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川端康成「雪国」の世界

1:777 :

2022/06/08 (Wed) 22:09:25

 
川端康成「雪国」の世界


川端康成「雪国」のロケ地巡りをしてきた - YouTube
2023/04/15
https://www.youtube.com/watch?v=KO3Ygxch_7Q

名作『雪国』が生まれた宿 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Y2ZYRKf01U0

Movies Yukiguni (2022) | ロマンス Yukiguni (2022) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dfoBrOlfRGc


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映画「雪国」1957 動画
https://ok.ru/video/2378136750702

豊田四郎/監督 川端康成/原作
出演: 池部良, 岸恵子, 八千草薫, 森繁久彌


一夜一話 - 映画「雪国」 1957年 監督:豊田四郎 出演:岸惠子、池部良

  原作が川端康成の「雪国」だからといって、文学作品拝読の構えで観ると損をする。

  芸者・駒子を演ずる岸惠子が、思いの外に色っぽいと読み解けたら、この映画、一段と面白くなる。セックスシーンこそ無いが、島村(池部良)を前にした駒子は可愛く濡れている。

  画家の端くれと言う島村は、この雪国にスケッチのため、一人東京からやって来た。そして宿で芸者の駒子と出会う。出会ってすぐに互いの心はひとつとなった。そんなふたりの気配が部屋に満ちる様子を、酒を持ってきた宿の女中役・浪花千栄子が的確に演じてみせる。

  翌日の夜、宿の大広間の宴会は地元の芸者衆で盛り上がっていた。助っ人の駒子は酔っぱらっている。酔わないと島村の部屋に行く勇気が出ない。そんな一方的な熱い心を抱えて駒子は宴会を抜け出し島村の寝ている部屋へ入った。そこでのふたりのやり取りは、この映画で一二の見せ場だ。大胆な一方でその気持ちを自身の心の内に引きもどす駒子と、小悪魔的魅惑に翻弄されていく受け身な島村。そしてふたりは夜明けを迎えた。


そんな回想シーンを懐かしく思い返すふたりは、年の瀬迫る炬燵に入っている。そのうち島村が、「風呂に入ってくる」と、ひとり廊下を伝い脱衣所で帯を解こうとするその時、後ろから突然に駒子が、「あたしも入る」と言うやいなや帯を解き始める。驚く島村。風呂に入ってからの駒子も艶めかしい。

  初めて島村がここを訪れた時に、山で取って来たアケビを部屋の花瓶に生けるが、初対面の駒子がこのアケビの実を少し食べる。このアケビの実の隠喩・・・。またそのあと、紅が付いた盃を美しいと言い、それを厭わず口紅が付いたままの盃で駒子の酌を受ける島村、その態度にドギマギする駒子。ことほどさようにこの映画には、そんな色っぽいシーンがある。

ところが、「あんたなんか、東京へ帰っちゃいなさい」と駒子はたびたび島村に言う。年に一度の逢瀬。ふたりの愛は結ばれない。島村は東京に妻がいる。駒子の事はばれている。

  だが、「雪国」は島村と駒子の愛を描くだけではない。

  駒子と年下の葉子(八千草薫)は、それぞれ貧しい農家の子であったが、共に三味のお師匠の養女として育てられた。

  その後、駒子は芸者見習いから芸者となり、年配の旦那を持つ身となった。それは年老いてしまった養母と病を患うその息子の行男を養うため。養母と行男が住む家も、旦那の世話によるものだった。背負うものが多い駒子であった。

  幼なじみの行男は駒子のことが好きだったが、駒子はそうでもなく、むしろ密かにだが葉子の方が彼を愛していた。だから葉子は駒子を憎んでいた。島村を駒子から奪ってしまいたい、そんな邪念を葉子は抱くようになって行った。

  駒子の妊娠と旦那からの離縁、芸者としての独り立ち、行男の容体悪化、火事と葉子の火傷、そして島村と駒子の別れ。島村は最後まで駒子に対する態度が煮え切らない。

  岸惠子のぶりっ子なまでの艶めかしさ、池部良演ずる逡巡するつれない男、絶たない逃げ道。

  脇役では、宿の女中役の浪花千栄子がダントツに光る。田舎芸者を演ずる市原悦子と島村のシーンは喜劇だ。また、盲目の按摩マッサージ指圧師を演ずる千石規子が、なにやら異彩を放つのに魅かれる。最後に、音楽担当の芥川也寸志が、欧米映画音楽の弦楽をよく勉強しているのが聴ける。
  

監督:豊田四郎|1957年|133分|

原作:川端康成|脚色:八住利雄|撮影:安本淳|音楽:芥川也寸志|

出演:

島村(池部良)
駒子(岸惠子)
葉子(八千草薫)

葉子の弟・佐一郎(久保明)|師匠(三好栄子)|その息子・行男(中村彰)|宿の女中おたつ(浪花千栄子)|同じく・おりん(春江ふかみ)|同じく・おとり(水の也清美)|宿の主人(加東大介)|宿のお内儀(東郷晴子)|県会議員・伊村(森繁久彌)|駒子の母(浦辺粂子)|番頭(東野英治郎)|万吉(多々良純)|女給・花枝(中田康子)|芸者・菊勇(万代峯子)|同じく・勘平(市原悦子)|駅長(若宮忠三郎)|女按摩(千石規子)|宿の女中きみ子(加藤純子)|小千谷の番頭(桜井巨郎)|
http://odakyuensen.blog.fc2.com/blog-entry-1257.html


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Amazon 雪国 [DVD] 池部良 (出演), 岸恵子 (出演), 豊田四郎 (監督)
https://www.amazon.co.jp/%E9%9B%AA%E5%9B%BD-DVD-%E6%B1%A0%E9%83%A8%E8%89%AF/dp/B000ANW0WI

カスタマーレビュー

思わず、これが同じ日本なのか?!と目を見張った逸品 投稿者 へいたらう 投稿日 2007/11/5

この作品は、言うまでもなく、ノーベル賞作家・川端康成の名作を映画化したものだが、大家が描く男女の心の機微よりも、むしろ、私には昭和初期の習俗を余すことなく映し出したことの方が印象深かった。

即ち、「同じ日本なのか?!」とさえ思わせられるほどに衝撃的であると同時に、新鮮でもあったのである。

見上げるほどに降り積もった雪。

その雪の中に、多くの人たちが暮らし、多くの子供たちが、見たこともない祭りに興じている。

その一方で、男がふらりと田舎町の宿屋に宿泊すれば、いきなり、「芸者を呼んでくれ」と言って普通に女を抱けるという現実と、自分の想いとは別に、生きていくためには心を切り離さねばならないヒロインの現実・・・。

作品自体は、後半、少々、間延びしたような観がなきにしもあらずだったが、それらの悲哀を余すことなく描きったという点では十分に堪能できたように思う。

配役陣という点では、何と言っても大女優・岸恵子の、「可愛い」駒子役が圧巻であったろう。

役柄、酔っぱらう姿が多かったが、本当に酔っぱらっているようにしか見えなかったし、自分の感情と、どうにもならない現実との間で身を焦がす姿も他の女優とはひと味もふた味も違うものがあったように思う。

島村役は池部良でも佐田啓二でも大差なかったかもしれないが、岸恵子の駒子役だけは、圧巻であったように思える所以である。

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駒子役の岸恵子の演技力が光る最高の名作
投稿者 島村 良 投稿日 2008/1/18

この作品は日本映画史上屈指の名作であると思う。
出演者は言うまでもなく、監督、脚本、映像、音楽等全てがすばらしい。

その中でも特筆すべきは、やはり駒子役の岸恵子の存在感であろう。

駒子は実はなかなかに演じるのが難しいキャラクターの持ち主。
芸者に出るような身でありながら純粋さを失わない可愛い女だが、感情の起伏の激しさ、情の深さ、時に見せる弱さ、嫉妬心、そういうものを複雑に併せ持つ女性である。

岸恵子はその駒子が到底成就するはずもない恋に身をやつす様を、これ以上ないと思えるほどの卓越した演技力で見せてくれているのだ。

小説を映画化し、多くの人の賛意を得るのはとても難しいことだと思う。
前もって本を読んでいた人々には、それぞれにその作品に対する強いイメージが心に焼き付いているものだ。だから他人の手によって映画化されたものには、たいていの場合失望感を持つケースがほとんどであるだろう。しかしながらこの作品はそういった違和感なりを遠くへふっとばしてしまうほどの圧倒的な臨場感をもって我々の心に迫ってくる。


島村役の池部良、葉子役の八千草薫他脇役陣もそれぞれにその役柄に応じた最高の演技である。又、白黒の映像が雪という幽玄な世界をより魅力的なものにさせている。なかでも鳥追い祭りの雪と火が織り成すシーンは、来るはずであった島村に裏切られた駒子の哀しくしかし美しい表情ともあいまって芸術作品を見るかのごとくである。さらに全編を流れる團伊玖磨の音楽はあたかもハリウッド映画のそれを思わすすばらしい効果をあげている。

しかしながら何といっても最高なのは「岸恵子の駒子」である。もとより大女優だけに数多くの作品に出演してはいるが、これがおそらくベストパフォーマンスだと個人的には確信している。彼女を超える駒子役はおそらくもう出ないことだろう。50年ほど前の映画だが、その演技にまったく古くささは感じない。現代を生きる若い方々にも是非見てもらいたいと思う。

きっとその魅力が時代を超えて伝わってくることだろう。


ただひとつ残念に思ったのは、切なく美しいラストシーンの直前の場面、火事で顔に醜い火傷を負った葉子の顔のアップ(一瞬ではあるが・・)を見せる必要があったのかどうか。

