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日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している

1:777 :

2022/05/22 (Sun) 05:05:03

日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している 鈴木傾城

多くの日本人は勘違いしているのだが、物を覚えるというのと、考えることができるというのは別のものだ。

・覚える。
・考える。

この2つは似ているようで、まったく違う。覚えるというのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶するというものだ。

しかし、「覚える」というのは単なる基本であり、本来はそこからさらに飛躍しなければならない。それが「考える」というものだ。

学校が物を覚えさせる場所であるというのは誰でも知っている。しかし、考えさせているのだろうか。

日本の教育は、構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっている。覚えさせても、考えさせないのである。「考える」という部分を軽視している。

なぜか。それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解できるかもしれない。学校とは、社会で通用する人間を作り出すところだからだ。日本で「社会に通用する」というのは、サラリーマンになれるということでもある。


教育とは子供を規格化するという側面がある

学校は最終的に子供を社会で通用する人間に「矯正」する場所である。子供を規格化するのだ。

日本では国民の8割がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な使命は日本人がサラリーマンとして通用するように規格化するのが使命と言うことになる。

ここに問題がある。サラリーマンとは、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる人間でなければならない。

だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった人間を作り出す仕組みになっているのである。上記の特徴を、もう一度よく考えてみて欲しい。あることに気づかないだろうか。

「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの人間になるということである。つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

「口答えしない」と言うのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するというものだ。つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それはすなわち自分で「考えない」ことが求められている。

「不満があっても黙々と働く」という奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できる。

「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであるから、「考えない」ことで達成できるのだ。


「よけいなことを考えるな」というメッセージ

サラリーマンは考えることよりも、考えないことが求められる職業である。何をどうするかという部分についても「考えさせない」ために、企業は「マニュアル」を用意している。

マニュアルというのは、実は人間を「考えさせない」ためのものであることに気づかなければならない。

マニュアルは効率化とサービスの均質化を生み出すので企業にとっては好都合な存在だ。

しかし、逆に考えると、それを行う人間には「この通りにやれ」という強制になる。

誰もが同じ手順でやるように強制し、一切の例外を認めさせない。マニュアルは、「よけいなことを考えるな」というメッセージなのである。

サラリーマンが考えていいのは、会社が「考えろ」と強制した部分だけだ。それ以外の部分は「考えないこと」が期待されている。

それもそうだ。考えるというのは、自分の意見を持つということだ。考えて自分の意見を押し通すというのは、集団よりも個人を優先するということなのだ。

サラリーマン全員が、自分の好き勝手にあれこれ考え始めると、統制が付かなくなる。

だから、あれこれ「考えない」で、言われたことだけを完璧に実行するロボットのような人間を企業は欲しがり、学校はそれを意識的にも無意識的にも読み取って、そのようになるように子供を矯正していく。

学校に課せられた使命は、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」人間を作り出すことなのだ。

そして、国民の8割が学校を卒業してサラリーマンになるのだから、その教育は成功していると言うことができる。


日本の教育では「考えさせない」ことが使命

ところで、人間はいろいろ物を覚えさせれば自然に「考える」人間になってしまう。しかし、日本の教育では「考えさせない」ことが使命としてある。

教育の現場では、どうやって子供たちを考えさせないようにしているのだろうか。それには、次の5つによって、成し遂げられている。

(1)暗記を押し付けて「考えさせない」
(2)苦手を押し付けて「考えさせない」
(3)制服を押し付けて「考えさせない」
(4)規則を押し付けて「考えさせない」
(5)団体行動を押し付けて「考えさせない」

暗記をひたすらやらせると、考えるヒマがない。だから、学校は考える余裕がなくなるほど、暗記させる。

暗記教育が悪いわけではないが、暗記重視によって考えるという部分が消失してしまうようにしているのは問題だ。

得意を伸ばさず、苦手を克服するように仕向けるのも、考えさせるのを嫌にするための手法だ。

誰もが苦手なものを考えるのは苦痛だが、その苦痛を押しつけることによって、考えることそのものを苦痛にしてしまう。その結果、誰も考えなくなってしまう。

制服を押しつけるのも、個性を殺して「考えさせない」ための有益な手法である。

細かい規則を守らせるのも、団体行動を強制するのも、すべて「考えさせない」で「従わせる」ためのものなのである。学校が馬鹿げているほど細かい規則を守らせるのはなぜか。

究極的には「何も考えず、黙って従う」人間を作り出すためだ。日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出していると言っても過言ではない。

あなたは考えているだろうか? あなたの受けた教育は、社畜になるための教育だったのだから、「自分を取り戻す」ためには、学校で覚えたことはすべて忘れる必要がある。

ただ、サラリーマンで居続けたい人間だけは、考えてはいけない。下手に考えると、社会からはぐれてしまうからだ。


▲△▽▼


ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html

女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/544.html

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/564.html

クラシックの作曲家はアル中、 ジャズ・ロックのミュージシャンは全員麻薬中毒
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/917.html

