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大島渚 戦場のメリークリスマス Merry Christmas, Mr. Lawrence (松竹 1983年)

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2024/04/09 (Tue) 08:59:55

大島渚 戦場のメリークリスマス Merry Christmas, Mr. Lawrence (松竹 1983年)
監督 大島渚
脚本 大島渚
ポール・マイヤーズバーグ
原作 ローレンス・ヴァン・デル・ポスト
音楽 坂本龍一

動画
https://www.youtube.com/watch?v=boQBUziIat4


戦場のメリークリスマス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9


『戦場のメリークリスマス』(せんじょうのメリークリスマス、英: Merry Christmas, Mr. Lawrence、欧州公開時の外国語題: Furyo)は、大島渚が監督した映画作品である。

日本、英国、オーストラリア、ニュージーランドの合作映画で、テレビ朝日製作の映画第1作でもある。1983年5月28日、日本公開。

英国アカデミー賞 作曲賞受賞[19]。

概要
原作は南アフリカ共和国の作家、ローレンス・ヴァン・デル・ポストの短編集『影の獄にて』[20]収録の「影さす牢格子」(1954年)と「種子と蒔く者」(1963年)に基づいている。 作者自身のインドネシアのジャワ島での、日本軍俘虜収容所体験を描いたものである。

第36回カンヌ国際映画祭に出品され、グランプリ最有力と言われたが受賞は逃した[注 1]。

イギリス・アメリカ合衆国、ならびに北欧では『Merry Christmas, Mr. Lawrence』、フランス・イタリアでは『Furyoフリョ』(俘虜ふりょ[21])、西ドイツでは『Furyo - Merry Christmas, Mr. Lawrence』のタイトルで公開された[7]。

2012年に英国でデジタル修復された後、翌2013年に第70回ベネチア国際映画祭のクラシック部門で上映され[9][注 2]、2015年3月にはフランスで2K版として劇場公開された[5]。

2021年4月、新たな4K修復版として『愛のコリーダ』とともに国内でリバイバル上映された[12][6][注 3]。2023年1月から再公開され[14][26]、3月の坂本龍一逝去にともない、追悼ロードショーが5月に実施された[16][27]。

あらすじ
1942年、日本軍政下にあるジャワ島レバクセンバタの日本軍俘虜収容所で、朝鮮人軍属のカネモト(ジョニー大倉)がオランダ人捕虜のデ・ヨンを犯す事件を起こす。日本語を解する俘虜(捕虜)の英国陸軍中佐(英語版)ジョン・ロレンス(トム・コンティ)は、ともに事件処理にあたった粗暴な軍曹ハラ(ビートたけし)と奇妙な友情で結ばれていく。

一方、ハラの上官で所長の陸軍大尉ヨノイ(坂本龍一)は、日本軍の背後に空挺降下し、輸送隊を襲撃した末に俘虜となった英国陸軍少佐(英語版)ジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)を預かることになり、その反抗的な態度に悩まされながらも、彼に魅せられてゆく。

同時にカネモトとデ・ヨンの事件処理と俘虜たちの情報を巡り、プライドに拘る英国空軍大佐(英語版)の俘虜長ヒックスリー(ジャック・トンプソン)と衝突する。

セリアズとロレンスは、無線機を無断で所持していた容疑で、ヨノイ大尉に独房入りを命じられる。セリアズもロレンスも北アフリカ戦線で一緒に戦ったことのある仲で顔は知っており、独房は隣り合っていた。ロレンスは自分の恋人のことを話し、セリアズは昔、弟に酷い扱いをしてしまったことを回想する。

その日はクリスマスで、セリアズとロレンスはハラに呼びだされた。ハラは酔っぱらっており、「ファーゼル・クリスマス」と叫び、セリアズとロレンスを釈放する。ハラは自分をサンタクロースだと言い、これはプレゼントだと言う。

要求に応じようとしないヒックスリーに対し業を煮やしたヨノイ大尉は、捕虜の全員集合を命じる。全員揃っていないと分かると病気の捕虜も並ばせるよう命じたが、これはジュネーヴ条約に違反していた。重症の捕虜が1人倒れて死亡する。それでもなお、日本軍への情報提供を拒み続けるヒックスリーを、ヨノイ大尉は刀で斬ろうとした。そこへ、セリアズが歩み寄り、ヨノイ大尉に抱擁し頬にキスをした。予想外の展開にヨノイ大尉は驚き倒れこむ。

