777投稿集 5318669
みんな大好きな白洲次郎さんの正体 | ■↑▼ |
2023/04/12 (Wed) 07:19:45
白洲次郎 - Bing images
https://www.bing.com/images/search?q=%e7%99%bd%e6%b4%b2%e6%ac%a1%e9%83%8e&form=HDRSC3&first=1
白洲次郎 - Bing video
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ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html
みんなが騙された悪質なデマ _ 「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/747.html
鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html
ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html
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故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA
戦争はすべて八百長(00:38:51)
熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)
秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)
仕組まれた戦争 (00:15:35)
皇室スキャンダル (00:18:21)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)
死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)
住友と天皇家は、血族 (00:23:04)
秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)
天皇のための戦争(00:25:02)
戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)
昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)
真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)
海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)
パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)
天皇が内通していた(00:31:38)
スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)
天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)
終戦工作と白州次郎 (00:33:39)
ヨハンセングループ (00:34:17)
日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)
日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)
弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)
火事場泥棒なんです。(00:36:15)
こじつけ無罪論(00:36:19)
明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)
第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)
戦争はすべて八百長(00:38:51)
戦争は継続しなければいけない (00:40:48)
天皇が被爆に加担した(00:42:23)
白洲次郎の秘密(00:44:17)
吉田茂の秘密(00:46:20)
こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)
キッシンジャーと中曽根(00:57:00)
使い捨て人形(コンプラドール)からの反乱(01:08:35)
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プリンシパルのない日本 (1) Der Klang vom Theater (ドイツ~劇場の音と音楽)
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-575.html
みんな大好き白洲次郎さんである
https://blog-imgs-161.fc2.com/k/a/o/kaorin27/71YnG5Gi5VL_convert_20230411134127.jpeg
この人はオックスブリッジで「契約の社会」を体現した人である
プリンシパルとは日本語に訳しにくいとまず書いている
なぜなら「プリンシパル」の概念が日本には無いから置き換えの対象が無い。と言う結論に帰着せざるを得ない
「principal」をweb辞書で引くと
重要な、第一の、上位の人・立場などと出てくる
語源であるラテン語のprincepsが「元首」の意味を持つのでそんな表現をしているのだろうと思う
英国の社会には存在し、白洲さんの思い描くプリンシパルとは
原理・原則
目に見える現象は移ろいゆくものだが、その上流には動かしてはいけない法則がある
感情や利害とは別次元で、人間として守らなければいけないもの、譲れないもの
こんな思いで著書に著さずにいられなかったのだと感じます
それ程、ご都合主義で感情的で利己的に日本社会が白洲さんの目には映っていたのでしょうか
7,8年前からでしょうか
ちょうどヴィニールレコードの人気が再燃した頃、レコードのカッティング・カーブは有名な「RIAA」だけでは無い
そんな話題が盛り上がって来ました
モノラル時代にプレスされたレコードを楽しんでいた人からすると「何を今更」って事で姦しい論争を遠巻きに生温く見守っていたものです
クラシックの主にメジャーレーベルのモノラル盤を聞いていた故か、実はあまり実感は無かったんですよね
RIAAの他にはffss columbia EURO78の3つもあれば大半のレコードをカバーできるから
もちろん当時のプリアンプにはEQ再生カーヴの切り替えが3、4種類あり、さらにこれで不足な時にはトーンコントロールをお使いなさい。と準備されていたものです
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テスト盤の試聴用のEMTは当たり前についている(モノラル時代のEMT-930)
一方、資金的に潤沢では無い=相当に有名なレーベルも=乱立していた米国ではもう訳の分からない状態で
マッキンのC-8型プリアンプの付録には数十種類のレーベルに対応したスイッチのポジション表が添付されている有様でした
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これでもまだ一部です
欧州のレコード会社の設備に関しては、Neumannが圧倒的シェアを誇っていたのですからハードウェア的な制約からあまり録音カーブのバリエーションが生まれなかったのでしょうね
おそらく飛び抜けて高額なレンタル料金であった(その見返りに完全な保守管理が約束された)でしょうからマイナーな会社の中には使えない所もあったでしょう
川崎の好事家のお宅で「スカリー」のカッティング・レースを拝見したことがあります
Neumannのそれがメルセデスのガルウィングのスポーツカーとすると、スカリーの物はスーパーカブみたいでした
モーターのノイズを隔離する為でしょう、何重にもベルトを渡して駆動される様はさながらからくり人形のようで
莫大な生産規模のあるメジャーでは、いくらレンタル料金が高くとも機材の不具合による操業停止の方がよほど痛手になるので金額は問題なしです、映画館におけるWEやklangfilmの立場と同じです
さて、録音カーブの問題に戻ると
表向きには1954年の国際会議で、以降のレコード製作は「New Orthophonic」にしましょうとの約束になりました
(英国内では翌55年に規格化)
RCAのカーブが採用されたのは単純に大人の事情でしょうね、売上規模かな
世はLPモノラルの時代ですから、後期のモノラルLPはRIAAであるのがお約束です
その後、前後はありますが57ー58年頃にステレオレコードが出始めます
しかし、上述した通りレコード会社にも経済的事情がありますから、いくらお上が規格統一したって「コチトラ急に機材の入れ替えなんて出来ねえ」ってとこがあっても仕方がないかもしれません
そんな事情も鑑みると1954年以降にも一部はカット・カーブが混在し、主にロックやジャズのレコードコレクター達を惑わしたのも無理からぬことだろうと思って見ていたのです
ところがある時から、おかしな方向に風向きが変わります
ステレオになってから、それもメジャーでもRIAA以外のカーブが多数あるぞ!
と、言い出したのです
まあ、市井の民がNETに落書きするだけなら苦笑するだけで済みますが
雑誌のライター的な者や、メーカーの人間までも書き始めては不穏な空気が広がります
「悪貨は良貨を駆逐する」誠に残念ながらこの世情をよく表しています
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-575.html
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白洲 次郎(しらす じろう、1902年(明治35年)2月17日 - 1985年(昭和60年)11月28日)は、日本の実業家。貿易庁長官。兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)出身。
連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。
生涯
生い立ち
白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた[注 1]。白洲家は元三田藩の士族の出。後に兵庫県川辺郡伊丹町[3](現:伊丹市)に転居した。
精道尋常小学校、御影師範学校附属小学校高等科を経て、1914年(大正3年)兵庫県立第一神戸中学校に入学[4]。サッカー部・野球部に所属。アメリカ車ペイジ・オートモビル(Paige Automobile )のグレンブルックを父親から買い与えられており、級友等を同乗させている写真が残っている。このペイジ・グレンブルックは、現在は東京都町田市にある旧居武相荘(後述)で展示されている。
神戸一中時代には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になった。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に中国古典学の大家として、文化功労者になった吉川幸次郎がいる。
祖父である白洲退蔵がキリスト教伝道系学校の神戸女学院の創立に関わったことから白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、彼女たちから直接英語を学んだ[5]。
イギリス留学
1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学[6]。史学科の聴講生として西洋中世史、人類学などを学ぶ。莫大な仕送りを受けつつ、のちに7代目ストラフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(ロビン)と親交し、イギリス貴族のライフスタイルを知る[5]。
自動車は、ブガッティ・タイプ35やベントレー・3リットル(1924年)を所有。ロビンと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行(グランドツアー)を実行している。カメラはライカを所有していた[7]。次郎が所有していたベントレー・3リットルは、現在は埼玉県加須市にあるワク井ミュージアムに展示されている(なお白洲次郎のベントレーが現存している、とワク井ミュージアム館長に教えたのは、自動車評論家の小林彰太郎であり、小林の助言により館長は当時の所有者であった英国人と交渉を行い、この車が日本で保存されることになった[8])。またクレア・カレッジ内にある図書館には、SHIRASU COLLECTIONと称した白洲次郎を記念としたセクションがあり、日本関連書籍が並んでいる[9]。
帰国
1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を断念し、日本への帰国を余儀なくされた[10]。
1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場に提出されている。
結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた[11]。英字新聞記者を経て1931年セール・フレイザー商会に勤務し取締役となり、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となった。セール・フレイザー商会は明治初期より横浜で貿易商をしていたセールとフレイザーが明治30年に合併し、機関車や兵器などの輸入と銀行業務を行なっていた会社で、社長のジョージ・セールは白洲のケンブリッジ留学時代の学友だった[5][12]。
この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得[10]、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役をしていたこともあった。
戦時下
第二次世界大戦勃発の翌年の1940年(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送った。
1943年(昭和18年)、疎開先の白洲のもとに召集令状が届くも、英国時代に関係を深めていた東部軍参謀長・辰巳栄一に嘆願して握り潰してもらう。戦後白洲と同じ吉田茂の側近となった辰巳であったが、2009年の米公文書記録管理局の機密解除の結果、CIA協力者として日本の軍事機密をアメリカ側に漏洩していたことが判明した[13][14][15]。
終戦連絡中央事務局
1945年(昭和20年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた[16]。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたというエピソードが「マッカーサーを叱った男」として伝記等で流布されている[17]。しかし占領期のGHQ関連文書を保管するマッカーサー記念館の調査結果によると、1945年12月から1946年12月にかけての執務記録、面会予定表、ゲストブック、いずれにも白洲の名は無かったため、このエピソードの信憑性には疑義が呈されている[18]。
憲法改正
同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった白洲は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとコートニー・ホイットニーに宛てて書簡[注 2]を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明された。
同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)6月18日、終連次長を退任した。
貿易庁長官
1945年(昭和20年)12月15日、商工省の外局として設立された貿易庁の長官に1949年(昭和24年)12月1日に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。
同年、日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現:日本製鉄広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになった。白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。
白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業とアメリカ企業の日本進出時に代理人を務めた。
サンフランシスコ講和会議全権団顧問
1950年(昭和25年)、連合国との講和問題で池田勇人蔵相や宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米し、ジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約締結の準備を開始した。
1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。外務省の説明によると、首席全権であった吉田茂は当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために、当日になって、急遽日本語で演説することとした[20]という。白洲によれば、この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直した。
原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた[21]。しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務の元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルド大使が西村熊雄に日本語で演説することを勧めたため、同僚や白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田にその旨伝えた、としている[22]。
1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた。吉田退陣後は政界入りを一部から望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。
実業界へ復帰
吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1949年(昭和24年)には日本専売公社が発足している。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任した。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。
就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。
また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川[23]の水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出した。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれた。
東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、英国ウォーバーグ証券(S. G. Warburg & Co.)の役員や顧問を歴任した。
晩年
軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳までエンジンを2400ccに改造した1968年型ポルシェ911Sに乗り、三宅一生のショーにモデルとして出演もした。また、初代ソアラ(Z10型)のオーナーであり、その改善点を伝える形で没後の1986年1月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行なっており、その際に上記のポルシェをトヨタに寄贈し参考にせよともしている。
死去
しかし1985年(昭和60年)11月に、妻の正子と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院、同年11月28日に急性肺炎のため東京都港区赤坂の前田外科病院で死去した、83歳没[1]。墓所は兵庫県三田市の心月院である。
妻の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。実はこの遺言書のフレーズは、白洲の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。そして白洲の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。
なお、1987年11月に自動車雑誌「NAVI」で、白洲の生涯を扱った「日本国憲法とベントレー」(その後「白洲次郎の日本国憲法―隠された昭和史の巨人」として刊行)が連載されたこともあり、没後2年を経てにわかに白洲の生涯とその功績が注目されることとなった。
エピソード
白洲次郎に関する一次資料は、ほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である[24]。
華麗な経歴と整った相貌、英国流ダンディズムに基づいた彼特有の美学やライフスタイルに、謎の多い人物像も相まって、その存在は彼の死後ある種の伝説的なものとなった。日常的に英国の高級ブランドを着こなしていた一方で、ジーンズを日本で初めてファッションに取り入れた男とも言われるほど、ファッションセンスにも富んでいたことがうかがえた[25]。関連書籍や特集記事は多数出版されており、その多くは容姿や振る舞い、行動力に至るまで「外国人(白人)に勝るとも劣らない日本人」として描写されている[26]。
長野県の軽井沢は、戦前から戦後、そして最晩年に至るまで長らく通い続けた、白洲夫妻にとってお気に入りの土地であった[27][28]。別荘の隣に住んでいた河上徹太郎夫妻の知遇を得、親交を結んだほか[29]、細川侯爵家をはじめとする国内外の著名人らと、東京にいるときと同様に交流を持った。母校ケンブリッジ大学のラグビーチームが来日した際には、軽井沢に彼らを招待している[30]。また軽井沢ゴルフ倶楽部では、次郎は名物理事長として知られた[31]。東京からポルシェやランドローバーを飛ばしてクラブハウスに乗りつけると、プレーに来る会員たちのマナーに遠慮なく注意したという[32]。なかでも当時首相であった田中角栄とゴルフにまつわる”攻防”が繰り広げられたことは有名である(軽井沢ゴルフ倶楽部#エピソードを参照)。
山形県の蔵王温泉スキー場上ノ台ゲレンデ近辺には、次郎がスキーシーズンに使用した別荘「ヒュッテ・ヤレン」があり、保存・活用の会が発足している[33]。なお「ヒュッテ・ヤレン」の名称は、上手にスキーができない、”ひゅーっとやれん”(曲がれない)という、ユーモア、ジョークである[34]。
コーヒーはイタリアン・ローストで細かく挽いたものを好み、青山の紀ノ国屋でよく購入していた。顔なじみだったコーヒー売り場の店員は、白洲の訃報を伝える新聞記事で初めて素性を知り驚愕するとともに、「冗談好きで素敵なおじいさんだった」と後に取材に答えている[35]。
手先が器用で日曜大工が趣味の1つ。しゃもじや小物入れ、キャスターテーブルなど日用品をよく作っていた。これらは現在も武相荘に展示されている。2009年にマッカーサー記念館の倉庫から、白洲が設計しダグラス・マッカーサーに贈答された椅子と書簡が見つかった。書簡には「Your most obedient servant. Jiro Shirasu.(あなたの最も従順な下僕 白洲次郎)」と署名されていた[36]。
身長について、孫の白洲信哉は「次郎はいまのぼくと同じくらいでしたから、175cmほどでしょう。不思議なことに新しい伝記が書かれるたびに、どんどん背が伸びているんです。とうとう185cmまで伸びました。身内の間では、そのうち2mを越すんじゃないかって冗談を言っています」と述べている[37](尚、白洲自身がGHQに提出した身上書には身長:1m75cm、体重:65kgとある[38])。
発言集
「吾々(われわれ)の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」[39]
「憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。一寸夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」[40]
「自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる」(日本国憲法制定を巡ってのGHQとの攻防の折、宮澤喜一に対して)
「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」[41]
「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい。」[42]
「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法ができ上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マッカーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」[41]
「私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」[41]
「占領下の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人――一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいとおもい、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさら感ずる年でもないと思っている」[43]
「税金がふえて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意ならば、安保など解消すべし」[42]
「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」[44]
第三者による白洲次郎評
前出のように、白洲次郎についての一次資料は少ないとされる。死の数年前、何日かにわたって古いかばんを持ち出し、中の書類を次々に火にくべていたという。長女の桂子が「何を燃やしているの?」と尋ねるとそれには答えず、「こういうものは、墓場まで持っていくもんなのさ」と言って、焼却炉から立ち上る煙をじっと見上げていたという[45]。
ここでは第三者による批判的な白洲次郎評を挙げる。
「白洲さんは悪い人じゃないけど、女にもて過ぎたのがいかんですね」- 鹿内信隆[46]
「流暢な英語で、人を見下して話すところは、好きになれませんでした。」- ヘンリー・スコット・ストークス(ニューヨーク・タイムス東京支局長)[47]
「吉田側近として活躍していた昭和20年代後半は、評判が悪かったという。高く評価されるようになったのは、吉田氏同様、死後しばらく経(た)ってからだった」- 乾正人[48]
島地勝彦は、戦争の際は率先して最前線に立つことが王室や貴族の子弟の義務だが、白洲次郎は戦時中に徴兵を忌避をした点で紳士道に反すると評価している[49]。
家系
白洲家
白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄。曽祖父は白洲文五郎、曽祖母は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市)一柳氏の家老黒石氏の娘・里子[51]。祖父は三田藩儒の白洲退蔵(文政12年7月15日(1828年8月15日[51])、現在の兵庫県三田市屋敷町にて出生)。退蔵は明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた[51]。また現在の元町、三宮といった神戸港周辺の神戸市の都市開発や神戸ホーム(神戸女学院大学の前身)の創立にも尽力した。
父・白洲文平はハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄で「白洲将軍」と呼ばれた。
子孫
長男(第一子):白洲春正 - 元東宝東和社長
二男(第二子):白洲兼正
孫:白洲信哉 - 兼正の長男、母は小林秀雄の長女・明子。元内閣総理大臣・細川護熙の公設秘書でアートプロデューサー、エッセイスト、株式会社ジパング代表取締役
長女(第三子):白洲(現・牧山)桂子 - 旧白洲邸・武相荘館長
略年譜
1902年(明治35年) - 2月17日、現在の兵庫県芦屋市にて誕生。
1914年(大正3年) - 神戸一中入学。
1919年(大正8年) - 神戸一中卒業後、イギリスに渡航。
1924年(大正13年) - ケンブリッジ大学に聴講生として留学。
1928年(昭和3年) - 白洲商店倒産。この頃、帰国。
1929年(昭和4年) - ジャパン・アドバタイザー入社。11月19日、正子と結婚。この頃、正子の父を通じて吉田茂と知り合う。
1931年(昭和6年) - 2月5日、長男春正誕生。セール・フレイザー商会入社、取締役となる。この頃から頻繁に渡欧。
1937年(昭和12年) - 日本食糧工業(後の日本水産)取締役就任。やがて取締役外地部長となる。この頃、近衛文麿と知り合う。
1938年(昭和13年) - 1月3日、次男兼正誕生。
1940年(昭和15年) - 6月3日、長女桂子誕生。
1942年(昭和17年) - この頃、日本水産を退職し帝国水産理事就任。この頃、南多摩郡鶴川村(現在の町田市)にて農家を購入。
1943年(昭和18年) - この頃、鶴川村へ転居(=武相荘)。
1945年(昭和20年) - 終戦連絡事務局参与に就任。
1946年(昭和21年) - 2月、日本国憲法制定作業に参加。3月1日、終戦連絡事務局次長に就任、高等官一等となる。12月、経済安定本部次長に就任。この頃、読売争議に介入。
1947年(昭和22年) - 終戦連絡事務局次長を退任。
1948年(昭和23年) - 12月、貿易庁長官に就任。
1949年(昭和24年) - 5月24日、貿易庁長官退任。翌25日、通商産業省設立。この頃、日本製鐵広畑製鉄所の外資売却問題騒動。
1950年(昭和25年) - 4月25日、吉田茂首相の特使として訪米。この頃、アメリカ大使就任の話が出るが頓挫。この頃、旧日本軍播磨造兵廠払い下げ問題。この頃、日本輸出入銀行設立に奔走。
1951年(昭和26年) - 5月1日、東北電力会長就任。9月8日、サンフランシスコ講和条約調印に立ち会う。この頃、「日本のラスプーチン」など白洲バッシング多数。
1952年(昭和27年) - 軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事就任。11月19日、外務省顧問に就任。吉田首相の特使として欧米視察。
1953年(昭和28年) - 2月、吉田首相の特使としてヨーロッパ視察。吉田の命を受けてチャーチルに面会しようとしたが果たせず。
1955年(昭和30年) - 旧日本軍四日市燃料廠払い下げ問題。
1959年(昭和34年) - 4月10日、東北電力会長退任。
1966年(昭和41年) - 東京赤坂に転居。
1982年(昭和57年) - 2月、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長に就任。
1985年(昭和60年) - 11月28日、死去。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E
2023/04/12 (Wed) 07:28:17
吉田とセットで語られる白洲次郎はケンブリッジ留学時代にMI6にリクルートされています。彼はそもそもウォーバーグ財閥のウォーバーグの隠し子だと言われていて顔立ちもハーフみたいですからね。遺言にも「葬式無用、戒名不要」と世間の注目を嫌うスパイの葬られ方を選んでいます。そんな感じなので、確かに外国の勢力は多いですね。
【重要】菅義偉の黒い正体 ― スパイ、田布施システム、MI6、小渕恵三との繋がり…ジェームズ斉藤が暴露
2020.09.27
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html
大方の予想通り、菅義偉氏が第99代内閣総理大臣となった。長らく官房長官をやっていただけに順当な人事とも言われるが、もともと地味で表にもあまり出てこない人だっただけに、国民にはいまひとつどんな政権になるのか見えてこない。マスコミは「集団就職から総理へ」など、苦労人の印象をこぞってつけようとしているが、某国現役エージェント、ジェームズ斉藤に確認してみると、かなり裏のある人だったことが発覚! 菅総理の恐ろしい裏の顔を徹底的に暴露!
ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 下馬評通り、菅さんが総理になりましたね。早速日経の世論調査が出てましたが、支持率74%はさすがに異常です。発足したばかりで何日も経っていない政権を10人中7人以上が支持するのはありえないです。さすがは取材権を餌にアメとムチを駆使して、マスコミに菅グループと呼ばれる御用ジャーナリストを養成している菅さんらしい老獪さです。今後日本の主要メディアは壊死するでしょう。
──いきなり辛口ですね。菅さんって一見地味な方ですが、実際どういう人なんですか?
