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ヨーロッパ女性を変えたフランス映画の最高傑作『エマニエル夫人 Emmanuelle』

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2022/05/24 (Tue) 01:02:14

ヨーロッパ女性を変えたフランス映画の最高傑作『エマニエル夫人 Emmanuelle』


性を敵視していた欧米女性を変えた シルヴィア・クリステル『エマニエル夫人 Emmanuelle』1974年

監督 ジュスト・ジャカン
原作 エマニュエル・アルサン
脚本 ジャン=ルイ・リシャール
音楽 ピエール・バシュレ
撮影 リシャール・スズキ
公開 1974年6月26日

動画
https://www.bing.com/videos/search?q=Emmanuelle%E3%80%801974&go=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&qs=ds&form=QBVR


『エマニエル夫人』(Emmanuelle)は、1974年のフランス映画である。

エマニュエル・アルサンの小説『エマニュエル夫人』の映画化。タイのバンコクを舞台に当地に赴任した外交官が、若妻を性的欲望に奉仕させるために自らの好みに飼育し[2]、その若妻が美しく開花していくさまを描く[2]。当時のピンク映画、ポルノ映画とは異なり、フランス映画独特の演劇的な演出と甘美でソフトタッチな映像、作品全体に漂うアンニュイな雰囲気が絶妙にマッチして若い女性観客層を魅了、大ヒットを収めた[2][3][4][5]。女性の性が今日ほど開放されていなかった70年代に於いて「ソフトポルノ」と称された「一般映画」公開作品としては衝撃的な内容で[2]、日本女性の性の開放に一役買った[6][7]。シルビア・クリステルはこの作品で世界的な名声を獲得する。

監督は元々ファッションフォトグラファーだったジュスト・ジャカンが務め、当時はファッションモデルとして活動しており、女優としては全く無名だったシルビア・クリステルをヒロイン役に抜擢する。大々的に初の女性向きソフトコア・ポルノとして宣伝され、特に日本で女性中心に大ヒットした。

以後シリーズ化され、後年になってからリメイクもされている[8]。

なお一般的に本作品がエマニュエル・アルサンのエマニュエル・シリーズの初映像化と思われているが、実際は本作品発表から5年前の1969年にイタリアで製作された『アマン・フォー・エマニュエル』(A Man for Emmanuelle、日本未公開)が最初である[8]。こちらはエマニエルをエリカ・ブランが演じた。


ストーリー
バンコクに住む外交官の妻であるエマニエルは、それなりに幸福ではあるが平穏すぎる日常に何処か退屈さを感じていた。そんなある日、エマニエルは知人の紹介で「性の儀式」を受け入れることになる。初めのうちは大人しかった彼女だが、次第に内に秘めた欲望を開花させ、性の解放とその真理を追求するため大胆な女性へと変貌していく…。


キャスト
役名 俳優 日本語吹替

エマニエル シルビア・クリステル 山口いづみ 岡本麻弥
マリオ アラン・キューニー 横森久 佐々木勝彦
ジャン ダニエル・サーキー 羽佐間道夫 小川真司
マリアンジュ クリスティーヌ・ボワッソン 藤田淑子 伊藤美紀
ビー マリカ・グリーン 平井道子 一柳みる
アリアーヌ ジャンヌ・コレティン 鳳八千代 弥永和子