その後、ヨノイ大尉は更迭され、新しい大尉はセリアズを首から下を地中に埋めて生き埋めの刑に処した。セリアズは弟のことを思い出しながら衰弱死し、その夜中にヨノイ大尉は項垂れた頭のみが地上に露となったセリアズの元へ密かに歩み寄り、彼の髪を一束切り、目の前で敬礼し、切った髪を持って立ち去った。

太平洋戦争は終わり、時は1946年。日本は敗戦し、ヨノイ大尉は戦犯として既に処刑されていた。同年のクリスマス、死刑判決を受け、執行前日を迎えたハラの元へロレンスがやってくる。4年前のクリスマスのことを思い出し、2人は笑い話に花を咲かせる。ロレンスが立ち去ろうとしたとき、ハラはかつて彼らが現在とは逆の立場であった頃のように怒声のような呼び捨てにして彼を呼び止め、ある別れの言葉を放つ。

東洋と西洋の宗教観、道徳観、組織論が異なる中、各人に運命から届けられた「クリスマスの贈りもの」が待っていた。

キャスト
ジャック・セリアズ陸軍少佐 - デヴィッド・ボウイ(青年期)/ クリス・ブラウン(少年期)
ヨノイ大尉(レバクセンバタ俘虜収容所所長) - 坂本龍一
ハラ・ゲンゴ軍曹 - ビートたけし(クレジットはTAKESHIとのみ表示)
ジョン・ロレンス陸軍中佐 - トム・コンティ(吹き替え:池田勝)
ヒックスリー俘虜長 - ジャック・トンプソン
拘禁所長 - 内田裕也
イトウ憲兵中尉 - 三上寛
カネモト朝鮮人軍属 - ジョニー大倉
カール・デ・ヨンオランダ軍兵士 - アリステア・ブラウニング
ウエキ伍長 - 飯島大介
ヤジマ一等兵 - 本間優二
ゴンドウ大尉 - 室田日出男
軍律会議通訳 - 戸浦六宏
フジムラ中佐(軍律会議審判長) - 金田龍之介
イワタ法務中尉(軍律会議審判官) - 内藤剛志
軍律会議検察官 - 石倉民雄
俘虜収容所勤務の兵 - 三上博史、車邦秀
セリアズの弟 - ジェイムズ・マルコム
2:777 :

2024/04/09 (Tue) 09:01:26

坂本 龍一 (さかもと りゅういち、Ryūichi Sakamoto、1952年1月17日 - 2023年3月28日)


坂本隆一最後の日々
続壺齋閑話 (2024年4月 9日 08:37)
https://blog2.hix05.com/2024/04/post-7758.html#more

sakamoto.jpg

昨年(2023)の三月に死んだ作曲家坂本龍一の最後の日々を記録したNHKスペシャル番組「LastDays 坂本龍一最後の日々」を見た。2020年の一月に肝臓に3センチ大の癌がみつかり、医師から余命半年といわれながらも、2023年三月に死ぬまで、死と向き合いながら、最後には自分の人生に納得して死んでいった坂本の最後の日々が、圧倒的な存在感をもって迫ってくる作品だった。

小生は、坂本とはあまり縁がなかった。大島渚の映画「戦場のメリー・クリスマス」で、日本軍将校を演じる姿を見たくらいで、かれの音楽はほとんど聞いたことがない。そんなかれの生き方を、この映画で初めてじっくり見たわけだが、そのかれの生き方は、死に方でもあった。人間いかにして死んでいくか、という、平凡にして深刻な事柄を、この作品のなかの坂本は、われわれに教えてくれたような気がする。

余命を宣告されてから、実際に死ぬまでの間に、三年あまりの時間があった。その時間の中で、かれが自分の人生を総括し、死ぬ準備ができたと感じたのは、死の一か月前のことだったという。つまりかれは、仏教用語でいえば、生きながらにして仏になったわけである。坂本が仏教を信じていたかどうかわからないので、あまり抹香臭いことをいうと恨まれるかもしれない。