せめて包帯を巻くとか何とかできなかったものか、この映画をTVで始めて見た高校3年のときにはその悲惨さがショックでなかなか寝つかれなかったことを思いだす。

それがあるために、ラストのやや重苦しい感動が、必要以上にその度合いを増してしまったように思うのは私だけであろうか。


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名作『雪国』が生まれた宿 - YouTube動画
2015/06/23
https://www.youtube.com/watch?v=Y2ZYRKf01U0

説明 名作『雪国』が生まれた越後湯沢の宿「高半」、昭和9年~12の間に5度にわたり川端康成氏がここに滞在した。小説の中に出てくる「駒子」は当時「松栄」の名で芸妓をしていた彼女がモデルだ。

結婚後の本名小高キクさん、大正4(1915)11月23日三条市生まれ。1999年1月末没だった。昭年(1934)新緑の頃5月、19歳の時初めて川端康成当時35歳と出合っている。

後に、本が出版された時、小説の中の「駒子」って、これあなたのことではないのと、周りから指摘されて初めて知る。「相当癇に障ったという」。先生からの詫び状と生原稿と色紙を「松栄」さんに送ったのだが、25歳で芸者を辞め湯沢を去る時、日記と供に焼き捨てたという。

「小説とはいえ、あれは殆ど実際の話なんです」と夫久雄氏に語られていたという。若かった「松栄」さんは早く先生に会いたいばかりに、雪の深い崖をよじ登って部屋へ行ったそうです。寝てるうちから火をおこしたり、いろいろ世話をしてね・・・。純粋で大変な情熱家なんですよ。家内の持っていた『雪国』には、気に入らない箇所に、”こんちくしょ”なんて書き込みがあった。感情を直接ぶっつけていたんですね。

高半ホテル文学資料室にて「週刊新潮記事より」


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小説「雪国」の世界/雪国の宿 高半(湯沢町)
http://www.youtube.com/watch?v=RDqGweTZEzM

川端康成先生が愛した温泉/雪国の宿 高半(湯沢町)
http://www.youtube.com/watch?v=4fStMeIhWEc

越後湯沢ニュース「高半」冬景色.MOV
http://www.youtube.com/watch?v=7DPNnHrd_L4

DMC-ZX1 HD 越後湯沢湯元 高半からの眺望
http://www.youtube.com/watch?v=hPzy4rSpSmU

DMC-ZX1 HD 越後湯沢湯元 高半からの日没後眺望
http://www.youtube.com/watch?v=K183QhWfg_Q

2013年1月7日 越後湯沢「冬風景」
http://www.youtube.com/watch?v=Bb8I_VvFjNU

越後湯沢ニュース「雪景色」
http://www.youtube.com/watch?v=0WKXvoyo9k0


松栄。駒子のモデルとなった女性

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6448_640.jpg?c=a1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)


昭和初期の高半旅館。
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281812.html


川端康成が滞在し執筆をつづけた『かすみの間』

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6414_640.jpg?c=a0
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281645.html
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281647.html
http://ameblo.jp/naruru8854/image-11506027175-12490281646.html


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川端康成の「雪国」を歩く 2013年02月03日
https://blog.goo.ne.jp/aoisorae/e/cc141c337bdcff2e940365d4bc012ffb


あらためて川端康成著「雪国」とは。

「親譲りの財産で、きままな生活を送る島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。許婚者の療養費を作るため芸者になったという。駒子の一途な生き方に惹かれながらも、島村はゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない----。冷たいほどにすんだ島村の心の鏡に映される駒子の烈しい情熱を、哀しくも美しく描く。ノーベル賞作家の美質が、完全な開花を見せた不朽の名作。」
(文庫カバーの内容紹介より)

という概略で、当面十分だろう。

駐車場を11時ごろに出て、温泉通りを長靴をはいて傘をさして、歩き始めた。


▲ 左側には、温泉通りに平行して新幹線が走る。無粋な風景になるが、しょうがない。

まもなく、昨日の布場(ぬのば)スキーゲレンデ近くへ来た。


▲ 「ゆきぐに」とか「島村」とかの民宿名が出てくる。
徐々に「雪国」の世界へ入っていく(笑)。

もちろん、こんな名物も。


まずは、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」へ行って、情報を集めてこよう。

▲ 階段を上がって入館すると、そこは2階。

 2F

▲ 湯沢の懐かしの、囲炉裏端(いろりばた)等を紹介するコーナーも、もちろんある。
けど、私の関心はあくまで小説。3階の書籍・閲覧コーナーへ。

 3F

▲ ここでは、「雪国」に関連する書籍類、パネル展示があった。

興味深かった写真2点、ご紹介しよう。



▲ 山袴(さんばく)をはいたスキー姿の松栄(まつえ)さん(左側)。松栄は駒子のモデルになった女性だ。山袴は、小説に何度も記述があるが、要はモンペのことだと思う。

「(島村が駒子に尋ねる)やっぱりスキイ服を着て(滑るの)。」
「山袴。ああいやだ、いやだ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もう直ぐなるのね。今年は辷(すべ)るの止そうかしら。・・」

いかにも湯沢らしい、客の口説き方だ(笑)。


▲ 高半旅館から、湯沢の町並みを眺めた当時の興味深い写真。
左手に諏訪社の杉木立。中央は湯沢の町並み。右手は布場スキー場。
地形はもちろん、今も変わっていないが、現在は杉木立の手前から向こうまで新幹線が走っている。
当時の湯沢は、まさに田舎だったことがよく分かる。

雪国館の1Fにも、「雪国」資料が満載だった。

1F入り口


▲ 「雪国」は過去、何度か映画化されている。入り口の壁には1957年の池辺良(島村)、岸恵子(駒子)主演の映画ポスター。映画を回顧して池辺良が語った記事がクリップしてあった。

島村が最初芸者を呼んだが、肌の浅黒い骨ばったいかにも山里の芸者が来て、帰すのに苦労する場面があるが、その山里芸者を演じたのが市原悦子とか。いかにも、適役っぽく私は笑ってしまった。

また、川端先生はスタッフとの打ち合わせのあいだじゅう、岸恵子の手をさすっていたとか。言行一致の川端だ。


▲ 「国境の長いトンネル」とは、昭和6年全通の単線清水トンネル。


さらに、ここには駒子のモデル松栄が住んだ置屋「豊田屋」での部屋を移築し、再現したものがあった。


▲ 小説の駒子の部屋は、繭倉を改造した屋根裏、低い明り窓が南に一つあるきり、となっているのでモデルの実部屋とは少し違うようだ。

窓の外の写真を拡大すると、


となる。先ほどの、高半旅館から眺めた湯沢町並み写真と同じだ。位置的にもおかしな風景になるが、拡大されて、湯沢風景がよりよくわかる。

▲ 布場ゲレンデの側にあるスキー神社。紋がスキー板だ。 右の向こうに、高半旅館が見える。

高半旅館への、つづら折りの登り口を「湯坂」と呼ぶ。この湯坂の中途右手に、「山の湯」がありもう少し上がると、昔は高半旅館の入り口になったという。

 「湯坂」

湯坂を上がりきったところが、小説に「裏山」とよばれる山がある。


▲ なんでもない山だが、裏山。

「島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。・・ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。」

飛び立つ二羽の黄蝶とは、島村と駒子の出会いと別れを暗示する。印象的な場面だ。


当時の高半旅館と裏山の写真はこれだ。


▲ 赤印が高半旅館。右端の杉林が、諏訪社。

さらに、当時の高半旅館がこれ。


▲ 丸印が、川端が逗留し松栄が通った部屋。これが島村と駒子の物語に代わっていった。

この旅館は建て替えられて、現在の高半ホテル↓になる。

 高半ホテル玄関

では、高半ホテルに今も保存されている二人の部屋、「かすみの間」(小説では「椿の間」)へ行ってみよう。


▲ 川端の、このかすみの間で交わされる駒子と島村の情感の描写は、精緻だ。
窓からの折々の景色の美しい表現のみならず、島村の五感を通して駒子の、愛、なげき、怒りの心理が細やかに表現されていく。


「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」

「『つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ。』と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。つらいとは、旅の人に深はまりしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。」

「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊(こだま)に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。」

しかし、その島村の生き方の限界が駒子に理解され、駒子を絶望に陥(おとしい)れるのであるが。

▲ 細かい部屋の見取り図が残されている。
朝、旅館の女中と顔を合わせるのを避けて駒子が隠れた押入れ、の説明もある。

他の展示物とともに、駒子=松栄の写真も展示されていた。

▲ 右端が松栄さん。

松栄さんは、無断で川端が自分をモデルにした小説を書いたことにやはり当惑した。川端は雪国初稿の生原稿を松栄さんに届けて謝ったことが伝えられている。その後松栄さんは、芸者を辞めて湯沢を離れる時、その生原稿や自分がつけていた日記を全部焼いて、新潟の結婚相手のところへ向かったことが伝えられている。

さて、高半旅館はこれくらいにして、さらに小説の舞台となった周囲を散策しよう。

旅館を辞して、下に下ったところに、置屋の豊田屋跡がある。

▲ 今は木造集合住宅になっている。ここに松栄が住んでいた芸者置屋(といっても彼女一人だったが)豊田屋跡。その部屋の復元が、朝の雪国館1Fにあったもの。

この豊田屋跡の少し上が、もうひとつのスポット、「社」(やしろ)という表現で出てくる、村の鎮守、諏訪社だ。


▲ 雪に埋まっている諏訪社。ここで、島村と駒子はしみじみと会話をする場面が続く。

「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。神社であった。苔のついた狛犬の傍の平らな岩に女は腰をおろした。『ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。』・・」