まともな人間は音楽家になれない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html

まともな人間に芸術は理解できない _ ゴッホは何故ゴッホになれたのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/481.html

元弟子が語るイエス教団「治療」の実態 _ 性を敵視する欧米の文化
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html  








2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/12 (Thu) 07:39:34

2023年1月11日
【藤井聡】甘利さんに「15%消費増税」発言をさせた「ザイム真理教」の「緊縮思想」。その社会心理学的メカニズムとは何か?
From 藤井聡@京都大学大学院教授
https://38news.jp/economy/23638

みなさん、 こんにちは。表現者クライテリオン、編集長の藤井聡です。

皆様も既にご存じかと思いますが、甘利元自民党幹事長の発言には、誠に驚きましたですね。日本を救うためには消費減税が必要だと議論しているこの大不況状況にある現在の日本の状況の中で、甘利さんは、少子化対策のためには15%の消費増税が必要だと示唆する発言を行ったわけです。

理性ある人、常識ある人にしてみれば、こんなことを言う甘利という男は完全なる基地の外の人なんじゃないかとすら感ずるかと思いますが、彼にしてみれば至って真面目にそういう発言をしているのです。彼は本当に、日本の為に消費税15%が必要だと思っているのです。

甘利氏はなぜ、そんな事を考えているのでしょうか?

この問題について、当方のメルマガ『表現者クライテリオン・編集長日記』(https://foomii.com/00178)にて、数回にわたって詳しく解説差し上げましたので、その冒頭部分を下記にご紹介差し上げます。

まず……繰り返しますが、理性があれば、完全に基地の外としか解釈できない狂った信念ですが、

(基本認識1)今、日本の借金は凄まじく多く、このまま借金が膨らみ続ければ、日本は破綻して、日本が沈没する。
(基本認識2)だから、政府支出は削らなきゃならん。
(基本認識3)にもかかわらず政府支出を増やしたいなら、増税するしかない。

という三つの基本認識から構成される「緊縮思想」という思想を信じ込んだ人々にとっては、甘利発言というのは至って当たり前の理性的なものだと感じているわけです。

しかし、これらの3認識は完全に間違い。

日本政府は円建て債券では破綻しないし、したがって、政府支出カットも増税も要らないのです。しかも、こうして緊縮思想が蔓延すれば、日本は確実に滅び去る、ということも真実です。

したがって、こんな緊縮思想を蔓延させている財務省というのは、メチャクチャに悪い悪の組織であり、その職員たちも、超悪人達だ……という風に思えてくるのも当然だと思います。

しかし、そういう認識は半分正当ではありますが、半分間違っています。

まず、財務省は、「組織」としては、学者まで使って真実を歪め、メディアの論調まで支配して世論を歪め、それらを通して日本の政治を歪め、日本経済に深刻なダメージを与えているわけですから、「悪の組織」と言わざるをえません。

しかし、そこで働く財務省の職員は決して、反社会勢力の極悪人の様な人々とは決して言えない人々ばかりなのです。

かれらは概して優秀で、真面目で、日本を潰そうというよりはむしろ、日本にとって良いことをしたいという気分を僅かなりとも持っていることは間違いありません。一人一人とつきあえば、決して悪の権化の様な人格をしているのではなく、どこにでもいるような、普通の人間、むしろ、普通に優秀な人間達です。

しかし、彼らは、財務省という組織の中の「組織人」であることに相違はありません。彼らは東京大学をはじめとした難関大学に入れる程に優秀な人々です。そうした難関大学に入ろうとすれば、大人社会が用意した「問題」に何の疑問も挟まずに取り組み、同じく何の疑問も挟まずに、大人社会が用意したその問題の「答え」に辿り着こうと必死で努力し、より効率的、効果的にその「答え」に辿り着くための競争に、幼少期、青春期の貴重な時間を十年以上も費やして取り組み、そして勝ち残った方々です。

したがって彼らが優秀なのはあくまでも「大人社会が用意した問題に取り組み、大人社会が用意した答えに辿り着く」という〝ゲーム〟なのです。このゲームにおいて重要なのは、「真実」や「真理」を見いだす能力ではありません。あくまでも「大人が用意した答え」を見いだす能力なのです。したがって、彼らは、理性を働かせて実態を読み解く能力が秀でているとは限らないのです。彼らが秀でているのは、「大人社会が用意した答えは何かを〝忖度〟する能力」だけなのです。

そしてそんな「大人社会への〝忖度〟能力」なんてものは、「社会を救う」だの「社会をよくする」だの「幸せになる」「人を幸せにする」だのといった、正解のない問題を乗り越える能力とは全く別のものです。もちろん、両者が重なる部分というのはあるでしょうが、重なるとは限らないのです。というより、難関大学になればなる程、その両者の重なりは少なくなっていき、現実問題の対処能力とは無関係の能力が鍛え上げる様になっていくのです。