公開方法
全編セックスやレズ、オナニーシーンのオンパレードで、ポルノ指定を受けなかったのが不思議な映画である[11]。結局、数10ヵ所の削除・修正のうえ、一般映画として封切りされることが決まったが[2]、公開前より、女性層、特に女子高校生層の関心が高かったため、青少年保護の立場から一般映画として公開することが問題視された[2]。地方自治体から「有害指定にすべき」と批判が寄せられたり[2]、東京、大阪などでは一般映画にしたが[12]、福岡、山口、静岡、新潟など[12]、都道府県によっては、各都道府県の青少年条例で、有害興行に指定し[12]、18歳以下は不可とするような、勝手に条件付き上映を促すような動きが現れ[12]、"映倫不在"の事態が生じた[2][12]。このため、1974年3月19日の映倫維持委員会総会において岡田茂委員長より会員全員に対し、映倫審査の厳守、無断改訂の禁止が再確認された[2]。この決定により、映倫審査終了後に上映プリント等の一部の改変(削除、増補、再編集等)はできなくなった[2]。映画の表現方法は時代と共に変容し、その時々の社会風潮を反映する題材・描写は多様化するため、従来のように「一般映画」と「成人映画」の二種類のみに映画を分類・区別することに無理が生じてきた[2]。続編『続エマニエル夫人』でも同じ問題が生じたため、映倫は「一般映画」と「成人映画」の中間段階に位置する新しいランク、一般映画制限付き(R)の新設を決定した[4][13]。R指定適用第一作は、1976年の唐十郎監督の『任侠外伝 玄海灘』(唐プロ制作、ATG配給)である[13]。以降、R指定の適用基準は、粗暴性、残虐性、教育上好ましくないなどだが[12]、ほとんどは性描写[12]。このためなるべく広範囲の客を相手にしたい映画会社は、なんとか一般映画になるようこれに引っ掛かりそうな映画は、問題シーンをどんどんカットするようになった[12]。

作品の評価
日本公開に先立つ1974年12月7日付けの毎日新聞社夕刊は、本作を以下のように紹介している(スタッフ名、言い回し等は全て原文のママ) 「若い人妻の奔放な性行動を描いたフランス映画『エマニエル夫人』が近く公開される。1963年発表のエマニュエル・アルサンの同名評判小説をモード・カメラマン出身の監督、ジャスト・ジェーキンが処女作として製作したものだ。この『エマニエル夫人』のヒットで、ジェーキン監督のもとにはフランスの映画プロデューサーたちが競って企画が持ち込まれ、そのほかにも『エマニエル夫人』に追従する同種の作品が続々誕生する気配だ。内容は、パリから夫の赴任地であるタイのバンコクへ来たエマニエル夫人が、金と暇を持て余している現地のフランス人社会で、スカッシュ仲間の中年女性や遺跡発掘をしている男勝りの女性学者らと同性愛にふけったり、老プレイボーイに性テクニックの手ほどきを受けるといった日常を描くものだ。アメリカ映画界の、今やニューシネマの旗手と目されるジェリー・シャッツバーグ監督は、プロ・カメラマンの出身、また日本で新鮮な映像感覚をもって知られる斎藤耕一監督は、日活のスチール・マン出身と、写真家の映画進出が盛んだが、この映画のジェーキン監督も、フランス版PLAYBOYの男性専門誌『ルイ(フランス語版)』誌上で活躍していたカメラマンだ。エマニエル夫人を演じるシルヴィア・クリステルは、この『ルイ』やフランスのファッション雑誌『ヴォーグ』を飾るトップ・モデル。オランダ生まれの22歳だが、成熟した女を感じさせる一方での子供っぽさ、あくなき好奇心と行動意欲に燃えながら、有閑夫人のどこか投げやりなけだるさを感じさせるエマニエル夫人をピッタリの役どころで演じている。監督は婦人専科のカメラマン、主演はトップ・モデルというこの映画は、雑誌のカラー・グラビアがやわい色調の中に動き出したようなソフトな美しさ。日活ロマン・ポルノという言葉に対比すればムード・ポルノとでもいうようなあやしい官能のドラマである。パリで無修正の『エマニエル夫人』を見たというファッション関係者、観光OLも多く、話題はこの映画でもちきり。男性専用のアメリカ、北欧、西ドイツなどのポルノ映画に対して女性用ポルノ映画の登場といったところだ。なお、ジェーキン監督のもとでこの映画の撮影を担当しているのはリシャール・スズキという日系二世カメラマンだ」[14]。

これらの記述から、本作は"ソフト・ポルノ"として宣伝されたと紹介されることが多いが[8][15][16]、"ソフト・ポルノ""ソフトコア・ポルノ""ソフトコア"といったフレーズが公開当時のその他の文献にも見つからず、1975年の映画界を総括した『キネマ旬報』1976年2月下旬号でも『エマニエル夫人』を"ファッショナブルなポルノ映画"と紹介しており、"ソフト・ポルノ"というフレーズを使っていない[17]。"ソフト・ポルノ"というフレーズがいつから使われるようになったのかは分からない。また"初の女性向きポルノ"と言われることもあるが、"女性向きポルノとして初めてヒットした映画"という言い方が正しい。"初の女性向きポルノ"として宣伝された映画は、1971年2月6日から2月19日までの二週間、丸の内松竹、東急レックス、日活オスカーの三館で上映された『初体験』(『L'Initiation(フランス語版)』、東京第一フィルム配給)である[18]。同作は甘いシャンソンが流れ、ファッショナブルな内容で、東京第一フィルム宣伝部が「女性ポルノ映画」として売ったが先取りしすぎで大コケしていた[18]。