今は、狛犬も腰を下ろした岩も、残念ながら雪の下だ。

松栄さんが、生原稿と日記を焼いたのも、この社だった。
https://blog.goo.ne.jp/aoisorae/e/cc141c337bdcff2e940365d4bc012ffb


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▷川端康成の「雪国」異なる展開も構想か 残されていた創作メモ 2022年4月1日
https://www.youtube.com/watch?v=xn25cuYmlAU

ノーベル文学賞作家、川端康成の代表作とされる「雪国」の結末を検討したとみられる創作メモが残されていたことが、日本近代文学館への取材で新たに分かりました。発表された作品とは異なる展開をうかがわせる記述もあり、名作誕生の過程を示す第一級の資料として注目されます。

創作メモは、日本近代文学館が2日から開く展覧会のために行った調査で確認されました。

縦横20センチほどの用紙には「玉蜀黍色」など「雪国」に使われた語句が羅列され、実際に使ったアイデアは線を引いて消すという、川端の創作過程で見られる特徴がありました。

「雪国」は親譲りの財産で暮らす主人公の「島村」が、温泉街のある雪深い町を訪れ、2人の女性との関わりを深めていく様子を、繊細で美しい情景描写と共に描いた作品です。

最後は火事の明かりの中で、主人公が流れ落ちてくるような「天の河」を見上げる場面で終わりますが、今回のメモには「狂つた葉子、駒子のために島村を殺さんとす」と記された部分があり、川端が主人公を巻き込んだ修羅場を構想していたこともうかがえます。

日本近代文学館の中島国彦理事長は「今まで知られていなかったもので驚いた。『雪国』は冒頭を削るなど、川端が絶えず未完として理想を追い求めた作品だった。今回のメモによって『雪国』自体が本当に完結していたのかなど、さまざまな可能性についての議論が出てくるだろう」と話しています。


雪国とは

川端康成の代表作、「雪国」は「国境の長いトンネルを抜けると 雪国であった。夜の底が白くなった。」という有名な書き出しで知られます。

親譲りの財産で暮らす妻のいる文筆家=「島村」が、列車に乗って温泉街のある雪深い町を訪れ、19歳の「駒子」という女性と知り合います。

どこか現実感のないまま物語は展開していきますが、文章の中の随所に川端独自の美しく繊細な表現が盛り込まれています。
繰り返された推こう
ところで、「雪国」は、最初から1本の小説だったわけではありません。

雑誌に発表していた短編をまとめ、1937年に、単行本として刊行されました。

日本近代文学館によりますと、川端は、その後も長きにわたって「雪国」の加筆や修正を続けたといいます。

日本近代文学館の中島国彦理事長は「そのつど、そのつど、作者の頭の中に理想の『雪国』というものを考え続けていたということではないでしょうか」と話しています。


“旅”が創作の原動力に

川端は実際に訪れた土地や自身の経験をもとにした作品を数多く残し「雪国」の舞台も新潟県湯沢町にある越後湯沢温泉だと明かしています。

中島理事長は「川端は実際に訪れた旅先を作品の舞台にすることが多い。その場で考えたことや感じたことをことばとして紡いでいくというのが1つの特色だ。地域との関係を大事にしていたのだと思う」と分析しました。


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トンネルの向こう側で待っている女性とは…


川端康成「雪国」

もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、

結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、
はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろこなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、

ふとその指で窓ガラスに線を引くと、底に女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。

http://goxdrl5zz3.doorblog.jp/archives/1608409.html


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              ノ:ノ::ノ;/;;;;;i;;i   あ…ん? ああ…あああ…いや? いや? ダメぇ!
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雪国は作者が36歳の時から書き始められたものです。あらすじは、


主人公の島村が芸者・駒子を求めて北国の温泉宿にやってきます。

同じ電車に、美しい眼を持った葉子という女性が乗っていることを知りますが、この葉子は駒子の踊りの師匠の娘でした。

島村と駒子の関係が美しい文章でつづられます。やがて島村は葉子にも魅力を感じるようになります。物語の最後、繭倉(まゆくら)という建物が火事になり、火事の中に葉子がいることに気づいた駒子が葉子を助けに火の中に飛び込みます。

 この作品は冒頭から「宝石」に彩られています。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向かい側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。…

『駅長さあん、駅長さあん。』」

 あまりにも有名な書き出しです。トンネルを抜けると、積もった雪によって夜の底が白くなります。静かな信号所に、「駅長さあん」という葉子の美しい声が響き渡るのです。

 島村は電車の中のことを思い出します。


「もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差し指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、…この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、…ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。」(8頁)


 駒子の体を指が覚えていて、その指で窓ガラスに線を引くと、そこに向かい側の座席に座っていた葉子の美しい目が写ったのです。

「殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が震えたほどだった。…娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫であった。」(10-11頁)

 何と美しい表現でしょう。葉子の眼が「夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫」だというのです。葉子の「顔のただなかに野山のともし火がともった時」との表現には、物語終わりの火事の場面が暗示されています。

 島村は村の温泉宿に投宿します。午後、駒子が遊びに来て、二人で外に出ます。

「…島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。…足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遙(はる)かだった。」(28頁)

 駒子と山を登る。すると足もとから二羽の黄蝶が飛び立つ。蝶たちはまるで島村と駒子のようにもつれ合いながら、国境の山より高く青い空へと白く消えていくのです。作者の美的感覚には尋常ならざるものがあります。

 別の日には、島村が村を散歩していると芸者が5〜6人立ち話をしており、その中には駒子がいました。島村を見ると「咽(のど)まで染めて」しまいます。駒子は走って島村に追いつくと、彼女が住んでいる踊りの師匠の家に案内します。

「右手は雪をかぶった畑で、左には柿の木が隣家の壁沿いに立ち並んでいた。家の前は花畑らしく、その真中の小さい蓮池(はすいけ)の氷は縁(ふち)に持ち上げてあって、緋鯉(ひごい)が泳いでいた。柿の木の幹のように家も朽ち古びていた。」(51頁)

 駒子の部屋ははしごを登った二階の屋根裏部屋で、昔はここで蚕(かいこ)を飼っていたといいます。

「壁にも丹念に半紙が貼ってあるので、古い紙箱に入った心地だが、…この部屋が宙に吊(つ)るさっているような気がしてきて、なにか不安定であった。…蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた」(52頁)

 傾いたような部屋はまるで繭のように吊られているようで、そこに駒子が透明な体で住んでいるような気がするのです。
 駒子は島村が泊まっている宿にも出ていますが、ある日駒子の走り書きを葉子が持ってきました。

「『どうもありがとう。手伝いに来てるの?』

『ええ。』と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。…

気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反(かえ)って、駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。」(131-133頁)

 島村は駒子に加えて葉子にも魅力を感ずるのです。

 島村はそろそろこの温泉場から離れるはずみをつけるつもりで汽車に乗って、近くの街をうろついてみます。白い山を見て、島村はこんなことを思います。

「…一人旅の温泉で駒子と会いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだけで、その遠鳴(とおなり)が耳の底を通るようだった。」(156頁)

 この山の遠鳴りは作者に実際に聞こえたようです。50歳の時に書いた「山の音」でそれが描写されています。

「…ふと信吾に山の音が聞こえた。…地鳴りとでもいうか深い底力があった。…音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒けがした」(新潮文庫、2007年、10頁)

 タクシーで帰ってくると、小料理屋の前で芸者が3、4人立ち話をしており、その中に駒子がいます。二人で歩き始めると、「火事だ」との声が聞こえ、二人は駆けはじめます。駒子は踏切の手前で急に立ち止まると、

「『天の河。きれいねえ。』

駒子はつぶやくと、その空を見上げたまま、また走り出した。

 ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆくようだった。…旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさであったか。…島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。」(163頁)

 島村は天の川のあざやかさに驚かされるだけでなく、逆に自分の影が空まで伸び、天の川の形になって夜空にかかる錯覚をみるのです。

 島村と駒子は火事の現場に着きます。

「あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た。

…落ちた女が葉子だと、島村も分かったのはいつだったろう。

…島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のと  もし火がともった時のさまをはっと思い出して、島村はまた胸がふるえた。

 駒子が島村の傍(そば)から飛び出していた。

…葉子を胸に抱えて戻ろうとした。…駒子に島村は近づこうとして、…踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。」(171-173頁)

 「雪国」はこの非常に美しい「宝石」とともに終わるのです。

http://www.geocities.jp/hinomanabu/bungaku/yukiguni.html


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   @゙!         |::              !::        ノ

● スキイの季節前の温泉宿は最も客の少ない時で、島村が内湯から上がって来ると、もう全く寝静まっていた。古びた廊下は彼の踏む度にガラス戸を微かに鳴らした。その長いはずれの帳場の曲がり角に、裾を冷え冷えと黒光りの板の上へ拡げて、女が高く立っていた。  


● とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、体のどこかを崩して迎えるしなを作るでもない、じっと動かぬその立ち姿から、彼は遠目にも「真面目」なものを受け取って、急いで行ったが、女の傍に立っても黙っていた。女も濃い白粉の顔で微笑もうとすると、反って泣き面になったので、なにも言わずに二人は部屋の方へ歩き出した。  
 

