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壺齋散人 今こそマルクスを読む

1:777 :

2024/03/29 (Fri) 14:42:50

壺齋散人 今こそマルクスを読む
https://philosophy.hix05.com/Marx1/marx.index.html

今こそマルクスを読むべき時である。なぜならマルクスほど現代思想に大きな影を落とした思想家はいないのであるし、だいいち、すでに矛盾で逼塞した資本主義システムには、明るい未来のないことは明らかになっているなかで、人類の未来を切りひらくためのヒントを与えてくれる思想家は、マルクス以外にいないからである。マルクスが未來への展望を切り開いてくれるのは、かれの思想が根源的な理念に立脚し、また、するどい現実把握に撤しているからだ。


ここで影響といわず単に影というのは、その影響の仕方に複雑なものがあるからだ。マルクスの思想に共鳴して、それを自己の思想的な基盤に据えるような、いわばプラス方向での影響もあれば、その思想に反発して、なんとかそれを無力化しようとするマイナスの方向での影響もある。どちらにしても、マルクスは熱く論じられてきた。その最大の理由に、マルクスの思想が現実の歴史を動かしてきたということがある。ソ連はじめ20世紀に成立した社会主義国家が、どれほどマルクスの思想を実現したのか、議論の余地はあるが、まがりなりにもマルクス主義の名を掲げたのであったし、資本主義を擁護する思想家たちも、マルクスの思想的意義に鈍感ではありえなかった。かれらはかれらで、マルクスを意識しながら、資本主義体制の美点を強調せざるを得なかったわけだ。

つまりマルクスの思想は、19世紀から20世紀の終わり頃までは、現実に歴史を動かしてきたし、またいわゆる現代思想にも巨大な影響を及ぼしてきた。ところが、20世紀の終わり頃から、様相が違ってきた。マルクスの思想の有効性といったものに、公然と異議がとなえられ、場合によっては、マルクスは過去の思想家だと断定された。それには、ソ連をはじめ社会主義体制の国家群が崩壊したことが働いている。これら国家群の社会主義体制が崩壊したことは、その基盤となったマルクス主義の無効性を証明し、資本主義こそが唯一の社会モデルだとの主張を強めさせた。こういう主張を精力的に展開したのは、日系のアメリカ人学者フランシス・フクヤマであったが、フクヤマは、資本主義あるいは経済的自由主義こそが、人類が最終的にたどりついた社会モデルであって、社会主義は歴史の一時期における逸脱的な現象だったという趣旨の主張をしたものである。そういう声が大きくなる中で、マルクスはいわば忘れられた思想家扱いされるようになった。

しかし、フクヤマに代表される動きは、マルクスの思想的な意義を全くわかっていないといわざるをえない。たしかにフクヤマのいうとおり、社会主義を標榜した体制は大部分が崩壊した。いま残っているのは中国と北朝鮮ぐらいだが、北朝鮮を別にすれば、中国はもはや社会主義国家とはいえない。と言うより、中華人民共和国は最初から社会主義国家ではなく、一度も社会主義体制を実現したことはない。中華人民共和国を創り出したのは毛沢東だが、毛沢東の考えには、マルクスの思想は見られない。見られるのは中国の伝統的な思想の残滓である。

そんなわけで、今日純粋な社会主義体制の国は存在しないといってよい。これをもって、フクヤマは、社会主義は破綻して、資本主義だけが最終的なモデルとして生き残ったというわけであるが、だからといって、そのことがマルクスの思想の無効性を証明したとはいえない。

というのは、中華人民共和国もそうであるが、ソ連をはじめ大部分の社会主義国家は、マルクス主義を標榜しながらも、マルクスの思想を実現したわけではなかったからだ。ソ連を生みだしたのはレーニンだが、レーニンはマルクスの思想に忠実だったからソ連を生み出したわけではない。ソ連は、マルクスが言う意味での、高度な資本主義の矛盾が生み出したわけではないのである。ソ連を生み出したのは、ロシアの専制主義への民衆の嫌悪である。ツァーリの非人間的な抑圧が、民衆を反抗に立ちあがらせ、その反抗のエネルギーが革命に発展した。革命とは言うが、この言葉はレーニンがマルクス主義者として使ったもので、実態は、革命にことよせて、ボリシェビキが権力を奪取したということだ。その権力は、マルクスが予言したようなプロレタリアの権力ではなかった。そもそも当時のロシアには、まだ階級としてのプロレタリアートは成熟していなかったのである。

