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女子高生コンクリート詰め殺人事件 -壊れたセブンティーンたち 1995年

1:777 :

2022/05/25 (Wed) 05:03:11

女子高生コンクリート詰め殺人事件 -壊れたセブンティーンたち 1995年

監督:松村克弥
製作総指揮:佐藤太治(発売元:日本ビデオ販売会長)
脚本:太田隆文 松村克弥
音楽:篠原敬介
企画協力:近藤晋
資料協力:黒沼克史 藤井誠二
擬斗:二家本辰己
スタント:日和佐裕子、所博昭
制作・著作:東京計画
発売・販売日本ビデオ販売

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%80%90%E9%96%B2%E8%A6%A7%E6%B3%A8%E6%84%8F%E3%80%91%E5%A5%B3%E5%AD%90%E9%AB%98%E7%94%9F%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E8%A9%B0%E3%82%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6%EF%BC%88++%2F7%EF%BC%89


『女子高生コンクリート詰め殺人事件 ~壊れたセブンティーンたち~』は、1995年のビデオ映画。

女子高生コンクリート詰め殺人事件を題材にした青春猟奇犯罪映画。元々劇場用ではなく、 ビデオ安売王をフランチャイズ展開していた日本ビデオ販売(倒産)がオリジナルビデオとして製作した幻の映画で、現在では入手困難となっている。監督は松村克弥。日本ビデオ販売会長であった佐藤太治が事件に憤慨し制作にこだわったといわれる。

準主演に無名時代の北川悠仁(のちに「ゆず」を結成)が出演している。

被害者役の佐々木舞はジュニアアイドルの佐々木舞とは同姓同名の別の女優である。

この作品とは無関係に、同じ事件を題材にして「少年の犯罪」と「コンクリート」が映画化されている。


キャスト

ストーリーテラー・ナレーション:篠井英介
少年A:根岸大介
少年B:浜口啓二
少年C:北川悠仁
少年D:細川充
被害者:佐々木舞
少年Cの父:斉藤暁
少年Cの母:芹明香
少年Aの母:小川美那子
少年Aの子供時代:北條貴彦(子役)
岩瀬威司
坂本敬司
中矢光宣
五木田剛
菊地龍
エキストラ:鳳プロ/東京宝映

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E9%AB%98%E7%94%9F%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E8%A9%B0%E3%82%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6_-%E5%A3%8A%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%81%9F%E3%81%A1



女子高生コンクリート詰め殺人事件 ~壊れたセブンティーンたち~』(1995)

1995年のビデオ映画。
女子高生コンクリート詰め殺人事件を題材にした青春猟奇犯罪映画。

元々劇場用ではなく、 ビデオ安売王をフランチャイズ展開していた日本ビデオ販売(倒産)がオリジナルビデオとして製作した幻の映画で、現在では入手困難となっている。

監督は松村克弥。日本ビデオ販売会長であった佐藤太治が事件に憤慨し制作にこだわったといわれる。

準主演に無名時代の北川悠仁(のちに「ゆず」を結成)が出演している。

被害者役の佐々木舞はジュニアアイドルの佐々木舞とは同姓同名の別の女優である。
http://65293.diarynote.jp/201606110643053082/

販売元の日本ビデオ販売会の会長・佐藤太治が事件に憤慨していたと言われ、加害者少年のひとりを無名時代の北川悠仁(ゆず)が演じていたのには驚かされる。

また、その母親役が退廃的なエロスを表現したら右に出る者のいない芹明香(せり・めいか。

日活ロマンポルノ女優だが、一般作品でも強烈な個性を発揮した伝説的女優)というのに対し、「松村さん、すごい親子を組んだね」と手放しで感心していた。

しかし、事件を忠実に描いたために遺族が難色を示し、ビデオは各店舗から回収されてしまった。作品は現在も封印状態となっている。
http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20151030/Tocana_201510_post_7774.html?_p=2
22:777 :

2022/05/25 (Wed) 06:14:16

私は、そこを拡大して何度も観た。そこには女性の裸体が小さな写真で並んでいた。コマ送りのようになって挿入されていた。明らかに盗撮写真だ。そのシンガーと殺人集団の関係は歴然としている。そして、間も無くそのPVは作り直された。現在そのPVは写真の部分だけをカットされたものがウェブ上にある。私がコピーしているのは、編集前のPVだ。これは6年間取り溜めた証拠の一部にしか過ぎない。

いったいどれだけの人数が集まり、「狩り」ゲームをやっているのだろうか。殺人を犯してしまったことを知られたことに、彼たちは怯えていた。私が、いつ誰にそれを喋るのか恐れていたのだ。そのため交代制で24時間私を監視していた。そして、それはやがてゲームのようなモノに変化して行った。盗聴盗撮は2008年から2014年までの6年間続いた。当時、私は過度のストレスに陥り、生活スタイルはすっかり変化していた。

仕草

目に映っていた景色がすっと逸れることがある

それは思い出せないことを
無言の言葉で思い出そうとすることに少し似ている

立ちつくすと
つい空を見上げてしまうのはなぜだ

そんな時
僕は自分のアイデンティティを失いそうになる

記憶は罪だ
嫌なことを心のほうきが掃いてく

宝石を真似たガラスの石
美術品のような平たい河原の石

似ているということで
それに価値が生まれるということがある

夕暮れはどんどん早くなり
太陽は横向きのバーコードのようにしましまになって墜ちて行く

風景は輪郭を失いはじめ
もういいかげんにいいだろう 
ばかやろうと
昼間を慌てて脱いで行く

すべてに理由はない
46億年の仕草を繰り返しているだけなのだ


11.覚せい剤

私は留置場を出た後、千葉の病院に入院した。私は病気ではないので、裁判では「在宅」(自宅で過ごすこと)を貰ったのだが、私は敢えて病院を選んだ。そこは通常2週間から3週間で退院となるシステムだが、私は裁判官の心象を良くするため、弁護士が作成した「治療に専念する」という声明文を出した。そして、裁判が終わるまで約7週間の入院を希望した。

週刊誌が書いたような病気であるとか、症状が重かったなどというわけではない。その病院では、私が盗聴のことを説明したために、患者に見られる顕著な症状と見なされ、妄想を鎮静させるための薬を投薬されてしまった。朝昼晩、3回投薬される。とても強い薬だった。思考が働かなくなる。

殆どの覚せい剤患者には幻覚、幻聴、妄想があるので、私もそうだと思われてしまった。私の盗聴盗撮は症状によるものではない。盗聴盗撮は覚せい剤を知る2年以上前から始まっていたからだ。盗聴盗撮グループにとって、私が覚せい剤を始めたのは好都合だった。すべて妄想で片付けられてしまうからである。

2010年6月。西新宿のマンションに柳田が遊びに来た。すぐ側に住んでいたために、犬の散歩がてら、ちょくちょくマンションに寄るようになっていた。盗聴がまだ誰だかわからなかった頃、毎日、毎日寝ずに犯人を追いかけていたのだ。まだ相手がプログラマだということは分かっていなかった。携帯が怪しいと思っていた頃だ。柳田は東京に出てきてから風俗店を経営していた。