● …なにか彼女に気圧される甘い喜びにつつまれていた


● 女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。


● なにかすっと抜けたように涼しい姿


● 細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。


● …美人というよりもなによりも、清潔だった。


● なんともいえぬ清潔な美しさであった。


● 一人生真面目な顔つきであった。


● 百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上がっていて、なによりも清潔だった。


● 「ずっと欠かさず日記をつけてるのかい。」

  「ええ、十六の時のと今年のとが、一番面白いわ。」  

 ⇒  十六の時:行男への恋心 今年:島村への恋心


● 「そんなものを書き止めといたって、しょうがないじゃないか。」

  「しようがありませんわ。」

  「徒労だね。」

  「そうですわ。」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。


 全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、雪の鳴るような静けさが身にしみて、それは女に惹きつけられたのであった。彼女にとってはそれが徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにか反って彼女の存在が純粋に感じられるのであった。

● 駒子が息子のいいなずけだとして、葉子が息子の新しい恋人だとして、しかし息子はやがて死ぬのであれば、島村の顔にはまた徒労という言葉が浮かんできた。駒子がいいなずけの約束を守り通したことも、身を落としてまで療養させたことも、すべてこれ徒労でなくてなんであろう。

 駒子に会ったら、頭から徒労だと叩きつけてやろうと考えると、またしても島村にはなにか反って彼女の存在が純粋に感じられてくるのだった。

● (葉子の声の描写) 澄み上がって悲しいほど美しい声だった。どこかから木魂が返ってきそうであった。


● (葉子の目つきの描写)それは遠いともし火のように冷たい
  


● そして静かな声で、八月いっぱい神経衰弱でぶらぶらしていたなどと話しはじめた。「気ちがいになるのかと心配だったわ。」   

⇒ 妊娠の予感→金銭の呪縛、師匠たちに顔向けできない

● (駒子、島村に) 「あんた、いい加減な人ね。」


● 少しはにかんでから、唄を待つ風に、さあと身構えして、島村の顔を見つめた。 島村ははっと気圧された。

…忽ち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったというよりも叩きのめされてしまったのである。敬虔の念に打たれた、悔恨の思いに洗われた。自分はただもう無力であって、駒子の力に思いのまま押し流されるのを快いと見を捨てて浮かぶよりしかたがなかった。  
 


● …だんだん憑かれたように声も高まって来ると、撥の音がどこまで強く冴えるのかと、島村はこわくなって、虚勢を張るように肘枕で転がった。


 勧進帳が終わると島村はほっとして、ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情けなかった。

・・・島村には虚しい徒労とも思われる、強い憧憬とも思われる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の音に溢れ出るのであろう。

   ⇒  彼女の弾く「黒髪」:一度去って戻らぬ男を待ち暮らす女の悲しみを唄ったもの

● 情景
月はまるで青い氷のなかの刃のように澄み出ていた。 
 

● 「つらいわ。ねえ、あんたもう東京ヘ帰んなさい。つらいわ。」
と、駒子は火撥の上にそっと顔を伏せた。

 つらいとは、旅の人に深はまりしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。


「もう帰んなさい。」

「実は明日帰ろうと思っている。」

「あら、どうして帰るの?」

と、駒子は目が覚めたように顔を起こした。

「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんじゃないか。」

 ぼうっと島村を見つめていたかと思うと、突然激しい口調で、

「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」

と、じれったそうに立ち上がって来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、

「あんた、そんなこと言うのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいってば。」

と、口走りつつ自分が倒れて、物狂わしさに体のことも忘れてしまった。 それから温かく潤んだ目を開くと、

「ほんとに明日帰りなさいね。」

と、静かに言って、髪の毛を拾った。


● 駒子は肩の痛さをこらえるかのように目をつぶると、さっと顔色がなくなったが、思いがけなくはっきりかぶりを振った。

「お客様を送ってるんだから、私帰れないわ。」

島村は驚いて、

「見送りなんて、そんなものいいから。」

「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私にはわかりゃしない。」

「来るよ、来るよ。」

…葉子「行男さんが呼んでる。」と、駒子を引っ張るのに、駒子はじっとこらえていたが、急に振り払って、「いやよ。」

● 「素直に帰ってやれ。一生後悔するよ。強情張らないでさらりと水に流せ。」


● 「いや、人の死ぬの見るなんか。」

それは冷たい博情とも、余りに熱い愛情とも聞こえるので、島村は迷っていると、

…「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あんた素直な人だと思うけれど。


● 島村はわけ分からぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素直な人間はいないのだという気がしてくると、もう駒子に強いて帰れとは言わなかった。
  

● 無為徒食の彼には、用もないのに難儀して山を歩くなど徒労の見本のように思われるのだったが、それゆえにまた非現実的な魅力もあった。


● 「あれだって、私には真面目なことだったんだわ。あんたみたいに贅沢な気持ちで生きてる人と違うわ。」


● 「わからないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね。」

「なにもかも散っちゃってるよ。

「今に命まで散らすわよ。」


●  (酔った駒子の膝の上に頭を乗せて)

目を閉じているとその熱が頭に染み渡って、島村はじかに生きている思いがするのだった。駒子の激しい呼吸につれて、現実というものが伝わって来た。それはなつかしい悔恨に似て、だたもう安らかになにかの復讐を待つ心のようであった。


● 駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれども反ってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。


● 葉子はあの射すように美しい目で島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。
  


● 駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突き当たる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降り積むように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。


● 最終シーン

駒子は芸者の長い裾をひいてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうとした。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。(駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。)…


「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」

そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱きとろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった。

http://home.b00.itscom.net/moonlit/book/novels/yukiguni.htm


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鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鹹              情�苛泣罅         ∴3S川Γ ヨ据鬱鬱鬱
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鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱蠧止.                  ベシ       旧疆鬱鬱鬱




サイコパスだった川端康成のロリコン、ペドフィリア、フェティシズムについては

テレビドラマ 早勢美里 木村拓哉『伊豆の踊子』TX 1993年
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004906



16:777 :

2022/06/08 (Wed) 22:36:21


英訳すると情痴小説(ポルノ小説)『雪国』が 出来の悪い純愛小説になってしまう理由
雪国と Snow Country (上巻)

『雪国』を読めば、日本語と英語の発想がわかる!
ものとものとの関係 - 発想の違いを検証する

松野町夫 (翻訳家)

日本語は抽象的な表現を好み、動詞が主役。これに対して、英語は具体的・説明的で能動的な表現を好み、名詞が主役、特に「ものとものとの関係」は実に明瞭である。

川端康成の小説『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” を教材として、日本語と英語の発想の違いを検証したい。ちなみに、エドワード・ジョージ・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker)は、コロラド州生まれアメリカ人。川端康成自身、「私のノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言わしめたほどの名文家・知日家であり、私たち英語学習者から見れば、彼はいわば「神さま」みたいな存在だ。教材としてこれ以上のものはないと思う。

(原文)
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

(訳文)
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. The snowy cold poured in. Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.


上記の英文を再度、日本語に訳してみる。これは訳をもう一度訳した文なので、訳訳文と呼ぶことにする。


(訳訳文)
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。大地は夜空の下、白く横たわっていた。信号所に汽車が止まった。

同じ車両の反対側に座っていた娘が来て、島村の前の窓を開けた。雪の冷気が流れこんだ。窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長を、ずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。


原文の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、翻訳者泣かせの文である。この種の和文は英訳が極端に難しい。この文は、複文なのか、それとも重文なのか?トンネルを抜けたのは何だろうか?人か、車か、汽車か?雪国であったのは何か?英文では主語が必須だが、この和文には、主語に相当する主格や主題が出てこない。主語を特定できないので英訳作業に着手できないのだ。「抜ける」とか「~であった」という動詞は大事にするが、その主体となるもの(名詞)はあっさりと省略されてしまっている。

しかし、この文は日本語として特におかしな感じはしない。それどころか、日本の第一級の文学者の、しかも文学作品の書き出しだから、推敲に推敲を重ねた名文のはず。名文なのに、どうしてこうもわかりづらいのだろうか。それはたぶん、この文が単独では自己完結しておらず、文脈に依存しているからだろうと思う。主語を特定するには、物語をもっと先の方まで読み続ける必要がある。和文は文脈に依存したものが多い。

もし、この文が報告書のような実務文書であれば、私はためらうことなく悪文とみなし、もっと具体的にわかりやすく書き直してくださいと、書き手に注文をつけたいような気にもなる。

文脈依存文で、もっと先の方まで読んでもどこにも主語を特定できる手がかりがないことも、たまにある。それでも翻訳作業は何が何でも開始しなければならない。こういう場合、私は、逐語訳の手法を採用して日本語の発想をそのまま英文に持ち込むことにしている。たぶん、苦し紛れに以下のように訳すような気がする。

Getting through the long border tunnel led to the snow country.
国境の長いトンネルを抜けると雪国へ出た。

典型的な逐語訳であり、これぐらいなら、いっそのこと動詞 get through を省略して、The long border tunnel led to the snow country. (国境の長いトンネルは雪国に出た)の方が英文としては、もう少しマシかもしれない。

サイデンステッカーは、主語を汽車にして簡潔に表現する。まさに「コロンブスの卵」である。

The train came out of the long tunnel into the snow country.
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。

彼は、国境ということばを無視(省略)し、The train という単語を主語として補充した。わかりやすい自然な英文だ。目をつぶると、その光景がいきいきと目に浮かぶ。”out of the long tunnel” (長いトンネルを抜け)の前置詞 out of があたかも動詞「~を抜け」であるかのように機能している。「雪国であった」と原文ではいわば静の状態で表現されていたものが、英文では "The train came into the snow country." と能動的に表現されている。

