演技が上手くなる!チェーホフ作「かもめ」のあらすじ
https://shirokuroneko.com/archives/741.html


この「かもめ」という戯曲は、まさに演劇なんです!
初めて読んだ時はよく分からなかったのですが、役者として舞台に立つようになってから突然、読めるようになりました。
登場人物が(たくさん出てくるわけですが)みんなお喋りで、いつだって会話がかみ合わないのは、それぞれが別のことを考えているから。笑

「なんてみんな神経質なんだ!どこもかしこも恋ばかしだ」と嘆くセリフにもある通り、分かり合えない人達が同じ場所に集まっているせいで(笑)、、、男と女、大人と子供、恋人同士、母親、芸術家などなど、相手やその時の立場によってころころ変わる自分を、一つの場面で同時に演じなきゃならないわけです。(これは、忙しい!)

ただ心情を語るんじゃない。役者にとって最も豊かな台本と呼びたいです!
なので、本としてではなく、とりあえずでも人物に寄り添ってセリフとして読んでみてください。いつのまにか呼吸が合ってきて心が勝手に動いてしまうような、不思議な体験が待っているはずです。

■ 目次 [非表示]
1 普通じゃない!「かもめ」のあらすじ
2 第一幕
3 第二幕
4 第三幕
5 第四幕
6 おわりに
普通じゃない!「かもめ」のあらすじ

それでいて、ストーリーと呼べるものがあるのかどうか。

大まかに言いますと、湖畔の田舎屋敷を舞台に、芸術を志す若い男女(恋人同士)が、そこに集まって来る大人達に翻弄されるお話です。

この田舎屋敷というのが面白くて、とにかく何をしていても次から次へと人が入ってくる。笑
そして登場人物の大半がそれぞれ誰かに想いを寄せていて、まぁそのほとんどが片想い!
そんな、田舎の「風通しの良さ」に対して、みんなが信じられないほど「すれ違う」ことが物語の全てなんです。

普通の戯曲だったら、登場人物がストーリーに翻弄されることが多いと思うんですが、この戯曲では、登場人物がぐずぐずしているだけで、芸術を志すために乗り越えなければならない壁だとか、血の滲むような努力だとか、一世一代の大勝負だとか、ドラマチックなことは何も起きません。ちょっとした事件も、場面と場面の間で起っているせいで、見れないんです。笑

全部で四幕。ほぼ同じ場所。夏季休暇を田舎で退屈に過ごしている人達が、夢のように漂っている「かもめ」の世界を、一幕ずつご紹介したいと思います!

第一幕

とある有名女優アルカージナが、知り合いのこれまた有名作家トリゴーリンを連れて、田舎屋敷に夏季休暇として滞在しています。そこには、屋敷の所有者である兄と、自分の息子であるトレープレフ、ほか使用人達が住んでいます。

この日の夜は、劇作家志望のトレープレフが、庭先で自作の舞台を上演することになっており、家の者達や、昔から付き合いのある医者や、教員などが集まっています。

冒頭から、マーシャ(屋敷の管理人の娘)と、メドヴェージェンコ(マーシャに想いを寄せる教員)が不幸せについて話しているのですが、それぞれの思惑が違うため、会話がかみ合っていません。(終始、この調子だと思ってください!)

この後に登場する我らがトレープレフ(恐らく主人公と呼べる人物)は、劇作家を目指す青年で、伯父のソーリン(高齢で杖をついている)に対し、今から上演する演劇の新しさ、自分の悩み、母への愛や文句など、好き勝手に語るのですが、上演時間が迫っているため、ちょいちょい時計を気にしています。(とても演劇的です!)

そして、ソーリンが「自分も昔は・・・」と話しだした途端に、誰かが走って来る音が聞こえ、耳をすまします。(とても演劇的です!)

ここで息を切らして駆け込んで来るのがもう一人の主人公であり、今から上演する舞台の主役でもある我らがニーナ譲(トレープレフの恋人で大女優を夢見る少女)は、父親に内緒で来ており、30分で帰らなければならないと大急ぎ。

上演前、二人きりで接吻を交わすのですが、緊張はしてるし、急いでるし、周りは気になるしで、会話もおかしなことになってます。(演じたら絶対面白いですよ!)
しかも母が連れて来た有名作家の作品をニーナが誉めるものだから、トレープレフは不機嫌に。笑

まぁそれとは関係なく、いよいよ開演した舞台は大失敗!

みんなが(特に母が!)まじめに観てくれないので、トレープレフは怒って本番中に幕を下ろし、どこかへ行ってしまいます。

母親も母親で、息子がいなくなったあとも、舞台を全否定。
そして、みんなで普通にお喋り。話題が昔話になったところで、急に息子を思い出したのか、えらく心配を始めるという不完全な存在なのです。

そのうち、最初に出て来たマーシャ(管理人の娘)が、実はトレープレフを愛しているという相談をこそこそし始め、とても面倒くさい雰囲気が充満したところで第一幕が終わります。

第二幕
それから数日後の真昼。木陰のベンチで、数人がお喋りをしています。
退屈で、暑くて、静か。

起きることと言えば、町へ遊びに行くための馬車を出すか出さないかで、アルカージナと管理人が喧嘩したり、その管理人の妻から、屋敷の主治医が言い寄られていたり。
そんな昼下がり。(どんなに静かでも、火種は常にあるみたいです)

あの夜の舞台以降、トレープレフとニーナの関係はぎくしゃくしている様子で、そのせいなのか、トレープレフは「猟銃でかもめを撃ち落とした」と、ニーナの元に持って来るという意味不明な凶行に走ります。

屋敷へ遊びに来ていたニーナがちょうど、花摘みをしながら「芸術家(休暇を楽しむアルカージナ達の事)と言っても、泣いたり笑ったり、みんなと違わないわ」とつぶやいた直後でした。笑

トレープレフは、ぐずぐずと舞台の失敗の事や、有名作家への嫉妬を口にして去っていきますが、ニーナはニーナで、そんな事にはお構いなし。
トレープレフと入れ替わりでやって来た、有名作家トリゴーリンに夢中です。
夢見る少女と、忙しい日々に追われる作家の、かみ合わないやりとりの始まりです。

ここで、トリゴーリンの話す内容がとても面白くて、「こうやって話に夢中になりながらも、締め切りを気にして、後ろに見える背景を描写し、相手の言葉をストックしている自分がいて、心が休まらない」と語るのです。(演技の極意という気がします!)

さて、二人が少しだけ打ち解けたところで、撃ち落とされた「かもめ」を見つけたトリゴーリンが小説の短編を思いつきます。

「湖のほとりで幸福に暮らしている若い娘を、ふとやってきた男が退屈まぎれに破滅させてしまう。このかもめのようにね」

少しだけ、不穏な空気が漂ってきました。
このあと、アルカージナに呼ばれて立ち去るトリゴーリンが、ニーナの方を振り返るという、見事な三角関係が描かれて、第二幕は終了します。

第三幕

一週間が経ちました。ここは屋敷の食堂。バタバタとみんなが帰り支度をしています。
どうやら、トレープレフがピストルで自殺未遂をしでかしたので、母親がトリゴーリンを連れて、一刻も早くここから出て行こうというわけです。

トリゴーリンは、優雅にお食事中。
管理人の娘マーシャが、お給仕をしながら、教員の元へお嫁に行く決心をしたことを告げます。本当はこの屋敷のお坊ちゃん、トレープレフを愛しているのですが、こんな騒ぎがあったのでは身が持たないと思ったようです。

ところがそんな彼女らを尻目に、ニーナとトリゴーリンは急接近。
お別れにやってきたニーナが、トリゴーリンに贈り物を渡して去っていきます。
(この間にも使用人達が行ったり来たりしているので、この場所が常に周りに開かれていて、とても演劇的なんです!)

その頃、(頭に怪我をしている)トレープレフは、母親のアルカージナに包帯を直してもらいながら、トリゴーリンの事で大喧嘩。壮絶な罵り合いになります。笑
何とか仲直りをして息子は去りますが、入れ替わりでやってきたトリゴーリンが、どこからどう見ても恋をしていて、帰りたくないオーラが全開だったので、またもや危険な雰囲気に。

激情したアルカージナが、震えたり、怒ったり、泣いたりしながら、「あなたは、わたしのもの」と全力で説き伏せると、トリゴーリンも夢から覚めたように大人しくなって、一緒に帰ると言ってくれます。
(みんな何をやっているのか!?笑)

そうこうしている間に帰り支度も整い、お別れをしてようやく出発へ!
「ステッキを忘れた」と部屋に戻ってきたトリゴーリンの前に、再び現れたニーナがとんでもない事を言い出します。家を出て、一切を捨てて、モスクワで女優を目指す決心をしたので、またあちらでお目にかかりましょうと。

トリゴーリンは、周りを気にしながら滞在先だけ告げると急いで去ろうとしますが、ニーナの「もう一分だけ・・・」の一言に、再び火が付きます!

二人の愛が一瞬スパークしたところで、第三幕が終わります。

第四幕
あれから二年が経過しています。風の強い晩。
この日は、また第一幕のように、みんなが屋敷に集まっています。ニーナ以外は。

色々なことが変わっていて、管理人の娘マーシャには赤ん坊が生まれましたが、夫婦仲は昔以上に悪化しています。
トレープレフはなんと売れっ子小説家に。

どうも伯父のソーリンの具合があまり良くないらしく、それでみんなが集まっている様子。ソーリンは、自分も文学者になりたかったことや、もっと弁舌さわやかになりたかったこと、家庭を持ちたかったこと、都会で暮らしたかったことなどを語ります。
(だからと言って、特に何もありませんが。笑)
ソーリンは、いつもみんなをフォローしてくれる優しい伯父さんです。

ニーナの話題になると、どうやら地方巡業の女優をやっているようで、トリゴーリンとは別れ、生まれた子供とも死別したみたいなんです。
ところが、アルカージナもトリゴーリンも、トレープレフと普通に接してきます。

トレープレフももう怒ったりはしませんが、賑やかなお喋りから抜け出し、遠くで静かにワルツを弾いています。母親達はテーブルゲームに興じていて、マーシャだけがそれに耳を傾けているという悲しい夜。

そのうち、お夜食だと言ってみんないなくなり、一人、書斎で執筆するトレープレフ。筆は進まず。

そこへ、窓からこっそりニーナが訪ねてきます!

ニーナが周りを気にするので、ドアには鍵をかけ、椅子で塞ぎ、はじめて二人だけの空間に。
トレープレフは歓喜し再び恋心を訴えますが、ニーナには届きません。

「わたしは―――かもめ。・・・いいえ、そうじゃない。わたしは―――女優」
ニーナは今、「破滅するかもめ」と「女優」のはざまでもがき苦しんでいます。

自分の酷かった話をふり返りながらも、生きていくための信念と覚悟を見せつけるニーナと、自分が何者なのか分からずにいるトレープレフが対照的に描かれます。

ニーナは、それでもトリゴーリンを愛していることを告げ、昔は晴れやかで、清らかだったねと、二人で上演したあの日の舞台を再現してみせ、発作的にトレープレフを抱きしめると、ガラス戸から走り出て行きます。

幸か不幸か。密室に一人残されたトレープレフ。
物語は一発の銃声と共に唐突に幕を下ろします。

おわりに

とても書ききれませんが、他にもたくさんの登場人物が出てきて、それぞれの心情が複雑に絡み合います。
でも、そのほとんどが他愛のないエピソード!
だらだらとお喋りを続けるせいですれ違い、ふと日常が一変する様子がなんとも可笑しいのです。

このお話の決め手は、なんといってもニーナです。最初に駆け込んで来たのを覚えていますか?そして、最後には走り去って行きます。どうにもこうにもまっすぐに歩けない人達の中で、ニーナだけが走っていきます。
バランスがとれないなら走ればいいというシンプルな機動力!
彼女の足取りこそが、最も演劇的な瞬間だったのではないでしょうか。

それでは最後に、このお話で最も他愛のないシーンをご紹介します。

‐‐‐‐‐‐‐‐

ソーリン(アルカージナの兄)のいびきが聞こえる。

アルカージナ  「ねぇ?」
ソーリン  「ああ?」
アルカージナ  「寝てらっしゃるの?」
ソーリン  「いいや、どうして」

‐‐‐‐‐‐‐‐


参考文献
神西清訳 『かもめ・ワーニャ伯父さん』 新潮文庫


https://shirokuroneko.com/archives/741.html
6:777 :

2022/05/23 (Mon) 06:37:09

私かもめなの。ニーナの叫びは日本語に訳せるのか。
utiken (内田健介)2019/02/07


Я - чайка. 私はかもめ。チェーホフの戯曲『かもめ』に登場するヒロインニーナのあまりにも有名な台詞だ。

主人公トレープレフは恋人のニーナを、母親の愛人トリゴーリンに奪われるという寝取られ作品の『かもめ』。

トレープレフは空を飛んでいるカモメを撃ち落とし、ニーナの前に横たえる。振られたことに対する単なる嫌がらせだが、それを見つけた小説家のトリゴーリンは、一人の破滅する若い女性を描く作品を思いつく。この死んだカモメのように、美しく羽ばたいていた女性が撃ち落とされる物語。

その作品はニーナに強い印象を残し、実際にトリゴーリンに捨てられてドサ回りをするような落ちぶれた女優になった彼女は、かつての恋人トレープレフにかもめと署名した手紙を送る。

そして、2年後にトレープレフと再開したニーナは、私はかもめ、いいえ、違う、私は女優。と口にし、精神的にかなり衰弱している様子が誰の目にも明らかになる。
長々と書いてきたが、今回の話題は、この「私はかもめ」という台詞だ。ロシア語を訳すとすると、これ以外に訳しようがないのだが、ロシア語が持っているニュアンスが、日本語にしたときに抜け落ちてしまっているのではないかと、最近ロシア語を教えるようになって考えたのだ。

仮定法という文法を英語の授業で習ったと思うのだが、ロシア語にも仮定法は存在する。助詞のбыを付けて、時制をわざと過去にして間違うことで、現実ではないことを表す表現方法だ。英語でも時制を過去にしてわざと間違うことで違和感を呼び、現実ではないことを表現するが、ロシア語もほぼ同じ構造を持っている。

もちろん、ニーナは女優であれど、人間であって、かもめなわけはない。だから、ここでそのまま、私はかもめ、という言葉それ自体が持つ意味が仮定法のある言語と無い言語では、かなり感じるものが違うのではないかと思ったのだった。

これは、チェーホフの別の作品「熊」でも言えるかもしれない。あなたはまるで熊よ、ではなく、あなたは熊よ! と言われた際の侮辱度は全然違うのではないだろうか。

こうした各言語の特徴的な文法が使われた文章の翻訳について、その意味をより正確に翻訳しようとする場合、どうやって解決できるのだろう。

https://note.com/utiken/n/n9e9e06ca6265
7:777 :

2022/05/23 (Mon) 06:37:39

チェーホフの戯曲『かもめ』を読む(清水正)連載①
清水 正
https://www.shimi-masa.com/?p=350
チェーホフの戯曲『かもめ』を読む
2006年6月17日(土曜)

『かもめ』を読み終わったのは二〇〇六年四月三十日。『ワーニャ伯父さ
ん』も同年四月三十日。『三人姉妹』は同年五月二日。『桜の園』は同年
五月四日に読み終えた。今回初めてチェーホフの戯曲をまとめて読んで、
すぐに批評衝動に駆られ、『イワーノフ』に関してはすでに書き終えた。
次に『かもめ』を批評しようとして、面白いことに気づいた。単なるボケ
現象と言ってしまえばそれだけのことであるが、『かもめ』の内容を何一
つ思い出せない。読んでいる時は確かに、これは面白いと思ったはずなの
に、いざ批評しようとして何一つ思い出せないというのはどういうことだ
ろう。「かもめ」は鳥である。それしか想像できないというのは余りにも
面白い。ここに何か、チェーホフの戯曲の特質性が潜んでいるのではない
かと思えるほどだ。何も思い出せない状況の中で、批評を展開してしまお
う。