「風俗始めてすぐ、ヤクザが場所代払えって脅しに来たんですわ。喧嘩はハッタリと度胸ですやん。怒鳴って『帰れっ!』て言うてやりましたわ。」
「あはは。柳田さん強いじゃん。」
「それから、そのヤクザと友達になりましてね。時々店に来てくれはるんです。」

話をしているうちにあくびを繰り返していた私は、デスクの上にあった袋を破ってそれを飲んだ。

「何ですの?それ。」
「これ、安息香酸ナトリウムカフェイン。アンナカと言ってね、眠気が押さえられるんだ。」

2008年。盗聴を追いかけ始め出した頃に、

「目が覚める薬を下さい。」

と、言って処方してもらった薬だった。後に、週刊誌にはアンナカ中毒のように書かれたが、2016年の今日まで3回だけしか処方してもらっていない。病院に記録を求めたら1回分しかなかった。私の記憶では3回だ。

「それよりも柳田さん、3CPPって手に入るかな?」

3CPPとは、エクスタシーのような多幸感を持つと言われている。それは白い結晶のようなものだった。2003年頃、友人宅だった。仲間5人で集まった時、その中のひとりが3CPPとやらを持ってきていた。その場の雰囲気で私も混じり何となく吸引してみた。まだ、「脱法」などという言葉はなく、違法でなければ合法という時代だった。なので私の中ではそれがドラッグの類いには映らなかった。

ドラッグとは、人生を奪ってゆくような取り返しのつかないものという意識しかなかったからだ。高校生が隠れてタバコを吸うのと変わらない。ロンドンの時の幸せな状態になれるのかと思ったのだ。しかし、ほんの一瞬フワっとしただけで、そうはならなかった。私には目が覚める感覚の方が強かった。報道では私には第2の女がいると書かれた。

その女が、薬をやったのは、私が取り調べで喋った「2010年よりももっと前だった」と喋った。その女友だちはその時の3CPPのことを言ったのだ。2006年にその3CPPも禁止された。アンナカでは効きの弱い私は、柳田の前でその時の3CPPを思い出したのだ。

付け加えて、アンナカが劇薬のように報道されたが、そうではない。1包、0,4g。副作用などない。週刊文春が「馬に打つ興奮剤」などと煽ったが、バケツ一杯打ってのこと。風邪薬でもバケツ一杯飲めば、どうにかなってしまう。アンナカと私を悪く印象付けさせるための心象操作なのだ。

文春には悪意しかない。1回目の記事で「覚せい剤」と書いてしまった。私が「あれはアンナカ」と答えたために「これはマズイ」と考えた文春は、今度は「アンナカ」を劇薬、そして私を「アンナカ中毒」に仕立てる必要があった。確かにアンナカは劇薬指定になっている。だが、それは「注意が必要」という観点からの劇薬指定なのだ。

私は処方を受けた病院名まで答えたが、処方が3回では中毒にすることはできない。なので、その病院には裏を取りに行かず、ただ劇薬として世間に広めたのだ。記事には「アンナカ」を劇薬として説明していた医師の証言を掲載していたが、あれこそが、さも事実のように思わせるために用いる手法だ。「親しい関係者」「捜査当局の関係者」という実態のない週刊誌の手口だ。

柳田に3CPPを頼んだ時には、それが規制対象になっていることは知っていた。しかし、ネットなどではまだ多くのサイトが普通に販売していたので、特別罪悪感はなかった。私はただ「目が覚める」のが欲しかった。必要だった。3CPPを知らない柳田にそれを説明する。

「ほな、連絡してみましょうか?」

携帯を取り出してどこかに電話し始めた。

「もしもし、私ですが。つかぬ事をお聞きしますが3CPPってあります?」

それは突然だった。

「はい?今無い。冷たいやつならある。」

電話のマイクを塞いで、私に問いかける。

「冷たいやつならあるらしいです。」

私には振って欲しくなかった。早く電話を切って欲しかった私は、同じ類いのようなものだろうと思い、

「うん、うん。」

と、頷いた。

「1?2?3?」

と、指を立てて私に尋ねる。量を聞いているのだろう。私は咄嗟に「纏めて買った方が良い」と思い「3」と指を立てた。

「ほな、先方さんからお金預かりますんで。それじゃ。」
「柳田さん。冷たいのって何?」
「さぁ、何でしょう?明日、手に入るらしいですわ。」
「お金用意しなきゃ。」
「30万ですって。」
「30万!?」

そんな量はいらない。

「1で良いよ。1で。」

もう一度、電話をかけ直してもらった。話を聞いていると「1」では量が相当少ないらしい。結局「3」買うことになった。友人の話を思い出していた。

「あいつ数万円って言ってたはず・・。」

規制後に値が上がったのかもしれない。どれだけの量が来るのか想像がつかなかった。

翌日、柳田がやって来た。ポケットから大きなティッシュが丸まったものを無造作に出す。それは、その中に入っていた。

「3CPPもありましたわ。3CPPが1。冷たいのが2。」

3CPPが大きなビニール袋。冷たいのが小さな袋に入っていた。袋の外からでは見分けがつかない。柳田はガラスのパイプも持ってきてくれた。

「これで吸うと良いらしいです。」

耐熱用のガラスなのだろう。細い管の先が葡萄くらいの大きさの丸い形をしていた。3CPPを吸ってみる。一瞬フワっとしてすぐ消えた。やはり、一瞬にして目が覚める。これが欲しかったのだ。次に冷たいのを吸ってみた。すると、ゾクっとして髪の毛が逆立つのが分かった。それから、4,5口両方が混ざったのを吸った。確かに、視界がキラキラして目が冴えている。私はアイテムを得たように強気になった。その夜、盗聴盗撮犯を朝まで追った。

翌々日。身体に異変が起きた。朝から身体が怠い。じっとりとした汗を掻いている。横になったまま、何もする気が起きない。気がつけばストンと落ちている。眠くて、眠くて辛い。耐えられない怠さだった。私はそれが、クスリの抜けてゆく時の症状だとは思いもしなかった。

「そうだ。3CPPを吸おう。」

袋から3CPPの粉を摘み、ガラスパイプに落とす。それを吸う。しかし、気持ち目が覚めるだけで、身体の怠さは変わらないのだ。

「ダメだ・・。何だこれ。」

次に、冷たいのを吸ってみた。先日の髪の毛が逆立つ感覚はなかったが、身体が急に楽になったのだ。二口、三口吸うと、どんどん楽になる。その日も、朝まで証拠集めをした。

それから3週間ほどして柳田が遊びに来た。

「柳田さん、冷たいのが効くね。これ良いね。」
「ASKAさん、それシャブですわ。」
「え?シャブって、スピードでしょ?」
「聞いたら『冷たいの』『早いの』って言うらしいです。」

頭がパニックになった。柳田の話は本当だった。
「シャブ」「エス」「スピード」「アイス」「氷砂糖」「早いの」「冷たいの」「クリスタル」これらが覚せい剤の俗称だった。

覚せい剤という名に野次馬的な興味はあったが、それは怖いもの見たさに似たものであって、それをやろうなどとは思わない。3CPPも白い結晶であった。そういうものはみな似ているのだと思った。覚せい剤の知識がなかった。