ここで、原文と訳文の表現をもう一度比較してみよう。日英の発想の違いが一目瞭然である。


原文: 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(日本語的発想の文脈依存文)

訳訳文: 汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。(英語的発想の自己完結文)


訳訳文は、汽車・トンネル・雪国の「ものとものとの関係」が明白である。原文をやまとことば本来の名文だとすると、訳訳文は、英語的発想から生み出された新しいタイプの明文(わかりやすい文)である。この種の表現(自己完結文)を積極的に日本語に取り入れることで、日本語は、「あいまいさ」を排除して、さらに豊かな表現を手に入れることができるのではないか。日本語的発想の文脈依存文は文学や詩歌などの芸術分野に、英語的発想の自己完結文(明文)は報告書や説明書などの実務的分野に、という具合に使い分けるのもおもしろい。

英語的発想の自己完結文(明文)、たとえば、「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」は、文構造が単純なので、誰でも簡単に翻訳ができる。The train came out of the long tunnel into the snow country. 逆に言うと、日本語的発想の文脈依存文にでくわしたら、一度それを、英語的発想の自己完結文に置換してから翻訳に着手すると、作業が瞬時に完了するばかりか、作品もわかりやすい自然な英文に仕上がるといえる。英語的発想とは、主語を特定し、「ものとものとの関係」を明白にすること、たったこれだけの簡単な話である。たとえば、汽車・トンネル・雪国の3つのもの中から主語となるものを特定し、主語と別のものとを、動詞または前置詞を使用して関連付けるのである。

ちなみに、雪国の舞台は、新潟県南魚沼郡湯沢町。国境(くにざかい)は、上野国(こうずけのくに、群馬県)と越後国(えちごのくに、新潟県)の県境のこと。長いトンネルは、羽越線鉄道の清水トンネルで全長、9.7キロ。

夜の底が白くなった。
The earth lay white under the night sky.

「夜の底が白くなった」とはどういう意味なのだろうか?「夜」は通常、日が沈んで暗いとき(=時間)を意味する。しかし、時間は流れるが形がないので当然「底」などない。つまりここの「夜」は、通常の意味の「夜」ではない。では、どういう状況を表現しているのだろうか?おそらく、この「夜」は島村の車窓から見た「暗闇」を文学的に表現したのではないかと私は思う。具体的に言うと、トンネルに入る前の群馬県側では雪はなく、車窓からの夜景はただ一面の「暗闇」にすぎなかった; しかし長いトンネルを抜け雪国(=新潟の湯沢町)に入った途端、「暗闇」は一変する; 実際には、雪はずっと以前からそこの地面に積もっていたのであり、変化したわけではないのだが、島村(=川端康成)の目には、あたかも「暗闇」の下部(=地面)が突然、白く変化したかのように映ったのにちがいない。

「夜の底」という日本語の抽象的な表現に比べて、英語の The earth under the night sky (夜空の下の大地)は「具体的」「説明的」でわかりやすい。「大地」と「夜空」を前置詞 "under" で明確に関係付けている。まさに、日本語は抽象的な表現を好むが、英語は具体的な表現を好み、「ものとものとの関係」が実に明瞭だ。
"The earth lay white under the night sky." を意訳すると、「大地は夜空の下、白く横たわっていた」。要は、「地面に雪が積もっていた」ということ。直訳の "The bottom of the night became white." (夜の底が白くなった)では、何のことかさっぱりわからず、これではノーベル文学賞はとても無理だったでしょうね、きっと。

信号所に汽車が止まった。
The train pulled up at a signal stop.

ウーン、やはりネイティブ・スピーカーの英文は簡潔で美しい。民族英語はいきいきとした英米文化を背景に持つ。さりげなく訳してあるが、表現が生きていますね。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。

この文はわかりやすい。私ならおそらく原文にひきづられて、次のように訳しそうだ。

From the opposite seat a girl stood up, came over and opened the window in front of Shimamura.

しかし、サイデンステッカーは、この場面をはっとするほど正確に描写する。

訳文: A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura.

同じ車両の反対側に座っていた娘がやって来て、島村の前の窓を開けた。


the car は、ここでは車ではなく、車両の意味。向側の座席 the opposite seat は、向かい側とみれば、対面または背面する座席に、向こう側とみれば同じ車両の反対側の座席に解釈される。要するにこの表現では「あいまい」なのだ。実際には、娘(葉子)と島村はちょうど斜めに向かい合っていたので、同じ車両の反対側の座席が正しい。このため、訳文では、原文にはない「車両」という名詞を新たに補充している。これにより、「ものとものとの関係」、つまり、娘の座席と島村の座席の関係が明白となる。

「立って来て、窓を開けた」 stood up, came over and opened the window であれば、娘は時系列の順番に動作しているので、動詞はすべて過去形でよいが、「座っていた娘が来て、窓を開けた」となると、時制が異なるので 「座っていた娘」は、A girl who had been sitting と過去形よりさらに過去を表す過去完了進行形が必要となる。

原文: 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

訳文: Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

訳訳文: 窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長をずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

原文は直接話法「駅長さあん、駅長さあん。」なのに、サイデンステッカーは間接話法で訳している。これは日本語と英語の特性に関係する。日本語は、敬称、敬語、謙譲語など待遇表現が英語よりはるかに豊富なので直接話法が威力を発揮するが、英語は間接話法が得意だ。「駅長さあん」の「さあん」は、敬称「さん」の変化したもので、日本人ならこれだけで、大声で呼んだとすぐにわかるが、英語には翻訳しづらい。マレーシア英語なら、日本人の多用する敬称「さん」に慣れているので、直接話法の ”Station Master san, Station Master sa-aaa-n!” でも理解してもらえるかもしれないが。


原文: 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

訳訳文: 駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。

訳文: The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.

原文は「男」を主題にして文全体をひとつにまとめているのに対して、訳文は、「駅長」、「顔」、「耳おおい」と3つのものをそれぞれ主語に設定して3つの文に分けてある。「駅長」、「顔」、「耳おおい」は、いずれも原文には存在しない。「駅長」と「男」、「帽子の耳おおい」と「帽子の毛皮」は実質的に同じものなので、これは別としても、「手」や「顔」は新たに補充されたもので、「顔」などは2度も登場する。実際、訳訳文は原文よりも1.5倍ほど長い。この結果、訳文はものとものとの関係が明白だ。

「明かりをさげて」 = “a lantern in his hand”

「襟巻で鼻の上まで包み」 = “His face was buried to the nose in a muffler”

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」 = “the flaps of his cap were turned down over his face”


「明かりをさげて」の「さげて」は動詞だが、訳文では前置詞 “in” で表現している。明かりは手に、(たとえば、腰にではなく)さげていたのだ。ここにも、名詞を多用して具体的に説明する英語の特徴が如実に現れている。

「襟巻で鼻の上まで包」んだのは何か?「顔」である。当たり前じゃないか!などと憤慨しないでください。”His face” という主語を立てないかぎり、普通の英語にはならないのです。

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」は、「帽子の耳おおいは、顔まで垂れさがっていた」と表現している。たいした違いはないじゃないか、ですって!?いいえ、垂れていたのは、「耳」にではなく「顔」にでしょうと、訂正している。なるほど、確かに「耳おおい」は、耳を越えて顔にまでかかるものですね。いやはや、恐れ入りました。


長文は短文に分割すると翻訳が簡単!
直訳か意訳か

直訳か意訳かは翻訳者にとって永遠のテーマ。直訳は原文を字句・文法にしたがって一語一語忠実に訳すこと(literal translation)、逐語訳ともいう。意訳は字句にこだわらないで意のあるところを訳すこと(free translation)、自由訳ともいう。

若い頃、私は極端な直訳信奉者だった。といっても、主義とか思想とか、そんな高遠なものに裏うちされたものではない。単に経験不足で自分勝手にそう思い込んでいたにすぎない。当時の私は原文を絶対視していたようだ。原文の語句はすべて翻訳しなければならない、原文にない語句を勝手に補充してはならない、原文が長い文章であっても勝手に分割してはいけない、原文の形容詞や副詞は、訳文でも形容詞や副詞にしなければならない、つまり、品詞は変更してはならない、などなど。思い込みは恐い。

言語学的に似通った言語間の翻訳ならいざしらず、お互いにかけ離れた構造を持つ日本語や英語間の翻訳にそのような偏狭な手法だけで対処できるはずはないのだが、当時はしかし、そのように思い込んでいた。

川端康成の『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” は、こうした永遠のテーマに対してひとつのガイドライン(指針)を示してくれている。サイデンステッカーは必要に応じて、原文の語句を省略したり、原文にない語句を新たに補充したり、長文を短文に分割したり、品詞を変更したりする。つまり、わかりやすい英文に翻訳するために必要に応じて意訳する。

(原文)
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

(訳文)
It’s that cold, is it, thought Shimamura. Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain. The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

(訳訳文)
もうそんな寒さかと島村は思った。鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。雪の白さはそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

原文は、島村の眺めた景色として文全体をひとつにまとめているが、訳文では、島村・建物・雪の白さという3つの名詞をそれぞれ主語にして3つの文に分割して仕上げてある。原文の流れも自然なら、訳文も同様に自然な流れで分断の後遺症など、まったく感じさせない。

原文は日本語的な発想に基づいた名文である。このような名文から直接、訳文のような自然な英文を創造することは極端に難しい。日本人にはまず無理。こういう場合には、名文を一度、英語的な発想の明文(わかりやすい文)に読み砕くことである。まず、長文ならいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。明文を書くには、「1つの文に1つの概念」が原則。現に、訳文ではこの原則が採用されている。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。

もうそんな寒さか/ と島村は外を眺める/ と、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている/ だけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた/。

次に、分割した各文の主語(S)や動詞(V)、目的語(O)、補語(C)などを特定する。これらが省略されているときは補充する。

もうそんな寒さか/ → もうそんな寒さかと島村は思った。

島村は外を眺める/ → 島村は外を眺めた。

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。


ここまでの作業で難解だった長文の名文が4つの短い明文に変換された。これなら、私たち日本人でも何とか翻訳できそう、でしょう?。俄然、やる気もわいてくる。以下に私の訳とサイデンステッカーの訳を示す。対比することで日本英語(JE)と米語(AE)の違いが実感できる。

もうそんな寒さかと島村は思った。

JE: It’s already such cold, thought Shimamura.

