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エレニ・カラインドルーの音楽が無ければテオ・アンゲロプロスの映画は二流

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2022/05/20 (Fri) 11:04:13

エレニ・カラインドルーの音楽が無ければテオ・アンゲロプロスの映画は二流


エレニ・カラインドルー『永遠と一日』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/181.html

Eternity And A Day / La Eternidad Y Un Día (Theo Angelopoulos 1998) - Película Completa Sub. Español - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lEH-QrWvGto



エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html



テオ・アンゲロプロス 『ユリシーズの瞳』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/145.html

La mirada de Ulises (Ulysses' Gaze) 1995 CC 720p - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=z1SIrrfm25c

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テオ・アンゲロプロス 『シテール島への船出』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/128.html

Voyage To Cythera (1984) [1080p] ENG SUBS - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=m55DT7WKZK0

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テオ・アンゲロプロス 『蜂の旅人』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/127.html

OMelissokomos 1986 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=63FGkRTrrp0

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テオ・アンゲロプロス 『こうのとり、たちずさんで』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/126.html

テオ・アンゲロプロス 『エレニの旅』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/125.html


▲△▽▼


テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos、1935年4月27日 - 2012年1月24日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B9

天上の歌声 _ メリー・ホプキン
8. Theo Angelopoulos 1) Ο Θίασος(旅芸人の記録) : 1975
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/488.html
2:777 :

2022/05/20 (Fri) 11:15:36

テオ・アンゲロプロス監督「旅芸人の記録」動画
The Travelling Players - Ο Θίασος (1975) HD with subtitles - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZHviHcsO3kw

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ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?

「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」

まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?

こうなると途端に出てきませんよね?
アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?
2千年以上もサボっていたの?

ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?
だって、かつては立派だったんだし・・・

それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。

どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?

このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?
詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?

しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?

あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?

「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?

しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?

これらの国や地域の経済的な問題なの?
しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?
芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?

芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?
しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?
それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?
韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。

では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?

それはそれらの人々がダメダメだからですね。

「悪いのは全部アイツのせいだ!」

そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。

職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。

別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。

今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。

しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?

また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?

アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。

では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。

一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。

つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。

この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。

この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。

それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・

さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。


1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。

また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。


2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。

個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。


3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。


4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。


5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?


6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?

ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?
韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。


7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・


8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。

ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?
ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。


9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。

自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?


10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?
ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?

歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?
しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。
そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。

このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?

真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。

自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?
確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。

そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。

職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。

ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。

この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?

作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。

ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。

ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。民主的政体は育たない。

それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。

だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。

ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。



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テオ・アンゲロプロス監督「ユリシーズの瞳」動画
La mirada de Ulises (Ulysses' Gaze) 1995 CC 720p - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=z1SIrrfm25c

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「ユリシーズの瞳」はギリシャ出身で現在アメリカに在住する映画監督という設定の主人公が、バルカン半島で最初に撮影されたと言うマナキス兄弟が撮影した「まぼろしのフィルム」を探す旅というあらすじを持つ作品です。

実は、この「ユリシーズの瞳」のDVDを見る前に、フランスの映画監督であるエリック・ロメール監督の59年の「獅子座」と言う作品のDVDを見ました。その「獅子座」のDVDにはオマケが付いていて、ロメールの司会による、ジャン・ルノアールとアンリ・ラングロアの対談が付いていました。

その対談のお題が、「人類最初の映画」と言えるルミエール兄弟による映像作品についてでした。ちなみに、ジャン・ルノアールは有名な画家のオーギュスト・ルノアールの次男であり、映画監督としてはルキノ・ヴィスコンティの師匠格に当たる人。それにロメールをはじめとしたヌーヴェル・ヴァーグの連中にも暖かい理解を示した、「大したオッサン」と言える人ですね。もちろん、映画監督としても超が付くくらいの一流。

そして、対談相手のアンリ・ラングロアは、ヌーヴェル・ヴァーグの関係者で、批評家。映像ライブラリーを設立し、映画の発展に尽力した・・・と言えるのかな?