ジェームズ はっきり言えば怖いですよ。まず、彼のお父さんの菅和三郎さんですけど、謎多き人物で、公開情報のほとんどがフェイクです。私の情報源である永田町のドンの方々の話によると、和三郎氏は●●●●の調査部出身です。これはググっても出てきません。
──えっ! ●●●●の調査部って!
ジェームズ そうです。バリバリの諜報機関です。特に、菅総理のお父さんが所属した時期は第二次世界大戦の真っ最中で、関東軍肝入りの特務機関の頃でしたから、世界最高レベルのエージェントばかり揃っていました。ゾルゲ事件の尾崎秀実や大川周明なんかもいましたので。ただ、日本が戦争で負けたあとは、秋田で暮らし始めたんです。
──秋田で!?
ジェームズ そうです。日本の政治家の中枢がそうであるように(詳しくはこちらの記事を参照)、菅さんのお父さんも朝鮮半島の人ですから。正確に言うと日本統治下の朝鮮で生まれているので日本の臣民とも言えますが。菅総理の名前菅義偉が朝鮮名みたいなのもそういう理由です。これで「すが・よしひで」と読むのは珍しいですからね。また、菅和三郎氏も「和」という、「清和会」の由来にも通じる朝鮮系が好む漢字を使っています。しかもあえて音読みとなっているので、朝鮮系であることはほぼ間違いないところです。
──ということは今回の総理も、例の永田町独特の朝鮮系の人ということなんですね。
ジェームズ いえ、朝鮮系は朝鮮系なんですけど、安倍(晋三)さん、今井(尚弥)さん、二階(俊博)さんみたいな人たちとは違います。彼らは李氏朝鮮の両班出身で、要は貴族です。彼らの祖先が渡日した時期も古く、ほとんどが豊臣秀吉の朝鮮出兵時に日本に連れられてきた人たちです。一方、菅総理は戦後日本に来た家系なのでかなり新参者です。
だからこそ、お父さんは切った張ったの世界でのし上がれる特務機関に入っていったんだと思います。そこで人脈を作った。そして諜報活動の経験が功を奏してか、新天地秋田ですぐにイチゴ栽培の事業に成功し、後に地方議員にもなり、地元の「ドン」になっていきます。
ですから、菅総理はそこそこの名望家の出ということになるのですが、永田町でいう「両班朝鮮系」ではありませんので、そっちのグループには入れません。じゃあ、何系かという最初の派閥が宏池会の小渕派なんです。この小渕(恵三)さんと最初につながったというのが菅総理らしいんです。実は、小渕さんは菅総理と一緒の諜報系の人なんですよ。
──諜報系? あのブッチホンの小渕さんがですか?
ジェームズ まあ、小渕さん自身が諜報機関の人というわけではないですけど、小渕さんの叔父さんが陸軍中野学校出身で台湾どで活動していた人だったんです。なので、小渕さんは叔父さんの薫陶を受け、その知識と人脈を外交に活かしていました。例えば、エリツィン大統領が病気になった時には病状を確かめるために官房機密費を使って、あの大物三重スパイの佐藤優さんをモスクワに送ったりもしています。ですから、小渕さんと菅総理というのはインテリジェンスの世界でつながっていたんですよ。この二人は、親しい身内に諜報組織の人間がいたという点で、戦後の総理の中でも際立った存在です。
──なんか、インテリジェンスな首相って聞くとカッコいい感じもしますが。
ジェームズ いや、それは映画や小説の世界の話で、実際はかなりドロドロですよ。その辺のことはあとで話しますが、菅総理はそういう出身だということです。これが意味することは本来、永田町の中ではメインストリームには上がってこれない、ということです。なにしろ、日本の政治家としての出世には両班であることが第一条件ですから。しかも、両班であれば誰でもOKではないんです。両班の中にも序列があって、足の引っ張り合いやいがみ合いがしょっちゅうおきてますから。それで思い出しましたが、昔、宏池会の林芳正さんと清和会の安倍さんがケンカになったことがあって、「お前は同じ両班でも俺より下だろう」とか言ってたらしいですよ。ホント、どこの国の話なのかと思いますが(笑)。
──まったくです。ちなみに、そのケンカは安倍さんが勝ったんですよね、李氏朝鮮の王家ですから。
ジェームズ いえいえ、勝ったのは林さんです。李氏朝鮮の王家であっても直系と傍流ってあるじゃないですか? それで見ると林さんのほうが直系に近いらしいんですよ。だから、安倍さん対林さんのケンカは林さんが勝ったみたいですよ。しかし、日本の政治ではこれが重要なんです。なぜなら、普通に実力勝負だと上にいけば行くほど似たりよったりで優劣がつかないんです。例えば、組閣になったときにどっちを大臣にするんだって場面で実力は一緒となったら、バックグラウンドで決めるしかないんです。つまり、両班かどうか? 両班同士であれば、どの階級の両班なのか? なんです。これが日本の政治の実態です。
──永田町にはいまどのくらい両班階級がいるんですか?
ジェームズ かなり多いですよ。この前話しました安倍さん、二階さんもそうですし、岸田(文雄)さんもそうです。小泉純一郎、進次郎親子も鹿児島の旧田布施出身(田布施システムについてはコチラを参照)ですからそうですし、清和会の創設者の福田赳夫、康夫親子も釜山系の両班です。一方、宏池会の岸田さんは北系の両班なので、釜山よりは上なんですよ、林さんもここですね。
──もともと李氏朝鮮って北にあったんで、北出身のほうがヒエラルキーは上だと。
ジェームズ 中華の世界観では、北が特別な意味を持ち、北を制するものが政治権力を支配します。したがって、北系のほうが格は断然上です。ただし、宏池会は清和会のような朝鮮系というわけではないです。宏池会を作ったのは池田勇人ですから、吉田茂の流れです。
──そうするとイギリス系ですか?
ジェームズ そうですね。どちらかというと。吉田茂の義理のお父さんは大英帝国のジャーディン・マセソンという横浜にあった商社の支店長で、イギリスのユダヤ利権を継承していましたから。11歳だった吉田茂に当時で60億円ぐらいの遺産を残しています。もともとこの家系は幕末に暗躍した武器商人グラバーの財務下請けをやっていて、坂本竜馬とかああいうのが営業ですね。伊藤博文は転売屋というイメージです。一言で言えば、せどりですね(笑)。吉田とセットで語られる白洲次郎はケンブリッジ留学時代にMI6にリクルートされています。彼はそもそもウォーバーグ財閥のウォーバーグの隠し子だと言われていて顔立ちもハーフみたいですからね。遺言にも「葬式無用、戒名不要」と世間の注目を嫌うスパイの葬られ方を選んでいます。そんな感じなので、確かに外国の勢力は多いですね。
──日本人の勢力はないんですか?
ジェームズ もちろんありますが…●●●系ですね。日本の政治の世界は朝鮮系が多く、次いで●●●系が多いです。普通の日本人の勢力でいうと、ごくたまに麻生太郎さんのような旧貴族系日本人がいる程度という構成です。
──日本の政治が日本のためにやっているように見えない理由がわかりますね。
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明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった
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明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった
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漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
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人間の屑 福沢諭吉のした事
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大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
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日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
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明治維新は田布施の 朝鮮人 による日本の乗っ取り
明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏朝鮮の王族や両班階級の血筋だった
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
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【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
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日本の有名政治家の出自が集中する「田布施」_ 戦後の総理大臣の75%が世襲政治家
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みんな大好きな白洲次郎さんの正体
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2024/05/19 (Sun) 07:29:44
ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html
【暴露】英雄伝を自作?極秘情報の漏洩?吉田茂の名補佐役はウソ?白洲次郎、虚像がついにバレる...
西鋭夫チャンネル (PRIDE and HISTORY) 2024/05/11
https://www.youtube.com/watch?v=IlujKBdswgc
大東亜戦争を語るには欠かせない!真打ち登場!!白洲次郎の真実!【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第64回】
2022/12/09
https://www.youtube.com/watch?v=oD_ytGq3RYM
「大東亜戦争の真実」、講師は歴史研究家の林千勝さんです!
今回は「白洲次郎」についてお話しいただきます。
大東亜戦争を語るには欠かせない人物、白洲次郎!
白洲次郎の幅広い人脈。
その人脈を通して行ったことについて詳しくお話しいただきました。
白洲次郎と吉田茂の関係性!いわくつきの屋敷 萩外荘【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第65回】
2022/12/16
https://www.youtube.com/watch?v=uxVvdxxYkW0
「大東亜戦争の真実」、講師は歴史研究家の林千勝さんです!
今回は前回に引き続き「白洲次郎」について詳しくお話しいただきます。
そして話は発展し、「白洲次郎と吉田茂の関係性」について。
近衛文麿が亡くなった後、吉田茂が住んだ萩外荘とは、、!?
近衛と関連した2人の関係性について詳しくお話しいただきました。
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吉田茂の虚構と未だ占領下にある日本の現実【吉田茂の虚構 前編】|山岡鉄秀
2023/08/06
https://www.youtube.com/watch?v=w7llbNUk1SE&t=13s
幻の独立。今も続く米軍統治と日本の運命【吉田茂の虚構 後編】|山岡鉄秀
2023/08/07
https://www.youtube.com/watch?v=lFwtyh2S8l0&t=0s
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伊藤貫セミナー Ito Kan Seminar (公式) - YouTube
https://www.youtube.com/@kpnews1216/videos
https://www.youtube.com/@kpnews1216/playlists
特番『伊藤貫先生登場!戦後吉田茂から続く”親米保守”では日本は滅びる!』ゲスト:国際政治アナリスト 伊藤貫氏
2022/11/12
https://www.youtube.com/watch?v=4_MekzAYKa0
アメリカ崇拝は日本の自滅〜日本が滅びる4つのシナリオ
伊藤貫セミナー Ito Kan Seminar (公式) 2024/05/08
https://www.youtube.com/watch?v=xSvVCfnuCA8&t=1044s
2024/07/28 (Sun) 06:13:47
ノモンハン事件は本当に日本が負けたのか
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16862041
【ノモンハン事件】とは?分かりやすく解説!日本とソ連の衝突はなぜ起こった?原因から経過まで徹底解説!
大人の教養TV 2020/11/14
https://www.youtube.com/watch?v=RijLPLzz5oU&t=62s
古是三春_篠原常一郎 ノモンハン事件シリーズ - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLn7YRiBo75F6WOupp4S5KDqkyFZfieenx
瀬島龍三、 統制派、ソ連の対日参戦
2019/09/02
https://www.youtube.com/watch?v=G4aRZQTyoDs&list=PL9DmHG7OZYSauiBXcmysZuMjOSeMWY8Yc&index=5
満州国の軍隊とはなんだったのか
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14096508
昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html
関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html
2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html
昭和の軍部はなぜ暴走したのか?【CGS 茂木誠 超日本史 第29回】
ChGrandStrategy 2019/10/03
https://www.youtube.com/watch?v=RxcRfRiO20s&t=7s
鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14104501
みんな大好きな 白洲次郎さんの正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14103660
ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html
みんなが騙された悪質なデマ _ 「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/747.html
鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html
ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html
大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006701
日本が朝鮮併合したのも満州や 中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703
2025/06/03 (Tue) 13:49:29
原爆は「日本が降伏した後で」投下された 日本の降伏を拒否したアメリカ軍
2025.06.03
https://www.thutmosev.com/archives/58195625.html
アメリカ軍は勝利を自らの手柄にするため終戦を遅らせ、 2発の原爆を使用した
TGRF
引用:http://blog-imgs-82.fc2.com/h/i/s/history365days/10616593_828729970491689_8779173433003972912_n.jpg
日米和平交渉
広島・長崎の原子爆弾は、日本が降伏しなかったから投下したとされています
だが少しずつ公開された資料からは、日本が降伏し、アメリカが拒否して原爆を投下した事実が示されている
1945年、日本と米国の終戦交渉が秘密裏に行われていました。
日本側は1942年のミッドウェー海戦から敗戦を続けていて、戦争を終わらせる必要がありました
一方のアメリカは強敵のドイツ軍をやっつけて、太平洋方面に主力を移動させようとしていて、余力充分でした
日本側では特に海軍と外務省、昭和天皇が早期終戦を望んでいて、陸軍は徹底抗戦を望んでいました
アメリカ側はやる気充分だったが、特に軍は積極的で、日本を廃墟にするまで戦う気でした
だが既にソ連軍の拡大は懸念材料になっていて、国務省など外交筋は早期終戦を望んでいた
日本本土を戦場にして戦えば、ソ連が日本の半分を占領する事になり、ソ連を利する事になるからだった
1945年7月にはまだソ連と日本は戦っていないが、既にルーズベルト大統領はヤルタ会談などでソ連参戦を要請していた。
ソ連は日本と戦う見返りとして日本の東半分、つまり名古屋から右側を要求していたとされている。
日本軍はソ連対日参戦の日を8月もしくは9月と予想し、それまでに対米戦を終了しなければならないと認識していた。
なぜなら米国だけに降伏すれば、国土は分割されず、いつかは再び独立できるが、ソ連と分割されれば永遠に復活出来ないからだった。
日本側は国土を分割しない事と憲法護持、天皇制を維持する事を条件として、米国に接触を試みました。
成功するかに見えた和平交渉
1945年4月、日本政府は最早敗戦は決定的であるとして、米国との終戦交渉に着手するのを決定しました
このとき大本営の数人だけで極秘の決定がなされたが、ソ連に仲介を依頼する事になっていました
同時に別案として、スイスやバチカンなど中立国で、米国と直接交渉をする事も決められました
日本は欧州の中立国スイスに公使館を持っていて、米国など連合国側の大使と接触が可能でした
真珠湾攻撃以降、連合国側との接触は途絶えていたが、一応こちらの方法も実施されました
5月から7月に掛けて日本側から働きかけが行われ、応じたのがドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスでした
7月には仲介者を通じて、日本側とアレンダレスの最初の交渉が行われ、ダレスは日本が提案した条件を呑んだとされている
条件と言っても日本側が絶対に譲らないとしたのは、天皇制護持だけで、国土と憲法の方は譲歩の余地がかなりあった
この時既に沖縄は米軍に占領されていたので、最悪沖縄が米国領になっても仕方が無い事だった
日本側の出席者は政府や軍ではなく、表向き民間人の横浜正金銀行の銀行マンだったとされている
仲介者は国際決済銀行(BIS)のペール・ヤコブソンで、これはヤコブソンの膨大なメモや資料で裏づけられています
アレンダレスは7月15日に初めてヤコブソンと会談し、そこで日本の条件を受諾する姿勢を示したとされている。
この時日本側は8月の第一週から第二週、つまり直ぐにでも停戦したい旨を提案したとされています。
日本の降伏を無視したアメリカ軍
だがダレス1人が納得しても、アメリカ政府や大統領、外交筋や軍が了承するかは別で、特に軍は徹底的に日本を叩く気でした。
7月23日には、ダレスとヤコブソンの会談で、このルートで和平交渉を進めることを確認したが、8月に入ると事態が大きく動いた
8月6日に広島原爆投下、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日にシベリアで日本軍とソ連軍が激突、同8月9日に長崎原爆が投下されました
これには裏があり、米軍はダレスの交渉が成功しそうだと知っており、勝手に合意する前に総攻撃を掛けたのだった
もし米軍が最後のとどめを刺さないまま戦争が終われば、戦争の最大の功労者は外交官だった事になる
だがドイツを占領したように日本を壊滅させ、占領する事で戦争が終われば、手柄は軍のものになります
ダレスの終戦交渉が頓挫したのは、米軍上層部が1945年12月まで戦争を続けるとして、日本の降伏を突っぱねたからとされている
この時米軍は日本に10発の原子爆弾を投下する予定で、生産した爆弾や爆撃機を「消費」しなければならなくなっていた
おかしな話だが、兵器というものも一度生産したらどこかで消費しないと余ってしまい、誰かが責任を取らされる
1945年12月まで時間があれば、予定していた10発の原爆のかなりを使用できると考えた
ダレスは戦略事務局(CIA)職員としてイタリア軍、ドイツ軍を降伏させ、日本との交渉もしていたから、日本が降伏を申し出たのは本国に伝わっていた
昭和天皇は4月と5月の東京大空襲の時に、既に降伏の意思を固めていたのが、周囲の人々によって記されていました
原爆投下後の8月14日に御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、玉音放送を録音し、8月15日に放送した
本来は総理大臣などが発表するべきだが、陸軍が本土決戦を主張した為、末端の兵士にまで直接伝える必要が生じた
同時に全世界にラジオ放送することで、アメリカ軍が「降伏など受けていない」と絶対に言えないようにしたのでした
米軍は8月13日には停戦の連絡を受け、 日本軍は14日に戦闘をやめているが、15日の夜になっても爆撃を続けている
このようにアメリカ政府とアメリカ軍は、1945年7月末には日本の降伏申し出を知っていて、なおかつ原爆を使用したのでした
https://www.thutmosev.com/archives/58195625.html
藤井聡 なぜ、日本は戦争に敗れたのか? | ■↑▼ |
2023/08/12 (Sat) 13:31:06
藤井聡【東京ホンマもん教室】なぜ、日本は戦争に敗れたのか? 8月12日 放送分
2023/08/12
https://www.youtube.com/watch?v=4W8G5HcR7jg
メインテーマは『なぜ日本は戦争に敗れたのか?』
いまだに続く敗戦の後遺症!なぜ横田空域は戻ってこない?
アメリカが日本を支配する驚愕の仕組み「日米合同委員会」の実態
石原莞爾「世界最終戦争論」から読み解く!日本の“戦略”における大きな失敗
日本敗戦の理由に2つの「禍機」!現代にも通じる教訓とは?
ゲストは番組2回目の登場となる米国在住の国際政治アナリスト・伊藤貫
来年に控えた大統領選を前に混沌極まるアメリカ民主政治の実態を赤裸々に語る!