AE: It’s that cold, is it, thought Shimamura.


島村は外を眺めた。

JE: He looked out.

AE: (訳文では省略されている)

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。
JE: Railway dormitorylike barracks were coldly scattered at the foot of the mountain.

AE: Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.


雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

JE: The color of snow disappeared in the darkness on the way before it arrived there.

AE: The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

ちょっと気になるのは、原文の「島村は外を眺め」は、訳文では省略されている点である。私などはつい、He looked out. という英文を挿入したくなるが、山裾のバラックなどの光景は島村の眺めた景色だということは誰の目にも明快なので、実際にはこの文がなくても少しも不都合はない。

どちらかというと逐語訳調の私のジャパニーズ・イングリッシュに比べて、サイデンステッカーの訳はすべて、当然のことながら、さすがに格調高く洗練されていて、特にバラックの描写など臨場感すら漂っており、実にいきいきとまるで映画のシーンを見ているようである。この違いはどこから来るのか? もう一度、バラックの文に焦点をあて、仔細に検討しよう。

(原文) 鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

(訳文) Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.

(訳訳文)鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。

バラックは米語ではbarracks(単複同形)で通常、「兵舎」を意味するようだ。もちろん、「粗末な家」の意味もあるが。訳文では、「低い」や「凍結した山の斜面」、「あちこちに」が補充されていて、これらが臨場感の演出に一役かっている。これらの語句は原文にはない。「低い」は平屋を連想させる。確かに当時の鉄道の官舎はそんな感じだったようである。「凍結した山の斜面」は原文の「寒々と」を具体的に表現したもの。「あちこちに」はバラックの散在するさまを強調しているので、挿入した方が英文ではわかりやすい。ちなみに「あちこちに」は、日本語の語順と異なりhere and there 「こちあちに」となる。

(原文)寒々と → 凍結した山の斜面に
up the frozen slope of the mountain

原文では「寒々と」と副詞を使用して抽象的に表現しているが、訳文では「凍結した山の斜面」と具体的に表現している。川端康成の「寒々と」に込めた想いが訳文の ”the frozen slope” に完全に一致するとは思えないが、「日本語は抽象的な表現を好み、英語は具体的な表現を好む」という日英2つの言語の特徴が出ていておもしろい。「寒々と」を具体的に表現せよと問われたら、私は "in the freezing air" と答えるような気がする。この場面ではこの副詞句が私の語感に近い。

でも、サイデンステッカーはなぜリスクをおかしてまで「寒々と」を「凍結した山の斜面」と訳したのか?私が思うに、日本語では「家が寒々と散らばっていた」はごく普通の表現であるが、英語では、Houses were coldly scattered. とはあまり表現しないのではないか。 scatter は widely (広く)などとは連語 (collocation) になるが、coldly 「寒々と」とはあまり連結しない。だから「寒々と」を断念したのではないかと思う。インターネットを検索しても "scatter" と "coldly" の連結は見当たらない。実際、Cambridge Advanced Learner's Dictionaryは "coldly" を以下のように定義している。ロングマン米語辞典(LAAD)やオックスフォード辞典(OALD)でも似たり寄ったり。もちろん、"coldly" は cold + ly なので「寒い」という概念をいずれにせよ持っているのはまちがいないが、Houses were coldly scattered. は英米人の普通の表現にはないのかもしれない。

coldly: adverb
in an unfriendly way and without emotion:
"That's your problem, " she said coldly. (それはあなたの問題よ、と彼女は冷たく言った)

サイデンステッカーが翻訳で目指したのは「ごく普通の自然な英文」であるのはまちがいない。どの訳文を見てもお手本になる自然な英文ばかり。だからこそ、『雪国』と "Snow Country" は日本人にとって和文英訳の手引書となり得るのである。さらにまた、これは和文英訳についての手引きではあるが、その基本的な手法や考えかたは英文和訳にも、あるいはもっと一般化して、他の言語の翻訳にも相当に適用できるのではないかと私は思っている。私にとっては手引書というよりは名人による翻訳の指導書、いや極意の書である。


日本語には間接話法はない!
地の文と会話文

会話文はわかりやすい。説明や描写の文(地の文)が長々と続いた後に会話文を目にするとほっとする。会話文は砂漠の中のオアシス。子供のころから不思議なことに、会話の部分だけは文字を読むまでもなく、音声と映像で瞬時にして理解できた。まるで、話し手の声が聞こえ表情までもいきいきと見えてくるかのように。同じような体験をお持ちの方は大勢いらっしゃるはずだと思う。

(原文)
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」


(訳文)
"How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

"Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

"I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

"It will be lonely, though. This is no place for a young boy."


(訳訳文)
「ご機嫌いかがですか?葉子です。」と娘は叫んだ。

「葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったね。」

「弟が今度こちらにお勤めさせていただいているそうですね。お世話になります。」

「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

上述の会話文は本人の話を直接、引用しているので英文法の直接話法に相当する。英語には直接話法と間接話法がある。直接話法 (direct speech) は人のことばをそのまま伝える方法で、間接話法 (reported speech) は人のことばを話し手のことばに直してから伝える方法である。英語の直接話法と間接話法はお互いに変換することができる。


例: 「私は今、元気です」と彼は言った。

He said, "I am fine now." (直接話法 direct speech)

He said (that) he was fine then. (間接話法 reported speech)


日本語は直接話法は得意だが間接話法は苦手、というより間接話法は英語の概念であり日本語にはもともと存在しない。日本語では「会話文」と「地の文」という概念がある。「地の文」とは説明や描写の文のこと。大雑把に言うと、会話文は日本語では直接話法で表現し、英語では直接話法かまたは間接話法で表現する。


「日本語の会話文」 = 日本人は「直接話法」で表現する

「英米語の会話文」 = 英米人は「直接話法」または「間接話法」で表現する

日本語では複雑な内容であっても直接話法でなら完璧に表現できるが、間接話法ではそうはいかない。私自身、間接話法の英文をそのまま間接話法で日本語に翻訳しようとして、四苦八苦した苦い経験が何度もある。単純な内容なら間接話法で表現できなくもないが、ちょっと込み入った内容になるとすぐにお手上げとなる。いくら工夫してもなかなか素直な日本語にならない。

英語の直接話法と間接話法は、表現こそ異なるが内容(意味)はまったく同じもの。複雑な内容の間接話法の英文を和訳するときは、直接話法で処理した方が自然な日本語を得やすい。この場合、意味が不明瞭にならないかぎり、かぎかっこ(「」)を省略するなど、ちょっと工夫することであたかも間接話法であるかのように見せることもできる。

例: He said he was fine then. (間接話法の英文を和訳する場合)

「私は今、元気だ」と彼は言った。 (直接話法で和訳してもよい)

今、元気だと彼は言った。 (かぎかっこを省略して間接話法のように見せることもできる)

話法の話はこれくらいにして、『雪国』の本文に戻る。


原文: 「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

訳文: "How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

「駅長さん」は今回も訳文にはない。"How are you, Station Master? It's me." と逐語訳したくなるところだが、訳文の方がもちろん、自然な英文である。

原文: 「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

訳文: "Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

「ああ、葉子さんじゃないか」を "Yoko, is it." と疑問形にして疑問符はつけない。これを仮に、"Ah, it's you, Yoko, aren’t you?" などと普通の付加疑問文にすると、アメリカ風の社交的な駅長というイメージを読者に与える恐れがある。 "Yoko, is it." か、なるほどね。これなら、日本人の駅長の感じが出ている。

原文: 「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

訳文: "I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

日本人は「今度」という語を愛用するが一筋縄では行かないことばだ。場合に応じて、this time, next, recently などに訳し分ける必要がある。この場合は "my brother has (recently) come" の意だが、訳文にはない。

原文: 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」

訳文: "It will be lonely, though. This is no place for a young boy."