チェーホフの戯曲は〈夢〉と似ているのではないか。〈夢〉は、それを
見ている時には実によくその内容が分かっているのに、いざ眼がさめると
さっぱり思い出せないことがある。一度、記憶が失われた〈夢〉の内容を
思い起こすのは容易ではない。むかし、もう三十年近くにもなるが、赤ん
坊のように睡眠時間をとって〈夢〉を見、起きたらその〈夢〉を記述する
ことに情熱を傾けていた男がいた。彼は〈夢〉の記述に関して、その極意
を語ったことがある。すぐに起きてはいけない。ゆっくり、なだらかに、
〈夢〉の世界から、〈現実〉の世界へと移行しなければいけない。とつぜ
ん目覚めたりすると、〈夢〉の世界はたちまち消えてしまうというのであ
った。彼は一日十五時間以上寝て、大半の時間を〈夢〉の世界に遊んでい
た。おそらく彼にとっては現実の世界もまた夢の延長のような世界だった
のだろう。今、彼がどのように生きているのか、すでに死んでしまったの
か、さっぱり分からない。もし、生きているのだとすれば、彼は現実の世
界をしっかりと生きているはずである。六十近くなった男を、いつまでも
夢みさせておくほど現実は甘くない。もし死んでしまったのなら、彼は生
の世界から死の世界へとなだらかに移行したのかもしれない。
〈夢〉は奇妙に現実的であり、現実よりもはるかに先鋭的であったりす
る。チェーホフの戯曲は、読み終えてすぐに、その内容をしかと確認し、
その上で批評しなければ、アッという間に、忘却の彼方へと消え去ってし
まうのかもしれない。空を飛ぶ「かもめ」が、空の色に溶け込み、その姿
を消してしまうようにである。
思い出せない〈夢〉は、もう取り返しがつかないが、『かもめ』は戯曲
であるから、たとえきれいさっぱりその内容を忘れてしまっても、再び読
めば、その内容を知ることはできる。このまま放っておきたい気持もある
が、チェーホフの五大戯曲に関しては、徹底的に批評すると決めてしまっ
たので、これからはテキストに沿って『かもめ』の世界を検証することに
したい。
第一幕、教員のメドヴェーヂェンコと、ソーリン家の支配人シャムラー
エフの娘マーシャの対話を見てみよう。
2006年6月18日(日曜)
メドヴェーヂェンコ あなたは、いつ見ても黒い服ですね。どういうわ
けです?
マーシャ わが人生の喪服なの。あたし、不仕合せな女ですもの。
メドヴェーヂェンコ なぜです?(考えこんで)わからんですなあ。…
…あなたは健康だし、お父さんにしたって、金持じゃないまでも、暮しに
不自由はないし。僕なんか、あなたに比べたら、ずっと生活は辛いですよ。
月に二十三ルーブリしか貰ってないのに、そのなかから、退職積立金を天
引きされるんですからね。それだって僕は、喪服なんか着ませんぜ。(ふ
たり腰をおろす)
マーシャ お金のことじゃないの。貧乏人だって、仕合せにはなれるわ。
メドヴェーヂェンコ そりゃ、理論ではね。だが実際となると、そうは
行かない。僕に、おふくろ、妹がふたり、それに小さい弟・・それで月給
が只の二十三ルーブリ。まさか食わず飲まずでもいられない。お茶も砂糖
もいりますね。タバコもいる。そこでキリキリ舞いになる。
マーシャ (仮舞台の方を振り向いて)もうじき幕があくのね。
メドヴェーヂェンコ そう。出演はニーナ嬢で、脚本はトレーブレフ君
の書きおろし。ふたりは恋仲なんだから、今日はふたりの魂が融合して、
同じ一つの芸術的イメージを、ひたすら表現しようという寸法でさ。とこ
ろが僕とあなたの魂には、共通の接点がない。僕はあなたを想っています。
恋しさに家にじっとしていられず、毎日一里半の道を、てくてくやって来
ては、また一里半帰っていく。その反対給付といえば、あなたの素気ない
顔つきだけです。それも無理はない。僕には財産もなし、家族は大ぜいと
来ていますからね。……食うや食わずの男と、誰が好きこのんで結婚なん
かするものか?
マーシャ つまらないことを。(嗅ぎタバコをかぐ)お気持ちは有難い
と思うけれど、それにお応えできないの。それだけのことよ。(タバコ入
れを差出して)いかが?
メドヴェーヂェンコ 欲しくないです。(間)
マーシャ 蒸し蒸しすること。晩くなって、ごろごろザーッと来そうね。
あなたはしょっちゅう、理屈をこねるか、お金の話か、そのどっちかなの
ね。あなたに言わせると、貧乏ほど不仕合せなものはないみたいだけれど、
あたしなんか、ボロを着て乞食ぐらしをした方が、どんなに気楽だか知れ
やしないわ。……あなたには、わかってもらえそうもないけど……
メドヴェーヂェンコはマーシャが好きで、できれば結婚したいと願って
いる。しかしマーシャにはその気はない。メドヴェーヂェンコの言葉を借
りれば「僕とあなたの魂には、共通の接点がない」ということになる。二
人の魂に共通の接点がないのに、なぜメドヴェーヂェンコはマーシャを好
きになってしまったのか。魂に何の共通点などなくても、男は女を、女は
男を好きになる場合がある。メドヴェーヂェンコの場合もそうだったのだ
ろう。ここに引用した場面に限れば、マーシャはメドヴェーヂェンコを愛
してはいないが、友達の一人としては心を許していたのであろう。
メドヴェーヂェンコはマーシャが結婚を承諾しない理由を、彼の貧しさ
にあると考えている。母と妹二人と小さい弟の生活は彼一人の稼ぎにかか
っている。月給二十三ルーブリで一家五人が暮らしていくのは容易ではな
い。マーシャは「貧乏人だって、仕合せにはなれるわ」と言うが、メドヴ
ェーヂェンコにはそれは恵まれた者の理屈としか思えない。金を優先させ
るメドヴェーヂェンコと、金よりも精神的なことを優先させるマーシャが、
お互いに深く理解しあえるはずはない。マーシャはメドヴェーヂェンコに
面と向かって「あなたはしょっちゅう、理窟をこねるか、お金の話か、そ
のどっちかなのね」と言う。
世の中には金がなくてもそのことをあまり気にもせずに、自分の〈仕
事〉に没頭するタイプの人間がいる。芸術家や文学者が、金を意識しだし
たらろくなものを創造できないだろう。昔から芸術・学問と貧乏はセット
であった。結果として金が入る場合もあろうが、芸術・学問が金目当てに
なってしまったら、自分で自分の首をしめるようなものである。メドヴェ
ーヂェンコは教師であるから、子供たちに対する教育に情熱を注がなけれ
ばならない。しかし、この場面における彼の発言は、マーシャの言うよう
に金にまつわるつまらない話ばかりである。まずこういう男は女に持てな
い。マーシャに恋い焦がれて毎日一里半の道を通ってきても、決してマー
シャの魂を虜にすることはできない。マーシャがメドヴェーヂェンコに魅
力を感じないのは、彼に財産がないからでも、大勢の家族がいるからでも
ない。理窟をこねるか金の話しかできない男は、暮らしに何不自由のない、
若くて健康な娘、にもかかわらず自分を〈不仕合せな女〉と見なしている
娘の魂を震わせることはできない。メドヴェーヂェンコは一口で言ってし
まえば詰まらない男なのである。
マーシャは自分との結婚を願っている男に対して「お気持ちは有難いと
思うけれど、それにお応えできないの。それだけのことよ」と言っている。
このセリフは穏やかな口調で発せられているが、それだけに拒否の意志は
決定的である。ここまで言われても、友達感覚で一里半の道のりを通って
くるメドヴェーヂェンコには、単なる詰まらない男を越えて、どこか押し
の強いずうずうしさを感じる。ソーニャに冤罪事件を仕掛けたルージンの
ような卑劣漢ではないにしても、メドヴェーヂェンコが俗物中の俗物、神
の口から吐きだされてしまう〈生温き〉教師であることは疑いない。
2006年6月19日(月曜)
さて、この『かもめ』の最初の場面からしてまったくわたしの記憶にと
どまっていないのはどういうことだろうか。これは単にボケ現象がはじま
ったというよりも、ここに書かれたようなこと、つまり余りにも日常的な、
おそらく世界のいたるところで交わされているようなありふれた会話に、
脳が敢えて記憶する必要を感じなかったのではないかと思う。『イワーノ
フ』でイワーノフとアンナは熱烈な恋愛の最中に〈永遠の愛〉を誓って結
婚した。しかしチェーホフは二人のその熱烈な場面をいっさい描かなかっ
た。描かなくても、若い男女の熱烈な愛の姿など似たり寄ったりであるか
ら、読者は十分にそのことを想像することができる。ここに描かれたメド
ヴェーヂェンコとマーシャの対話なども、別に新しいことは何一つない。
男は相手の女を想って通い詰めるが、当の女は男に友情以外の感情を抱い
ていない。こんな男女の関係など世界には吐き捨てるほどある。別にチェ
ーホフの戯曲を読まなくても、現実のいたるところに転がっている、実に
ありふれた関係である。
わたしは長いことドストエフスキーを読んできた。そこには主人公の発
狂やら人殺しやらが描かれている。まさにドストエフスキーの文学は非日
常的な出来事の宝庫で、読者は否応もなく、そのカオスの世界へと巻き込
まれていく。主人公の狂気や殺意は読者にも感染する強烈な毒を持ってい
て、油断も隙もない。ところがチェーホフの文学においては、舞台は日常
と地続きの所に設置されている。時代や民族、宗教は異なっていても、メ
ドヴェーヂェンコとマーシャは、時空を越えた〈お隣さん〉なのである。
それでは再び〈お隣さん〉の世界へと舞い戻ることにしよう。メドヴェ
ーヂェンコの悩みの種は大勢の家族と薄給、そのために愛するマーシャと
の結婚が阻まれていると考えていることにある。一方、マーシャは「ボロ
を着て乞食ぐらしをした方が、どんなに気楽だか知れやしない」と考えて
いる。ということは、マーシャは〈貧乏〉などは取るに足らない、彼女の
心を悩ます問題を抱えているということである。マーシャは〈……〉の後、
「あなたには、わかってもらえそうもないけど……」と続けて口を閉ざす。
メドヴェーヂェンコが想像力のある感性豊かな青年であったなら、マーシ
ャのこの言葉に込められた様々なメッセージを読むことができたろう。し
かし、メドヴェーヂェンコには決定的にこの想像力が欠けている。彼はマ
ーシャの内部世界に参入することができない。
メドヴェーヂェンコは最初に「あなたは、いつ見ても黒い服ですね。ど
ういうわけです?」とマーシャに訊いた。マーシャは「わが人生の喪服な
の。あたし、不仕合せな女ですもの」と答えていた。もしメドヴェーヂェ
ンコに豊かな想像力が備わっていたなら、すぐにマーシャの〈不仕合せ〉
の内実に肉薄し、その核心を掴むことができたであろう。しかしメドヴェ
ーヂェンコは人間の幸、不幸を外的条件で推し量ろうとし、精神世界に求
めようとしない。この時点でメドヴェーヂェンコはマーシャの女心をつか
むことはできない。メドヴェーヂェンコにできるのは薄給や退職積立金の
話などで、つまり彼が関心を持っているのは日々の辛い暮らし向きのこと
ばかりなのである。こんな話はマーシャにとっては退屈以外のなにもので
もない。ところがメドヴェーヂェンコには想像力が欠けているから、相手
が自分の話に飽き飽きしていることにも気づかない。こういう男は、いつ
も相手の柵の外側にいて、自分の不幸を嘆いているよりほかはない。
次の場面を見てみよう。
ソーリン (ステッキにもたれながら)わたしはどうも、田舎が苦手で
な、この分じゃてっきり、一生この土地には馴染めまいよ。ゆうべは十時
に床へはいって、けさ九時に目がさめたが、あんまり寐すぎたもんで、脳
味噌が頭蓋骨に、べったり喰っついたような気がした・・とまあいった次
第でな。(笑う)ところが昼めしのあとで、ついまた寐込んじまって、今
じゃ全身へとへと、夢にうなされてるみたいな気持さ、早い話がね……
トレープレフ そりゃ勿論、伯父さんは都会に住む人ですよ。(マーシ
ャとメドヴェーヂェンコを見て)皆さん、始まる時には呼びますよ。今こ
こにいられちゃ困るな。暫時ご退場を願います。
ソーリン (マーシャに)ちょいとマーシャさん、あの犬の鎖を解いて
やるように、ひとつパパにお願いしてみては下さらんか。やけに吠えるで
なあ。おかげで妹は、夜っぴてまた寐られなかった。
マーシャ 御自分で父に仰しゃって下さいまし、あたしは御免こうむり
ます。あしからず。(メドヴェーヂェンコに)さ、行きましょう!
メドヴェーヂェンコ (トレープレフに)じゃ、始まる前に、知らせに
よこして下さい。(94~95)
ソーリンは主人公アルカージナの兄、トレープレフはアルカージナの息
子である。舞台はソーリン家の田舎屋敷に設定されている。ソーリンは田
舎が苦手と嘆き、甥のトレープレフは「伯父さんは都会に住むひと」だと
言う。今のところ、なぜソーリンが田舎にとどまっているのかその理由は
分からない。分かっているのは、ソーリンが自分の望むこととは裏腹な生
活を強いられているということである。マーシャは健康で金に不自由のな
い生活の中にあって〈不仕合せ〉であり、メドヴェーヂェンコは愛するマ
ーシャに拒まれていることで不仕合せである。どうやら、この戯曲の登場
人物たちは、少なくともメドヴェーヂェンコ、マーシャ、そしてソーリン
の三人は自分を〈不仕合せ〉と思っているらしい。
次の場面を見てみよう。
ソーリン すると、夜どおしまた、吠えられるのか。さあ、事だぞ。わ
たしは田舎へ来て、思う通りの暮しのできた例しがない。前にゃよく、二
十八日の休暇を取っちゃ、ここへやって来たもんだ。骨休めや何やら・・
とまあいった次第でな。ところが、くだらんことに責め立てられて、着い
たその日から、逃げだしたくなったよ。(笑う)引揚げる時にゃ、やれや
れと思ったもんだ。……だが今じゃ、役を退いてしまって、ほかに居場所
がない・・早い話がね。いやでも、ここに釘づけだ……(95)
ソーリンがマーシャに犬の鎖を解いてくれるようパパに頼んでくれ、と
言ったそのパパとはマーシャの父親シャムラーエフでソーリン家の支配人
である。マーシャは直接、父に頼んでくれと言ってにべもなく断る。ソー
リンは自分の領地に住んでいて、なぜ支配人に遠慮しなければならないの
であろうか。マーシャは、なぜソーリンの要望を無下に拒否できるのであ
ろうか。領主と支配人が、すでに主従の関係を保てなくなっていたのであ
ろうか。いずれにせよ、ソーリンは犬の吠え声に悩まされなければならな
い。ソーリンは、かつては骨休みのために二十八日の休暇をとって田舎の
屋敷に来たこと、しかしすぐに逃げ出したくなったと語る。おそらく都会
で何らかの役職に就いていたのであろう。田舎に飽きれば、すぐに都会へ
と舞い戻ることができたソーリンも、今や役を退いて、この田舎屋敷の他
には〈居場所〉がない。唯一の〈居場所〉が居心地のいい所であれば何ら
問題はない。ソーリンは決して馴染むことのできない田舎の領地にとどま
って、様々な不満を抱えて生きていく他はない。夜通し犬の吠え声に悩ま
されるのは、一種の刑罰であり地獄である。ふつうなら、どう考えても領
主を慮って犬の鎖を解くなり、他に移すなりするだろう。支配人のシャム
ラーエフの無配慮と、その娘マーシャの拒絶は、まさに領主を領主とも思
わぬ輩のすることと同じである。ソーリンは領地の者に対する支配力をま
ったく失った名ばかりの領主であったのだろうか。
ヤーコフ (トレープレフに)若旦那、〔わっしら〕ちょいと一浴びし
て来ます。
トレープレフ いいとも。だが十分したら、みんな持場にいてくれよ。
(時計を見て)もうじき始まりだからな。
ヤーコフ 承知しやした。(退場)
トレープレフ (仮舞台を見やりながら)さあ、これが僕の劇場だ。カ
ーテン、袖が一つ・・その先は、がらんどうだ。書割りなんか、一つもな
い。いきなりパッと、湖と地平線の眺めが開けるんだ。幕あきは、きっか
り八時半。ちょうど月の出を目がけてやる。
ソーリン 結構だな。
トレープレフ 万一ニーナさんが遅刻しようもんなら、舞台効果は吹っ
飛んじまう。もう来る時分だがなあ。あのひとは、お父さんやまま母の見
張りがきびしいもんで、家を抜け出すのは、牢破りも同様、むずかしいん
ですよ。(伯父のネクタイを直してやる)伯父さんは、頭も髯ももじゃも
じゃだなあ。ひとつ、刈らせるんですね。……
ソーリン (髯をしごきながら)これで一生、たたられたよ。わたしは
若い時分から、飲んだくれそっくりの風采・・とまあいった次第でな。つ
いぞ女にもてた例しがない。(腰かけながら)妹のやつ、なぜああ、お冠
りなんだろう?
トレープレフ なぜかって? 淋しいんですよ。(ならんで腰をおろし
ながら)妬けるんでさ。おっ母さんはてんからもう、この僕にも、今日の
芝居にも、僕の脚本にも、反感を持ってるんだ。というのも、演るのが自
分じゃなくて、あのニーナさんだからなんです。僕の脚本も見ない先から、
眼の敵にしてるんだ。
ソーリン (笑う)まさか、そう気を廻さんでも……
トレープレフ おっ母さんはね、この小っぽけな舞台で喝采を浴びるの
が、あのニーナさんで、自分じゃないのが、癪のたねなんですよ。(時計
を見て)ちょいと心理的な変り種でね・・おっ母さんは。そりゃ才能もあ
る、頭もいい、小説本を読みながら、めそめそ泣くのも得意だし、ネクラ
ーソフの詩だって、即座に残らず暗唱できるし、病人の世話をさせたら・
・エンジェルもはだしですよ。ところが、例しにあの人の前で、エレオノ
ラ・ドゥーゼでも褒めて御覧なさい。事ですぜ! 褒めるなら、あの人の
ことだけでなくてはならん。劇評も、あの人のことだけ書けばいい。『椿
姫』だの『人生の毒気』〔ロシヤ十九世紀の傾向的作家マルケーヴィチの
戯曲〕だのをやる時のあの人の名演技を、わいわい騒ぎ立てたり、感激し
たりしなくてはならん。ところが、この田舎にゃ、そういう麻酔剤がない。
そこで、淋しいもんだから苛々する。われわれみんな悪者で、親のカタキ
だということになる。おまけに、あの人は御幣かつぎで、三本蝋燭〔死人
のほとりを照らす習慣〕をこわがる、十三日と聞くと顔いろを変える。し
かも、けちんぼと来ている。オデッサの銀行に、七万も預けてあることは
・・僕ちゃんと知ってるんだ。だのに、ちょいと貸してとでも言おうもん
なら、めそめそ泣き出す始末だ。
ソーリン お前さんは、自分の脚本がおっ母さんの気に入らんものと、
頭から決めこんで、しきりにむしゃくしゃ・・とまあいった次第だがな。
案じることはないさ・・おっ母さんは、君を崇拝しているよ。
トレープレフ (小さな花の弁をむしりながら)好き・・嫌い、・・好
き・・嫌い、好き・・嫌い。(笑う)そうらね、お母さんは僕が嫌いだ。
あたり前さ! あの人は生きたい、恋がしたい、派手な着物が期待。とこ
ろがこの僕が、もう二十五にもなるもんだから、おっ母さんは厭でも、自
分の年を思い出さざるを得ない。僕がいなけりゃ、あの人は三十二でいら
れるが、僕がいると、とたんに四十三になっちまう。だから僕が苦手なん
ですよ。それにあの人は、僕が劇場否定論者だということも知っている。
あの人は劇場が大好きで、あっぱれ自分が、人類だの神聖な芸術だのに、
奉仕しているつもりなんだ。ところが僕に言わせると、当世の劇場という
やつは、型にはまった因習にすぎない。こう幕があがると、晩がたの照明
に照らされた三方壁の部屋のなかで、神聖な芸術の申し子みたいな名優た
ちが、人間の食ったり飲んだり、惚れたり歩いたり、背広を着たりする有
様を、演じて見せる。ところで見物は、そんな俗悪な場面やセリフから、
なんとかしてモラルをつかみ出そうと血まなこだ。モラルと言っても、ち
っぽけな、手っとり早い、御家庭にあって調法・・といった代物ばかりさ。
そいつが手を変え品を変えて、百ぺん千べん、いつ見ても種は一つことの
繰り返しだ。そいつを見ると僕は、モーパッサンみたいに、ワッと逃げ出
すんです。エッフェル塔の俗悪さがやり切れなくなって、命からがら逃げ
出したモーパッサン〔その小説『さすらい』参照〕みたいにね。(全集95
~98)
第一幕が始まる前に次のような舞台説明の文章があった・・「ソーリン
家の領地内の庭園の一部。広い並木道が、観客席から庭の方へ走って、湖
に通じているのだが、家庭劇のため急設された仮舞台にふさがれて。湖は