まさに日本の戦後教育の歪みそのものを体現している若者達が財務省にこぞって入ってくる、というわけなのですが、兎に角彼らは、財務省に入れば、まず最初に、

「この財務省では、どういう風に振る舞うことが正しい振る舞いなのでしょう?」

という忖度を必死になって行うのです。つまり、彼らは決して、「日本のために、時に上司や組織とも対立しながら戦う存在」になろうとは一切考えず、あくまでも、「善き、善良な財務省の役人」になろうと考えるのです(繰り返しますが、そういう風に20年以上の時間を費やして育て上げられてきたのが彼らなのです)。

そんな財務省の中に蔓延しているのは、言うまでも無く「緊縮思想」です。

そんな「緊縮思想」に徹底的に染め上げられた頭脳を持ち、ありとあらゆる言動を緊縮思想と整合させることができる役人こそが、「理想的な善き財務役人」であり、そうでない役人、つまり、緊縮思想に疑いを持ったり、そんな緊縮思想と調和しない言動をしてしまうような役人こそ「出来損ないの二流品の財務役人」と見なされる事になります。

こういう特定の思想が支配する組織に属する人々の精神は、オウム真理教や統一教会などの新興宗教のそれと何ら変わりません。したがって、こうした財務省における緊縮思想を巡る思想的共同体は、しばしば『ザイム真理教』と揶揄されています。

もちろん、ザイム真理教に染まりきらない役人も一定数程度は財務省には入省してくる筈ですが、残念ながら、そういう役人が役所の中で出世していく可能性は決して高くありません。やはり、敬虔なる『ザイム真理教』信者としてふる舞い続ける役人の方が出世していく可能性が高くなります。

その結果、財務省という組織は、より強固な「ザイム真理教」教団となっていくわけです。

……誠に恐ろしいメカニズムですが、このザイム真理教があるからこそ、甘利発言があるのであり、そして近未来においてホントに岸田総理によって消費税は15%にまで上げられてしまうのです。

何とかこのメカニズムを止める手立てを考えねばならないのです。

我々が直面している最大の問題はまさに、ここにあるのです。

追伸:本稿に続く続編記事として、下記を配信しています。

『ザイム真理教』の社会心理学分析 ~矢野康治氏は〝どうやって〟事務次官にまで上り詰め、〝なぜ〟文藝春秋でバラマキ批判せねばならなかったのか?~
https://foomii.com/00178/20230108100000104101

さらに、こうした議論の学術的な根拠についても、下記にて論じています。
財務省が、 マスメディア・政治家にどれだけ強大な影響を持ち、情報を歪めて来たのかについての客観的な〝学術研究〟をご紹介します。
https://foomii.com/00178/20230110105636104195

是非、ご一読下さい!
https://38news.jp/economy/23638
3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/13 (Fri) 12:17:50

スティーヴ・ジョブズや ビル・ゲイツは自分の子供には電子機器を与えない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14079927

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html

スマホを使うとバカになる
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14055416
4:777 :

2024/03/02 (Sat) 14:35:34

内田樹の研究室
文字の書けない子どもたち
2024-02-27
http://blog.tatsuru.com/2024/02/27_1129.html

 高校の国語の先生から衝撃的な話を聴いた。生徒たちが文字を書けなくなっているというのである。教科書をただノートに筆写するだけの宿題を毎回課すが、やってくるのは半数以下。授業中に書いた板書をノートに写すようにという指示にも生徒たちは従わない。初めはただ「怠けているのか」と思っていたが、ある時期からどうもそうではないらしいことに気がついた。
『鼻』の作者名を問うテストに「ニコライ・ゴーゴリ」と答えを書いた生徒がいた。ゴーゴリもその名の短編を書いているが、教科書で読んだのは芥川龍之介である。どうしてわざわざゴーゴリと書いたのか生徒に訊ねたら「漢字を書くのが面倒だったから」と答えたそうである。 
 生徒たちの提出物の文字が判読不能のものが増えて来たという話は大学の教員たちからも聴く。学籍番号までは読めるが、名前が読むのが困難で、コメントの文字に至ってはまったく解読不能のものが少なくないという。何を書いたのか学生自身に訊いてみたら、自分でも読めないと答えたそうである。
 一体何が起きているのか。どうやら文字を書くという動作そのものに身体的な苦痛を感じる子どもが増えているらしい。
 文字を書くというのはかなり精密で繊細な身体運用を要求する。筆で書くなら、ひとさし指と中指をかけて親指で筆を抑え、肘を上げて穂先をまっすぐ立てる。これを「懸腕直筆」という。昔お習字の時にそう教わったはずである。この姿勢をとると体軸が通る。
 武道家として言わせてもらえば、体軸が通っていないと手足の自由は得られない。文字を書くためには、まず身体の構造が整っていないと始まらない。当たり前の話なのだが、どうも当今の子どもたちはその身体の構造そのものが崩れ始めているように思われる。
長い話になりそうなので、続きはまた次週。
 