天国に行くほどぶっ飛んだり、興奮して包丁を持って暴れたり、無敵になったり、自分の身体を傷つけたり、身体から虫が這い出てくるような幻覚を見たり・・。そういうものだと認識していたのだ。私は、その「冷たいの」が気持ち良いとは微塵も思わなかった。口の中に苦味しか残らない。ただ、思ったように起きていられるのだ。「冷たいの」と「覚せい剤」が結びつかなかった。

こんなに簡単に手に入るものだとは思わなかったからだ。耐性がつくのが恐ろしく早い。私はすでに3週間も使用してしまっていた。何と言っても、薬の切れ目にやってくるあの怠さが恐怖なのだ。2010年の出来事である。警察の調書では「96年に一度だけエクスタシーというものを飲んだことがある」と答えた。しかし、報道では「20年前からドラッグをやり続けていた」と書かれた。私は、担当刑事に詰め寄った。

「20年間やっていると発表したらしいですね。どういうことですか?事実と違うじゃないですか。」

刑事は、

「私たちは、そんなことを言ってはいないんだよ。あれはウチの広報がマスコミに間違えて発表してしまった。」

と、説明した。取調官がマスコミに対応するのではないのだ。なので、間違いが起こりやすい。改善を要求したい。

革命

あっちは晴れ
こっちは雨
いたるところに墓がある

からだに革命が起こってしまった

僕にはふたつの拳がある
ひとつはあいつを殴るため
ひとつは自分を殴るため

歌は雑踏の沈黙の中で生まれ
赤ずきんのように健気に振る舞う

僕はお菓子の家に住み
魔女の水を飲んでいる

あっちは晴れ
こっちは雨
いたるところに墓がある


12.音楽関係者

翌年11年。柳田が脳梗塞で倒れた。昼間渋谷の公園通りで倒れ、そのまま病院に担ぎ込まれたのだという。幸い症状は軽く、言葉もはっきりしている。ただ、しばらく動けないとのことだ。柳田には申し訳ないが「冷たいの」を止める切っ掛けができた。しかし、あの怠さがやってくるのかと思うと恐怖を覚えた。

そしてそれはやってきた。二日間ほど、こんこんと眠るのだ。起き上がることができない。何をする気も起きないのだ。そこを越えれば元の身体に戻れる。ちゃんと普通の生活に戻れる。逮捕後、私が病院で叫び声を上げていただとか、奇行があったとか書いている週刊誌があったが、すべて作り事だ。50日間の取り調べがあったのだ。50日後に、そんなことは起こらない。また、逮捕時にろれつが回っていなかっただとか、ふらふらだったとか書かれていたが、あれも全部嘘だ。
こんなやり取りもあった。

「刑事さん、逮捕の時僕はろれつが回っていませんでしたか?」
「いいや、しっかり喋ってたよ。どうして?」
「警察発表でそうなっています。」

接見に来てくれていた弁護士から話を聞いたのだ。

「我々もマスコミには困ってるんだ。嘘ばかり流してるから。発表などしてないよ。あなたの奥さんが密告したなどと書いた週刊誌には、広報が直接訂正の要求を出したよ。まったくどこもデタラメばっかり書いてる。」

また、保釈の時に私が頭を下げただけで何もコメントをしなったことから、

「しっかり喋ることができないからだ。」

と書かれたが、あれも違う。大勢の報道陣が並ぶ前で、しかもあんなに距離がある前で、届かない話を長々と大声でしたくなかっただけなのだ。
一礼に気持ちを込めた。

13年1月1日。柳田が倒れたその後はクリーンな身体で生活をしていた。盗聴盗撮は続いていた。掲示板では私の行動を予測してお金を賭け合っていた。年末のことだった。夜、私が家を出ようとすると、

「さ、みなさん始まりますよ!」

と、私の行動を公開している。ライブ中継するつもりなのだ。それに気づいた私が外出を止めると、

「何でだよ!ここまで来てそれはないだろ!こちとら金が底をついて来てるんだよ!行けよ!」
「あ〜あ・・。今日は無しか。」
「ドタキャンはねーだろ。」

そんな書き込みで埋められた。
当初、

「オマエは死なせん。」

と、言っていた彼らは、

「頼む。もう、早く死んでくれ。」

と、書いてくるようになった。素性、所在、事実を知られたことが許せないのだ。彼らのブログやツイッターは「ぎなた読み」を更に進化させた独特の読み方があった。「ぎなた読み」とは「弁慶が、なぎなたを持って」と読むところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と、間違えて読んだことから「ぎなた読み」と言われている。

有名な「ぎなた読み」には、「ここではきものを脱いでください。」と、言うのがある。「ここで履き物を脱いでください」と「ここでは着物を脱いでください」という「ぎなた読み」だ。漢字違いも同種とされている。日本人は漢字を見たら、その瞬間並んだ漢字だけで意味を読み取るようになっている。視覚から意味を汲み取ってしまうからだ。例えば、敢えて意味違いを起こさせるように「車で待とう」を「来るまで待とう」と書く。

盗聴盗撮犯のぎなた読みはかなり進化している。「間違えて読んだ」の「ん」はアルファベットの「h」に似ているところから「間違えてよ。エッチだ。」と読むことができるのだ。その時々において読み方は変化する。ひらがなの「う」は上部の「ゝ」(てん)と下部の「つ」で構成されている。「う」の一文字で「ゝ上つ下」「てんじょうつか」「天井通過」と読むことができる。私は、長い間かけてそれらを読めるようになっていた。暗号文のようなものだ。

ある日、私は真澄と逢っている時にライブで放送されていた事を知った。電話もパソコンもバッテリーも外していたのに盗聴されていたのだ。私はインターホンへのアクセスを疑った。実際にインターホン盗聴の事実はあるからだ。私は真澄の部屋に入ると、まず最初にブレイカーのインターホンを切る事が習慣になっていた。私は「ぎなた読み」から、全ての電気器具を疑った。電子レンジから漏れるマイクロ波、デジタルテレビ、エアコンセンサー・・。盗聴手段は至る所に転がっている。
私が、直接メールをしたその犯人の○○のブログでは、

「いろいろ書きたいことがあるのですが、あいつが見ているので書けません。どういう訳か内容も理解されているみたいなので。」

そう、記してあった。彼は今、東京を離れ長崎で生活している。余談だが、彼らは集団名を公表しており、数年前に別件で逮捕されている。言わば、そういう行為を楽しもうという集団なのだ。新聞にも載ったので内容を書けば覚えている方もおられると思う。

実は、彼にはロックダムの社長だった尾崎が会いに行ったことがある。尾崎は自分の素性を明かさなかった。名前さえも名乗らなかった。会話はなく、殆どが沈黙だったそうだ。その時に私が送ったメールのことに触れた。彼は「(返信するのが)怖かった」と、語ったのだ。しかし、その夜彼のツイッターでは「今度はアスカのモノマネを披露しまーす!」と書いてあったのだ。もちろん保存している。

