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学生運動に挫折して自殺した恋人を歌った森田童子の名歌『僕たちの失敗』

1:777 :

2022/05/18 (Wed) 16:52:32

学生運動に挫折して自殺した恋人を歌った森田童子の名歌『僕たちの失敗』


音楽史上で最も哀切な歌 _ 森田童子『ラストワルツ』

森田童子 - (best)僕たちの失敗 ベスト・コレクション
https://www.youtube.com/watch?v=qEMhYL6E2xA

0:00 ぼくたちの失敗
3:24 蒼き夜は
7:30 雨のクロール
9:30 蒸留反応
15:23 哀悼夜曲
18:38 孤立無援の唄
24:24 さよならぼくのともだち
28:26 逆光線
31:06 サナトリウム
35:48 男のくせに泣いてくれた
39:08 春 漫
41:50 G線上のひとり
45:26 ラストワルツ



森田童子の世界(全曲のコメント)
https://11146484morita.blog.fc2.com/


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テレビ・ドラマ 真田広之・桜井幸子 高校教師 (TBS 1993年) 動画

高校教師 第1集
https://www.youtube.com/watch?v=lbaKQ1hfi50

真田広之・桜井幸子 高校教師 (TBS 1993年) 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%AB%98%E6%A0%A1%E6%95%99%E5%B8%88+%E7%AC%AC+%E9%9B%86


主題歌には、1970年代を中心に活動した女性シンガーソングライター・森田童子の曲「ぼくたちの失敗」が使用され、リバイバルヒットとなった。

『高校教師』は、1993年1月8日から3月19日まで放送された日本のテレビドラマ。脚本は野島伸司。主演は真田広之と桜井幸子。TBS系列「金曜ドラマ」枠で、毎週金曜日22:00 - 22:54に放送された。


原作 野島伸司
脚本 野島伸司
時代設定 1993年



主題歌
「ぼくたちの失敗」
作詞・作曲・歌 - 森田童子
第9話以外のオープニング、第2話、第3話、第6話、第9話、第10話、最終話のエンディングの他、挿入歌としても何度か使われている。

挿入歌
「男のくせに泣いてくれた」
作詞・作曲・歌 - 森田童子
第4話エンディング。第5話、第9話の挿入歌としても流れる。
「G線上にひとり」
作詞・作曲・歌 - 森田童子
第5話エンディング。
「ぼくが君の思い出になってあげよう」
作詞・作曲・歌 - 森田童子
第7話エンディング。
「君と淋しい風になる」
作詞・作曲・歌 - 森田童子
第8話エンディング。
「君は変わっちゃたネ」
作詞 - 森田童子/作曲 - 木森敏之/歌 - 森田童子
第9話オープニング。



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2020年08月19日
いまiPadで寝ころびながらみてるのが(画質音質クオリティのこだわりはどうした、流される俺)、「高校教師」、これは自分の青春ど真ん中のヒット作だが、みてなかった。

リメイク版の10年ちかく後のは好きでみてたけれど、オリジナルが好きな大学生が、いかによくなくなったか熱く語っていた。生物学の研究者崩れと、女子高生の恋愛話。

脚本の野島伸司は、自分の文学青年的な資質にはストライクすぎて、悪口しか言いたくない。
作中の同性愛の女子高生が、主人公の少女に不吉な予言をする。
「いつかあなたも、男に幻滅するよ」みたいな。
これはある意味で、野島伸司的な主人公の男性がたどった道のようにも思える。

自己愛的で内向的で、幼児的な母親的理想像を女性に求め、狂気にまで至る。心象は都市に魅せられながらも根本は農村や村落共同体へ帰る願望がある。

こうした男性は、都市化の完成や女性の台頭によって、ただのコミュ障なオタクやひきこもりに転落した。

野島作品も、スランプに次ぐスランプで、やたら刺したり放火したり殴ったりの不自然さしか残らない。

この作品では、家庭環境の複雑さゆえだが、冒頭から一目惚れの女子高生が、一貫して主人公の男の絶対的な味方であり続ける。なんとも都合よく心地よい設定。
しかし旬のよさというべきか、素直な人物たちの心の動きに感情移入できて、とても応援してしまう。

森田童子の、どこまでも暗闇を、ただ暗闇のままに歩いていくような不思議な音楽が、よく似合っている。
変な教訓や、ポジティブへの変容などは要らないのだ。
一般社会的な価値観からは、ただ破滅に向かうだけの姿が潔く、どこか癒される。

考えてみたら、自分の20代は、鬱屈やら不遇感があって、こうしたドラマと自身を重ねてみていたのだ。だからとても個人的な感想だけども、これだけ長く生き残ってまたみることができているのは、普遍的でもあるのだなと。
たいへんな名作だと思う。

2:777 :

2022/05/19 (Thu) 23:10:30


森田童子は、1975年、太宰治の絶筆と同名のファーストアルバム『GOOD BYEグッドバイ』でデビューしたシンガーソングライター。
フォーク全盛期にライブハウスを中心に活動を開始し、いまにも消え入りそうな儚い歌声と、弱さや淋しさを肯定する歌詞の世界観は学生運動に挫折した若者の共感を呼び、いつしか「地下のカリスマ」「地下の女王」などとも呼ばれはじめる。

しかしその活動期間はわずか8年にすぎない。6枚のオリジナルアルバムと1枚のライブアルバムを世に問うた後、1983年12月26日のライブを最後に、森田童子は人前から姿を消す。残されたのは、多くの逸話と伝説。カーリーヘアに色の濃いサングラスという特徴的ないでたち、出身地はおろか、年齢や家族構成など、プライバシーを語らない姿勢も伝説化に拍車をかけた。

歌うのをやめた10年後の1993年にはドラマ『高校教師』の主題歌になった「ぼくたちの失敗」が話題を集めた。楽曲は100万枚に迫る大ヒットを記録するが、森田童子が私たちの前に姿を現すことはなく、さらに25年後の2018年4月に世を去った。




ken********さん 2007/4/12 17:36
森田童子さんの「僕たちの失敗」の歌詞を解読できる方いますか?
歌というのは理解とかではなく、感じるものだということは解かっているんですが、ここの歌詞はこう思うとか解かる人お願いします。


ベストアンサー jan********さん 2007/4/12 18:02
この歌がリリースされたのは、1976年です。
60年代後半の全共闘など、日本は高度成長時代の歪みを抱え、
不安定な時代になっていました。

全共闘の時代を学生として過ごした面々も、結局は社会に取り込まれ、せかせかと働き個を消されていく。モラトリアムや、大人社会に埋もれる無力感が若者の間に蔓延した時代でありました。

森田童子さんが歌を歌いだしたきっかけは、自分の友人が亡くなったことだそうで、歌詞中には、歌詞上の主人公を見守る親友が描かれていることが多いです。この歌にも、主人公とその親友が描かれています。