 先週の続き。「文字の書けない子どもたち」がどうして生まれて来たのかについて武道的立場から考察したいと思う。
 筆で字を書く時にかなり精密な身体運用が求められる。能筆の人は横に一本線を引く時も、勢い、太さ、濃淡を細かく変化させながら筆を運ぶことができる。
 最後の首切り役人だった八世山田朝衛門は斬首の一閃の間に涅槃経を唱えたと後年述懐している。右手の人差し指を下ろす時に「諸行無常」、中指を下ろす時に「是生滅法」、薬指を下ろす時に「生滅滅已」、小指を下ろす時に「寂滅為楽」。そこで首がぽとりと落ちるのだそうである。一瞬の動作を四句十六文字に分節していることになる。斬ることの本質が力ではなく、動作の精密さと多分割にあることがよくわかる逸話である。
 精度の高い身体運用をなしうることは生きる上での必須の能力である。それができなければ、包丁で葱を刻むこともできないし、針の穴に糸を通すこともできないし、文字も書けない。しかし、どうやらその基礎的な「生きる能力」が今の子どもたちは衰えているらしい。
 文字なんか書けなくても、キーボード叩けば済む。葱だって刻んだものを売っているし、靴下の穴なんかけちくさく繕わずに買い替えればいい。そうかも知れない。でも、身体の構造が崩れて、細密動作ができないという子どもたちを制度的に創り出しているかもしれないという危機感を大人たちは持った方がいい。
 文字を書くというのは、 罫に沿って、あるいはます目に合わせて、複雑な図形をかたちよく配列することである。字間調整も必要である。おそらく古人は子どもたちが書字によって身体の精密な運用を学び、生きる力を高めるということを知っていたのだろう。だから、子どもたちに「黙って臨書しろ」と命じたのだと思う。今さら習字を必修にすることはできない。
 では、どうしたらいいのか。私にもわからない。
http://blog.tatsuru.com/2024/02/27_1129.html
5:777 :

2024/03/31 (Sun) 18:14:03

2024年03月31日
英語の先生は白人の方がいい / 混迷する英語教育 (前編)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956517.html

ネイティヴの先生が欲しい

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(左 : 「理想的な英語教師」と思われるアメリカ人女性 / 右 : 「現実的な英語教師」となるフィリピン人女性 )

  近い将来、日本は「アジア圏に埋没した東洋のブラジル」になる。というのも、“グローバリゼイション”が日本の潮流となり、アジア人が大量に住み着く多民族国家になるからだ。歴代の自民党政権、とりわけ岸田内閣は移民の輸入に熱心で、外国人労働者を“育成”するという名目で家族連れの移民を増やす政策に舵を切った。

  実に恐ろしい方向転換だが、政府は輸入目標を82万人くらいに設定し、介護や食料製造業のみならず、自動車産業や運輸業界、バスや鉄道などの分野でも外国人労働者を増やすつもりらしい。(「特定技能の外国人、5年で82万人に拡大 政府が閣議決定」日本経済新聞、2024年3月29日) 日本政府は国境の壁を低くして安価な労働力を獲得する一方で、日本人にも“アジア化”の努力を要求している。

  日本に入ってくるアジア人やアフリカ人は、日本語研修でコミュニケーションが取れるよう訓練されるそうだが、日本人の方も「英語」で外人と意思疎通が出来るよう訓練されるという。実際、英語教育は小学校から始まり、三年生と四年生は英語に親しむ「外国語活動」を受講し、週1コマ、年間35時間ほどの“調教”を受けるそうだ。五年生や六年生になると英語の授業は「教科」となり、週2コマ、年間70時間くらいの授業になるという。

  こうした英語教育は中学校になると更に強化され、教室には直接あるいは間接的に外国人の「ALT(Assistant Language Teacher / 外国語補助教員)」が現れる。形式的には、生徒に“本場の発音”とやらを伝授する方策というが、実際は“お遊び”の一環だ。たぶん、日本人の教師だと英語の発音が下手糞だから、ネイティヴ・スピーカーを雇って“臨場感”を体験させるつもりなんだろうが、そんな授業で“英会話力”がつくことはない。もし、英国のコメディー番組を子供達に見せたら、「先生、何を話しているのかサッパリ解らない!」という反応だけが返ってくるはずだ。

  文部省の役人は対面教育を企画したが、実際にイギリス人やアメリカ人、つまり西歐系の白人を雇うとなれば費用が嵩むから、現実的な対策としてフィリピン人やインド人、あるいは香港の支那人を雇うことにしたのだろう。こうしたアジア人を雇えば、多少なりとも経費の節約になるからだ。

