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スタジオジブリ 『火垂るの墓』 1988年 東宝

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2022/05/22 (Sun) 15:20:56

スタジオジブリ 『火垂るの墓』 1988年 東宝

動画
https://www.youtube.com/watch?v=a70_pcO-DCg


監督・脚本 高畑勲

原作 野坂昭如

音楽 間宮芳生

挿入歌 - 「埴生の宿」(原題「Home Sweet Home」)

配給 東宝 1988年4月16日


アニメ映画『火垂るの墓』(英題:Grave of the Fireflies)が、新潮社の製作で1988年(昭和63年)4月16日から東宝系で公開された。制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲。挿入歌としてアメリータ・ガリ=クルチの「埴生の宿(原題:Home, Sweet Home)」が使われた。

原作同様に清太の死が冒頭で描かれ、幽霊になった清太の「僕は死んだ」というナレーションから始まってカットバックしていき、神戸大空襲から清太が死地となる駅構内へ赴くまで原作の構成をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写(原作では清太が池で泳いでいる間に死んでいる)や、ラストで清太が去って行った後の山から見える景色が現代の神戸の街のシルエットに繋がる構成などはアニメオリジナルである。

作中で画面が赤くなる時は、清太と節子の幽霊が登場し近くで見ており、記憶を何度も繰り返し見つめていることを意味し、阿修羅のように赤く演出されている[9][注釈 3][注釈 4]。ただしアニメ絵本ではこの部分は大幅に省略され、ラストで現代の神戸の街を見ている2人が赤い状態の幽霊であることを示唆する場面があるのみである。アニメ絵本は概ね映画本編を忠実になぞっているが、唐突に出てきた台詞・行動・場面等の説明がなされている。

キャスト

公開当時、清太の声を担当した辰巳努は16歳1ヶ月、節子の声を担当した白石綾乃は5歳11ヶ月で、共に作品舞台と同じ関西地区の出身者である。清太、節子の母の声を担当した志乃原良子も大阪出身であり、他にも、同じ関西が舞台である高畑勲の作品『じゃりン子チエ』に出演経験のある山口や表淳夫も含めた関西出身の俳優が多数出演しており、本職のアニメ声優はほとんど起用されていない。


清太 声 - 辰巳努
本作の主人公。14歳(中学3年〔旧制〕)。
劇中で、通っていた神戸市立中〔旧制〕は空襲で全焼したことが清太により言及。家も焼け出され、母も死去し、幼い妹・節子と共に西宮の親戚の家に行くが、叔母と折り合いが悪くなり自由を求めて節子と共にその家を出る。衰弱する節子に食べ物を与えるため盗みをするなど必死になるが、栄養失調で節子を失い、1945年(昭和20年)9月21日夜、清太自身も三宮駅構内で栄養失調のため衰弱死した。同時に節子の遺骨が入ったドロップの缶は駅員に放り投げ出されていった。

アニメ映画では死の直前、意識が朦朧としても節子のことを考えていた。盗みを始めた理由についてアニメ絵本では節子が病気になりかかっているので「なんとかしなければならないと思ったため」という記述がある。


節子 声 - 白石綾乃
本作のヒロイン。4歳。清太の妹。
母の言葉や着物のことを覚えている。清太から母が亡くなったことは聞かされず、病院に入院していると誤魔化されていたが、中盤で、実は叔母から母が既に亡くなったことを聞き、知っていたことが判明する。

栄養失調から来る衰弱のため体に汗疹や疥癬ができ、髪には虱がつき、何日も下痢が続いていた。その影響で徐々に目も虚ろになり焦点もあっておらず、死の直前は清太の言葉もほとんど通じていなかった。この際、おはじきをドロップと思って舐めたり、石を御飯だと勘違いするほど思考力が落ちていた。

スイカを食べた後、目を覚ます事はなく息を引き取った。彼女の遺体は清太によって大事にしていた人形、財布等と共に荼毘に付され、遺骨はドロップの缶に納められた。

死因については、栄養失調や弱による死亡説のほか、冒頭の空襲で軍需工場の出火により有毒物質を含む黒煙の雨粒を体内に取り込んだためとする説がある。劇中で何度か「左眼が痛い」と発言しているのもそれに起因している。幼く免疫力が低かったことや栄養失調が重なったため、清太よりも早く死に至ったとする説である。ただしこの説は清太と節子の栄養状態が同一水準だった場合を前提としており、劇中には盗みに入った家で清太だけが盗み食いをする描写があるため、仮説の一つにとどまる。

ドロップが好きで、手持ちを全て食べつくし、衰弱し何を食べたいかを聞かれ最後に「またドロップ舐めたい」と語っていたが叶うことはなかった。アニメ絵本で清太は節子を荼毘に付す直前、「もう一度ドロップ舐めさせてあげたかった」と述壊している。

モデルは、戦時中に栄養失調で亡くなった原作者の妹である。

なお節子役を演じた白石は「節子と同年輩で関西弁の子役」という監督の要望で起用され、マネージャーから口伝えにセリフの指導を受けプレスコで収録を行った。

志乃原は白石について「本当にいい子でした」と述べている。また辰巳努は「あの子のおかげでだいぶやりやすかった。あの子の声やから、最後の節子が死にそうになるところで、思わず素直にセリフが出てしまったのかもしれません」と述べている。


清太・節子の母 声 - 志乃原良子
兄妹の母親。心臓が悪い(原作においては節子を出産した後に心臓病を患ったと説明されている)。

気立ての良い、上品な美人。2人より先に防空壕に行こうとしていた際に空襲に被災、全身に大火傷を負い重篤となる。包帯も取れない状態で、腕の一部が焼け蛆虫がついており、清太が駆けつける直前に昏睡状態に陥り、そのまま死亡。清太は節子に真実を話すことができず、「西宮の回生病院に入院している」ことにしている。

なお、アニメ映画では、清太は母の遺骨を納めた箱を叔母の家についた直後に庭に隠した。原作では棚の上の戸袋に隠し、中盤で母の死が節子に知れてからは、母の遺骨は布引町近くの春日野墓地に埋葬されていると節子に告げ、まだ防空壕の中にあるにもかかわらず清太はそういう希望を語っている。

清太が持っていた7,000円の貯金(現在のレートで1328万円)は「母がもしもの時のために銀行に預けてくれていたものである」と劇中では言及。

なお、清太が泥棒で捕まり、殴られた際に節子が清太にかけた言葉は、原作では「母の口調」とあり、アニメ絵本では「母が昔、節子が泣く度に言った台詞」と書かれている。母親の登場シーンは事実上、冒頭のみで後は回想シーンなどで登場する。

清太が回想した母と節子と海に行った場面は劇中では特に説明がないが、アニメ絵本や原作の記述によると1年前の出来事とされている。

清太・節子の父 兄妹の父親で海軍大尉。
戦争に出征しているため、劇中では写真と回想シーンでのみ登場する。

モデルは野坂の実父とされる。

清太は昔、父の観艦式を見たと言及しており、節子が生まれる前から、海軍にいたことが示唆されている。この観艦式は原作では1935年(昭和10年)10月となっている。

戦争に出征してからは清太が手紙を出しても連絡が着かなくなっていたが戦争終了後、父の乗った連合艦隊は全滅していたことが判明する。
なお、父が乗り込んだとされる高雄型重巡洋艦摩耶は1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦でフィリピンのパラワン水道において米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没している。ただし769名(士官47名、下士官兵722名)が救助されていることから、本当の生死は不明である。また、特にネットでは彼が摩耶の艦長であるとする言説が散見されるが、劇中でそのことを裏付ける内容は一切示されていない。


親戚の叔母さん 声 - 山口朱美
西宮在住。清太と節子を一時的に引き取る。
当初はうまくいっていたが、次第に諍いが絶えなくなる。
原作では「未亡人」「小母さん」と表記され、清太の父親の従弟が夫だった。

清太と節子を預かることは清太の言及によると約束になっていたようであり、叔母の言動から母も叔母の家に疎開する予定だった模様。

原作ではお互い空襲で家が焼けたら身を寄せ合う約束だったと記され、アニメ絵本でも、状況によっては叔母が清太達の家に疎開する可能性も示唆されている。

勝手に出て行ったのは清太達で叔母は直接的に追い出す言動は取っていないが、引き止めもせずにせいせいし、原作では、2人を疫病神と呼び、「横穴へ住んどったらええ」と言っている。

叔母さんの娘
女学生。三つ編みの清楚な風貌の少女。
節子に下駄をプレゼントする、母が自分達の食器にだけ米を盛り清太と節子には雑炊しか与えなかった際は居心地の悪そうな素振りを見せる描写がある。


叔母宅の下宿人
学生。眼鏡をかけた、真面目そうな青年。
劇中で名前は呼ばれておらず絵コンテ集で確認できる。
叔母に愛想を尽かされ庭で煮炊きする清太と節子を見て、気の毒がる素振りをするが、下宿人という立場からか積極的な擁護まではしなかった。

叔母の台詞では勤労奉仕に熱心に参加している模様。
原作では、家には娘と、商船学校在学中の息子・幸彦と、神戸税関に勤めている下宿人がおり、下宿人は闇の食料ルートに詳しく缶詰などを持ってきて、叔母の娘の気をひこうとしている。

賞歴

日本カトリック映画大賞
ブルーリボン特別賞
文化庁優秀映画
国際児童青少年映画センター賞
シカゴ国際児童映画祭・最優秀アニメーション映画賞を受賞。同映画祭の子供の権利部門第1位に選出。
第1回モスクワ児童青少年国際映画祭・グランプリを受賞。
英「Time Out」誌とクエンティン・タランティーノが選ぶ第二次世界大戦映画ベスト50の第10位を獲得[13]。
ハリウッド・リポーター選出の大人向けアニメ映画のベスト10において7位にランクインした。

製作の経緯

映画『火垂るの墓』は、1988年(昭和63年)の公開時、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』と同時上映されているが、先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった。そこで同時上映作品として高畑勲監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。

最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『キネマ旬報』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。

両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。東映動画でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であった。

結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の山本二三など旧知のベテランを集めた。

高畑は後年の回想で、近藤を獲得することが(人材面での)「最優先、いや絶対的な課題」であったと述べ、それ以外のメンバーについては自ら勧誘には動かなかったとしている。

当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び、結果的に長編2本の同時進行となった。

しかし、彩色の作業がどうしても公開までに完了しないことが判明する。
高畑は、大幅なカットで破綻させることなく観客の鑑賞に堪える方法を百瀬義行とともに検討し、「『演出意図』としての必然性が感じられれば、見る人に受け入れてもらえるのではないか」という「苦肉の策」で、1988年(昭和63年)4月の公開時点では清太が野菜泥棒をして捕まる場面などを色の付かない白味・線撮りの状態で上映することとなった。