重要なことは、アンリ・ラングロアが批評家で、ジャン・ルノアールが芸術家と言うか創作者という違いです。

そして、批評家のラングロアによる、ルミエール兄弟の映像作品への「まなざし」と、芸術家ルノアールによる、ルミエール兄弟作品への「まなざし」が全然違っているわけ。

ラングロアは、ルミエール作品を見ながら、芸術技法の発展とか、労働者などの一般人が登場するようになったとかの、いわば進歩史観。これはこの対談がなされた68年という時代が反映していると言えるでしょう。いかにも古き良きモダニズムですね。そして「さすが批評家!」と言いたくなるほど、政治的に捉えている。

それに対し、ルノアールは、全然違っているわけ。
ルノアールがこのルミエール兄弟の映像に「発見」した「まなざし」は、「純粋なる喜び」と言えるようなもの。撮影する人間が、「これって、面白いなぁ!」とウキウキして撮影している。そんな心の弾むような瞬間が映像から発見できる・・・ルノアールの主張は、こんなところです。

絵画や戯曲などの個別の表現技法が、ある種、弁証法的に「統合」されて、ルミエールの時代に映画作品として結実したと言うより、「作り手」の純粋な喜びが反映されて、これらのルミエール兄弟の映像作品になっているんだ!そんな調子です。
無垢なんて言葉が出てきたりしますが、それは無邪気とは違うわけ。純粋なる喜びなんですね。

アングロアの言うような、政治的な側面なり、表現における技法的な進歩も、ある面ではあるでしょうし、その面からの説明は、往々にして、多くの人に受け入れられやすい。だって、多くの人はルノアールが語る「純粋な喜び」なんて言われてもピンと来ませんよ。労働者階級云々とか、表現技術の発展と言った文言の方に反応するものでしょ?

だから、芸術家が、「心が弾む」ような「純粋な喜び」を元に、作品を作っても、政治的に解説されちゃったりするわけ。それにやっぱり表現技法の発展という側面は否定しがたい。以前に同じような表現があったら、同じことはしたくはないでしょ?

人と違ったことをしたい、新たな技法にチャレンジしたい・・・
その気持ちはいいとして、それが「純粋な喜び」に基づいていないと、単なる技法の問題に堕してしまうわけ。

まずは「これって面白いなぁ!」と思ったりしたのか?
そのような発見なり「まなざし」が、芸術作品の出発点なんですね。

この対談で司会をしているエリック・ロメールが、批評家ラングロアと、創作者ルノアールの「違い」を際立たせることによって、自分自身の内部で会話を行い、「自分とはどんな存在なのか?」考えているわけ。言うまでもなくロメールなどのヌーヴェル・ヴァーグの連中は、批評家から出発して、創作に向かった人たち。

この対談で言うと、ラングロアのような立場から、ルノアールへのような立場へと自分たちの「立ち位置」を移動させて行ったわけ。そして創作者ロメールの作品が、「これって面白いなぁ!」と言った新鮮な視点に満ちたものであることは、ご存知の方も多いでしょう。創作者ロメールは、むしろルミエール兄弟の精神に忠実と言えるわけです。「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と言うより、原点回帰・・・映画の始原への回帰なんですね。

ロメール司会によるこの対談が頭に入っていると、アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」と言う作品を理解するのに、実に役に立つわけ。というか、これ以上の「解説」はありえないほどですよ。

「最初の映画」という共通する題材。そして失われた「まなざし」という問題意識。そして創作の原点。

「純粋な喜び」を持って、物事を、事物を見ることが出来る人だけが、神の恩寵に預かれるわけ。面白いもので、いわゆる無神論者でも神の恩寵がこめられた文章を書くこともありますし、宗教関係者の書いたものでも、まったく神の恩寵のない文章も、多く存在するわけ。

虚心で物事を見ることができるか?
幼児のように心を虚しくできるものだけが天国に入ることができる。

そう言うことなんですね。しかし、多くの人は、虚心で物事を見ることはできない。と言うか、しようとしない。大体が「政治的なメッセージ」を受け取ろうとするわけ。あるいは、「倫理的なメッセージ」を受け取ろうとするもの。しかし、幼児が物事を政治的なり倫理的に見るでしょうか?