  そもそも、歐洲や北米から白人教師を招こうとする発想じたいが間違っている。文部省の役人は「JETプログラム(Japan Exchange and Teaching Programme)」を拵えて、ネイティヴ・スピーカーを招こうと考えたが、日本の学校で英語を教えたいと望む白人青年は、いったい何人いるのか? キリスト教のプロテスタント宣教師なら「日本行き」に手を挙げるかも知れないが、普通の白人青年だと難しいぞ。

  政府は年間で約280万円から396万円を払い、渡航費用や住宅手当、健康保険料などを負担するというが、そんな条件で適切な人材が集まるとは思えない。(総計で1人当たり約600万円の費用となるらしい。) 確かに、効果的な宣伝を繰り返せば、ある程度の人数を確保できようが、“まとも”な西歐人は応募しないだろう。実際、教員の確保に困った学校は、民間の派遣業者に頼っている。

  歐米諸国と同じく、日本の役所も人種問題には敏感で、全国の小中学校に補助教員を派遣しても、実際にどんな人物なのか、つまり「国籍」ではなく「民族・血統」での分類、経歴や能力のレベル、生徒による正直な評価を公表することはない。補助教員の大半はアメリカやカナダからの教師らしいが、それだって黒人なのかヒスパニックなのかも判らないし、ひょっとしたら「カナダ国籍の支那人」という場合だって有り得る。民間業者に頼っても西歐人の教師を獲得できない学校は、在日フィリピン人を雇うか、フィリピンからのオンライン授業で誤魔化すしかない。つまり、“安上がりの外人”で困難を克服しようとする訳だ。

  ところが、フィリピン人の「ALT」じゃ不満というか、「そんな先生じゃイヤだ!」という拒絶反応が、生徒や保護者から出てくる。最近、大阪府の堺市でちょっとした騒動が起きた。3月13日に行われた市議会特別委員会の席で、水ノ上成彰・市議が「フィリピン人に英会話を教わるなら、日本人の教師に教わればいいのではないか」と述べたらしい。彼は現在の英会話授業に疑問があるらしく、日本の子供達は「かつてアメリカの植民地だったフィリピン人に英語を教わっている。これは決して愉快な話ではない」と発言したそうだ。(「市立中でフィリピン人が英会話講師『愉快な話ではない』『日本人に教われば』…市議発言に厳重注意」読売新聞、2024 年3月26日)

  現地の市民グループは直ちに水ノ上市議の発言を「ヘイトスピーチ」と非難したが、一般国民の中には彼の意見に共鳴する人も居るんじゃないか? 批判を受けた水ノ上市議は新聞記者の取材に対し、「フィリピン人の方を下に見るつもりではなく、日本人がもっと頑張れというつもりだった。委員会での発言を全部聞けば分かってもらえる。撤回するつもりはない」と話していた。

  主流メディアの論説員や御用学者は、水ノ上氏の発言を捉えて「差別だ! 人種偏見だ!」と糾弾するが、それなら訊くけど、新聞社の重役や大株主、広告企業の経営者は、自分の子供達を普通の公立学校に通わせ、フィリピン人の教師に預けているのか? 例えば、テレビや新聞に広告を出すトヨタ自動車とか三菱UFJ、住友商事、三井物産、NTT、ソニーといった有名企業の重役は、自分の息子や娘に“エリート教育”を授けるが、庶民の子供が集う公立学校に通わせ、フィリピン訛りの英語を学ばせることはない。

  具体的に言うと失礼になるけど、港区のタワーマンションに住む高学歴の“リベラル・ママ”は、足立区や荒川区の公立学校を選択しないだろう。慶應義塾の幼稚舎、暁星幼稚園、成城幼稚園などで“英才教育”を受ける箱入り娘は、西歐白人の教師から“ちゃんとした英語”を学び、西洋風の“国際感覚”を身に付ける。お金持ちの家庭だと、アメリカ白人の家庭教師を雇って、自宅でのプライベート・レッスンだ。ちなみに、安倍晋太郎は若き平沢勝栄を家庭教師に選んだが、息子の晋三がどう反応したのか判らない。まぁ、晋三坊っちゃんは、「えっ!、この人、江戸時代の水呑百姓みたい!」と思ったんじゃないか? (知らんけど。) とにかく、安倍家の人選にはセンスが無かった。

  一般的に、校長先生や教育評論家は、生徒の自主性とか言論の自由、独立精神の涵養など、綺麗事を並べて自前の教育論を披露するが、実際は違っており、権威主義の“事なかれ”学校とか、規則で雁字搦めの“お役所的学校”が多い。「俺の在任中だけ問題が発覚しなければいい!」という校長や教頭がほとんど。日本各地がこんな有様だから、普通の公立学校には「選択の自由」は無い。教室の壁によく、毛筆で書かれた「誠実」とか「真理」の紙が貼られているけど、こんなのは滑稽な標語だ。「臭い物には蓋」という壁紙に変えればいいのに。