「ぼくたちの失敗」は、サラリーマンとしての生き方になじめず、ジャズ喫茶などに入り浸っていた若者たちが、いつしか住む世界を変え、社会の荒波の中で自分を見失ったとき、ふと過去の出来事を思い出す姿を描いているのだと思います。



森田は女性(だろう)と思っていたが、歌詞を聴いていると、
「君」が女性のようで違うようで、「僕」は男性のようでそうでない。
後日、わかったことだが、森田は自分を「僕」と表現しているようなのだ。
女性が「僕」と言うと不思議な魅力を感じる。

間奏に森田が言う。
「あの頃、井の頭線の線路沿いのアパートに、君と暮らし始めた。
何もない無力なぼくは、ただ君を愛すことしか知らなかった」


後に森田童子として歌い始める若い女性が、アパートの一室で、自殺を図って睡眠薬を飲んだ友人、あるいは恋人を看病している。


ぴよにんじんさん 2010/10/7 1:06
森田童子のぼくたちの失敗について・・・ 歌詞の意味は分かりますか?一体、何を失敗したのですか?

ベストアンサー h_d********さん 2010/10/7 2:55
森田童子は友人の死を切っ掛けに歌い始めた人です。そして、その友人の死には学生運動(全共闘運動)が大きく関わっており、彼女も少なからず関わっていたと推測されます。この曲に登場する「君」がその友人で「僕」が森田童子。運動に敗北し「君」が死に「僕」は志も友人も失ってだめになってしまった。そんな内容の歌詞だと思いますので、生き方を「失敗」したのだと思います。



【追記 10-07-16】

朝日新聞の記事が森田童子に触れていた(5月22日)。山坂いくつもあるのが人生だと、ここでも実感させられる。
記事の中の「病」に拘ってみると、彼女は学齢からして在学中に1年の遅れが生じ、更に高校中退後3年ほど北海道で療養生活を送っている。
『さよなら ぼくの ともだち』は友人の死を契機にここで生まれたのだが、してみると、この時期からの長患いの後遺症のようにも思える。最終部分を引用したい。
『ぼくたちの失敗』が、テレビドラマ「高校教師」の主題歌になってヒットしても、再び歌おうとはしなかった。彼女の消息を知る人を介して、その真意を問う対話がしたいと打診してもらった。だが、とても親しかった人との唐突な死別とみずからの病で、「手紙すら書けないほど憔悴している」という返答があった。危ういバランスでつなぎとめられている世界が、まだそこにはあった。
しかしこの署名記事には、「森田童子」を偽名だとするのが論外だとしても(もちろん戸籍名ではないが、「偽名」とは文章のプロとして気は確かか?)、詰めの甘い箇所が少なくない。例えば「ひとり遊び」のレコーディングとCD制作(2003年)を知らなかったのだろうか。それとも判り易いプロットに当て嵌めるため意図的に無視したのか。後者であれば気持ちは半分だけ判る、といっておこう。

詞の中に飼い馴らしたかの「ぼく」や「きみ」の無数の死も、生身の人生には耐性を育まなかった。あるいは、成熟という名の感受性の劣化をこそ彼女は拒否し続けているのか。


【追記 18-07-02】

古い友人と久しぶりにメールのやりとりをしていたら、彼女の訃報がネットに流れた。私のGメール・アカウントは moritadoji.inochi で、不可思議な符合に驚いたと触れていた。まだ若いのに、と続いていたが、私としては「そうだったのか」と深く寂かに納得するものがあった。

彼女については謎が多い。公表された情報が少ないのだから当然かもしれないが、例えば誕生年や出生地は複数の情報が流れていて、どこからも訂正されず始末が悪い。

私が折に触れて参照したのは次行のサイトで、しかしながら長らく更新されておらず、いわばアーカイブ状態だ。

森田童子研究所
また、このサイトで頻繁に登場する「犬のしっぽ」さんのサイトは既に消滅しているが有難い事に次行のミラー・サイトがあって、
「犬のしっぽ」ミラー・サイト:
ここから彼女の年表を覘いてみよう。

52年1月15日、東京生まれ
68年、高校入学

なのだが、順当にいけば高校入学は67年だからどちらかが間違っている筈で、そうでなければ入学以前に1年の遅れが生じている。
70年、高校を中退。暇にまかせてふらふらと旅に出る。

とあるが、やはり同じサイトの、雑誌「ラジオマガジン」のインタヴュー記事によると事情は異なる。一部を引用すると、
彼女は高校半ばにして不幸にも胸をやみ,転地治療という形で3年間を北海道で過ごした。その時代,'60年代末期は学園闘争が激しく吹き荒れていた頃だった。

そしてこの記事に従うと、極めてデリケートかつエキセントリックな神経と感受性に言葉を失いそうになるが、自分の過去を捏造するとも、思えない。また、

失われた青春の残像を拾い集めて五線のキャンバスに描き続ける詩織人-森田童子 31歳。
と結ばれていて、83年1月の時点で31歳、つまり誕生年が52年である事を前提にしている。誕生年53年説の元祖は、実は JASRAC 会報に載った訃報(65歳と表示)ではないのかと睨んでいる。
記事の最後にも触れてある80年の黒テント公演はTVドキュメンタリとして放送された。下の静止画はその最終部のものだ。
写真:森田童子(もりたどうじ)、TVドキュメンタリ『夜行』より
私(わたくし)達のコンサートが不可能になってゆくさまを見てほしいと思います。そして、私達の歌が消えてゆくさまを見てほしいと思います。ひとつの時代の終わりに向けて、私達の最後の切ない夢を、見てほしいと思います。
無垢なリリシズムと甘味なセンチメントに包まれた魔法のような世界が、そこには確かにあった。


【追記 18-07-28】

ネット上には、どこからともなく、彼女が著名な作詞家の姪らしいという噂が流布されていた。なかにし礼、という固有名詞を挙げてあるものも最近では少なからず、先日このふたりをキーワードにして検索。その結果から次のふたつに注目してみた。

松風亭日乗:densukedenden.blogspot.com/2013/12/blog-post_18.html
「なかにし礼」のコメントが作家作詞家なかにし礼本人なのかどうか。別人がそんな事をしてどんな意味があるのか私にも謎だが、ネットは何でもありというのも確かな経験則である。とした上で、「自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてる」 と断定しているのは、上に紹介した10年の朝日新聞の記事内容を踏まえれば首肯できない。
「自殺誘発ソング」の旗手だったとはいえども、近親者(配偶者であるとは後で判る)との死別、自らの病いに苦しむ有様は、バチが当たったと反省しているのではないか、とでも形容されていい状態だったからだ。