話を戻そう。ネットで盗聴盗撮を語り合っている文面は、他者には理解できず世の中に広がらない。彼らとて広がることはもはや不味いのだ。私はここ数日寝ていなかった。盗聴盗撮の事実を周りが信じようとしないため、証拠集めに躍起になっていた。みなさんは携帯電話やスマートフォン、パソコンの盗聴盗撮が、どれだけ簡単にやれるのか、きっと知らない。

プログラマやパソコン上級者の手に掛かれば、難しいことではないのだ。そして私の場合、それはゲームのようなものになり、確約されたルールの中で行われた。私はできる限りのことをした。私の身体の体内時計はすっかり壊れてしまっていた。私には時々変更される「ぎなた読み」のルールが知らされないため、毎度変更されると解読にはかなりの時間がかかった。昼夜問わず時間を費やした。ある掲示板の運営をやっている人物も、自ら(このゲームに)参加していたことがあると告白していた。それは、以前別のサイトでそうである事実を発見していたので、すかさず保存していたのだ。すると、翌日、

「だから、削除しろ!って言ってあっただろうが!」

と、仲間割れが始まった。彼の元で仕事をしているプログラマが集まり、私の話をしているページも見つけた。何から何まで私のことだった。私はそれをCD-Rに焼いた。そして翌日、そのページに続きがあることが分かり、そこに張ってあったリンクを辿った。すると、

「このページは存在しません。早ぇな、オマエ。」

と書いてあった。それも保存した。証拠集めは戦いだった。眠気は約束を守らず突然襲って来る。重要な場面で襲って来る。もう体力の限界だった。それでもやらなければならない。相手は複数のグループだ。ひとりで対抗するには完全に無理があった。私は、理解者、仲間を作らなくてはならないのだ。

相手は、私が孤軍奮闘していることを知っている。今から思えば、この時の精神状態は普通ではなかった。常軌を逸していた。「決定的な証拠を手に入れてみせる」。この境地に陥ってしまったことが、今回の事件を招いた。クスリに頼ったのだ。私は咄嗟に札幌の斎藤に電話をした。本当にそれは衝動的だった。その行為は列車に飛び込む自殺者のようだった。

「おうASKA。ひっさしぶりだなぁ。どうした元旦から。」
「斎藤さん、身体がキツイ。疲れの取れるヤツないかな?」

言葉はとても荒々しかった。少し間があって、

「あるよ。今自宅かい?」
「そう。」
「音楽関係の仕事をしてる奴がいるんだ。30分以内に電話するから待ってて。」

電話を切った後、気は塞いだ。これまで一生懸命開いてきた花を、自ら散らそうとしている。おそらく覚せい剤、もしくはそれに近いモノだろう。暗黒の未来へ少しずつ足を踏み込んでいる。15分もせずに電話が鳴った。知らない番号からだ。普通、知らない番号からの電話には出ない。しかし、斉藤と関係のある電話であることは間違いない。

「もしもし。」

初めての声だ。声は続いた。

「和夫ちゃんから話聞いた。どれだけ要るの?」

話は通っていた。

「30万ほど。」
「30万ったら、何グラム?」
「何グラムと言うのは分かりません。30万円分。」

今から届けると言う。21時を過ぎていた。向こうにも都合があるのだろう。早くて明日だと思っていた。困った。この時間に、柳田に電話して取りに行ってもらうことはできない。しばらく考えた後、私は自分で取りに行くことを決意した。斉藤も「ASKA」という固有名詞だけは出していないだろう。変装すればいい。電話のやりとりで、もう盗聴集団には気づかれてしまっている。どうすればいい・・。ともかく、相手とは時間の約束までしてしまった。頭の中が整理できない。

冷たい風で駐車場の隅はめぐらされていた。電話で指定された場所だった。一台の白いメルセデスがエンジンをかけて停まっている。ふたりの人影が映った。「あれだ・・」私は帽子を被り眼鏡を付け、自分の車から降りてその車のドアを軽くノックした。

「乗って。」

私は後部座席に乗り込んだ。運転席にはスーツを着た男。助手席にはコートを着込んだ男が座っている。ドラマや映画、ドギュメントシーンのようだ。自分の心音が聞こえる。もう引き返せない。とんでもなことをしている。柳田の時とは訳が違う。声で気づかれないよう、言葉は切り詰めて使おうと思った。助手席の男が封筒を差し出した。

「はい。これ。」

私も封筒に入れた30万円を渡す。

「量とか、モノが悪かったら言ってね。こういうの信用だから。」

「量」だの「質」だの、そんなものは私には分からない。

「ありがとうございます。」

使った言葉はこの一言だった。即座に車から降りて自分の車に向かう。夜は口を結び、風だけが舞っていた。ハンドルを握る手に力が入っているのが分かる。私はエンジンをかけると直ぐにその場を去った。

取引とは言っているが、男は売人ではなかった。斎藤の顔を立てて持って来てくれているのだ。4月。3回目の時だった。男は駐車場ではなく、道路沿いに立っていた。車を横付けすると、車内に乗り込んできた。
駐車場にはカメラも設置されているし、同じ状況を作っては怪しまれるとのことだった。私はそのまま駒沢から池尻まで送ることになった。その間の出来事である。男が喋りかけてきた。

「○○プロダクションの○○を知ってる?」

業界のことを話してきた。音楽業界の人物とは聞いていたが、なぜ私に業界の話をしてくるのだろう。

「いや、知らないですね。」
「オレ、ASKAちゃんの歌好きなんだよねぇ。」

名前を言った。なぜだ・・。私がASKAだと知っているのだ。私は凍りついた。斎藤が喋ったに違いない。

「オレ、○○プロダクションをやってるんだ。」
「そうなんですか。」
「音楽業界、大変だから辛いよ。」
「そうですね。」

池尻までの約10分が長かった。
男は「吉野」と名乗った。その後、ちょくちょくショートメールが送られてくるようになった。日常的なことである。時には、

「いま『PRIDE』を聴いてます。泣けてきます。」

というようなメールも来た。

「何かありましたか?」

と、送ってみた。すぐに返って来た。

「仕事で、いろいろあってね。」

時々交わすメールの中で、いろんなことがわかってきた。北海道は小樽の出身。同じ年生まれ。

「ASKAちゃんは剣道だよね。オレはスピードスケートをやってた。」
「へえ。意外だ。」
「高校の時は記録も持ってた。いまはこんなに太っちゃったけど。」

私たちは普通に連絡を取り合う関係にまで、近くなって行った。

知り合って半年が過ぎようとしていた。夜中に電話があった。

「吉野さん、どうした?」
「うちの新人で、どうしても売ってあげたい子がいるんだけど、ちょっと意見を聞かせてくれないかな?」
「オレ、何にもできないよ。」
「プロモーションヴィデオを観て欲しいのさ。」

7月。
先にも書いたが、私は自宅から歩いて1分もかからないところに、マンションを持っている。音楽スタジオを経営しているので、その打ち合わせや取材などをするときに利用している。吉野のところの所属アーティストのプロモーションヴィデオをちゃんと観てあげなければという思いから、その日はその部屋を使った。