また、当時ポルノ映画は、どの生産国も男性専用だったと見られ[18]、当然日本も同じで、ピンク映画、ポルノ映画は日本でも人気を博していたが、日本の興行者は女性向けのポルノなど誰も考えてはいなかった[19]。邦画で東映ポルノを製作配給、洋画(東映洋画)で洋ピンを配給していた岡田茂東映社長は[20]、本作を評して「あれは女性の見るポルノといえます。今までああいった映画は男性を対象に作っていた」[19]、大ヒットした理由について「まずヘラルド映画の宣伝の勝利、美しい映像と美しく華麗なエマニエル夫人を徹底的に美の象徴としてテレビのCMとして売ったことだ。セリング・ポイントを的確に掴んだ上手さだ」と褒めちぎった[11]。岡田は『エマニエル夫人』の大ヒットに驚き、一時表面上は撤退していた東映ポルノの本格再開を指示し[19][21][22]、1975年からまた活発にポルノを作らせた[23][24][25][26][27]。また『続エマニエル夫人』を買い付けようとヘラルド、東和と争奪戦を演じたがヘラルドに負けた(契約は推定100万ドル)[28]。

本作は社会現象にもなり、多くのエマニエル便乗商売を生んだ[8]。便乗映画としてはメジャー会社でポルノを製作していた東映と日活で『東京エマニエル夫人』という同名タイトルで映画製作がバッティングし[24][29][30][31][32][33][34]、日活ロマンポルノが先に五月みどり主演で『東京エマニエル夫人』を製作しようとしたが[24]、五月が日活の誘いを断り、代わりに田口久美主演・加藤彰監督で『東京エマニエル夫人』が日活で製作された[30][35]。同作は配収1億8000万円をあげ、ロマンポルノ始まって以来の大ヒットになり、続編『東京エマニエル夫人・個人教授』(藤井克彦監督)も製作され大成功を収めた[23][24][29][30][36][35][37]。東映はタイトルを『東京ディープスロート夫人』に変更し[24]、田口久美を主演に招き、同作を製作[24]。また五月みどり主演で『五月みどりのかまきり夫人の告白』を製作した[22][31][38][39]。外国人女優の招聘に実績を持つ東映は、海外市場も狙い[40]シルビア・クリステルを日本に招いて『現代ポルノ伝 先天性淫婦』とよく似たプロットを持つ『エマニエル夫人 京都の休日』なる、『ローマの休日』の"エマニエル夫人版"を企画[21][23][40][41]。シルビアのCMを撮っていた商社を通じて、シルビアサイドに1日の出演料100万~200万円以上で、撮影は京都で一週間程度という具体的条件を正式に出した[21][41]。合計1400万円なら、東映独立直前の高倉健の当時の一本のギャラと同程度だった[21]。東映サイドは「外タレは金さえ積めば必ず出る。現に色よい反応がある。京都を舞台に選んだのも彼女の気を引くためだ」などと強気の姿勢に出たが[21]、ヘラルド映画が「営業妨害だ」と怒って頓挫した[21]。

興行成績
インディペンデント系の配給会社・日本ヘラルド(以下、ヘラルド)の本作の買い付け価格は、100万円とも[42]、9000万円とも[36]、数千万円とも[7]、フラットで3万ドル、TVと東南アジアの権利を含めて7万ドル、宣伝費、プリント経費など一切合切で総原価1億円とも[43]、6万ドルともいわれる[44]。配収15億6000万円[1][44]、17億円の大ヒットを記録[24]。公開前から話題にはなっていたが、これほどのバカ当りになる予想したものはおらず、興行関係者を驚かせた[43]。1975年は史上初めて、邦画と洋画の配収比率が逆転し、洋画上位時代の始まりの年だが[45][46]、『タワーリング・インフェルノ』『大地震』などとともに洋画逆転に大きく寄与した[45][46]。