永井均 tweet:twitter.com/hitoshinagai1/status/852547262966243328
永井均はヴィトゲンシュタインを読んでいた時にお世話になった。判り易い説明で核心がストンと腑に落ちたという記憶がある。はるか昔の話だ。
スレッドを辿ると愛憎相半ばする書き込みに意表を衝かれるが、「深く深く納得した。事実は小説より奇なり!」という言葉に導かれて、なかにし礼『兄弟』を読む事に。報告は後日。


【追記 18-08-01】

文学作品として鑑賞しようとは思わなかった。私小説形式の自伝として、童子との関連で目を通した。

登場人物名でいうと、兄の次女、中西美以子が童子に該当する。それ以外に年齢的にマッチする近親者はいない。
兄夫婦は小樽、東京、青森と流れ、再び上京して、すぐ次女が生まれる。
特攻崩れを自称する兄は人格破綻者に近くなり、「事業」を目論んでは失敗して借財を膨らませ、弟の禮三(なかにし礼)が作詞家として成功した後は、「家長」として弟の稼ぎを犯罪的な手法で平然と流用する。
なかにしの2度目の結婚を契機に彼らは暮らしを別にするが、これが71年。童子デビューの2年前になる。
この後も、兄の巨額の尻拭いは6年後の母の死を経て更に2年後の訣別まで続く。ざっといえば童子の活動期間とほぼ一致する時期である。

このような係累を持つ人間なら、誰でも秘匿しようとするだろう。
この事はとてもよく判るが、彼女の父親がこの黄金を生む娘をどのように利用したか、あるいは利用しようとしたかについて、『兄弟』は全く触れていない。というよりもその前に、自分の姪が童子である事は、匂わされてもいない。
また、童子がなかにしの姪であるとすれば、阿久悠と並んで稀代の作詞家たる彼の血を引いたと、つい思いたくもなるが、彼自身の作品であるという可能性はないのか。小説より奇なり、とは、実はこのような、あるいは更に別の、この作品から離れた事情を指摘しているのではないか。


【追記 18-08-07】

この歌もそうか、あの歌もそうか、というミューズの化身のような時代が、作詞家なかにし礼には確実にあった。しかしその初期から中期にかけて、恥部とでもいうべきふたつの事件の中心人物として、彼はマスメディアの集中砲火を浴びた。「芸能界相愛図」事件と風吹ジュンへの拉致監禁事件である。いうまでもなく『兄弟』では片鱗も窺う事ができない。
前者はこの文章と関わりを持たないので省略。後者について、最も詳細に説明された記事を次行に紹介しよう。
デジタル鹿砦社通信:《脱法芸能12》風吹くジュン誘拐事件
ここに登場するアド・プロモーション社長前田亜土の名前が、童子のマネージャ兼配偶者として彼女の死後、私たちの聞き及ぶところとなった。
事件とその後の収束期間を考えれば直後といえるような時期に童子はレコード・デビューしているのだが、何故ここに犯罪的なプロダクションの社長が関わってくる事になるのか。浮世離れしたシンガーソングライターの背景に広がる闇の世界、はたまた汚濁の池に咲く白蓮、とでもいうべきだろうか。いやはや何とも。


【追記 18-08-09】

匿名掲示板の「森田童子について語りませんか Part.4」スレから。
森田童子の夫、前田亜土は
森田童子を手掛ける前に
風吹ジュンの事務所社長(アドプロダクション)だった

安月給などの劣悪条件で風吹ジュンを拘束
風吹ジュンが事務所移籍を画策
移籍先の社長を暴行し風吹ジュンを
ホテルに拉致して脅したのが
例のあの風吹ジュン事件

なかにし礼と兄が前田亜土を業界に引き入れた
アドプロダクションはなかにし兄弟が重役

森田童子の事務所、海底劇場は
アドプロダクションの次に作った事務所
事務所自体も同じマンションの部屋を
そのまま使ってた

風吹ジュンからしたら森田童子は
聴きたくない歌手だったろうね(No 564)
という事のようではあるが、
吹雪(ママ)ジュンの件についてどっちが悪かった誰が悪かったとかは別の話だからどうでもいい
問題は前田亜土の妻であった森田童子が中西正一の娘だというのは事実かどうか
もし事実ならなかにし礼の書いた『兄弟』によって森田童子の背景が少しは明らかになる(No 599)
と、理性的な意見交換がされている。好むと好まざるとに関わらず、事実を特定するような「証言」の登場も、おそらくは時間の問題だろう。


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伝説のまま逝った森田童子は全共闘世代の挫折感を癒す存在だった...親交のあった劇作家が素顔と音楽を語る
リテラ2018年7月4日

リバイバルヒットした森田童子の『ぼくたちの失敗』

       
 4月に亡くなっていたことがわかった森田童子。森田といえば、1975年にファーストシングル『さよなら ぼくの ともだち』を発表して注目を集め、当時の若者からカルト的な支持を受けていたフォークシンガーだが、その素顔は謎に包まれていた。本名は非公開、人前ではサングラスを外さず、アルバム7枚、シングル4枚を発表して、1983年に事実上の引退。1993年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマ『高校教師』(TBS系)の主題歌となり、シングルCDが100万枚近くのリバイバルヒットとなったが、そのときも表舞台に出てくることはなかった。

 そして、森田が伝説のまま逝ってしまったいま、その音楽をリアルタイムで感じたことのある人も少なくなっている。いったい彼女は当時の若者にとってどういう存在だったのか。そして、その素顔は......。森田の歌のファンで彼女と親交があった劇作家の高取英に話を聞いた。

 高取が森田童子と知り合ったのは、森田がデビューしたすぐあと、1976年から1977年のことだったという。

「『音楽全書』(海潮社)という音楽誌で森田童子について書いたのですが、彼女のマネージャーでイラストレーターの前田亜土さんから連絡がありまして。前田さんと親しくなって、それから付き合いが始まったんです。公表してませんでしたが、前田さんは森田童子のパートナー、夫でもあった」

 以後、高取は森田のライブに足しげく通い、ライナーノーツも執筆したり(『森田童子全集Ⅲ a boyア・ボーイ』などに収録)、森田も高取の演劇の公演に顔を見せるようになった。そして、お互いの音楽、演劇に批評文を寄せ合う関係になったという。

「私が作った芝居『少年極光 (オーロラ) 都市』の音楽を作っていただいたこともあります。僕の詩に曲をつけるのに、『私、人の詩に曲つけたことないんですよねー』って言うから、『好きにしていいですよ』と、彼女のいいと思う形に変えてもらって、3曲作ってもらいました」