訳訳文:「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

"It will be lonely" の "it" は、おなじみの形式主語。 It rains (雨が降る), It's dark here (ここは暗い) などのように、形式主語の "it" は天気や時間、距離、情況などを漠然と指す。英語は形式上、主語が必要なので挿入されたもの。通常、"it" は日本語に訳さない。

会話文はわかりやすいが、皮肉なことに会話文の翻訳は非常に難解になる場合が多い。上記の、「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」もその典型的な例である。民族の文化や生活に深く根ざした表現は逐語訳ではうまく処理できないのだ。「参るだろうよ」= He'll be frustrated. や「可哀想だな」= I feel (sorry) for him. などと直訳せずに、lonely や “no place for a young man” などを使用して言外ににおわせる、まさに高等技法である。


川端康成の官能的表現
直訳か意訳か

川端康成の『雪国』(新潮文庫)の8ページには「左手の人差指」について述べた長文がある。この文は物語全体とやや趣(おもむき)を異にする。私は少し違和感を覚えた。彼の作品にしては珍しく表現が露骨で肉感的な感じが強い。サイデンステッカーの英訳版 ”Snow Country” でこの文を確認したら、どうやらサイデンステッカーも戸惑いを感じていたようである。

(原文)
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。

(訳文)
It had been three hours earlier. In his boredom, Shimamura stared at his left hand as the forefinger bent and unbent. Only this hand seemed to have a vital and immediate memory of the woman he was going to see. The more he tried to call up a clear picture of her, the more his memory failed him, the farther she faded away, leaving him nothing to catch and hold. In the midst of this uncertainty only the one hand, and in particular the forefinger, even now seemed damp from her touch, seemed to be pulling him back to her from afar. Taken with the strangeness of it, he brought the hand to his face, then quickly drew a line across the misted-over window. A woman's eye floated up before him. He almost called out in his astonishment.

(訳訳文)
三時間前のことだった。退屈まぎれに、島村は左手を眺め人差指が屈伸するのを見つめていた。この手だけがこれから会いに行く女の、生き生きしたじかの思い出を持っているようだ。鮮明な女の画像を思い出そうとすればするほど、記憶は萎え、女がますます薄れてゆき、つかまえておきたいのに何も残らない。この不確実さの中で、この片手だけが、特にこの人差指が今も女の触感で濡れていて、遠くから自分をその女へ引き戻しているかのようだ。不思議に思いながら、彼は左手を顔に近づけて、それからすっかり曇った窓にさっと線を引いた。女の片眼が彼の面前に浮かび出た。彼は驚いて声をあげそうになった。

他の部分は原文に忠実なのに、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の部分だけは、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)とぼかして訳してある。「鼻につけて左手の匂いを嗅ぐ」を直訳すると、”he smelled his left hand” または “he put his left hand on his nose to smell it” となる。しかし訳文には「鼻」も「嗅ぐ」もどこにも出てこない。具体的な表現を好む英語がこの部分に限っては、日本語のお家芸を奪うかのごとく曖昧に表現している。なぜか?おそらくサイデンステッカーもこの部分については違和感を覚えたにちがいない。だから彼は意図的に曖昧に表現したのではないだろうか?

欧米文化では鼻はタブーらしい。英米の小説では「顔は克明に描かれている場合でも、どうしたことか鼻への言及が少ない」、「どうも欧米人は、鼻を何となくわいせつな感じ(obscene)を起こさせるものと見ているようだ」(『ことばと文化』 鈴木孝夫著、岩波新書、ものとことば、50~51ページから抜粋)

だとしたら、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」は欧米人にとっては、いよいよ卑猥な表現となる。結局サイデンステッカーは、翻訳者としての原文への忠誠の義務に逆らってまでも、具体的な表現を好む英語の用法に逆らってまでも、あえて曖昧に表現せざるを得なかったのであろう。原文は確かに少々卑猥な感じはするが、日本語の文学的表現の許容範囲内にぎりぎり収まっている。少なくとも川端康成はそう考えた。しかし、欧米文化ではこの部分の逐語訳、たとえば、“he put his left hand on his nose to smell it” は到底一般読者の容認できるものではないのかもしれない。「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の意訳、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)は、文化レベルにまで引き上げて考えてみると、一転して原文に忠実な訳となる。日英両文とも、お互いに文化的(= 文学的)許容範囲内にあるからだ。翻訳者としての原文への忠誠義務違反は「ことば」のレベルではまさにその通りだが、上位概念の「文化」のレベルでは免罪され忠誠義務違反に当たらない。この意訳で OK だと私は思う。

原文の2つの文のうち、最初の文は相当に長い。文字数を数えてみたら何と226文字ある。ちなみに、マイクロソフトのワードで文字数を確認するには、ワードを起動し、目的の文を新規文書に入れ、ワードのメニューバーから「ツール」、「文字カウント」の順にクリックすると、「文字カウント」ウィンドウが表示され、文字数や単語数を確認できる。それにしても 226文字とは相当に長い文だが、そこは名人、誰でも難なくすらすらと読みこなせるように仕上げてはある。

この長文は、訳文では7つの文に分割されている。長文は短文に分割する、サイデンステッカーは徹底してこの手法を採用する。分割するときは、文頭から順番に、動詞に注目しながら概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。このようにして分割したものを次に示す。

もう三時間も前のことだった/
島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めた/
この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている/
はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく/
記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだ/
不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引く/
そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった/

ここで時制について一言。英語の時制 (tense) は時間軸に沿った単純明快なもの。このような時間軸に沿った単純明快な時制という概念は日本語にはない。たとえば、上述の7つの文は過去の話なので、英語の動詞はすべて過去形を使用しなければならない。現在形は使用できない。しかし、日本語の文末の動詞に注目すると、「ことだった」、「眺めた」、「覚えている」、「ぼやけてゆく」、という具合に「~する」、「~した」、「~だ」、「~だった」が混在している。このように日本語では過去の話に「~する」とか「~だ」とかも使用できるのである。中学校の英語の時間に私たちが教わった「~する」=現在形、「~した」=過去形、「~でしょう」=未来形などの公式は、現実の日本語には通用しないことがわかる。時制について詳しくは http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-280.html を参照してください。

英語的な発想の明文(わかりやすい文)を書くには「1つの文に1つの概念」が原則。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。さらに嬉しいことに、コンピュータまでもが明文は理解できるのだ。英日・日英間の機械翻訳は実用にはまだまだ程遠いのが現状だが、実は先日、この手法を用いて自分で書いた英文メールを遊び心で、市販の英日・日英機械翻訳ソフト(訳せ!!ゴマ)にかけたところ、4ページほどの英文が2、3分後に日本語に翻訳され、ほとんどすべての訳文(和文)が理解可能な、したがって実用的なレベルに仕上がっていた。驚き桃の木、山椒の木!そばでこの作業を見守っていた同僚も「完璧ですね」と叫んだ。私も興奮した。そうか、明文は機械翻訳できるのか!明文は書くのが簡単、わかりやすい、機械翻訳も可能。だから「実務文書は明文で」。ね、そうでしょう。


会話文には接続詞はいらない!?
会話文 (2)

(原文)
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も炊出しがいそがしかったよ。」

「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど。」

「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね。」

駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか。」

「いや。」

「駅長さんもうお帰りですの?」

「私は怪我をして、医者に通ってるんだ。」

「まあ。いけませんわ。」


(訳文)
"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

"Oh, but he's doing very well. We'll be busier from now on, with the snow and all. Last year we had so much that the trains were always being stopped by avalanches, and the whole town was kept busy cooking for them."

"But look at the warm clothes, would you. My brother said in his letter that he wasn't even wearing a sweater yet."

"I'm not warm unless I have on four layers, myself. The young ones start drinking when it gets cold, and the first thing you know they're over there in bed with colds."

He waved his lantern toward the dormitories.

"Does my brother drink?"

"Not that I know of."

" You're on your way home now, are you?"

"I had a little accident. I've been going to the doctor."

"You must be more careful."

..................................................................................................

「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

原文は単文だが、訳文は2つに分割されている。

「子供ですから」の中の「から」に相当する語は訳文にはない。「から」は原因・理由を示す接続詞で、英語の because, sinceに近い意味を持つ。因果関係が重要な意味を持つ論文はともかく、日常会話のような文章では、「なぜならば because」はまだいいとしても、「したがって thus, consequently, therefore」のような形式ばった接続詞は英文では無視される場合が多い。(接続詞を使うとしてもせいぜい and を挿入する程度)。

たとえば、「今朝、朝食をとらなかったので、今、おなかがすいている」は I had no breakfast this morning, (and) I'm hungry now. ぐらいで十分でしょう。もちろん、I'm hungry now because I had no breakfast this morning. もOKでしょうが、少しくどい感じがしませんか。

長文を短文に分割すると、この接続詞の問題は必ず浮上する。サイデンステッカーは、長文は複数の短文に分割しているが、その際、分割箇所の接続詞は省略している。たとえば、「バラックが散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた」の「だけで」もやはり無視されていた。

私たち日本人は「~だから」や「なので」、「したがって」、「このため」などの接続詞が大好きで日常的な文章でも頻繁に使用する。こうした接続詞がないと文と文のつながりが希薄になりそうで不安なのだ。実際、日本語では接続詞を挿入した方が文の座りがいい。しかし英米人は一般に、こういう種類の接続詞はあまり使用しない。これを翻訳の観点からいいかえると、英文和訳の際には「文の座り」をよくするため、たとえ英文になくとも接続詞を補充し、逆に、和文英訳の際には自然な英文にするために、和文の接続詞を省略するぐらいの気持ちが必要ということ、かもしれない。


「あんなことがあったのに」は英語でどう言うの?
婉曲表現:

男と女の出会い・別れ・再会はいつも感動的だ。物語の中で最も人を魅了する部分である。私も子供の頃からラブストーリーが大好きで、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)、田山花袋の『蒲団』など夢中になって読みふけった時期がある。以下の文も男と女、島村と駒子の再会のシーンである。(『雪国』 新潮文庫16ページから抜粋)

(原文)
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。

原文の最初の一文は299文字と非常に長い。サイデンステッカーはいつものように長文は分割する。この長文は7つに分割されている。

あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさなかった。 In spite of what had passed between them, he had not written to her, or come to see her, or sent her the dance instructions he had promised.