まったく見えない。仮舞台の左右に灌木の茂み。椅子が数脚、小テーブル
が一つ」。この舞台構成は、この戯曲の本質的なテーマを端的に表してい
ると言えよう。湖へと続く並木道をふさいでいるのは家庭劇を演ずるため
の仮舞台である。〈湖〉を平和、和解、明るい未来などの隠喩と見れば、
そこへと続く長い一本道が仮舞台によってふさがれているということは意
味深である。
2006年6月20日(火曜)
いったいこの仮舞台においてどのような家庭劇が演じられることになるの
か。演じられる前にすでに、トレープレフとその母アルカージナの確執が
露になっている。トレープレフは仮舞台を見て「これが僕の劇場だ」と言
っているから、舞台演出家なのであろうか。母親アルカージナはいつも自
分が讃美と喝采を浴びていなければ満足できないような女優である。とこ
ろが息子のトレープレフが主役に抜擢したのは裕福な地主の娘ニーナであ
る。読者・観客はこのニーナという〈女優〉の姿をまだ見ることはできな
い。読者・観客の言葉によれば、開幕はきっかり八場半ということである
から、それまでには必ず登場するであろう。ニーナが登場するまでに、ト
レープレフは母親について多弁を弄し、彼女の自己中心的な性格、ケチ、
劇場否定論者の彼に対する反感などを読者・観客にしっかりと植えつける。
どうやらトレープレフと母親との間にも修復不能の亀裂が走っているらし
い。まったくこの戯曲には、愛し愛される関係にある人物は一人も登場し
てこないのであろうか。否、メドヴェーヂェンコのセリフによれば、脚本
を書いたトレープレフと主演のニーナは〈恋仲〉で、今日は二人の魂が融
合するということであった。はたしてこの〈魂の融合〉はどこまで永遠性
を獲得できるのであろうか。何しろ『イワーノフ』においてはイワーノフ
とアンナの〈永遠の愛〉はわずか四年しかもたなかたのであるから。
劇場否定論者のトレープレフと、劇場大好き女優のアルカージナとの対
立・確執は、演劇における保守勢力と改革派の対立・確執のミニチュア版
といったところであろうか。トレープレフは仮舞台を見やりながら「カー
テン、袖が一つ、袖がもう一つ・・その先は、がらんどうだ。書割りなん
か、一つもない。いきなりパッと、湖と地平線が開けるんだ」と言ってい
る。トレープレフの演劇にはたいそうな建築物としての劇場などいっこう
に必要としないらしい。彼は自然(ここでは湖まで続くまっすぐな並木道
や、月など)を巧みに利用すれば、舞台に大金をかけることはないと考え
ている。彼は「当世の劇場というやつは、型にはまった因襲にすぎない」
と言い、観客は「俗悪な場面やセリフから、なんとかしてモラルをつかみ
出そうと血まなこだ」と批判する。彼は、新しい演劇の形式と、新しい観
客を求めて格闘しているらしい。劇場派の母親アルカージナは、トレープ
レフが戦わなければならない保守的陣営のシンボルでもある。従ってニー
ナが望む望まないにかかわらず、彼女もまたトレープレフの新思想のもと
にアルカージナと対立・葛藤しなければならないことになろう。未だ、ニ
ーナは登場していないが、はたしてどのように演技を展開するのか読者・
観客の興味は募る。
ソーリン 劇場がないじゃ、話になるまい。
トレープレフ だから、新らしい形式が必要なんですよ。新形式がいる
んで、もしそれがないんなら、いっそ何にもない方がいい。(時計を見
る)僕は、おっ母さんが好きです、とても好きです。だが、あの人の生活
は、なんぼなんでも酷すぎる。しょっちゅう、あの小説家のやつとべたべ
たしちゃ、のべつ新聞に浮名をながしている。これにゃまったく閉口です
よ。時によると、人間の悲しさで、僕だって人なみのエゴイズムが、むら
むらっと起きることもある。つまり、うちのおっ母さんが有名な女優なの
が、くやしくなるんです。もし普通の女でいてくれたら、僕もちっとは幸
福だったろうにな、ってね。ね伯父さん、これほど情ない、馬鹿げた境遇
があるもんでしょうか。おっ母さんの客間には、よく天下のお歴々がずら
り顔をならべたもんです・・役者とか、文士とかね。そのなかで僕一人だ
けが、名も何もない雑魚なんだ。同席を許してもらえるのも、僕があの人
の息子だからというだけのことに過ぎん。僕は一体だれだ?
2006年6月22日(木曜)
どこの何者だ? 大学を三年で飛び出した。理由は、新聞や雑誌の社告に
よくある、例の「さる外部事情のため」〔当時の雑誌などが、思想の弾圧
のため発禁になった時に使う慣用句〕って奴でさ。しかも、これっぱかり
の才能もなし、一文だって金はなし、おまけに旅券にゃ・・キーエフの町
人と書いてある。なるほどうちの親父は、有名な役者じゃあったが、元を
ただせばキーエフの町人に違いない。といったわけで、おっ母さんの客間
で、天下の名優や大作家れんが、仁慈の眼を僕にそそいでくれるごとに、
僕はまるで、相手の視線でこっちの小っぽけさ加減を、計られてるみたい
な気がした、・・向うの気持を推量して、肩身の狭い思いをしたもんです
よ……
ソーリン 事のついでに、ちょっと聞かしてもらうが、あの小説家は全
体に何者かね? どうも得体の知れん男だ。むっつり黙りこんでてな。
トレープレフ あれは、頭のいい、さばさばした、それにちょいとその、
メランコリックな男ですよ。なかなか立派な人物でさ。まだ四十には間が
あるのに、その名は天下にとどろいて、何から何まで結構ずくめの御身分
だ。……書くものはどうかと言うと……さあ、なんと言ったらいいかな
あ? 人好きのする才筆じゃあるけれど……が、しかし……トルストイや
ゾラが出たあと、トリゴーリンを読む気にゃどうもね。
ソーリン ところでわたしは、文士というものが好きでな。むかしはこ
れでも、あこがれの的が二つあった。女房をもらうことと、文士になるこ
となんだが、どっちも結局だめだったな。そう。小っちゃな文士だっても、
なれりゃ面白かろうて、早い話がな。
トレープレフ(耳を澄ます)足音がきこえる。……(伯父を抱いて)僕
は、あの人なしじゃ生きられない。……あの足音までが素晴らしい。……
めちゃめちゃに幸福だ!(足早に、ニーナを迎えに行く。彼女登場)さあ、
可愛い魔女が来た、僕の夢が……(98~99)
アルカージナは大女優、息子のトレープレフは大学を三年で飛びだした
〈名も何もない雑魚〉である。トレープレフは母親に嫉妬し、母親の前で
自分が一匹の〈雑魚〉であることを不断に思い知らされている。トレープ
レフは息子として母親を誰よりも愛しているが、同時に「のべつ新聞に浮
名をながしている」母親に反感を抱いている。アルカージナは世間体など
気にせずにマイペースで生きている〈有名な女優〉で、彼女の客間には
〈天下のお歴々〉が顔を並べている。トレープレフはいつも肩身の狭い思
いで小さくなっている。トレープレフはソーリンに自分の母親に対する思
いを正直に話している。
トレープレフが新しい形式の演劇を模索し、将来、演劇界で活躍する野
望を抱いていたのであれば、アルカージナという女優は打倒しなければな
らない敵側の一人ということになる。おそらくトレープレフは素人娘のニ
ーナを抜擢することで保守的な大女優アルカージナに反抗し、新しい演劇
の夜明けを目指したのであろう。今後、その試みがどのような展開を見せ
るのか、観客の注目を集めるだけ集めたところで、いよいよトレープレフ
の〈夢〉である、〈可愛い魔女〉ニーナの登場とあいなる。
ニーナ (興奮のていで)あたし、遅れなかったわね。……ね、遅れや
しないでしょう。……
トレープレフ (女の両手にキスしながら)ええ、大丈夫、大丈夫……
ニーナ 一日じゅう心配だった、どきどきするくらい! 父が出してく
れまいと、気が気じゃなかったわ。……でも父は、今しがた継母と一緒に
出かけたの。空が赤くって、月がもう出そうでしょう。で、あたし、一生
けんめい馬を追い立てて来たの。(笑う)でも、嬉しいわ。(ソーリンの
手を握りしめる)
ソーリン (笑って)どうやらお目を、泣きはらしてござる。……ほら
ほら! 悪い子だ!
ニーナ ううん、ちょっと。……だって、ほら、こんなに息がはずんで
いるんですもの。三十分したら、あたし帰るわ、大急ぎなの。後生だから
引きとめないでね。ここへ来たこと、父には内緒なの。
トレープレフ ほんとに、もう始める時刻だ。みんなを呼んで来なくち
ゃ。
ソーリン では、わたしがちょっくら、とまあ言った次第でな。はいは
い、只今。(右手へ行きながら歌う)「フランスをさして帰る、兵士のふ
たりづれ。」〔ハイネの『ふたりの擲弾兵』より〕……(ふり返って)い
つぞや、まあこういった工合に歌いだしたらな、ある検事補のやつめが、
こう言いおった・・「いや閣下、なかなか大した喉ですな。」……そこで
先生、ちょいと考えて、こう附け足したよ・・「しかし……厭なお声で
。」(笑って退場)
ニーナ 父も継母も、あたしがここへ来るのは反対なの。ここはボヘミ
アンの巣窟だって……あたしが女優ににでもなりゃしまいかと、心配なの
ね。でもあたしは、ここの湖に惹きつけられるの、かもめみたいにね。…
…胸のなかは、あなたのことで一ぱい。(あたりを見まわす)
2006年6月26日(月曜)
トレープレフ 僕たちきりですよ。
ニーナ 誰かいるみたいだわ……
トレープレフ いやしない。(接吻)
ニーナ これ、なんの木?
トレープレフ ニレの木。
ニーナ どうして、あんなに黒いのかしら?
トレープレフ もう晩だから、物がみんな黒く見えるのです。そう急い
で帰らないで下さい。後生だから。
ニーナ だめよ。
トレープレフ じゃ、僕のほうから行ったらどう、ニーナ? 僕は夜ど
おし庭に立って、あなたの部屋の窓を見てるんだ。
ニーナ だめ、万人に見つかるわ。それにトレゾールは、まだお馴染じ
ゃないから、きっと吠えてよ。
トレープレフ 僕は君が好きだ。
ニーナ シーッ。
トレープレフ (足音を耳にして)だれだ? ヤーコフ、お前か?
トレープレフ みんな持場についてくれ。時刻だ。月は出たかい?
ヤーコフ (仮舞台のかげで)へえ、さようで。
トレープレフ アルコールの用意はいいね? 硫黄もあるね? 紅い目
玉が出たら、硫黄の臭いをさせるんだ。(ニーナに)さ、いらっしゃい、
支度はすっかり出来ています。……興奮ってますね?……
ニーナ ええ、とても。あなたのママは・・平気ですわ、こわくなんか
ない。でも、トリゴーリンが来てるでしょう。……あの人の前で芝居をす
るのは、あたしこわいの、恥かしいの。……有名な作家ですもの。……若
いかた?
戸 ええ。
ニーナ あの人の小説、すばらしいわ!
トレープレフ (冷やかに)知らないな、読んでないから。
ニーナ あなたの戯曲、なんだか演りにくいわ。生きた人間がいないん
だもの。
トレープレフ 生きた人間か! 人生を描くには、あるがままでもいけ
ない、かくあるべき姿でもいけない。自由な空想にあらわれる形でなくち
ゃ。
ニーナ あなたの戯曲は、動きが少くて、読むだけなんですもの。戯曲
というものは、やっぱり恋愛がなくちゃいけないと、あたしは思うわ……
(ふたり、仮舞台のかげへ去る)(全集12・99~101 )
2006年6月27日(火曜)
トレープレフの〈可愛い魔女〉〈夢〉であるニーナが登場。読者・観客
はニーナの発する言葉によって彼女の置かれている状況を把握する。母親
は継母で、父親はニーナのしつけに厳しく、夜に娘が外に出ることなど絶
対に許さない、たまたま両親が揃って出掛けた隙に馬を追い立てて約束の
場所へと着いたことになる。つまりニーナは父親に内緒でトレープレフの
所へと駆けつけ、約束の芝居をしてすぐに戻らなければならない。ニーナ
の両親は娘がトレープレフと付き合うことに反対している。両親にとって
トレープレフの所は〈ボヘミアンの巣窟〉で、ニーナが〈女優〉になるこ
となど大反対なのである。
しかしトレープレフとニーナは愛し合っている。愛する男と逢うために
親の眼を盗み、嘘をつくことなどどこの娘もしていることだ。ニーナの情
熱を、トレープレフの愛情を誰も押さえ込むことはできない。しかし、す
でにわたしは『イワーノフ』を読んでいる。あの〈永遠の愛〉を誓ってお
きながら、その誓いに背いたイワーノフの運命を知っている。どのような
熱烈な愛も、それが男と女の間に通う愛なら、時の流れの中でその熱を失
い、冷えきってしまうこともある。男と女の間に〈永遠の愛〉など存在し
ないからこそ、二人は〈誓い〉をたてて、お互いの心を縛りあうと言って
もいい。しかし、熱烈な愛の直中にある時の〈誓い〉は重荷ではないが、
冷めきった後ではその〈誓い〉が己の首をしめることになる。イワーノフ
はアンナの顔を見るだけでもうざったく、とにかく彼女の前から逃亡をは
かり、あげくのはてにはピストル自殺してはてた。イワーノフの陥った憂
鬱は、新たな恋によっては解消せず、結局、自ら命を絶つことによって彼
自身はその虚無の淵からの脱出に成功したが、残された者には確実にその
〈憂鬱〉のウィルスをまき散らした。特にイワーノフの更生にかけていた
サーシャなどは、夫に裏切られた妻アンナ以上のショックを受けたに違い
ない。
チェーホフの読者・観客は、従ってトレープレフとニーナの愛に関して
も、冷やかな眼差しをぬぐい去ることはできない。いったいトレープレフ
の〈可愛い魔女〉が、いつまで彼の〈夢〉たり得るのか。それは文字通り
〈夢〉に終わってしまうのではないのか。トレープレフの母親、トレープ
レフが演劇上、いつかは徹底してぶちのめさなければならない大女優アル
カージナに、はたしてニーナはどこまで喰い入ってくれるのか。ニーナは
ただただトレープレフにお熱をあげているだけの小娘で、一時、トレープ
レフの影響に感染して演劇熱に浮かされているだけではないのか。
2006年6月29日(木曜)
ニーナは未来に暗い予感を感じている。それはトレープレフとの関係に
明るい未来を想定できないことを示している。ニーナはニレの木を見て
「どうして、あんなに黒いのかしら?」と訊ねる。トレープレフは「もう
晩だから、物がみんな黒く見えるのです」と答える。しかし、このトレー
プレフの返事はニーナの疑問に答えていない。ニーナは全く別のことを訊
いているのだ。〈ニレの木〉の黒さ、それはトレープレフが抱え込んでい
る闇の隠喩であり、愛し合っている二人の破滅的未来を暗示しているかも
知れないではないか。少なくとも、父親からトレープレフとの交際を禁じ
られているニーナにとって、未来は決して明るくはない。湖へと続く一本
道が仮舞台によって遮られていることが二人の未来を端的に暗示している
とも言える。ニーナは「あなたの戯曲、なんだか演りにくいわ。生きた人
間がいないんだもの」と言う。この言葉の中にすでに二人の破綻が予告さ
れている。トレープレフの〈可愛い魔女〉は、実は母親の大女優アルカー
ジナよりも、実は手ごわい相手であったのかも知れない。いちど自分の心
の内に入り込んだ〈魔女〉を排除することは容易ではない。ニーナの口に
するセリフは、誰にも妥協しない力強さがある。「あなたの戯曲は、動き
が少くて、読むだけなんですもの。戯曲というものは、やっぱり恋愛がな
くちゃいけないと、あたしは思うわ」・・ニーナの言葉には誰にでも分か
る具体性がある。一方、トレープレフのそれは抽象的である。彼は〈生き
た人間〉〈人生〉を描くには「あるがままでもいけない、かくあるべき姿
でもいけない。自由な空想にあらわれる形でなくちゃ」と言う。はたして
この言葉を正確に理解できる者が何人いるのだろうか。〈自由な空想にあ
らわれる形〉・・これは難解な言葉である。トレープレフが自らの演劇で
狙う〈生きた人間〉の姿をこのような言葉で表現されても、なかなかすぐ
には理解できないのである。はたして相手のニーナにどこまで正確に伝わ
ったであろうか。トレープレフの〈抽象〉とニーナの〈具象〉はやがて、
はっきりとした意見の相違となって二人の関係を破綻の方向へと押しやっ
ていくのではなかろうか。今はまだ余りにも小さい溝で、二人とも、その
溝の深さに気づいていないだけのような気がする。
2006年7月1日(土曜)
いよいよ幕があがって、湖の光景が開ける。月は地平線を離れ、水に反
映している。岩の上に白衣のニーナが座っている。ニーナの長い独白が続
く。
ニーナ 人も、ライオンも、鷲も、雷鳥も、角を生やした鹿も、鵞鳥も、
蜘蛛も、水に棲む無言の魚も、海に棲むヒトデも、人の眼に見えなかった
微生物も、・・つまりは一さいの生き物、生きとし生けるものは、悲しい
循環をおえて、消え失せた。……もう、なん千世紀というもの、地球は一
つとして生き物を乗せず、あの哀れな月だけが、むなしく灯火をともして
いる。今は牧場に、寐ざめの鶴の啼く音も耐えた。菩提樹の林に、こがね
虫の音ずれもない。寒い、寒い。うつろだ、うつろだ。不気味だ、不気味
だ、不気味だ。(間)あらゆる生き物のからだは、灰となって消え失せた。
永遠の物質が、それを石に、水に、雲に、変えてしまったが、生き物の霊
魂だけは、溶け合わさって一つになった。世界に遍在する一つの霊魂・・
それがわたしだ……このわたしだ。……わたしの中には、アレクサンドル
大王の魂もある。シーザーのも、シェークスピアのも、ナポレオンのも、
最後に生き残った蛭のたましいも、のこらずあるのだ。わたしの中には、
人間の意識が、動物の本能と溶けあっている。で、わたしは、何もかも、
残らずみんな、覚えている。わたしは一つ一つの生活を、また新らしく生
き直している。
鬼火があらわれる。
アルカージナ (小声で)なんだかデカダンじみてるね。
トレープレフ (哀願に非難をまじえて)お母さん!
ニーナ わたしは孤独だ。百年に一度、わたしは口をあけて物を言う。
そしてわたしの声は、この空虚のなかに、わびしくひびくが、誰ひとり聞
く者はない。……お前たち、青い鬼火も、聞いてはくれない。……夜あけ
前、沼の毒気から生まれたお前たちは、朝日のさすまでさまよい歩くが、
思想もなければ意志もない、生命のそよぎもありはしない。お前のなかに、
命の目ざめるのを恐れて、永遠の物質の父なる悪魔は、分秒の休みもなし
に、石や水のなかと同じく、お前のなかにも、原子の入れ換えをしている。
だからお前は、絶えず流転をかさねている。宇宙のなかで、常住不変のも
のがあれば、それはただ霊魂だけだ。(間)うつろな深い井戸へ投げこま
れだ囚われびとのように、わたしは居場所も知らず、行く末のことも知ら
ない。わたしにわかっているのは、ただ、物質の力の本源たる悪魔を相手
の、たゆまぬ烈しい戦いで、結局わたしが勝つことになって、やがて物質
と霊魂とが美しい調和のなかに溶け合わさって、世界を統べる一つの意志
の王国が出現する、ということだけだ。しかもそれは、千年また千年と、
永い永い歳つきが次第に流れて、あの月も、きららかなシリウスも、この
地球も、すべて塵と化したあとのことだ。……(間。湖の奥に、紅い点が
二つあらわれる)そら、やって来た、わたしの強敵が、悪魔が。見るも怖
ろしい、あの火のような二つの目……
アルカージナ 硫黄の臭いがするわね。こんな必要があるの?
トレープレフ ええ。
アルカージナ (笑って)なるほどね、効果だね。
トレープレフ お母さん!
ニーナ 人間がいないので、退屈なのだ……
ポリーナ (ドールンに)まあまあ、帽子をぬいで! さあさ、おかぶ
りなさい、風邪を引きますよ。
アルカージナ それはね、ドクトルが、永遠の物質の父なる悪魔に、脱
帽なすったのさ。
トレープレフ (カッとなって、大声で)芝居はやめだ! 沢山だ!
幕をおろせ!
アルカージナ お前、何を怒るのさ?
トレープレフ 沢山です! 幕だ! 幕をおろせったら!(とんと足ぶ
みして)幕だ!(幕がおりる)失礼しました! 芝居を書いたり、上演し
たりするのは、少数の選ばれた人たちのすることだということを、つい忘
れていたもんで。僕はひとの畠を荒らしたんだ! 僕が……いや、僕なん
か……(まだ何か言いたいが、片手を振って、左手へ退場)(全集12・10
4 ~106 )