2023/09/04 (Mon) 07:41:47
戦争は勝てる仕組みを作らないと努力しても負けます
2023.09.04
https://www.thutmosev.com/archives/295078dj.html
個人の頑張りで勝てるのは1回だけ。日本軍幹部は過労や整備不良を自慢していた
https://blog.kk-takagi.co.jp/2018/10/15/月月火水木金金
関連動画が記事下にあります
優秀な人が集まる仕組みを作ったアメリカ
一般に西洋の人々は物事の仕組みを作るのが得意で、資本主義や民主主義、大量生産や休暇などはすべて西洋で生まれました
西洋人の中でも米英の中心人種であるアングロサクソンは社会のシステムを作るのが得意で、今もその優位性で世界の上位階層を形成しています
アメリカは今米中経済戦争をしているが閉鎖的で仲間がいない中国に対してアメリカには無数の同盟国や友好国が存在します
中国は世界から優秀な人材を1000人集める「1000人計画」を進めているがその手段は弱みを握って中国で働かせるとか金で勧誘するような事です
アメリカは200年前から優秀な人材を集める仕組みを構築してきたので、全世界のあらゆる優秀な人はすべてアメリカに移住してアメリカで成功するのを望んでいます
なので米中人材競争は始まる前から決着がついていて、中国が勝つことはないだろうと予告します
中国にも優秀な人材はいますが優秀であればあるほど中国から脱出しようとするので、家族を出国できないようにするなど人質をとって中国につなぎ留めている
北朝鮮の金正日という人は人材獲得の重要性を理解していたが、その方法は優秀な人を日本や韓国から拉致するというものでした
北朝鮮の国内では成分という身分制度で一生が決まり、どんなに優秀でも低い成分では活躍できないので外国人を連れて来ても無駄でした
第二次大戦前の日独伊には優秀な人が大勢いて、だからこそ零式戦闘機やポルシェやフェラーリが誕生したが、優秀な人を生かせる仕組みがありませんでした
身分制度や間違った学歴主義、偏狭な独裁政権のせいでアメリカやイギリスに寝返った人もいて自国の潜在力を100%生かしたとは言えない
アメリカの仕組みで驚くのは昨日まで敵対勢力の国民だった人が亡命して来ると、すぐ重要な地位につけて活躍している点でした
アインシュタインはドイツ生まれのドイツ人だったのにドイツはまったく生かすことができず、スイス国籍からアメリカ国籍になりアメリカ人として連合軍の勝利に貢献した
アインシュタインはドイツの教育で物理学者になったのだが、ドイツ政府はせっかく生まれた最も優秀な人材を自ら排斥しました
仮にアインシュタインが協力を申し出てもドイツはユダヤ人の彼を逮捕しただろうし、日本は国籍をコロコロ変える人を絶対に信用しません
日独は勝てる仕組みがなかったから負けた
ドイツのポーランド侵攻とソ連侵攻で第二次世界大戦がはじまりましたが、最初連戦連勝だったドイツ軍はある瞬間から嘘のように連戦連敗に転換してしまいました
原因はトップのアドルフヒトラー総統が現場に介入したからで、スターリングラードという何の価値もない町に総攻撃を命じてなんと兵士150万人を全滅させた
彼がこの町に固執した理由はたったひとつ「スターリン」の名前がついていたからで、そこにスターリンはいないのでどうでも良いのに固執し続けた
最初にポーランド侵攻した理由は「ドイツ国民の人気取り」で、ソ連に侵攻した理由は「イギリスを占領出来なかったので反対側を攻めようや」とせいぜいそんな理由でした
ドイツの戦略は非常に場当たり的で長期的な展望がなく、こんな国と同盟国だった日本は泥沼の戦争に巻き込まれていきました
1941年12月8日にハワイ真珠湾とマレー沖海戦で太平洋戦争が始まり、日本軍は最初連戦連勝だったのにある日を境に負け始めた
その日はおそらく1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦で、敗因は暗号を解読されたとか言われていますが基本的な事を実施していませんでした
空母6隻と戦闘機など数百機を動かすには点検と整備が不可欠ですが、日本海軍は12月8日からほとんど休養を取らず整備もせず戦わせ続けました
半年後にミッドウェーに遠征した時には稼働する偵察機がほとんど皆無だったので、米空母を発見できず逆に発見されて攻撃されました
不思議な事は何もなく「定期整備を怠った自動車が故障した」のと同じですが、なぜか日本軍上層部は「神国日本は不敗である」と信じ込んでいた
そのうぬぼれの根拠は空母乗務員の考えられない重労働で、開戦前からずっと「月月火水木金金」で休養を取らせず猛訓練でしごき続けた
この結果ミッドウェー海戦当日空母乗務員は過労の限界に達していたのでミスを連発し、 司令官の南雲中将も間違った判断を連発した
一方アメリカは真珠湾攻撃で主力艦隊が全滅した後はひたすら兵力を温存し訓練や整備を怠りなくし、ミッドウェー当日は万全の状況で迎えました
ミッドウェー海戦の時点ではレーダーはまだ精度が低かったので、日本側が100%の状態なら余裕で南雲艦隊が勝っていたと思われます
どうして負けたかと言うとひたすら個人の努力のみに依存した日本に対し、アメリカは「勝つ仕組み」を半年かけて整えたからでした
負け始めてからの日本はさらにミスを連発し、何よりも貴重な戦闘機と熟練パイロットを特攻という一回の攻撃で消耗することをやり、しかもそれを上官が「俺が特攻をやらせた」と手柄にして昇進していました
翻るとバブル崩壊前後からデフレの30年間の日本にも、こうした事が山ほどあったような気がします
山本五十六によると勝つ準備を万全に整える事が「必勝の信念」であり兵士の努力に期待するのは愚の骨頂だそうですが、結局彼も精神論の罠に嵌ってしまいました
航空機の整備も点検もせず乗員に休養も与えなかったのでミッドウェー海戦の日には飛べる偵察機がなかった
常識的な事をしてさえいればミッドウェーは勝てた戦いでした
https://www.youtube.com/watch?v=Ff8mcvl5l9s&t=149s
https://www.thutmosev.com/archives/295078dj.html
2024/02/11 (Sun) 13:51:01
戦争中の軍人が実は相手側と 通じていた例は過去にもあり、例えば大戦末期の関東軍(中国大陸に出兵した日本軍)の上層部はソ連軍に対し「日本の東半分を与える」という提案をして朝鮮半島の38度線で止まるよう取り引きした
本当にその気があったのか歴史の謎だがソ連軍は真に受けて停止し、その間に米軍を先にソウルに招き入れて米軍対ソ連軍の構図を作り、以降80年近くそのラインは維持されている
また関東軍はあの毛沢東軍と連携して蒋介石の中国軍と戦い、このお蔭て毛沢東軍は世界大戦に巻き込まれず終結後に蒋介石軍を倒す事が出来た
https://www.thutmosev.com/archives/33196.html
2024/09/13 (Fri) 16:59:30
『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線Ⅱ』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)
敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。
この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。
日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。
この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。
しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。
一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500㌔の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。
この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。
この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。
済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」
勝利の見込みなく日米開戦
著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。
さらにいえば、 すでに1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。
(角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
2024/10/22 (Tue) 06:32:49
2024-10-16
『日本のいちばん長い日』 -- 天皇の「わたくし自身はいかようになろうとも」発言はあったのか?
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231
日本のいちばん長い日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5
映画『日本のいちばん長い日』(1967年)
https://www.dailymotion.com/video/x8obxsl
https://www.bing.com/videos/search?q=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&qs=n&form=QBVR&=%25e%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E3%81%AE%E7%AE%A1%E7%90%86%25E&sp=-1&lq=0&pq=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&sc=10-15&sk=&cvid=07A7D05E8AC044729CB84C60768D9D5F&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=
岡本喜八監督による映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作、と評価されている。
ただし、私はこれが名作とはまったく思わない。その理由は以前こちらの記事に書いておいた。
『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516
この映画の「感動的」シーンの一つに、最終的にポツダム宣言受諾を決めた御前会議(1945年8月14日)の席上、天皇裕仁が涙ながらに降伏を決意した理由を語る場面がある。
映画のこの場面での天皇の発言全文は以下のとおり。
(阿南陸相の受諾反対論を聞いた後で)
反対論の趣旨は、つぶさによく聞いた。
しかし、わたくしの考えは、この前も言ったとおりで、変わりはない。
これ以上戦争を続けることは、無理である。
陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領は耐えられないであろう。
国民が玉砕して国に殉ぜんとする気持ちもよくわかる。
しかし…(ここでポケットからハンカチを出して涙を拭う)しかし、わたくし自身はいかようになろうとも、国民を…国民にこれ以上苦痛を舐めさせることは、わたくしには忍び得ない。(涙声)
できることは、何でもする。
わたくしが、直接国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立つ。
陸海軍将兵を納得させるのに陸軍大臣や海軍大臣が困難を感ずるのであれば、どこへでも出かけて、なだめて説き伏せる。
(鈴木総理に向かって)鈴木、内閣は至急、終戦に関する詔書を用意してほしい。
(列席者一同すすり泣き)
いかにも、苦しむ国民を救うために我が身の危険もかえりみずに決断を下す指導者、というイメージだが、裕仁は本当にこんなことを言ったのだろうか?
敗戦後は保身に汲々とし、マッカーサーに媚びていた裕仁の姿を知っていれば、こうした疑問が出てくるのは当然だろう。
原作である半藤一利の『日本のいちばん長い日』では、この天皇発言についてこう注記している。[1]
(9)天皇のお言葉は、左近司、太田、米内各大臣らの手記を参照し、鈴木総理にもたしかめて、下村宏氏が記述した左のものがいちばん忠実に写しとっているとされている 。
「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変りはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおきがたいことは当然であるが、日本がまったくなくなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心をあわせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。わたしも国民とともに努力する。
今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」
本文での御前会議の描写もこの内容に基づいたものとなっており、映画版の天皇発言は、脚本を書いた橋本忍(戦後日本人の被害者意識をくすぐって大ヒットした『私は貝になりたい』の脚本家でもある)による、この内容の見事な要約と言えるだろう。
ところが、半藤はこれに続けて御前会議に出席していた陸軍参謀総長 梅津美治郎によるメモの内容も載せていて、こちらの天皇発言は大きく違うのだ。[2]
なお梅津参謀総長の鉛筆書きのメモが残されている。それによれば、天皇の発言は、
「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ
内外ノ情勢、国内ノ情態、彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々二考へタモノデハナイ
国体二就テハ敵モ認メテ居ルト思フ 毛頭不安ナシ 敵ノ保障占領ニ関シテハ一抹ノ不安ガナイデハナイガ 戦争ヲ継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモ子モナクナル
今停戦セバ将来発展ノ根基ハ残ル
武装解除ハ堪へ得ナイガ 国家ト国民ノ幸福ノ為ニハ明治大帝ガ三国干渉二対スルト同様ノ気持デヤラネバナラヌ
ドウカ賛成シテ呉レ
陸海軍ノ統制モ困難ガアラウ
自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ
速二詔書ヲ出シテ此ノ心持ヲ伝へヨ」
と要約されている。
こちらには「わたし自身はいかになろうとも」云々の言葉はないし、降伏を決めた理由も、降伏しても「国体(天皇制)」は維持できると確信しており、逆に降伏しなければそれが「元も子もなくなる」からである。
大本営『機密戦争日誌』には、同じく御前会議に出席していた陸軍省軍務局長 吉住正雄から伝達された、「御言葉」の要旨が記録されている。[3][4]
十、次デ、軍務局長ヨリ、本日御前会議ニ於ケル御言葉ヲ伝達ス。要旨左ノ如シ。
自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。
内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較二附テモ軽々二判断シタモノデハナイ。
此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否しかラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見(陸相、両総長ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題卜思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵二我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之二附テ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ラスレバ、多少ナリトモ力ちからハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。
――以下御涙卜共ニ――
忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪エラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。
ドウカ賛成ヲシテ呉レ。
之ガ為ニハ、国民二詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持ヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。
内容は梅津メモとよく一致している。
また、こちらの発言要旨からは、裕仁が涙を流したのは国民の苦難を思ってのことなどではなく、自分の軍隊である皇軍を武装解除させられる屈辱からであったことも分かる。
御前会議の席上でリアルタイムに書かれたメモや当日中に伝達された内容と、戦後になってから関係者(単にその場にいた人ではなく、裕仁を免責したいという強い動機を持つ利害関係者である)の手記や聞き取りをもとに書かれた内容と、どちらが信用できるだろうか?
常識的に考えて、答えは自明だろう。
ついでに言えば、下村宏がまとめた天皇発言自体からも不自然さは読み取れる。
裕仁は「明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う」と言っているのだが、三国干渉とは、西欧列強の圧力により日清戦争で日本が清から強奪した権益の一部(遼東半島)を返還させられたものだ。
確かに明治天皇睦仁にとっては屈辱だっただろうが、天皇その人が戦犯として裁かれるかどうか(処刑もあり得る)という事態とでは比較にもならない些事だろう。三国干渉がどうこうと言っている時点で、裕仁には「わたし自身はいかになろうとも」などという覚悟はないのだ。(ちなみに映画版ではこの「三国干渉」云々はカットされている。)
ところで、半藤が「いちばん忠実に写しとっているとされている」と評する内容を記した下村宏は、鈴木貫太郎内閣の情報局総裁である。つまり、玉音放送の直前までデタラメを流し続けてきた大本営発表の親玉なのだ。
映画『日本のいちばん長い日』で描かれた感動シーンは、下村宏がでっち上げたシナリオを半藤一利がもっともらしく修飾し、橋本忍が感動ストーリーに仕上げた醜悪なフェイクでしかない。
[1] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.73-74
[2] 同 P.74-75
[3] 軍事史学会編 『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』 錦正社 1998年 P.763-764
[4] 岩井秀一郎 『最後の参謀総長 梅津美治郎』 祥伝社 2021年 P.225-226
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231
▲△▽▼
2021-04-08
『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516
半藤一利の原作をほぼ忠実に映画化した、岡本喜八監督の映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作と評価されている。
以前見たときは確かに私もそう感じたのだが、最近改めて見直してみたところ、もう、この映画はただの茶番劇にしか見えなくなっていた。
脚本や演出が悪いのではない。役者の演技が大根というわけでもない。実際、この映画では、錚々たる名優たちがそれぞれの役を熱演していた。
鈴木貫太郎首相 - 笠智衆
阿南惟幾陸相 - 三船敏郎
米内光政海相 - 山村聡
天皇裕仁 - 松本幸四郎
下村宏情報局総裁 - 志村喬
井田正孝中佐 - 高橋悦史
畑中健二少佐 - 黒沢年男
徳川義寛侍従 - 小林桂樹
ダメだったのは、彼らが演じた人物たちそのものだ。
号泣する男たち
この映画では、いい大人の、それも責任ある地位にある男たちが、実によく泣いている。
たとえば、ポツダム宣言の受諾にあたって、天皇および日本政府の権限は連合国軍最高司令官に「subject to(従属)」する、という条件を受け入れるかどうか、閣議では決められないまま8月14日11時頃から開かれた御前会議の場面。
裕仁が立ち上がり、「わたくし自身はいかようになろうとも、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたくしには忍び得ない。できることは何でもする。わたくしが国民に直接呼びかけることがよければ、マイクの前にも立つ」と語ると、居並んだ閣僚たちはみな嗚咽をもらし、ある者など椅子からくずれ落ちて絨毯に膝をつき、泣き声を上げる。裕仁本人もしきりにハンカチを頬に当てて涙をぬぐっている。
バカじゃなかろうか。
事ここに至ったのは、戦局が既に絶望的になっているにもかかわらず戦争をやめるという決断ができず、何の見通しもないままずるずると事態を引き延ばしてきたこの者たちの無能・無責任のせいではないか。
もちろんこの無責任集団には裕仁本人も含まれる。半年前の45年2月、近衛文麿元首相が「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と上奏して終戦交渉を促したとき、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」とこれを拒絶したのは裕仁だったのだから[1][2]。仮にこの時点で降伏に向けた交渉を始めていれば、東京大空襲も沖縄戦も原爆もなく、国民に無用の苦痛をなめさせずに済んだはずだ。
「わたくし自身はいかようになろうとも」という裕仁のご立派な発言も、せいぜいその場の雰囲気にのまれて口走った程度でしかなかったことは、その後責任回避に汲々とし、退位すら拒否したその行動から明らかだろう。
御前会議から戻った阿南陸相に無条件降伏が決まったと聞かされ、陸軍省の幕僚たちが号泣するという場面もあった。
彼らが呼号してきた本土決戦が不可能になり、(もともと成算はゼロだったのだが)上陸してきた連合軍に痛撃を加えて有利な講和に持ち込むことも、最後まで戦って「悠久の大義」に散ることもできなくなった痛憤からだろうが、なんという幼稚さか。
お前たちが安全な内地で非現実的な作戦計画にうつつを抜かしていたころ、前線ではロクな補給も受けられないまま兵たちがばたばたと餓死し、あるいはバンザイ突撃で無意味な死を強いられていたのだ。
だいたい、大事な夫や息子や父親や兄弟を徴兵された家族たちは、彼らが白木の箱に収められた一片の骨、ひどい場合には珊瑚のかけらや石ころになって帰ってきても、お国のために命を捧げた名誉なこととして、泣くことすら許されなかったのだ。そんな非道を強いてきたお前たちに、自分らの妄想が実現できなくなっただけで泣く資格などありはしない。
最後の場面に至ってなお字句の修正に執着する愚か者たち
無条件降伏が決定し、「玉音放送」で裕仁が読み上げる「終戦の詔書」を作成する段階になると、閣僚たちは今度はその細かな字句の修正にまた貴重な時間を費やしていく。
大して長くもない詔書なのに、修正は何十箇所にも及んだ。
とりわけバカバカしいのは、原案のまま「戦勢日に非にして」とするか「戦局好転せず」と修正すべきかをめぐって争われた論戦だろう。
阿南陸相は、「個々の戦闘では負けたが、最後の勝負はまだついておらん」「陸軍は小さな島で戦いをやっただけで、一度も本格的な会戦はやっておらん」「しかるに負けたという、この戦勢非にしてというのでは、その死んでいった三百万の人々になんとして申し訳が立つ」と言って修正を主張するのだが、「戦勢日に非にして」であろうが「戦局好転せず」であろうが、どちらにしても、負けっぱなしでもうどうしようもない、という意味に違いはない。こんな字句にこだわることに何の意味があるのか。
ちなみに、映画ではセリフとして出てこないが、阿南は「この原案のままではいままでの大本営発表がすべて虚構であったということになる」とも述べたようだが[3]、詔書の文面をどういじろうが大本営発表が嘘だらけだったことに変わりはない。字句をいじって現実を糊塗しようとするその手口は大本営発表そのままであり、そういうことをしているからこんな事態に追い込まれたのだ。
すったもんだの末、詔書は裕仁本人も数箇所修正してようやく完成するのだが、粗末なラジオで雑音だらけの玉音放送を聞かされた国民には、どうやら戦争に敗けたらしい、とおぼろげに理解できただけで細かな文言など聞き取れなかったのだから、もはや笑うしかない。
戦争犯罪の証拠を燃やす隠蔽行為をあっさりスルー
降伏と聞いて号泣したり虚脱状態に陥っていた陸軍中央の一部若手将校たちは、やがて宮城を占拠して玉音放送の録音盤を奪取し、天皇に翻意させて戦争継続に持ち込もうという、クーデター計画に走っていく。
彼らが陸軍省で愚かな計画を練っていた頃、その背景として、裏庭にせっせと省内にある文書を持ち出しては焼き捨てる光景が映し出されていた。
これは、侵略戦争の犯罪性を示す証拠を隠滅しようとする、それ自体重大な犯罪行為である。後に、主犯の一人である奥野誠亮が次のように平然と述べている。(読売新聞 2015/8/11)
もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。
だいたい、政府・軍部はこの戦争を、欧米の植民地支配からアジアを解放する正義の戦いだと言ってきたではないか。それが事実なら、ここで燃やされている膨大な書類は、たとえ敗けても裁判の場で連合国に対して日本の正当性を主張するための貴重な証拠となったはずだ。それを自分で燃やしてしまうというのは、「正義の戦い」など大嘘だったことを自ら白状しているに等しい。
しかしこの映画では、そうした犯罪性には一切言及することなく、まるで当然のことのように燃やされる書類の山を淡々と映しているだけだった。
エンディングから垣間見える独善的歴史観
ある映画が何を描いてきたのかは、そのエンディングに集約した形で示される。
この映画の終わりでは、廃墟となった街や戦死者の姿に重ねて、次のような文字列が映し出される。
「太平洋戦争に兵士として参加した日本人 1,000万人(日本人男子の1/4)」
「戦死者200万人 一般国民の死者100万人 計300万人(5世帯に1人の割合いで肉親を失う)」
「家を焼かれ 財産を失った者 1,500万人」
そしてナレーションで「いま私たちは、このようにおびただしい同胞の血と汗と涙であがなった平和を確かめ、そして、日本と日本人の上に再びこのような日が訪れないことを願うのみである。ただそれだけを…」と締めくくられるのだが、そこに、日本がどれほどの惨害を近隣アジア諸国に与えてきたかの言及は一切ない。ただひたすら、戦争で日本人はこんなにひどい目にあった、だから平和が大事、というだけである。
この映画は、自分たちが何をしてしまったのかへの反省がまったくない、最後まで独善的な茶番劇でしかなかった。
[1] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 1992年 P.22
[2] 山田朗 『昭和天皇の戦争 ー 「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』 岩波書店 2017年 P.244-245
[3] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.124
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516
2025/06/03 (Tue) 13:48:19
原爆は「日本が降伏した後で」投下された 日本の降伏を拒否したアメリカ軍
2025.06.03
https://www.thutmosev.com/archives/58195625.html
アメリカ軍は勝利を自らの手柄にするため終戦を遅らせ、2発の原爆を使用した
TGRF
引用:http://blog-imgs-82.fc2.com/h/i/s/history365days/10616593_828729970491689_8779173433003972912_n.jpg
日米和平交渉
広島・長崎の原子爆弾は、日本が降伏しなかったから投下したとされています
だが少しずつ公開された資料からは、日本が降伏し、アメリカが拒否して原爆を投下した事実が示されている
1945年、日本と米国の終戦交渉が秘密裏に行われていました。
日本側は1942年のミッドウェー海戦から敗戦を続けていて、戦争を終わらせる必要がありました