1974年夏に本国フランスで公開されると『ラストタンゴ・イン・パリ』を凌ぐ大ヒットになったことから、ヘラルドから配給オファーを受けた東宝・映画興行部は、女性向けのヒット作が多い東京有楽町のみゆき座で正月映画としての単館上映を決めた[44]。多彩な劇場チェーンを揃えた東宝の興行網と東宝洋画系の確かな目利きが無ければ、単なる洋画ポルノとして扱われ大ヒットもなかったといわれる[44]。社会現象を引き起こす程のヒットになったのは、イメージ戦略の勝利であった[7]。

地域差はあるが全国平均で約75%が女性客だった[11]、男女カップルでは入りづらく、また女性一人で入りにくいことから、女性だけのグループで鑑賞が多く女性客の大動員につながった[11]。配給元のヘラルドもこれほど女性客が詰めかけるとは予想していなかった[11]。最初はみゆき座のみの単館上映で[47]、みゆき座は定員810のミドル級シアターであったが、1975年1月の一ヵ月で興収1億5000万円を記録し、前年の7月に丸の内ピカデリーが『エクソシスト』で樹立した1億4000万円を抜く月間新記録を打ち立てた。ヘラルドは週アベレージ1000万円で15週、1億5000万円を目標にしていた[43]。古川勝巳ヘラルド社長は「8000万円でも損はない」と考えていたといわれるが[44]、みゆき座一館だけでは殺到するお客をさばき切れず、急遽『シネ・ブラボー!』を打ち切り、正月2日からシネマ2も空けて二館上映に変更した[43]。最終的にみゆき座だけで60日以上のロングランが行われ、37万人以上を動員し、興収約4億円、約30万人の女性客が詰めかけたといわれる[11]。みゆき座では約80%が女性客だった[11]。大ヒットで新宿他でも上映し[47]、ブームは一年続いた[46]。フランスでも11年間上映が続いたとされる[4]。

ヘラルドは大ヒットの要因を「女性向きの、美しいポルノチックな文芸作品で、徹底的に美しく、きれいに売り込んだこと、そして決め手になったのは、シルビア・クリステルの美しく透明感のあるヌード写真を使用したポスター。成人映画とせずに一般映画としたこと」と分析した[43]。ヘラルドはまた、多くの女性客を呼び込めたのは、映画評論家や新聞・雑誌記者等のマスメディアが盛んに取り上げてくれたおかげと、マスメディアに敬意を示し、ヘラルドの試写室を豪華な椅子に交換した[44]。ポスターや新聞広告に使われた有名な籐椅子に座り、胸をはだけ足を組んで物思いにふけるエマニエル夫人の写真は[8][48][49]、映画のスチールではなく、シルビア・クリステルの専属カメラマンが『ルイ』のために特写したもので[43]、版権を持つ日本代理店インペリアルからヘラルドが買って使用したもの[43]。使用料は100万円とするネット記事もあるが[48]、当時の文献には40万円と書かれている[43]。松岡功東宝副社長は「うちでもこんな作品を作りたいと思っているが、スレスレの線でよく売り込みましたね。作品のカラーと劇場(みゆき座)がパッケージで合致しました。ほかの劇場ではこうはいかなかったと思います」と話した[43]。

配給したヘラルドの社員全員には、給料一年分(20代社員でも300万円)といわれる伝説の"エマニエル・ボーナス"が出て[36][42]、重役クラスなら東京近郊の土地が買えたと言われる[3]。またシルビア・クリステルのギャラは本作が3万ドル(約200万円)だったが『続・エマニエル夫人』は100万ドル(約7000万円)に跳ね上がり[36]、世界の大スター並みのギャラになった[36]。古川勝巳ヘラルド社長の手元には20億円の現金が残り、『地獄の黙示録』の買い付けに使われた[44][42]。