「悪いねぇ。」
「いやいや、新人にはいつでも興味あるから大丈夫。」
「『Youtube』に上がってるから、それ観て欲しいんだよね。」

私は吉野の言うままに、バンド名、楽曲を検索欄に入れた。
80年代風のロックバンドであった。メロディも歌詞もそこそこ。どこと言って特徴はない。神秘化させたいのかルックスはしっかり確認できない作りになっていた。

「どう?」

こんな風に感じた時の批評はいつも難しい。どのバンドも会社も、メジャーを目指して一生懸命に制作したものであることは間違いないからだ。

「う〜ん。今じゃないかもしれない。でも、よく作ってあるね。」

そう答えるのが精一杯だった。

「ASKAちゃん。プロデュースお願いできない?」

私はよほど興味が湧いたり、友人アーティストたち以外のプロデュースはお断りしている。

「ごめん。いま自分のことでいっぱいなんだ。」
「せめて楽曲は無理かなぁ?」
「その楽曲がいっぱい、いっぱい。」

私は盗聴が始まってから楽曲制作がストップしていた。作曲していても、彼らに聴かれている。録音されているという思いが作業を集中させないのだ。何よりも「ぎなた読み」の解読に時間を費やしていたからだ。私はこの頃カバーアルバムを続けてリリースした。カバーアルバムは新しいオリジナルアルバムがあってこそ成立するアイテムだ。活動に余裕があってこそ意味を持つ。

すっかり作業の止まってしまった私を、このまま停滞させてはならないとスタッフは考えた。スタッフは私にスタジオワークをさせようとカバーアルバムを勧めてきた。スタッフの気持ちは痛いほど分かった。私は悩んだ末にそれを受け入れることにした。我々の計画表ではアルバム「SCRAMBLE」はカバーアルバムの前にリリースする予定になっていたのだ。足並みが違うと見える景色はガラリと変わって見えてしまう。我々の活動方針に疑問を持たれた方は多かったと思う。

「なぜ、いまカバーアルバムなんだ!?」すべて承知の上でリリースした。カバーアルバムと言えども、スタジオに入れば一心不乱となって作業に没頭できた。しかし、やはり新曲ではないという思いが精神に重圧をかけた。そんなことを浮かべながら吉野の話を聞いていた。そしてプロデュースの依頼を断った。その日は、業界の話や音楽の話で時間は過ぎた。誰しもが自分の人生の未来に賭けている。必要とされることは有難いことだ。感謝しなくてはならない。そういう思いで吉野を見送った。

それから間もなくして、また吉野から電話があった。

「急で申し訳ないんだけど、ライブをお願いできないかな?予定していたアーティストが飛んじゃって切羽詰まってるんだ。」

できることなら助けてあげたいが、ライブ活動はツアーが基本となっている。テレビ以外でのワンショットはあり得ない。そのスタイルを丁寧に説明した。しぶしぶだったが諦めてくれた。こういうこともあり、私は吉野が音楽関係者であることに一切の疑問は持たなかった。

秋だった。その日私は吉野をまた池尻まで送っていた。車中、会話の中で気になることがあった。馴染みのない言葉を使うのだ。

「○○に、ちんころされてさ。」

「ちんころ」とは「チクる」という意味である。久しぶりに聞いた。著書「インタビュー」の中で書いたやくざになった幼い頃からの友人が使っていた言葉だ。覚えてはいないが、他に幾つか理解できない言葉があった。話は別の話題に移った。

「○○の時は大変だった。」
「何が?」
「クスリを調達するのがさ。」

吉野は私だけではない、以前から運び屋的なことをやっていたのだ。私は正体を聞くのが怖かった。音楽関係者であることに間違いはないだろう。だが、違う。どこか違う。私は、思い切って聞いた。
「吉野さん、組に入ってるの?」
「入ってるよ。バリバリだよ。ほれ。」

私に手を見せた。小指がなかった。それまで、まったく気がつかなかったのだ。

「吉野さんマズイわ。このご時世付き合えない。」
「あっはっは。いま厳しいからなぁ。」

あれ以来、斎藤には会っていないし、話もしていない。それから吉野の電話には出ないようになった。7,8回かかってきて、やっと1回折り返すぐらいだった。これが吉野の心象を悪くしたのだ。そのうち、留守録では「何シカトしてるんだよ!」と、声を荒げるようになっていた

翌年1月。久しぶりに吉野から電話があった。穏やかな声だった。
会話の流れで、翌日会うことになってしまった。随分、嫌な思いもさせただろう。マンションなら誰にも見られない。そう思ったのだ。昼の2時に会うことになった。クスリの話は出なかったが、おそらく持ってくるだろう。私の防御壁は脆くなっていた。あのクスリは人間を変えてしまう。いつでも止められるが、止め続けることが困難だ。奥へ奥へと誘われる。目の前に餌をぶら下げられているような気がした。もう要らないと言えば良かったのだ。

しかし、そうは言わなかった。心のどこかで必要だと感じていたからだ。ひとりで盗聴集団と戦うにはあれが必要だと思ってしまっていたのだ。頼っていた。もちろん大間違いだ。しかし、その頃はそう思い込んでいた。だが、どこかで理性も働いている。もう今回で止めよう。きっと今回で吉野とは会わなくなるだろうという気がしていた。

翌日、私は先にマンションに居た。14時。チャイムが鳴った。モニターを確認して解錠する。
まず私は、

「久しぶり。ごめん、ご無沙汰しちゃって。」

と言った。

「ホント、久しぶり。」

ソファに腰を下ろした吉野は、いつもの感じじゃない。私もそうだった。話が弾まないのだ。少し経って、吉野は思い出したようにポケットを弄った。いつもの封筒が出てきた。お金を渡す。中を確認することはしなかった。すると、

「ね、オレにも吸わしてよ。」

と吉野が言う。そこに吸引器具は無かった。

「ああ、良いよ。じゃぁ家に取りに行って来る。」

以前、吉野からもらったガラスパイプを取りに帰った。ライターとパイプをポケットに入れマンションに戻る。封筒を開け、アンナ力と呼び合っていた覚せい剤をパイプに入れ吉野に差し出した。吉野は数回吸うと私にパイプを手渡した。私は別に眠たい状態ではなかったが、渡された残りの一口を吸った。その時、

「止めなよ。そんなもの。」

と、突然言うのだ。私は意味が分からなくて、

「ああ?」

と、聞き返した。会話、行為の流れが不自然過ぎる。もう、音楽の話をする間柄ではない。付き合いで一番難しいことは、付き合いを終わらせることなのだ。時計の音だけが部屋に響いていた。