 高取は当時、自分たちが森田童子に強く惹かれた理由について、こう分析する。

「森田童子が登場したのは全共闘運動が挫折して、少し経った頃。彼女の歌はその全共闘世代の心情、挫折感に寄り添うものでした。たとえば、仲間がパクられた日曜の朝、といったことを歌ったり、高橋和巳の『孤立無援の思想』から来ている『孤立無援の唄』、爆弾教本の『球根栽培法』から来る『球根栽培の唄』といった歌があったり。彼女自身は全共闘世代より少し若くて、運動のピークの頃はまだ高校1~2年でしたが、東京教育大(現筑波大学の前身)の紛争に関わっていたという話もあった。どこかのセクトに入ってるとか、高校全共闘みたいなかたちでやっていたというのはないとは思うけれど、その文化や気分はすごく色濃く共有しているアーティストでしたね」

 全共闘世代の心情を代弁し、支持を集めているミュージシャンはたくさんもいたが、森田がほかの誰とも違っていたのは、彼女の歌が"弱さ"に光をあてていたことだった。

「森田さんのライブって客が泣くんですよ。死んでいってしまった友人を歌にした『さよなら ぼくのともだち』って歌で、泣き出す人も出てくる。歌っている森田さんも歌いながら涙をぬぐう。全共闘世代って、強がったり過激ぶったりするのが習性で、自分の弱さをさらけだせない人が多かったんですが、森田童子の歌を聴いていると、その弱さを隠さなくてもいい気がしてくる。たとえば(映画監督の)高橋伴明さんは早稲田大学の学生運動出身で、すごい武闘派だったんですが、森田童子が好きだと言っていました。そういう人でも森田さんの歌に感動するんです」

●森田童子引退の理由は? ドキュメント映像で語っていた消えていく覚悟

 また、森田は、当時、まだ根強く残っていた「男は強くたくましく」「女はおしとやかに」という性の固定観念からも解放してくれる存在でもあったという。

「当時はさまざまな価値観が大きく転換し始めた時期ではありますが、まだ、男らしさ、女らしさという意識は残っていました。そんななかで、森田童子の歌の内容は、センチメンタルというか、ある種"女々しさ"と呼ばれるようなものだったかもしれない。でも、その女々しさを堂々と歌い上げたことで、男女の性差を超えて、孤独感のある人、友人をな無くした人、運動に挫折した人、そういう、やさしくて弱虫かもしれないという人たちに響いた。『さよなら ぼくの ともだち』という歌の中にも『弱虫でやさしい静かな君を僕はとっても好きだった』という一説があるんですが、そんなことを歌う人はこれまでいなかったんですよ。強がっている人はたくさんいるけど、強い人なんて実はいない、弱虫であること、それが好きだったといってくれた」

 森田の音楽を"女々しさ"という言葉で説明する高取だが、実は森田の側も高取の作品に同じく"女々しさ"を見ていた。高取の代表作『聖ミカエラ学園漂流記』を批評する文章の中で、森田はこう書いている。

〈『聖ミカエラ学園漂流記』の高取英の劇作法は、拙い少年少女の肉声を惜りることによって、高取英の女々しい反逆の試みは、確かに不思議な説得力を持ち得た〉

 ふたりが表現で深く繋がっていたことを物語るエピソードだが、しかし、その高取も、森田の素顔についてはよくわからないままだったという。

「サングラスを取った素顔は、わたしも見たことがありません。カーリーヘアもおそらくカツラでしょうし、素顔は一切隠してましたね。プライベートなことも一切話さない。前田さんと結婚していることも、本人たちは一切話しませんでした。それに物静かで、とつとつとしか喋らない人なので、感情の動きもよくわからなかったし、曲のイメージそのままでした」

 1983年、彼女が音楽活動を引退する直前には、こんなこともあったという。

「『聖(セント)ミカエラ学園漂流記』(群雄社出版)の出版記念パーティーに来ていただいたんです。それで、『スピーチをお願いできますか?』って言ったところ、彼女はイヤだとははっきり言わないで『え、え......』って。そのあと、3分ほどしたらその場から消えていました。スピーチの話を急に言われてとまどったのでしょう、悪いことしたなって」

 森田らしいエピソードだが、それからまもなくして、森田は本当にすべての表舞台から完全に姿を消してしまった。

「引退の理由を出産とか病気とかいう人もいましたが、そういったことではなくて、音楽活動をするなかで、自分が言いたいことはもう言いつくしたという感じだったんじゃないかな。80年頃、森田童子の屋外ライブの企画から実現までを追った『夜行』というドキュメント映像があるんですが、その中で森田が『私たちの歌が消えていくさまを見てほしいと思います』という言葉を口にしています。やることをやったら消えていく、最初からそういう覚悟があったんでしょう」

 しかし、彼女の歌と記憶はそれから30年以上たったいまも、1970年代に青春を過ごした人々の心の中に強く刻まれている。7月19日には、高取も出演する追悼イベント「夜想忌 ~さよならぼくのともだち~ 追悼 森田童子」が開催される予定だ。(敬称略/高橋南平)



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2013年12月18日水曜日
以前書いた森田童子の記事に、「なかにし礼」さんからコメントをいただいた。
「なかにし」さんのコメントの全文は以下の通り。

「彼女の歌が一部の敏感過ぎる人達の、生きようかなそれとも死のうかなという、危うい紙一重の精神状態にあるところを、死んじゃいなよこっちへおいでよと死のスイッチを押させたのは負の一面として事実。

森田童子は手放しで称賛出来ない、ある意味自殺誘発ソングで何人も自殺に追いやった批判も加えられるべき人物。あれだけ死ぬだの死にたいだの死を甘美に唄った自殺誘発ソングの旗手森田童子が平凡に幸せに生きてるのはなんたる皮肉。」

森田童子の歌を聴いて自殺した人がどれほどいるか、私には分からない。ただ、いても不思議はないと思う。私自身、童子の歌を聴きながら、あの記事で書いたように、「深入りしたら危険だ」という思いと「深入りせずにいられない」という思いがせめぎ合っていた。

死への誘惑という点でいえば、文学の方がよりポピュラーだと思う。芥川龍之介の晩年の作品なんかまさにそうだし、中原中也の詩や宮澤賢治の童話だって死に近い。極め付きは太宰治か。太宰の弟子を自認していた田中英光なんか、太宰の墓前で自殺したくらいだ。しかし、彼らはその落とし前をつけるように、早死にしたり自殺したりした。とすれば、そのような作品を世の出した者は死ななければならないのか、という話になる。

人間には死に近づく時期がある。だからこそ、古今東西、死に近い作品は多いのだ。しかし、そこから逃れられれば、それはそれでいいじゃないか。森田童子は、とにかく生き延びたのだ。彼女が死の誘惑から逃れることができたとすれば、それはそれで喜んであげてもいいと思う。

今、昔のアルバムが結構CDで復刻されているけど、森田童子のオリジナルアルバム復刻の話は聞かない。単にセールスが見込めないのか、それとも本人の了解が得られないのか。

もし、森田童子が昔の作品が世に出ることを頑なに拒んでいるとすれば、それが彼女なりの落とし前のつけ方なのかもしれない。
投稿者 densuke 時刻: 21:58

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2022.01.23
業界騒然! 謎の歌手・森田童子の父親が「なかにし礼の兄だった」事実が意味すること