小生の友人のなかには、癌が見つかったその三か月後に死んだものもいる。そういうケースでは、死の準備をする間もなく、なかば強いられるようにして死んでいったと解釈される。そういう死は、外部から到来する死である。それに対して坂本は、自ら死の準備をする余裕をもつことができ、自分から主体的に死を迎え入れたのだと思う。

坂本に死の準備を促したのは、昔からの音楽仲間がかれに先駆けて死んだという事情もあったようである。坂本は友人の死を見送ったその一月後に、自分も死の準備ができたと思ったのである。

死に際して坂本は、いい人生だった、恐怖はなくなった、と語っている。こんなに充実した死に方はそう簡単にはない。小生も自分なりの死の準備を、そろそろ考えなければなるまい。
https://blog2.hix05.com/2024/04/post-7758.html#more


坂本龍一 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E4%B8%80

坂本龍一 - 検索 動画
https://www.bing.com/videos/search?q=%e5%9d%82%e6%9c%ac%e9%be%8d%e4%b8%80&FORM=HDRSC4
3:777 :

2024/04/17 (Wed) 09:03:06

(左 / 坂本龍一)
https://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/5/0/50f49f62.jpg


「元左翼」というのは藝能界 にも潜んでいる。例えば、都立新宿高校で左翼運動に熱心だった故・坂本龍一は、東京芸大に進んでYMOを結成したが、高校時代は左翼生徒であった。1980年代、シンセサイザーを演奏する坂本氏は、大量の電気を浪費するが、一向に気にする様子はなかった。「エコロジー」なんて頭の片隅にも無かったはずだ。当時は一風堂の土屋昌巳と同じで、「JAPAN」のデイヴィッド・シルヴィアンに憧れたのか、お化粧の方に夢中だった。

  ちなみに、同校で運動に加わっていたのは、坂本氏の先輩で、後に安倍内閣で官房長官となる塩崎恭久だ。塩崎と坂本の二人は、機動隊が入る前の安田講堂に足を運んだそうで、中にいた全共闘の学生らと話すことが出来たという。なるほど、生徒会長になった不良生徒(塩崎氏)が、荒れ狂う東大に赴いて、「自由」や「個性」を学んだというわけだ。さすが、二年生を率いて校長室を占拠する生徒会長は、ひと味もふた味も違っている。

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(左 / 塩崎恭久 )
 大臣を経験した塩崎氏は、議員を引退すると地元の愛媛で里親の支援をしているそうだが、自身の「転向」をどう思っているのか? だいたい、高校生の時からバリケード封鎖をしていた不良生徒が、政界に入って厚労大臣となり、不憫な子供に“温かい家庭”を斡旋するんだから、機敏なカメレオンだってビックリだ。息子の塩崎彰久はオヤジの地盤を引き継ぎ、今では自民党の代議士で、厚生労働政務官となっている。ホント、岸田文雄に林芳正、河野太郎、小渕優子、小泉進次郎といい、永田町にはボンクラの世襲議員がゾロゾロいる。一般国民というのは、自分の投票で子や孫の将来を台無しにしているが、その自覚が無いところに真の悲哀がある。

  演出家のテリー伊藤も、日本大学で学生運動に勤しんだ一人である。ただ、機動隊との衝突で一生涯の障碍を背負ったから悲惨だ。彼が機動隊から逃れる時、後ろに居た誰かが石を投げたという。不幸にも、その石が偶然、彼の左目に当たってしまい、伊藤氏は斜視になってしまった。藤竜也みたいに、同大学の芸術学部に入って映画界にスカウトされる方が、よっぽどマシである。下らない大学をさっさと辞めて、大好きなスポーツ・カーを買った方が遙かに健全だ。真田広之も日大の学生だったが、左翼分子にはならず、役者の世界に入った。二枚目俳優だから当然だけど、デビューして直ぐに『忍者武芸帖 百地三太夫』の主役なんだから凄い。(筆者も劇場で観たけど、真田氏の出演作品の中では一番いい。現在、彼はハリウッドの『Mortal Kombat』や『Shogun将軍』に抜擢され、ステレオタイプの「日本人」を演じているが、昔の方が良かった。)