ニーナはトレープレフが書いた脚本をそのまま口にしているだけのこと、
このセリフにはたしてどれほどの演技力が必要とされたのか。もし、この
セリフ自体にトレープレフが意味をこめていたのだとすれば、何も劇仕立
てにしてくれずとも、脚本をそのまま読めばいいということになる。舞台
での長いセリフは観客の耳にそのまま正確に伝わるとは限らない。なのに
なぜトレープレフは、脚本を書いてそれを活字で発表することだけに満足
せず、さらに俳優を集め、演出し、観客動員に駆け回る、そんなこんなの
苦労を重ねてまで舞台作りに精をだすのだろうか。
https://www.shimi-masa.com/?p=350
8:777 :

2022/05/23 (Mon) 06:38:26

チェーホフの戯曲『かもめ』を読む(清水正)連載②
清水 正
https://www.shimi-masa.com/?p=351

2006年7月2日(日曜)
トレープレフはこの芝居でいったい何を言いたかったのであろうか。ニ
ーナが背負っている役は「一さいの生き物、生きとし生けるものは、悲し
い循環をおえて、消え失せた」後の「世界に遍在する一つの霊魂」である。
この〈霊魂〉にトレープレフの思いのすべてが託されている。チェーホフ
の人物の大半は、自分の存在を未来の時点から見つめる視点を持っている。
ここでトレープレフは〈なん千世紀〉という未来時点に存在する〈世界に
遍在する一つの霊魂〉を描いているが、これはその未来時点から今現在を
見ていると言ってもいい。トレープレフはここで、単なる人間、単なる民
族の滅び行く運命ではなく、〈一さいの生き物〉が消え失せた地球を、す
なわち悠久の時を視野に入れている。人間はどんなに養生しても百年も二
百年も生きられるものではない。この世に誕生した者は、ただ一人の例外
もなく死んでいかなければならない。しかも人間はどこから来て、どこへ
行くのかを知らない。人生を真剣に考えれば考えるほど、わたしたちの存
在は或るなにものかによって愚弄されているようにも感じる。或る限定さ
れた時間の枠の中で、喜んだり悲しんだりしながら、結局は死の淵へと追
いやられてしまう人間。それでも今現在に没頭できる人間は、それなりに
生を享受できる。ところが、不断に今現在の自分の存在を死後の時点から
見つめるような眼差しを持った人間は、どうしてもしらけてしまう。どの
ように生きようと、結局は死んでしまうのだとすれば、この世の束の間の
生にいったいどのような意味があるのか。イワーノフの内部に侵入した空
虚、倦怠、憂鬱は、決してイワーノフだけに特有のものではない。自分の
存在を未来時点から眺める者はすべて空虚と倦怠の卵を抱いて生きている。
ここでトレープレフが設定した〈世界に遍在する一つの霊魂〉は〈わた
し〉という主体的な存在で、人間と同様の〈孤独〉を抱えている。この
〈わたし〉は〈永遠の物質の父なる悪魔〉とは対極にある存在で、この悪
魔をも包み込んだ〈霊魂〉ではない。〈わたし〉は〈物質の力の本源たる
悪魔〉と〈たゆまぬ激しい戦い〉をしなければならない存在である。ただ
し〈わたし〉はこの悪魔との戦いに勝利すること、「やがて物質と霊魂と
が美しい調和のなかに溶け合わさって、世界を統べる一つの意志の王国が
出現する」ことを予言している。〈わたし〉は悪魔と勝つか負けるかの、
賭博のような戦いをしているわけではない。〈わたし〉は勝利を約束され
た〈霊魂〉なのである。ならば、何故に〈わたし〉は孤独を感じるのであ
ろう。
〈世界に遍在する一つの霊魂〉は、トレープレフが想像し創造した〈霊
魂〉で、多分にトレープレフ自身の内的世界を反映している。〈わたし〉
は「宇宙のなかで、常住不変のものがあれば、それはただ霊魂だけだ」と
言い、さらに「うつろな深い井戸へ投げこまれた囚われびとのように、わ
たしは居場所も知らず、行く末のことも知らない」と言う。この言葉から
分かるのは、トレープレフは人間は死んだら死りっきりとは思っていなか
ったということである。死んだ人間の身体は腐敗し、大地に溶けこんでし
まうが、霊魂は依然として存在するという考えである。そして人間を含む
〈一さいの生き物〉の霊魂が溶け合わさって一つになったものが〈わた
し〉であり、〈わたし〉はやがて〈世界を統べる一つの意志の王国〉が出
現することを信じている。この〈意志の王国〉に或る限定された生物の固
体はどのように復活してくるのであろうか。例えば、今現在を芝居に熱中
しているトレープレフは、〈意志の王国〉が出現した時に、どのような姿
形を持って蘇生してくるのであろうか。もし、姿形はもとより、すべてが
今現在のトレープレフと違ったものとして蘇生するのであれば、死後も存
在し続ける〈霊魂〉の意味はどこにあるのだろうか。
トレープレフは何と戦っていたのだろうか。母親のアルカージナと戦っ
ていたのであろうか。否、トレープレフが何よりも一番に戦っていた相手
とは〈時間〉である。トレープレフは〈時間〉を超脱しようとしている。
人間は時間の枠の中で生存している。時間の枠から逃れる唯一の方法は死
しかない。死んでも〈霊魂〉が存続するというのであれば、その〈霊魂〉
が存続する〈時間〉が想定されなければならない。しかし、自分が自分で
あることを認識するには意識が必要である。たとえ死んでも、いきのびた
〈霊魂〉が「自分は自分である」という自己同一性の意識を持っていなく
てはならないことになる。トレープレフは生きており、死んだ後の〈霊
魂〉の存在を証明してはいない。トレープレフに可能なことは芝居の脚本
を書いて、自分の考えを観客に伝えることだけである。ニーナの口を通し
て語られたトレープレフの考えは死後においても〈霊魂〉が存在すること、
やがては物質と霊魂が溶け合って世界を統べる一つの意志の王国が出現す
るということである。この確信は、言わばトレープレフの信仰のようにも
のである。、が、この信仰をもってしてもどうにもならない事実がある。
それは〈時間〉である。〈世界に遍在する一つの霊魂〉である〈わたし〉
もまた時間を超越することはできない。それは〈永遠の物質の父なる悪
魔〉もまた同様である。〈世界に遍在する一つの霊魂〉に意志があり、
〈永遠の物質の父なる悪魔〉に意志があったにしても、〈時間〉そのもの
をどうこうする力はない。〈時間〉そのものに意志があるとすれば、〈霊
魂〉も〈悪魔〉もその意志をどうすることもできない。〈時間〉の支配下
におかれたモノの〈意志〉など、はたして意志と呼べるものかどうか。
トレープレフのヴィジョンにはニーチェの永劫回帰説やショーペンハウ
エルの盲目的な宇宙意志、キリスト教の復活説などが反映している。しか
しここでトレープレフの〈世界に遍在する一つの霊魂〉や〈永遠の物質の
父なる悪魔〉、〈世界を統べる一つの意志の王国〉の実体などを考察する
よりは、このような戯曲を書かざるを得なかった彼の〈孤独〉に照明を与
えることにしよう。トレープレフの実存の特徴は〈世界に遍在する一つの
霊魂〉の口から出た〈寒い〉〈うつろ〉〈不気味〉〈孤独〉〈空虚〉とい
った言葉に端的に表れている。〈世界に遍在する一つの霊魂〉は「人間が
いないので、退屈なのだ」と言う。まさに、この〈霊魂〉はいっさいの生
き物の霊魂が一つに溶け合ったものというより、人間の一人であるトレー
プレフ自身の内的世界を投影している。トレープレフは孤独で、しかも退
屈なのだ。おそらくトレープレフは愛するニーナの存在によってもその孤
独と退屈から脱することはできないであろう。なにしろトレープレフは救
い難き憂鬱症に陥ったイワーノフの後に登場してきた人物なのである。
トレープレフがカッとなって「芝居はやめだ! 沢山だ! 幕をおろ
せ!」と怒鳴った場面に注目しよう。トレープレフの怒りがとつぜん爆発
したのは、医師ドルーンが帽子を脱いだときに、母親のアルカージナは
「それはね、ドクトルが、永遠の物質の父なる悪魔に、脱帽なすったの
さ」と説明した直後である。どうしてこのアルカージナの説明がトレープ
レフの怒りを誘発したのか。ここには何かひとには言えない秘密が隠され
ているのであろうか。
トレープレフは怒りにまかせて「失礼しました! 芝居を書いたり、上
演したりするのは、少数の選ばれた人たちのすることだということを、つ
い忘れていたもんで」と皮肉を飛ばす。しかし、この辛辣な皮肉が皮肉と
してアルカージナに伝わっていないところにトレープレフの孤独と滑稽が
ある。アルカージナの兄ソーリンは「若い者の自尊心は、大事にしてやら
なけりゃ」と言う。ソーリンから見れば、アルカージナの言葉は、新しい
芝居に情熱を傾けるトレープレフの自尊心を著しく傷つけたように思えた
のであろう。しかし肝心のアルカージナにそういった自覚はまったくない。
彼女はある意味、天真爛漫な女優であり、感じたこと、思ったことを率直
に口にしているに過ぎない。〈世界に遍在する一つの霊魂〉の前に強敵の
悪魔がやって来た、まさにその時、トレープレフは〈硫黄の臭い〉を漂わ
せる。すかさずアルカージナはトレープレフに「こんな必要があるの?」
と訊いている。これは皮肉ともあてこすりともとれなくはないが、アルカ
ージナに対抗して新しい演劇を展開しようとする者が、そんな言葉にいち
いちカリカリしていてはいけないだろう。
2006年7月3日(月曜)
トレープレフは「芝居を書いたり、上演したりするのは、少数の選ばれ
た人たちのすることだ」と本気で考えていたのだろうか。おそらくアルカ
ージナは多くの観客を楽しませ感動させるために芝居はあり、自分はその
主役女優だと思っていたに違いない。いつの時代でも、どんな芸術の分野
でも、トレープレフとアルカージナにおける意見の相違は存在する。文学
に限っても純文学と大衆文学がある。演劇の場合は、或る一定の場所(舞
台)に、或る限定された時間内に多くの観客を集めなければならない。小
説の読者のようなわがまま(どんな時間にどれだけ読むかは読者の自由で
ある)は、原則として演劇の観客には許されていない。興行主は、経営上
の問題からも、なるべく多くの観客が集まるような芝居を打ちたいし、俳
優を使いたいと思うのが当然である。トレープレフのような考えを持った
脚本家や演出家は、利益優先の興行主には嫌われるだろう。もしトレープ
レフが自分の主張をまげずに演劇活動を展開しようとするなら、興行費用
は自分で負担しなければならないことになる。トレープレフの演劇論に賛
同する同志的俳優やスタッフが経費を自己負担でもしなければ、とうてい
興行は続けられないことになる。いつの時代でも、新しいことを展開する
ためには、旧世代や旧理論と壮絶な闘いをしなければならないし、自分た
ちの主張が受け入れられるまでにそうとうの苦労を積み重ねなければなら
ない。アルカージナにちょっとばかりチャリを入れられたぐらいでヒステ
リーを起こし、芝居を中断するようではトレープレフの前途は決して明る
くはない。
アルカージナに言わせればトレープレフは「わがままな、自惚れの強い
子」であり、トレープレフの野心満々な演劇の新形式も、ただの〈根性ま
がり〉に過ぎない。要するにアルカージナは息子が〈何か当り前の芝居〉
を出さずに、〈デカダンのたわ言〉を上演したことに不満なのである。
〈世界に遍在する一つの霊魂〉と〈永遠の物質の父なる悪魔〉との闘いも、
〈世界を統べる一つの意志の王国〉の出現も、アルカージナにとっては根
性まがりのデカダンであり〈退屈な暇つぶし〉に過ぎない。哲学の問題は
哲学者が、神学の問題は神学者が頭を悩ませばいい。芝居は皆が喜び、興
奮する一時の娯楽であればいい。演出家や俳優は大衆の娯楽に奉仕すれば
いいのであって、舞台上で自己満足的な理屈をこねまわすことではない。
おそらくアルカージナが考えているのはこういうことであろう。
確かにアルカージナの言は説得力がある。トレープレフがニーナに語ら
せたセリフは脚本を読めばそれですんでしまうことで、敢えて舞台にかけ
る必然性があるとは思えない。アルカージナの感想は、この場に観客とし
て集まった者たちの大半の賛同を得たことだろう。トレープレフの演劇の
新形式に賭ける情熱に水をさすつもりはないが、〈世界に遍在する一つの
霊魂〉の独白は、ひとり書斎で読んでもいい性格のものである。というよ
り、その方が聞き逃しもなく、正確に読み取ることができよう。チェーホ
フ作の『かもめ』は、トレープレフ作の〈デカダンのたわ言〉をも内包す
ることで、観客の退屈を回避することが可能となっている。
アルカージナがトレープレフの芝居の中身について何らコメントを出さ
ず、言わば外側からトレープレフの野心満々を〈デカダンのたわ言〉〈退
屈な暇つぶし〉と切って捨てたのに対し、教師のメドヴェーヂェンコは
「何がなんでも、霊魂と物質を区別する根拠はないです。そもそも霊魂に
してからが、物質の原子の集合なのかも知れんですからね」と一応、中身
に関するコメントを発している。いずれにしても、トレープレフが自ら中
断した芝居は理屈が勝ったもので、一般の観客には理解できず、退屈きわ
まりないものと化したことだろう。二十一世紀の今日においても、トレー
プレフ的理屈の勝った芝居を打っている劇団は多い。主催者側がいくら自
己満足しても、観客にとってはただただ眠いだけの朗読劇のようなものは
なんとかならないものか。もし脚本のセリフ勝負というのなら、それに相
応しい役者を抜擢してもらわなければならない。そうでなければ脚本を静
かな場所でじっくり読んだほうがどれほどましであろうか。
メドヴェーヂェンコは文士トリゴーリンに「で一つ、どうでしょう、わ
れわれ教員仲間がどんな暮らしをしているか・・それをひとつ戯曲に書い
て、舞台で演じてみたら。辛いです。じつに辛いです!」と言う。アルカ
ージナは戯曲や原子の話はもうやめにして、向う岸から聞こえてくる歌に
耳をすまそうと言う。彼女はトリゴーリンに向かって次のように言う。
十年か十五年まえ、この湖じゃ、音楽や合唱がほとんど毎晩、ひっきり
なしに聞えたものですわ。この岸ぞいに、地主貴族が六つもあってね。忘
れもしない、にぎやかな笑い声、ざわめき、猟銃のひびき、それにしょっ
ちゅう、ロマンスまたロマンスでね。……その頃、その六つの屋敷の花形
で、人気の的だったのは、そら、御紹介しますわ(ドールンをあごでしゃ
くって)・・ドクトル・ドールンでしたの。今でもこのとおりの男前です
もの、その頃と来たら、それこそ当るべからざる勢いでしたよ。それはそ
うと、そろそろ気が咎めてきた。可哀そうに、なんだってわたし、うちの
坊やに恥をかかしたのかしら? 心配だわ。(大声で)コースチャ! せ
がれや! コースチャ!
2006年7月4日(火曜)
こういった場面で分かるのは、アルカージナが過去に思いをいたすタイ
プであること、つまり未来よりは積み重ねた過去の時間の方に重きを置い
て生きているということである。アルカージナからかつて花形であったと
紹介されたドクトル・ドールンもまた基本的には同じである。アルカージ
ナは第二幕のはじめに「わたしには、主義があるの・・未来を覗き見しな
い、というね。わたしは、年のことも死のことも、ついぞ考えたことがな
いわ。どうせ、なるようにしかならないんだもの」と語っている。この言
葉で彼女は自分の人生に対する基本的な姿勢を端的に示している。名もな
い、駆け出しのトレープレフは自分の仕事を未来に託すほかはない。かれ
にとって現在は未来へ向かって投企されている。だからこそ未来へと続く
現在が否定されることは、トレープレフにとって何よりも痛い。彼は意識
のうえではアルカージナを過去の人として葬り去りながら、しかし依然と
して彼女の言葉が重くのしかかっている。ところがアルカージナは、すで
に女優としての絶頂期を終えている。彼女にとって過去よりも、現在より
もすばらしい未来が待機しているようには思えない。すでにアルカージナ
は未来を覗き見して一喜一憂する乙女のような心持ちでいきることはでき
ない。彼女は過去をなつかしく思い出すことはあっても、別にその過去に
過剰とらわれることもないし、未来に過剰に期待することもない。彼女は
現在を精一杯、感じ、働き、生きることを信条としている。それは一つの
理想的な生き方である。
ところでアルカージナのこういった現在優位の生き方は自分に自信があ
るからこそ可能だとも言える。現在に絶望し、未来になんの期待も寄せら
れない人間に可能なのは、現在よりはましだった過去への追憶に時を費や
すことであったり、死後の世界に希望を抱くほかはないだろう。アルカー
ジナは過去の名声を現在へまで繋げている大女優である。もし彼女が自分
を一歩前面から退く謙虚さをもって後進の指導にあたることができるよう
なタイプであれば、息子トレープレフの自尊心をいたく傷つけることもな
かったであろう。しかしそういった謙虚さや指導力を彼女に期待すること
はできない。トレープレフは母親の性格を的確に認識している。アルカー
ジナについて先に彼は「褒めるなら、あの人のことだけでなくてはならん。
劇評も、あの人のことだけ書けばいい」とソーリンに言っていた。舞台女
優で名声を博したような者は、たいがい傲慢でひとりよがりと思っていれ
ば間違いないということであろうか。女優に必要とされるのは謙虚さなど
より、むしろ見栄や虚勢であるのかも知れない。自分が世界一の女優だと
心の底から思わなければ、舞台に華やかさをもたらすことはできず、観客
を大きな感動の渦へと誘う力も失せてしまうのかもしれない。喝采を独り
占めするくらいの勢いで舞台に登場しなければ女優はつとまらない。しか
も女優は私生活においても派手な立ち居振る舞いで人々の注目を集めてい
なければならない。というよりか、もともとそういった派手で目立ちたが
り屋でなければ女優としては大成しないのであろう。ドストエフスキーの
人物の中に〈女優〉を探すなら、二人の女の頭上に斧を振り下ろして殺害
したラスコーリニコフの妹ドゥーニャや、ロゴージンとムイシュキン公爵
の間を揺れ動いたあげく殺害されたナスターシャなどを見出すことができ
よう。前者は殺人者の兄ラスコーリニコフの妹にふさわしく、スヴィドリ
ガイロフに銃弾を発射することのできる誇り高き美女であり、後者もまた
傲慢で気まぐれな誇り高き絶世の美女である。こういった荒馬を調教し、
演出できる監督がいれば、彼女たちはさらに美しく輝いたはずである。
『罪と罰』のソーニャのような、運命に従順な、静かな女は、信仰を得て
強い女にはなれても、決して舞台女優にはなれないのである。彼女のよう
な存在は、ドストエフスキーという偉大な小説家のペンによってのみ誰よ
りもすばらしい、輝ける聖なる存在へと高められるのである。つまり小説
世界の中で輝きを増す存在が、即、舞台女優としてその才能を発揮するこ
とはないのである。
ただしアルカージナは女優であると同時にトレープレフの母親でもある。
どんなにトレープレフが演劇の新形式で彼女の牙城に迫ろうとも、母親と
して息子を想う気持が失せることはない。と言うよりアルカージナは未だ
トレープレフを手ごわい相手とは見ていない。ところで医師ドールンのみ
はトレープレフの芝居を高く評価している。彼は独りごちる「ひょっとす
ると、おれは何にもわからんのか、それとも気がちがったのかも知れんが、
とにかくあの芝居は気に入ったよ。あれには、何かがある。あの娘が孤独
のことを言いだした時や、やがて悪魔の紅い目玉があらわれた時にゃ、お
れは興奮して手がふるえたっけ。新鮮で、素朴だ」と。ドールンはトレー
プレフに向かってもはっきりと「僕はきみの芝居が、すっかり気に入っち
まった。ちょいとこう風変りで、しかも終りの方は聞かなかったけれど、
とにかく印象は強烈ですね。君は天分のある人だ、ずっと続けてやるんで
すね」と言って励ましている。トレープレフはドールンの手を強く握り、
いきなり抱きついて、目には涙までためて感激する。ドールンはさらに言
葉を続ける「いいですか・・きみは抽象観念の世界にテーマを仰いだです
ね。これは飽くまで正しい。なぜなら、芸術上の作品というものは必らず、
何ものか大きな思想を表現すべきものだからです。真剣なものだけが美し
い」「重要な、永遠性のあることだけを書くんですな。きみも知ってのと
おり、僕はこれまでの生涯を、いろいろ変化をつけて、風情を失わずに送
ってきた。僕は満足ですよ。だが、まんいち僕が、芸術家が創作にあたっ
て味わうような精神の昂揚を、ひょっと一度でも味わうことができたとし
たら、僕はあえて自分をくるんでいる物質的な上っ面や、それにくっつい
ている一さいを軽蔑して、この地上からスーッと舞いあがったに相違ない
な」「それに、もう一つ大事なのは、作品には明瞭な、ある決った思想が
なければならんということだ。何のために書くのか、それをちゃんと知っ
ていなければならん。でなくて、一定の目当てなしに、風景でも賞しなが
ら道を歩いて行ったら、きみは迷子になるし、われとわが才能で身を滅ぼ
すことになる」と。
かつて六つの貴族の屋敷で、花形として人気の的であったドールンの言
葉が、どれだけトレープレフを勇気づけ励ましたであろう。若い有能な才
能には讃美と励ましが必要である。放っておいても育つ才能があり、厳し
い指導によってのみ伸びる才能がある。しかし大抵の場合は、理解者が側
にいて励ます必要がある。確かに中途半端な称賛はよくないが、真に理解
し、真に励ます者がいることは、芸術家の誰もが望ところであろう。アル
カージナにチャチャを入れられたくらいで、怒りを爆発させて芝居を中断
するほどナイーヴなトレープレフに必要なのは、ドールンのような勇気づ
けなのである。
2006年7月5日(水曜)
さて、トレープレフとニーナの恋はどうなっただろうか。わたしは先に
二人の破綻は目に見えているかの如く書いた。トレープレフは自分の思い
入れの中でニーナを偶像化した。ニーナは美しい女であったかも知れない
が、トレープレフの精神世界の理解者ではない。皮肉を飛ばすことができ
るだけ、母親のアルカージナの方がよほど息子を理解している。ニーナは
所詮は田舎育ちの、有名な女優や作家に憧れているお嬢さんの域を一歩も
出ていない。トレープレフはただ自分に仕えてくれるだけの、従順な女性
を求めているのではない。自分の新しい演劇理論を理解し、共に同志とし
て闘ってくれる伴侶を求めている。しかし、芝居が失敗に終わり、ニーナ
はトレープレフに冷たい態度をとっている。
次にトレープレフが自分が猟銃で撃ち落とした鴎の死骸をニーナの足元
に置いた、その直後の場面を見てみよう。
ニーナ どういうこと、これ?
トレープレフ 今日ぼくは、この鴎を殺すような下劣な真似をした。あ
なたの足もとに捧げます。
ニーナ どうかなすったの? (鴎を餅あげて、じっと見つめる)
トレープレフ (間をおいて)おっつけ僕も、こんなふうに僕自身を殺
すんです。
ニーナ すっかり人が違ったみたい。
トレープレフ ええ、あなたが別人みたいになって以来。あなたの態度
は、がらり変ってしまいましたね。目つきまで冷たくなって、僕がいると
さも窮屈そうだ。
ニーナ 近ごろあなたは怒りっぽくなって、何か言うにもはっきりしな
い、へんな象徴みたいなものを使うのね。現にこの鴎にしたって、どうや