エピソード
シルビア・クリステルは、味の素ゼネラル・フーズ[注 1]、CBSソニー[注 2]、東宝東和からなる三社の招請で、1977年1月に初来日した[50]。直後の1月31日に行われた記者会見は単調な質疑応答に終始したが、同時期にフランスの雑誌『パリ・マッチ』に掲載されたインタビュー記事では「ホントは映画なんて面白くない。不遇時代への恨みから映画に出ているだけ。女優なんて灰皿並みの扱いをされる職業。『エマニエル夫人』の出演を引き受けたのはオランダの映画界から足を洗うためよ。作品そのものは見始めて10分後には眠りこんでしまうほど退屈な映画ね。私に言わせればエロティシズムとは、眼差しの中にあるもの。断じて人のお尻にあるものではないわ。でも私は『エマニエル』に出たことを恥じてはいない。おかげで今や私は、作品を選べる立場になったんですもの」と忌憚なく語り、富と名声を得た後にこそ言えるポルノ映画批判を行なった[50]。なお、この来日時に出演予定だった『夜のヒットスタジオ』を急遽キャンセルしたため、司会の芳村真理は激怒したという[50]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E5%A4%AB%E4%BA%BA


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なぜフランス人とドイツ人は性的タブーを破り捨てたいのか?


イタリア人やスペイン人は、全般的に女性好きにも関わらず、あまり幼児性愛には関心がないように見受けられる。彼らは幼女ではなく、「女性」にぞっこんだ。陽気であけっぴろげだ。

しかし、北欧あたりの男たちが幼児性愛に関心があるようで、フランス・ドイツあたりの男がどうも他と違う。

特にフランス人が性的に不思議な感覚を持っているように見える。ディープキスは昔はフレンチ・キスと言われた。フランス人が好んでいたキスだったからだ。

フェラチオはフランス人がする変態行為だと言われていた。他の民族でそれは一般的ではなかった。フランスの性的な放縦さは突出していた。

また、ドイツも奇妙な性の探求で有名な民族だ。どうも、フランス人やドイツ人は性的に何か深いものを隠し持っている。

性に関して何かタブーを破ろうとする負のエネルギー

フランスと言えば、子供が怖がるほどに精巧に作られた「フランス人形」が伝統にある。

実はフランス人形を量産化させたのがドイツ人形で、やはりとても精巧で薄気味悪い感じがする。人形なのにリアルすぎるのである。

あれを見ても何か子供のためではないような、退廃的なものを感じてしまう人は多く、実際にロリコン気質のある男たちがそれをコレクションしていることで有名だった。

フランス人やドイツ人はロリコン気質があるのだろうか。実はあるかもしれない。アジアやアフリカで、ロリコン狂いをしているのはフランス人やドイツ人が多い。

彼らがその旧植民地をさまよってやっていることを見ていると、どうもロリコンだけでなく、セックス全体のタブーをあえて冒したいという意識すらも感じる。

どうもフランス人(と、ドイツ人)は性に関して何かタブーを破ろうとする負のエネルギーがあるように思えて仕方がない。

アジアの闇の中で、誰がどこにいたのかを後々よく考えてみれば、どうもそういう疑念が浮かんでしまう。

そこでふと思ったのが、「サディスト」の元祖マルキ・ド・サドのことだ。

サドは今でもその名を知らない者はない。未亡人を暴行したり、娼婦を虐待したりして刑務所と精神病院に放りこまれたが、そこで壮大な暴力小説を書いて、それが歴史に残った。

『ソドム百二十日』『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』『悪徳の栄え』などを読むと分かるが、そこには暴力と反体制にまみれた描写が執拗に続き、そのあらゆる不品行と堕落には陶酔さえ感じる。

サドはフランス人だった。


人形なのに、どこか精巧すぎて気味が悪いフランス・ドイツ人形。


堅苦しい社会をぶち壊したいという自由への欲求

また1970年にエマニエル夫人という映画が公開されて、そこから女性たちの性的概念の「パラダイムシフト」が起きた。

原作者は「タイ・バンコク生まれ」の女性エマニュエル・アルサンだった。

ジュスト・ジャカン監督シルビア・クリステルの映画は大ヒットして1970年代は、その亜流で映画が埋め尽くされた(この亜流のひとつである「ブラック・エマニエル」の主演女優はインドネシア人だった)。

私がエマニエル夫人を見たのはずっとあとの話だが、あの映画を見てもエマニエルの「哲学」がよく分からず、しかたがないから原作を買って読んでやっと何が言いたいのか理解した。