なかにし礼『血の歌』と『兄弟』をめぐって

作詩家なかにし礼とシンガーソングライター森田童子が叔父と姪の関係であることを明らかにしたことで、『血の歌』(毎日新聞出版)が話題を集めている。同時にこの作品は、短篇ではあるが、なかにしのヒット作『兄弟』(1998年、文藝春秋)と表裏をなす重い内実をたたえている。

『兄弟』は作詩家から小説家になったなかにしの初めての本格的長篇。特攻隊の生き残りで、事業の失敗や弟名義での借金でなかにしを破滅にまで追いこむ常軌を逸した兄(話題となったテレビドラマではビートたけしが演じた)となかにしの愛憎と葛藤を描いた小説で、「兄さん、死んでくれてありがとう」と主人公が独白する結末が当時、大きな反響を呼んだ。そのモデルである兄の娘(次女)が、何と森田童子だったのだ。

映画の中のなかにし礼と森田童子
音楽史において、大衆の心に響く歌謡曲の作詩家であるなかにしと、孤高のシンガーソングライターの森田は対極的な存在であるが、映画史においては、この叔父と姪は踵を接し、1978年にともにスクリーンデビューしている。

森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット


この年に公開された大森一樹監督の『オレンジロード急行』で、森田童子のメジャーデビュー作『さよなら ぼくの ともだち』が初めて映画の挿入歌として使われ、同年に公開された『時には娼婦のように』(小沼勝監督)はなかにし礼の同名曲の大ヒットを当てこんで製作されたからだ。

『時には娼婦のように』は、《当時、(兄が作った─引用者註)借金に追われている時期で、好条件を提示されたこともあり、原案、脚本、音楽、さらには主演までこなした》(『わが人生に悔いなし─時代の証言者として』、河出書房新社)となかにしが語るロマンポルノであるが、なかにし礼のバイオグラフィにおいてはきわめて重要な作品である。

この映画に現れる心臓発作と性への耽溺、兄の借財を背負わされる弟、複数の女性との同棲、なかにしが第二の故郷と呼ぶ青森への郷愁といったなかにしの人生に欠くべからざる光景が、なかにしがのちに書く『翔べ!わが想いよ』('89年、東京新聞出版局、新潮文庫、文春文庫)から『夜の歌』(2016年、毎日新聞出版、講談社文庫)にいたる自伝小説のプロトタイプ(試作品)になっているからだ。


なぜこの原稿が書かれたのか
この作品を起点として、なかにしを「戦争と歌謡曲を交響楽(シンフォニー)のように、硝煙とエロスをカットバックで描いた作家」と評した、私の『夜の歌』講談社文庫版('20年)の解説を読んだなかにしは、私を西麻布「キャンティ」に招いてくれた。だが、交遊が始まってまもなく、2020年12月になかにしは突然他界した。死後に机の引き出しから発見された未発表原稿をなかにしの子息で音楽プロデューサーの中西康夫が刊行したのが、『血の歌』である。


『血の歌』は作家の死後に刊行された未発表原稿の常として、多くの謎につつまれている。

どうして作者がこの原稿を書いたか、が第一の謎である。後記で中西康夫が『血の歌』は1995年に執筆されたと推測しているように、『血の歌』は'96年に小説のモデルである兄(中西正一)が死去する1年前に、『兄弟』の習作として書かれたものと思われる。

『血の歌』は、兄が語り部に近い立場で書かれていることから、仮借なく兄を描いた『兄弟』よりも兄へのシンパシーが宿る。また、『血の歌』において戦時中に兄が操縦する戦闘機を失墜させる場面は、ほぼそのまま『兄弟』の完成稿に使われている。『血の歌』でなかにしは、兄の視点から娘(森田童子)を描き、同時に娘を小説の「狂言回し」に使えないかと模索していたと憶測できる。


では、なかにしはなぜ封印したのか
しかし、'95年の執筆当時、森田童子は音楽活動を停止中だったとはいえ、'93年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマの『高校教師』の主題歌として使われたことから再ブレイク中だった。なかにしや正一との関係が世間に知られれば、彼女のプライバシーや作品評価に差し障ると考え、なかにしは森田童子をモデルとする『血の歌』を封印したのだろう。

『兄弟』を担当した元文藝春秋の編集者・鈴木文彦は述懐する。

「『兄弟』執筆の前、お兄さんが亡くなられる以前に、かなり感情移入の激しい習作を読んだ覚えがおぼろ気にあります。当時、お兄さんをモチーフにしたいわゆる“兄モノ”の習作がいくつかあって、その一つが『血の歌』だったのではないでしょうか。森田童子については、兄の娘だとなかにしさんから直接うかがったことがあります。『血の歌』はモデル小説の引きの強さがありますが、森田童子が存命だった執筆時点では、彼女のプライバシーにも配慮していたので、発表には至らなかったのではないかと思います。結果として、お兄さんの死を待って長篇仕立てで『兄弟』に結実し、なかにしさんの代表作になっていきます」

『兄弟』という大作に濃密に関わった編集者ならではの見方と言えるだろう。

父から見た娘、また娘から見た兄という視点が削られ、弟から見た兄という視点で小説を一貫させたことで、『兄弟』の構成は堅牢になり、作品は直木賞候補になるなど大きな評価を得た。『血の歌』は『兄弟』のいわば試作品であったのだ。

そのようにいったんボツにした草稿をなかにしはなぜ残していたのか、が第二の謎である。後記で中西康夫が書くように、なかにしはつねに原本(草稿)を廃棄していたという。彼が『血の歌』だけを残しておいたのは、将来何らか形での発表を意図していたと考えるのが自然だろう。

次に湧き上がる謎は、なかにし礼が森田童子の音楽的才能をどのように捉えていたかという点である。その謎を解き明かしてくれたのが、『血の歌』では「お貞さん」、『兄弟』では「藤原慶子」と呼ばれて作中に登場する辣腕音楽プロデューサーの松村慶子である。彼女は'64年に『知りたくないの』(菅原洋一)で作詩家・なかにし礼を、'74年に『さよならぼくのともだち』で森田童子を、ともにメジャーデビューさせた。

松村は「礼ちゃんは童子を『手に負えない才能だ』と高く評価していて、本当は応援したかった」と証言した。しかし、森田童子は「叔父の七光りで世に出たくない」と反発し、松村も「メジャー過ぎて、どこか体制的な匂いがする礼ちゃんの姪ということはマイナスで、童子を反体制、非体制で売りたい」と戦略を立て、「森田童子との関係をずっと隠し通すこと」をなかにしに提案、なかにしがその約束を死ぬまで守り続けてくれたことを感謝する。