  NHKの贔屓を得た小説家の高橋源一郎も、横浜国大で暴れ回ったうちの一人だ。彼は学生運動で逮捕されたり拘留されたりと、散々な青春時代を送っていたが、後に小説を書いて有名人となった。拘置所では“沈黙”を貫いたそうで、朝八時から夜の八時まで、12時間もずっと下を向いて黙っていたというから、ある意味“真面目な奴”だ。でも、取り調べの後に独房入りだから、正常な精神状態ではなかったはずだ。実際、一種の失語症に罹ったみたいで、喋るときの発音が難しくなったそうである。大学を除籍になり、筋肉労働者になっても、小説家になれたんだから良かったじゃないか。しかも、明治学院大学で教授になれたし、無事退職したことで“オマケ”として附いてくる「名誉教授」にみなれた。しかし、国際学部の学生はどんな気持ちで彼の授業を受けていたのか?

ポルシェに乗っていた左翼学生

  大学で暴れていた一般の左翼学生というのは、一種の“お遊び”に興じていた不真面目な人々で、内心では政府転覆など考えてもいなかった。要するに、みんなでワッショイ、ワッショイ、と騒いでいると、何となく自分が日本全体を動かしているように思えたのである。令和の大学生が聞けばシラけてしまうが、全共闘に共鳴するアホな学生は、「チェ・ゲバラに倣え、我らも社会主義革命を!」とか、「差別の元兇たる天皇制を打倒せよ!」、「ベトナムを侵掠する米帝國に反対!」「在日米軍基地を許すな!」と本気(?)で叫んでいた。

  筆者が高校生の時、御茶ノ水駅附近にある楽器店でギターを買ったことがある。そのついでに神田の三省堂に立ち寄ろうとしたが、途中で目にした明治大学の風景のせいで気分が悪くなった。入り口や塀には汚い看板がズラリと並んでおり、殴り書きの文字(日本や米国を呪う罵倒のスローガン)が踊っているように見えた。当時、筆者は看板を眺めながら、「アルフォンス・ミーシャ(Alfons Maria Mucha)のようなアール・ヌーヴォー風じゃなくてもいいから、もっと美しい文字で綺麗なイラストを附ければいいのに・・・。」と思ったものである。しかし、怨念に凝り固まった学生には、美術的センスは皆無だ。どいつもこいつも紅衛兵みたいな奴らばかり。「安保反対」を掲げながら「国防軍の創設」を主張しない学生は、一体どんな頭をしているのか? 左翼学生というのも呑気なもので、フォーク・ギターを片手に、ボブ・ディランやジョン・レノンの歌を奏でて喜んでいる。一方、ノンポリの学生達は酒を飲みながら、共産主義の幻想に酔いしれていた。

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(左 : 学園闘争に熱中する日本の大学生 / 右 : パリで抗議行動に没頭するフランスの大学生)

  ゲバ棒を振るう学生達も甘えん坊だ。自分たちは思いっきり火焔瓶を投げつけているくせに、いざ機動隊が反撃すると「暴力反対!」と叫ぶ。彼らは警察官が決して発砲しないことを確信していたから、安心して角材を振り回していた。国家に刃向かっても、“国家権力(暴力装置)”は決して民衆を射殺しない、と信じ切っている。支那大陸で北京政府に反抗したら、即座に“皆殺し”か戦車で轢き殺されるのがオチだ。北朝鮮なら学生全員が逮捕され、どこかの広場で公開処刑だろう。もしかすると、あっさりとした銃殺じゃなく、「てるてる坊主」みたいに軒先で縛り首だったりして。場合によっては、牢獄で餓死とか。

  まぁ、みんなと一緒に「武力闘争」をしているうちは、危険なようで気楽である。ところが、いざ卒業が目の前にチラつくと大変だ。おちゃらけ学生は急に“現実”が怖くなる。長髪でジーンズ姿の青年も、就職面談となれば、長い髪を切って清潔感を出すしかない。彼らは親に買ってもらった背広を着込み、真剣な面持ちで会社に赴く。面接で過去を詮索されないか、とヒヤヒヤする青年は、慎重に言葉を選びながら答える。でも、過去がバレて不合格になれば意気銷沈だ。もし、晴れて合格となれば「ああ良かった!」と胸をなで下ろす。