これらの箇所は公開後も制作を続け、後に差し替えられている。
鈴木敏夫によると、公開が間に合わないという話になった際、高畑は同様に未完成版を公開したポール・グリモーの『王と鳥』(『やぶにらみの暴君』)のように未完成になった経緯の説明を冒頭に付けて公開する提案をして、鈴木がそれを断ると、2箇所彩色が抜けることを明かし、鈴木はその状態での公開を承諾したという。

わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年(平成3年)に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる(おもひでぽろぽろも本作と同じように過去の思い出しである)。


監督の意図

高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが(「決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」とも)、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。

高畑は、兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説し、特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたいと語っている。

また、「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べている。

時代描写

高畑勲のリアリズム志向により、1945年(昭和20年)当時の風景が忠実に再現された[注釈 11]。作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦「摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写することを求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった。

登場人物の会話は関西出身の俳優や声優を起用したネイティヴな関西弁である。「キイキ悪い(体調が悪い、病気の意)」、「(二本松の)ねき(脇、近くという意味)」などといった現在ではほとんど使われることがなくなった古い表現も、原作小説のままに使用されている。ただし、いわゆる神戸弁ではなく、大阪弁に近い言い回しに統一されている点が異なる。

反響・評価など


原作者の野坂は、映画公開前年に発表した文章「アニメ恐るべし」の中で、「いわゆるアニメの手法で飢えた子供の表情を描き得るものかと、危惧していたのだが、これはまったくぼくの無知のしるし、スケッチをみて、本当におどろいた。(中略)ぼくの舌ったらずな説明を、描き手、監督の想像力が正しく補って、ただ呆然とするばかりであった」とその緻密さに驚き、場所も含めたその描写によって自分が「眼をそむけつづけてきた」過去と「今は、少し正直に向き合っている」と記している。

『となりのトトロ』のような楽しいアニメを見ようと映画館を訪れ、楽しいトトロを見た後に『火垂るの墓』を見て、衝撃を受ける、涙が止まらない、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出したという。そのため、「上映の順番を逆にしてくれればよかったのに」という声も少なくなかった(一部映画館では、順番を入れ替えて上映されている館もあった)。

舞台となった西宮市の西宮回生病院、香櫨園浜・夙川駅・夙川公園、ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川などを、モデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある。


黒澤明は『火垂るの墓』を見て感動するが、宮崎駿監督の作品と勘違いしてしまい、宮崎に賞賛の手紙を送っている。受け取った宮崎は複雑な顔をしたという。ただ、一番好きだというわけではなく、最近の作品の中ではよかったということで褒めていたのだと、娘である黒澤和子が語っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93
2:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:21:59

野坂昭如 アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4101112037/asyuracom-22

火垂るの墓 Grave of the Fireflies

著者 野坂昭如

発行日 1967年10月

発行元 文藝春秋

『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説で、野坂自身の戦争体験を題材とした作品である。兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語。愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた2つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現している。

1967年(昭和42年)、雑誌『オール讀物』10月号に掲載され、同時期発表の『アメリカひじき』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はAlycia Davidson訳(英題: Grave of the Fireflies)をはじめ、各国で行われている。


作品構成・文体

文体は、関西弁の長所を生かした「饒舌体」の文体ながらも、無駄のない独特のものとなっている。

物語の構成は、冒頭にまず物語の結末部分が描かれ、駅構内で死んでいった主人公の少年の腹巻の中から発見されたドロップ缶を駅員が放り投げると、その拍子に蓋が開いて缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、蛍が点滅して飛び交う。そして、その骨が少年の妹の遺骨であることの説明から、カットバックで時間が神戸大空襲へ戻っていき、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる効果的な構成となっており、印象的で自然な流れとなっている。

作品背景

『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。

野坂は幼児期に生母と死別したのち、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子となったが、前述の神戸大空襲で住んでいた家は全焼。当時14歳だった野坂は1歳の義妹とともに西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せたり、あるいはその近くのニテコ池の南側に広がる谷間に10ヶ所ほどあった防空壕で過ごすなどの経験を実際にしている。

ただし、「空襲で父母をなくした」は詐称であり、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は大怪我をしながら生きており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だった。

野坂は戦中から戦後にかけて2人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかし西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6ヶ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない。

野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという。

西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している。

こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた。「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあった。「恵子」という名前を、『エロ事師たち』の主人公の義娘の名前に付けたのは、妹への思いがあったからだという。

野坂は妹の恵子について次のように述べている。


一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。

(中略)

ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。
— 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」

あらすじ

1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線(現在のJR東海道本線(通称・JR神戸線))三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。

太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区[注釈 1])に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。

最初のうちは順調だった共同生活も戦争が進むにつれて、2人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなっていった。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し、近くの満池谷町の貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始めるが[注釈 2]、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていった。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人となった人家から火事場泥棒し、時には見つかり殴られた上に派出所に突き出されながらも飢えをしのいだ。

ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太は、病院に連れていくも医者に「滋養を付けるしかない」と言われたため、銀行から貯金を下ろして食料の調達に走る最中に日本が降伏して戦争は終わったことを知った。清太は日本が敗戦し、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。

節子に食べ物を食べさせるものの既に手遅れで、節子は終戦から7日後の8月22日に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を去る。

その清太もまた栄養失調に侵されており、身寄りも無いため三ノ宮駅に寝起きする戦災孤児の1人として野垂れ死んだ。清太は他の2、30体の死体と共に荼毘に付され、無縁仏として納骨堂へ収められた。

その後物語の冒頭1945年(昭和20年)9月21日、鉄道構内で衰弱し霊的な存在となった清太は節子と再会し自分たちが生きていた頃を思い浮かべ見つめ続ける。それから2人は現代の時代まで成仏せずに迷い続けた。

直木賞の選評

『アメリカひじき』と一緒に受賞し、選考委員の評価は総じて高いもので、反対派はいなかった。

海音寺潮五郎は、「大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない」と評し、「後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう」と述べている。

水上勉は、「出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた」と述べ、松本清張は、「私の好みとしては『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』をとりたい。だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章は現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う」と評している。

川口松太郎は、「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている」とし、「野坂君が独特の文体の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ鬼に金棒だ」と助言をしている。

大佛次郎は、「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない」とし、「作りごとでない力が、底に横たわって手強い」と評している。

柴田錬三郎は、「さまざまの話題をマスコミにまきちらし乍ら、とにもかくにも、文壇へふみ込んで来たその雑草的な強さは、敬服にあたいする。私は、『火垂るの墓』に感動した。劇作者的文章が、悲惨な少年少女の最後を描いて、効果をあげたことは、われわれ実作者に深く考えさせるところがあった」と高い評価をしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93
3:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:22:56

岡田斗司夫ゼミ4月15日号「本当は10倍怖い『火垂るの墓』~アニメ界の怪物・高畑勲監督追悼特集」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=1YD51SO3s2k&vl=ja

岡田斗司夫「火垂るの墓」と「おおかみこどもの雨と雪」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8tyUTXjvjk8


____


岡田斗司夫 「火垂るの墓は兄が妹を殺した話。全然泣けない」
https://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/news/1385129967/


1 : ミッドナイトエクスプレス(新疆ウイグル自治区):2013/11/22(金) 23:19:27.72 ID:oeWwqQmxP ?PLT(12050)

岡田斗司夫
「その罪悪感から生きる気力をなくして兄も死んでしまったという話」
「見ててこれが分からない奴は国語のできないアホ」
http://www.youtube.com/watch?v=8tyUTXjvjk8

38 : スリーパーホールド(北海道):2013/11/23(土) 00:02:41.25 ID:h6jOrlJy0

野坂昭如「僕は清太ほどやさしくはなかった」
おまえら、これはファンタジーなんだよ


133 : パロスペシャル(千葉県):2013/11/23(土) 17:22:53.10 ID:ej18BQMy0

野坂クズすぎワロエナイ

・泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせた

・食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えなかった。
 妹は誰にも看取られることなく餓死している
4:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:23:29

火垂るの墓の清太は私だ 2018-04-22
https://www.rupannzasann.com/entry/2018/04/22/173813


先日、火垂るの墓の監督で知られる高畑勲監督がお亡くなりになられました。

その追悼という事で、岡田斗司夫さんが火垂るの墓についての解説動画を

Upされました。

その動画での解説内容が目からうろこだったので、

ご紹介します。
岡田斗司夫ゼミ4月15日号「本当は10倍怖い『火垂るの墓』~アニメ界の怪物・高畑勲監督追悼特集」
https://www.youtube.com/watch?v=1YD51SO3s2k


1時間近い動画ですが、1時間ずっと、「へ~、ほ~」と感心させられっぱなしでした。

一番意外だった点は、

高畑監督は、戦争の悲惨さを描きたいわけでも、

お涙ちょうだいな話を書きたいわけでもなく、

人のエゴについて考えさせられる文芸作品として

火垂るの墓を作ったという点です。

鑑賞後も思い出して、

あの場面はこういうことだったのではないだろうかと

ああでもない、こうでもないと考えさせられる映画を作りたかったのです。

トトロとの同時上映という事もあり、上映当時から高畑監督のその思いは、

あまり表に積極的には出されていませんでした。

その点を非常に分かりやすく解説している動画です。

この動画を見た後で、火垂るの墓を見てみたのですが、

一切泣かずに通してみることができました。

火垂るの墓を泣かずに見たいう話を聞いたら、

「こいつ、サイコパスかよ・・・・」と思うと思いますが、

本来は、泣かずに冷静に見るべき映画なのです。

むしろ高畑監督は、映画に感情移入して泣きながらの鑑賞ではなく、

一歩ひいて冷静な目で俯瞰で見てほしいと考えていたようです。

これは高畑監督の作品すべてに言える特徴です。

母を訪ねて3千里でも、よくよく見直してみると主人公マルコの

子ども特有の身勝手なイライラするわがままさがきちんと

描かれています。

母を訪ねて3千里を思い出してみても、そのような性格の悪さ

を思い出せないのは、宮崎駿の作画のうまさで

印象を良くしているからなのです。

今回は、その一歩ひいた感覚で見ることができました。

俯瞰で見る火垂るの墓

冒頭部分

感動しないで俯瞰で火垂るの墓を見た時に、チェックしてもらいたい点を

順に説明していきます。

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まず、冒頭で駅で死にかけている清太の場面ですが、

ここで、おにぎりをくれる女性がいます。

これは、戦中戦後の大変な時期が舞台ですが、

そのような時代でも親切な人は一定数いて、助けを求めれば

助けてもらえる可能性が十分にあるということを暗示しています。

つまり、清太が死につつあるのは、必ずしも時代のせいや戦争のせいではない

という事が分かります。

開始1分の冒頭にしてすでに、戦争のひどさをメインに

描いた映画ではないことが分かります。

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そしてその後、清太は死に絶えるわけですが、

おにぎりはなくなっています(笑)