ら何かの象徴らしいけれど、ご免なさい、わたしわからないの。……(鴎
をベンチの上に置く)わたし単純すぎるもんだから、あなたの考えがわか
らないの。
トレープレフ ことの起りはね、僕の脚本があんなぶざまな羽目になっ
た、あの晩からなんです。女というものは、失敗を赦しませんからね。僕
はすっかり焼いちまった、切れっぱし一つ残さずにね。僕がどんなにみじ
めだか、あなたにわかったらなあ! あなたが冷めたくなったのが、僕は
怖ろしい、あり得べからざることのような気がする。まるで目が覚めてみ
ると、この湖がいきなり干あがっていたか、地面に吸いこまれてしまって
いたみたいだ。今しがたあなたは、単純すぎるもんだから僕の考えがわか
らない、と言いましたね。ああ、何のわかることがいるもんですか?!
あの脚本が気にくわない、それで僕のインスピレーションを見くびって、
あなたは僕を、そのへんにうようよしている平凡な下らん奴らと一緒にし
てるんだ。……(とんと足ぶみして)わかってるさ、ちゃんと知ってるん
だ! 僕は脳みそに、釘をぶちこまれたような気持だ。そんなもの、僕の
血をまるで蛇みたいに吸って吸って吸いつくす自尊心もろとも、呪われる
がいいんだ。……(トリゴーリンが手帖を読みながら来るのを見て)そう
ら、ほんものの天才がやって来た。歩きっぷりまでハムレットだ、やっぱ
り本を持ってね。……(嘲弄口調で)「言葉、ことば、ことば」か……ま
だあの太陽がそばへ来ないうちから、あなたはもうにっこりして、目つき
まであの光でトロンとしてしまった。邪魔はしませんよ。(足早に退場)
(全集12・123 ~124 )
トレープレフはなぜニーナに対して腹をたてているのであろうか。それ
は彼の〈可愛い魔女〉が〈可愛い魔女〉でなくなり、彼の〈夢〉が彼の
〈夢〉でなくなったからである。ニーナはトレープレフの内的世界をなん
にも理解できない。ニーナが芝居に望んでいることは、トレープレフの新
形式ではなく、むしろアルカージナの方にある。芝居は男と女のロマンス
を具体的に、分かりやすく演じなければならない。それこそ大衆が、多く
の芝居好きの観客が望むところであり、哲学的な〈デカダンなたわ言〉が
延々と続くような独白劇ではない。〈世界に遍在する一つの霊魂〉だの
〈永遠の物質の父なる悪魔〉などは、頭でっかちの文学青年が一人自分の
小部屋で読むか呟いていればいいことで、多くの観客を巻き込んで彼らの
単純な頭脳を苦しめることはない。ニーナは自分でも言っているように
〈単純〉なお嬢さんで、トレープレフが演劇の新形式を舞台上で体現させ
るような存在ではなかったのである。トレープレフはニーナをよく観察し
分析した上で彼女を好きになったわけではない。トレープレフがニーナに
求めるものと、ニーナがトレープレフに求めるものは違っている。その違
いにニーナは気づいているが、トレープレフは気づいていない。
ニーナはトレープレフに言われた通り、芝居をした。が、ニーナ自身は
自分が口にしているセリフを何一つ理解していない。トレープレフがアル
カージナの皮肉に我慢がならず、芝居を中止して姿を消してしまった後、
ニーナは仮舞台のかげから出てきてアルカージナとキスをかわし、話をす
る。この時ニーナはアルカージナにトリゴーリンを紹介される。ニーナは
嬉しさいっぱいでどぎまぎしながら、トリゴーリンの作をいつも拝読して
いる意味の言葉を発する。続いてニーナは「ね、いかが、妙な芝居でしょ
う?」と言い、トリゴーリンは「さっぱりわからなかったです。しかし、
面白く拝見しました。あなたの演技は、じつに真剣でしたね。それに装置
も、なかなか結構で。(間)この湖には、魚がどっさりいるでしょうな」
と答える。この短い会話の中に、トリゴーリンとニーナの凝縮された思い
がこめられている。ニーナはトリゴーリンに憧れている。トリゴーリンは
すでに作家としての名声を博しており、トレープレフのような野心も焦燥
もない。トレープレフはアルカージナの愛人であるトリゴーリンをおもし
ろくないと思っているし、彼の作品を評価したくもない。ところがトレー
プレフの〈可愛い悪魔〉は、トレープレフなどよりはるかにトリゴーリン
に魅力を感じて憧憬の眼差しを向けている。ニーナがトリゴーリンに向か
って「妙な芝居でしょう?」と語りかけている、その時点で彼女のトレー
プレフに対する思いは、トレープレフに恋する乙女のものでないことは明
白である。ニーナの乙女心は眼前のトリゴーリンに夢中である。トリゴー
リンの「さっぱりわからなかったです」は「妙な芝居でしょう?」とその
同意を求めたニーナの問いに対する如才のない返答であり、田舎娘ニーナ
の乙女心を一挙にとらえたと言えよう。しかもトリゴーリンはニーナの演
技の真剣さに関してはさりげなく、しかしはっきりと讃美している。こん
な短い言葉でありながら、トリゴーリンはすっかりニーナの魂を鷲掴みし
てしまったのである。しばらく間をおいて、トリゴーリンは芝居から湖の
魚へとさりげなく話題を変換している。チェーホフは省略の美学を存分に
発揮して、憧れの作家から自分の演技を褒められたニーナの内心の歓喜を
いっさい表現していないが、おそらく(間)のあいだの、喜びにうち震え
ているニーナの気持を十分に汲み取ったうえでトリゴーリンは魚の話を持
ち出している。トリゴーリンがどれほどの小説家であるかは分からないが、
女心に精通した男であることに間違いはなさそうである。
2006年7月6日(木曜)
トリゴーリン 僕は釣りが好きでしてね。夕方、岸に坐りこんで、じつ
と浮子を見てるほど楽しいことは、ほかにありませんね。
ニーナ でも、一たん創作の楽しみを味わった方には、ほかの楽しみな
んか無くなるんじゃないかしら。
アルカージナ (笑い声を立てて)そんなこと言わないほうがいいわ。
このかた、ひとから持ちあげられると、尻もちをつく癖がおありなの。
(109 )
トリゴーリンのさりげない釣りの話がいい。ニーナの顔を見れば新しい
演劇について理屈をこね廻しているトレープレフよりは、はるかにおしゃ
れでダンディである。名声や才能に憧れる田舎のお嬢さんにとって、トリ
ゴーリンとの出会いは決定的な何かを植えつけてしまった。それこそ尊敬
の念に隠れた密かな恋心であったかもしれない。女が新しい恋に目覚めれ
ば、今朝の恋心さえ古臭く思われるものである。ニーナは『可愛い女』の
オーレンカのように、過去にとらわれず、未来に思いを寄せず、ただひた
すら現在を生きるのである。その意味では、歳をくっている分、過去にこ
だわりはするが、基本的に今現在を燃焼して生きようとするアルカージナ
と似ていると言えよう。今を生きる女は、その〈今〉から脱落した者のこ
となど振り向きもしない。トレープレフはあっという間に、ニーナの〈
今〉から振り落とされてしまった。トレープレフは恨ましい眼差しでニー
ナとトリゴーリンの関係を見ているほかはない。初めての実験的な芝居に
失敗し、同時にニーナという〈夢〉も失ってしまったトレープレフ。が、
ニーナはトレープレフになんの同情も憐れみも感じることはない。まさに
ニーナは〈魔女〉であり、トレープレフに対しても情容赦無く存分にその
魔性を発揮している。
トレープレフはニーナの心がトリゴーリンに移ってしまったのを感じて
いる。ニーナの態度はまさにがらりと変わってしまったのだ。ニーナは自
分が単純すぎてトレープレフの言うことが「わからない」と正直に語って
いる。ニーナは単純で正直で、従って残酷である。ニーナは「わからな
い」という言葉でトレープレフを拒んでいる。トリゴーリンという存在を
知ってしまったニーナは、もはやトレープレフを理解しようという気持が
起きない。トレープレフは「僕がどんなにみじめだか、あなたにわかった
らなあ!」と言う。これは泣き言であり、愚痴である。こういう言葉を口
にする男を女は好かない。ましてや心が他の男に移ってしまったニーナに
とってはなおさらである。トレープレフは自分の作品に自信が持てないの
であろうか。「僕のインスピレーションを見くびって、あなたは僕を、そ
のへんにうようよしている平凡な下らん奴らと一緒にしてるんだ」これは
もはや叫びである。傷つけられた自尊心が真っ赤な血を噴き出して、誰も
それをとめることはできない。トレープレフは行くところまで行くしかな
いだろう。もともとトレープレフの思想を、その感性を共有できないお嬢
さんを好きになって、あたかも自分の〈夢〉を体現する救世主のごとく偶
像化してしまったところに間違いがあった。ニーナはニーナ、トリゴーリ
ンのような名声のただなかにある男に魅力を感じるような女なのである。
トレープレフは手帖を読みながら歩いてくるトリゴーリンを見て「そう
ら、ほんものの天才がやって来た。歩きっぷりまでハムレットだ」と揶揄
している。が、トリゴーリンよりはるかにトレープレフ自身の方が悩める
ハムレット風である。「言葉、ことば、ことば」ハムレットのセリフに誰
よりも共感を寄せているのはトレープレフである。単なる言葉、されど言
葉、所詮は言葉、されど言葉……言葉の虚無を抱え持った者のみが呟くこ
とのできるセリフである。トレープレフはなんの説明もしていないが、彼
は彼流に「言葉、ことば、ことば」のはてしない空虚と、空虚に包まれた
情熱を、その情熱を包む空虚を感じている。トレープレフは「まだあの太
陽がそばへ来ないうちから、あなたはもうにっこりして、目つきまであの
光でトロンとしてしまった。邪魔はしませんよ」と言って足早に退場する。
トレープレフはアルカージナに対してと同様、トリゴーリンとも闘う姿勢
を見せない。
2006年7月7日(金曜)
トレープレフは自分が撃ち殺した鴎をニーナの眼前に捧げて、それが自分
の姿だと言う。トレープレフは母親から、ニーナから、トリゴーリンから、
さらに自分自身からも逃げて、いずれは自殺することを考えている青年な
のである。確かにトレープレフはイワーノフの憂鬱症の血を引き継いでい
る。彼は偉大な希望を抱いて邁進することのできる青年であるが、同時に
ちょっとした失敗で絶望し、すべてに嫌気がさしてしまうような青年でも
ある。イワーノフはサーシャという新しい若い恋人ができてさえ、新生活
を築くことよりはピストル自殺を選んでしまった男であったが、ニーナと
いう〈夢〉を奪われたトレープレフは今後どのような選択に迫られるので
あろうか。
2006年7月13日(木曜)
アルカージナの「未来を覗き見しない」という主義は一つの人生に対す
る確固たる態度である。彼女は「年のことも死のことも、ついぞ考えたこ
とがない」と言う。彼女のうちには「どうせ、なるようにしかならない」
という諦念が潜んでいる。チェーホフの文学全体にこの諦念の空気が漂っ
ており、この空気に馴染むことのできない者、たとえばイワーノフやトレ
ープレフは自殺して果てるしかない。なるようにしかならない、どうでも
いい、という虚無を抱えて、この現実の大海を泳ぎ続けるにはそれなりの
工夫と希望が必要である。年のことも死のことも考えたことのないアルカ
ージナは、それでも愛するトリゴーリンのことをいつまでも自分の側にお
いておきたいと思っている。アルカージナに尊敬され愛されている作家の
トリゴーリンは「書かなくちゃならん、書かなくちゃ、書かなくちゃ」と
いう脅迫観念にとらわれている。彼になぜ小説を書きつづけるかと問えば、
おそらくニコライ教授のように「わからない」と答えるだろう。本質的な、
根源的なことを聞かれて分かったような口をきかないのがチェーホフの人
物たちである。「まるで駅逓馬車みたいに、のべつ書きどおしで、ほかに
打つ手がない」とトリゴーリンは言う。トリゴーリンのセリフには若い頃
から生活費を得るために小説を書きつづけてきたチェーホフの思いがその
まま込められている。しばしニーナ相手のトリゴーリンの言葉に耳を傾け
てみよう。
今こうしてあなたとお喋りをして、興奮している。ところがその一方、
書きかけの小説が向うで待っていることを、一瞬たりとも忘れずにいるん
です。(略)こうして話をしていても、自分やあなたの一言一句を片っぱ
しから捕まえて、いそいで自分の手文庫のなかへほうりこむ。こりゃ使え
るかも知れんぞ!というわけ。一仕事すますと、芝居なり釣りなりに逃げ
だす。そこでほっと一息ついて、忘我の境にひたれるかと思うと、どっこ
い、そうは行かない。頭のなかには、すでに新らしい題材という重たい鉄
のタマがころげ廻って、早く机へもどれと呼んでいる。そこでまたぞろ、
大急ぎで書きまくることになる。いつも、しょっちゅうこんなふうで、わ
れとわが身に責め立てられて、心のやすまるひまもない。自分の命を、ぼ
りぼり食っているような気持です。(略)うかうかしてると、誰かうしろ
から忍び寄って来て、わたしをとっつかまえ、あのポプリーシチン〔ゴー
ゴリの『狂人日記』の主人公〕みたいに、気違い病院へぶちこむ んじゃな
いかと、こわくなることもある。それじゃ、わたしがやっと物を書きだしたころ、
まだ若くて、生気にあふれていた時代は
どうかというと、これまたわたしの文筆生活は、ただもう苦しみの連続で
したよ。駈けだしの文士というものは、殊に不遇な時代がそうですが、わ
れながら間の抜けた、不細工な余計者みたいな気のするものでしてね、神
経ばかりやたらに尖らせて、ただもう文学や美術にたずさわっている人た
ちのまわりを、ふらふらうろつき廻らずにはいられない。認めてももらえ
ず、誰の目にもはいらず、しかもこっちから相手の眼を、まともにぐいと
見る勇気もなく・・まあ言ってみれば、一文なしのバクチきちがいといっ
たざまです。
2006年7月15日(土曜)
なんのために書くのか。生活の糧を得るため、と答えていられるうちは
まだいい。純粋に書く理由を発見できる作家がはたして何人いることか。
トリゴーリンがいう脅迫観念はよく分かる。なぜこういった脅迫観念が生
じるのか。ドストエフスキーの地下男の言うように、書くことは何かしら
仕事をなしているような実感がともなうからかもしれない。作家としての
名声や評価を得るためなどと思っているやからは、そのうち放っておけば
自然に消えてしまうだろう。トリゴーリンがここでニーナに語っているこ
とは、彼の率直な思いであり、微塵のてらいもない。「どうでもいい」
「わからない」を連発するチェーホフが、書くことにおいては馬車馬のよ
うに駆けつづけた。チェーホフからペンを奪ったらいったいどうなってい
たのだろう。
書くという行為が、自分自身との対面であることは間違いない。書いて
いる以上は、世界や自分を置き去りにするわけにはいかない。書く行為は
自分という存在の神秘に直面することである。ドストエフスキーは人間は
謎であり、その謎を解くために一生を費やしても悔いはないと書いた。チ
ェーホフは人間の謎を解くために書きつづけたのであろうか。否、チェー
ホフは人間の謎をそのままに提示することに止まろうとしているように思
える。わからないことをわかったつもりになって説教するような愚者が主
人公として登場することはない。大学教授として情熱的な講義を続けたニ
コライ・ステパーノヴィチは、彼を追ってきた必死のカーチャに「わから
ない」「朝飯を食べよう」としか言えない。彼は自分の無知であること、
愚かであることを相手にさらけ出すことを恥とはしない。
2006年7月16日(日曜)
ニコライは「私の愛する宝」と共に人生を歩
むことができない。死をも超えた愛で相手を包むこともできない。ニコラ
イは孤独であり、この孤独を二人で分かち合うことはできない。カーチャ
が唯一納得したとすれば、それは彼女自身もまた己の孤独を生きるほかは
ないということである。いずれにしてもニコライとカーチャに明るい未来
はない。憂鬱症に陥ったイワーノフにも希望はなかった。彼に残された唯
一の希望は、自らのこめかみに向けてピストルの引きがねを引くことだけ
であった。トリゴーリンは書き続けるという脅迫観念に支配されているこ
とによって辛うじて自殺を免れている。トリゴーリンはアルカージナとい
う女に庇護されているし、その時々の恋に身をまかせる柔軟さも備えてい
る。ニーナはうぶな田舎娘で、有名な作家や女優に己の過剰でロマンチッ
クな夢を乗せることができる。未だ破綻を知らない乙女の夢は、言わば怖
いものしらずである。ニーナのトリゴーリンに対する態度は、トレープレ
フに対するものとは明らかに違う。トレープレフはすでに過去のものとな
り、彼女の現在と未来を見つめる眼差しがとらえているのはトリゴーリン
ただ一人である。イワーノフに熱愛して両親を捨てたアンナのように、ニ
ーナはトリゴーリンのためなら両親でも何でも捨て去ることができるので
ある。トリゴーリンは物書きとしての自分のあるがままの姿をさらけ出し
ただけでニーナの魂を鷲掴みにしてしまった。一度、恋に落ちた女にとっ
て、相手の男はいつでも星の王子様なのである。年齢の違いや、地位や名
声や財産など、すべての差異を一気に飛び越えて男と女は結びつくのであ
る。ニーナはトレープレフと恋愛状態にあったときから、冷静に二人の間
に存在する溝に気づいていた。この溝は双方のいかなる努力によっても埋
めることはできない。ニーナが選択したのは、この溝を一挙に飛び越える
こと、すなわち自分が心の底から納得できる男の胸へと飛び込むことであ
った。ニーナはその先に何が待ち受けているのか、そこまで汁ことはでき
なかった。しかしニーナにとっては最初の飛び越えこそが必要であった。
ニーナは田舎に閉じこもって、やがては確実に老いていく父や継母の面倒
を見るためにこの世に誕生したのではない。ニーナは自らの夢(それはと
りあえず舞台女優となって脚光を浴びることである)を実現するために、
その一つの大きな跳躍台としてトリゴーリンを選んだのである。ニーナは
トレープレフの理屈の勝った演劇理論に共鳴することはできなかったし、
彼と共に〈彼の夢〉を実現する気もなかった。トレープレフはニーナに自
分の夢を託したが、その〈夢〉は相手の正体を見定めることのできなかっ
た愚かな男の妄想と化してしまった。未来の才能のある若者は、現に社会
的名声を博している既成の作家よりもはるかに強烈な光を発していなけれ
ばならない。ニーナは〈未来の才能ある若者〉トレープレフよりも、トリ
ゴーリンの方に強烈な、魅惑的なオーラを感じてしまっている。ニーナは
冷徹な審判者としてトリゴーリンに勝利の旗を挙げている。トレープレフ
に勝利の女神が微笑むためには、〈可愛い魔女〉ニーナを即座に捨て去る
冷酷さが必要である。トリゴーリンを選んだ〈可愛い魔女〉の、その浅薄
さを笑いのめし、踏みにじるだけの自信がなければ、トレープレフに勝利
の道は開けない。トレープレフは母親のアルカージナがよく了承していた
ように、傷つきやすいナイーヴな青年で、己の才能を過信しているが、同
時にそれは極度の不安の上に成り立っていた。トレープレフが自殺未遂し
た時、アルカージナはその原因をトリゴーリンに対する〈嫉妬〉とみなし
た。本当に自信のある者は嫉妬などしない。嫉妬の感情がわき上がったそ
の時点ですでに敗北である。トレープレフはソーリンに聞かれて、トリゴ
ーリンを「あれは、頭のいい、さばさばした、それにちょいとその、メラ
ンコリックな男ですよ。なかなか立派な人物でさ。まだ四十には間がある
のに、その名は天下にとどろいて、何から何まで結構ずくめの御身分だ」
と言っていた。しかしこの言葉は決してトリゴーリンを褒めたたえている
のではない。ここにはトリゴーリンに対する極度に押し込んだ悪意や嫉妬
の感情がのぞいている。母親の愛人であるトリゴーリンを素直に認めるほ
ど、トレープレフはお人好しではない。2006年7月17日(月曜)
若い才能のある者が同時代を生きる先行者の作品を正当に評価することは
極めて困難である。ライバル心や嫉妬が常につきまとうからである。トレ
ープレフは先の言葉に続けて「書くものはどうかと言うと……さあ、なん
と言ったらいいかな? 人好きのする才筆じゃあるけれど……が、しかし
……トルストイやゾラが出たあと、トリゴーリンを読む気にゃどうもね」
と言っている。トレープレフはどんなことがあってもトリゴーリンの才能
やその作品を素直に肯定することはないだろう。アルカージナに言わせれ
ば、息子のトレープレフは「わがままな、自惚れの強い子」なのである。
アルカージナとトレープレフが顔を突き合わせるたびに口喧嘩してしまう
のも、トリゴーリンの存在が大きい。トレープレフにとってトリゴーリン
は自分の母親を奪い取った張本人であり、同時に彼の唯一の〈夢〉であっ
たニーナの魂をも魅了してしまった憎っくき伊達男である。ニーナを奪わ
れ絶望にかられたトレープレフは自殺をはかるが、幸か不幸か未遂に終わ
る。憤懣やるかたなくトリゴーリンに決闘を申し込めば、相手は卑怯にも
脱走を企てる。未だ母親に甘えたい気持のあるトレープレフではあるが、
肝心のアルカージナはトリゴーリンを〈人格の高い立派な人〉と見なし、
自分の前で尊敬するトリゴーリンの悪口は謹んでくれと釘をさす。トレー
プレフはついに我慢がならず「お母さんは、僕にまであの男を天才だと思
わせたいんでしょうが、僕は嘘がつけないもんで失礼・・あいつの作品に
ゃ虫酸が走りますよ」と言ってしまう。売り言葉に買い言葉、気の強いア
ルカージナも黙ってはいない・・「それが妬みというものよ。才能のない
くせに野心ばかりある人にゃ、ほんものの天才をこきおろすほかに道はな
いからね。結構なお慰みですよ!」と。この後も実の母と子とは思えない
ほどの凄まじい言葉のやりとりが展開される。トレープレフはアルカージ
ナやトリゴーリンは〈古い殻をかぶった連中〉であるとして「自分たちの
することだけが正しい、本物だと極めこんで、あとのものを迫害し窒息さ
せるんだ! そんなもの、誰が認めてやるもんか!」と怒鳴る。しばし二
人のやりとりを見てみよう。
アルカージナ デカダン!……
トレープレフ さっさと古巣の劇場へ行って、気の抜けたやくざ芝居に
でも出るがいいや!
アルカージナ 憚りながら、そんな芝居に出たことはありませんよ。わ
たしには構わないどくれ! お前こそ、やくざな茶番ひとつ書けないくせ
に。キーエフの町人! 居候!
トレープレフ けちんぼ!
アルカージナ 宿なし!
トレープレフは実の母親から〈デカダン〉〈居候〉〈宿なし〉と罵られ
ている。トレープレフは二十五歳である。既に経済的にも自立していてい
い歳であり、少なくとも母親に甘えて〈居候〉していていい歳ではない。
もちろんトレープレフは誰に言われるまでもなく、そのことをよく承知し
ていて、不断にプライドが傷つけられている。こういったナイーヴな点を
伯父のソーリンはよく理解していて、トレープレフの自殺未遂の原因につ
いて次のように語っていた・・「若盛りの頭のある男が、草ぶかい田舎ぐ
らしをしていて、金もなければ地位もなく、未来の望みもないと来てるん
だからな。なんにもすることがない。そのぶらぶら暮らしが、恥かしくも
あり空怖ろしくもあるんだな。わたしはあの子が可愛いくてならんし、あ
れの方でもわたしに懐いてくれるが、だがやっぱり早い話が、あれは自分
がこの家の余計もんだ、居候だ、食客だという気がするんだ。論より証拠、
だいいち自尊心がな……」と。