  在学中に勉強しなかった学生は、どうしたものかと思い悩んだ。でも、「体育会系」を前面に出してアピールすれば何とかなった。「一生懸命頑張ります!」と言えば鉄鋼メーカーに入れることもあったし、営業部では忍耐と体力が重要だ。理系の学生ならもっと有利で、金属プレス加工や化学製品のメーカー、あるいは精密部品の製造企業に受け容れられたりする。ちょっとコネがあれば総合商社に入れたし、テレビ局や新聞社、出版社は「ゴキブリ・ホイホイ」みたいな受け容れ先だった。元々労働組合やリベラル知識人が強いから、“学生運動の落ちこぼれ”でもOK。上司にも「左翼シンパ」や「左翼崩れ」がウヨウヨ居るから大丈夫。読売のナベツネだって元左翼(共産主義者)じゃないか。

  東京大学や早稲田大学、日本大学、法政大学などで左翼運動に係わっていた連中は、どこから“資金”を得ていたのか判らないが、上層部の学生には“とんでもない奴”が紛れていた。例えば、早稲田大学の荒岱介(あら・たいすけ)は飛び抜けている。彼は1965年に法学部に入るが、1968年に除籍となっていた。荒氏は「社学(社会主義学生同盟)」の委員長や「全国学生対策部長」に就任した人物で、東大安田講堂の闘争では兇器準備結集罪で指名手配を受けていた。彼は1969年4月に逮捕され、裁判に掛けられて有罪判決を受ける。刑務所には三年間服役し、1977年に出所したそうだ。塀の中に入る人間というのは“懲りない面名”なのか、荒氏は人生で七回も逮捕されたという。ちなみに、府中刑務所では民族派右翼の野村秋介(のむら・しゅうすけ)と一緒だった。

  学生運動を知らない世代は、マスコミのプロパガンダ記事に騙され、純粋で真剣な学生が腐敗した政府に反抗したと思っている。だが、教室を占領した連中なんて、ほとんどが“チンピラ左翼”か“俗物”でしかない。令和の大学生が驚いてしまうのは、荒氏が「ポルシェ」に乗っていたことだ。彼は世間の倫理道徳や組織上層部の説教が嫌いで、自らの欲望を満たすことに何の躊躇(ためら)いも無かった。荒氏は言う。

 ・・・そういうこと(道徳主義)に若者を縛り、革命的規律という名の下に、好きなことをさせない、何を買っちゃいけないとか言って、市民社会からかけ離れていくということを、俺は突破したくてね。当然、若者がBMWに乗りたいというのもいいわけじゃない。・・・俺は文化に出あいたかったんだよ。自動車はドイツ生まれで、ポルシェで言えばフェルナンド・ポルシェが作った文化である。そういう文化を知りたい、乗って味わいたいと思った。そんなの当たり前だと思う。(宮崎学『叛乱者グラフィティ』朝日新聞社、2002年、pp.84-85.)

  平成の緊縮財政で貧しい生活を“当然”と考えるようになった学生からすれば、「いった、どんな奴なんだ?」と思ってしまうだろう。しかし、1950年代から70年代までの日本だと、意外にも高額所得者の子供で左翼になる者が少なくなかった。(「元左翼財界人」に関しては別の機会で紹介したい。) チェ・ゲバラに憧れ、ベトナム戦争に反対し、人民解放のために革命を目指す荒氏であったが、段々とレーニン主義者や新左翼に懐疑的となったそうだ。彼は1990年代になると従来の思想を棄ててしまい、今度は「エコ左翼」というか、世田谷か吉祥寺に棲息する「環境革命家」へと転向する。荒氏によれば、左翼闘争はゲバ棒から火炎瓶、さらに重火器から爆弾へとエスカレートするので、世間との隔たりが大きくなってしまうという。彼は次のように述べた。

  まぁ、現実との関係においては、現実に理論が接近するんじゃなくて、現実に理論が接近できなくなってしまって、あるべき姿の方向に現実を接近させろというふうにますますなっていったんだよ。(上掲書、p.88)