誰かが持って行ってしまったわけですね。

これでまた、良い人ばかりの夢物語ではない、時代の厳しさを見せつけます。

清太以外にも死にかけている子供たちがいますし。

ただの子供向けのアニメとして作るなら、わざわざそんな後味の悪いことを

する必要がありません。

後味の悪いことをちりばめてあるのが、火垂るの墓です。

天才宮崎に対する、怪物高畑の異名がよく分かります。

戦争が激化するまでの清太と節子

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さて、話は母を空襲で無くし、西宮に疎開した話に飛びます。

ちなみに映画の2年前くらいがこの場面です。

もう太平洋戦争に突入している時代なのに、カルピスを飲み、

氷で冷やされた冷やしそうめんを食べています。

海軍将校の地位の父親を持つ家族なので、大変恵まれた家庭です。

そこでぬくぬくと育ったのが清太と節子です。

疎開して疎開先のおばさんと仲悪くなるまで

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疎開先の娘から、節子は下駄を買ってもらいます。

それについて、清太は会釈するだけで、

きちんと声に出してありがとうとは伝えません。

ここですでに、清太のいけ好かない感じが出始めます。

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同年代の子供や、疎開先の娘、下宿している青年が朝から

勤労動員に行ってタダ働きをさせられているのに、清太は家でゴロゴロしています。

せめて、おばさんの手伝いくらいすればいいのに、おばさんから嫌味を言われても、

謝りもしません。

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自分たちの食器も洗いません。今まで母親が全部やってくれていたのでしょう。

ここらへんから、本格的におばさんに疎開先のおばさんに嫌われ出します。

働かない

手伝わない

愛想無い

飯だけは人一倍食べる

ニート4原則丸出しです。

疎開先のおばさんに嫌われて

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戦時中というのに、陽気にオルガンを弾いて叱られます。

オルガンを弾けるというあたりもお坊ちゃん感があります。

ここでも叱られても、不満そうに目をそらすだけで謝りもしません。

まさに引きこもりニートの感じです。

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空襲があれば、普通同世代の男子なら近所の人と協力して消火活動をしたり、

救助活動をするのですが、真っ先に逃げてしまいます。

本来なら海軍将校の息子ということで、率先して動くことを求められる

ところなのに、節子と自分の安全確保しか考えていません。

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この場面も、わざとこの構図で高畑監督は描いています。

塩の配給も少なく、塩不足から皆は海に海水を取りに行き、

そこから塩を作っています。

そんな中二人は、節子のあせもを直すために海に来たではありますが、

ただただ海で遊んでいます。

塩水を持って帰ったり、カニを捕まえて持って帰ったりすれば、

おばさんも喜ぶでしょうに、そんなこと全く考えていません。f:id:rupannzasann:20180422144210j:image

自分の母親の所持品だった着物を売りに出して、代わりに白米を

貰った時は、節子は落ち込んでいますが、

清太はうれしくて白米を抱きしめています。

形見より白米を優先しました。

ミニマリストの私としてはそれでも良しと思いますが、

形見まで断捨離はかなりの上級者です。

2人に厳しく接するおばさん

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働かない、手伝わない、ただ遊んでいる二人におばさんは厳しく接していきます。

きちんとお国のために働いている自分の娘には具だくさんの雑炊を、

ぷらぷらしている二人には具を避けた雑炊を注ぎます。

それに気がついた娘は顔を赤らめますが、特にそのことを批判はしません。

内心、当然だと思っているわけです。

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でも、そもそも配給制の時代ですから食べ物は十分にはありません。

普段の家での食事は、雑炊と漬物のみという食事をおばさんたちもしています。

とくにおばさんは、お国のために働いている娘と下宿人の雑炊は具だくさんにしていますが、自分の雑炊は具はその半分くらいです。

娘&下宿人>おばさん>節子&清太の順なのです。

娘&下宿人の勤務先で食べるお弁当には白米のお弁当を持たせます。

自分は家では昼食にも雑炊を食べていると思われます。

ココから見てわかるように、決しておばさんはいじわるな人というわけではなく、

働かざる者食うべからずを実践しているだけなのです。

疎開先を飛び出す2人

そのような言動に反抗して、謝りもせず二人は家を飛び出ます。

それがなぜできたかというと、母親が銀行に7000円貯金してくれていたからです。

今のお金にして1300万円にもなるという金額ですが、終戦間際なので、

ハイパーインフレ状態でしょうから、価値として

50万円くらいにしかならないかもしれません。

でも、そのお金をおばさんにわたして、うまく食料などと代えてもらって、

節制していけば数か月生活できる価値はあったはずです。

それなのに、その当時物資不足からめったに手の入らなかった土鍋や

七輪などを買い集めることで、4000円使ってしまいます。

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そして白米のご飯を炊いて、食べてしまいます。

おなかを壊していて、栄養失調気味だった節子のことを考えれば、

栄養豊富な玄米に野菜を入れて、雑炊にして食べることが栄養&節約から

考えてベストでした。それが坊ちゃん育ちの清太にはわかりません。



楽しく二人でキャンプ生活

しばらくは、ノンストレスで楽しく二人で生活をします。

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その一場面で蛍をたくさん捕まえて、蚊帳の中にはなす場面があります。

有名なシーンです。

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そのきれいな情景を見ながら眠りにつきます。

蛍の寿命は成虫になってから数日です。

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翌朝、蛍が死にまくっています。

それをお墓に埋めてあげます。

火垂るの墓です。

この時に、疎開先のおばさんからおかあさんが死んだことを聞かされていたことを

清太に伝えます。清太は節子にはお母さんは入院していると伝えていました。

おばさんの家にいた時に、夜中節子が「おかあさん~」と泣き出す場面がありますが、

それはおばさんから母親の死を聞いたからなのでしょう。

母親の死、蛍の死をだぶらせて命のはかなさと、蛍からしたら清太と節子も

ひどい存在であったことを暗示します。

ただの子供向けアニメなら、蛍キレイ~だけで終わるところです。

宮崎駿ならそうするでしょう。でも怪物高畑はそんなきれいごとを許しません。

上手くいかなくなる二人の生活

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体調崩した節子のために、清太は野菜泥棒を繰り返すようになるのですが、

その現場を見つけた畑の持ち主は、

清太を過剰なくらいにぼこぼこにします。

「妹が病気なんです、かんにんしてください」と言っても、容赦無しです。

この場面もいろいろ考えさせられますよね。

清太は節子の病気を理由に自己正当化していますが、

野菜くださいと頼みには行っていないのです。

それが煩わしいから盗んだのです。頼めば野菜のクズくらいはもらえたはずです。

世渡りが下手な腐れ隠キャ丸出しです。

ゲスの極み清太

そして、今後は盗みはしないと誓うかと思いきや、

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空襲で皆が逃げていく方向と逆方向に走っていく清太

いったい何をする気でしょうか?

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火事場泥棒です!

売れそうな着物をバッグと服の下に詰め込んでパクって行きます。

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そして、焼夷弾の雨を降らしてゆくアメリカのB29に対して、

「いいぞ、もっとやれ!」という鬼畜発言(笑)

自分たちを苦しめるこの地域、大人たちへの逆恨み&

盗みの絶好のチャンスをくれてありがとう~ってなもんです。

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そして、この高笑い!

大泥棒です。

節子の体調悪化

清太がそのような事を繰り返していくうちに、

節子の体調はドンドン悪くなります。病院に行っても栄養失調としか言われませんが、

冒頭で2回、最初の空襲の時に目に何か入ったことを言っているので、

悪い化学物質が入っていたのかもしれません。

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病院帰りに、大きな屋敷に氷を運ぶ業者に遭遇します。

戦時中でも金があるところにはあり、今までと変わらないぜいたくな生活を

していることを示しています。

もしかしたら、この家に、タダ働きでも何でもしますので助けてくださいと

泣いて頼めば節子を助けられたかもしれません。

もちろん、清太はそんなことしません。

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いよいよ節子が弱ってきたので、清太は残りの貯金もすべて下ろして

栄養の付く食べ物を買ってきます。

金あったんかい!泥棒する前に、さっさとおろして来いよw

2人の最後の晩餐と高畑監督のいじわる

節子にスイカを少し食べさせて、「残りのスイカここにおいておくから食べてな」

と伝えて、鶏肉と卵の雑炊を清太は作ります。

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その雑炊を並べて、食べようとするころには節子は死んでしまいます。

一番の感動のピークですよね。

清太はその晩、死んだ節子を抱いたまま寝ます。

その後、怪物高畑の演出の怖さが光ります。それがこの場面です。

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鍋いっぱいの雑炊を一晩で、清太が全部食べきっている・・・・

死んだ節子を抱きながら、清太は鍋いっぱいの雑炊を一人で食べたのです。

妹が死のうが腹は減る。

そして、その横の箱は母親の遺骨の入っている箱です。

この画面に、死と生が同時に表現されているのです。

この瞬間は、時間にしてわずか1秒です。気がつかんわw

いやいや、雑炊を食べている場面は無いから、もしかしたら、

清太妹に食べさせられなかった雑炊を捨てたのかもしれない。

そう思った人にとどめを刺す場面がその直後にあります。

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スイカ一個丸々一人で一晩で食べてる~

さっきの雑炊は少し見えにくい配置で描かれましたが、

このスイカはアップで写されます。

すげえな~高畑監督。容赦ない。

感動してんじゃない、冷静に見てみろ、これが人の性だと言わんばかりです。

高畑監督の悪い癖は、このように分かりにくい暗示を

ところどころにちりばめておいて、

何で気がつかないないんだ!と嘆くところです。

もう少しわかりやすくしてもらわないと難しいっす!

節子が死んで

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その後の清太は終始無表情のまま、炭を買ってきて

淡々と涙を流すことなく節子を火葬します。

普通に考えれば、悲しみをこらえているとも考えられますが、

この無表情のまま、死体の節子の横で鍋いっぱいの雑炊と

スイカ1個を食べた清太の感情をどうとらえるべきでしょうか?