物事を倫理的に見るからこそ、神の恩寵から、そして天国から遠い・・・そんなものじゃないの?
虚心で見るからこそ、子供たちの楽園に入ることができるわけ。

さて、やっと、「ユリシーズの瞳」に入って行きましょう。
ここではクラシック音楽が使われているわけではありませんが、「いかにも」使いそうな「引き」があったりします。
舞台は戦火のサラエボ。濃い霧が起こって、ターゲットとなる人間が見えないので狙撃手が仕事にならない。狙撃されないので、人々は安心して外に出てくる。そうして人々が集まって音楽を演奏している・・・
セルビア人も、モスリムも、ユダヤ人も・・・

さあ!このようなシチュエーションが語られたら、次には、どんな音楽が演奏されると思いますか?たぶん、100人中、80人以上の人が考えるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ですよね?「人類よ!皆で手をつなげ!!」平和のメッセージとしては、この上ないくらいにフィットします。

もうちょっとヒネルと、何かのレクイエムとか・・・たくさんの方々がお亡くなりになったことを追悼する・・・そんな音楽だって成立するでしょう。戦火のボスニアに一時的に訪れた平和・・・それを音楽で表現するのなら、平和を歌い上げるような音楽だったり、亡くなった人を追悼するような音楽ですよね?それこそが心より平和を望む人々の心情を表現するものでしょ?

まさに「ドナ・ノビス・パーチェム」と、心から思いますよ。ただ、宗教曲だと、宗派の問題があるので、この選択は、ファースト・チョイスではない。特にボスニアでは、難しいでしょう。

戦火のボスニアを舞台にした映画はその他にもあります。
マイケル・ウィンターボトム監督の97年の「ウェルカム・トゥ・サラエボ」です。あの映画では最後にチェロの独奏があります。私はその映画を見たのですが、最後にチェロ独奏のシーンがあることを、実は忘れていました。だって、あまりにも「当たり前」ですからね。人から尋ねられたので、そう言えばそんなシーンもあったのかな?と思った程度。

そのチェロ独奏の曲目が何なのか?クラシック音楽に多少なじんでいる人なら、100人中100人が同じ選曲をするでしょう。その選曲自体は、心がこもったすばらしいものです。「カタルーニャの鳥はピース!ピース!と鳴いているんですよ!!」ですからね。

その心情は、すばらしいとしても、映画表現としては、事前に予想できてしまう。
戦争の悲惨さと、平和への願いをテーマとした映画なら、その選曲がベストでしょう。逆に言うと、そのようなオーソドックスな選曲をしなかったら、戦争とか平和と言う問題は、主なテーマでないと言えますよね?

戦火のサラエボで、濃い霧によって訪れた一時的な平和。
その時に「人類よ!皆、手をつなげ!」と言う音楽が演奏されれば、これ以上ない「平和へのメッセージ」になるでしょ?実際、このシーンでは、楽器を持った演奏者だけでなく、コーラスまで居る。
しかし、映画において演奏されるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ではなく、エレニ・カラインドルーによるオリジナル音楽。

どうしてベートーヴェンを使わないの?
まさか第9交響曲を知らなかったの?そんなわけないでしょ?ベートーヴェンの第9交響曲なんてあまりに有名ですしね。百歩譲って監督のアンゲロプロスや脚本のトニーノ・グエッラが思いつかなくても、音楽を担当しているカランドルーだったら思いつきますよ。この「ユリシーズの瞳」という映画では、リルケの詩が引用されます。リルケを引用するくらいなんだから、ベートーヴェンだって引用できますよ。

著作権の関係なの?
しかし、ベートーヴェンの作品は著作権は切れているでしょ?
まあ、その点についてはカザルスの「鳥の歌」よりも、ラクですよ。

むしろ、様々な民族が一緒になって、演奏している。
なんてミエミエの「引き」で、観客を引っ張っておいて、カラインドルーのオリジナルですからね。
観客としては「あれっ?」と思うわけです。

戦火のボスニアにおいて、一時的に訪れた平和・・・その平和なり戦火が主なテーマではないというわけ。戦争なり平和がテーマだったら、ベートーヴェンの第9交響曲を使いますよ。
あるいは、それこそ「鳥の歌」でもいいわけ。その「鳥の歌」だったら、平和への希求という思いが強く打ち出せるでしょ?「鳥の歌」に、それらしい歌詞を乗っけて演奏してもいいのでは?平和を希求する歌詞を乗せれば、より平和への思いが表現できるでしょ?