一方のアメリカは強敵のドイツ軍をやっつけて、太平洋方面に主力を移動させようとしていて、余力充分でした
日本側では特に海軍と外務省、昭和天皇が早期終戦を望んでいて、陸軍は徹底抗戦を望んでいました
アメリカ側はやる気充分だったが、特に軍は積極的で、日本を廃墟にするまで戦う気でした
だが既にソ連軍の拡大は懸念材料になっていて、国務省など外交筋は早期終戦を望んでいた
日本本土を戦場にして戦えば、ソ連が日本の半分を占領する事になり、ソ連を利する事になるからだった
1945年7月にはまだソ連と日本は戦っていないが、既にルーズベルト大統領はヤルタ会談などでソ連参戦を要請していた。
ソ連は日本と戦う見返りとして日本の東半分、つまり名古屋から右側を要求していたとされている。
日本軍はソ連対日参戦の日を8月もしくは9月と予想し、それまでに対米戦を終了しなければならないと認識していた。
なぜなら米国だけに降伏すれば、国土は分割されず、いつかは再び独立できるが、ソ連と分割されれば永遠に復活出来ないからだった。
日本側は国土を分割しない事と憲法護持、天皇制を維持する事を条件として、米国に接触を試みました。
成功するかに見えた和平交渉
1945年4月、日本政府は最早敗戦は決定的であるとして、米国との終戦交渉に着手するのを決定しました
このとき大本営の数人だけで極秘の決定がなされたが、ソ連に仲介を依頼する事になっていました
同時に別案として、スイスやバチカンなど中立国で、米国と直接交渉をする事も決められました
日本は欧州の中立国スイスに公使館を持っていて、米国など連合国側の大使と接触が可能でした
真珠湾攻撃以降、連合国側との接触は途絶えていたが、一応こちらの方法も実施されました
5月から7月に掛けて日本側から働きかけが行われ、応じたのがドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスでした
7月には仲介者を通じて、日本側とアレンダレスの最初の交渉が行われ、ダレスは日本が提案した条件を呑んだとされている
条件と言っても日本側が絶対に譲らないとしたのは、天皇制護持だけで、国土と憲法の方は譲歩の余地がかなりあった
この時既に沖縄は米軍に占領されていたので、最悪沖縄が米国領になっても仕方が無い事だった
日本側の出席者は政府や軍ではなく、表向き民間人の横浜正金銀行の銀行マンだったとされている
仲介者は国際決済銀行(BIS)のペール・ヤコブソンで、これはヤコブソンの膨大なメモや資料で裏づけられています
アレンダレスは7月15日に初めてヤコブソンと会談し、そこで日本の条件を受諾する姿勢を示したとされている。
この時日本側は8月の第一週から第二週、つまり直ぐにでも停戦したい旨を提案したとされています。
日本の降伏を無視したアメリカ軍
だがダレス1人が納得しても、アメリカ政府や大統領、外交筋や軍が了承するかは別で、特に軍は徹底的に日本を叩く気でした。
7月23日には、ダレスとヤコブソンの会談で、このルートで和平交渉を進めることを確認したが、8月に入ると事態が大きく動いた
8月6日に広島原爆投下、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日にシベリアで日本軍とソ連軍が激突、同8月9日に長崎原爆が投下されました
これには裏があり、米軍はダレスの交渉が成功しそうだと知っており、勝手に合意する前に総攻撃を掛けたのだった
もし米軍が最後のとどめを刺さないまま戦争が終われば、戦争の最大の功労者は外交官だった事になる
だがドイツを占領したように日本を壊滅させ、占領する事で戦争が終われば、手柄は軍のものになります
ダレスの終戦交渉が頓挫したのは、米軍上層部が1945年12月まで戦争を続けるとして、日本の降伏を突っぱねたからとされている
この時米軍は日本に10発の原子爆弾を投下する予定で、生産した爆弾や爆撃機を「消費」しなければならなくなっていた
おかしな話だが、兵器というものも一度生産したらどこかで消費しないと余ってしまい、誰かが責任を取らされる
1945年12月まで時間があれば、予定していた10発の原爆のかなりを使用できると考えた
ダレスは戦略事務局(CIA)職員としてイタリア軍、ドイツ軍を降伏させ、日本との交渉もしていたから、日本が降伏を申し出たのは本国に伝わっていた
昭和天皇は4月と5月の東京大空襲の時に、既に降伏の意思を固めていたのが、周囲の人々によって記されていました
原爆投下後の8月14日に御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、玉音放送を録音し、8月15日に放送した
本来は総理大臣などが発表するべきだが、陸軍が本土決戦を主張した為、末端の兵士にまで直接伝える必要が生じた
同時に全世界にラジオ放送することで、アメリカ軍が「降伏など受けていない」と絶対に言えないようにしたのでした
米軍は8月13日には停戦の連絡を受け、 日本軍は14日に戦闘をやめているが、15日の夜になっても爆撃を続けている
このようにアメリカ政府とアメリカ軍は、1945年7月末には日本の降伏申し出を知っていて、なおかつ原爆を使用したのでした
https://www.thutmosev.com/archives/58195625.html
漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史 | ■↑▼ |
2022/05/18 (Wed) 16:02:11
漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
・朝鮮で長江の稲作民と縄文人に似た民族が混血して現代日本人と全く同じ遺伝子の日本語を話す無土器文化人になる
・朝鮮の無土器文化人(弥生人)が北九州に移民して水田農耕を始める
・ソウルに居た漢民族の天皇一族が北九州に移民、植民都市の伊都国を作り、日本人奴隷(生口)を青銅器・鉄と交換する奴隷貿易で稼いでいた。後漢の光武帝が贈った金印(漢委奴国王印)の「委奴」は「いと」と読む。
・神武東征・倭国大乱 → 天皇一族が日向・大和・丹後に天孫降臨、縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。
・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。
・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。
・10世紀に沖縄へ日本人大量入植 → 沖縄の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。
・10世紀に西表島・石垣島へ日本人大量入植 → 西表島・石垣島に先住していた縄文系先住民をジェノサイド
・豊臣秀吉の 朝鮮 出兵 → 朝鮮 で奴隷狩り、平戸や長崎は世界有数の奴隷市場になった。ポルトガル商人に奴隷を売って鉄砲や白糸を得た
・明治維新 → 田布施の 朝鮮 人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。
・神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令 → 神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった
・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙してバイシュン婦として海外に売り飛ばした
・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力をジェノサイド
・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる
・朝鮮 の乗っ取り → 農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、朝鮮 女性を性奴隷 にする
・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。
・満州の乗っ取り → 農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け
・関東大震災 → JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる
・2・26事件 → 政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる
・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、朝鮮 の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制
・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった
・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする
・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告
・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った
・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた
・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。
・極東国際軍事裁判(東京裁判) → 昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。
・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した
・一億総中流社会 → GHQ は日本共産党と労働組合を合法化、農地解放、意図的なインフレ政策・預金封鎖で富裕層の資産を奪い貧困層に分配した
・自民党による一党独裁 → 農地解放で農地をタダ同然で手に入れた小作人・貧農全員が自民党を支持したので自民党以外の政党は政権を取れなくなった
・朝鮮戦争・ベトナム戦争 → 日本はアメリカの侵略戦争に加担、戦争特需でぼろ儲けして GDP 世界第二位の超大国になる
・1971年 本多勝一のルポ 「中国の旅」が朝日新聞に連載される → 南京大虐殺や戦時中の中国での日本支配の実態をルポ、文春や新潮は昭和天皇の戦争犯罪を隠蔽する為に渡部昇一や鈴木明に本多勝一批判をさせ、それ以降右翼は現在に至る迄、南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定する悪質なデマを流し続けている。
・日中国交正常化 → 中国に技術援助すると持ち掛け、中国の日本への戦争賠償請求権を放棄させた
・プラザ合意 → 日本からの膨大な輸入でアメリカ経済が崩壊したので、日本に政治的圧力をかけ超円高にして日本からの輸入を減らそうとした。アメリカは10年間で総額430兆円の公共投資の実施を日本政府に約束させ、意図的に平成バブルを起こさせた。
・平成バブル崩壊 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA は先物取引・オプション取引、金融工学の研究をした。 ソロモン・ブラザーズ証券は裁定取引を使って日経平均株価を38,915円まで上げてから売り攻勢をかけ 7607円まで暴落させるのに成功した。 更に日銀に金融引き締めをさせ、外資はインサイダー情報を使って日本株を底値で爆買い、日本株の3割、株取引の7割は外資になった。
・中国経済・韓国経済の躍進 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA はアメリカの製造業をすべて中国に移転させ、中国の元とkan 国のウォンを意図的に通貨安にして、日本の輸出を壊滅させた
・迂回輸出 → 日本からアメリカに直接輸出するのではなく、組み立てだけ中国・韓国の工場で行って、中国製品・韓国製品として迂回輸出して稼ぐ様になった
・中国の環境破壊 → 日本企業の中国工場では猛毒化学物質が含まれる汚染水や煙をそのまま垂れ流している。中国では飲料水や農業用水にも水銀・鉛が含まれ、人間が住めない土地になってしまった。
・中国・韓国の反日運動 → 日本企業の中国工場では中国人従業員をタダ同然で酷使、日本企業のロリコン社員は毎晩10歳以下の女児と xxx しまくったので、中国人の怒りを買って反日暴動が頻発した
・尖閣乗っ取り → 尖閣を漁場にしていた台湾人を追い出す。中華民国(台湾)は尖閣は宜蘭県に属す島嶼だ、と昔から主張している。宜蘭は台湾原住民平埔族の中の一群であるクヴァラン族が広く住んでいた地域で、1632年にはクヴァラン族が歴史資料に登場している。
が、大まかな流れです。
▲△▽▼
日本の支配者は今も昔も 朝鮮 人なので残虐で非人間的、どんな酷い事でも平然と実行できるのです
今の日本で生き残っている縄文人はアイヌ人、縄文系琉球人、douwa buraku 民だけです。
天皇家は漢民族で百済語を話していた、
弥生人(朝鮮の無土器文化人)は日本語を話していた、
縄文人はアイヌ語を話していた。
ヤマトの英雄 ヤマトタケル(=関西チョx) 坂上田村麻呂(=百済出自の在コリ)
ヤマトの神 スサノオ(=韓神)
ヤマトの姫 卑弥呼(=朝鮮系シャーマン)
ヤマトの王 桓武天皇(=母ちゃんが百済人)
ヤマトの信仰 稲荷神(=渡来系の秦氏が広める) 仏教(=百済から伝来)
ヤマトの食 水稲・米(=朝鮮半島から伝来)
ヤマトの家 寺・神社(=渡来人の建築)
ヤマトの墓 支石墓(=朝鮮半島から伝来)
ヤマトの美人 飛鳥美人(=高句麗婦人)
ヤマトの名字 佐藤(=O1b2の藤原氏由来)
ヤマトの国史 日本書紀(=百済人の編纂)
ヤマトの言語 宮廷語(=百済人の王仁が伝える)
ヤマトの天 高天原(=朝鮮半島)
半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。書紀で「天」は 朝鮮 半島を指すのだ。
________
明治維新は田布施の 朝鮮人 による日本の乗っ取り:
明治以降の天皇は田布施の李朝王朝の関係者だった:
鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA
【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html
2024/09/13 (Fri) 16:56:16
『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線Ⅱ』 著・広中一成
2024年9月12日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E8%8F%AF%E5%8C%97%E6%88%A6%E7%B7%9A-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%8B%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E7%B7%9A2-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%BA%83%E4%B8%AD/dp/4040824334#:~:text=%E5%BA%83%E4%B8%AD%20%E4%B8%80%E6%88%90%20(%E8%91%97)
敗戦から79回目の夏を迎え、先の大戦がなぜ起こったのか、二度とあのような悲劇を起こさないためになにができるかをめぐって論議が活発になっている。
この本は、太平洋戦争の真っ最中に中国戦線で何が起きていたのかをテーマにしている。日中戦争は、1937年の盧溝橋事件から日本が敗戦を迎えた1945年8月まで続くが、その途上の41年12月に日米戦争が開戦してからはそれまでと様相が一変してしまったのに、戦後の研究では注目されないままにきていた。1978年生まれ、愛知学院大学准教授の著者は、これまでの研究の蓄積を踏まえつつ、日米戦争開戦以降の中国戦線、それも華北戦線(主に河北・山西・山東・河南の四省)に着目し、そこで何が起こったかをまとめた。2021年に同じ著者が著した『後期日中戦争―太平洋戦争下の中国戦線』の続編である。
日中戦争の開戦時から敗戦まで、中国には日本陸軍の100万人以上の兵士が釘付けになっていた。1941年当時、華北には日本陸軍の北支那方面軍35万4000人がいたが、八路軍の遊撃戦に翻弄され、広大な中国大陸の点と線の支配しかできていなかった日本軍は、次第に追い詰められていた。業を煮やした日本軍が使ったのが毒ガスと細菌兵器であり、三光作戦(焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす)だった。
この本にはたくさんの兵士の証言が掲載されている。そのなかには「日本のためにならない匪(ひ)賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のために尽くせる兵隊となって戦地に渡った。だが、戦場は違った」「“部落掃討、火をつけろ”という大隊長の命令が伝わるや、和やかだった部落に日本兵の怒号が響く。100軒あまりの家が1軒残らず焼き払われ、逃げ遅れた婦人や子供、老人や病人、数十人の人たちが、家もろともに焼き殺され、あるいは刺し殺された」という証言がある。
しかし日本軍は八路軍を撃退できなかったばかりか、かえって戦力を増大させて反撃を受けた。ある将校は戦後、「日本軍はバカの一つ覚えのように、満州事変頃と同じ匪賊討伐をくり返し、その観念から抜けきれなかった。そして八路軍の勢力が伸張していくのは、思想の力でも首脳部の領導のよさでもなく、具体的に民衆の訴えに応えてやる者が彼らしかいなかったからだ」と書いている。
一方、一銭五厘の赤紙で召集された日本の兵士も悲惨なものだった。1944年4月、大本営は「米軍が使っている中国南西部の飛行場を撃滅せよ」とって、51万人の日本兵に1500㌔の行軍を強いた。これは「大陸打通作戦」と呼ばれるが、米軍の空襲を避けながらの強行軍で、アメーバ赤痢やマラリアにかかって脱落する兵士があいつぎ、約10万人が戦病死したという。中国戦線でももはや武器弾薬も食料もなく、まともに戦える状態ではなかった。
この頃から華北では、八路軍の反転攻勢が始まる。日本軍の補給路を断ち、日本側の拠点を次々と奪取したこと、日本軍の支配から解放した地区では農民たちに対する租税減免を徹底したことなどが記されている。ヨーロッパ戦線に目を転じれば、43年頃からソ連軍がドイツ軍に対して優位に立った。
この頃の日本軍占領地について、北支那方面軍の参謀だった寒川吉溢はこう振り返っている。「方面軍占領地域である三特別市(北京・天津・青島)と400県において、治安良好なのは3特別市の他七県(1・6%)に過ぎず、八路軍の支配と認めざるをえないものが139県(31・5%)。全体の66・9%に当たる295県でも、日本軍は県城を中心に若干の郷村に分駐しているだけで、民心はむしろ八路軍側に傾くものが多い」という実情だった。
済南に米軍上陸を阻止するための陣地を構築していた第42大隊歩兵砲中隊の真壁秀松は、当時をこう振り返っている。「四方八方敵だらけ、八路軍が集合し攻撃をかけてきたようである。あっという間もなく旅団長が倒れる。司令部が慌てふためく。旅団にしてもわが大隊にしても、指揮系統が乱れて烏合の衆といってよく、まったく処置なしである」
勝利の見込みなく日米開戦
著者は以上のことから、「太平洋戦争で日本は完膚なきまでに叩きのめされた。だが、もう一つ知っておかねばならないのは、華北戦線でも八路軍の反転攻勢で日本軍は一気に崩壊し、完全に敗北したということだ。このことを認めれば、アジア太平洋戦争に対するわれわれの歴史認識もさらに正確なものになるだろう」と指摘している。
さらにいえば、すでに1941年の日米開戦時に、中国戦線での日本軍の戦死者は18万5000人を数え、勝利の見込みは断ち切られていた。太平洋戦争でアメリカに負ける前に、中国でさんざんにやられていたのだ。当時、アメリカと日本の戦争の最大争点は中国市場の争奪にあり、日本がアメリカの蒋介石への支援ルートを断とうとすると、アメリカは在米資産凍結、石油輸出の全面禁止をやり、中国からの日本軍の全面撤退を要求した。しかし天皇をはじめ日本の権力中枢は、中国に敗北したとなれば自分たちの権威は丸つぶれとなり、そこから内乱・革命に発展することを恐れて、日米開戦に進み、最後には日本全国を焦土にしてアメリカの単独占領を受け入れた。彼らは国民がどうなろうが、自分たちの地位を守ることにしか関心がない。こうしたことを含め、第二次大戦の性質をめぐる研究がさらに進むことが期待される。
(角川新書、302ページ、定価960円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31677
2024/10/22 (Tue) 06:19:00
2024-10-16
『日本のいちばん長い日』 -- 天皇の「わたくし自身はいかようになろうとも」発言はあったのか?
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231
日本のいちばん長い日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5
映画『日本のいちばん長い日』(1967年)
https://www.dailymotion.com/video/x8obxsl
https://www.bing.com/videos/search?q=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&qs=n&form=QBVR&=%25e%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E3%81%AE%E7%AE%A1%E7%90%86%25E&sp=-1&lq=0&pq=%E6%98%A0%E7%94%BB%20%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%95%B7%E3%81%84%E6%97%A5%20&sc=10-15&sk=&cvid=07A7D05E8AC044729CB84C60768D9D5F&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=
岡本喜八監督による映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作、と評価されている。
ただし、私はこれが名作とはまったく思わない。その理由は以前こちらの記事に書いておいた。
『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516
この映画の「感動的」シーンの一つに、最終的にポツダム宣言受諾を決めた御前会議(1945年8月14日)の席上、天皇裕仁が涙ながらに降伏を決意した理由を語る場面がある。
映画のこの場面での天皇の発言全文は以下のとおり。
(阿南陸相の受諾反対論を聞いた後で)
反対論の趣旨は、つぶさによく聞いた。
しかし、わたくしの考えは、この前も言ったとおりで、変わりはない。
これ以上戦争を続けることは、無理である。
陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領は耐えられないであろう。
国民が玉砕して国に殉ぜんとする気持ちもよくわかる。
しかし…(ここでポケットからハンカチを出して涙を拭う)しかし、わたくし自身はいかようになろうとも、国民を…国民にこれ以上苦痛を舐めさせることは、わたくしには忍び得ない。(涙声)
できることは、何でもする。
わたくしが、直接国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立つ。
陸海軍将兵を納得させるのに陸軍大臣や海軍大臣が困難を感ずるのであれば、どこへでも出かけて、なだめて説き伏せる。
(鈴木総理に向かって)鈴木、内閣は至急、終戦に関する詔書を用意してほしい。
(列席者一同すすり泣き)
いかにも、苦しむ国民を救うために我が身の危険もかえりみずに決断を下す指導者、というイメージだが、裕仁は本当にこんなことを言ったのだろうか?
敗戦後は保身に汲々とし、マッカーサーに媚びていた裕仁の姿を知っていれば、こうした疑問が出てくるのは当然だろう。
原作である半藤一利の『日本のいちばん長い日』では、この天皇発言についてこう注記している。[1]
(9)天皇のお言葉は、左近司、太田、米内各大臣らの手記を参照し、鈴木総理にもたしかめて、下村宏氏が記述した左のものがいちばん忠実に写しとっているとされている 。
「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変りはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおきがたいことは当然であるが、日本がまったくなくなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心をあわせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。わたしも国民とともに努力する。
今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」
本文での御前会議の描写もこの内容に基づいたものとなっており、映画版の天皇発言は、脚本を書いた橋本忍(戦後日本人の被害者意識をくすぐって大ヒットした『私は貝になりたい』の脚本家でもある)による、この内容の見事な要約と言えるだろう。
ところが、半藤はこれに続けて御前会議に出席していた陸軍参謀総長 梅津美治郎によるメモの内容も載せていて、こちらの天皇発言は大きく違うのだ。[2]
なお梅津参謀総長の鉛筆書きのメモが残されている。それによれば、天皇の発言は、
「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ
内外ノ情勢、国内ノ情態、彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々二考へタモノデハナイ
国体二就テハ敵モ認メテ居ルト思フ 毛頭不安ナシ 敵ノ保障占領ニ関シテハ一抹ノ不安ガナイデハナイガ 戦争ヲ継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモ子モナクナル
今停戦セバ将来発展ノ根基ハ残ル
武装解除ハ堪へ得ナイガ 国家ト国民ノ幸福ノ為ニハ明治大帝ガ三国干渉二対スルト同様ノ気持デヤラネバナラヌ
ドウカ賛成シテ呉レ
陸海軍ノ統制モ困難ガアラウ
自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ
速二詔書ヲ出シテ此ノ心持ヲ伝へヨ」
と要約されている。
こちらには「わたし自身はいかになろうとも」云々の言葉はないし、降伏を決めた理由も、降伏しても「国体(天皇制)」は維持できると確信しており、逆に降伏しなければそれが「元も子もなくなる」からである。
大本営『機密戦争日誌』には、同じく御前会議に出席していた陸軍省軍務局長 吉住正雄から伝達された、「御言葉」の要旨が記録されている。[3][4]
十、次デ、軍務局長ヨリ、本日御前会議ニ於ケル御言葉ヲ伝達ス。要旨左ノ如シ。
自分ノ此ノ非常ノ決意ハ変リハナイ。
内外ノ動静国内ノ状況、彼我戦力ノ問題等、此等ノ比較二附テモ軽々二判断シタモノデハナイ。
此ノ度ノ処置ハ、国体ノ破壊トナルカ、否しかラズ、敵ハ国体ヲ認メルト思フ。之ニ附テハ不安ハ毛頭ナイ。唯反対ノ意見(陸相、両総長ノ意見ヲ指ス)ニ附テハ、字句ノ問題卜思フ。一部反対ノ者ノ意見ノ様ニ、敵二我国土ヲ保障占領セラレタ後ニドウナルカ、之二附テ不安ハアル。然シ戦争ヲ継続スレバ、国体モ何モ皆ナクナッテシマヒ、玉砕ノミダ。今、此ノ処置ラスレバ、多少ナリトモ力ちからハ残ル。コレガ将来発展ノ種ニナルモノト思フ。
――以下御涙卜共ニ――
忠勇ナル日本ノ軍隊ヲ、武装解除スルコトハ堪エラレヌコトダ。然シ国家ノ為ニハ、之モ実行セネバナラヌ。明治天皇ノ、三国干渉ノ時ノ御心境ヲ心トシテヤルノダ。
ドウカ賛成ヲシテ呉レ。
之ガ為ニハ、国民二詔書ヲ出シテ呉レ。陸海軍ノ統制ノ困難ナコトモ知ッテ居ル。之ニモヨク気持ヲ伝ヘル為、詔書ヲ出シテ呉レ。ラヂオ放送モシテヨイ。如何ナル方法モ採ルカラ。
内容は梅津メモとよく一致している。
また、こちらの発言要旨からは、裕仁が涙を流したのは国民の苦難を思ってのことなどではなく、自分の軍隊である皇軍を武装解除させられる屈辱からであったことも分かる。
御前会議の席上でリアルタイムに書かれたメモや当日中に伝達された内容と、戦後になってから関係者(単にその場にいた人ではなく、裕仁を免責したいという強い動機を持つ利害関係者である)の手記や聞き取りをもとに書かれた内容と、どちらが信用できるだろうか?