単純な悲しみではないでしょう。

後悔もあるでしょうし、ほっとした安堵の気持ちもあるかもしれないし、

もうどうでもいいやという無気力なのかもしれない。

現代文の問題でこの時の清太の気持ちとしてあてはまるものを答えよ

というものが出たらお手上げです。

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そのような清太たちのいる池の上のほうにある大きな屋敷では、

疎開先から帰ってきた金持ちの娘たちが、アメリカのレコードを蓄音機

から流しながら、「やっぱり自宅はいいわね~」と話しています。

明らかに、悲しみに浸らせる気が無い演出です。

悲しませるなら、いらない演出です。

泣くな、冷静に考えよ!と高畑監督はくぎを刺すわけです。

ラストシーン

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そして、最後は現在の神戸の街を見ている清太と節子の姿で終わります。

清太と節子は成仏できていないのです。

普通のアニメなら、清太が死んだときに父親と母親も迎えに来て、

家族4人天国に行くという感じになるはずです。

それを許さないのが高畑監督。

清太の気持ちひとつで救えたはずの節子への贖罪からなのか

成仏できずに彷徨う清太。

カトリックでは、天国にも地獄にも行けなかった人が罪の浄化を終えるまでいる場所を

煉獄(れんごく)と呼びます。

清太は自分の気持ちひとつで節子を救えたであろう過去の状況を、

何度も繰り返し見せられるという罰を受けているのかもしれません。

そして、そこに天国へ行っていたはずの節子も引きずり込んで留めているの

かもしれません。

そう考えると救いの無い、怖いお話です。

冷静に見ていくと、清太が悪い!という事になるのですが、

でもだれしも清太的な要素はあります。

だれしも善人ではない。清太だけを責められない。

清太たちに冷たくした疎開先のおばさんだって責められない。

そのような意味で火垂るの墓の清太は私自身であるのです。

能力もないくせに、プライドだけ高い、

コミュ症の若者がどのような末路をたどるのかをバブル期に

もうすでに予見していたのですね。

ん~怪物・高畑勲おそるべし!

他のシリーズも見直してみよう~っと
https://www.rupannzasann.com/entry/2018/04/22/173813
5:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:24:21

2018.08.24
火垂るの墓の原作とアニメ映画の違いを比較!あまりに忠実すぎて驚いた
https://kotoyumin.com/hotaru-no-haka-difference-3988

火垂るの墓原作とアニメ映画の違いってあるの?

火垂るの墓と言えばスタジオジブリの高畑勲監督のアニメ映画が有名ですよね。

でもこの原作の小説を読んだ人ってかなり少ないのでは?

原作小説の作者は野坂昭如です。野坂昭如の実体験をもとにした、半自伝的小説。

それがこの火垂るの墓です。

火垂るの墓はアニメ映画ですら見るのが辛くて、

「とても素晴らしい作品ではあるけれど、繰り返し見たいとは思わない」

そんな映画じゃないですか?

だから原作小説があるというのは知ってても、
原作小説はもっとひどいんじゃないか
悲しい物語で原作までは読む気しないわ

そんなふうに思う人が多いでしょう。

実は私もそうでした。高等遊民を名乗っておきながら、火垂るの墓の原作小説ですら今まで読まずに生きてました。

しかし高畑勲監督の逝去のニュース。

火垂るの墓が追悼記念としてテレビ放送されます。

「もうこの機会を逃したら原作小説の火垂るの墓を読むこともないだろう。」

そう思って読んでみました。


火垂るの墓原作小説は30ページに満たない短編

まず1つお伝えしたいのは、かなり短い小説であること。
普通、小説といえば200ページくらい。
ちょっと長いと300ページくらい

しかし火垂るの墓はもう短編小説くらいの量です。ページ数で言えば30ページぐらいの小説なんです。

「こんな短い小説だったのか!」

というのがまず一番の驚きでした。

原作あらすじ

ウィキペディアからあらすじを引用します。

とはいえウィキペディアはわかりにくいあらすじなので適宜読みやすく編集しました。


(オープニング)

1945年(昭和20年)9月21日、清太は三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。

(本編)
4歳の節子と兄14歳の清太。6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、おばさんの家に身を寄せることになる。

(おばさんとの生活と横穴暮らし)
戦争が進むにつれて、二人を邪魔扱いするおばさん。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心。

近くの貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始める。しかし、配給は途切れがちで、情報や近所付き合いもないので、食料が得られない。節子は徐々に栄養失調で弱っていった。

清太は畑から野菜を盗み、空襲で火事場泥棒し、時には見つかり殴られた上に派出所に突き出されながらも飢えをしのいだ。

(衰弱する節子)
ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太。病院に連れていくも医者に「滋養を付けるしかない」と言われる。

銀行から貯金を下ろして食料の調達に走る最中、日本が降伏して戦争は終わったことを知った。清太は日本が敗戦し、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。

節子に食べ物を食べさせるものの既に手遅れで、節子は終戦から7日後の8月22日に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を去る。

その清太もまた栄養失調に侵されており、身寄りも無い。三ノ宮駅に寝起きする戦災孤児の一人として野垂れ死んだ。清太は他の2、30体の死体と共に荼毘に付され、無縁仏として納骨堂へ収められた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93

まあひどい話です。

原作とアニメの違いはほぼなし!非常に忠実な再現


そして原作とアニメの違いですが、これは正直言ってほとんどありません。

よくほかの原作小説のドラマ化・アニメ化・映画化は、
人物設定は変えるわ
勝手に新たな人物を作るわ、
ストーリーは変えるわ
全然違う結末にするわ

やりたい放題ですよね。

そのような設定変更がアニメ映画にはほとんどありません。これが驚きでした。

野坂昭如氏自身こう言ってます。

「自分の作品が実写化されれば、もう自分の作品とは関係ない。いくら換骨奪胎されても構わない。」

そんなことをおっしゃっています。しかし、、、

「火垂るの墓についてはちょっと思い入れがある。だから、あんまり設定変更されたりストーリーをいじくられると嫌だなぁ」

そう思っていたそうです。

そして高畑勲氏からアニメ化の話が。

打ち合わせをしたりして試作や絵を野坂昭如さんに見せました。

野坂昭如さんは驚愕したそうです。

「実写映画では絶対に再現不可能な、戦時中の神戸の街並みや田んぼがそっくり再現されている。」

そう感じたそうです。「アニメ恐るべし」という文章も野坂昭如さんが残しています。

節子の年齢は実話と小説で異なる。アニメは小説に合わせている


節子の違いは?

原作と実話との違いは、節子の年齢ですね。

野坂昭如さんの実際の妹さんは2歳に満たないくらいの女の子でした。ほとんど喋れもしない。

しかし『火垂るの墓』原作小説およびアニメ版では4歳の妹になっています。

なのでだいぶ自分でも歩けるし、しゃべることもできます。

清太の違いは?

清太の違いはほとんどありません。14歳の少年。

父親は海軍の大尉で、もともとは裕福だった。物語の冒頭で神戸の三宮駅で死亡することも同じです。

お母さん(母親)の違いは?

清太と節子のお母さんも、原作とアニメでほとんど変わりがないです。

2人よりも防空壕に先に避難しようとした際に空襲に襲われ全身に大やけどを負います。

上半身を包帯でぐるぐる巻きのミイラにされる。

意識が戻ることなく、清太と話をすることもなく、亡くなります。

おばさんの違いは?

西宮のおばさん。これもとても重要な人物ですね。本当に嫌な役になっているこのおばさんですが、原作でも嫌な役は変わっていません。

原作では、2人のお母さんと、おばさんとの間で「もしもお互いが困った場合は助け合いましょう」という約束をしていました。

なので、清太と節子がやってきたときは受け入れますが、
どうしても疎ましくなったり、
自分の子供の方が可愛かったり、
愛国心の欠片もない清太のそぶりにイラついたりします。

アニメでは特に言及されていませんが、原作小説では2人のことを「疫病神」とよんで「横穴にすんどったらええわ」といいます。

その他のシーンも忠実

まあ本当に原作に忠実な映画だなというのは総評です。

これは原作が30ページほどという短い作品であるためでしょうね。

1時間半ほどのアニメ映画で充分に原作の内容を反映できたのだと思います。
節子の汗疹や疥癬で真っ赤になった背中を、川辺で洗ってやるシーン
畑泥棒して、農夫に見つかり、度がすぎるくらいに殴られるシーン
交番に連れてかれ、おまわりさんが農夫をなだめるシーン

あらゆるシーンが本当に忠実に再現されているなぁと思いました。

戦争が救いがたいのは、敵からの攻撃ももちろんですが、こうやって身の回りの人間関係が根底から裏切られたり覆されたりするということがありますね。

空襲を受けて火事場泥棒を始めた清太。

戦火に燃える街と空の爆撃機を見て「いいぞ~、やれやれ」とはしゃぐシーンがあります。

ここが、優れた描写だなと思って。

つまり、清太の周りの人間だけが心がすさんでいるのではありません。清太と節子はかわいそうなんですけど、清太は決して清い心を持っていたわけではないです。

清太自身も
人間関係のこじれ
飢えと泥棒

を経験して、心がどんどん荒んでいくのです。



まとめ 原作小説は読んだ方がいい

火垂るの墓の原作小説とアニメ映画の違いについてご紹介しました。

本当にびっくりするくらい原作に忠実な映画だとわかりました。

ほんとはっきり違うのは、実話における節子の年齢だけですね。
実話では2歳。
原作小説とアニメでは4歳。

だから原作とアニメでは違いはないです。ほぼ全て、見事なまでに再現されています。

ぜひこれを機会に、野坂昭如さんの原作小説を読んでみてください。

原作小説は文体がすごいんですよ。

1文1文がとっても長くて、人物のセリフも、地の文も関西弁が入り混じってる。

本当にうねうねしている文書というか、擬古文なんです。

だからといって読み難いわけではなく、まぁ俗っぽく言えば「声に出して読みたい日本語」に収録されてもいいような文体なのです。

ぜひこの機会に、原作小説を、お手にとってみてください。
https://kotoyumin.com/hotaru-no-haka-difference-3988


▲△▽▼


野坂昭如「火垂るの墓」と高畑勲『火垂るの墓』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/54/4/54_KJ00009719186/_pdf/-char/ja
6:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:24:53

「火垂るの墓」原作との違いを改めて検証、改めて高畑勲恐るべし
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3433182
2018年4月13日 09時45分 ライター情報:近藤正高


4月5日に亡くなったアニメーション映画監督の高畑勲を追悼して、その代表作のひとつ「火垂るの墓」が、今夜9時からの日本テレビ・金曜ロードSHOW!で急遽放送されることになった。ちょうど今月は、「火垂るの墓」が、宮崎駿監督の「となりのトトロ」とともに公開されてから30年の節目でもある。なお、原作は、作家の野坂昭如が自らの戦争体験をもとに書いた同名小説で、こちらはちょうど50年前の1968年に直木賞を受賞している(発表は前年)。


正直にいえば、私は高畑勲の「火垂るの墓」をこれまで何となく敬遠してきた。これは原作者である野坂昭如への思い入れがそうさせてきたのかもしれない。少年時代の自分にとって野坂は、ときにCMで畳の被り物をして歌う愉快なおじさんであり、あるいは放言、暴言も辞さずあらゆることを斬る論客だった。また、長じて最初に読んだ彼の小説が『エロ事師たち』だったことも大きい。同作といい、愛聴していた「マリリン・モンロー・ノー・リターン」などの野坂の歌といい、戦災孤児を描いた『火垂るの墓』とはイメージも内容もことごとく遠いものに思われた。ましてやアニメ映画化された「火垂るの墓」のイメージは、この作家が持つ猥雑な雰囲気とはなはだしい齟齬を感じさせた。