あんなことがあったのに → 二人の間に起こったものにもかかわらず

「あんなこと」とは、ここでは男女間の肉体関係を指す。婉曲(えんきょく)な表現は難しい。私のような実務翻訳者には特にそうだ。以前、原田克子さんの詩を英訳したときの話。『壊心 3』の第2パラグラフの3行目、「肌を触れ合うことがなくなったわたしたち」で困ってしまった。ウーン、難しいなあ… We can no longer sleep together とか We don't touch each other any longer now とか訳してはみたが、いまひとつ自信が持てない。「あんなことがあったのに」は In spite of what had passed between them というのか。なるほど。よーし、忘れないようにこのまま暗記しようっと。

「あんなことがあった」 (直訳すると there was a thing like that) が、訳文では「二人の間に起こったもの」 what had passed between them = the thing that had happened between them と、より具体的に名詞で表現されている。このように、日本語では文(節)で表現してあるのに、英語では名詞(もの)で表現する場合が多い。「動詞が主役」の日本語と「名詞が主役」の英語との違いがここにも顔を出している。

女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろう。
She was no doubt left to think that he had laughed at her and forgotten her.

“no doubt” は「疑いなく」 (undoubtedly) という副詞。She was left ... は受身。能動態に直すと、He left her ... (彼は彼女をほったらかした)。原文、訳文ともに、受動態と能動態が混在している。She was no doubt left to think that she had been laughed at and forgotten (by him). (彼女は彼にほったらかしにされ、笑われて忘れ去られたと彼女はきっと思ったことだろう) と従属節を受身にすることもできる。

先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れた。

It should therefore have been his part to begin with an apology or an excuse, but as they walked along, not looking at each other, he could tell that, far from blaming him, she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.

「体いっぱいになつかしさを感じている」 → 「彼女は、失っていたものを取り戻したという喜びだけの余裕を心に抱いていた」

“she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.”

ワオ、これは驚いた!原文の日本語には名詞は2つ、「体」と「なつかしさ」しかないのに訳文の英語にはどちらの名詞も出て来ない。 その代わりに、5つの名詞、「she (彼女)」、「room (余裕)」、「heart (心)」、「pleasure (喜び)」、「what had been lost (失っていたもの)」が新たに補充されている。英語的な発想とはいえ、これはしかし私たちには複雑すぎる。もっと単純に、たとえば、she was filled with longing for him. (彼女は、彼に対するなつかしさでいっぱいだった) でいいのではないのかな。これだと原文の「いっぱい」も「なつかしさ」も出て来る。

彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思った。

He knew that if he spoke he would only make himself seem the more wanting in seriousness.

なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて彼は歩いた。

Overpowered by the woman, he walked along wrapped in a soft happiness.

階段の下まで来ると、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

Abruptly, at the foot of the stairs, he shoved his left fist before her eyes, with only the forefinger extended.

階段の下まで来ると → 階段の下で (at the foot of the stairs)

私などつい、原文にひきずられて文(節)として when they came to the foot of the stairs と直訳しそうなところだが、なるほど、動詞 come 「来る」の代わりに、前置詞 at 「(下)で」で充分ですね。日本語の動詞は、英語では前置詞で表現される場合が多い。たとえば、冒頭の「長いトンネルを抜けると」 = out of the long tunnel. 逆に言うと、英文和訳の際には、英語の前置詞は日本語では動詞で訳した方が自然な和文になる場合が多い、ということですね。

「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」
“This remembered you best of all.”

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
“Oh?” The woman took the finger in her hand and clung to it as though to lead him upstairs.


「居住まいを直す」は英語でどう言うの?
駒子との出会い

新緑の登山季節、山歩きから七日振りりで温泉場へ下りて来た島村は、宿屋に芸者を呼ぶように頼んだ。ところが、あいにくその日は道路普請の落成祝いで芸者は皆出払っていた。三味線と踊の師匠の家にいる娘(駒子)は芸者というわけではないが、もしかしたら来てくれるかも知れないと女中は言う。以下は島村と駒子の出会いのシーンである。(『雪国』 新潮文庫18ページから抜粋)

(原文)
怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住まいを直した。直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。

怪しい話だとたかをくくっていた。

An odd story, Shimamura said to himself, and dismissed the matter.

「怪しい話だとたかをくくる」は英語的な表現では、「怪しい話だと島村は独り言を言ってこの件を気にもとめなかった」となるのですか、ウム、なるほど、そうですか。

ちなみに、dismiss = to refuse to consider someone or something seriously because you think they are silly or not important. という意味。

一時間ほどして女が女中に連れられて来た。

An hour or so later, however, the woman from the music teacher’s came in with the maid.

原文では「女」となっているが、英語では “the woman from the music teacher’s (house)” 「音楽教師の家から来た女性」と具体的に説明されている。また、原文では「女中に連れられて来た」と受身の表現も “came in with the maid” 「女中と一緒に入って来た」と主体的に表現されている。いずれも英語的な発想だ。

島村はおやと居住まいを直した。
Shimamura brought himself up straight.

「居住まいを直す」はきちんと座りなおすこと。“sit up straight” の意。品のある女性に会うと、どんな男も思わずいずまいを正す。訳文の “Shimamura brought himself up straight.” は、畳文化に馴染みのない読者は “stood up straight” (直立した)の意味に解釈するかも知れない。そこで、“Shimamura sat up straight.” を私は提案したい。

直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
The maid started to leave but was called back by the woman.

原文は「女」が主語で女中をそこに座らせたとあるが、訳文は「女中」を主語にしている。文頭の「直ぐ立ち上がって行こうと」したのは女中なので、女中を主語にするのは自然な流れ。翻訳は「頭から順番に訳して行く」のが原則だ。現に、サイデンステッカーはほとんどの場合、頭から順番に訳して行く技法を採用している。頭から順番に訳して行かないかぎり、同時通訳は成立しない。この原則は和文英訳にかぎらず、英文和訳にも当てはまる。

中村保男 『英和翻訳の原理・技法』 より要点のみ抜粋する。
I'm afraid he is not here today because he caught a cold.
きょうは風邪を召して、お見えになっていないのが残念です。(英文解釈流)
あいにくですが、きょうは出社しておりません、お風邪を召したそうで。(頭から訳す)

上の受付嬢の応対では、「頭から訳す」方法のほうが遥かに実感もこもっているし、流れも快調だ。

「女中」は古くは婦人に対する敬称だったらしいが、現代では卑語となってしまった。今は「お手伝いさん」。英語ではメード “maid”。ところで「日女中本」の意味をご存知かな?これは四字熟語などではなく、単なることばのお遊び。解答は “made in Japan”。だって、日本の中に「女中」の文字が入っているでしょ、だから、メード・イン・ジャパン。私の若い頃に、こんな「ことば遊び」が一時流行したことがありました。

女の印象は不思議なくらい清潔であった。
The impression the woman gave was a wonderfully clean and fresh one.

女の印象 → The impression the woman gave (女が与えた印象)

「女の印象」を “the woman’s impression” というと、「女が抱いた印象」とも解釈されることもある。”The impression the woman gave” は、いかにも英語らしい的確な表現だ。最後の “one” は不定代名詞で「印象」の意味。「印象」を2回、繰り返すのを避けている。“one” が使用されたことで、この場合の「印象」は可算名詞だとわかる。

足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。
It seemed to Shimamura that she must be clean to the hollows under her toes.

足指の裏の窪み “the hollows under her toes” には、あか(垢)がたまりやすい。
訳文では ”must be” (~にちがいない)と現在形が使用されている。ははーん、この場合は現在形の方がいいんですか!?。過去についての推定の表現は通常、”must have been” (~だったにちがいない)と ”must have + pp” とばかり丸暗記していましたが…。

山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
So clean indeed did she seem that he wondered whether his eyes, back from looking at early summer in the mountains, might not be deceiving him.

この文は、She seemed so clean indeed that ~ という例の (so ... that) 「非常に~なので...」の倒置法ですね。


芸者を呼ぶ
「お湯道具」は「タオルと石鹸」だけ?

山歩きから一週間ぶりに温泉場で一泊した翌日の午後、島村は唐突に駒子に芸者の世話を頼んだ。しかし、駒子はこのときまだ19歳。男の生理にとまどってしまう。(『雪国』 新潮文庫19ページから抜粋)

(原文)
女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。

「世話するって?」

「分かってるじゃないか。」

「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、

「ここにはそんな人ありませんわよ。」

「嘘をつけ。」

「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、

「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」

「君から頼んでみてくれよ。」

「私がどうしてそんなことしなければならないの?」

「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、

「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」

「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」

原文: 女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。

訳文: On her way to the bath the next afternoon, she left her towel and soap in the hall and came in to talk to him. (サイデンステッカー訳、ちなみにこの英文の訳は、翌日の午後お風呂へ行く途中、彼女はタオルと石鹸を廊下に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。)

英語は具体的な表現を好む。なるほど、「お風呂へ行く途中」と状況が具体的に補足してある。しかし原文では「お湯道具を廊下の外に置いて」というだけで、お風呂へ行く途中だとも、お風呂から上がって帰る途中だとも書いていない。可能性は五分五分、どちらもありうる。原文の「お湯道具」も英文では「タオルと石鹸」と具体的に明示してある。確かにタオルと石鹸はお風呂の必須アイテム。しかしタオルと石鹸を洗面器(washbowl)に入れて廊下に置いた可能性もある。私など、南こうせつの「神田川」の世代なので、お風呂というと洗面器までも連想してしまう。日本人なら The next afternoon, she left her bath items out in the hall and came into his room to talk to him. と、あたりさわりのないように訳

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