小説『時には娼婦のように』を構想していた
森田童子の音楽が、なかにし兄弟が育った満州牡丹江の裕福な家庭にあった音楽的な環境に胚胎していることは疑いがないだろう。しかし、森田は叔父の後ろ盾なしで自らの音楽世界を築き、父親の戦争中の失墜と戦後の堕落に対して全共闘世代の挫折感を対置させ、先行世代への鎮魂歌を歌いつづけた。彼女は中西家の「虚無という血」を引き継いだ、と私には思える。

「『血の歌』が出たとき、さすが礼ちゃんと感心したわね。童子と自分が死んだあと、すべてを明らかにする。礼ちゃんらしい見事な自己演出だと思った」と語る松村は、なかにしが『血の歌』の原稿を意図的に家族の目に付きやすい場所に置き、自分の死後の出版を暗に望んでいたと考える。中西康夫もそれが父の遺志だと信じている。なかにしとの共同作業で数々のヒット曲を生み出した辣腕プロデューサーと、なかにしと最も身近に接してきた子息の見解には、確かに説得力がある。

森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』


しかし私は、『血の歌』を読んで、一つの別な想像をめぐらせた。

私がなかにし礼と最後に会ったのは、なかにしが亡くなるちょうど2年前、'19年の12月だった。「キャンティ」で私と話すうちになかにしは、『時には娼婦のように』というタイトルで、'70年代の懶惰な日々を小説にしたいと思い立った。7人の女性が住み、彼女らの世話をする年配のマダムがいる一軒家。なかにしにはそこを訪ねて遊んだ日々があった。特権的な時間であったとは思うが、平和ボケの極みのような退廃と乱倫のなかに、なかにし独自の共生と気づかいの哲学を再発見しようとしたのかもしれない。なかにしはその時代を描きたいと切実な調子で言い始めたのだ。

その後、なかにしはその小説の構想を河出書房新社の担当編集者に持ちかけたと聞いたが、それが実現しないまま終命の時を迎えた。ここから先は私の憶測だが、なかにしはこの作品に、'74年の森田童子の歌手デビューを絡め、当時の音楽状況をふくめて回想しようと目論み、その時のために、いつか作品の形を与えようと思っていた草稿を机の引き出しに入れておいたのではあるまいか──。

こんなふうに『血の歌』は、さまざまな空想を喚起し、なかにし礼の死が創作活動を無残にも途絶させたことを、悲しみとともにあらためて思い起こさせる掌編なのである。

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2022.01.01
「僕たちの失敗」の森田童子の父親は、なんとあの人だった

なかにし礼の未発表作品に書かれたこと

作詩家であり、作家のなかにし礼が亡くなって1年が経つ。それにあわせ、死後に自宅から発見された未発表作品『血の歌』(毎日新聞出版)が刊行された。そこに書かれていた主題が、一部で波紋を呼んでいる。なかにしの代表作『兄弟』で描かれたあの破滅的な兄。その娘こそ、一世を風靡した森田童子であったのだ。つまり、森田は、なかにしの姪にあたる。なぜ、なかにしは森田との関係をここで明かすことになったのか。森田と交流もあった元『ガロ』編集長の高野慎三が記す。

テレビドラマ『高校教師』のあの歌声

かつて森田童子という類まれなシンガーソングライターが存在した。一部で熱狂的に支持されたようだ。その後1990年代前半に、テレビドラマ『高校教師』のバックに流れる「ぼくたちの失敗」で一般的に知られるようになった。そのときの語りかけるような音律と透き通る細い歌声が聞く者の心をとらえた。そして、「暗く悲しい歌」の歌い手として認知された。

森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』


森田童子の存在をはじめて知ったのはいつのことだろう。70年代の終わりに、わたしより一回り以上も若い青年たちが「一度聞いて欲しい」と録音テープを届けにきた。聞いてみて、「いやにセンチメンタルな歌だなあ」とそのときは思った。


突然の電話
従来、わたしは音楽にほとんど関心を持たなかった。クラシックも、ジャズも、ロックも聞いたことがない。戦前・戦後の歌謡曲のいくつかと、森進一や八代亜紀の2、3の歌を好んだ。

1970年以降のフォークソングにも馴染めなかった。森田童子の歌も私的な生活を言葉にしたフォークとさほど違いはないものとわたしは思い込んだ。

ただ、若い友人たちのこだわりが尋常ではなかった。森田童子のコンサートにしばしば出かけていたようだ。「ぼくたちの歌」と捉えているふしがうかがえた。この場合の「ぼくたち」とは1960年代後半の「反乱の季節」における高校生世代を意味する。たぶん、森田童子の歌のなかに自らを重ね合わせていたのだろう。その心情を理解できなくはなかったが、「青春の甘酸っぱさ」は願い下げたかった。

そんなある日、森田童子の関係者から突然の電話がある。用件は、「つげ義春さんの作品を使用したいのですが」との問い合わせだ。

わたしは1967年から71年までマンガ雑誌『ガロ』の編集長を務め、つげ義春さんを担当した。その縁で、辞めてからもつげさんの取次役のようなことをやっていた。つげさんに連絡を取ると即時に承諾。「使用料は考えないで」との言葉も伝えた。また別の日に「作品のタイトルをコンサート名にしてもいいですか?」と問われ、これもつげさんから了解を得た。

森田童子がつげ義春の愛読者であることを知って、わたしは新たに格別の興味を抱いた。それでも、もっと歌を聞いてみたいとまではならなかった。

森田はなぜつげ義春に執着したか
ところがである。「これから森田とお邪魔します」と、また電話があった。1時間ほどして、杉板づくりの大きなリンゴ箱を肩に担いだ男性が、わたしが営む小さな文具店のガラス戸を開けた。「森田がいろいろお世話になりました」と言うと、表通りの歩道をふり返った。帽子を深くかぶったサングラス姿の彼女が深々とお辞儀をした。あわててわたしも返した。パートナーと思われる男性は「これからつげさんにもお届けします」と急いで車に戻った。森田童子と接したのはこのときが最初であり、最後だ。

挨拶の言葉ひとつ交わすこともなかったが、感じのいい出会いだった。

同じころ、住まいに近い渋谷道玄坂裏の円山町のラブホテル街の電柱に「森田童子コンサート・夜行1」とか「大場電気鍍金工業所コンサート」とかのステッカーを見かけた。『夜行』は、つげ義春の新作を掲載した本だ。どれほど彼女がつげ義春に執着しているかを想った。いや、つげ義春だけではない。下町葛飾の労働者たちの60年安保闘争を描いた実弟のつげ忠男のマンガ集『懐かしのメロディ』に寄せて、彼女は「絶望と孤独の風景」と綴り、つげ忠男への限りない愛惜を表明した。