それが今回、ほぼ初めて映画版「火垂るの墓」をDVDで観たところ、胸に迫るものがあり、いままで避けてきたことを反省した。それとあわせて、原作小説もあらためて読んでみたのだが、話の筋は同じとはいえ、やはり映画とは別物という感想を持った。


『火垂るの墓』の原作と映画の違いについては、日本文学者の越前谷宏(龍谷大学教授)が「野坂昭如「火垂るの墓」と高畑勲『火垂るの墓』」という論文(『日本文学』2005年4月号、日本文学協会)でくわしく検証している。ここでもそれを踏まえながら、見ていきたい。


■清太とおばさんは具体的にどんな関係だったのか


越前谷の論文では、原作もアニメも「幼い兄妹が実母と死別し、他人の冷遇に耐えきれず、逃亡漂白する継子譚の定型」を踏んでいるとしたうえで、《だが、原作にはあったはずの幾つかのノイズが、アニメでは消されてしまっている》と指摘している。


たとえば、主人公の清太と未亡人である「小母さん」の血縁の距離。清太と妹の節子が母親を神戸大空襲で亡くしたあと、身を寄せるこの小母さんは、劇中では「遠い親戚」としか語られず、具体的に兄妹とどのような関係であったのかには触れられていない。これに対し原作では、「父の従弟(いとこ)の嫁の実家」とはっきり書かれている。つまり、小母さんから見れば清太は、娘の夫の従兄の息子であり、まったく血のつながりのない、かなり遠い関係なのだ。


しかし映画ではそれについての説明はない。しかも音声で聞く「小母さん」(よその年配の女性を指す場合、表記はこうなる)は、親戚の「伯母さん」「叔母さん」と区別がつかない。したがって、原作を読まずに観る人たちは、「小母さん」がなぜここまで兄妹につらく当たるのか、よくわからないのではないか。ちなみに原作では、小母さんが兄妹の食事は別々にすると言い放つ場面で、《さすがすぐ出ろとはいわなかったが、いいたい放題いいはなち、それもまた無理ではない、ずるずるべったりにいついたけれど、もともと父の従弟(いとこ)の嫁の実家なので》と、清太が彼女に厄介者扱いされる事情が説明されている(以下、原作からの引用は新潮文庫版『アメリカひじき・火垂るの墓』より)。


越前谷論文はこのほか、海軍大尉の息子という特権的な立場にあった清太が、母の死後、小母さんとの力関係において逆転するという皮肉な視点が、映画からは消し去られているとも指摘する。具体的には、原作における《遠足の時のラムネ菓子、グリコしかもってえへん貧乏な子に林檎わけたった》という一文や、あるいは《四年前、父の従弟の結婚について、候補者の身もと調べるためこのあたりを母と歩き、遠くあの未亡人の家をながめた》といったくだりは、映画には出てこない。後者についていえば、ほんの4年前(太平洋戦争の始まる直前か)には、未亡人=小母さんは清太たち家族から値踏みされる立場にあったことを意味し、その後の残酷なまでの立場の逆転を強調している。


■「火垂るの墓」は反戦映画を意図したものではなかった


越前谷論文は、以上のような例をあげたうえで、《高畑は、原作にあったノイズを丁寧に除去することによって、純粋な〈悲劇〉に仕立て上げてしまったようだ》と書き、また《観客の側にも、アニメをお馴染みの継子物語のフレームに沿って解釈・受容しようとする姿勢があったのではないか》と指摘する。


ただし、そもそも高畑はこの映画について《決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた》と強調している(『スタジオジブリ作品関連資料集II』スタジオジブリ)。野坂もまた、自分の作品が《もし、かわいそうな戦争の犠牲者の物語に仕立て上げられたら、なおぼく自身、いたたまれない》と語っていた(「アニメ恐るべし」、スタジオジブリ・文春文庫編『ジブリの教科書4 火垂るの墓』文春ジブリ文庫)。


しかし観た人たちの受けとめ方は、高畑と野坂の意図とは違った。ふたをあけてみれば、観客の圧倒的多数がこの作品を「反戦映画」と受け取ったのだ。これに対し高畑は、《私はあらためて、それはそれで当然なのだ、と反省させられたわけです》と、映画公開後の講演で述べている(「映画を作りながら考えたこと」、高畑勲『映画を作りながら考えたこと』徳間書店)。


観客がそう受けとめたのは、空襲のシーンなど戦争の描写を高畑ができるかぎりリアルに描こうと努めたことも大きいのだろう。たとえば、空襲時、米軍の戦闘機B29から次々と投下されたM69、「モロトフのパン籠」と呼ばれた焼夷弾がどのようにして落とされ、火の雨となって降り注がれたのか、そのメカニズムを調べるため、高畑は自衛隊にまで演出助手を取材に行かせたほどだった(「「モロトフのパン籠」の謎」、『映画を作りながら考えたこと』)。


■清太は戦時中にタイムスリップした現代少年だった?


とはいえ、高畑にとって戦争はあくまで物語の背景にすぎない。それ以上に彼が描きたかったのは、泥沼のような人間関係から逃れ、二人だけで生きようとした幼い兄妹の姿であった。高畑は、《清太のとったこのような行動や心のうごきは、物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や存在の大きな基準とし、わずらわしい人間関係をいとう現代の青年や子供たちとどこか似てはいないだろうか》と、この映画の意図が現代社会への問題提起にあったことを示唆している(「「火垂るの墓」と現代の子供たち」、『映画を作りながら考えたこと』)。


高畑は原作を読んだとき、清太少年について《まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならな》かったという(「「火垂るの墓」と現代の子供たち」)。とすれば、映画「火垂るの墓」は、もし現代の子供が戦時中にまぎれこんだら? という仮定にもとづく一種のシミュレーションともいえるかもしれない。


こうした意図から、高畑は清太と節子の兄妹を徹底的に世間から隔絶した存在として描いている。そこには原作から設定を変更している部分すらある。たとえば、原作では、清太が終戦を知ったのは8月15日当日だが、高畑はこれを1週間後に変えている。兄妹が世間から隔絶された生活を送っていたことを強調するためだろう。


あるいは、節子が死んで清太が自ら火葬する場面も、原作では《市役所へ頼むと、火葬場は満員で、一週間前のがまだ始末できんといわれ》と、そうせざるをえなかった事情が説明されている。ひるがえって映画ではこのくだりが省かれているため、清太が自分一人だけで節子を見送ろうと決めたという印象を受ける。


■原作者に「アニメ恐るべし」と言わしめる


高畑は映画制作にあたり、《原作の語り口そのものを生かせないかなと思うわけです。あれは、明らかに清太からみている話だと思うんですよね。客観的に書いてある部分でも、やはり清太の気持ちを通してみているんです。そういう意味で、その語り口を何か生かす方法はないかと……》と、野坂との対談で語っていた(高畑勲・野坂昭如「清太と節子の見た“八月十五日”の空と海はこの上なくきれいだった」、『映画を作りながら考えたこと』)。


実際、できあがった映画は「昭和20年9月21日夜 ぼくは死んだ」という清太のモノローグから始まるとおり、彼の視点から物語が描かれている。だが、これについて前出の越前谷論文は、《アニメは、見つめる清太の物語ではなく、清太によって見つめられる節子の物語として受容されてきたようだ》と指摘する。ここでもつくり手の意図と観客の受け取り方にズレが生じたというわけだ。


それも無理からぬことで、映画に登場する節子は、そのあどけなさを見事に視覚化したキャラクターに加え、声優に起用した当時5歳の白石綾乃のリアルな演技もあいまって強烈な印象を私たちに与えた。いまや新潮文庫版『火垂るの墓』のカバーにも、洗面器をヘルメット代わりにかぶった節子が敬礼している画(スタジオジブリのスタッフだった近藤喜文・山本二三・保田道世による)が用いられ、そこに清太の姿はない。


小説、映画にかぎらず、強い力を持った作品は、ときに作者の意図を超えて人々に受け入れられることがある。高畑勲の「火垂るの墓」はその最たる例といえそうだ。


なお、原作者の野坂には終戦時1歳と、4歳という設定の節子よりも幼い妹がいた。小説『火垂るの墓』は彼女との実体験をもとに書かれている。だが、現実と小説は必ずしも同じではない。現実の野坂少年(終戦時14歳)は、妹(実際には彼の養父母の娘で、血のつながりはなかったようだが)の食べ物を盗み食いしたり、頭を殴ったりすることもしばしばであったという。後年、「舞台再訪 私の小説から」というエッセイで彼は、《ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、今になってくやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを発したのだ、ぼくはあんなにやさしくはなかった》とつづっている(『朝日新聞』1969年2月27日付)。


野坂はかつて『火垂るの墓』を映像化することは絶対に不可能だと思っていたが、映画の制作が決まり、高畑らスタッフと一緒に舞台を歩き、ラフスケッチを見せてもらううち、その思いが吹っ切れたという。彼がこのことを告白した文章は、《しみじみアニメ恐るべし》との言葉で締められていた(「アニメ恐るべし」)。


はたしてできあがった映画では、清太が原作以上に、自分を犠牲にしてでも妹を守ろうとする姿が印象に残り、涙を誘う。それは戦争というものがもたらす悲惨さを、私たちに実感させてあまりある。野坂ならずとも、「アニメ恐るべし」「高畑勲恐るべし」と言わずにはいられない。
7:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:25:34

「火垂るの墓」 ジブリで最も暗い作品が今も持つ重要性(BBC NEWS JAPAN-2018年4月16日)
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/268.html
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-43779881

「火垂るの墓」 ジブリで最も暗い作品が今も持つ重要性 2018年04月16日
ヘザー・チェン記者 BBCニュース

STUDIO GHIBLI
「何でホタル、すぐ死んでしまうん?」


日本アニメ界の巨人スタジオジブリは、「となりのトトロ」など明るい内容の名作で知られるが、同社が30年前に発表した、第2次世界大戦時を舞台にした「火垂るの墓」は、今も強く心に響くメッセージを持っている。

野坂昭如氏による1967年の同名小説を原作とし、今月5日に死去した伝説的なアニメーション監督でスタジオジブリの共同創設者、高畑勲氏が製作したアニメ映画は、第2次世界大戦末期の日本で必死に生き延びようとする、孤児の兄妹の物語だ。

映画の冒頭から結末は予告されている。独りぼっちの少年、清太は三宮駅で餓死する。所持品から清掃員が見つけたのは、ドロップ缶に入った少量の灰と骨のかけらだった。何の変哲もない缶は近くの野原に投げ捨てられ、空に向かった清太の魂は4歳の妹、節子の魂と再開する。