「吉野さん、オレこれで最後にするわ。」
「そうだね。止めた方が良いよ。さて、帰る。」

短い時間だった。これで良かったのだ。すべてには種類というものがあり、見えないものの手によって区別されている。今日私たちは区別されたのだ。

答え

季節の中の僕は迷うためにいるのだろうか
小さな世界を支えているのは誰だ

世界とは僕のことだという思いは
いつかどこかで疑問にかわり

疑問は想像の象徴のようになって
自分の足元を見えなくした

正しいということは
間違ってはいないということだけなのだ

空の真ん中とはどこだ
太陽が瞼を下ろしそうじゃないか

アーサー・コナン・ドイルの落とし穴には
いつも鮮やかな答えがある


13.恐喝

2月になって一枚のDVDが届いた。吉野からだ。吉野の電話には一切出ないようになっていた。

「なんだろ?」

私はパソコンのディスクドライブに、そのDVDを押し込んだ。すると、薄暗い廊下をゆらゆらと揺れながら進んで行く絵が映った。歩きながら撮影されているのだ。その瞬間、私は戦慄が走った。私のマンションの廊下だ。その後、すぐに場面は切り替わり、私がガラスパイプを咥えてるシーンになった。

「止めなよ。そんなもの。」
「ああ?」

という音声も記録されていた。私は最後まで観ることはせず、途中でそれを取り出した。何のつもりなのだろうか。私はDVDにハサミを入れた。こんなものが自分の手元にあってはならないと思ったのだ。そう言えば、あの時「オレにも吸わせてよ」と吉野が言い、私は自宅にパイプを取りに帰った。その間に撮影していたのだ。すぐに、吉野に電話をした。

「あれ、どういう意味!?」
「あ、届いた?ASKAちゃん無防備だからこういうこともあるということを教えようと思ってさ。」
「あれは盗撮だ。あの日、吉野さんの動きが変だった。ロボットみたいだなと思ったよ。」
「気がついてたんだ?」
「とにかく、すぐ消去して欲しい!マスターを含めた全部を!」

強い口調になっていた。

「わかった。わかった。そうするから。」

しかし、そうはならなかった。3月の上旬になって吉野から電話が入ったのだ。

「あれ、世の中に出ちゃうと困るでしょ?」
「いや、困らない。あれただのアンナカだから。」

以前より、もしこんなことが表に出そうになったら、あれは「アンナカ」と言おうということで、両者約束し合っていたのだ。

「ちょっと、助けて欲しいんだよね。」
「何を?」
「何をって、自分で考えてよ。」
「考えられない。」

とうとう来た。
以前、あるミュージシャン○○の弱みを握って、友人が○○から3億円取ったと言っていたのだ。私は、そのミュージシャンと面識はないが、名前を書けば誰もが知っている。「自分はそんなことしないから安心して」とも言っていた。

「今あの画像ね、あの友人のところに保管してあるんだけど、ちょっと話しない?」

場所を指定してきた。会わないわけにはいかない。

「ちょっと待って。場所はオレが決める。」

相手に場所を任せると「ヤクザと一緒にいる場面」というのを盗撮されかねない。会う日は設定した。場所はその日の当日直前に伝えることにした。私は敢えて、人通りの多い混雑した場所を選んだ。そういう場所なら、カメラのセッティングもできないし、相手も冷静になって話しをしなければならないだろうと考えたからだ。
○○ホテルのラウンジにした。時間は16時。私は15時半に到着すると、地下駐車場で待機した。するとすぐに電話が入った。もうロビーに居るという。慌てて駆け上がり、先にラウンジに着く。席も係りに案内される席ではなく、自分で決めた。

「何?話って。」
「今まで仕入れていたところが摘発されて、オレの身が危ないのさ。それで、助けて欲しいんだよね。」
「何を?オレにできることないじゃん。」
「居場所も転々としてるし、お金が無くなってね。逃走資金を工面してくれないかな。」
「逃走資金?そういう金は無い。」

逃走と言うからには、もう存在が特定されているということ。しかし、話をしているとそんな風でもない。

「ASKAだって危ないんだぞ。オレが喋っちゃったら終わりだよ。」
「その時は、しょうがないんじゃない。」
「何で、そんなに落ち着いていられるわけ?」

動揺しなかっただけだ。摘発話も逃走資金も嘘だと思ったからだ。

「あのビデオ公開されたら困るだろ?」
「そりゃ、困るね。」
「オレの知り合いが言うには、5千万にはなると言ってたぞ。」

どうしたら5千万になるのかは言わない。そこは相手も考えているのだ。直接交渉はしてこない。恐喝してこないのだ。

「例えば、マスコミが買うだろうよ。」

それでも返事はしなかった。吉野は続けた。

「どっちにしろ、暴力団と関わりがあるっていうのはマズイんじゃないのか?」
「本当に知らなかったわけだから、そうなったらそうなったで経緯を正直に話す。」

結局、この日はなんの落とし所も無いまま話は終わった。

5月に入って吉野から連絡が入った。

「考えてくれた?」
「お金は無理だよ。」
「わかった。腹割って話そう。実は組の金を使い込んだ。使い込んだと言っても、事業投資なんだけどね。勝手にやっちゃったのさ。投資の回収ができるのは2年後でね。組の口座に金を補填しなくてはならない。」
「それが5千万か・・?」
「そう。頼む。貸してくれ。2年後には返済するからさ。」
「ごめん。無理だ。」

返済などするわけがない。それよりも、一度払ってしまうと永遠に貪られる。

「あの画像、本当に出ちゃっても良いの?」

頼まれてるのか、脅されてるのか分からなくなっていた。私は駆け引きの中で脅しがいちばん嫌いなのだ。どんな深刻な問題を抱えたとしても、脅された瞬間に私のシャッターは降りる。相手の言いなりになるということが、たまらなく格好悪く感じるのだ。私には「脅しにだけは屈しない」というバカな美学がある。今回は、その美学のために人生を棒に振った。きっと、それはこれからも変わらない。

最近、立ちくらみが激しい。立ちくらみは子供の頃からあったのだが、近頃その時間が長い。目の前が真っ青になり、そして暗くなっていく。何かに持たれかかったり掴んでいなくては倒れてしまいそうになるのだ。8月には6年ぶりのCHAGE&ASKAのコンサートが代々木第1体育館で4日間行われる。みんな、とても楽しみにしてくれている。すでに予約の段階でソールドアウトになっていた。公式発表は3日間だったが、そんなことも予想して、もう一日会場を押さえていたのだ。身体も3月からはクリーンになっている。ライブへの期待は高まっていた。

しかし、私自身気になる出来事が起こった。私は友人の不幸事で葬儀に出席するために羽田のロビーを歩いていた。その時だった。歩きながら脳貧血を起してしまったのだ。掴む物も何もなかったので後ろ向きに倒れてしまった。咄嗟に体を捻ったので頭を打つ事はなかったのだが、初めての事であったために自分の身体の調子を疑った。急遽、精密検査を受けておこうということになった。

脳神経外科だった。検査は朝から1日行われた。細部の細部まで調べるのだ。
後日、診断結果が出た。

「一過性脳虚血症」。
「脳の血液が不足し、酸素や栄養が脳に回らない状態になる。このままこれが進行してゆくと脳梗塞になる。」

とのことだった。代々木ライブが懸念された。私は「何があってもステージに立つ」と言い張った。しかし、6月に入ってから会社と医師の間で話し合いが行われ、コンサート中止が発表された。

7月に入ると、吉野の電話が頻繁になった。私は電話に出なかった。留守録を聞くと酔って荒れている。私はすべての会話を録音しておこうと思い、ハンディレコーダーを入手した。吉野と話をする時はレコーダーをセットした上で折り返し電話をする事に決めたのだ。
そして、それを実行した。