Kate Middleton 6203Meghan Merkel 772(左 : キャサリン・ミドルトン / 右 : メーガン・マークル)
  話を戻す。もし、本当に生徒がATL教員を選べるとしたら、校長先生が真っ青になる事態が起こってしまうだろう。例えば、ブリテン英語を授けるため、地方の中学校がイングランドから補助教員を2名招いたとする。一人はキャサリン・ミドルトン(Catherine E. Middleton)のようなイギリス人女性で、もう一人はメーガン・マークル(Meghan Markle)の如き黒人女性だ。仮定の話だが、もし生徒100名に「選択の自由」が与えられ、アンケート調査を行ったら、どんな結果になるのか? もし、97名が「ミドルトン先生がいい!」と答えてしまい、残りの3名が仕方なく「メーガン先生」を選んだとしたら、担任の先生や校長は冷や汗ものだ。おそらく、生徒の希望は却下され、教師の勝手な裁量で50名が「ミドルトン・クラス」に、そして残りの50名は「メーガン・クラス」に振り分けられるだろう。

学校英語は「実用的」じゃない

  学校での英語教育に関しては、昭和の頃から色々な苦情があり、言語学者の故・渡部昇一・上智大学教授も持論を述べていた。英文法史を専攻していた渡部先生は、学校の授業は英文読解と文法理解にあると喝破していた。もちろん、先生は英会話の重要性を知っていたが、それは“慣れ”というか、英語圏内で暮らしているうちに身につく“反射神経”のようなものだ、と説明していた。大切なのは、英語の文章を正確に理解できるよう文法を勉強し、きちんとした文章を書けることにあるらしい。なるほど、英米の大学では、教師の前でペラペラ喋ることができる学生より、論理的で立派な論文を書ける学生の方が高く評価される。それゆえ、教養人になりたい日本人は「読み書き」の勉強をした方がいい。

  もう一つ、渡部先生が共著『英語教育大論争』の中で討論した事で、とても印象的だったのは、学校の穎悟教育を受けた日本人には、「恨み(resentment)」があるという指摘だ。勉強熱心な人でも、「俺は中学から大学まで、ずっと英語を勉強してきたのに、実際にアメリカ人と会うとしどろもどろで、まともな会話が出来ない! しかも、英語の発音が悪いし、相手が何を喋っているのかさえ解、ちっともらない。これは学校教育に問題があるからだ!」と嘆く人が多い。こうした辛い経験をした人が役所の中にも多いから、「もっと英会話力を強化する授業が必要なんだ」という意見が多数派になってしまうのだろう。高級官僚の中にも、ハーヴァード大学やジョージタウン大学に官費留学をする人がいるから、文部省の“改革”に賛成する人は少なくなかった。

  しかし、「英会話力」は一部の人だけに必要な能力だ。自分の「英語力」を嘆く人は、独自の努力で身に付けるしかない。英文学の研究家として著名だった福原麟太郎も、英語教育に対する世間の非難を取り上げていた。福原氏によると、「英会話力」というのは畢竟「実用的価値」であり、日本国民全体が没頭する勉強じゃないという。一般国民の大多数は国内で生活し、イングランドやアメリカ、オーストラリアで仕事をする人は極少数だ。福原氏に言わせれば、外交官や貿易商などの“特殊な人々”が必要とする能力である。

  確かに、スイスの国民なら、ドイツ語を日常語にする人でもフランス語やイタリア語を多少なりとも知る必要があるし、香港やシンガポールの人々なら英語は必須科目だ。もちろん、シンガポールやマレーシアの華僑は、家庭内で上海語や広東語を話しているが、商売では便利だから、もっぱら英語で通している。フィリピンでも土人が英語を話しているが、それは現地語だと近代文明の学問が出来ないからだ。例えば、タガログ語やセブアノ語では学術論文どころか、小学校の理科や数学ですら出来ない。インドと同じで、支配者の言語で勉強するしかないのだ。

  学校の英語教育に関して、福原氏は「必要が才能を生むので、学校教育とは無関係である」と述べていた。(福原麟太郎『この国を見よ』大修館書店、昭和36年、pp.109-110.) 昭和の頃、よく多国籍企業や大会社の重役などが、英会話の苦手なヒラ社員を見て「学校の教師は何をしているんだ!」と文句をつけていたが、福原氏は苦々しく思っていたという。なぜなら、下っ端の若い社員たちは、たとえ経済学士や法学士であっても、入社すればソロバンの稽古や簿記の勉強をしたりする。もし、会社の上司が「実用英語」を要求するなら、新入社員に「英会話」という能力を仕込めばいいじゃないか、という訳である。1年くらい“みっちり”稽古すれば、英会話や商業通信くらいできるはずだ。

  なるほど、福原氏が言うように、英語の訓練だけは学校に押しつけ、重役どもが一方的に「学校の授業など役に立たない!」と不満をぶつけるのはおかしい。英語の専門家である福原氏は、しばしばラジオの座談会などに招かれ、英語教育に関する質問を受けたというが、そうした時には次のように答えたそうだ。「私はいつも実用になるようになどと思って私は英語を教えてやりません、学校の英語は実用になりません」と。(上掲書、p.110.)