しかし、あえてベートーヴェンを使わない・・・そして、映画において実際に引用されているのは、リルケの詩。
ここで引用されているリルケの詩は、リルケの若書きの詩。実は、最初にこの映画を劇場で見たときは、この詩が突然出てきたのには、ビックリしました。日本のマンガ家の竹宮恵子氏のマンガでも引用されていた詩なんですね。

この映画にも出てきたのかぁ・・・アンタ!よく会うねぇ・・・なんですが、結局、発想が似ている人同士は、似たり寄ったりのことをするんでしょうね。竹宮恵子さんの芸術家意識が強い人ですからね。

そのリルケの若書きの詩は、リルケの芸術家意識が横溢したもの。
終わりなき探求・・・それが芸術家の使命だ!そんな感じの詩。

つまり、この「ユリシーズの瞳」という映画は、戦争や平和をテーマとしたわけではなく、芸術家のあり方、そして、その終わりなき自己探求がテーマであるわけです。

芸術家そのもの、そして芸術作品が、本来持っている、「まなざし」。
それがどうして喪失したのか?
最初の映画である、マナキス兄弟にはあったのでは?そのような映像作品の原点を見直すことで、自分自身も見直したい。

いわば芸術家としての原点を求める旅、まさにユリシーズ(オデッセウス)の旅と同じ。これは主人公の旅であるだけでなく、ギリシャの旅であるわけ。

ギリシャは、古代のソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者や、ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスなどの劇作家が活躍した古代以降は芸術家が出ていませんよね?約2000年の間いったい何をやっているの?
どうしてこうなっちゃったのでしょうか?

スペインに渡ったギリシャ人は、まさにエル・グレコという名前で歴史に名前を残しているのに?あるいは、20世紀では、アメリカにおいては映画監督のカサヴェデスや、ギリシャの血を引くマリア・カラスなんて大芸術家も誕生しています。

この「ユリシーズの瞳」では、ハーヴェイ・カイテル演じる主人公の映画監督はカサヴェデスを意識していて、当初はカサヴェデスに主演を頼もうとしたことはご存知の方も多いでしょう。外国のギリシャ人は、それなりに活躍しているわけ。
どうしてギリシャの地にいるギリシャ人は、全然ダメになっちゃったの?

これらの問題意識が、アンゲロプロスの初期の作品では主要なテーマでした。
あの有名な1975年の「旅芸人の日記」と言う作品でも、「羊飼いの娘ゴルフォ」という戯曲の上演という「芸術作品の成立」が、いつもいつも阻まれるというスタイルでしたよね?

どうして芸術が育たないのか?

そのような問題意識が反映しているわけ。

あの「旅芸人の日記」を、激動のギリシャ現代史を描く!なんてオバカな解説があったりしますが、現代史を描くのなら、もっと時系列に沿って描きますし、登場人物の名前だって現代風にしますよ。現代史ではなく、2000年に渡るギリシャの芸術不毛の歴史を描くことが主眼だったわけ。

じゃあ、どうして、かつては立派だったギリシャが、どうしようもないほどに芸術不毛の地になってしまったの?

その答えは、まさにこの映画「ユリシーズの瞳」の冒頭に引用されているプラトンの言葉が示しているでしょ?

「魂でさえも、自らを知るためには、魂を覗き込む。」

自分自身の魂を覗き込まない人が、永遠に残るような作品を生み出せるわけがないでしょ?

現在のギリシャって、そんな気概がなくなっていますよね?

「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて、被害者意識に浸っているだけで、自分自身に厳しく接することをしない。

そんな地域では芸術なんて生まれませんよ。そんな地域って他にもあるでしょ?
たとえばイスラムとか韓国とか・・・

その手の地域って、やたら政治的なデモが盛んで、誰かを糾弾することだけに熱心。
「じゃあ、アンタはいったいどうしたいの?」なんて言われると逆上するだけ。

「自分がかわいそうな被害者だ!」と常に思いたいがために、何事も政治的に捉えてしまう。

「自分たちはダメな政治による被害者なんだ!」そう言うための理屈がほしいわけ。

しかし、それでは芸術作品なんて生まれませんよ。ギリシャやイスラムや韓国に芸術作品が生まれないのは当然なんですね。

しかし、自分の魂を覗き込むこと自体は、政治は関係ないでしょ?
それこそ最低の政治状況にあったショスタコーヴィッチだってできたわけですからね。

ただ、多くの人は、どんな作品も政治的に捉えてしまうわけ。しかし、政治なんて洞窟に映った影のようなもの。逆に言うと、移ろい行くものだからこそ、多くの人は関心を持ってしまう。まさに目移りするわけ。そして、その影が、この線のどちら側なのか?なんてツマンナイことばかりに関心を持つ。