2人をホタルの群れが囲み、物語は始まる。「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」――清太の声による、耳に残るナレーションが入る。

ジブリ作品の一つではあるものの、「火垂るの墓」は一般的な子供向け映画とは全く違う。明るい気持ちにさせるそれまでの作品とは一線を画し、多くの人が観るのをためらうような悲惨な物語だ。しかし、映画評論家で歴史家の故ロジャー・イーバート氏は、「戦争映画として最も偉大な作品の一つ」だと称賛した。

2000年に書かれた批評で、イーバート氏は、「アニメ映画はその最初期から、子供たちや家族のための『漫画』だった。しかし、それらの映画が存在するのは安全地帯に限られ、涙は誘っても悲しみを味わせることはなかった。『火垂るの墓』による感情体験は、アニメに対する考えを変えさせるほど力強い」と述べた。

GKIDS
清太と節子の兄妹愛は戦争の意味をあらためて問い直させている


第2次世界大戦末期に激しさを増した米軍による空襲は、主人公たちが住む神戸も襲う。

戦争に悲劇は付き物だが、この映画が描く物語の力強さには、高畑監督自身の経験がかかわっている。戦争時に少年だった監督は、当時住んでいた岡山市で大規模な空襲に遭った。

Keystone/Getty Images
1945年に神戸を空襲する米軍のB29爆撃機


細やかな描写と印象派的な効果によって、高畑監督は戦争が人々に与える影響をリアルによみがえらせている。

米国の編集者で、日本のマンガ・アニメ業界を論じた「Japanamerica(ジャパナメリカ)」の著者、ローランド・ケルツ氏は、「火垂るの墓」のワンシーンについて、非常に悲劇的ながら「心が奪われるような美しさ」があると話す。

ケルツ氏は、「漁師の集団が、湾の向こうで炎に包まれた神戸の街を見つめている。空をなめるように炎が上がるなか、漁師たちの後ろ姿が映し出される」と語る。「惨劇の静けさ。誰も動かないが、彼らの衝撃が伝わってくる。まさにシェルショック状態を表したシーンで、恐ろしいと同時にものすごく美しい」

GKIDS
飢餓と病気が蔓延した日本で、兄妹の希望は崩れていく


戦争を生き延びる


シンガポール国立大学・日本研究学科のリム・ベン・チュウ准教授は、「火垂るの墓」は現在でも色あせないどころか、重要性がこれまで以上に高まっていると指摘する。

リム氏は、「『火垂るの墓』が注目すべき映画なのは、さまざまなメッセージを含むなかで、命の大切さを強調している点が挙げられる。取り返しのつかない悲劇、戦争中の日本人が耐えなくてならなかった苦難を描いているが、観る人はなぜ第2次世界大戦が起きてしまったのかを自ら問う必要がある」と述べた。

「過去の日本の軍国主義を知ることも、映画中の出来事に対するより良い理解を助け、すべての戦争に対する一般的な人間感情を培う。それは将来の戦争を予防する、より効果的な方法になる」

GKIDS
Image caption お互いを思いやる二人は孤児になり、生き延びることはできなかった


前出のケルツ氏はこうも語っている。「『火垂るの墓』には、二義性や人生への後悔など豊かな物語性がある。その点だけで今も色あせていない。切羽詰った状況での英雄性や気高さの欠如の物語であり、その点では、ほぼアンチハリウッド映画だ」

「ハリウッド映画なら、困難なときにはヒーローが必要だと信じさせようとするだろう。高畑勲は反対の弱さを表現する。困難なときに最も必要なのは謙虚さ、忍耐、自己抑制だと。それによって生き延びられるのだと」

GKIDS
映画評論家のイーバート氏は「アニメに対する考えを変えさせるほど力強い」と述べた


希望の象徴


「火垂るの墓」は、ジブリ映画としては最も暗い映画の一つだと言われているかもしれないが、熱心なファンたちは、「不当な評価を受けている」とするこの作品や、作品から得られる身につまされる教訓について、議論に再び火をつけるのをやめなかった。発表から30年がたった今でも、議論は活発だ。多くの人々にとって、戦争が人々に与える影響は今も、人々から強い反応を生む。

ある「火垂るの墓」ファンはYouTubeで、「アニメが過剰な表情や、性的なコンテンツ、陳腐な10代の恋愛ばかりだと思っている人は、『火垂るの墓』を観るといい。自分の間違いが完璧に証明されるだろう」とコメントしている。

米掲示板サイト「レディット」ユーザーのあるファンは、ホタルが象徴するものについて語っている。「ホタルには、主人公たちの街を焼いた焼夷(しょうい)弾と希望と忍耐力を表す二重の意味が込められていて、いつまでも心に残る映画の象徴になっている」。

ジブリのファンのレベッカ・リーさんはフェイスブックに、「トランプ政権が誕生し、世界中で多くの人がナショナリズムに染まるなかで、この映画の必要性はこれまでになく高まっている」と書いた。

「この映画は第2次世界大戦の隠喩で、2人の登場人物が死ぬというだけの映画ではない。『火垂るの墓』は、盲目的で反省のないナショナリズムや、それに従った人々の苦い結末について語っている。この映画は悲しいから傑作なのではなく、得られる教訓によって傑作になっている」


(英語記事 Grave of the Fireflies: The haunting relevance of Studio Ghibli's darkest film)
8:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:26:06

2015年12月10日
追悼、野坂昭如! 『火垂るの墓』よりも圧倒的に後味が悪い傑作小説とは?
https://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201512_post_8221.html

「焼け跡闇市やみいち派」を自称した作家で、元参議院議員の野坂昭如(のさか・あきゆき)が9日心不全で亡くなっていたことがわかった。

 自身の戦争体験を基に書かれた『火垂るの墓』で直木賞を受賞。その後、高畑勲監督のもと、スタジオジブリがアニメ化したことで、老若男女が知る大作家となった。ちなみに、映画の公開時、『火垂るの墓』と『となりのトトロ』は2本立てで同時上映されていた。筆者が見た時の上映は「火垂る」→「トトロ」であったが、ネットなどの情報によると「トトロ」→「火垂る」の会場もあったようだ。

 おそらく、幼少期に『火垂るの墓』を見た子どもたちは、大人になっても戦争に対する考え方の一部に野坂イズムが残り続けていることだろう。戦争によって罪のない人々が死に、どこにでもいる普通の人間が、悪魔にもなる――。そして、戦争期間中まさに"餓鬼"として生きた記憶は戦争が終わった後も残り続ける。その残酷さを強烈に表現した"救いのない"作品が

『アメリカひじき・火垂るの墓』(新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%B2%E3%81%98%E3%81%8D%E3%83%BB%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%8E%E5%9D%82-%E6%98%AD%E5%A6%82/dp/4101112037


に収録されている短編『死児を育てる』だ。


■短編『死児を育てる』で描かれた戦争

 この話は、主人公である久子が、かわいがっていたはずの2歳の実子(伸子)を絞め殺した場面から始まる。警察に「なぜ殺した?」と問われる久子は、夫と出会い、伸子を生んだところから回想し始める。しかし、伸子にミルクを与え始めた頃を思い出したとき、実妹文子との記憶を思い出す。

昭和18年の春。久子が小学校5年生の時、文子が誕生。久子は文子をかわいがった。しかし、小型爆弾の破片で母が即死すると、久子の心は不安定になり、泣く文子を失神させるまで殴るなどの虐待が始まる。挙句の果てには、文子の分の配給まで自分で食べ、栄養が必要な2歳の妹には重湯しか与えなくなる。

「私は、自分が生きるためには、文子などどうでもよかった」(p.156より引用)
 
 そして、広島と長崎に原爆が投下され、終戦間近の昭和20年8月13日。警戒警報が発令されると、急に母親の死が久子の脳裏にフラッシュバックし、妹を土蔵に置いたまま、死んだ母の影を追ってほんの束の間、彷徨い歩く。そして土蔵に戻ると、文子の体はねずみに食べられ、血まみれで死んでいたのだった。

「妹の命を奪った、文子を殺したことを、私は鮮明に覚えていた。皮肉なことに、それは自分の産んだ伸子の成長とともに、文子の死んだ年に近づくにつれ、予感が次第に形を明らかにし、伸子は、私の罪をそのあどけない笑い顔や、たどたどしい言葉つきで、するどく指弾する(中略)タイムマシーンがあったら、ここにあるクッキーやあめやゴーフルや、あの土蔵で最後は泣くこともできずに寝たっきりだった文子に届けてやりたい」(p.156より引用)

 久子が伸子を殺してしまった理由は、成長するにしたがって、伸子の顔が文子に見えたからだったのだ。最後に久子が刑事に語る台詞があるが、その救いのなさはぜひ作品を読んで知ってほしい。

野坂自身、神戸の空襲後に、1歳4カ月の妹を栄養失調で亡くしている。妹の肌はあせもとシラミでまだらだったそうだ。この時の記憶と、もっと妹をかわいがっておけばよかったという後悔のもと小説化されたのが『火垂るの墓』である。しかし、野坂の妹に対するトラウマは『死児を育てる』のほうがより残酷でストレートに表現されているのかもしれない。愛していたはずの肉親を自分が思い描いていたように大切にできない悲しさと孤独。戦争があぶりだす人間の残酷な本性を描いた傑作をいまいちど読んでみてはいかがだろうか。
9:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:26:37

野坂昭如
この国のなくしもの PHP研究所 1997
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%97%E3%82%82%E3%81%AE%E2%80%95%E4%BD%95%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%92%E5%8E%BB%E5%8B%A2%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E9%87%8E%E5%9D%82-%E6%98%AD%E5%A6%82/dp/4569557228

『この国のなくしもの』野坂昭如 松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0877.html

何が日本人を去勢させたのかということを、野坂昭如独自の視点と文体で“私的”に書いた。「一度の敗戦で文化、伝統を棄て、自らの歴史について考えることを止めた、国家とはいうまい、こんな民族はない。また、五十年以上前の勝利国のいうがままになっている例もない」ということを書いた。

 この手の、現代日本の社会批判や不戦か批判をめぐる本はゴマンとあるが、5冊を選ぶというなら本書をぜひ入れたい。その理由を以下に説明する。

 第1に、そもそもぼくは野坂昭如の長きにわたるファンなのである。まず作品がべらぼうにいい。スブやんを通して欠如としてのエロティシズムを描いた『エロ事師たち』、俊夫と京子がアメリカ人夫妻をホームステイさせた顛末の奥に日本人の悲哀を衝いた『アメリカひじき』、ここまで「負」の領域に入っていけるのかと驚かせた植物的兄妹相姦とでもいうべき異様を綴り抜いた『骨餓身峠死人葛』、いずれも傑作だった。