そういうわけであるから、20世紀に成立した社会主義国家群は、社会主義の名を標榜してはいたが、それはマルクスが主張した社会主義・共産主義とは似て非なるものであった。ソ連の社会主義は、資本主義の矛盾が生んだわけではなく、したがってプロレタリアが階級として権力を掌握したわけではない。権力を掌握したのは、一握りの政治集団であって、かれらはやがてスターリンを中心とした強大な官僚組織を作り上げていく。ソ連はその官僚組織が自らの利害を貫徹するための官僚国家になっていったのである。官僚国家であるから、民衆の間に基盤をもたない。かれらの利害は民衆と共有されていたわけではない。ソ連がいとも簡単に崩壊した理由はそこにある。また、中華人民共和国についていえば、それはマルクスが描いたような社会主義・共産主義のビジョンによって成立したものではなく、中国の伝統的な王朝国家の延長上にあるものだ。中国の歴代の王朝は、基本的には民衆に基盤をもっておらず、民衆から遊離した官僚たちが運営し、その官僚の頂点に皇帝がいた。いまの中国では、共産党組織が官僚組織を形成し、その頂点に習近平がいるというわけである。

社会主義を標榜したこれらの国家体制が崩壊したからといって、マルクスの思想の無効性が証明されたとは、決して言えないのである。なぜならそれらの国家体制は、上述したような理由で、マルクスの思想に立脚していたわけではなかったからである。

これらの社会主義的国家体制の崩壊によって、資本主義的社会体制が世界の標準モデルになったというのは、フクヤマのいうとおりである。しかしそのことは、資本主義的モデルが今後永遠に続いていくということを保証するものではない。かえって逆である。資本主義的モデルが唯一のモデルとなり、地球全体を覆うようになると、これまで隠されてきた資本主義の矛盾がむき出しの形で拡大するのである。グローバリゼーションは、資本主義を地球規模に拡大する。いまやそういう時代である。こうしたグローバルな資本主義体制のもとでは、資本は世界をまたぐ形で労働を搾取するようになる。マルクスの時代には、階級対立はまだ国境の内部に納まっていたが、いまやグローバルな資本が、世界中の労働者を搾取する。世界の人口は、資本家か労働者かの、いずれかに分類される。こういう構図の中では、中国の資本家が日本の労働者を搾取して利潤をあげるというようなことが一般化される。

資本主義がこれまで、有力な社会モデルとして機能してきたことには、それなりの理由がある。ひとつはソ連などの社会主義体制との競争、もうひとつは国民国家による大規模な戦争、この二つの事情が、資本主義をしてその固有の矛盾を緩和する政策をとらせた。社会主義との競争においては、資本主義は労働者への過酷な搾取をさしひかえざるを得なかった。搾取がひどすぎれば、人びとは社会主義の優位性を認めるだろうからである。また国民国家による戦争への衝動は、20世紀には二度の世界大戦に発展した。20世紀の戦争は総力戦といわれ、全国民を戦争に動員した。そうした政策は国民、とくに労働者階級の支持がなければなりたたない。そこで20世紀の諸国家は、労働者階級の強い支持を得るために、手厚い社会保障システムを構築した。こうした動きが、資本主義国家への労働者階級の支持を招き寄せ、その分、資本主義国家の存立基盤が強まったのである。

ところが、ソ連などの社会主義的国家体制が崩壊すると、上述したような衝動は弱まる。ソ連が崩壊したことで、20世紀を彩ってきた冷戦が終了し、また戦争の可能性も弱まった。こうした変化は、資本主義の労働者階級への向かい方に大きな変化をもたらした。国家レベルで言えば、戦争の可能性が弱まったことで、いわゆる福祉国家への衝動も弱まる。いまや新自由主義を合言葉に、福祉は削られ、自己責任が強調されるようになる。資本は国際化し、国籍が無意味になる。資本はもはや労働者を搾取することに何の遠慮もいらない。実際、グローバル企業のほとんどは、生きるためのギリギリの賃金で労働者をこきつかいながら、自分たちは想像を絶する巨額な報酬を手にしているのである。

つまり、資本主義がグローバルに展開するなかで、資本主義が内在させている矛盾が全面的に暴露されてくるのである。その矛盾は、マルクスがすでに予言していたものだ。だからマルクスを注意深く読めば、資本主義が今後どんな方向に向かっていくか、それを考えるについてのヒントを得られる。ということは、マルクスは、その歴史的な意義を失ったわけではなく、ますます思想的な重要性を増しているといえるのである。今ほどマルクスを読む意義が高まっている時代はないと、強い調子で言えるのである。

本プロジェクト「今こそマルクスを読む」は、そうしたマルクスの現代的な意義を考え、来るべき時代のビジョンを描こうと試みるものである。ところでマルクスには、資本主義経済の分析家という側面のほかに、人間の本質を考えた思想家という側面がある。むしろその側面のほうが、マルクス研究の中心を占めていたといえる。本プロジェクトは、こうしたマルクスの多面的な側面が見えてくるように心がけたいと思う。