https://www.shimi-masa.com/?p=351


清水正のチェーホフ論 | 清水 正研究室
https://www.shimi-masa.com/?cat=5



9:777 :

2022/05/23 (Mon) 06:40:52

チェーホフの『かもめ』における ニーナとトレープレフの運命
内 田 健 介
はじめに

アントン・チェーホフの戯曲『かもめ』は、その題名として用いられているカモメが2 人の主人公が歩む未来の象徴になっている。自らが猟銃で撃ち落としたカモメのように最 終的に拳銃自殺を遂げるトレープレフ、そしてそのトレープレフが撃ち落としたカモメを 短編の題材として思いついた物語、男に騙されてカモメのように不幸になるという短編を なぞるように不幸を経験するニーナである。 第1幕において恋人同士だったトレープレフとニーナは、トレープレフの母である女優 アルカージナとその恋人である作家トリゴーリンに翻弄され、互いの生き方を変えられて いく。作家としての名声を得ているトリゴーリンに惹かれたニーナはトレープレフの元を 離れ、トレープレフはニーナを奪われたショックなどから自殺未遂を引き起こす。その 後、ニーナはトリゴーリンを追ってモスクワに旅立ち女優になるという夢を叶え、2年が 経過した第4幕ではトレープレフも小説家としての夢を叶えている。 こうして作家志望と女優志望という立場から、作家と女優という立場で2人は最後の場 面で再会する。だが、2人の関係は再び元通りの恋人同士になるのではなく、ニーナはト レープレフを残して地方回りの女優として生きるために去っていく。そして、ニーナを見 送ったトレープレフが自殺し、『かもめ』は幕を閉じる。 互いに女優と小説家という夢を叶えた2人だが、ニーナは女優としては落ちぶれながら も耐え忍び生きることを選択するのに対し、トレープレフはトリゴーリンと同じ雑誌に掲 載されるほどの小説家になったにもかかわらず死を選択してしまう。象徴としてのカモメ に抵抗して生きるニーナと、象徴としてのカモメのように自殺するトレープレフ。これが 『かもめ』の結末である。 この2人の結末の差はいったい何が原因で生じたのか、この点について登場人物たちが 持っている「属性」 1 に着目することを一つの糸口としてこれまで様々な角度から論じられ てきた『かもめ』を新たに読み解いてみたい 2 。