 作品がよかったってエッセイがいいとはかぎらない例もゴマンとあるが(たとえば川端康成から村上龍まで)、野坂の場合は作品とエッセイは同じ質感と緊張をもっていて、その両者にまったく齟齬がない。『この国のなくしもの』にもそれが生きている。問題意識もちゃんと一貫している。その理由はおいおいわかる。

 第2に、特異な文体がいい。文体など日本社会批判と関係がないとおもわれるかもしれないが、そんなことはない。いま、日本人はスタイルを見失っているのである。コードが借り物なのは古代以来でかまわないが、それを独得モードにしていない。つまりそこに日本のスタイルがない。

 野坂はデビュー以来ずっとスタイルにこだわってきた。レインコートも、黒眼鏡も、野坂アニミズムも。これはやってみるとわかるのだが、半分はどこかデラシネな遊びの気分が必要で、残り半分ではそうとうの根性がいる。タモリと話したときも、「最初はともかくもね、いったん選んだ黒眼鏡をそのままどんな時もしつづけるのは、かなり覚悟がいるんですわ」と言っていた。まして国家とのスタンスをどうするか。そのスタイルを頑くなに貫くのは、並大抵ではない。とくに戦争と敗戦にかかわった世代にとって、このスタイルだけがその後の人生だといってよいものがある。

 話が広がってしまったが、こういうスタイルのなかで文体は、個人が選ぶスタイルのなかでも最も柔らかくて最もリプレゼンタティブなものである。

 一度や二度、おもしろい文体を綴るのはなんとかなるが、いったん演じた特異な文体をそのまま維持しようとするのは、かなり難しい。そこに何かが宿らないではやりきれまい。野坂はどのようにしたのだろうとおもっていたが、本書には次のようにあった。

 「初めて小説を書いたのは、昭和38年、32歳の夏である。書きはじめると小説とは何ぞやみたいな感じとなり、カッコつければ、ものに憑かれたごとく約60枚を仕上げ、読み返すと助詞を省いているし、延々と「、」でつないで「。」がないし、行替えも少ない。全く意識しなかったが江戸期の戯文体に似ている」と。

 なるほど、最初は夢中だったのだろう。だが、よくぞそれを貫いた。貫いたどころではない、さらに磨き上げたのだ。典型的な例として『骨餓身峠死人葛』(ほねがみとうげほとけかずら)の冒頭を例に出す。こんなふうなスタイルなのだ。  


入海からながめれば、沈降海岸特有の複雑に入りくんだ海岸線で、針葉樹におおわれた岸辺、思いがけぬところに溺れ谷の、陸地深く食いこみ、その先は段々畠となって反りかえる。南に面した地方のそれとことなり、玄海の潮風まともな受けるこのあたりでは、耕して天空にいたるといった旅人の感傷すら許さぬ気配、人間の孜々たる営みを自然のあざわらうようで、それは、いずれもせんたんちいさいながら激しい瀬をもつ岬の、尾根となって谷あいをかこみつつ、背後の、せいぜい標高四百メートルに満たぬ丘陵にのびる、その高さに似合わぬ険しい山容のせいであろう。

 ここまでで一文章。読点は最後にひとつ。息が長いなどというのではなく、ひたすらに濃い。そのうえで言葉の選び方、続き方、絡み方、捨て方、煽り方、いずれも酔わせる。この文体そのものに野坂昭如がいる。

 ちなみに『骨餓身峠死人葛』は奇怪な物語だったが、なんとも忘れがたい。
 大正時代に葛作造という男が北九州の山中に炭坑をおこして「葛炭坑」と名付けた。食い詰め者、風来、犯罪者がここに集まってバラック集落ができる。昭和の不況下、さらに素性の知れぬ者たちがふえていくが、炭坑の設備は不十分なもの、どんどん死人が出た。死人はそこらの林の中に埋められ、卒塔婆一本だけがそこに立てられた。

 いつごろからかこの卒塔婆に葛に似た寄生植物がまとわりつくようになり、山の者はこれをホトケカズラ(死人葛)とよんだ。作造の娘のたかをは、なぜかこの植物に魅せられる。たかをは兄の節夫にせがんでホトケカズラを庭に植え移すために炭坑からもってきてもらう。ところがいくら丹精こめても育たない。長老は、この花は死人の血肉を啜って生きよるばってん、平地じゃ無理でござっしょうという。

 ある夜、ふと節夫が目をさますと隣のたかをがいない。胸騒ぎをおぼえて庭に出てみると、新聞にくるんだ赤児をホトケカズラの根元に埋めている。産み月近い女から小遣い三円で譲ってもらってきたらしい。節夫が恐ろしい質問「それでお前が殺したとか」をすると、たかをは「勝手に死によったとよ」。途端、節夫は妹をいとおしく思う。

 こうして兄と妹は禁忌を犯しあい、交わるようになる。やがて肺病で蔵に寝ていた節夫は自分の死期をさとり、この兄ちゃんを土に埋めてくれ、美しか花の咲くじゃろうけんと言う‥‥。だいたいこんな話だが、まあ、物凄い作品である。

 第3に、野坂昭如はいつも生と死を一緒に持っている。これがいい。焼跡闇市派といわれるだけあって、根っから敗北を抱えている。ホトケカズラのように。それゆえ何を書いても主題がそこからビームのように照射されている。

 本書には、還暦間近の野坂が戦後を振り返って、日本が去勢状態のまま活力を完全に失っていると見えるだけでなく、かつては岡晴夫の歌の「晴れた空、そよぐ風」だけでも、一抹ではあっても強烈な「生」を感じたのに、いまはあらゆる「物」に囲まれてもそれが感じられないのは、これは「日本の未来」すらないことではないかという判断が一貫する。

 ときどきは、本土決戦をしたうえでの敗北だったらこんなにも去勢にならなかったのではないかといった危ない言葉も散見するが、このくらいの発言すら許容できなくなっているのが、いまの日本なのである。もっと書いてもらってもよかった。

 いまはあっさり説明してしまったが、実は野坂の日本去勢論はホトケカズラの根が深いところから出ている。『アメリカひじき』を例にするが、これは大阪の中学生だった俊夫が敗戦をきっかけにして、何もかもの価値が転倒してしまったということを底辺においた小説で、これを読んで、ぼくは名状しがたい困惑に立ち会った。

 父は戦死、母は病身のまま、妹を抱えて俊夫は焼跡闇市を這いまわった野坂そっくりの俊夫が主人公で、この俊夫は日本人がたった一日をさかいに、米兵をアメリカさんと呼び、怪しげな英語をあやつって、なんとか食いつなぐことだけが日常になったことに苛ついている。けれどもその俊夫も、戦後20年もたつとCMプロダクションを動かせるほどになっていた。

 そこへ、妻の京子がハワイ旅行のときに世話になったヒギンズ老夫妻が日本旅行するのでホームステイしてもらいたいと言い出す。こうしてアメリカ人2人と親子3人の日々が始まるのだが、けれども、どうも何かの勝手がちがう。京子は老夫妻のあまりの図々しさにしまいに腹をたててしまった。ところが俊夫は、この老夫婦が図々しければ図々しいほど、ついつい過剰な接待をし、卑屈になっていく。そんなふうにしたいわけではないのに、だ。それはかつて米軍物資の紅茶の葉っぱを「これがアメリカのひじきか」と煮て食ってみたときの、あの味気なさに似ていた‥‥。

 こんなふうに終わる『アメリカひじき』であるが、ここには一口に悲哀のおかしみと片付けられない日本人の「いやなもの」か如実に抉り出されていた。

 野坂が『アメリカひじき』を書いたのは昭和42年だった。『骨餓身峠死人葛』は昭和44年。まさに高度成長下の日本。

 野坂はこのあたりで俊夫との決別を図ることにする。それが昭和49年の参議院議員選挙の東京地方区立候補だったというのは、よほどやむにやまれぬものか、憤懣やるかたないものがあったのだろうが、これで落選したのちは、日本、天皇、戦争飢餓、言語文化、日本人の体たらく、少女犯罪、性思想、差別問題を沈思饒舌に表現するようになって、これは読者でもある日本人にとってはかえってよかったかもしれない。

 さて、第4に、野坂昭如の思索や観察や表現にはどこかに必ず意外な因果律が奏でられているのが、いい。

 たとえば本書には、ホームレスが街にあふれるのは学生アルバイトのせいだという指摘があって、ハッとさせた。学生が大学に入ったとたんにスキーだ、旅行だ、海外だ、コンサートだと好きな費用を稼ぐために茶髪のままにさっさとカネをもっていくから、ホームレスにならないですんだ者たちが交通整理・公園清掃・倉庫番・コンビニ店員などの軽労働に就労できないようになったというのが、野坂の推察なのである。

 日本人が無宗教であると考えすぎていることにも文句がある。日本人は万物に何かが宿ると考えているのだから、それを宗教学じゃあるまいし、神道か仏教かキリスト教か新宗教かなどと区別して見るよりも、その何かを一人一人が多様にもっていることを宗教とみなせばいいじゃないかという見方である。

 そこで第5に、急いであげておくが、野坂が腹の底から重視しているのは日本人は「懼れ」や「惧れ」をどうしたのかという絶叫なのである。

 ぼくが知るかぎりは、この、日本人から薄れつつある「懼れ」と「惧れ」の消息を問題にしている議論はまことに少ないようにおもう。野坂もこのことに言葉を多くはしていない。しかし、「懼れ」と「惧れ」こそはまるでこそこそと後ずさりしてしまったかのように、日本からなくなっているかなり大きなものなのだ。

 本書には抽象的な議論も嘲笑的な議論も一行もない。野坂の中学生から還暦におよんだ日本人としての日々の実感を、当時の学校の先生の言葉やセーターへの愛着やブルセラ少女や文壇バーの変遷を通して、綴った。

 そこに去勢日本になった原因が摘発しているかといえば、必ずしもそういう指摘には富んではいないのだが、それなのに日本社会を野坂流のスタイルで語る手法こそもう少し広まってもよいと思わせるのは、つまりは、とくに結論も提案もないのに本書に愛着をおぼえるのは、野坂が「東京裁判史観から懸命の脱出」をしようとしているということ、そのことがずうっと脈打っていたからだった。

 野坂さん、ぼくもよく、こんなふうに思うことがあります。日本人は全員が小林正樹監督の『東京裁判』を5回くらいは見るべきである、と。

参考¶

ぜひ付け加えたいことがある。昨年、野坂昭如はNHKの「人間講座」で「終戦日記を読む」を9回にわたって話しこんだ。これがすばらしかった。全部を見ることはできなかったのだが、胸が詰った。スタイルもよかった。野坂さん、あのビデオ、取り寄せたい。
10:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:27:15

野坂昭如の自己弁護小説 『火垂るの墓』 「昭如」と「清太」の違い - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=hjoSgGVGlzo