以後、森田童子との接点は途絶えたままになった。歌うことをやめ、東京を離れたと風のうわさが流れた。気になりだしてCDを購入し、ときどき聞いた。いくつもの歌詞から森田童子の立ち位置が想起され「ああそうだったのか」との思いに襲われた。つれ合いが森田童子の歌を聞きながら、台所でふと手を休め、「いい歌よね」と言う。そして「正しい歌だわ」と続けた。冗談じゃない、歌に正しいも正しくないもあるものか、と言い返そうとして、思いとどまった。

なかにし礼の『血の歌』が明かす森田童子の過去
森田童子より2歳年上のつれ合いは、森田童子の頑なな意思と、ときどきの危機意識を瞬時に受け止めたのかもしれなかったからだ。その「正しさ」とは「理念を持っている」ということではないだろうか。森田童子の歌は「闘い」の歌ではないかもしれないが、「抵抗」の意思を示す歌ではあるだろう。「正しさ」とは「抵抗」の謂いでもあるのだろうか。

「反乱の季節」を若者たちとともに闘おうとした作家・高橋和己の「孤立無援の思想」をモチーフとした歌もあった。つげ義春の「海辺の叙景」をイメージした作品もある。

いったい、森田童子とは何者なのか、と疑問を抱いた。しかし、わたしにはどのような情報も届かなかった。森田童子は謎に包まれたままの存在となった。それから20年が経ち、30年が経ち、予期しないときに訃報が飛び込んできた。わたしはつれ合いの遺影のある小さな部屋で、森田童子の歌を流した。

森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット


そして、いまになって、なかにし礼の未発表小説『血の歌』(毎日新聞出版)によって、森田童子の過去が明らかにされた(作品のなかでは「美納子」「森谷王子」となっている)。森田童子は、なかにし礼の姪だったのだ。なかにし礼の代表作である『兄弟』のモデルだった、「特攻帰り」で、戦後、放埒に生きたという実兄の娘だったのである。そのあまりに衝撃的な人間関係に驚きを禁じ得ないが、しかし、それらはある意味、充分に納得のいく事柄であった。

荒廃した父親を通して「戦後」を感知し続けた
《堕ちていくばかりの父親と、それに振り回される家族がいた。墜落を恐れながら、みずからさらなる墜落を求める父。あるいは美納子は中西よりも、いや中西の背中越しに、戦争の興奮を見てしまったのかもしれない。そして、興奮から遅れてやってくる、傷と孤独。それは美納子にとって、時代の儚さであり、自分の命の悲哀であったのではないか》(『血の歌』より)

森田童子の歌から感受される途方もない「暗さ」は、たんに父親という存在の個性に求められるべきではないだろう。青春期に戦争を体験した、いわれるところの純粋戦中派にとって、敗戦後をどのように過ごしたかは、ひとりの個人の問題に還元されるべきことがらではない。つげ忠男がいくつものマンガで描き続けた「特攻帰りのサブ」の生き死には、B29撃墜の戦闘機パイロットであった父親像とみごとにオーバーラップする。いわば、敗戦後における父親の自堕落な姿は、下町で虚勢を張る与太者の「サブ」と寸分の違いもない。

つげ忠男は、工場街の裏町で目撃した実像の与太者を通して「戦後」を凝視した。森田童子は、父親の荒廃した実像を通して「戦後」を触知した。つげ忠男の一連の作品が戦後の「正しさ」を描き留めたように、森田童子も「戦後」のなかで自らの「正しさ」を追い求めた。

『血の歌』は、森田童子の秘密に触れると同時に、戦争体験を経た「戦後」という時間の秘密をも物語る。森田童子の歌が存在する限り、つげ忠男の作品が存在するかぎり、「戦後」は終わらないのである。


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血の歌 Kindle版
なかにし 礼 (著)

痛ましい歌声が、俺の胸を血まみれにする。
戦争の昂揚と絶望、そして戦後の果てない堕落。兄の人生を見つめたその娘は、「謎の歌手」に生まれ変わった。
代表作『兄弟』の原型にして、いまに鮮烈な未発表作品、なかにし礼の死後1年目に衝撃の単行本化!

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なかにし礼生い立ち~家族と兄弟仲に無謀過ぎる兄に振り回された半生

現在ではコメンテイターとしても顔を見なくなった
作詞家のなかにし礼さん。

妻に元女優の石田ゆりさんを持ちその姉にいしだあゆみ
さんが見えるなかにし礼さんの生い立ちや家族と兄について
壮絶な過去を追ってみようと思います。

昭和歌謡曲の作詞を多数担当し、数々のヒット作を
世に送り出したなかにし礼さん。

1998年からは小説家としても活動し、2000年には
『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞されています。

またラジオやテレビ番組でのコメンテーターなど様々な
顔を持ち活躍を続けています。

そんななかにし礼さんの生い立ちから兄に振り回された
半生などをまとめてご紹介します。

なかにし礼プロフィール
本名 中西 禮三(なかにし れいぞう)
生年月日 1938年9月2日(80歳2018年9月現在)
職業 小説家、作詞家
出生 満州国の牡丹江省牡丹江市
学歴 東京都立九段高等学校、立教大学文学部英文科

大学在学中にシャンソンの訳詞を手がけました。

1964年に『知りたくないの』のヒットを機に
作詞家になり、『今日でお別れ』『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』など約4000曲の作品を残し
日本レコード大賞など数々の賞を受賞されています。

その後は作家活動を開始し1998年に『兄弟』次作に
『長崎ぶらぶら節』など作家としても数多くの
作品を残されています。

なかにし礼の生い立ち~裕福だった満州時代と家族
なかにし礼さんの両親はなかにし礼さんが
生まれる前に北海道の小樽から、旧満州(中国東北部)
に渡りました。

醸造業を営むなかにし礼さんの両親は関東軍に
お酒を納め、ガラス工場やホテルも経営し成功を
収めていたそうです。

なかにし礼さんは従業員に「坊ちゃん」と呼ばれ
当時は相当な裕福な家庭で育ちました。

その後なかにし礼さんが小学1年生の時に終戦し
満州から引き上げて8歳の時に小樽に戻りました。

その時に家族とともに何度も命の危険に遭遇し
その時の体験が以後の活動に大きな影響を
与えたと言われています。

戦前戦後を生きた人特有の壮絶な体験をなかにし
さんも体験されていたようですね。

今では想像もつかないような壮絶な経験から
数々の作品が誕生しているのかもしれませんね。

なかにし礼さんは当時の混乱の様子を実体験に
基づいて『赤い月』という小説を書かれています。

なかにし礼の家庭崩壊の始まりは戦後の兄の傍若無人から
なかにし礼さんには14歳も年の離れた兄がいました。

14歳とかなり年齢の離れた兄弟だったため恐らく
なかにしさんの年齢(現在80歳)では徴兵制度で
戦争に駆り出される年齢には届いていませんでした。

だが14歳も年上の兄は当然徴兵で日本男児の義務と
して戦争に駆り出されているはずです。

兄は戦時中特攻隊に所属していて生き延び、終戦後
何とか命からがら生き延びた少数派の一人として
なかにし礼さん達家族の元へ帰ることができました。

父親の死後、一家の大黒柱として祖母、母、姉から
頼りにされましたが、戦後の兄は人が変わったように
破滅的で大金を投資しては失敗し、一家はすぐさま借金を
抱える事に没落したそうです。