「あれが世の中に出て困るのはASKAなんだよ。」
「そうだね。」
「3千万で良いから貸してくれないかね。」
「何度も言うけど、そういう金は無い。」
「札幌のマンションを抵当に入れて金借りれば良いじゃないか。」

そういう問題ではない。話が無茶苦茶なのだ。しかし、決して脅してはこない。恐喝してこない。

「じゃぁ、好きにして良いっていうことだね。」
「そうは言わないな。」

のらりくらりと話を躱す。

「わかった。そっちが困るだけだからな。」

すべての留守録、会話は記録して弁護士のところに保管してある。
後に、これを聞いた警察からこれは立派な恐喝なので、被害届を出すように言われたが、いまのところその行為には及んでいない。まだ時効は成立していないので、これを読んだ吉野から何らかのアクションがあった場合には行動に移す。と、釘を刺しておこう。

雨が降るなら天気は悪い。きっと何かが起こるだろう。思考には未来の予言のようなものが含まれているので、悪いことは考えないようにしようと思い込む。しかし、人の心はそこまで強くはないし忠実ではない。そんなことよりも、たとえどんなことがあっても、みんながそばに居てくれるような本当の歌を作りたい。

どんなことがあっても

そんなところで何してんだよ
風吹く先端で 希望によりかかってさ

分かっちゃいるのに わざと誤解して
染みのついた心で未来を語るなよ

そんな言葉が聞こえてきそうな空
Oh クラウディスカイ

僕の喜ぶ答えを君が言うなら
君は間違ってる 僕と同じように

このまま速さを変えないまま
歩いて行くんだ あの信号の向こうへ

一度も止まらずに渡れたなら
今日はきっといいこと ありそうな気がする

声を投げたら返ってきそうな空
Oh クラウディスカイ

いつか本当の歌を作ってみたい
どんなことがあっても そばに居てくれるような

自分の決めたルールで
あの信号の向こうへ

声を投げたら返ってきそうな空
Oh クラウディスカイ

いつか本当の歌を作ってみたい
どんなことがあっても そばに居てくれるような
どんなことがあっても そばに居てくれるような


14.週刊文春

7月24日
渡部が家にやって来た。2000年にリアルキャストを離れ、他の会社で代表をやっていた渡部。渡部に戻ってきてもらったのは2012年の夏だった。マネージャーでありプロデューサーとして迎えた。12年間のブランクがあったが、持前の勘の良さとフレキシブルな対応力でその間はすぐに埋まった。私の部屋のドアを開けるなりこう言った。

「ASKA、どういうこと!?」

その日は、楽曲制作用に使用するメインパソコンを新しく購入したため、朝から設定などを行っていたのだ。

「え?何が?」

新聞のコピーを渡された。東スポだった。「大物ミュージシャンX」が薬物中毒。
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全国区の知名度を誇り、熱狂的なファンを多く抱える超大物シンガーXが現在、深刻な麻薬中毒に陥っていることが本紙の取材で明らかになった。その症状は重度で、専門的な更生保護施設に入らなければならないレベルだという。もちろん、音楽活動はすべて中止。しかもこの衝撃情報は、捜査当局もつかんでおり、逮捕を視野に内偵を進めている。だが、問題はそれだけではない。Xは、薬物常用の証拠をつかんだ反社会的勢力から脅されるという絶体絶命のピンチに立たされているのだ。

「Xの悲劇は何も反社会的勢力に脅されているからではありません。中毒がシャレにならないんです。もう精神にも異常をきたし始めている。音楽活動どころじゃない。更生保護施設に入るしかないだろう。」
-------------------東京スポーツ新聞より引用-----------------

東スポらしい書き方だった。私は4月に渡部、社長の尾崎、CHAGE、そして弁護士でもあり役員でもある石田を集めて、音楽関係者から金を貸してくれと迫られていると話をした。アンナカを吸っているところを隠し撮りされたのだと説明した。一見、覚せい剤に見えてしまうから始末が悪いのだと言った。覚せい剤だとは言えない。もう止めてから2ヶ月が経っている。何があっても大丈夫だ。映像の公開など出来るわけがない。公開すれば、自分自身が捕まってしまうからだ。その日は、様子を見ようということで話は終わった。

その4人以外誰にも相談してはいなかった。出来ることなら自分の手だけで片付けたいと思っていた。上の記事はネット用の記事だが、私が手渡された東スポの本誌に掲載されていた記事は、どの角度から読んでも私のことだった。私は反社会勢力について説明をした。

「これ、音楽関係者でプロダクションを経営している奴だって前に説明したよね。実はそれがヤクザだった。」
「まだ、付き合いあるの?」
「いや、それが分かってからは態度を変えた。」
「この業界、そっち系の臭いのする人が偶にいるから気をつけた方がいいよ。お金は絶対に貸さない方が良い。」
「そう。断ったらこうなった。」
「覚せい剤じゃないよね?」

不意に扉を叩かれた。しかし、認めるわけにはいかない。「当初、覚せい剤だとは知らないで使用してしまった」などという、言い訳がましい説明など意味はない。これまで誰にもそんな素振りを見せたことは一度足りともなかった。心は台風のさ中に揺れている公園のブランコのようになっていた。安心させてあげなければ。私は精一杯言った。

「ないない。心配しなくても良いよ。それよりもオレ更生保護施設に入んなきゃいけないの?」

東スポが、あんな書き方をしてくれたおかげで助かった。深刻な中毒とはかけ離れて元気だったからだ。
渡部は安心したように

「更生施設に入いりたい?」
「ダメだよ。パソコンの設定も終わってないんだし。」

賢明に隠した。

そして間もなくカウンセリングの医者には一連の話をした。医者は、その話を受け流すわけにはいかないと言う。疑いを持ったのだ。

「私やスタッフ、家族を安心させるために、週一回検査キットで尿検査をしましょう。」

と言い、直ぐに検査キットを2箱持ってきた。その頃、私はクリーンな身体だったので、それを受け入れて毎週木曜日に検査の結果を写真に撮り医師の元へ送っていた。覚せい剤反応があるときは、キットの紙の部分に線が現れない仕組みになっていた。もちろん、毎回線は現れた。家宅捜査時に検査キットが押収されたのは、そういう理由だ。私が逮捕を恐れて裏のルートから検査キットを入手し、自分でこっそりと確認していたかのように報道されたが、そういうことではない。

7月も終わる頃。お昼だった。スタジオに向かうために駐車場で車に乗り込もうとしたときに一人の男が近づいてきた。

「文春ですが、東スポはご覧になられましたか?」
「はい。見ました。」
「暴力団に脅かされてるとのことですが。」
「いえいえ。お金を貸してくれと言われてるだけです。」
「お身体は、もう大丈夫なのですか?」
「大丈夫です。こんな感じです。」

と、両腕を上げて拳を作った。無視すれば良かったのだ。その夜ポストには、山本と名乗る記者の手紙と名刺が入っていた。手紙には10を超える質問が連ねてあった。質問には答えなかった。