常識的に考えて、答えは自明だろう。
ついでに言えば、下村宏がまとめた天皇発言自体からも不自然さは読み取れる。
裕仁は「明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う」と言っているのだが、三国干渉とは、西欧列強の圧力により日清戦争で日本が清から強奪した権益の一部(遼東半島)を返還させられたものだ。
確かに明治天皇睦仁にとっては屈辱だっただろうが、天皇その人が戦犯として裁かれるかどうか(処刑もあり得る)という事態とでは比較にもならない些事だろう。三国干渉がどうこうと言っている時点で、裕仁には「わたし自身はいかになろうとも」などという覚悟はないのだ。(ちなみに映画版ではこの「三国干渉」云々はカットされている。)
ところで、半藤が「いちばん忠実に写しとっているとされている」と評する内容を記した下村宏は、鈴木貫太郎内閣の情報局総裁である。つまり、玉音放送の直前までデタラメを流し続けてきた大本営発表の親玉なのだ。
映画『日本のいちばん長い日』で描かれた感動シーンは、下村宏がでっち上げたシナリオを半藤一利がもっともらしく修飾し、橋本忍が感動ストーリーに仕上げた醜悪なフェイクでしかない。
[1] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.73-74
[2] 同 P.74-75
[3] 軍事史学会編 『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』 錦正社 1998年 P.763-764
[4] 岩井秀一郎 『最後の参謀総長 梅津美治郎』 祥伝社 2021年 P.225-226
https://vergil.hateblo.jp/entry/2024/10/16/113231
▲△▽▼
2021-04-08
『日本のいちばん長い日』-- 名作と言われるこの映画も、改めて見直してみたら愚かな茶番劇でしかなかった。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516
半藤一利の原作をほぼ忠実に映画化した、岡本喜八監督の映画『日本のいちばん長い日』(1967年)。日本の降伏に至る最後の数日間、とりわけ8月15日の「玉音放送」までの24時間を、息詰まるような緊張感で描いた名作と評価されている。
以前見たときは確かに私もそう感じたのだが、最近改めて見直してみたところ、もう、この映画はただの茶番劇にしか見えなくなっていた。
脚本や演出が悪いのではない。役者の演技が大根というわけでもない。実際、この映画では、錚々たる名優たちがそれぞれの役を熱演していた。
鈴木貫太郎首相 - 笠智衆
阿南惟幾陸相 - 三船敏郎
米内光政海相 - 山村聡
天皇裕仁 - 松本幸四郎
下村宏情報局総裁 - 志村喬
井田正孝中佐 - 高橋悦史
畑中健二少佐 - 黒沢年男
徳川義寛侍従 - 小林桂樹
ダメだったのは、彼らが演じた人物たちそのものだ。
号泣する男たち
この映画では、いい大人の、それも責任ある地位にある男たちが、実によく泣いている。
たとえば、ポツダム宣言の受諾にあたって、天皇および日本政府の権限は連合国軍最高司令官に「subject to(従属)」する、という条件を受け入れるかどうか、閣議では決められないまま8月14日11時頃から開かれた御前会議の場面。
裕仁が立ち上がり、「わたくし自身はいかようになろうとも、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたくしには忍び得ない。できることは何でもする。わたくしが国民に直接呼びかけることがよければ、マイクの前にも立つ」と語ると、居並んだ閣僚たちはみな嗚咽をもらし、ある者など椅子からくずれ落ちて絨毯に膝をつき、泣き声を上げる。裕仁本人もしきりにハンカチを頬に当てて涙をぬぐっている。
バカじゃなかろうか。
事ここに至ったのは、戦局が既に絶望的になっているにもかかわらず戦争をやめるという決断ができず、何の見通しもないままずるずると事態を引き延ばしてきたこの者たちの無能・無責任のせいではないか。
もちろんこの無責任集団には裕仁本人も含まれる。半年前の45年2月、近衛文麿元首相が「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」と上奏して終戦交渉を促したとき、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」とこれを拒絶したのは裕仁だったのだから[1][2]。仮にこの時点で降伏に向けた交渉を始めていれば、東京大空襲も沖縄戦も原爆もなく、国民に無用の苦痛をなめさせずに済んだはずだ。
「わたくし自身はいかようになろうとも」という裕仁のご立派な発言も、せいぜいその場の雰囲気にのまれて口走った程度でしかなかったことは、その後責任回避に汲々とし、退位すら拒否したその行動から明らかだろう。
御前会議から戻った阿南陸相に無条件降伏が決まったと聞かされ、陸軍省の幕僚たちが号泣するという場面もあった。
彼らが呼号してきた本土決戦が不可能になり、(もともと成算はゼロだったのだが)上陸してきた連合軍に痛撃を加えて有利な講和に持ち込むことも、最後まで戦って「悠久の大義」に散ることもできなくなった痛憤からだろうが、なんという幼稚さか。
お前たちが安全な内地で非現実的な作戦計画にうつつを抜かしていたころ、前線ではロクな補給も受けられないまま兵たちがばたばたと餓死し、あるいはバンザイ突撃で無意味な死を強いられていたのだ。
だいたい、大事な夫や息子や父親や兄弟を徴兵された家族たちは、彼らが白木の箱に収められた一片の骨、ひどい場合には珊瑚のかけらや石ころになって帰ってきても、お国のために命を捧げた名誉なこととして、泣くことすら許されなかったのだ。そんな非道を強いてきたお前たちに、自分らの妄想が実現できなくなっただけで泣く資格などありはしない。
最後の場面に至ってなお字句の修正に執着する愚か者たち
無条件降伏が決定し、「玉音放送」で裕仁が読み上げる「終戦の詔書」を作成する段階になると、閣僚たちは今度はその細かな字句の修正にまた貴重な時間を費やしていく。
大して長くもない詔書なのに、修正は何十箇所にも及んだ。
とりわけバカバカしいのは、原案のまま「戦勢日に非にして」とするか「戦局好転せず」と修正すべきかをめぐって争われた論戦だろう。
阿南陸相は、「個々の戦闘では負けたが、最後の勝負はまだついておらん」「陸軍は小さな島で戦いをやっただけで、一度も本格的な会戦はやっておらん」「しかるに負けたという、この戦勢非にしてというのでは、その死んでいった三百万の人々になんとして申し訳が立つ」と言って修正を主張するのだが、「戦勢日に非にして」であろうが「戦局好転せず」であろうが、どちらにしても、負けっぱなしでもうどうしようもない、という意味に違いはない。こんな字句にこだわることに何の意味があるのか。
ちなみに、映画ではセリフとして出てこないが、阿南は「この原案のままではいままでの大本営発表がすべて虚構であったということになる」とも述べたようだが[3]、詔書の文面をどういじろうが大本営発表が嘘だらけだったことに変わりはない。字句をいじって現実を糊塗しようとするその手口は大本営発表そのままであり、そういうことをしているからこんな事態に追い込まれたのだ。
すったもんだの末、詔書は裕仁本人も数箇所修正してようやく完成するのだが、粗末なラジオで雑音だらけの玉音放送を聞かされた国民には、どうやら戦争に敗けたらしい、とおぼろげに理解できただけで細かな文言など聞き取れなかったのだから、もはや笑うしかない。
戦争犯罪の証拠を燃やす隠蔽行為をあっさりスルー
降伏と聞いて号泣したり虚脱状態に陥っていた陸軍中央の一部若手将校たちは、やがて宮城を占拠して玉音放送の録音盤を奪取し、天皇に翻意させて戦争継続に持ち込もうという、クーデター計画に走っていく。
彼らが陸軍省で愚かな計画を練っていた頃、その背景として、裏庭にせっせと省内にある文書を持ち出しては焼き捨てる光景が映し出されていた。
これは、侵略戦争の犯罪性を示す証拠を隠滅しようとする、それ自体重大な犯罪行為である。後に、主犯の一人である奥野誠亮が次のように平然と述べている。(読売新聞 2015/8/11)
もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。
だいたい、政府・軍部はこの戦争を、欧米の植民地支配からアジアを解放する正義の戦いだと言ってきたではないか。それが事実なら、ここで燃やされている膨大な書類は、たとえ敗けても裁判の場で連合国に対して日本の正当性を主張するための貴重な証拠となったはずだ。それを自分で燃やしてしまうというのは、「正義の戦い」など大嘘だったことを自ら白状しているに等しい。
しかしこの映画では、そうした犯罪性には一切言及することなく、まるで当然のことのように燃やされる書類の山を淡々と映しているだけだった。
エンディングから垣間見える独善的歴史観
ある映画が何を描いてきたのかは、そのエンディングに集約した形で示される。
この映画の終わりでは、廃墟となった街や戦死者の姿に重ねて、次のような文字列が映し出される。
「太平洋戦争に兵士として参加した日本人 1,000万人(日本人男子の1/4)」
「戦死者200万人 一般国民の死者100万人 計300万人(5世帯に1人の割合いで肉親を失う)」
「家を焼かれ 財産を失った者 1,500万人」
そしてナレーションで「いま私たちは、このようにおびただしい同胞の血と汗と涙であがなった平和を確かめ、そして、日本と日本人の上に再びこのような日が訪れないことを願うのみである。ただそれだけを…」と締めくくられるのだが、そこに、日本がどれほどの惨害を近隣アジア諸国に与えてきたかの言及は一切ない。ただひたすら、戦争で日本人はこんなにひどい目にあった、だから平和が大事、というだけである。
この映画は、自分たちが何をしてしまったのかへの反省がまったくない、最後まで独善的な茶番劇でしかなかった。
[1] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 1992年 P.22
[2] 山田朗 『昭和天皇の戦争 ー「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』 岩波書店 2017年 P.244-245
[3] 半藤一利 『日本のいちばん長い日 決定版』 文春文庫 2006年 P.124
https://vergil.hateblo.jp/entry/2021/04/08/074516
2024/11/25 (Mon) 11:47:23
雑記帳 2024年11月23日
原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html
https://www.amazon.co.jp/%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E3%80%8C%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%8B%9D%E8%AC%81%E8%A8%98%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-2038-%E6%AD%A6%E5%8F%B2/dp/4004320380
岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2024年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は「昭和天皇拝謁記」に基づいて、思想や政治情勢の認識や人物評価など、昭和天皇の「実像」を浮き彫りしていきます。「昭和天皇拝謁記」とは、2021~2023年に岩波書店から刊行された『昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録』全7巻のことです。『昭和天皇拝謁記』は、第二次世界大戦後に第2代宮内府長官、さらには初代宮内庁長官を務めた田島道治(1885~1968年)が、おもに宮内庁長官時代に昭和天皇とのやりとりをまとめた狭義の「拝謁記」(第1巻~第5巻)と、田島の宮内府長官就任から宮内庁長官退任までの「日記」(第6巻)と、田島の退任後の日記や田島宛の書簡などの「関連資料」(第7巻)の総称です。本書がとくに重視するのは狭義の「拝謁記」で、天皇とのやり取りが口調まで忠実に再現されているそうです。本書は昭和天皇が田島には饒舌に語っていたことを指摘し、おそらくは私も含めて多少なりとも幼少期以降に昭和天皇と同時代を生きた人々にとって、やや意外な昭和天皇像と言えそうです。
本書は、2015~2019年にかけて宮内庁書陵部編修課によって編纂された『昭和天皇実録』全19冊などでは必ずしも明らかにならない、昭和天皇の等身大の人間像が『昭和天皇拝謁記』によって浮き彫りになる、とその史料的価値を高く評価しています。田島道治が宮内府長官を務めたのは1949~1953年で、この期間の首相は吉田茂でした。田島が昭和天皇に拝謁した場所は多くの場合、宮内庁の庁舎3階の「御座所(表御座所)」か、空襲を想定して1942年12月に完成した御文庫だったそうです。この『昭和天皇拝謁記』からは、昭和天皇が政局や時局に公表できないような本音を吐露したり、日本国憲法の改正を主張したりと、日本国憲法となっても昭和天皇の意識はほぼ大日本帝国憲法のままだったことが窺える、と本書は評価しています。本書は、昭和天皇の発言の時系列に拘らず、一貫しているように見える昭和天皇の認識の分析を試み、それは、天皇観や政治および軍事観や戦前および戦中観や国土観や外国観や人物観や神道および宗教観や空間認識などです。以下、とくに興味深い昭和天皇の発言と本書の解釈を、備忘録として記していきます。
昭和天皇は日本国憲法に規定された「象徴」としての天皇の地位について突き詰めて考えた形跡がなく、その天皇観は戦前の思考から抜けきらなかった、と評価しています。ただ、本書で取り上げられている他の昭和天皇の発言からは、日本国憲法下では華族のような「藩屏」がおらず、国民の支持を得ることが重要と理解しているように窺え、本書の評価は昭和天皇にやや厳しすぎるようにも思います。ただ、昭和天皇が日本国憲法に対して不満を抱き、政治外交への関与を志向していた、との本書の指摘は妥当なように思います。昭和天皇の政治観としては、共産主義への強い警戒感と、民主主義への懐疑が目立ちます。これは、政党政治に対する不信感でもあり、戦前の体験が大きく影響していたようです。軍備に関して、昭和天皇は日本国憲法に第9条にたいへん不満だったようで、再軍備は必要と確信していたようです。戦前から戦中の判断については、昭和天皇に言い訳がましさを感じますが、昭和天皇の個人的立場としてはそう言いたくなる気持ちも分かります。ただ、これは国民には絶対公表できないことでしょうし、昭和天皇も国民に公表されないことを前提に、そう発言しているのでしょう。
日本の範囲について昭和天皇は、日清戦争前の領土を日本固有の領土と考えていたようです。昭和天皇は北海道への訪問に強いこだわりがあり、それは地理的にソ連からの侵略を受けやすいからでした。これは、共産主義とともに、ソ連が日ソ中立条約を破ったことへの強い警戒感もありました。『昭和天皇拝謁記』の頃のほとんどの期間においてソ連の最高権力者はスターリンで、昭和天皇はスターリン体制をマルクス主義より遊離している帝国主義と評価しているのは、昭和天皇の認識を理解するうえで興味深いと思います。昭和天皇は一方でアメリカ合衆国に対しては、急進的な改革の日本への押しつけが国民を共産主義に追いやるのではないか、などと不満もありつつも、第二次世界大戦後の日本への「寛容な」方針を感謝していました。中華人民共和国に対して、やはり共産主義であることや、チベットなどへの侵略国として昭和天皇は警戒していましたが、ソ連よりはましと考えていたようです。昭和天皇は朝鮮戦争に強い関心を抱いており、それは日本に近い朝鮮半島が共産主義国として統一されることへの警戒感に由来しますが、朝鮮については、「常にいづれかに隷属していた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきだった」と考えており、つまりは日本による韓国併合は妥当だった、と認識していたわけです。本書は、こうした昭和天皇の蔑視的な朝鮮観が当時の日本の知識人に共有されていたことを指摘します。
こうした昭和天皇の「本音」が、昭和時代に日本国民に漏れることはほぼなく、昭和天皇自身も、自身の意見や好みなどが日本国民に伝わらないよう、節制していた、と昭和天皇と短いながら同時代を生きた私には思えます。それだけに、昭和天皇が1973年放送の大河ドラマ『国盗り物語』を視聴していたとか、大相撲で関脇まで昇進した蔵間関がなかなか大関に昇進しないことを気にしていたとか、昭和天皇の個人的な嗜好や人柄や認識などが窺える逸話に、野次馬的というか下衆的な興味を抱く人は私も含めて少なくないでしょう。そうした低俗な関心で注目度が高いのはやはり人物評で、それは昭和天皇の認識や歴史の解明において重要な情報ではあるものの、低俗な人間の一人として、私もつい醜聞的な曝露への関心からも昭和天皇の人物評を楽しみに読んでしまいました。
本書は昭和天皇の人物評でも、『昭和天皇拝謁記』で言及が多いこともあり、その母親である貞明皇太后を大きく取り上げています。昭和天皇と貞明皇太后の関係は悪かったようで、昭和天皇には、強硬派の貞明皇太后が終戦の決断を妨げた、といった恨み節に近い感情もあったようです。昭和天皇は母親を感情的で意見がすぐ変わる不安定な人として、不満が多かったようです。こうした貞明皇太后観は昭和天皇だけではなく、昭和天皇の弟の高松宮など、皇族では広く共有されていたようです。『昭和天皇拝謁記』の頃の首相だった吉田茂も、貞明皇太后を「二重人格」と言っていたそうです。昭和天皇は母について、時流に阿る性格があることも指摘しています。貞明皇太后は戦中に、軍人を招いて激励することがあり、昭和天皇はこれに悩んでいたそうです。ところが、敗戦後には、母は合法化された日本共産党に同情的になっている、と昭和天皇は認識していました。また、貞明皇太后は話上手の人物を好み、それ故に自分より弟の秩父宮を気に入っていた、とも昭和天皇は考えていたようです。一方で田島は日記に貞明皇太后と会ったことも書き残しており、貞明皇太后の方は、高松宮への不満を自分に対して興奮気味に語る昭和天皇が、帝としては感情的に過ぎるのではないか、と不満を抱いていたようです。昭和天皇は戦前から母に会うと冷静ではいられない傾向があったようで、昭和天皇が母親を感情的と考えていたように、母親も息子が感情的と考えていたようです。昭和天皇が母の前では冷静でいられないのは、摂政時代に女官制度の改革や宮中祭祀で母と対立し、その件で母を恐れていたからで、それは昭和天皇の皇后も同様でした。昭和天皇は田島が貞明皇太后に会っていたのかどうかも気にしており、これには貞明皇太后の機嫌を探る目的があったようです。田島はこうした貞明皇太后と昭和天皇の母子関係について、昭和天皇に対して困惑していたというか、批判的だったようにも見えます。昭和天皇は、1946年2月に巡幸を開始すると、貞明皇太后も1948年から本格的に行啓を始めたことにも不満だったようです。貞明皇太后は1951年5月17日に急逝しますが、その後も昭和天皇の母への言及は続き、むしろ気兼ねなく語れるようになったのではないか、と本書は指摘します。昭和天皇は、両親(大正天皇と貞明皇太后)の仲がよくなかったのではないか、とも考えていました。田島は昭和天皇に、両親の仲を詮索しないよう、忠告しています。貞明皇太后の死後1ヶ月ほど経過して、まだ皇后だった頃の1926年10月22日付の貞明皇太后の遺書が発見されました。この遺書は公表されておらず、高松宮の日記で概要が書き残されているだけですが、『昭和天皇拝謁記』にはこの遺書に関する昭和天皇と田島のやり取りが見えます。貞明皇太后の遺書には、遺品を寺院に下賜せよ、とあったようです。また貞明皇太后の遺書には、秩父宮と三笠宮には由緒ある家宝を伝えたい、とあったようですが、これが何か、昭和天皇は判断を悩み、三種の神器である可能性も考えました。しかし、さすがにそれは無理なので、違うことをやるしかない、と昭和天皇は判断します。一方で、昭和天皇は父親である大正天皇について、田島に語ることは少なく、もっと親孝行すべきだった、とのべているくらいです。
昭和天皇は妻の香淳皇后や他の皇族についても、田島に語っています。昭和天皇は妻を、その名前(良子)に因んで「良宮」と呼んでいます。昭和天皇の結婚は、良子女王が色覚異常関連の遺伝子を有している、との懸念から「宮中某重大事件」に至之くしたが、昭和天皇は妻が色覚異常であることを「うそではない」と田島に述べています。昭和天皇は妻の生理の回数や周期を把握しており、これには、伊勢神宮への参拝で「血の穢れ」を避けるためといった目的もありました。本書は、昭和天皇が妻を単なる生物のように無感情に観察していたのではないか、と指摘しますが、さすがにこれには、昭和天皇への悪意が込められているのではないか、と考えたくもなります。昭和天皇は皇太子(現在の明仁上皇)を「東宮ちゃん」と呼んでおり、成人して自分が譲位しても、新天皇と母親(香淳皇后)との間に面倒なことが起きるのではないか、と懸念していました。昭和天皇は、自身の苦い経験を息子にも投影していたわけです。昭和天皇は二・二六事件での言動から弟の秩父宮を、自分に代わって即位するつもりではないか、と警戒していたようですが、結核での療養が長引いていたことと、敗戦後に貞明皇太后や高松宮や三笠宮が退位を主張したのに対して、秩父宮は退位を主張しなかった、と認識していたことから、『昭和天皇拝謁記』の頃には秩父宮には同情的でした。一方で昭和天皇は、秩父宮の下の弟である高松宮とは、サイパン陥落の頃に高松宮が早期講和を進言したのに対して、自身は「一撃講和論」を主張したことから、関係が微妙だったようです。上述のように、昭和天皇は母に対して高松宮への不満を感情的に語っていました。本書は、昭和天皇が退位しないと決めたのには、高松宮が摂政になることへの反発もあったのではないか、と推測しています。昭和天皇は末弟の三笠宮に対しても不満を抱いており、末っ子であることで甘やかされて育ち、我儘になった、と考えていました。また、三笠宮が左派の学者と付き合い、左派的な言動を繰り返していることには、昭和天皇も田島も懸念していました。昭和天皇は次男の正仁親王(常陸宮)が高校生の頃にキリスト教に強い関心を抱いていることを懸念し、仏教や神道も知ってもらいたい、と田島に語っていますが、田島はキリスト教信仰と学業の進歩は関連している、と昭和天皇に語り、キリスト教自体は悪くないと考えていた昭和天皇は、この件で次男を叱責しませんでした。