  つまり、左翼学生がどんな理想を語りかけようが、世間の人々は振り向かず、むしろ軽蔑の眼差しで“距離を取る”という訳だ。確かに、1970年代の新左翼運動の頃から、一般の大学生には、ある種の“変化”が訪れていた。安保闘争の世代は、Tシャツにジーンズといった薄汚い格好であったが、新世代の学生は、米国のアイビィー・ルックを真似て、紺色のブレザーにネクタイを締めていた。街を歩くと、身綺麗な若者が、「VAN」のロゴが印刷された紙袋を手に提げ、友人や恋人と楽しそうに話している。こんな光景を目にした若者からすれば、新宿や代々木でマルクス理論を語るなんて野暮天だろう。恋人と一緒に銀座へ赴き、ウィンドー・ショッピングを堪能する方がいい。ウッドストックでのヒッピー姿なら分かるけど、麻布や目黒、あるいは新橋や神楽坂で、日本人がヒッピー・スタイルを真似ても、それは滑稽でしかない。

Ivy Look in America 2143Ivy style Americans 662
(左 : 東部の有名大学に通うエリート学生 / 右 : アイヴィー・スタイルのアメリカ人 )

  高級ブランドのVANで身を包んだお坊ちゃん達は、早稲田や法政の田舎者とは違っていた。美形の女子学生と一緒に喫茶店に入り、ジャズでも聴いている方が“格好良く”思えたのだ。一世を風靡したVAN-JAC社は、1978年(昭和53年)に営業不振で潰れてしまうが、1980年代の大学生は、もう学生運動には戻らなくなっていた。好景気は青年の精神を変えてしまうものだ。この世代は小難しい哲学議論より、ショット・バーに通って仲間と談笑したり、人気のディスコで踊り明かす方をキャンパスライフと考える。デートになればスポーツカーを用意し、女の子を乗せて軽井沢に直行だ。苗場のスキー場に赴けば、ロマンティックな夜で意中の女性を口説こうとする。「ブハーリン」と聞いても、「それ、ロシアのウィスキー?」と尋ねる世代に、共産主義革命なんて無理だろう。

  それでも、学生運動が忘れられない世代は、財界やマスコミ界で息を潜め、嘗ての仲間や後輩の左翼学生を支援する。朝日新聞と連携するテレビ朝日などは、『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を得た猪瀬直樹を持て囃し、「朝まで生テレビ」や「ビートたけしのTVタックル」に招いていた。当時の一般視聴者は猪瀬氏の過去や素性を知らず、『昭和16年夏の敗戦』を書いた著者とか、道路公団を批判する反骨の知識人、と思っていた。(『国民新聞』の読者は違うけど。)

Inose Naoki 823(左 / 猪瀬直樹)
  東京都の副知事から都知事に登り詰めた猪瀬氏は、作家になる前に、信州大学の全共闘議長を務めていた。闘争は1969年6月、文学部のバリケード封鎖から始まったというが、猪瀬氏は全共闘の主力部隊を率いていたそうである。しかし、学生運動には国家を根本的に変える中身が無かった。口先だけの学生達は、単なる観念論じゃだ。動物園で飼われているナマケモノが、「百獣の王」を気取っているようなものだ。職員から餌をもらっているシマシウマに、弱肉強食のジャングルなど解らない。学生運動にのめり込んでいた猪瀬氏も、何となく「世間の風」という“壁”に気づいていたのだろう。

  ある時、彼は国際反戦デーや佐藤栄作首相の訪米阻止のために上京するが、そこで目にした光景は彼の人生を変えるものであった。東京にやって来た猪瀬氏は、新宿の裏通りでコーラを買おうとしたそうだ。そこで、猪瀬氏は表通りから裏通りに足を運んだわけだが、迷い込んだ場所にはパチンコ屋があって、軍艦マーチが流れていたという。突然、猪瀬は通りを一つ隔てただけで“別の世界”があることに気づく。彼は当時を回想し、次のように述べていた。

 そこには日常性があるわけですよ。そのころから、学生運動はこんなものだな、という自覚はあった。学生運動で世界が変わるなんて思っていなかった。日常性の連続がふつうの生活なんです。そして日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえなおさないといけにないと思った。(臼井敏男『叛逆の時を生きて』、p.145.)