  一般的に、我々は学校教育に期待しすぎる。平成時代になると「モンスター・ペアレント」なる保護者が現れ、子供の躾まで教師に要求するようになった。実の親がしないことを担任教師に押しつけるなんて言語道断だ。福原氏によると、学校の英語教育における目的は、「言葉の不思議さ」を体験させることにあるという。福原氏は次のように説明していた。英語は日本語とかなり違うことが子供にも解る。日本語だと1頭でも100頭で「馬」という単語に変化は無いが、英語だと1頭の馬(単数)と2頭の馬(複数)とでは言葉が違ってくる。子供はこうした言語の違いに直面した時、心に何らかの振幅を抱く。福原氏によれば、これこそ学校英語の「功徳」らしい。学校英語というのは「非実用的」で、西洋人に会った時、「おはよう」と言うためのテクニックを教えるのが主眼ではないという。

  文部省の役人が提言する教育理念は単純だ。幼い頃からネイティヴ・スピーカーに接触し、彼らと直接“会話”し、それに慣れれば、自然と“英語力”が身につく。グローバル化した社会では、英語を流暢に話せる者は有利だ。「さぁ、皆さん、レッツ・スピーク・イングリッシュ!」と呼びかける。だが、福原氏が指摘するように、英会話が必要となれば、その時に猛勉強すればいいのである。大切なのは学校で基礎知識を身につけることだ。すなわち、英文法をしっかりと勉強し、明確で論理的な文章を書けるようになれば、英会話の訓練にも充分対応できる。これがもし、英文法の知識が曖昧で、英語論文すら正確に理解できない人は、ブリテンやアメリカに行っても英会話力は身につかない。

  まぁ、長いこと暮らせば、簡単な日常会話なら出来るようになるだろう。日本でもフィリピン人酌婦が、日本語を覚えて客の相手をしているから、日本の一般人でも不可能じゃない。だが、英米の教養人を相手とした会話は無理だ。なぜなら、アメリカやブリテンには腐るほど「英語を話せる人」が存在し、流暢に話せたくらいじゃ尊敬されないからだ。よく、日本の英語教育に不満を漏らす日本人は、「アメリカやイングランドで暮らせば、自然と流暢に話せるようになる!」と思い込んでいる。

  しかし、こうした意見は妄想だ。愚かな学習方法を信じる日本人は、呆れるほど語彙が乏しく、専門知識も無いから、話している内容も幼稚でつまらない。上層中流階級のイギリス人やアメリカ人は、たとえ拙くとも“面白い”話をする日本人の方を好む。つまり、歐米の知識人というのは、自分が知らない事を教えてくれる外国人や、知的好奇心を喚起するような会話、もっと知りたくなるような刺戟的で深みのある会話が大好き。NYやLAの黒人ラッパーが話す程度の英語じゃ笑われてしまうぞ。

  英語の発音が下手糞な日本人は劣等感に苛まれ、英語を流暢に話す日本人を羨むが、そんなのは愚かな発想だ。米国だと、黒人のアメフト選手やコメディアンが早口で流暢に喋るが、手紙や論文を書かせると、「小学生並」だったりする。英米だと乞食やシャブ中だって英語を話すが、そんなことで尊敬する人は虫眼鏡で探しても居ないだろう。英会話に劣等感を抱く親は、「早期教育が大切だ」とばかりに、我が子を無理矢理、遠くのアメリカンスクールや“白人生徒”が通うインターナショナル・スクールに通わせたりする。だが、そんなのは資金と時間の無駄でしかない。

  本来なら、日本語能力を先に附ける方が重要なのに、幼稚園から英語を学ばせれば“インターナショナル”な秀才に育つと思っているのだ。でも、実際は学校の英語と家庭の日本語で、子供の頭が混乱してしまい、どちらも中途半端になってしまうのがオチである。可哀想なのは、ペットにされた子供の方である。不充分な言語能力で勉強となるから、論理的思考を基礎とする理科や数学の授業について行けなくなるのだ。試験の設問を読んでも理解できない子供が、正確に答えを述べることが出来るのか?英会話に夢中の親は、子供が中学生や高校生になった時に自分の間違えに気づいたりする。
 
日本語で暮らせる日本

  文部省の役人は「有識者」という提灯藝者を集め、「自分たちの意見」を正当化する。「グローバル化に対応した英語教育改革の五つの提言」という報告書なんて実に馬鹿らしい。ここで披露されている「提言」なるものは、呆れてしまうほどの妄想で、「別の魂胆があるんじゃないか?」と疑いたくなる。例えば、次のような文言があった。