昭和天皇の人物評は、皇族以外も対象となっています。昭和天皇はマッカーサーに対して、共産党を過小評価している点に不満を抱きつつも、天皇制存続の決断には感謝していました。共産党を過小評価している点では、昭和天皇は首相の吉田茂にも不満を抱いていました。ただ本書は、昭和天皇が共産党を過大評価していた、と指摘します。また昭和天皇は、吉田首相が再軍備に否定的なことや、神奈川県の大磯にある私邸に平日も籠って閣議に出ないことにも不満でした。昭和天皇は吉田首相にこうした不満を抱きつつも、現実的には代わりの首相はいない、とも考えていました。その他の政治家では、戦後に一時的に公職追放となった鳩山一郎と岸信介にも昭和天皇は言及しています。鳩山一郎について昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時の田中義一内閣の書記官長だった点を問題にしています。昭和天皇は岸信介に対して、対米英開戦時の閣僚で主戦的だったことを問題にしています。戦前と戦中の首相では、近衛文麿は無責任と指摘し、東条英機の方をより高く評価しています。知識人で昭和天皇が否定的に評価していた人物には、全面講和と退位を主張した南原繁がいます。また昭和天皇は、平泉澄など右派的な学者への不満も田島に語っており、その「皇国史観」に対しては批判だったようです。
敗戦について昭和天皇は本音では、祖先に対する責任は感じていても、国民への責任を感じていなかったのではないか、と本書は推測します。昭和天皇は伊勢神宮というか天照大神に対しては宗教性を感じていたものの、宮中祭祀は宗教性があるものの宗教ではない、と考えていました。宮中祭祀を天理教などの神道と考えるのは、間違いというわけです。昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝が「反米思想」に利用されることを懸念しており、この場合の「反米思想」とは、アメリカ合衆国への報復を願う右派的なものでした。上述のように、昭和天皇はキリスト教には好意的で、日本人の大半がキリスト教徒になれば、キリスト教への回収も象徴としてはよいかもしれない、と考えていましたが、それが現実的ではないことも認識していました。仏教に対しては、昭和天皇は冷淡だったようです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html
2025/02/20 (Thu) 23:40:10
【日中関係】満州事変完全版!日本は悪だったのか?満州国の真実を徹底検証する
世界史解体新書 2025/02/20
https://www.youtube.com/watch?v=KTWjKf6eTe0
満州国の軍隊とはなんだったのか
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14096508
鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14104501
みんな大好きな 白洲次郎さんの正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14103660
ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html
みんなが騙された悪質なデマ _ 「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/747.html
鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html
ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html
大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006701
日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703
昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html
関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html
2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html
漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198
君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html
昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html
ジェームズ斉藤 : 日本のゴールド「天皇の金塊」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006705
日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/392.html
戦後、アジアの植民地が独立したのは昭和天皇と日本軍のお蔭なのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16883120
2025/06/03 (Tue) 13:47:01
原爆は「日本が降伏した後で」投下された 日本の降伏を拒否したアメリカ軍
2025.06.03
https://www.thutmosev.com/archives/58195625.html
アメリカ軍は勝利を自らの手柄にするため終戦を遅らせ、2発の原爆を使用した
TGRF
引用:http://blog-imgs-82.fc2.com/h/i/s/history365days/10616593_828729970491689_8779173433003972912_n.jpg
日米和平交渉
広島・長崎の原子爆弾は、日本が降伏しなかったから投下したとされています
だが少しずつ公開された資料からは、日本が降伏し、アメリカが拒否して原爆を投下した事実が示されている
1945年、日本と米国の終戦交渉が秘密裏に行われていました。
日本側は1942年のミッドウェー海戦から敗戦を続けていて、戦争を終わらせる必要がありました
一方のアメリカは強敵のドイツ軍をやっつけて、太平洋方面に主力を移動させようとしていて、余力充分でした
日本側では特に海軍と外務省、昭和天皇が早期終戦を望んでいて、陸軍は徹底抗戦を望んでいました
アメリカ側はやる気充分だったが、特に軍は積極的で、日本を廃墟にするまで戦う気でした
だが既にソ連軍の拡大は懸念材料になっていて、国務省など外交筋は早期終戦を望んでいた
日本本土を戦場にして戦えば、ソ連が日本の半分を占領する事になり、ソ連を利する事になるからだった
1945年7月にはまだソ連と日本は戦っていないが、既にルーズベルト大統領はヤルタ会談などでソ連参戦を要請していた。
ソ連は日本と戦う見返りとして日本の東半分、つまり名古屋から右側を要求していたとされている。
日本軍はソ連対日参戦の日を8月もしくは9月と予想し、それまでに対米戦を終了しなければならないと認識していた。
なぜなら米国だけに降伏すれば、国土は分割されず、いつかは再び独立できるが、ソ連と分割されれば永遠に復活出来ないからだった。
日本側は国土を分割しない事と憲法護持、天皇制を維持する事を条件として、米国に接触を試みました。
成功するかに見えた和平交渉
1945年4月、日本政府は最早敗戦は決定的であるとして、米国との終戦交渉に着手するのを決定しました
このとき大本営の数人だけで極秘の決定がなされたが、ソ連に仲介を依頼する事になっていました
同時に別案として、スイスやバチカンなど中立国で、米国と直接交渉をする事も決められました
日本は欧州の中立国スイスに公使館を持っていて、米国など連合国側の大使と接触が可能でした
真珠湾攻撃以降、連合国側との接触は途絶えていたが、一応こちらの方法も実施されました
5月から7月に掛けて日本側から働きかけが行われ、応じたのがドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスでした
7月には仲介者を通じて、日本側とアレンダレスの最初の交渉が行われ、ダレスは日本が提案した条件を呑んだとされている
条件と言っても日本側が絶対に譲らないとしたのは、天皇制護持だけで、国土と憲法の方は譲歩の余地がかなりあった
この時既に沖縄は米軍に占領されていたので、最悪沖縄が米国領になっても仕方が無い事だった
日本側の出席者は政府や軍ではなく、表向き民間人の横浜正金銀行の銀行マンだったとされている
仲介者は国際決済銀行(BIS)のペール・ヤコブソンで、これはヤコブソンの膨大なメモや資料で裏づけられています
アレンダレスは7月15日に初めてヤコブソンと会談し、そこで日本の条件を受諾する姿勢を示したとされている。
この時日本側は8月の第一週から第二週、つまり直ぐにでも停戦したい旨を提案したとされています。
日本の降伏を無視したアメリカ軍
だがダレス1人が納得しても、アメリカ政府や大統領、外交筋や軍が了承するかは別で、特に軍は徹底的に日本を叩く気でした。
7月23日には、ダレスとヤコブソンの会談で、このルートで和平交渉を進めることを確認したが、8月に入ると事態が大きく動いた
8月6日に広島原爆投下、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日にシベリアで日本軍とソ連軍が激突、同8月9日に長崎原爆が投下されました
これには裏があり、米軍はダレスの交渉が成功しそうだと知っており、勝手に合意する前に総攻撃を掛けたのだった
もし米軍が最後のとどめを刺さないまま戦争が終われば、戦争の最大の功労者は外交官だった事になる
だがドイツを占領したように日本を壊滅させ、占領する事で戦争が終われば、手柄は軍のものになります
ダレスの終戦交渉が頓挫したのは、米軍上層部が1945年12月まで戦争を続けるとして、日本の降伏を突っぱねたからとされている
この時米軍は日本に10発の原子爆弾を投下する予定で、生産した爆弾や爆撃機を「消費」しなければならなくなっていた
おかしな話だが、兵器というものも一度生産したらどこかで消費しないと余ってしまい、誰かが責任を取らされる
1945年12月まで時間があれば、予定していた10発の原爆のかなりを使用できると考えた
ダレスは戦略事務局(CIA)職員としてイタリア軍、ドイツ軍を降伏させ、日本との交渉もしていたから、日本が降伏を申し出たのは本国に伝わっていた
昭和天皇は4月と5月の東京大空襲の時に、既に降伏の意思を固めていたのが、周囲の人々によって記されていました
原爆投下後の8月14日に御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、玉音放送を録音し、8月15日に放送した
本来は総理大臣などが発表するべきだが、陸軍が本土決戦を主張した為、末端の兵士にまで直接伝える必要が生じた
同時に全世界にラジオ放送することで、アメリカ軍が 「降伏など受けていない」と絶対に言えないようにしたのでした
米軍は8月13日には停戦の連絡を受け、日本軍は14日に戦闘をやめているが、15日の夜になっても爆撃を続けている
このようにアメリカ政府とアメリカ軍は、1945年7月末には日本の降伏申し出を知っていて、なおかつ原爆を使用したのでした
https://www.thutmosev.com/archives/58195625.html
エリオット波動で将来のトレンドを予測 _ 日経平均株価(225種) | ■↑▼ |
2025/04/03 (Thu) 11:43:41
Japan 225 インデックス
この元スレはFC掲示板の管理人の言論弾圧によって削除されてしまいました。どの引用文にクレームが付いたのかは全くわかりません。
完成したら阿修羅掲示板の近代史板に移動しますが、阿修羅掲示板ではコメント編集ができないので、完成まではここで編集作業を行います。
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Japan 225 インデックス — TradingView
https://jp.tradingview.com/symbols/TVC-NI225/
Nikkei 225 Futures つなぎ足 NK2251! Osaka Exchange — TradingView
https://jp.tradingview.com/symbols/OSE-NK2251!/
チャートで通貨を JPY(日本円)から USD(米ドル) に変えるとドル換算日経平均株価に変わる
Nikkei/Yen Futures つなぎ足 NIY1! CME — TradingView
https://jp.tradingview.com/symbols/CME-NIY1!/
Nikkei/USD Futures つなぎ足 NKD1! CME — TradingView
https://jp.tradingview.com/symbols/CME-NKD1!/
Iシェアーズ・コア 日経225 ET 1329 Tokyo Stock Exchange — TradingView
https://jp.tradingview.com/symbols/TSE-1329/
iシェアーズ・コア 日経225 ETF(iS日経)【1329】の株価チャート|日足・分足・週足・月足・年足|株探(かぶたん)
https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1001329/1329
iシェアーズ・コア 日経225ETF【1329】の掲示板 - 株式掲示板 - Yahoo!ファイナンス
https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1001329/1329
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ドル建て日経平均株価は米国株価と連動している
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14123570
日経平均上昇の鍵はS&P500(SPX)とドル円/有川和幸さん【キラメキの発想 6月26日】
https://www.youtube.com/watch?v=mmm3OU-nio8&list=PLbeeewhOVN3ZOHGCnxY0IlcCNaWFxs2rI&index=2&t=245s
11:08 ドル建て日経平均はSPXと同じ動き
日経平均が大相場入りならドル円は300円か/実践!エリオット波動 有川和幸さん
パンローリングチャンネル 2023年7月3日
https://www.youtube.com/watch?v=GWBxPoQ6wk8
01:13 ナスダック100はドル建て日経平均(日経平均÷ドル円)と相関
ドル建て日経平均と円建て日経平均とのパフォーマンス比較(全期間)
https://www.kabutore.biz/shisu/dollbase_hikaku.html?Submit=%E5%85%A8%E6%9C%9F%E9%96%93&kikan=&sisu=dollnikkei&hikaku=nikkei
ドル建て日経平均とS&P500とのパフォーマンス比較(全期間)
https://www.kabutore.biz/shisu/dollbase_hikaku.html?Submit=%E5%85%A8%E6%9C%9F%E9%96%93&kikan=&sisu=dollnikkei&hikaku=sp500
日経平均株価 超長期月足チャート|1949年5月算出開始から現在まで Base Views
http://baseviews.com/chart/nk225-j.html
ドル建て日経平均 (日経平均 ドル換算)
https://sheet.zoho.com/sheet/publicgraphs/b92a9d815da445e2a9da6d2116d4c2041732152142345752
https://nikkei225jp.com/data/dollar.php
https://www.traders.co.jp/index/0102
ドルベースで見たときの日経平均1950-2010 NightWalker's Investment Blog
http://nightwalker.cocolog-nifty.com/money/2011/01/1950-2010-2994.html
ドル建て日経平均の長期推移(1970年以降の長期チャート)
2024年1月14日
https://finance-gfp.com/?p=12627
2025/04/11 (Fri) 17:56:17
aあ
2025/04/29 (Tue) 03:42:14
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【2025年6月2日】 TOPIX再評価 「ドル離れ」が呼び水?(宮田直彦)
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2025/06/03 (Tue) 06:19:59
РТНС from TOR and FREENET
j1d.ca/_J #or# put2.me/epuemo
4ty.me/ibhi7c #or# tt.vg/URoSx
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井上文則『軍と兵士のローマ帝国』 | ■↑▼ |
2023/09/02 (Sat) 14:17:02
雑記帳
2023年09月02日
井上文則『軍と兵士のローマ帝国』
https://sicambre.seesaa.net/article/202309article_2.html
https://www.amazon.co.jp/%E8%BB%8D%E3%81%A8%E5%85%B5%E5%A3%AB%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-1967-%E4%BA%95%E4%B8%8A/dp/4004319676
岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2023年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は軍と兵士の視点からのローマ帝国史で、284年のディオクレティアヌス帝の即位以降の後期ローマ帝国軍も重視していることが特徴です。本書は、漢やパルティアやサーサーン朝など同時代の大国と比較して、職業軍人から構成される常備軍だったことがローマ帝国の軍隊の特徴だった、と指摘します。ただ、ローマ帝国の軍制が当初からそうだったわけではなく、共和政期には市民兵で、軍団は毎年編成されていました。
しかし、ローマがイタリア半島を越えて拡大していく過程で、戦争が慢性化し、市民兵の担い手だった武装を自弁できる中小農民が没落していくなかで、半ば職業軍人化した兵士が現れます。紀元前2世紀後半のグラックス兄弟の改革の失敗後、無産市民も兵の対象とされ、兵士の大半は職業軍人となっていきます。イタリア半島外に領土(属州)が拡大していく中で、治安維持のため軍団も毎年の編成から常備軍化していきます。当初、軍団に入隊可能だったのは、原則としてローマ市民権の保持者だけでした。こうした傾向に沿って常備軍を制度化したのは、初代ローマ皇帝のアウグストゥスでした。本書は、これにより兵士と市民が分離され、両者の間に距離ができたことも指摘します。ただ本書は、ローマ帝国において軍は貧弱な行政機構を補い、兵士は軍務以外のさまざまな役割も担っていたので、兵士と一般市民との日常的な接触があったことも指摘します。
こうして成立したローマ帝国常備軍の各軍団の司令官は、属州エジプトの駐屯軍を除いて元老院議員で、その中でもプラエトル(法務官)経験者から選ばれました。司令官の任期に厳密な規定はなかったものの、通常は3年程度でした。ローマ帝国において、皇帝は軍の支持なしに帝位を保てないので、軍の掌握に注意を払いました。ローマ帝国の軍隊は、すでに軍人皇帝時代の前から帝位継承問題に関わることが多く、その嚆矢は、カリグラ帝が暗殺され、その叔父のクラウディウスを近衛兵が皇帝として擁立したことです。このようにローマ帝国において軍が帝位継承問題に関与で来た理由として、皇帝選出の手続きが定まっていなかったことを本書は指摘します。
帝政期のローマ軍は、五賢帝以降に変容していき、本書はマルクス・アウレリウス帝からコンスタンティヌス帝までの時代を移行期間と把握しています。転機となったのは166~167年に始まったマルコマンニ戦争で、ランゴバルド人とオビイ人がドナウ川を越えて属州パンノニアに侵入してきました。ランゴバルド人とオビイ人は属州駐留軍に撃退されましたが、170年にはマルコマンニ人とクアディ人がイタリア半島にまで侵攻してきました。マルコマンニ戦争は、マルクス・アウレリウス帝の後継者となった息子のコンモドゥス帝の代に終結しましたが、軍司令官と属州総督が、これまでの慣行に囚われず軍事的能力優先で起用されるようになります。その後、セウェルス帝の代に属州駐留軍対策でイタリア半島の軍事力が強化され、兵士の給与を増額します。
しかし、セウェルス帝の兵士優遇策は軍を増長させ、軍人皇帝の時代を迎えます。この軍人皇帝時代に、ウァレリアヌス帝の考案による帝国の分担統治が始まり、各皇帝に直属の常設の機動軍が整備されていき、軍人皇帝の権力基盤となります。この過程で能力主義がさらに定着していき、バルカン半島出身の兵卒が軍司令官に就任するようになります。こうしてローマ軍は変容していき、軍政と民政の分離が徹底されたディオクレティアヌス帝の治世を経てコンスタンティヌス帝の代には、機動軍と辺境防衛軍から構成される後期ローマ帝国の軍制が確立します。この後期ローマ帝国の軍は、攻勢を主目的とする前期ローマ帝国の軍とは異なり、防衛を主眼とするようになった、と本書は指摘します。
上述のようにローマ帝国では初期の頃より軍が皇帝の選出に大きな影響力を有していましたが、コンスタンティヌス帝以降、機動軍が元老院に代わって正当な皇帝を選出して承認するようになり、帝位簒奪者を産み出すこともありました。一方で、3世紀の動乱により人口が減少し、戦争が一層慢性化する中で、軍は兵士の確保に苦慮することになります。その結果、ローマ帝国は帝国外の「異民族」に兵力を頼るようになりますが、「異民族」出身者の割合が高かった、とされる機動軍でも、「異民族」の割合は41%程度だったようです。一方、辺境防衛軍の兵士はほとんどローマ人でした。上述のようにすでにディオクレティアヌス帝の治世で軍政と民政の分離が徹底されたことで、各地を移動する機動軍と市民との関わりは、おもに機動軍の移動先での民家への宿泊となり、これは機動軍における「異民族」出身兵士の割合の高さとともに軍と市民との軋轢を増加させたようです。さらに本書は、このように「異民族」出身兵士の多い軍隊の駐屯に慣れたことにより、ローマ市民は同盟部族軍の大量流入に対して大規模な抵抗を起こさなかったのだろう、と推測します。