右翼とか左翼とか、正しいとか間違っているとか・・・

しかし、所詮は影ですよ。


この「ユリシーズの瞳」の字幕を担当されている某芥川賞作家さんが、以前に「アンゲロプロスの作品は、国境の問題を身を持って体験したものでないとわからない。」なんて書いていたことがありました。いささか失笑してしまいます。そんなことを言うから芥川賞止まりなんですよ。国境も、政治体制も、人の、人の魂が作りし影のようなもの。影ではなく、人の魂そのものに真実があるわけでしょ?

たとえば、前回取り上げたショスタコーヴィッチですが、よく「スターリン体制云々」なんて言われたりしますよね?

しかし、創作者にとって重要なものはスターリンの問題よりも、そんな体制を「求めて」しまう人間たちの魂の問題。そのような精神は、たとえスターリンの問題が終了しても、次に同じようなものを求めてしまうわけ。

「悪いのは○○のせいだ!」という人は、その次には「悪いのは△△のせいだ!」と言いだして、その次には「悪いのは☆☆のせいだ!」なんて言ったりするものでしょ?

結局は、発想そのものは全然変わっていないものなんですね。

それこそ、日本でも第2次大戦前に「悪いのはアメリカやイギリスなんだ!」と大騒ぎしていた人が、後になって「悪いのは、日本の軍国主義のせいだ!」と、大騒ぎする。この2つの主張は、政治的には大きな違いがありますが、精神的には全く同じでしょ?

そして、洞察力のある芸術家が見つめるのは、変わらない精神的な面の方なんですね。

魂の真実なんて、時代によって変わるものではありませんよ。しかし、変わらないからこそ、多くの人には見えないわけ。
多くの人は洞窟に映った影しか見えないし、見ようとしない。ショスタコーヴィッチだって、スターリン云々を直接描いたわけではないんですね。スターリンのような人を「求めてしまう」多くの人々の魂を覗き込んでいるわけ。そして、「求めてしまう」魂は、いつの時代でも変わらない。

魂に真実があり、魂を覗き込む行為、見続ける精神に真実があるわけでしょ?

人類最初の映画であるルミエール兄弟の映像作品に、ルノアールが、純粋な喜びをみて、芸術創作の原点を見たように、アンゲロプロスも、バルカン半島最初の映画であるマナキス兄弟の作品を捜し求めるという行為を描くことによって、芸術創作の原点を捜し求めたわけ。それはプラトンの言う、「魂を覗き込む」行為そのものでしょ?

この「ユリシーズの瞳」においては、アンゲロプロス個人としての芸術家の原点を探求する旅という側面があり、初期の作品群で扱われたギリシャにおける芸術不毛の探求という側面もあるわけ。だから、まさに彼のその時点における集大成的な作品であって、過去に自分の映画に登場した俳優を再び登場させているわけです。

激動のバルカン半島を描くと言った、時事ネタを扱った作品ではないんですね。時事ネタや政治ネタが中心のテーマの作品だったら、ベートーヴェンの第9交響曲とか「鳥の歌」を使いますよ。


むしろ、2千年以上変わらずに続く、芸術家の自己探求がテーマとなっているわけ。「いかにも」な曲が使われていない・・・そこから見えてくる作者の意図もあるわけです。

真の芸術家は、洞窟に映った影などは、その作品のテーマにはしないもの。

事物を、「純粋な喜び」を持って見つめること。
魂を覗き込む終わりなき旅。
それこそが、芸術作品の始源となる。

それらが芸術家の原点でしょ?
そして、とりあえずの終着点とも言えるのかな?

たどり着き、また旅立つ。

純粋な矛盾も、純粋な喜びも、自分自身の魂も、薔薇の花びらのように幾重にも重なった円環の中にあり、それを求める旅は、永遠に終わることはない。それを求め続ける使命を背負っているのが、アーティストというものだ。

アンゲロプロスも、そう考えているのでは?

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2022/05/22 (Sun) 09:22:32

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