フランス文学はどれもそうだが、自己客観視と哲学に溢れている。この小説もまたそうだった。

もうこの小説を顧みる人もいないが、その根底を貫く哲学が「反処女(アンチ・バージン)」の概念だったのだ。

これはもちろん、キリスト教の強烈なアンチテーゼである。

私は今でもこのアンチテーゼを持ち出したエマニュエル・アルサンという女性に惚れている(シルビア・クリステルに惚れているわけではない)。

このエマニュエル・アルサンもまたフランス人だった。

フランス人であるサドもエマニュエル・アルサンも、その強烈な性的反逆を提示したのだが、この両者に共通するのが「反キリスト」の概念だ。

反キリストとは何か。表面を見ると、キリストや聖書に反対する立場のことを指す。

しかし、堅苦しい社会をぶち壊したいという「自由への欲求」でもあったのである。

宗教の堅苦しい枠から抜け出して、規定された常識に縛られず、自分の感覚のままに生きていきたいという欲求だ。

貞操や、常識や、文化に縛られたくない。自由に人を好きになり、自由にセックスを楽しみ、自由に振る舞いたい。

それは宗教に反しているのであれば、自分は自由のために「反キリスト」になりたい。そういう感覚が、「タブーを破りたい」というエネルギーにつながっていく。


映画「エマニエル夫人」のシルビア・クリステル。この映画が全世界の女性を性道徳から解放した。


ロリータも原作がドイツで、出版がフランスだった


1962年の映画「ロリータ」より。ドイツの原本にロシア系アメリカ人が着想を得てフランスの出版社が世に出して、これが映画化された。


そう考えると、フランス人やドイツ人が秘かに惹かれている幼児性愛(ペドフィリア)もまた、タブーを破る反キリスト的な行為であることが見えてくる。

ところで、幼児性愛のことをロリータ・コンプレックスと言うこともある。このロリータは小説「ロリータ」から取られた言葉だ。

この小説を書いたのはロシア系アメリカ人ウラジーミル・ナボコフなのだが、あちこちの出版社に断られて、最終的に出版の許可を出したのはフランスの出版社だった(ここにも「反キリスト」的なフランスが登場する)。

そして、このロリータには後日談があるのだが、この小説の原作がまた存在していて、こちらを書いたのがドイツ人ハインツ・フォン・リヒベルクだったという話だ(今度はドイツ人が出てくる)。

反キリストのニーチェもドイツ、サドの対極にあるマゾ(マゾッホ)はオーストリア(ドイツ圏)。ロリータも原作がドイツで、出版がフランス。

厳格なキリスト教がこの地域に根づいた反動なのだろうが、性的に逸脱したすべての概念もまたこの地域から生まれている。

彼らの中の反キリスト感情と、後進国で彼らが秘かに行なっているロリコン犯罪……。

ずっと心に引っかかっているのがフランス人・ドイツ人の、陰湿な性の探求だ。

彼らの中にある反キリスト、反道徳。もう彼らにはキリストは負担になっているのだろう。だから、そこに性のタブーを覆したいという欲求が見える。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120912T0004430900.html


シルビア・クリステル死去。エマニエル夫人で一世風靡した女優 2012-10-18


シルビア・クリステルが死んだ。2012年10月18日、60歳だった。癌を患い、2012年7月には脳卒中を起こして寝たきりになっていた。それから3ヶ月で亡くなっているので、最期は意識もなかったのかもしれない。全世界の女性の性意識を転換させた女性の静かな死だった。

シルビア・クリステルという女優は、多くの映画で人々に感銘を与えた女優ではなかった。50本近くの映画に出ていたが、ただひとつ「エマニエル夫人」の3部作のみで人々の記憶に残った。最初から最後までエマニエルの呪縛から逃れることができなかったという言い方もできる。しかし、いろいろなインタビューを読むと、彼女はむしろそれを誇りにしていたようだ。

「エマニエル夫人」が、彼女の人生の使命だったのだ。


女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ

「エマニエル夫人」は特異な映画だ。原作も駄作、映画自体もそれほどよくできた映画でもない。映画史から見ると、「エマニエル夫人」はキワモノであり、賞を与えるほどの名作でもなく、大金をかけた大作でもない。