妹の食べるものを僕自身が奪って食べて生き延びたということのほうのね、負い目のほうが、戦争とか何とかよりも、はるかに僕個人にとって大きな・・・まあ、負い目と言うと大げさですしね。
普段、僕なんか大変調子よく生きているわけだから、自分だってほとんど忘れてはいるわけですけども、まあ、年に何度か思い出すわけね。
それが小説っていう形で嘘をついたためにね、逆に非常に深い傷になって僕の中に残っちゃいましたね。
本来なら、僕はもっと残酷な兄貴だったんですね。
で、残酷な兄であることを逃げて、小説を書いて、その小説によって僕は今、稼いでいるわけで。
で、またアニメーションになれば、またお金が入るかもわかりませんね。
それで僕は贅沢をするかもわからないですね。
で、もう、なんか二重三重にね、鬼畜米って言われてた相手から家畜の餌をいただいて僕は生き延びているわけだし。
一方においては、自分自身が食べるべきものをかっぱらって生き延びながら、そのかっぱらった相手を小説というようなものに仕立てて、また金を稼いでるわけです。
しかも、その時に、あたかも自分がそうであったかのごとき主人公を設定して自分を甘やかしているっていうか、そういった、すべての、なんか、自分の営みの負い目を今ここで直面しなきゃならないっていう感じで言うと、僕にとっては非常に苦痛は苦痛なんです。

朗読テープのおまけの 『野坂昭如 自作を語る』 から


「ぼくが口に含み、咀嚼して柔らかくし、与えようとする。気持ちの上ではそうでも、フッと飲み込んでしまうのだ。二度三度繰り返すと、後は開き直って、妹の分まで平らげ、罪の意識はない。」(15ページ)

「現実のぼくは架空の 『清太』 ほど妹にやさしくなかった。夜泣けば頭を小突き、するとおとなしくなる。こんなに小さくても泣けば痛い目に会うとわかるのか。かわいそうで涙が滲むが、二、三日後、またなぐる。ずっと後になり、乳児の首は弱く、頭に対するちょっとした打撃でも軽い脳震盪を起こし、五、六秒失神することがあると医者に聞いて、愕然としたのだ。妹は気を失っていたのか。」(58ページ)

「六月五日から八月二十一日までの、ぼくと妹の過ごした日々に、ほぼ基づいている。妹の歳、場所は違う。なにより作中でぼくらしき同年の兄は餓死してしまう。痩せ衰えるばかりの妹を、兄は懸命に 『自分の指を切って、油で炒めて食べさせたろ』 とさえ思う。自分の食いぶちを与え、妹のために盗む。現実は逆。まだ肉のついていたころ、赤ん坊特有のプクプクしたふとももに、ぼくは食欲を覚えた。罪深くその時に感じたことだが、妹のために咀嚼してやるつもりの炒り大豆カスを、ふと喉へすべらしてしまう。野荒しの収穫は、おおかた響子への貢物となった。なにより、ぼくの気持ちは響子に傾倒していた。妹は邪魔っけなだけ。」(94ページ)

「泣けばなぐる。向いの旋盤屑積めた南京袋の上に置く。伶子の尻に点々と赤いものがあり、虫刺されではなく、袋から突き出た鉄屑の鋭い切っ先による跡。伶子は首がすわらなくなり、もとより言葉を失い、一日寝たきり。」(116ページ)

「伶子の異常な痩せ方に驚いたのは八月二十一日夜。(中略)十八日、配給があった。亡くなるまでの五日間、なんとか妹の口にし得るものを手にした。伶子は少し食べたように思う。木製のスプーンに残った粥、唾で柔らかくした乾パン。ぼくの胃袋に収まってしまったが。」(119ページ)

「母、祖母のかたわらに身を置きたくなくて、さかしらげな言葉を弄し、ぼくは逃げたのだ。伶子の死は自分の責任じゃない。だが、骨と皮の素っ裸を豆殻にくるまれた伶子の遺体眼にして、痛そうだと、いやたしかに痛みが伝わった。同時にぼくはホッとしていた。罪の意識じゃない。自分だけ生き残ったことのやましさなどてんからない。」(126ページ)

『わが桎梏の碑』(野坂昭如著)から

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『わが桎梏の碑』(野坂昭如著)から

「家の経済状態がきわめて危なっかしくなっていたのだ。借金が約五千万円、利子が年にほぼ四百万、妻はあると信じている定期預金、保険はとっくに下し、また解約。特別な浪費をしたわけじゃない。
(中略)八十八年、『火垂るの墓』がアニメーション映画化され、多くの観客を集めた。つれて文庫が売れた。収入が増えたのはありがたいが、ぼくはなんとも居心地が悪い。
(中略)昭和四十二年初夏の頃、当時、練馬に住んでいたのだが六本木の喫茶店で待つ編集者のもとへタクシーで届け、これがデッドラインギリギリ、文字通り書き飛ばして、読み直しもしていない。
(中略)アニメなればこそ克明に再現。パイロットフィルムは眼にしたが、完成作品を観ていない。やみくもに書いたことは事実。細部は直後に忘れてしまったが、大筋は憶えているし、書いた時の自分の気持ちになると、日を追うごとに鮮明となって、つまり、自己弁護小説とわかる。」(9、10、11ページ)

「待合室に大勢の老人女子供がいて、死体をかかえながら、ぼくはいたたまれない恥ずかしさを感じた。妹のあわれな死を悲しむ、かわいそうに思うより、ただ一刻でも早く、人目のないところへ行きたい。」(14ページ)

「ぼくが口に含み、咀嚼して柔らかくし、与えようとする。気持ちの上ではそうでも、フッと飲み込んでしまうのだ。二度三度繰り返すと、後は開き直って、妹の分まで平らげ、罪の意識はない。」(15ページ)

「ここでぼくは両親、妹の死を確信した。悲しみはない。開放感があった。母の表情口調物腰考え方、すべてを嫌い、ひたすら父を慕っていた。その前で優等生ぶり、父が素直にぼくの嘘出まかせを信じると、罪深く思い、また重荷でもある。」(38ページ)

「現実のぼくは架空の『清太』ほど妹にやさしくなかった。夜泣けば頭を小突き、するとおとなしくなる。こんなに小さくても泣けば痛い目に会うとわかるのか。かわいそうで涙が滲むが、二、三日後、またなぐる。ずっと後になり、乳児の首は弱く、頭に対するちょっとした打撃でも軽い脳震盪を起こし、五、六秒失神することがあると医者に聞いて、愕然としたのだ。妹は気を失っていたのか。」(58ページ)

「この短編は好評だった。もちろん嬉しいのだが、誉められるほどに、気持ちに滓の如く、鬱々たるものが増殖。六月五日から八月二十一日までの、ぼくと妹の過ごした日々に、ほぼ基づいている。妹の歳、場所は違う。なにより作中でぼくらしき同年の兄は餓死してしまう。痩せ衰えるばかりの妹を、兄は懸命に『自分の指を切って、油で炒めて食べさせたろ』とさえ思う。自分の食いぶちを与え、妹のために盗む。現実は逆。まだ肉のついていたころ、赤ん坊特有のプクプクしたふとももに、ぼくは食欲を覚えた。罪深くその時に感じたことだが、妹のために咀嚼してやるつもりの炒り大豆カスを、ふと喉へすべらしてしまう。野荒しの収穫は、おおかた響子への貢物となった。田螺、野草を貝の小鍋で煮た。しかし一歳三、四ヶ月では食べられない。なにより、ぼくの気持ちは響子に傾倒していた。妹は邪魔っけなだけ。」(94、95ページ)

「ぼく一人が怯えていた。どうせお終いだと、どこまで身に沁みて思ったか。伶子に対する態度もぞんざいになった。泣けばなぐる。向いの旋盤屑積めた南京袋の上に置く。伶子の尻に点々と赤いものがあり、虫刺されではなく、袋から突き出た鉄屑の鋭い切っ先による跡。伶子は首がすわらなくなり、もとより言葉を失い、一日寝たきり。」(116ページ)

「伶子の異常な痩せ方に驚いたのは八月二十一日夜。(中略)十八日、配給があった。亡くなるまでの五日間、なんとか妹の口にし得るものを手にした。伶子は少し食べたように思う。木製のスプーンに残った粥、唾で柔らかくした乾パン。ぼくの胃袋に収まってしまったが。」(119ページ)

「伶子の死を母と祖母にどう告げればいいのか。四人一緒にいたとしても、あの衰えぶり。八月の大阪近郊の主食配給がどんな具合だったか知らないが、春江より良かったとは思えない。
いちばん弱い存在だった伶子は生きのびれなかったろう。しかし、母、祖母のかたわらに身を置きたくなくて、さかしらげな言葉を弄し、ぼくは逃げたのだ。伶子の死は自分の責任じゃない。だが、骨と皮の素っ裸を豆殻にくるまれた伶子の遺体眼にして、痛そうだと、いやたしかに痛みが伝わった。同時にぼくはホッとしていた。罪の意識じゃない。自分だけ生き残ったことのやましさなどてんからない。」(126、127ページ)

「合掌という行為が伶子の亡骸と結びつかないのだ。自分に対する弁解かもしれない。焼けるまで彼岸に墓参り、盆にお迎え火を焚き、なにより、四年前、妹が亡くなって、仏教のしきたりあらまし心得ている。だが、伶子を焼いて以来、気持ちにしろ形にしろ、その冥福を祈ったことがない。」(141ページ)

「栄養失調気味の多い中で、盗みにより飽食していたぼくの体つきはマシにみえたのか、すっかり気落ちしたぼくに、三高陸上部の二人が合格したら入部しろと勧めた。」(187ページ)
 
「ぼくが両側の房の並ぶ通路で身体検査をされた時に見たそうだが、『お前、魔羅で食える。いいもの持ってるじゃないか。』と言った。その意味するところはまったくわからなかったが、奇妙な自信がついた。事情が事情のせいだが、ぼくを力づけた一言といえば、まずこれだろう。きみの文体はおもしろいとか、『醜悪無惨な世界をえがいていて、だが作者は常にやさしい』などの誉め言葉より、ずっと印象に残っている。」(201ページ)
11:777 :

2022/05/22 (Sun) 15:32:30

【ゆっくり解説】清太が節子の骨を食べる衝撃シーンが怖すぎる - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2YhTEB0LYlQ

【ゆっくり解説】清太生存ルートのアナザーストーリーが実在していた(火垂るの墓) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5AAPq6xWNME


【都市伝説】原作を読まないと分からない!都市伝説3選!火垂るの墓の本当の姿がヤバすぎる!【ジブリ】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CtwjfRsvqI8
12:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/26 (Sun) 09:45:55

野坂昭如 『火垂るの墓』・戦争アニメ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14098850

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