 国民一人一人にとって、異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になる。その際に、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべきである。今後の英語教育改革において、その基礎的・基本的な知識・技能とそれらを活用して主体的に課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等を育成することは、児童生徒の将来的な可能性の広がりのために欠かせない。

  「アジアの中でトップを目指す」だって? どうして日本がアジア諸国に参入し、アジア人と比較されねばならぬのか? 日本は昔から「アジアの国」でもないし、「儒教圏」でもなかった。日本人は独自に日本文化圏を築き、日本人同士で暮らしてきたから、素晴らしい民族となったのだ。別の機会で述べたいが、近くに住んでいようが、支那人や朝鮮人は日本人にとって「エイリアン」でしかない。ベトナム人やフィリピン人も、全くの“異邦人(よそ者)”である。明治維新後の日本人は、「やっと海外渡航が解禁になった!」と喜んで、朝鮮半島や支那大陸、東南アジア、インド、アフリカを漫遊したが、現地の土人を目にしてビックリ仰天だった。明治の頃は共同通信社の「禁止用語集」や「PC(政治的に正しい言葉遣い)」が無かったから、露骨な評論が多かったけど、正直な感想だから本当に面白い。

 「報告書」の有識者は、次のような事も述べていた。

 現在、学校で学ぶ児童生徒が卒業後に社会で活躍するであろう2050(平成62)年頃には、我が国は、多文化・多言語・多民族の人たちが、協調と競争する国際的な環境の中にあることが予想され、そうした中で、国民一人一人が、様々な社会的・職業的な場面において、外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される。

  こうした「提言」を聞いていると、もうウンザリしてしまうが、文部省の役人が取り上げる「思考力」や「判断力」を育成したいのであれば、先ず国語や歴史の授業に力を入れるべきだろう。日本人は日本語で考え、日本語で意思疎通を図り、日本語で表現するのが普通だ。ルー大柴みたいな藝人は例外だし、ゼンジー北京は偽の支那人だった。小池百合子は「コンプライアンス」とか「ウィン・ウィンの関係」といったカタカナ英語を得意とするが、江戸の庶民は日本語で暮らしているんだぞ。小池都知事はアラビア語を“習得”したというが、本当に学術的なアラビア語論文を書けるのか?

  元キャスターの小池百合子は、武漢ウイルスがちょっと終熄した時、「ゴー・トゥー・トラベル」と口にして一般国民に旅行を勧めていたが、我々はサーカスの犬じゃない。日本語で「みんな揃って旅に行こう!」でいいじゃないか。もし、小池都知事に「伏せ、お坐り、でんぐり返し」と言われたら、東京都民はそうするのか? 今流行(はやり)の「SDGs」なんて、支那人の悪徳業者かヤクザが儲けるためのスローガンである。
 
  有識者の面々は、“アジア化”された日本の未来を喜んでいのか、「外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される」と述べていた。しかし、一般の日本国民はバラ色の国際化社会を望んで居るのか? なるほど、楽天やユニクロといった無国籍企業に就職すれば、「外国語を用いたコミュニケーション」ということで英語での会議や交流が“普通”になるんだろう。だが、一般国民の大半は、英語を使って仕事をする訳じゃない。もしかすると、財界人と霞ヶ関の役人は、日本語を不得意とするフィリピン人やマレー人とコミュニケーションを取るため、簡単な英語を使え、と仄めかしているんじゃないか?

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(左 : 日本に移住しかねないアジア人 / 右 :「未来の日本」を想像させるアジア人労働者 )

  政府は深刻な「人手不足」を解決するため、アジア諸国から労働者を輸入するという。しかし、彼らが複雑怪奇な日本語は習得するには、大変な努力と膨大な時間を要する。それなら、「カタカナ英語」で会話をする方が簡単だろう。おそらく、介護施設の管理責任者や食品工場の係長は、マレー人やフィリピン人、あるいはインド人やパキ人、ケニア人、エジプト人の部下に小学生程度の英語で語りかけ、ジェスチャーを交えて命令を下すようになるのかも知れない。そして、何となく解った外人社員は、“ジャングリッシュ(日本語発音の英語)”に慣れた同胞に確認し、見よう見まねで作業に就く。文書による命令だとアジア人はお手上げだから、日本人上司が英語の書類を作成し、外人の部下に説明するしかない。

  歐米の資本家に買収された会社だと、そこに勤める日本人従業員はもっと大変だ。英文の報告書はもちろんのこと、会議でのプリゼンテーションも英語となるから、前日から頭が痛くなる。小便の時だけ、同僚と日本語で話せる会社なんて、本当に気の毒だ。役人は「グロール化時代の日本」と宣伝するが、そんなのは「根無し草の世界」でしかない。「日系日本人による日本的国家」が本来のにほんだ。我々は子孫のためにも、日本語で幸せに暮らせる社会にすべきなんじゃないか。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956517.html

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