頼りにするどころか兄の自暴自棄な精神状態に巻き込まれて
一家はどんどん貧乏になっていったそうです。

戦争が一人の青年に与えた影響はやはり生還してきた
極一部の強運を持ったなかにし礼さんのお兄さんであれ
人生観を破壊される程のインパクトとショックがあって
の変貌だったのでしょう・・・
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なかにし礼の兄に振り回された半生と絶縁
ただこの時代の長男と言ったらもうそれはそれは特別な
存在で14歳も年下の弟が意見うぃ言えるような立場では
ありません。

どうにか家庭を立て直したいなかにしさんら兄弟を
傍目にちっとも元に戻りそうにない兄の尻拭いがこの
時代特有の兄弟関係でかなり壮絶な目にあうことに・・・

なかにし礼さんには兄の借金を肩代わりしていた
時期があるそうです。

作曲家として起動に乗り世間でいう成功者となりつつ弟が
夢に向かう最中になかにし礼さんは兄に振り回され
憎しみを抱くようになったそうです。

なかにし礼さんがどんどん有名になりお金を稼ぐように
なっても兄がどんどんなかにし礼さんから借金して
浪費してしまいます。

最後にはなかにし礼さんの名義でお金を借りて
全てを使い切ってしまうほどでした。

なかにし礼さんは兄の借金を返済するのに
大変苦労されたそうです。

その金額も破格の7憶円もの大金を肩代わりしていたとか。

普通なら返しきれない量の借金だったんですね。

ただそんな兄を疎ましく思いつつ兄を憎むが兄嫁が
長男の嫁であるため、献身的になかにしさんらの
母親の介護をしていたこともあり兄を切り離すことが
できなかったそうです。

だがそれも母親が生きているうちは何とか我慢しても
母親が亡くなり家族ができたなかにし礼さんは兄と縁を
切る覚悟をしたそうです。

当然でしょう・・・

あまりにも傍若無人な兄の振舞いは限度を超え過ぎです。

なかにし礼さんもほとほと嫌気がさしていたのでしょう。

縁を切ってからは16年間一切会わず兄が亡くなったと
電話があったときは内心喜んだそうです。

この辺りの心境がなんともリアリティがあります。

そんな兄との関係を自らの体験に基づいた自伝小説
『兄弟』は直木賞候補にもなり1999年にはテレビ朝日の
開局40周年スペシャルとしてドラマ化されています。

「兄さん、死んでくれてありがとう」
という有名な台詞がありますが聞いたときは
衝撃的でした。

今書いてても相当インパクト大過ぎます。汗

でも自分に置き当てたら、死んでくれてありがとう~では
済まされないとは思いますが・・・

だって7億ですよ。

せめて自分が稼いだ金で借金して欲しいものです・・・

兄弟とは言え人のお金を、身勝手過ぎます。

なかにし礼さんのデビュー作にして代表作の『兄弟』
を読んだことがない方はぜひチェックしてみましょう。


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おわりに

現在は2012年に食道がんを患い完治するも2015年に再発しこれも克服したなかにし礼さん。

戦争が幸いして精神状態が破綻したであろう兄弟の莫大な借金を身勝手で理不尽な借金と分かりながら返済を続けてきたなかにし礼さんは絶望的な半生を送って相当苦労されています。とは言えそんな兄さんもお亡くなりになられましたし改めて戦争の恐ろしさを考えさせられるエピソードでした。

現在も精力的に活躍を続けどんな状況でも希望を失わずに生きてきたなかにし礼さんの作品をぜひ読んでみてください。

▲△▽▼

486伝説の名無しさん2019/04/12(金) 23:17:23.23
風吹ジュン誘拐監禁ですが、暴力団とか事件の詳細はどうでもいいです。
ここで興味深いのはアドプロモーションの社長が森田童子の夫、役員が父と叔父だということです。

1974年9月に事件が起きて、1年後に森田童子がレコードデビューしてます。
デビューアルバムには松村慶子をはじめ、当時の一流のスタッフで、なかにし礼が懇意にしている人たちが集まってます。

まるで、もう一度、風吹ジュンに代わってアイドルを売り出そうとするかのようです。

これは想像ですが、風吹ジュン事件で中西、前田ファミリーは負債を負ったことでしょう。

そこでアイドル風吹ジュンの穴埋めとして、家族の一員の前田美乃生さんを森田童子にして歌わせたんじゃないでしょうか。
もちろん本人に有り余る才能があったればこそでしょうが。

たぶんこれはそんなに外れたことじゃないと思います。
そう考えると、森田童子の歌や正体を隠していたことなど違った見方ができるんじゃないでしょうか。


488伝説の名無しさん2019/04/13(土) 09:15:24.33

週刊平凡 1974年10月10日号
「風吹ジュンがなかにし礼さんを強盗傷人罪などで告訴!」(*抜粋)

9月20日―。東京・高輪警察署に一通の告訴状が提出された。
告訴人は風吹ジュン、『ガル企画』の石丸末昭社長、同・杠洋之輔マネジャーの3名。

被告訴人はなかにし礼氏(本名・中西礼三)、実兄の中西正一氏、『アドプロ』の前田亜土社長、同プロの宇野マネジャー、それに住吉連合の幹部・岩井政道氏、その配下・小川利行氏の6人。

岩井氏と小川氏は即日、高輪署に逮捕された。
今後の捜査の状況によっては、人気作詞家・なかにし礼氏に、司直の手がのびないという保証はどこにもない。

『ガル企画』が発足したのは9月9日だが、発足以前にはなかにし礼氏自身も経営者のひとりとして参加予定だったという。それを石丸社長があえて外したのはなかにし氏の評判がかんばしくなかったためといわれる。なかにし氏が、これをおもしろく思うわけがない。

さらに『アドプロ』の前田亜土社長の夫人・美乃生さんは中西正一氏の娘さんである。彼にとっては姪に当たるわけだ。金の卵に逃げられた親類のため、芸能界に顔をきくなかにし礼氏がひと役買って出た気持ちを思えば、あわれである。


495伝説の名無しさん2019/04/14(日) 02:09:28.18

本名を出して素顔を公開したら色んな事がバレてしまうし、
売れてしまったら週刊誌が正体をつきとめようとつけ回る。
だか
3:777 :

2022/08/25 (Thu) 07:29:08


テレビドラマ なかにし礼『兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』(テレビ朝日 1999年)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14035073

なかにし礼の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1234.html

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