1.トレープレフとニーナにおける家族という属性

『かもめ』の登場人物たちは、様々な属性を有している。例えばトレープレフはニーナ との関係においては「男」であり、アルカージナとの関係においては「息子」として存在 している。さらに彼はこうした人間関係によって生じる属性以外にも職業としての属性、 つまり「劇作家」という夢を登場時に持っており、第四幕に至ると実際に作家として活動 を開始している。こうした複層的な属性を『かもめ』の登場人物たちは持っており、さら にその属性に対してそれぞれが異なった価値観を持っている。 幕開きの時点で恋人同士であるトレープレフとニーナの家族という属性にまず注目する と、2人が似たような境遇にあることが分かる。その一つ目の特徴が、2人とも片親を亡 くしているという点である。トレープレフは父親を、ニーナは母親を亡くしており、その どちらの親も相手が死んだあとに新しい関係性を築いている。アルカージナはトリゴーリ ンと内縁の関係にあり、ニーナの父親は再婚している。 こうした環境のためかトレープレフとニーナは、自分たちの親に対して強い感情を抱い ている。浦雅春氏はトレープレフのアルカージナに対する態度について「母親に寄せるト レープレフの愛情は尋常ではない」 3 と指摘しているが、それは彼が最後に語る台詞に端 的に現われている。ニーナが去った後、これから拳銃自殺をしようとするトレープレフ は「もし誰かが庭でニーナに会ってママに言うと良くないな。ママを悲しませるだろうか ら…」 4 と今しがた去っていったかつての恋人ではなく、最後に母親のことを気にかけなが ら死を選ぶのである。 トレープレフの母親アルカージナに対する愛情は、その彼の登場する場面から既に始 まっている。伯父ソーリンと現われたトレープレフが最初に口にするのは、やはり母親に ついてである。「確かな才能があり、賢くて、本を読んですすり泣くこともできる。ネク ラーソフの詩をどこからだって暗誦できる。病人を看病させれば天使のようだ」 5 と彼女の 才能を認め、「僕は母を愛している、強く愛している」 6 とアルカージナへの愛を語り始め る。そして、彼は花占いで恋人のニーナとではなく、母親アルカージナとの関係を占うの である。 しかし、こうした愛情を示す一方で、トレープレフはスポットライトを浴びていなけれ ば我慢できないような母親の性格や、金を貯め込む蓄財癖を非難し始める。そして、彼は 母親にトリゴーリンという小説家の愛人がいることに対して強い嫌悪感を抱いていること を語り始める。彼は母親の才能は認めるものの、有名な女優であることや未だに恋をする 女であることに耐えられないのである。この初めてトレープレフが登場する場面ですでに 彼がアルカージナの持つ属性に対してどういった態度を取っているのか簡潔に示されてい る。トレープレフはアルカージナに「女優」という職業や愛人を持つ「女性」としてでは なく、「母親」としてのアルカージナを一番に求めているのである。トレープレフは「ぼ くの母は有名な女優だけど、もし母が普通の女性だったら僕はもっと幸せだったんじゃな いかって思うよ」 7 と語るが、まさにこれが彼の本心を示していると言えるだろう。


こうした背景を踏まえて考えると、トレープレフが新しい形式を求め、アルカージナが 女優として生きる舞台を旧時代と批判するのは、新しい形式を用いた作家になりたいとい う欲求だけでなく、彼女に母親として生きて欲しいという別の欲求も含まれているように 思われる。 母親に強い愛情を抱くトレープレフに対し、その恋人であるニーナは家族に対してどの ような態度を取っているのであろうか。ところが、彼女の家族は舞台上には登場せず、他 の登場人物たちの会話の中でその存在が示されるのみである。ニーナの父親について登場 人物の一人医師ドールンは悪党だと罵るが、その理由は男がニーナの母親が死んだあとに 新しい女性と結婚し財産を新しい妻に全て相続させてニーナから全てを奪い取ったためで ある。こうして新しい妻を得た父親は死んだ前妻の娘であるニーナの存在を疎ましく感じ ている。しかしながら、こうした父親に対してニーナが憎しみや怒りといったような感情 を抱いているわけではない。第一幕の劇中劇が終わって帰る際に彼女は「私をパパが待っ ているから」 8 と言って去っていく。また、第三幕ではトリゴーリンに対し女優になる決意 を語る場面でニーナは「明日になればもうここにはいません。父親の元を離れて、新しい 生活を始めます」 9 とわざわざ父親の元を離れるという言葉を使っている。こうした台詞は 彼女にとって父親の存在が大きなものであることを示している。トレープレフは母アル カージナに対して女優や女としてではなく母親としての存在を求めていたが、ニーナも同 じように父親に対し新しい妻を娶った男としてではなく自らの父親としての存在を求めて いるのかもしれない。 また、先ほど指摘したようにニーナの父親は舞台に登場しないが、他にも舞台に登場し ないトレープレフとニーナの家族が存在する。それが、既に死んだトレープレフの父親と ニーナの母親である。シェイクスピアの『ハムレット』では父親が亡霊となって息子の前 に登場するが、彼らの親は亡霊として現われることはない。しかし、トレープレフとニー ナの亡き親は、その死後も亡霊のように大きな影響を子供たちに与えている。 まずニーナが父親に財産を奪われるきっかけを作ったのは、死んだ彼女の母親である。 彼女が自分の財産を全て夫に相続させなければ、その財産はニーナに渡るはずであった 10 。 ところが、彼女は娘のニーナを相続人として選ばず、夫を相続人として選んだのである。 そして、その財産を受け取ったニーナの父親は、正当な相続人の娘ではなく新しい妻に渡 そうと考えている。もしニーナの母親がこのような遺言を残さなければ、財産は全てニー ナに渡るはずであった。現在置かれている彼女の複雑な状況の原因を作ったのは死んだ母 親なのである。 第二幕のトリゴーリンとの会話の中で、ニーナは湖の向こうにある自分の家を「あれが 亡くなった母の屋敷です」 11 と回りくどい表現をする。通常、自分の家という表現する部分 を彼女はわざわざ「死んだ母親の屋敷」という言葉を使うのである。恐らく、その家は自 分のものではないことを彼女が強調しているのだと考えられる部分である。浦氏はチェー ホフ作品に描かれた家について「チェーホフの「家」は決して単純なる「家」ではない。 (中略)異質性、コミュニケーションの不在を顕在化させる場」 12 であると述べているが、舞台上には登場しないニーナの家もまさに異質性やコミュニケーションの不在を顕在化さ せる場なのである。 一方、トレープレフもニーナと同じように、亡くなった父親から強い影響を受けてい る。それが彼の持つ属性の一つ「階級」である。トレープレフは父親について「そりゃ僕 の父は有名な役者だったとはいえ、キエフの町人なんだ」 13 と、貴族よりも低い身分である ことを語っている。ロシアでは父親の身分を引き継ぐため、トレープレフも父親と同じく 町人階級である。それに対し、母親のアルカージナは貴族階級であり、2人は血の繋がっ た親子でありながら所有する「階級」が異なっている。この身分の差はトレープレフのコ ンプレックスの原因の一つとなっており、彼は自分が有名な女優の息子としてしか周囲に 見られないことに苛立ちを感じている。 ニーナは母親から与えられるはずの遺産を受け継ぐことができず、トレープレフは母よ りも低い身分を父親から受け継いでしまった。2人は片親を亡くしたという境遇だけでな く、その既にこの世を去った親から不利益を被っているという共通点も持っているのであ る。彼らが残された親に対して執着するのは、自らが疎外されている家族という関係を修 復しようとするためだと考えられる。


2.親から見た子供たちの存在

トレープレフとニーナにとって残された親は大きなものであるが、対する親側からみた 子供の存在は作品の中でどのように扱われているのであろうか。ニーナの父親については 若い妻と結婚後、前妻の娘であるニーナを邪魔者扱いし、財産を全て奪っているように全 くと言っていいほど娘に対して愛情を注いでいないことは明らかである。 そして、トレープレフの母であるアルカージナが息子に対してどのような態度を取って いるのかに注目すると、彼女もニーナの父親ほどではないものの息子に対する愛情は薄い ことが分かる。そうした態度がはっきりと現れているのが、トレープレフの作った劇に対 するアルカージナの態度である。彼女はトレープレフの劇が始まるとすぐに口を挟み始 め、劇が進行中にもかかわらず演出や脚本に文句を付けてヤジを飛ばし、最終的に怒った トレープレフは劇を途中で中断しその場を立ち去ってしまう。常識的に考えれば、息子の 自作の劇を披露しようとしたことに対して、母親が野次を飛ばして妨害するのは異常な行 動である。それでは、なぜアルカージナは息子の劇に対して妨害としか思えないような行 為を取ったのであろうか。その背景には彼女が持つ「女優」という属性が大きく関わって いる。 それはトレープレフが言うような女優として舞台に立っているニーナに対しての嫉妬で はない。これは彼女による批判が全て演出に対するものであり、ニーナの演技に対してで はないことから判断できる。このとき明らかに彼女の敵意はニーナではなくトレープレフ に向いているのである。トレープレフが披露した劇はアルカージナがデカダンだと言うよ うに彼女が所属している舞台の世界を旧時代のものとして真っ向から否定し、新しい形式を求めた作品である。その自分の女優として生きる世界に対する挑戦が、例え息子であっ たとしても彼女は許せなかったのである。 トレープレフがアルカージナに対して「母親」としての存在を強く求めていることを先 ほど指摘したが、アルカージナにとって「母親」という属性は他の「女優」や「女性」と しての属性よりも優先順位が低いものとして扱われている。それは劇中の彼女の関心と行 動の推移によって示されている。第一幕の劇中劇が中断されたあと、アルカージナはまず 上演された劇に対する批判を始める。ここで、ドールンが冗談交じりに「ジュピターよ。 汝は怒れり…」 14 と言うと、アルカージナは怒って「私は女です」と答える。ここから「女 性」としてのアルカージナの語りが始まり、湖の向こうから聞こえる音楽をきっかけに過 去のロマンスを周りに語り始める。彼女が舞台を中断して立ち去った息子を「母親」とい う立場で気にかけるのはこの舞台と恋の話が終わってからである。 これは第二幕の冒頭でも繰り返されている。第二幕の幕開けは次のようになっている。 最初にアルカージナはドールンに自分とマーシャのどちらの方が若く見えるのかとドール ンに質問する。このときのドールンの本心は定かではないが、彼はアルカージナの方が若 く見えると答える。すると上機嫌になったアルカージナは、その原因が女優として働いて いるためだとマーシャに働くことの重要性を説き始める。その後、持っていた本を読み始 めたアルカージナは、女優と小説家の恋を書いた小説に触発されて、トリゴーリンと自分 の関係についての話を始める。ここでも彼女の関心は、女優としての自分、恋をしている 自分の順番で流れていき、ようやく彼女が息子トレープレフのことを話題にするのは、そ の本を閉じた後である。演劇作品では小説とは異なり物語の書かれた文章を戻って読むこ とはできないため、時間の流れが重要な意味を持っている。チェーホフはアルカージナが 女優、恋愛、家族といった順番で関心を推移させていくことで、彼女が自分の持つ属性を どのような順番で重要視しているかを示しているのだと考えられる。 このように母親としての属性を求めるトレープレフと、女優として女性として生きるこ とを重要だと考えるアルカージナの2人は決して分かりあうことができない。劇中の彼ら の噛み合わない会話には、2人の属性に対する価値観の隔たりが背景にあるのである。 そして、劇中においてこの母と子の会話は第二幕では一切なく、第一幕と第四幕の会話 もわずかしかない。2人の会話は親子が2人きりになる第三幕の包帯を替える場面に集中 している。アルカージナと2人きりになったトレープレフが母親に対して包帯を新しくし て欲しいと頼むと、彼女はその頼みを聞き入れて新しい包帯を息子の頭に巻き始める。こ の場面でトレープレフは母親に包帯を替えてもらいながら、かつて家族で一緒に住んでい た頃の話を始める。しかし、2人の記憶は噛み合わない。トレープレフが覚えているのは 当時の優しかった母の思い出だが、当人のアルカージナは全く覚えておらず、彼女の記憶 にあったのは自分と同じ劇場に上がるバレリーナのことだけである。やはり、古い記憶の 中でもトレープレフは母親として、アルカージナは女優としての記憶を持っている。 ここでトレープレフが頭に巻いている包帯は、第二幕と第三幕のあいだに自殺未遂を起 こしたことを示している。この自殺未遂について「母親の愛情をつなぎ止めようとするだだっ子の甘えの行動とも取れる」 と浦氏は述べているが、この場面の2人のやり取りはこ の指摘を証明するものとなっている。 包帯を巻く母親に対しトレープレフは「近頃、あの子供の頃のようにママをたまらなく 愛しているんだ。ママ以外、僕にはもう誰もいない」 16 と語りかける。第一幕での劇中劇で の失敗からニーナの心はトレープレフから離れ、小説家として活躍しているトリゴーリン の方へ向いてしまった。彼はニーナをトリゴーリンに奪われたことで男としても作家とし ても負けたのである。そのため、彼に唯一残された立場は、「息子」という属性だけであ る。トレープレフの「ママ以外、僕にはもう誰もいない」という言葉は、まさに彼が「作 家」としての属性と「男性」としての属性を失い、息子としての属性に拠り所を見出して いることを示している。だがしかしアルカージナにとって「母親」という属性はここまで 見てきたように他の属性よりも低い位置を占めている。そのためトレープレフがトリゴー リンに対する非難を口にしたとたん彼女の態度は豹変し、2人は言い争いを始めてしまう。 結局、トレープレフが求める「母親」としてのアルカージナと実際のアルカージナの生き 方には大きな隔たりが存在しているため重なりあう部分は無く、2人の争いはトレープレ フの涙によって幕が降りる。彼は「自分が何者なのか」という問いを発しているが、彼は 男にも劇作家にもなれず、息子であることすらできなかったのである。

3.定められた属性によって人生の喪服を着るマーシャ

『かもめ』にはニーナとトレープレフ以外にも、数多くの重要な役割を持った人物が登 場する。その一人がいつも黒い服を着たマーシャである。彼女には父親シャムラーエフと 母親ポリーナという家族が存在し、そのため「娘」という属性をマーシャは有している。 トレープレフやニーナにとって家族の中の「子供」であることは大きな意味を持っていた が、マーシャにとって「家族」は逆に嫌悪する対象となっている。母のポリーナは夫シャ ムラーエフを愛しておらず、医師ドールンを愛しており既に夫婦関係は崩壊している。そ うした冷め切った夫婦関係を示すように、舞台上で2人が会話を交わす場面は、劇全体を 通して一度も存在していない。また、マーシャも母と同じように父親を愛しておらず、第 一幕の終わりでドールンに恋の相談するさいに「私は自分の父が好きではありません」 17 と 口にしている。 このマーシャを愛しているのが教師のメドヴェジェンコである。『かもめ』はメドヴェ ジェンコのマーシャに対する愛の告白から始まっている。しかし、第一幕の終わりでドー ルンに告白しているように彼女はトレープレフを愛しているため、メドヴェジェンコの告 白に答えようとはしない。 ロシアのチェーホフ研究者パペルヌイはメドヴェジェンコとトレープレフを正反対の 人物として捉え、「トレープレフにとって人生が夢であるとすれば、メドヴェジェンコに とっての人生とはひとかけらのパンに心を砕くことだ」 18 と述べている。確かに作家という 希望を持ったトレープレフと生活のことに愚痴をこぼしてばかりのメドヴェジェンコでは、天秤にかけるまでも無いことであろう。 マーシャにとってメドヴェジェンコの結婚の申し込みは苦痛でしかない。自分自身の家 庭が崩壊しているマーシャにとって、新しい家庭を作る結婚という行為は望んでいなかっ たはずだからである。そうしたマーシャにメドヴェジェンコは「あなたは健康だし、お父 さんだって大金持ちではないけれど十分な暮らしだ」 19 と彼女が嫌う父を話題に出してし まっている。 また、メドヴェジェンコはマーシャが人生の喪服として黒い服を着ていることを理解し ようともしない。パペルヌイはトレープレフとメドヴェジェンコにとっての人生が対極で あることを指摘していたが、マーシャにとって人生とは彼女の喪服が示すように既に死ん でいるのである。なぜなら、彼女は作家を目指すトレープレフや女優を志すニーナのよう な夢や希望を持っていない。彼女は学校に行っているわけでも、働いているわけでもない ためである。第二幕の冒頭で彼女はアルカージナに働くことの重要性を説かれるが、彼女 は働こうにもその可能性を最初から有していない。池田健太郎氏はマーシャを『ワーニャ 伯父さん』のエレーナと同様に無為な女性と考えているが 20 、女学校に通っていたエレーナ と田舎でそうした機会も無く生きているマーシャを同じように考えるのは明らかに誤って いる。マーシャに残された道とは、誰かと結婚することぐらいなのである。つまり、メド ヴェジェンコの結婚の申し込みは、彼女に選択の余地の無い残酷な未来を突きつけている も同然と言える。 ところが、最終的にマーシャはメドヴェジェンコとの結婚を選択してしまう。彼女は母 親ポリーナと同じく、愛情の無い結婚をするという過ちを繰り返すのである。第三幕から 2年の月日が経過した第四幕では、結婚したマーシャとメドヴェジェンコのあいだに子供 が生まれている。しかし、2人の関係は2年前と全く変わっておらず、夫婦関係が順調で ないことは、最初に繰り広げられる会話が2年前とほぼ変わっていないのを見れば明らか である。マーシャはトレープレフへの恋心を、メドヴェジェンコとの結婚によって捨てら れると考えていたが、結局トレープレフに対する愛情を捨て切れず、かつてメドヴェジェ ンコがマーシャと会うために通った6キロの道をやって来ているのである。その後、彼女 は夫の転勤によってこの地を離れることでようやく自分の恋に決着を付けられると語って いるが、彼女の恋の決着はトレープレフの死によって訪れてしまった。 トレープレフは「息子」という家族の中での属性が得られないという苦しみを味わって いたが、マーシャは逆に「娘」から「妻」そして「母親」という属性から逃れられないと いう運命に苦しめられている。

4.『かもめ』における家族について

『かもめ』に登場する女性に注目すると、その全員が母親という属性を有していること に気がつかされる。アルカージナがトレープレフの母親であることはもちろんのこと、ポ リーナもマーシャの母親である。その娘マーシャも第四幕では子供が生まれ、母親としての役割を得ている。そして、ニーナも女優を目指して旅立ったあと、トリゴーリンとの間 に子供が産まれ母親となっている。アルカージナ、ポリーナ、マーシャ、ニーナ、この 『かもめ』に登場する4人の女性は必ず一度は母親になっているのである。 ところが、彼女たちの行動に着目すると、共通して母親としての立場を重要視していな いことが分かる。アルカージナについてはこれまで論じてきた通りで、息子トレープレフ よりも女優としての生活やトリゴーリンとの関係の方が重要である。この特徴はポリーナ とマーシャについても当てはまる。ポリーナは家庭よりもドールンとの関係を、マーシャ もメドヴェジェンコと結婚したにもかかわらずトレープレフとの関係を家庭よりも重要に 考えている。彼女たちは生物学的には「母親」という属性を得るのだが、母親という属性 よりも別の属性を優先して考えているのである。堀江氏や浦氏はチェーホフ作品には父親 の存在が欠けていると指摘しているが 21 、『かもめ』では指摘されているような父親の存在 が希薄なだけでなく、母親としての役割を果たしている人物がいないと言えるだろう。 そして、その母親よりも女性としての立場を重要視する『かもめ』の女性たちが愛情を 抱く相手の男性たちにも一つの共通点を有している。ポリーナの愛するドールン、マー シャの愛するトレープレフ、アルカージナとニーナが愛するトリゴーリン、その全員が家 庭とは無縁な男という点である。逆に、夫として家庭を持つシャムラーエフとメドヴェ ジェンコは誰からも愛されていない。 また、アルカージナと家族関係にあるトレープレフだけでなく、兄のソーリンも孤独な 存在である。大臣としての職をまっとうしたソーリンだが、本当にやりたかったことは何 一つ実現せず、田舎で「なりたかった男」として一生を終えようとしている。『かもめ』 における男性たちは、劇中家族関係のあいだでは他の人物から話を聞いてもらえない。 チェーホフ劇に特徴的な噛み合わない会話だが、その多くは彼ら孤独な男性たちによる台 詞である。