  猪瀬氏によれば、1960年代の学生運動は、69年の佐藤訪米阻止闘争で終わったそうである。(上掲書、p.144.) 「あの時点で九割の人は学生運動を止めた」というから、岩波書店の『世界』や『朝日ジャーナル』で活躍していた左翼知識人は、闘争時代の「残滓」なのかも知れない。猪瀬氏は信州大学を卒業後、東京の出版社に勤め、そこの給料で大学院への資金を貯めるにしたそうだ。

  まぁ、左翼組織が強い明治大の大学院だから、心からの“転向”は無かったと思うが、『週刊ポスト』に連載を持ったり、実際の政治に係われば、イヤでも“現実の世界”が判ってくる。学生時代には“綺麗事”を並べていればそれで良かったが、実際の仕事になれば汚いことだって進んでやるしかない。代表作の『ミカドの肖像』だって、“ネタ本隠し”があったそうで、元ネタは早川和廣の『堤義明 悪の帝王学』や草野洋の『西武商法 悪の構図』であったという。たぶん、“パクリ本”とバレるのが恥ずかしかったのか、猪瀬氏は引用先の出典を挙げていなかった。でも、佐野眞一がそれを暴露したから万事休す。『ミカドの肖像』を作成するに当たって、ノンフィクション作家の池田房雄とジャーナリストの岩瀬達哉が協力したそうだ。この二人がネタになりそうな題材とデータ集めに奮闘したそうで、猪瀬氏は触れられたくない過去の暴露に怒っていた。

  最近、国会議員の裏金問題化や悪徳知事の横暴が話題となっているが、そもそも日本人にはデモクラシーなんて“体質”に合わない。選んでいる国民が、選んだ政治家を嫌っているんだから本末転倒である。例えば、愛知県の大村秀章知事は、衆議院で出世の見込みがないと分かった鞍替え組で、津田大介に理解を示すなんちゃって左翼。静岡県の川勝平太知事は、支那人と昵懇で国益の売却者だ。しかも、大学教授の時からパワーハラスメントの常習者ときている。徳島県知事に鞍替えした後藤田正純は、“下半身検査”で不合格となった不適格議員。2000年から2022年まで、ずっと再選を果たしてきたのに、なぜか一度も大臣になれず、衆議院に見切りをつけての知事選だった。

  赤く染まった北海道は、反日や共産主義者の産地となっている。知事の鈴木直道は北海道出身じゃないけど、支那人に国土を明け渡す売国奴。有名な「夕張リゾート」は2017年、支那企業の「元大(げんだい)リアルエステート」に“たった2億円”で売却されてしまい、2019年になると、この支那企業が香港系のファンドに15億円で転売だ。本当に酷いけど、これが現実の北海道である。二階俊博に可愛がられるくらいだから、鈴木知事がどんな人物なのか、誰にでも分かるだろう。

  今、東京15区の補欠選挙が世間の注目を集めているが、世論調査で首位に立っているのは、共産党の支援を受けた立憲民主党の酒井菜摘(さかい・なつみ)である。二番手は日本維新の金澤結衣(かなざわ・ゆい)で、日本保守党の飯山陽(いいやま・あかり)は、地元民からの知名度を得るだけで精一杯。もし江東区民が正常なら、飯山氏がトップに立っているはずだけど、地元民は「この人誰?」といった反応だ。

飯山あかり00213(左 / 飯山陽)
  飯山氏は移民流入の深刻さを解っているので、平穏な暮らしを望む庶民からすれば、彼女が最も相応しい国会議員となるはず。だが、一般国民は左翼教育のせいで健全な判断能力を持たない。普段は常識的な人でも、政治となれば、ちょっと左寄りとなってしまい、無意識のリベラル派で候補者を選ぶ。左翼教育の影は長く、薄くなったように思えても、人々の脊髄に残っている。我が子や地元の将来を大切にする庶民が、知名度だけで左翼分子に投票し、自ら「故郷の破壊者」となってしまうんだから、本当に憐れだ。せめて自民党支持者の七割くらいが飯山氏に投票するのであれば、まだ救いがある。しかし、左巻きにされた国民が正常な判断を下すとは思えない。乙武候補がコケたことくらいが救いである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956522.html

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