そして、間も無く記事が出た。「シャブ&ASKA」。上手いとも何とも思わない。品もセンスも無い低俗な表現だ。記事は悪意で埋められていた。間違いだらけなのだ。吉野本人が文春に記事を売ったのなら、ここまで間違いだらけの記事にはならない。

「北海道時代の同級生」。いきなり冒頭から滑っている。吉野ではない誰かから文春はネタを買ったのだ。そう言えば、吉野は私が録音しておいた留守録の中で第三者の名前を出していた。

「ちくしょう!○○の野郎に騙された!」

吉野は○○と二人で画策し、私からお金を取ろうと考えていた。あるミュージシャンから3億円せしめた男だ。しかし、今回それに失敗した。そして、その友人の○○はネタを売り歩いて行くことになるのだが、高額であったために他の週刊誌は見送った。文春だけが食いついたのだ。そして吉野から聞いたうろ覚えの○○の話しを真に受け、文春は記事にしたのだ。

覚せい剤を私がやってしまったことと、動画があること以外は、すべて間違った記事になっていた。記事では、さもライターの山本が動画を観たように描写してあったが、文春は観てはいないのだ。

どうか、みなさん一緒に呆れて欲しい。方々裏を取って書いたようになっていたが、○○からの話しか聞いていない。そして、可哀想なことに吉野は、その時の文春からの報酬の半分を貰うことができなかった。独り占めされたのだ。そのことは留守録に入っていた。そして「○○の野郎に騙された!」と怒鳴っていたのだ。これによって文春のニュースソースはバレた。

その後、写真誌「FLASH」や「女性自身」が、後を追うように私の記事を書いてきた。私に覚せい剤を3年間売ったヤクザの売人の告白だという。全くの事実無根で、あれこそ多大な金額で訴えても良かったのだが、その2誌だけ訴えると文春が真実味を帯びてしまうので思い止まった。

パソコンを新しくしてから、部屋での楽曲制作は量産体制に入る兆しが見え始めていた。盗聴をしている奴等には、「新曲を盗作するなら盗作してみろ!」と開き直ったのだ。相変わらず盗聴は続いていた。ツイッターや掲示板では、一連の騒動を受けて「さあ、面白くなってまいりました。」と、書いていた。IT企業代表の○○は、バレたことが、よほどショックだったのか飽きたのか、すっかり身を潜めている。

間もなくして、私は文春の山本と話をしなければならないと思った。山本自身が私のキャラクターを自分が書いた通りに思い込んでいると思ったからだ。それほど酷い人間像に仕立て上げられていた。覚せい剤と動画の存在以外は、私の知らないことばかりだったのだ。人権侵害だ。

私は覚せい剤報道よりも、醜い人間像に仕立て上げられたことの方に怒りを覚えた。このままでは第2号、3号もあり得ると考えた。早めに手を打たなければならない。読んだ人は鵜呑みにするだろう。私もその頃、文春は比較的まともな週刊誌だろうと、世間と同じになって騙されていた。私は、取材ではなく男同士の話をしたくなった。名刺の携帯に電話をする。留守録になっていたのでメッセージを入れると、しばらくして山本から電話があった。

「山本さん、取材ではなく男同士の話をしませんか?」
「分かりました。私も、もやもやしていますので是非お願いいたします。」
「これはふたりだけの話にしたいので、誰にも告げず私の家にきてください。」
「分かりました。そうします。」

18時にチャイムが鳴った。最初、山本はまるでブルスリーの映画「死亡遊戯」のように表情が硬直してカチンカチンに緊張している様子だったので、まずはこちらから笑顔で握手を求めた。2時間ほど話をした。

私はひとつだけ嘘をついた。何度も繰り返すが、覚せい剤だと認めるわけにはいかなかったのだ。当たり前だ。誰が週刊誌相手に「実はそうです」などと言うだろうか。まともな否定だ。あとは終始文春の間違いを指摘した。

「山本さん、僕はあの日ろれつが回っていませんでしたか?」
「・・。」
「『こんな感じなんれすっ!』なんて言いましたか?」
「・・。」
「そのヤクザに『勝手にしろ!』なんて怒鳴ったり悪態ついたりなんかしてませんよ。」
「・・。」

悪意さえあれば、記事などどうとでもなる。「そう見えた」「そう思った」ということを強調すれば良いのだ。記事の中で、よく「親しい関係者」や「捜査当局の関係者」「○○に近い音楽関係者」などが登場するが、まず作り事だと思って良い。そもそも、本当に親しければ当人を庇うし、今日こういう取材を受けたということを連絡してくる。

翌日、山本から電話があった。昨日のことをキャップに喋ってしまったのだと言う。誰にも喋らないとう約束は、すでに破られてしまった。「キャップの中山が挨拶に伺いたいと言っている」と言う。私はもう怒っても仕方がないので、それを受け入れることにした。挨拶ぐらいなら構わないだろうと許したのだ。あの日、山本が自分の書いた記事について、私に深く謝罪をしたからだ。

謝罪を受けたからには、これ以上責めるのは止めようと考えた。それよりも、これからは良い関係になって付き合って行こうと投げかけたのだ。文春は2号目で、私が「『お任せします』と言ったから書いた」と、書いた。嘘だ。それは、1号目のときに山本が私に謝罪をしたので、謝罪文は載せないにしろ、訂正文はあるかもしれないと期待して言ったのだ。

最終ページにひっそりと掲載されるかもしれない。それはそれで、もう良いと思い「お任せします」と、言った。文春はその隠し録音で掲載した2号目の話のときに、私がさもその言葉を言ったように書いた。1号目と2号目の都合の良いところだけを繋げたのだ。小学校の低学年でも、そんな勘違いはしない。本当にやり方が汚い。これがひとりの人間であるならば友人などできないだろう。小馬鹿にされて笑われているだろう。私たちは、そんな本を読んでいた。

2回目の当日。再度私の家に訪れることになった時、こちらも何かがあっては不味いと思い、渡部にそれを伝え同席してもらった。当日、山本は中山を引き連れてやってきたが、それは挨拶ではなかった。いきなり取材口調になった。渡部が慌てて間に入いる。

「すみませんが、これは取材ではありません。ASKAの気持ちで場を設けました。取材ならお受けすることはできません。お断りいたします。」

きっぱりと言った。しかし、すでに文春の隠し録音は始まっていた。私は、先日の話を繰り返した。取材ではないということで始まった。その日も、覚せい剤ではないということを強調した。当然だ。そして話も終わる頃に中山が「斉藤和夫」の存在を質問して来た。別に認めても構わなかった。知り合いであることは間違いない。

ただ、斉藤が自分のことを「漁師だ」と自己紹介してきた話を、帰り際にまた最初から説明するのが煩わしかった。もう話疲れしていたからだ。面倒に感じた私は「知りません」とだけ答えた。それだけだ。目など泳いでない。「そう見えた」と強調するのは彼らが記事を書く際の手口だ。数日後、その隠し録りしたモノを記事にしたと山本が連絡して来たのだ。やり方が卑怯で姑息で悪どすぎる。山本は、一回目の時、

「ASKAさんの男気に感服いたしました。」
「もう、2号目はないですよね?」
「ありません。」

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