5.トレープレフとニーナが迎える結末

『かもめ』では第三幕と最終幕となる第四幕のあいだに2年の時間が経過し、その舞台 上では見ることのできない時間でマーシャとメドヴェジェンコの結婚など様々な出来事が 起こっている。そして、ニーナとトレープレフは女優と小説家という夢を実現させ、2年 前とは違った立場で再会する。だが、2人が迎える結末はあまりに異なったものである。 トレープレフが拳銃自殺するのに対し、ニーナは女優としては落ちぶれながらも耐え忍び 生き続けることを選択する。 『かもめ』では第四幕に至るまでにトレープレフとニーナはそれぞれの運命が「カモメ」 によって象徴されていた。トレープレフは第二幕で「カモメ」を撃ち落とし、いつの日か その「カモメ」のように自分を撃ち殺すだろうとニーナに語る。そして、彼はその通り拳 銃自殺を遂げてしまう。一方、ニーナはその「カモメ」をヒントにしてトリゴーリンが思 いつく物語、若い女性がこの撃ち落とされた「カモメ」のように男に破滅させられるという物語によって運命が暗示され、実際にそのトリゴーリン本人によって破滅させられてし まう。しかし、ニーナは最後にその「カモメ」に象徴された人生ではなく、「私は女優」 という言葉を残して旅立っていく。彼女は「カモメ」に象徴された破滅するという物語に 抵抗し、耐えて生き続けることを選択するのである。 また、トレープレフの自殺は彼が撃ち落とした「カモメ」だけではなく、ニーナが経験 した赤ん坊の死によっても重ねて暗示されている。ニーナは女優になるためにトリゴーリ ンを追ってモスクワに行き、そこでトリゴーリンとの赤ん坊を産んでいる。この彼女の軌 跡は、『かもめ』に登場する別の女性の軌跡と良く似ている。それがトレープレフの母ア ルカージナである。アルカージナがトレープレフを産んだのは、トレープレフが25歳で ありアルカージナが43歳あることから、18歳の時であることが分かる。ニーナはまさに この18歳の乙女として登場する。もしニーナとトリゴーリンのあいだに産まれた子供が モスクワに彼女が行った年に産まれたならば、18歳で子供を産んだアルカージナと重な るのである。そして、アルカージナはトレープレフの父親と正式な結婚をせずに子供を産 んだ可能性についてロシアのチェーホフ研究者ヴォルチケヴィチが指摘しているが 22 、これ はニーナとトリゴーリンにおいても同じように正式な婚姻関係は結ばれていなかったと考 えられる。こうした共通点から、ニーナの赤ん坊の死もトレープレフの死の暗示する一つ の出来事として考えることができる。 それでは、なぜニーナが耐え忍び生きることが可能だったのに、トレープレフは耐え忍 び生きることができずに自殺を選択したのであろうか。イギリスのロシア文学研究者のマ ガーシャクはトレープレフの自殺の原因を「ニーナが彼の愛に報いて救ってくれるという 最後の希望に破れて自殺する」 23 とニーナにその最終的な原因を求めているが、はたしてそ うなのであろうか。もしニーナを失ったことがトレープレフの自殺の根本的な原因である のならば、トリゴーリンにニーナを奪われた第三幕の自殺未遂は失敗に終わらず成功して いたはずである。 一方、トレープレフが起こした2度の自殺についてチェーホフ研究者のエルミーロフ は「最初の自殺は不幸な、かなわぬ恋のテーマに関連していた。二回目の自殺はすでに別 のテーマ――不幸な、かなわぬ才能のテーマ」 24 と違いを指摘している。つまり、トレープ レフの小説家としての才能とニーナの女優としての才能の差が、2人の結末を分けたとエ ルミーロフは考えているのである。しかしながら、地方回りをするような三流女優にまで 落ちぶれたニーナとトリゴーリンと肩を並べて同じ雑誌にまで掲載されるようになったト レープレフを比べた場合、才能を持っているのはニーナよりもトレープレフの方であるよ うに思われる。 むしろ問題は2人の才能ではなく、2人にとって女優と作家という夢の持っていた意味 に差があったことが最終的に2人の運命を分けた原因なのではないだろうか。2年の月日 はトレープレフとニーナに作家と女優という属性を与えたが、2人はそれ以外の属性を全 て失ってしまっている。物語が進む中でトレープレフはトリゴーリンに母アルカージナと 恋人ニーナを奪われたことで「息子」という属性と「男」としての属性を奪われてしまっている。一方のニーナもトリゴーリンを追ってモスクワに旅立ったあと男に棄てられ、ト リゴーリンとのあいだに産まれた子供も死んでしまっている。彼女も「女」そして「母 親」という属性を失っているのである。また、これは最終幕でも繰り返されている。第四 幕でアルカージナは作家となった息子トレープレフと再会するが、彼女はそのことにわず かばかりの関心も無く、夢を叶えた息子の作品を読んだことすらないことが明らかにされ る。そして彼女はトレープレフの弾く悲しげなワルツに耳を傾けようともしない。一方で 2年ぶりに故郷に帰って来たニーナについても、親たちが彼女を屋敷に近づかせないよう に計らっていることがトレープレフによって観客に知らされる。2人が親から愛されてい ないことが最終幕では再び示されている。そもそもかつて恋人を奪い子供まで産ませた男 を連れてくるアルカージナの配慮の無さは異常としかいいようがない。第四幕で再会する 彼らに残されたものは、作家と女優という職業的属性だけが残っているのみである。 トレープレフと再会したニーナは、自分が女優として生きていくことを信じ、その使命 を思えば人生も怖くはないと語りかける。女優以外の属性を失ったニーナだが、最後に 残った女優という立場が彼女を支え生き続けることを可能にしているのである。対するト レープレフはこの彼女の言葉を受けて「僕は何が自分の使命なのか分からないし、それを 信じることもできない」 25 と答える。つまり、トレープレフにとって作家という属性は彼を 支えることができなかったのである。チェーホフ研究者のベールドニコフはこのトレープ レフの言葉に対し、「自分の内部に復活の可能性をまったく見出せなかった」 26 と述べてい るが、この自己の内部という指摘は2人が得た女優と作家という属性が自分自身の存在に かかっているものであることに気が付かせてくれる。2人が失った家族の中での立場や男 や女という属性は、自分だけではなく他の誰かとの関係性によって生じるものである。そ れに対し、作家や女優という立場は他の誰かに左右されるものではなく、自分自身によっ て得ることができるものである。トレープレフは信念を語るニーナの言葉に対し、自分の ことが「何のために必要なのか、誰のために必要なのか分からない」 27 と答えているが、そ れを必要とすべきなのはトレープレフ自身なのである。ニーナとトレープレフの運命を最 終的に分けたものは、それぞれが作家と女優という属性を信じることができたかどうか だったのである。 実はこのことをトレープレフはニーナが部屋を訪れる前に自分で気が付いている。ロト 遊びをしていたアルカージナたちが食事に向かった後、トレープレフは自室で原稿を書き 始める。そこでトレープレフは小説を書くことについて「問題は形式が新しいか古いか じゃない。人は形式について何一つ考えずに、その魂から自由に流れ出るからこそ書くん だ」 28 と自分の内部から湧き上がるものに従って書けばいいということに気が付いているの である。しかしながら、この発見もトレープレフを自殺から救うことはできなかったこと になる。それゆえ、トレープレフが自殺を選択した理由を導き出すために、彼の湧き上が る源泉について目を向ける必要があるだろう。 自殺する直前、トレープレフは最初に指摘した通り、「もし誰かが庭でニーナに会って ママに言うと良くないな。ママを悲しませるだろうから…」 29 とつぶやき、原稿を破り捨て部屋から出ていく。死を決意した最後の瞬間に彼が口にしたのは、ニーナのことではなく 母アルカージナのことである。このトレープレフの最後の台詞はいくつかの疑問を呼び起 こす。なぜ彼は母親が悲しむと考えたのか、そして、母親を悲しませるものとはいったい 何なのかという疑問である。 一見すると、ここでトレープレフが母親を悲しませると考えているものは、自分がこれ から起こす自殺のことのようにも思える。しかし、トレープレフは自らの死が母親を悲し ませるとは考えていないはずである。なぜならば自分の存在が彼女にとって重要ではない ことは、これまでの経験によって明らかになっている。小説家になるという夢を叶え、ト リゴーリンと同じ雑誌に載るようになっても母親の態度はまったく変わらず、自分に対し て目を向けてくれることは全くなかった。今でも母親にとって重要なのは女優としての職 業やトリゴーリンの存在だけである。それゆえ、母親を悲しませるものは自らの死ではな く、台詞にあるニーナの存在だとトレープレフは考えていたのではないだろうか。2年前、 ニーナはアルカージナから愛人のトリゴーリンを奪い、その子供まで産んだ恋敵である。 そして、彼女がモスクワの舞台に立つことができたのは、トリゴーリンの後ろ盾があった ためであろう。これは女としても女優としてもアルカージナにとって大いなる屈辱だった に違いない。もし母がニーナが来ていたことを知れば、かつて味わった屈辱を再び思い出 させてしまうことになる。それこそがトレープレフの心配だったのではないだろうか。そ して、最後の最後まで母親について気にかけながら死ぬほど、トレープレフにとってアル カージナの存在は大きかったのである。 そもそも、トレープレフがなぜ劇作家を目指し、ニーナを主役にした舞台を披露しよう としたのかを考えると、それは女優である母親に認められるためであり、作家として愛人 のトリゴーリンよりも才能があることを示すためだったと考えられる。何より彼が作家と して初めての作品を披露したのは、一般の観客ではなく自分の母親に対してである。不可 思議なトレープレフの作った象徴的な劇も、その対象が自らを愛してくれない母親だと考 えればそこには彼が感じている孤独感に満たされている。 また、このトレープレフの舞台は、才能を認められるためだけではなく、新しい象徴的 な戯曲や演出によって新たな形式を古い演劇の代表者である母親に見せつけるという反抗 としての意味合いも持っている。父親の束縛から逃れるようにして舞台に立つニーナと女 優である母親に対して挑戦するトレープレフ、舞台はこの2人の若者の親に対する反抗な のである。ところが、トレープレフはアルカージナから浴びせられるヤジに耐えかねて、 ニーナが演じているにもかかわらず劇を中断してしまう。メドヴェジェンコは舞台が始ま る前のマーシャとの会話の中で、この舞台でトレープレフとニーナの魂が一つに溶け合う のだと語っているが、トレープレフは自らの手でその機会を壊してしまったのである。そ して、自らの初舞台を途中で止められてしまったニーナは、このときトレープレフにとっ て自分よりも母親の存在の方が重要であることに気が付いたに違いない。ニーナのトレー プレフに対する恋心が一瞬で冷めきったのは当然である。 このようにトレープレフの作家としての夢は、その出発点から母アルカージナやその愛人トリゴーリンと関わっている。多少うがった見方だが、彼が劇作家ではなく小説家とわ ずかな方向転換をして表現媒体を変えているのは、一度失ったニーナとアルカージナの目 を再び自分に向けさせようという意図が彼の心の中にあったためと考えることもできる。 彼の夢であったもの、そして現実に手に入れた作家という属性は独立したものではなく他 の属性に依存したものなのである。 それに対し、ニーナがかつて夢見ていた、そしてこれからも歩み続ける女優の道は彼女 自身が選んだものであり、誰かのためのものではない。家族のもとを離れて一人で生きて いくために自ら選んだ道である。彼女は第二幕でトリゴーリンに対して芸術家の使命を語 り、第四幕ではトレープレフに対して女優としての使命やあるべき姿を語る。それは、誰 のためでもなく、自分自身のためである。最後のトレープレフとの会話で彼女は、自分が 女優として失敗を繰り返し満足できなかった時期について悲壮な様子で語り続ける。彼女 の「私はかもめ。いいえ、私は女優」 30 という台詞からは、彼女がトリゴーリンの小説の題 材という呪縛から逃れ、自分自身の道を進もうと必死にあがいていることが分かる。家族 から疎ましく思われ、男に捨てられ、子供にも死なれた彼女に残されたものは女優として の己だけなのである。 ニーナが自分自身の手で掴んだ女優という属性は彼女が耐え忍び生きる力を与えたのに 対し、息子や男としての立場に依存した彼の作家という属性はトレープレフが生き続ける ことを支える力を持っていなかった。トレープレフは最後の最後に、作家は形式など気に せず魂から流れ出るように自由に書けばいいと気が付くのだが、その流れ出る源泉はすで に枯れてしまっていたのである。母親は自分の小説を読みもせず、ニーナはトリゴーリン を変わらず愛していると言って去っていく。彼はもう息子としても男としてもいられない ことを再度突きつけられ、彼に残されたものは小説家としての存在だけである。それを必 要としているのは他の誰でもなくトレープレフ自身である。だが、小説家として生きよう とする信念が独立したものではないゆえに、トレープレフは生きる意味を見出すことがで きず死を選んでしまうのである。

結  論

トレープレフの自殺とニーナの旅立ちによって幕が降りる『かもめ』。そのトレープレ フとニーナの運命を分けた背景には2人が持つ様々な属性が大きく関わっていた。物語が 進むにつれ2人は所有していた属性を次第に失い、最後には女優と作家という立場しか残 されていない状況に追い込まれてしまう。しかし、この2人にとって最後に残ったこの属 性は、その根本の部分で大きく異なっている。ニーナにとって女優であることは生きてい くことそのものであり、女優としての存在を他の誰でもない自分自身が必要としているこ とで苦しみに耐え生き続けることを可能にしている。だが、トレープレフの作家という夢 は他の存在を求めるため、それ自体が単独で彼を支えることができなかった。それゆえ、 彼はニーナと違い作家という存在を自分自身に求めることができずに死を選択してしまうのである。 本論で明らかにしてきたような属性に対する視線やその関係性の活かし方は『かもめ』 においてのみ際立ったものである。『かもめ』以外の戯曲作品である『ワーニャ伯父さん』 や『三人姉妹』、また小説作品を見ても職業や階級、性別などの属性がテーマとして扱わ れることはあるものの『かもめ』において見られたような属性の活用は含まれてはいな い。この『かもめ』における属性の活用が、構想や創作段階において作者チェーホフが意 識的であったのかについては彼自身何も語っていないのではっきりとした結論を出すこと はできない。だが、夢を抱き共に一つの舞台を作り上げようとした若者に、生と死という 対極の結果を与えたこの『かもめ』の結末とそこに至る過程には、才能や人間の生き方に 対する作者チェーホフの考えが凝縮されていると言えるだろう。
10:777 :

2022/05/23 (Mon) 06:45:25

戯曲『かもめ (The Seagull)』日本語訳 1
http://www.ilaboyou.jp/text/text_seagull01.html
http://www.ilaboyou.jp/text/text_seagull02.html
http://www.ilaboyou.jp/text/text_seagull03.html
http://www.ilaboyou.jp/text/text_seagull04.html


登場人物

アルカージナ:大袈裟でわがままで、年齢を超越してる大女優

トレープレフ:神経質で自意識の強い作家志望のマザコン息子

ソーリン:気弱で病弱で死にそうで、失望している退職ジジイ

ニーナ:華やかな世界を夢見る女優志望の、せっかちな田舎娘

シャムラーエフ:ごうつく張りで頑固で芝居好きの農場経営者

ポニーナ:若き日のあこがれを諦めきれない、不埒なオバサン

マーシャ:黒服にウォッカを飲み、嗅ぎタバコをする陰気な女

トリゴーリン:実生活を知らず、優柔不断で自信ない流行作家

ドールン:遊びすぎた人生に不足を感じている、冷めた町医者

ドヴェジェンコ:貧乏で内気でいじけた、理屈っぽい学校教師


場所

森と湖のある避暑地の、ソーリンの屋敷。





11:777 :

2022/05/23 (Mon) 06:46:29

戯曲『かもめ (The Seagull)』日本語訳 2
https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/51860_41507.html


かもめ ЧАЙКА ――喜劇 四幕――
アントン・チェーホフ Anton Chekhov
神西清訳

人物
アルカージナ(イリーナ・ニコラーエヴナ) とつぎ先の姓はトレープレヴァ、女優
トレープレフ(コンスタンチン・ガヴリーロヴィチ) その息子、青年
ソーリン(ピョートル・ニコラーエヴィチ) アルカージナの兄
ニーナ(ミハイロヴナ・ザレーチナヤ) 若い処女、裕福な地主の娘
シャムラーエフ(イリヤー・アファナーシエヴィチ) 退職中尉
ちゅうい
、ソーリン家の支配人
ポリーナ(アンドレーエヴナ) その妻
マーシャ その娘
トリゴーリン(ボリース・アレクセーエヴィチ) 文士
ドールン(エヴゲーニイ・セルゲーエヴィチ) 医師
メドヴェージェンコ(セミョーン・セミョーノヴィチ) 教員
ヤーコフ 下男
料理人
小間使


底本:「かもめ・ワーニャ伯父さん」新潮文庫、新潮社
   1967(昭和42)年9月25日発行
   2004(平成16)年11月25日46刷改版
※楽譜は「世界文学大系46 チェーホフ」筑摩書房、1958(昭和33)年12月5日からとりました。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/51860_41507.html


▲△▽▼


チェーホフ作品集
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1155.html#sakuhin_list_1  

12:777 :

2022/05/30 (Mon) 15:19:01

上げ 8

  • 名前: E-mail(省略可):

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.