こうした中で、4世紀後半にいわゆる大移動が始まり、西ローマ帝国では、総軍司令官のスティリコが東方から来た征服者と西ローマ帝国の人々に考えられていたことから、西ローマ帝国の機動軍との関係が微妙で、同盟部族軍に頼るようになり、その傾向はスティリコの失脚後に一層強くなります。西ローマ帝国では、豊かなアフリカ北部の属州も失い、財政基盤が弱体化する中で機動軍を維持できなくなり、辺境防衛軍も次第に解体していきます。本書は最後に、ローマ帝国の軍制史をユーラシア史に位置づけ、ローマ帝国の常備軍を支えたのはシルクロード交易からの関税収入で(関連記事)、シルクロード交易を支えていた諸帝国によるユーラシアの政治的安定が2世紀半ば以降に崩れていき、それに伴ってローマ帝国軍もより専業化していった、と指摘します。東西のローマ帝国の運命の違いについて本書は、東ローマ帝国はその地勢から「異民族」の侵入が限定的だったことを挙げます。さらに本書は、ローマ帝国を一体の世界と把握する見解が常識とされているものの、歴史的に重要な境界線はユーフラテス川ではなく東西のローマの境だったのではないか、と指摘します。つまり、ローマ帝国東方はローマ帝国西方よりもパルティアやサーサーン朝と一体ものとして把握すべきではないか、というわけです。
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2024/05/19 (Sun) 09:29:09
雑記帳
2024年05月18日
宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』
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講談社現代新書の一冊として、講談社より2024年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はローマが帝国となっていく過程を検証し、おもにローマが大国化していく紀元前3世紀末からアウグストゥスの頃までを対象としていますが、それ以前の地中海地域の一都市国家だった時代も取り上げられています。確かに、ローマ帝国の成立において、規模や勢力の点で地中海に多数存在した都市国家と変わらなかった頃の歴史は、ローマの覇権を可能としたのが何だったのか、解明するうえで重要になると思います。
都市国家ローマの起源は曖昧としていますが、紀元前8世紀頃に現在のローマ市の中心部にラテン人と呼ばれる人々の一部が集まり、都市の原型が建設されたのだろう、と推測されています。本書は、都市国家だった頃のローマ人にとって、精霊により守護され、神々の特別の恩寵を受けた都市こそが国の本質で、周囲の土地はそれに付随するものにすぎなかった、と指摘します。初期のローマの特徴は王が存在したことで、10人の王のうち最後の3人はラテン人とは異なるエトルリア人だった、とされています。ローマで王が追放されたのは紀元前509年と言われており、共和政が始まります。共和政の当初は、全市民が平等だったわけでも、国政に携わったわけでもなく、王政期以来の少数の貴族(パトリキ)がいました。共和政当初の貴族は、元老院の議席と政務官を独占していました。政務官の権限は行政のみならず軍事と司法と宗教行為にまで及び、とくに執政官(コンスル)と法務官(プラエトル)は戦地で軍の命令権など、絶大な権限を有していました。平民は政治決定機関の民会には出席できましたが、民会も貴族が議決を左右できました。しかし、エトルリアなど周辺勢力との戦いが相次ぎ、度々危機に陥る中で、戦力として重要な役割を果たしていた庶民が権利拡大を訴え、紀元前494年には平民の利益を代表する護民官が設置され、平民のみが参加し、護民官が主宰する平民会も設立されます。紀元前367年には、リキニウス=セクスティウス法により、二人いる執政官のうち一人は平民が就任することになります。紀元前287年のホルテンシウス法では、平民会の議決には貴族も従わねばならない、と定められました。
こうして政治および社会的には、貴族と平民との間の格差は解消されていきましたが、経済的格差の解消はさほど進まなかったようです。本書は、都市国家時代のローマが元老院と政務官と民会の三機関の相互補完と牽制で成り立っていたことを指摘します。ただ、平民から執政官に一人選出されるとはいっても、一部の富裕な家系が独占するようになり、元老院の政務官への「助言」が実質的に「命令」になるなど、共和政とはいっても現実には寡頭政だった、と指摘されています。身分闘争後に権力を有した貴族は、旧来の貴族(パトリキ)と区別して、ノビレス(貴顕貴族)と呼ばれます。しかし、平民がこうした寡頭政に本格的に抵抗するようになるのは紀元前2世紀半ば以降でした。当時のローマ人にとって市民は全員自由で平等ではあるものの、それは能力や立場に応じて権力や権威を備えている状態と考えられていた、と本書は指摘します。これは、富裕市民が祭りや娯楽を主催したり、食料を市民に施したりといった、富裕者の義務という強い観念につながっていきます。相対的な関係において、有力者(パトロヌス)が弱者(クリエンス)を庇護するわけで、この関係はパトロネジと呼ばれ、通常は特定の二者間で結ばれ、世代を超えて継承されたようです。
上述のように地中海の一都市国家だった共和政ローマは当初から周辺勢力と戦い、他の都市国家の併合などで領域を拡大していき、紀元前3世紀半ば頃までにはイタリア半島のほぼ全土を支配化に起いて、紀元前3世紀後半にはイタリア半島外にも支配領域を広げます。ただ本書は、この時点でのローマを帝国とは評価しておらず、ローマによる「支配」の実情を検証します。ローマに敗北した都市国家の市民が、それまでの市民としての権利を奪われた代わりに、ローマ市民権を与えられたり、戦後にローマ市民の一部が移住した都市もあったり(コロニア)、ローマに敗れるか従属した後でも、自立した国や共同体であり続けたりしました。ローマは支配化の各国と条約を締結し、同盟関係となりました。そうした国々がローマに逆らうことは難しく、その意味ではローマの支配下にあったものの、法的な意味では自立していた、というわけです。ローマが支配域を拡大していく過程で奴隷も増えたようで、そうした奴隷が解放されると、ローマ市民となり、解放奴隷には制約があったものの、その子供の世代以降にはそうした制約がありませんでした。こうした奴隷出自の人々は、実際にはさまざまな面で差別を受けやすく、比較的差別を受けにくい大都市に集まる傾向があったので、ローマでも一定の影響力を有するようになっていきます。
こうして、ローマは支配域の拡大とともに、社会が膨張して複雑化していきました。こうした状況で、紀元前3世紀半ばに起きたのが第一次ポエニ戦争(紀元前264~紀元前241年)です。第一次ポエニ戦争は長引き、ローマもカルタゴも疲弊したものの、ローマに有利な和平条件だったことから、ローマの勝利と評価されています。ローマは第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得し、その後の混乱の中でコルシカ島とサルデーニャ島をカルタゴから奪い、海外支配が始まります。この海外支配は、イタリア半島の支配とは明らかに異なっており、属州とされました。属州民はローマの構成員ではあるものの、国政に参与できなかったり、ローマの裁判を受けられなかったりと、ローマ市民と同じ権利を有していないにも関わらず、納税や軍役などの義務が課せられ、税負担はローマ市民より重く、軍役では危険な任務を課せられました。属州を統治した総督はローマ市から派遣され、行政権と司法権のみならず軍権も掌握し、属州法に基づいて統治したものの、実質的に総督の裁量権はほぼ無制限でした。ただ、シチリア島のローマによる統治は当初、まだ属州法がなく、執政官も法務官もシチリア島で任務に就いていたわけではなく、後の属州の在り方とは大きく異なっていたようです。また、この時点では国内の政治体制が大きく変わったわけでもなく、本書は、ローマが本格的な帝国となっていくのは、紀元前2世紀初頭にイベリア半島に二つの属州が設置されて以降と評価しています。
ローマの帝国化が本格的になっていく重要な契機が、第二次ポエニ戦争(紀元前218~紀元前202年)でした。紀元前216年のカンナエの戦いでローマは大敗し、当初はカルタゴの呼びかけに応じなかったローマの同盟都市の中で、カルタゴへの寝返りも見られるようになります。しかし、カルタゴ側への寝返りはイタリア半島南部以外の地域にまで広がらず、イベリア半島のカルタゴ勢力が紀元前206年に駆逐されたこともあり、カルタゴは劣勢となり、紀元前202年にザマの戦いでローマに敗れ、アフリカ外での戦争放棄およびアフリカ内でのローマの承認なしの戦争放棄や高額な賠償金など、過酷な和平条件を受け入れることになります。ただ、カルタゴは政治的にも経済的にも文化的にも自立を維持できました。第二次ポエニ戦争の結果、ローマのイベリア半島支配は確たるものになり、二つの属州が設置されますが、その直後から、先住民集団とローマとの戦いが激化します。イベリア半島の先住民は、カルタゴがイベリア半島から駆逐され、自立できると思っていたところに、ローマの強い支配下に置かれることになったので、放棄したようです。イベリア半島でのローマの属州支配は、ローマから派遣される統治官(総督)の人気がないなど、柔軟なものでしたが、それが共和政の権力構造の基盤となっていたさまざまな原則や縛りからの解放になっていたことを、本書は重視します。こうした例外的措置が常態化していくことで、共和政の骨幹が揺らいでいった、というわけです。イベリア半島での先住民とローマ側との戦いは断続的に続き、大カトのように明らかに先住民に対して優越的態度を示し、「奴隷状態に置く」ことを考えた有力者もいましたが、紀元前171年の「条約」により、「ローマ人の友」としての立場が確立します。しかし、属州総督による搾取はより体系化して強化され、こうしたイベリア半島における属州の在り様は、拡大していった帝国としてのローマの属州を先取りするものでもあったようです。
一旦は安定したかに見えたローマのイベリア半島支配は、紀元前150年代以降、再び動揺し、先住民とローマとの間で激しい戦いが続きます。ローマは先住民側に度々敗れながらも、最終的にはイベリア半島の属州統治を確立しますが、イベリア半島には多様な先住民集団が存在し、その一部はすでにローマとの間に安定した関係を築いて、属州民としての立場を受け入れており、ローマとイベリア半島先住民との間の関係は多様だったようです。イタリア半島を境に地中海は東西に区分でき、いわゆるヘレニズム時代以降の東側はギリシア語世界圏になっていった、と言えそうですが、帝国化していくローマは、地中海東部でも勢力を拡大し、ヘレニズム諸国の君主の中にも、ローマの権威により自分たちの立場を守ろう、との動きが見られるようになります。ただ、ローマがヘレニズム世界に属州を設置したのは起源2世紀中頃以降で、イベリア半島よりかなり遅れました。本書はローマ史における転機として紀元前2世紀中頃を重視しますが、その背景として属州での経験を挙げます。属州とされたイベリア半島がローマに莫大な富をもたらしたことなどにより、ローマの対外姿勢は変化し、「国益」のため他者と戦うことを躊躇わなくなった、と本書は推測します。本書はこうした観点から、ローマ帝国の形成を紀元前2世紀中頃と評価します。
ローマにとって明確な被支配者である属州の拡大は、ローマ社会の変容とも関わっています。ローマの社会は肥大化し、その構造は複雑化して、さまざまな立場の人々が関わるようになります。帝国となったローマを牽引する元老院は、ローマ市民だけではなく、属州の有力者などさまざまな立場の人々の利害に配慮せねばならなくなり、さらには中小農民の没落もあり、ローマ市民のさまざまな要請にも対処する必要が出てきました。さらに、戦争とその結果として設置される属州の富が膨大なものとなったため、元老院内でも権力闘争が激化していきます。これが、「内乱の一世紀」と呼ばれるローマの危機的状況の出現の前提となりました。中小農民の没落などローマ社会の変容に対して、復古を訴えるだけではなく、現実的な改革を求める政治が登場し、グラックス兄弟はとくに有名です。ただ本書は、困窮したローマ市民の救済という点では共通しつつも、兄のティベリウスとは異なり、弟のガイウスは元老院統治体制の弱体化を意図していた、と指摘します。この「内乱の一世紀」の中で、同盟市戦争の結果としてイタリア半島の全自由人がローマ市民権を獲得し、これによりローマの都市国家としての性格は焼失した、と本書は評価します。
ローマ共和政の根幹だった元老院統治体制はこの「内乱の一世紀」の中で紀元前1世紀中頃までに揺らいでいき、単独で権力を掌握した有力者による統治へとつながり、ついには皇帝と呼ばれる単独の権力者が出現します。この過程での重要人物は、当然カエサルとオクタウィアヌスで、まずカエサルは任期が半年の独裁官をいったん辞任した後で再任し、その後はずっと在職しました。さらに、カエサルは紀元前48年以降、紀元前47年を除いて執政官にも就任し、民会と護民官の権限を縮小しました。帝国に変質したローマではもはや共和政は機能せず、ローマ市民のみならず属州と帝国周辺の広大な地域の人々の支持が帝国の統治に必要となる、とカエサルは理解していたようです。そのカエサルが殺害されたのは、それでも共和政の存続を求める人々がローマ社会の上層に少なからずいたことを示唆しているようです。
カエサルの没後の権力闘争を勝ち抜き、「内乱の一世紀」を終結に導いたのは、カエサルから後継者に指名されたオクタウィアヌスでした。ただ、紀元前31年にオクタウィアヌスがアントニウスを破り、実質的に単独政権を樹立しても、帝政の開始はもう少し先だった、と本書は指摘します。この時点でオクタウィアヌスの権力は、公式に帝国を統治できると認められる性格のものではなかったからです。本書は、紀元前27年に、オクタウィアヌスが内戦以降に保持していた全権と軍を元老院と市民団に返上する、と宣言し、元老院と民会によりオクタウィアヌスにアウグストゥスの添え名が贈られたことを、本書は重視します。アウグストゥスは紀元前27年に全権と軍を返上すると宣言したさいに、元老院から属州統治を要請され、とくに情勢が不安定な属州の統治を引き受け、10年間の執政官格命令権を得て、後には繰り返し延長され、最終的に無期限とされました。この過程で、不安定な属州の統治との名目でローマ軍の大半を掌握し、その後、護民官職権や上級執政官格権限や大神官職を得るなどして、紀元前2年には元老院と市民団から「国父」の称号が贈られました。この結果、政治と軍事と宗教も含めてローマ帝国全域での全権をアウグストゥスは掌握することになりました。これらの権限には、新たに創設されたものはなく、全て共和政期から存在しました。オクタウィアヌスはローマ市民と最も権威ある者として「第一人者(プリンケプス)」と呼ばれ、オクタウィアヌスを「元首(プリンケプス)」、オクタウィアヌスにより始まった政治体制を元首政と言う人もいます。本書は、こうしてオクタウィアヌスにより始まった政治体制を共和政の再建とは評価していません。それは、これらの官職の条件だった任期などの制約がもはや失われていたからです。こうした帝政もしくは元首政の成立は、ローマ帝国の誕生の結果であり、その逆ではない、と本書は指摘します。
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2025/02/15 (Sat) 10:51:43
雑記帳
2025年02月15日
本村凌二『地中海世界の歴史5 勝利を愛する人々 共和政ローマ』
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講談社選書メチエの一冊として、2025年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。『地中海世界の歴史』全8巻も後半に入り、いよいよ著者が専門とするローマ史となり、4巻までよりもさらに筆が乗っている感もあります。本書は、ローマの起源から第三次ポエニ戦争の終結までを対象としています。この時点ではまだローマ帝政期ではありませんが、第三次ポエニ戦争の終結時点で、ローマはすでにアッシリアやペルシアと比肩するような大国になっていました。イタリア半島の1都市国家にすぎなかったローマがこのように拡大した背景に、子弟教育の拠り所となった「父祖の遺風」があったのではないか、と本書は推測します。ローマ人にとって、父祖の遺風はあらゆる考えや行動の基準でした。ギリシア人にもそうした基準や伝統はあったものの、ローマ人の古来の伝統に固執する精神はとにかく強かった、と本書は指摘します。
ローマの建国は曖昧な神話に彩られており、それはローマ市民の知識層も自覚していたようです。ローマの建国神話には、アエネアスを創設者とするものがありますが、これはギリシア人と交流していたエトルリア人に伝えられ、その後でローマに伝わり、他にも多くの神話が伝えられた中で、ローマ人はアエネアスの物語を選択したのだろう、と本書は推測します。初期のローマは王政で、王政後半期の王はエトルリア人だった、と伝わっています。本書はエトルリアもやや詳しく取り上げており、ローマ人がエトルリア人から多くを学んだ、と指摘しています。ただ、エトルリア人の王の支配はローマ人にとって「専制支配」と受け止められたようで、ローマ人がエトルリア人の文化の痕跡すら消し去ろうとしていたのではないか、と本書は推測します。エトルリア人は、複数の都市から構成される「エトルリア連合」を形成していたようです。エトルリアは王政から貴族政へと移行したようで、この点はローマと似ています。
共和政ローマの特徴として本書は、ギリシア人のポリスとは異なり、貴族(パトリキ)の元老院と平民(プレブス)との間の身分の違いが堂々と明示されていることを指摘します。共和政期初期のローマでは貴族と平民の対立が激しかったようで、その「身分闘争」の中から護民官職が設置され、成文法が公開されます。こうして貴族と平民との間の妥協が進んでいきますが、ローマにとって外敵も深刻な脅威で、ローマが近隣の都市の征服に成功しつつあった期間にも、ガリア人の侵入によってローマが蹂躙されたこともあり、破壊と再興の考古学的痕跡も残っているそうです。本書は、初期ローマの多様な伝承を紹介しつつも、そうした伝承に後世の人々の思惑や潤色がある可能性も指摘します。一方で本書は、そうした伝承が古代ローマ人の心の鏡であることも指摘します。
このようにローマは時に危機に陥りつつも勢力圏を拡大していき、紀元前3世紀前半にはイタリア半島をほぼ統一します。本書は強力な覇権主義国家である共和政期のローマを「共和政ファシズム」と呼んでいますが、ここでのファシズムとは、「強力な権力の下に結集する群衆」という程度の中立的な意味合いです。イタリア半島をほぼ統一し、さらに海を越えて拡大しようとしたローマの前に立ちはだかったのが、古くからの海洋民であるフェニキア人の中でも最大勢力だったカルタゴです。カルタゴとローマの接触は紀元前6世紀末以前にさかのぼる可能性があり、その後も紀元前4世紀半ばの両者の友好条約が伝わっていますが、条約締結の主導権はカルタゴ側にあったようです。そのローマとカルタゴの間でシチリア島をめぐって戦争(第一次ポエニ戦争)が始まったのは紀元前264年で、両者ともに疲弊し、カルタゴがローマに巨額の賠償金を支払い、シチリア島を放棄することで和平が成立します。
第一次ポエニ戦争で敗れたカルタゴは、名将のハミルカルがイベリア半島へ渡って勢力を拡大したものの、増水した川で部下を助けようとして溺死し、その後継者となったのが息子のハンニバルで、この時18歳でした。ローマとカルタゴはイベリア半島で条約によって境界を定めていたものの、いずれの責任かはともかくこの条約は敗れ、紀元前218年、ハンニバルが率いるカルタゴ軍は、イベリア半島でローマの勢力圏への侵攻を本格的に始めます(第二次ポエニ戦争)。ハンニバルに率いられたカルタゴ軍はアルプスを越えてイタリア半島に侵入し、ローマ軍は大敗続きとなります。そこでファビウス・マクシムスが独裁官に起用され、カルタゴ軍との直接対決を避けて、その消耗を図ります。しかし、ファビウス・マクシムスではない統領2人が率いるローマ軍は、紀元前216年、兵数で上回り、地の利があったにも関わらず、カンナエの戦いでハンニバルの巧みな用兵の前に大敗します。ローマは、スキピオ兄弟をイベリア半島に派遣し、イベリア半島のカルタゴ軍とハンニバル軍の合流を阻止しようとします。スキピオ兄弟は健闘したものの、ともに討ち死にします。イタリア半島では、カンナエの戦いで圧勝したカルタゴに与する都市も現れたものの、続出したわけではなく、敵地で補給に難のあるカルタゴ軍の勢いは鈍り、イベリア半島に派遣されたスキピオ兄弟の兄であるプブリウス・スキピオの息子である、大スキピオがアフリカ北岸へと渡り、カルタゴの周辺地域を攻略すると、ハンニバルはアフリカへと帰還し、紀元前202年、ザマの戦いでローマ軍はカルタゴ軍に勝ち、カルタゴは過酷な条件を受け入れてローマに降伏します。ハンニバルは敗戦後のカルタゴの復興に努めますが、反対派強い抵抗に遭い、分裂を避けるため亡命します。本書は、カルタゴがハンニバルを受け入れられず、裏切ったのに対して、ローマはハンニバルから深く学び、それは「父祖の遺風」に学ぶローマ人の生き方そのものだった、と評価しています。
ローマは 地中海東部への関心は当初さほど強くなかったようで、地中海東部諸国が反ローマの大勢力を築かなければそれでよかったわけですが、東方諸国が第二次ポエニ戦争に勝って地中海世界随一のローマを頼るようになると、東方で戦うことも増えていき、ローマの東方政策にとってとくに大きな転機となったのは、紀元前168年に終結した第三次マケドニア戦争で、地中海東部におけるローマの覇権が唱えられます。こうした状況で大カトーなどローマの保守派にとって問題となったのは、ローマにおけるギリシアを中心とした東方文化の浸透で、これはローマの強大化に伴う富の拡大の結果としての奢侈化もあり、大スキピオはそうした風潮の先駆けとも言える存在でした。大スキピオの政敵でもあった大カトーは、第二次ポエニ戦争における敗北後のカルタゴの急速な復興をローマにとっての脅威と考え、カルタゴを滅ぼすよう、訴え続けます。紀元前149年に始まった第三次ポエニ戦争の結果、紀元前146年、カルタゴは滅亡します。その少し後、ユーラシア東方世界では、前漢(西漢)が長く従属していた匈奴に対して優勢に立ち、ユーラシアの東西で巨大帝国が出現し、本書はこれを「帝国の古典時代」と呼んでいます。本書は最後に、地理的に近いローマとギリシアを比較し、祖国こそギリシア人も創り出せなかったローマ人の唯一の発明品ではないか、と指摘しています。
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2025/05/17 (Sat) 16:53:26
雑記帳 2025年05月17日
井上文則『異教のローマ ミトラス教とその時代』
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講談社選書メチエの一冊として、2025年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、ローマ帝国においてキリスト教にとって宗教での競合相手として「最大の敵」だった、とも言われるミトラス教(ミトラ教、ミスラス教)に焦点を当てたローマの宗教史です。ローマの宗教史は、キリスト教の「勝利」という結果が大前提としてあるので、専門家でも歪んだ歴史像を提示してしまう危険性があるように思いますが、私のように専門家ではない人間はなおのこと、的外れな歴史観を有してしまう可能性が高い、と言えそうです。ミトラ教は、ペルシア(アーリア系)の神と考えられていたミトラ(ミスラ、ミトラス、ミフル)を崇拝する宗教で、ミトラ神はローマ帝国では太陽神と同一視され、「不意の太陽神ミトラス」とも呼ばれました。ミトラ教は、キリスト教にとって「最大の敵」だったことと共に、紀元前千年紀から千年紀のメソポタミアやイラン高原において、レヴァント(地中海東岸)発の「聖書ストーリー」の影響力がきわめて強く、宗教(信仰)は基本的に西方から東方と流入した中で、ミトラ教のみが例外だった、との指摘もあるので(関連記事)、以前から関心を抱いていました。しかし、これまでミトラ教についてはローマ史の概説などで断片的に情報を得ていただけなので、本書を読むことで少しでも体系的に理解しようと考えました。
