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継父に襲われかけた日、母に「産むんじゃなかった」と言われ家を出た…

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2023/07/29 (Sat) 11:38:23

2019年6月18日
継父に襲われかけた日、母に「産むんじゃなかった」と言われ家を出た…38歳女性に届いた「母危篤」の知らせ
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20190516-OYTET50000/?from=goo

 「母のお見舞いに行く決心が、どうしてもつかないんです」

 O代さんは、険しい表情でそう切り出した。

 彼女は38歳の女性。うつ病と不安障害の病名で心療内科の外来に通い、もう10年になる。

 最初は「児童虐待」の相談からだった。3歳になる娘の育児でイライラがつのり、カッとなって、ひっぱたいたり突き飛ばしたりしてしまう。「ごめんなさい! ごめんなさい!」と泣き叫ぶ娘に、ますます怒りがこみ上げてきて、暴力が止まらなくなる。はっとわれに返ると、娘があざだらけで倒れていて、あわてて「ごめんね!」と抱きしめる。そんなことが、よくあった。

継父に襲われかけた日、母に「産むんじゃなかった」と言われ家を出た…38歳女性に届いた「母危篤」の知らせ
イラスト:名執亜紀

出会った男は暴力、借金、女遊び…
 「私はダメな母親なんです。その上、男運もない。ホント、サイテーな人生ですよね」

 彼女は19歳で結婚したが、夫の暴力で離婚。その間は、内出血や骨折で病院通いの日々だった。22歳で 同棲どうせい した男は、借金まみれ。O代さんに夜のバイトをさせて遊び回っていた。

 それに比べ、24歳で知り合った彼はとても優しかったが、その分、遊びは派手だった。彼との間に娘が生まれ、「これで結婚してくれるだろう」と期待したのに、「勝手に妊娠した」と責め、彼女のもとを去った。

 初めて心療内科を受診した頃は、育児ノイローゼがひどく、抑うつ感や、強い不安、やけ食い、自責の念……。精神的にボロボロだった。うつ病と不安障害、睡眠障害の治療を続けながら、カウンセリングを受けてもらい、彼女の生い立ちを聞いた。

母の留守中に継父が
 O代さんが語ったのは、母親への強い憎しみだった。

 「母は本当にひどい人でした」と彼女は語った。両親はいわゆる「できちゃった婚」。母親は、彼女を愛することができなかったようだ。

 「母からは叱られた記憶しかありません。『うるさい』『すぐ泣く』『ネクラ』『ブス』『性格が悪い』……って、毎日難癖をつけては、私を叱るんです」

 結局、両親は離婚し、その後は母の男遍歴が続いた。正式に再婚したのは、彼女が16歳のときだった。

 「私に色目を使うような男。体に触ってきたり、お風呂をのぞいたりして、とてもイヤでした」

 母親の留守中に、継父は、彼女の部屋に入ってきた。押し倒し、強い力で強引に関係を迫った。

 「驚いて声も出なかった。恐怖でパニックでした。たまたま手に当たった鉛筆削りで顔を殴って逃げました」

 母親の帰りを待って、家に戻った。事情を話し、「何とかしてくれ」と懇願した。

 「でも、母は全くわかってくれませんでした。『うちの人に色目を使ってすり寄るなんて、メス豚もいいとこだね。冗談じゃないよ!』。そして言ったんです。『あんたなんか、産むんじゃなかった!』って」

 それは小さい頃から、O代さんがよく言われた言葉だった。しかし、このときはひどくこたえた。

 「ああ、私はこの人の人生を不幸にしてきたんだ……一緒に暮らすのはもうムリだって思いました」

 彼女はそのまま家を出て、遠くにいる叔母の家に転がり込んだ。

 「叔母の家で過ごした数年間が一番楽しかった。私の人生、その前も後も、悲惨ですよね」

 と、O代さんはつぶやいた。


末期がんの母 「何で今さら…」
 母親ががんの末期で危篤だという知らせが入った。継父とは離婚し、ずっと一人暮らし。お金もなかったという。医者にかかったときは、もう手遅れだった。

 「せめて一度だけでもお見舞いに行ってあげて」

 と、叔母からは何度も連絡が入った。でも、O代さんは、どうしても母を許せなかった。

 「私の人生をこんなにしたのは母親なんです。あの時だって、本当につらくて、母親から『つらかったね。よくがんばったね』と言ってほしかった。でも、返ってきたのは『産むんじゃなかった!』。何で今さら、そんな人に会わなきゃならないんでしょう……」

 私もそれを聞いて、返す言葉がなかった。

 「後で悔いのないよう、よく考えてみましょう」

 と、言うのが精いっぱいだった。

枕元のモニターがピーッと鳴って
 次の診察の時、O代さんから報告があった。

 「結局、叔母の説得に折れて、病院まで行きました。でも、怒りがこみ上げてきて、どうしても会えなかった。叔母さんがやってきて、『先ほどから、意識がないの』と言われ、ようやく病室に入ったんです。でも、死んだようになっている母を見たら、何も言えなかった」

 枕元のモニターが、ピーッと嫌な音で鳴った。「心停止です」と声がして、家族はいったん外に出された。彼女は待合室に戻って、しばらく 呆然ぼうぜん としていた。

 「イヤなことばかり思い出すんです。意味もなく母に叱られ続けたこと、私を責める言葉の数々……。でも、その中で、ふっと思い出したことがあるんです。小学校の頃、朝起きたら台所から物音が聞こえる。のぞいてみると、母親が鼻歌を歌いながら、私のお弁当を作っていた。何だかとても楽しそうで、声をかけそびれてしまった。もしかしたら、私のことを嫌うばかりじゃなかったのかなって」

 それを母親に尋ねることはもうできない。いや、母を責めることすら、もうできないのだ。いつの間にか、涙が浮かんでいた。

心臓がまた動き出したとき、ようやく母に
 「心臓がまた動き出したって!」と叔母が言ってきた。O代さんは、あわてて病室に戻った。「一時的だと思いますが……」と看護師が説明してくれた。叔母さんが電話をかけに病室を出たとき、O代さんは、ようやく母親に近づくことができた。母親の顔は、さっきより穏やかに見えた。

 彼女は顔を近づけて、何とか声をふりしぼった。「お母さん、聞こえる? O代だよ。わかる? ありがとう、…産んでくれて、育ててくれて、ありがとう…」。それ以上は声にならなかった。母親の心臓が止まったのは、その直後だった。

 「何でしょうね。心臓が一度動き出したとき、『もう一度会いたい』って母が言ったような気がしたんです。あんなにも憎んでいた母親なのに、何も言えないまま別れるのは嫌だと思いました」

 「そうですか。お母さんを許すのは、きっと難しいでしょうね。でも、ずっとお母さんを憎み続けることも、また苦しかった。お母さんと一度は、きちんと向き合ってみたかったんじゃないでしょうか?」

 「あんな母親でも、がんばって私を育ててくれた。私みたいな気難しい娘を育てるのがどんなに大変なことか、私も娘を育てて、つくづくわかるようになりました。だから、最期に『ありがとう』って言えた。母に聞こえたかどうかはわからないけど、確かに伝えられたと思いました。それが、これからも私を支えてくれるのかもしれません。母に似て不器用な私だけど、娘に少しはやさしい言葉をかけてやれるような気がしました」

 O代さんは、穏やかな表情でそう話してくれた。(梅谷薫 心療内科医)

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