しかし、シルビア・クリステルが映画の中で見せた瑞々しい肉体は、そのすべてを吹き飛ばし、全世界の女性にアピールした。時代が求めているものを、彼女は表現していたのだ。

1970年代はヒッピー・ムーブメントの時代であり、これは時代を縛っていた様々な既成概念を壊す動きだった。この打ち壊すべく既成概念のひとつに「女性の貞操観念」があった。

「女性はもっと権利を主張すべきだ」
「女性は自らを解放すべきだ」
「女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ」


ウーマンリブの概念が生まれたのもこの頃だし、女性の社会進出が求められたのもこの頃だし、フェミニズムという思想が生まれたのもこの1970年代だった。この中で、「女性はもっと奔放に性を楽しむべきだ」という部分の起爆剤になったのが、シルビア・クリステルの「エマニエル夫人」だったのである。

1970年代の女性たちはこの映画で、シルビア・クリステルに導かれるように「性を謳歌する」道を歩み始めた。だから、この映画は「映画」として重要なのではない。「社会史」として重要なものだったのだ。


最初の映画に仕組まれていた「毒」とは何だったのか

エマニエル夫人は、ただの映画でも、ただのポルノでもなかった。時代が求めているものを表現したものだった。巧みな宣伝と、シルビア・クリステルの美しさと、映画全編に流れる美しい音楽すべてが相乗効果を発揮していたとも言える。

彼女のあとにも様々な女性がエマニエルを演じたし、エマニエルの亜流もまたたくさん作られた。しかし、そのどれもが興行的に失敗しているし、歴史の風雪を乗り越えることもできなかった。 実は、エマニエル夫人も「エマニエル夫人」「続エマニエル夫人」「さよならエマニエル夫人」と立て続けに作られたが、強い影響力を持って覚えられたのは、最初の「エマニエル夫人」だけだった。

なぜなのか。

実は、原作をなぞって作られた最初の映画には、美しさの裏に大きな「毒」が仕掛けられていたからだ。その「毒」は、原作を読んだ人間だけが知っているものだ。その「毒」を表現していたのが、まさに最初の一本だったのである。「続エマニエル夫人」と「さよならエマニエル夫人」は、ただヒットに釣られて作られた映画であり、原作の持つ「毒」はそこに表現されていない。


いったい、この最初の映画に仕組まれていた「毒」とは何だったのか。それは、実はブラックアジアで答えを書いた。ブラックアジアの会員の方は、その「毒」をもう一度確認してみて欲しい。


伝説の映画『エマニエル夫人』に仕掛けられていたものとは?

エマニエル夫人。汚れて「いない」と感じるのは恐ろしいわ


本当のエマニエル夫人の裏にあるものを知らなければ、何があったのか、何も分かっていないのと同じだ。答えはこの図が示しているものだ。


女性の肉体は世の中を変える力がある

多くの人たちは映画「エマニエル夫人」の奇妙な物語の裏側に何が隠されているのか、その意図を知ることもないし、見ることもない。ただ、シルビア・クリステル演じるエマニエル夫人が、性的に解放されていくという部分のみに目を奪われてしまっている。

しかし、エマニエル夫人を取り巻く男たちの言動はとても奇妙で、異様な哲学を持っている。その哲学は、現代になってもまだ実現していない先進性を持ったものである。そして、その一見、奇妙に見える哲学の裏側にあるのが、「毒」だったのだ。

「伝説の映画『エマニエル夫人』に仕掛けられていたものとは?」で示したフランス版の奇妙なイラストは、ひとつのサブリミナルになっていた。

しかし、そういった毒を毒と感じさせなかったのが、シルビア・クリステルという美しい女性の肉体だった。

毒のあるリンゴであっても、とても美しければ食べてみたくなる。時代は毒リンゴを求めていて、だからエマニエル夫人はその象徴となった。

女性の肉体は世の中を変える力がある。

これは、常にブラックアジアのひとつのテーマでもある。今、インドで「女性の肉体が世の中を変える」動きが加速していることも書いた。


エジプトでも起きている。(アリア・マフディ。あっさりと裸をさらしてイスラムに反抗 )

1970年代に、シルビア・クリステルが示したのがまさに、これだった。

「女性の肉体は世の中を変える力がある」
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20121019T0049500900.html


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