ローマ帝国期において東方(オリエント)起源の神々の信仰は「オリエント宗教」と呼ばれ、多くは密儀宗教の形態でした。つまり、特別の儀式を経て入信した者だけに秘密の教義が明かされるわけで、その起源は古代ギリシアにおけるエレウシスの秘儀とされています。ローマ帝国には東方世界から多くの信仰が流入し、多彩な宗教が存在しました。本書はこれらの宗教を三種類に区分し、それは、ギリシアおよびローマの伝統宗教とオリエント宗教と一神教(ユダヤ教とキリスト教)です。ミトラス教はローマ帝国において繁栄しましたが、考古学的遺物は豊富であるものの、文献はほとんど乗っていないそうです。そうした制約の中で、本書はミトラス教の全体像を復元し、キリスト教が「勝利」した理由とその意味を考察します。近代におけるミトラス教研究では当初、ミトラス教はマズダー教の一派で、小アジアに起源があり、紀元前1世紀にはローマ市に伝わっていたものの、本格的に浸透したのは紀元後1世紀後半以後と考えられていました。1970年代以降、ミトラス教は新たな段階に入り、ミトラス教とマズダー教との関係を否定し、ミトラス教はローマ世界で形成された星辰崇拝に他ならなかった、との見解が提示されます。
本書はミトラス教の前提として、古代オリエント世界の宗教の様相を検証します。古代オリエントの神々は、都市や「民族」との結びつきの強さが特徴です。メソポタミアでは神と都市との結びつきが強かったのに対して、都市国家が発達しなかったエジプトでは神は「民族」と結びついていた、と本書は指摘します。それだけに、エジプトの神々のエジプト外への勢力伸長は限定的だったようです。アケメネス(アカイメネス、ハカーマニシュ)朝ペルシアの神々は特定の都市と結びついていない点ではエジプトに近かったものの、エジプトの神々とは異なって人格化されておらず、自然崇拝に近かったようです。それだけに、むしろメソポタミアやエジプトの神々よりも普遍的性格が強かったものの、ペルシア帝国の領域外に広まることはほぼありませんでした。その例外がミトラ神で、東方では日本まで、西方ではローマ帝国まで広がりました。平安時代~室町時代の日記の具注暦の日曜日の欄に記された「蜜」は、中世ペルシア語のソグド語のミール(太陽神ミトラ)のことでした。ミトラ神の歴史はインド・イラン語派祖語話者の頃までさかのぼるようで、ミトラ神が初めて記録に見えのるは、メソポタミア北部のミタンニ王国においてです。インドのミトラ神は紀元前1200年頃に成立した『リグ・ヴェーダ』では、ミトラ神はヴァルナ神とともに最高位でしたが、両神ともに人気は低かったようで、ヴァルナ神は後に仏教に取り入れられ、水天とされました。ミトラ神はインド経由ではなくイランを媒介として、仏教に入ったようです。イランではミトラ神の信仰は紀元前1000年頃にもたらされ、ミスラと呼ばれました。イランのミスラは契約の神であり、太陽神そのものではありませんでしたが、生命の神でもありました。アケメネス朝では、ミスラ神は王権の守護者とされました。ヘレニズム時代にもミスラ神崇拝は続きますが、まだ紀元後のミトラス教のようなミトラスを主神とした密儀宗教ではなく、多くの神々の一人にすぎませんでした。ただ、後のミトラス教のような太陽神や戦神や王家の守護者としての特徴は明確に認められます。
ローマ市に最初に現れたオリエント宗教の神は、小アジアのキュベレおよびアッティスで、紀元前204年のことでした。続いてローマ市に入ってきたオリエント宗教の神はエジプトの女神イシスで、紀元前1世紀前半にはローマ市内に神殿があったようです。ただ、当時エジプトを支配していたのはプトレマイオス朝で、ローマと敵対することも多かったので、イシス信仰はローマ当局に何度も弾圧されました。本書は、ミトラス神の起源がオリエント世界にあるとしても、ミトラス教はローマ市で紀元後1世紀に誕生した可能性が高く、最初期の段階ですでにかなり完成されているので、時間をかけた形成ではなく、一人の教祖によって一気に創出されたのではないか、と推測します。ミトラス教の最初期の信者には、兵士や奴隷もしくは解放奴隷が多く、解放奴隷によってミトラス教が創出された可能性を本書は指摘します。兵士や奴隷や解放奴隷は移動することが多く、そうした最初期の信者によってミトラス教はローマ帝国において拡大していったようです。ただ、初期には信者数の増加は限定的だったようで、2世紀後半以降にローマ帝国全体としてミトラス教徒数の増加が確認できるようになります。五賢帝以後、太陽神を信仰するローマ皇帝がたびたび現れ、これはミトラス教に有利に作用した可能性があります。308年には、元皇帝のディオクレティアヌスと現役の皇帝であるガレリウスおよびリキニウスがパンノニア地方のカルヌントゥムでミトラス神殿を再建し、その碑文には「帝権の守護者」とありました。ただ、ローマ皇帝の守護神は公的にはユピテルとヘラクレスで、ミトラス教への敬意は局所的な意味しかなかっただろう、と本書は推測します。このようにミトラス教はローマ帝国に広がり、皇帝も認識していましたが、支配層である元老院議員や騎士や都市参事会員といった階層にはほとんど浸透しなかったようです。ミトラス教の信者の多く(約8割)を占めていたのでは兵士と奴隷もしくは解放奴隷でした。ローマ帝国内では、ミトラス教の浸透には地理的な偏りがあり、ほとんど広がらなかったのは、ガリアやイベリア半島やアフリカ北部やバルカン半島中南部やギリシアや小アジアやシリアやエジプトでした。その一因とし考えられるのは、ガリアやイベリア半島やバルカン半島中南部には軍があまり駐屯していなかったことですが、小アジア東部やシリアやエジプトにはそれなりの規模の軍が駐屯していたので、軍隊だけが原因ではないようです。ミトラス教の分布の東端はシリアのドゥラ・エウロポスで、ユーフラテス川以東に広がっていた形跡はありません。
ミトラス教の重要な特徴は、明確に女性の信者が確認されていないことです。そのため、教義上の理由から、ミトラス教では女性が積極的に排除されていた、と考えられています。ミトラス神には母親と配偶神がいないことも、その傍証となりそうです。ミトラス教の信者には7段階の位があり、下から順にカラス→花嫁→兵士→ライオン→ペルシア人→太陽の走者→父です。これらの位階は、惑星でもある7柱の神々にそれぞれ対応していました。ミトラス教には専属の神官がおらず、この点では有力な政治家が交代で神官職に就任したローマの伝統的な宗教に近かったようです。ミトラス教の神話自体は伝えられていませんが、浮彫や壁画に残されており、ミトラス神は岩から生まれ、太陽神と争って同盟し、牡牛殺しと祝宴を経て、最後に太陽神を同伴して昇天する、と語られていたようで、つまりミトラス神はすでに存在した世界に生まれてきたのであり、世界の創造者ではなかったわけです。ミトラス教では、ギリシア神話の世界観が前提とされていたようです。
ミトラス教のような密儀宗教の性格として、 個人の魂の救済が挙げられてきました。ローマの伝統的な宗教が個人ではなく共同体を対象としていたことと対照的だった、というわけです。ただ、密儀宗教の教義は門外不出なので、よく分からないところもあります。ミトラス教の場合、教義を記したまとまった書物は現存していませんが、教理問答書の一部と思われる文献が残っています。ミトラス教の教義の中核には死後の魂の問題が置かれていたようですが、それは少なからぬ宗教にも当てはまるでしょう。ミトラス教ではとくに奴隷や解放奴隷や兵士の割合が高かったのは、主人や元主人や上官に仕える日常の労苦と、正式に家族を持てない孤独な環境の奴隷や解放奴隷や兵士にとって、岩から生まれて親がおらず、妻子もいないミトラス神は共感できる存在だったからではないか、と本書は推測します。本書は再構築されたミトラス教の教義から、その教祖の出身地はコンマゲネで、その成立時期は1世紀後半だろう、と推測しています。
ミトラス教にとって結果的に転機となったのは、コンスタンティヌス帝が313年にキリスト教を公認したことです。コンスタンティヌス帝はキリスト教の聖職者にさまざまな特権を与え、教会には広大な土地と多額の財産を寄付し、キリスト教を積極的に支援するとともに、「異教」の神々への供犠を禁じました。これ以降、キリスト教の勢力が拡大し、ミトラス教など「異教」は衰退していきますが、「背教者」と呼ばれたユリアヌス帝や一部の元老院議員はキリスト教化の波に抵抗し、そうした人々にはミトラス教との関わりがありました。ユリアヌスは熱心な太陽神の崇拝者だったため、同じく太陽神を主神とするミトラス教に好意的で、じっさいに入信もしています。ユリアヌス帝の戦死後、「異教」はますます苦境に追い込まれ、ついに392年にはテオドシウス帝が全面的な異教禁令を出します。こうした動きに抵抗した元老院議員もおり、「異教徒」を皇帝に擁立する動きもありましたが失敗しました。こうしたキリスト教に抵抗した「異教徒」の元老院議員の間ではミトラス教が流行しており、中には、何世代にもわたるミトラス教の信者もいました。ただ、4世紀後半の時点ですでに、ユリアヌス帝や一部の元老院議員を除いて、ミトラス教の勢いは失われていたようです。ミトラス神殿の建設は4世紀になると低調になり、4世紀半ばにはほぼ停止していました。本書は、313年のキリスト教公認がミトラス教を衰退の原因になったのではないか、と推測します。機能中のミトラス教の神殿がキリスト教徒によって破壊されたと思われる事例もあるものの、大半のミトラス神殿は、キリスト教徒の直接的暴力ではなく、度重なる「異教」禁止令やキリスト教信仰の拡大によって信者を奪われたことで維持できなくなり、放棄されたのだろう、と本書は推測します。じっさい、破壊された痕跡のないミトラス神殿も多いようです。ミトラス教は他の「異教」よりも先に衰退し、5世紀まで存続した神殿は1ヶ所だけで、中世ヨーロッパでは完全に忘れ去られた存在だった、と本書は指摘します。
ミトラス教はローマ帝国において、共同体的な伝統的宗教を破壊し、個人的宗教を広めて、キリスト教化の地均しをした、とも言われています。しかし本書は、ローマ帝国においてオリエント宗教が広がっていた当初、ミトラス教の分布域がもっぱら西方だったのに対して、キリスト教は西方にはほとんど浸透しておらず、おもに東方に分布していたことから、そうした見解に否定的です。このようにミトラス教とキリスト教の分布域が大きくずれた要因としてまず挙げられているのが、ミトラス教はローマ市に起源があるものの、外観はペルシア風で、そもそもミトラス神の名称自体がペルシアの神名として認識されていたため、パルティアとの戦いの前線にいたローマ帝国東方の人々には抵抗感があったのではないか、との推測です。また本書は、ローマ帝国の東方世界は古代オリエントや古代ギリシア以来の伝統的な「異教」が定着しており、ミトラス教が入り込む余地は少なかったのではないか、とも指摘します。一方、ローマ帝国西方でミトラス教が受容されたのは、ペルシアとの前線から離れており、直接的な脅威を受けていなかったことや、ペルシアは東方の神秘的な英知の国と考えられていたことがあるのではないか、と推測されます。一方で、キリスト教の主要な分布域がローマ帝国の西方ではなく東方だったことについては、雑多で複雑な異教を一神教の教義で一刀両断できるキリスト教は、東方のような新旧の宗教の飽和状態でこそ「福音」として響き、宗教的には素朴だった西方ではミトラス教のような東方起源を装った神秘的宗教の方が魅力的だったのではないか、と指摘されています。キリスト教がローマ帝国において最終的に勝ち残ったことについては、コンスタンティヌス帝のキリスト教支持が大きく、それがなければ西方は長く「異教世界」のままだった、と推測されています。ミトラス教がキリスト教に代わる「世界宗教」になった可能性について、本書は否定的で、それは、キリスト教のような全人類への宣教をミトラス教は考えていなかっただろう、との推測に基づいています。ミトラス教は、キリスト教のように宣教師を各地に派遣して積極的な布教したわけではなく、その拡大は人間の自然な接触を介しており、男性にしか入信を認めていませんでした。本書は、ミトラス教に類似した存在として、キリスト教よりも近代のフリーメイソンを挙げています。
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2025/06/02 (Mon) 22:32:58
雑記帳 2025年05月31日
本村凌二『地中海世界の歴史6 「われらが海」の覇権 地中海世界帝国の成立』
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講談社選書メチエの一冊として、2025年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書の対象は、第三次ポエニ戦争の終結後から五賢帝の直前までで、著者が専門とする時代となります。まあ、だから執筆しやすいとも限らないかもしれませんが、これまでの5巻と同様に本書も興味深く読み進められました。日本でもおそらく他国でも、ローマ史で最も人気が高い時代は、本書で取り上げられる「内乱の一世紀」ではないか、とも思います。この時代の概説は日本でもかなり刊行されていますし、著者もこの時代の概説をすでに何度も執筆しています。それだけに、「地中海世界」の観点でこの人気のある時代がどう解釈されるのか、注目していました。
ローマがなぜ世界帝国を築いたのか、古代も現代も関心が寄せられており、著者も以前の概説などで取り上げている問題です。本書では、ローマの宗教生活が特異だった、と指摘されています。ローマの国家祭儀はひじょうに厳格な形式主義で、同時代のギリシア人には奇異にさえ見えたのかもしれません。ただ本書はそこに、現代社会でもまだ残っているものの、現代もしくは前近代のある時期以降には希薄になったかもしれない心性を指摘します。それは、ローマ人は確かに神々を畏敬していたものの、その厳粛な儀式が、神々の怒りに触れることを避け、不運から逃れるためだったことです。日本でも古代には、神々はいつどのような理由で「祟り」をもたらすのか分からない「不合理な」存在で、そうした神々が平安時代には次第に「合理的」になっていきます(関連記事)。本書は、一神教のユダヤ人との対比で、律法を信仰の礎としながら、選民としての生活を実践するユダヤ人に対して、ローマ人は「父祖の遺風(モース・マヨルーム)」を行動規範として、恒久的名誉のために生きる人々だった、と把握しています。ただ、ユダヤ教の律法とは異なり、「父祖の遺風」は口承物語で柔軟に解釈できたことも指摘されています。
第三次ポエニ戦争終結後のローマで大きな政治的動きは、グラックス兄弟の改革です。兄のティベリウス・グラックスは、元老院議員など有力者の大土地所有によって、「農耕市民の戦士共同体」であるべきローマの基盤が崩壊しつつある現状を見て、土地改革を決意します。しかし、これは大土地所有貴族の既得権を侵害するので、元老院を中心に強烈な反対があることは、容易に予想されました。それでも、ティベリウスは紀元前133年に護民官に選出され、土地改革に乗り出します。本書は、ティベリウスの土地改革案が大土地所有者にも配慮した「現実的」なものだった、と評価します。しかし、既得権益者の反発は激しく、それは、ティベリウスが元老院の前に平民会に土地改革案を提起したり、元老院に同調しそうな同僚の護民官を罷免したりといったこともあったからでした。紀元前133年、護民官の再任を企てたティベリウスは、元老院の反グラックス派に撲殺され、ティベリウス派も100人以上が殺害されたそうです。これがローマにおける「内乱の一世紀」の幕開けとなりました。グラックス兄弟の義兄である小スキピオは、ティベリウスの過激な改革を支持しなかったものの、明確に反対せず静観し、紀元前129年に休止しますが、これが何らかの陰謀なのか、今も不明です。ティベリウスの10歳下の弟であるガイウスは、騎士身分や各地の豪族と結びつき、紀元前123年、護民官に選出されます。ガイウスは兄よりも気性が激しかった、と言われており、そのためか、改革は兄以上に「過激」で、元老院支配の打破まで企図しました。しかし、ガイウスがイタリア全土の住民にもローマ市民権を付与する、と提案すると、グラックス兄弟を支持してきた民衆も大半が反対し、ガイウスは自殺に追い込まれました。
グラックス兄弟の改革は失敗し、もはや武具を自弁できる「農耕市民の戦士共同体」の再建が難しいと明らかになりつつあった中で、新たな動向が見られます。軍人として優れており貴族出身ではないマリウスは土地を失った無産市民に着目し、じゅうらいの徴兵ではなく、志願兵を募って兵力不足に対処しました。マリウスが軍功を重ねていく中で、その配下の兵にはローマではなくマリウスに仕えるような意識が強くなります。そのマリウスに対抗できる人物として台頭してきたのが貴族のスッラで、マリウスが人望を失っていき、残酷な反対派弾圧も行なった後に独裁官に就任し、定数増加で元老院を強化し、護民官の権限を削減しました。本書は、政治的に復古派と自称していたスッラを、制度から逸脱したきわめて革新的な人物だった、と評価します。
スッラの引退後、ローマでは優れた軍人であるポンペイウスが台頭し、ポンペイウスより年長で富豪のクラッススもローマ政界で強い影響力を有しており、二人は潜在的には対立関係にあった、とも言えるかもしれませんが、決定的には対立せず、互いを利用し合っている感がありました。ポンペイウスは退役兵の処遇で元老院というか閥族派(スッラ派)と対立し、苦境に陥っていたところで、元老院支配への帝国のためカエサルと共闘し、カエサルがクラッススを引き入れて第一回「三頭政治」が始まります。なお、カエサルはキケロも仲間に引き入れようとしたものの、キケロが応じなかったそうです。カエサルは世界史上の大英雄とされており、本書はカエサルの魅力を、借金など欠点になりかねないところや残酷な側面も含めて、じつに生き生きと描き出しています。この第一回「三頭政治」は、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死して終わり、ポンペイウスとカエサルとの間の関係は悪化していきます。閥族派はポンペイウスよりもカエサルの方を危険視し、決断を迫られたカエサルは軍隊を解散せず、イタリア半島を制圧します。その後も鮮やかに反対勢力を破っていったカエサルは、独裁者のごとく元老院には見られるようになり、紀元前44年、カエサルが終身の独裁官となったことで、共和政擁護の元老院貴族はカエサルへの反感をさらに募らせ、同年3月15日、カエサルを殺害します。本書は、カエサルが権力を独占した5年ほどの短期間に、政治と秩序の基礎を築き、天才と呼ぶに相応しい人物だった、と評価しています。
ブルトゥスなどカエサル殺害の中心人物は、共和政の「破壊者」であるカエサルを殺せば、支持が集まる、と考えていたようですが、ローマ市民はカエサルに深く同情し、反カエサル派を攻撃し始めます。カエサルが後継者として指名したのは、忠臣で功績のあるアントニウスではなく、自身の姪(姉の息子)の息子である若きオクタウィアヌス(アウグストゥス帝)でした。このオクタウィアヌスとアントニウスとカエサルの補佐役だったレピドゥスの協約によって、紀元前43年に第二回「三頭政治」が成立します。しかし、オクタウィアヌスとアントニウスの間で、エジプトや姻戚関係などをめぐって対立が激化し、ついにはオクタウィアヌスがアントニウスを攻め滅ぼし、ローマにおける最高権力者の地位を確立します。共和政末期から元首政の確立まで、2回の「三頭政治」の当事者やキケロやオクタウィアヌスの配下のアグリッパやエジプトのクレオパトラなど著名な人物が登場し、史料にも恵まれているため、歴史叙述は物語風になる傾向がありますが、本書はその背景となる構造も指摘します。共和政期のローマには元老院貴族による寡頭政支配の側面が多分にあり、とくに中期以降にはノビレス(貴顕貴族)の世襲支配が続きましたが、ノビレスはコンスル級の家系にのみ門戸が開かれていたわけではないそうです。本書はノビレスによる支配の社会的基盤として、審議よって蒸す化ける強者と弱者の自由な人間関係としての保護=庇護関係(クリエンテラ)を指摘します。これによって、少数の有力者を頂点とする勢力圏が形成されるわけです。「内乱の一世紀」と呼ばれる共和政末期において、傭兵制の採用による市民兵の私兵化がクリエンテラ関係に転化していき、クリエンテラはイタリア半島のみならず属州各地にまで拡大していきます。ただ、こうしたクリエンテラ論に対しては、広場における民衆の自由な行動を軽視している、との批判もあるそうです。
オクタウィアヌスはローマ「帝国」の「初代皇帝」と一般的には言われていますが、就任した公職は共和政期からのものですし、あくまでもローマ市民における「第一人者(プリンケプス、元首)」で、元老院議員名簿の最初に挙げられるだけでした。それ故に、オクタウィアヌスが確立した体制は「元首政」と呼ばれています。オクタウィアヌスはカエサルの「失敗」を教訓として慎重になっていたのか、共和政の復興を建前として、元老院を尊重し、紀元前27年には全権の返還を申し出ています。オクタウィアヌスが確立した「元首政」は、共和政の国制をほとんど変えず、独裁政を黙認させるものでした。「元首政」は実質的には、「帝政」と呼べます。地中海世界のみならずヨーロッパ内陸部にまで版図を広げたローマには多くの属州がありましたが、それは元老院の管轄と元首の直轄に分割されました。豊かで安全な地中海沿岸部の属州はおおむね元老院が管轄し、国境地帯はおおむね元首の直轄でした。オクタウィアヌスの治世には、ローマの改造も進みました。本書は、「元首政」の確立によって、保護者たる元首と庇護民である兵士および国民との間にクリエンテラ関係が刻まれていく、と指摘します。
オクタウィアヌスの死後、養子のティベリウスが即位し、ここからネロまでの皇帝(元首)はユリウス・クラウディウス朝と呼ばれています。ユリウス・クラウディウス朝の政治的陰謀は読んでいて陰鬱になりますが、「内乱の一世紀」の陰謀も大概だったのに、そこまで陰鬱な印象を受けませんでしたから、この印象の違いは何かと考えると、大規模な軍事衝突の有無でしょうか。「内乱の一世紀」は、ある意味で「堂々と」戦っていたので、「潔さ」も感じられるわけですが、これは私の特異な感想かもしれません。ともかく、問題のある人物が即位しているにも関わらず、大規模な内戦に至らなかったのは、それだけオクタウィアヌスの制度設計が優れていたことを反映しているのでしょうか。ネロのキリスト教迫害については、当時まだローマにおいてキリスト教は浸透しておらず、ネロがわざわざ迫害の対象に選んだ可能性は低い、と本書は推測します。
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2025/06/03 (Tue) 02:50:45
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