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表象と反復:柄谷行人のボナパルティズム論


https://philosophy.hix05.com/Marx1/marx.index.html
2:777 :

2024/03/29 (Fri) 14:43:46

壺齋散人 コミュニズムについてのマルクスのイメージ 落日贅言
続壺齋閑話 (2024年3月29日 08:22)
https://blog2.hix05.com/2024/03/post-7740.html#more

過日、大学時代の友人たち三人と新宿で台湾料理を食いながら久しぶりの談笑を楽しんだ際に、思い出話とともに色々話題があがった中で、コミュニズムについてマルクスはどのようなイメージを抱いていたかということが、熱心な討議を呼び起こした。討議といういささか大げさな言葉を使うのは、その議論がかなり熱を帯びていたことを表現したいからだ。論争とまではいかなかったが、それぞれの持っている見方が相互に微妙に違っているために、あっさり同感というわけにはまいらず、ちょっとした意見の齟齬をきたし、その齟齬が議論を熱くさせたのである。

小生は、マルクスにはコミュニズムについての具体的で明確なイメージはなかったと発言した。マルクスは資本主義の本質的な性格を分析し、それが歴史的な現象であって、したがって始まりをもち、かつ終わりがあると断言し、その先に来たるべき社会としてコミュニズムを想定したのだったが、しかしそれがどんなものになるのかについては、具体的なイメージを持たなかった。マルクスがコミュニズムについて抱いていたイメージは、せいぜい原始共産主義のイメージである。マルクスはユダヤ人の血を受け継いでいるから、ユダヤ人の抱いている原始共産主義のイメージを共有していたのではないか。ユダヤ人の抱いていた原始共産主義のイメージは、いまやキブツというかたちで一部実現している。キブツとは、財の共有を前提とした共同体をいう。そんなイメージをマルクスは抱いていたのではないか。

マルクスが、コミュニズムの特徴としてあげたのは、せいぜい女の共有くらいなものである。マルクスは、初期の文章「経済学哲学草稿」のなかで、原始共産主義の特徴を女の共有に見ていた。かれがなぜそんなものをコミュニズムの特徴の一つとしてあげたのか、その理由は、かれがユダヤ人の血を受け継いでいたからだろう。キブツは、共同体が全体として子供を育てるという理念に導かれているようだが、これは家族よりも共同体を重んじる思想であって、家族ではなく共同体が子供を共有するという考えだ。子供の共有というのは、原始共産主義における女の共有と親縁性のあるシステムである。女の共有というと聞こえが悪いが、要するに一対一の固定した男女関係ではなく、男女が自由に結びつくような関係と言ってよい。

そういった形の男女の自由な結びつきについては、僚友のエンゲルスも評価していた。エンゲルスは、モルガンの家族史に依拠しながら、人類の最初の家族関係は群婚の上に成り立っていた、と結論した。群婚というのは、複数の男が複数の女と婚姻関係をもつものだ。複数の女が複数の男と婚姻関係を結ぶとも言い換えられる。要するに、複数の男女が共同体を作り、その共同体が単位となって、無差別な性交からから生まれた子どもを共同で育てる。そうした群婚に基づく共同体としての家族が、原始共産制の中核をなしていた、とエンゲルスは考えていた。

マルクスは、エンゲルスほど踏み込んだ分析をしてはいないが、おそらく同じ考えをもっていたと思われる。もっとも、かれがいう子どもの共有は、原始共産制に特有な現象で、その点では、人類の家族関係の原型をなすものだが、しかし、それを以て人類の家族関係の理想とまでは考えていなかったと思う。来たるべきコミュニズムの社会には、何らかの形での共同体が生まれるが、それについては、今のところ具体的で明確なイメージは打ち出せない、とマルクスは考えていたのではないか。

そのように言ったところ、ほかの三人は、にわかには納得できないといった表情を呈した。Kなどは、マルクスがそんなことをいうわけがないといった表情を見せた。かれは積極的な反論はしなかったが、小生の立論には納得できないという反応を示したわけだ。Iは、マルクスはたしかに女の共有を以て原始共産主義の一特徴としたが、それはあくまでも過去の歴史的な事実をとりあげただけであって、将来の共産主義社会が、女の共有を採用すべきだとまではいっていない、と反論した。いまどき、女の共有などといった主張をするものは、きわめて反道徳的な暴論として、一笑に付されるであろう。そんな考えを、マルクスの名で披露するのは、マルクスの名を汚すことである。

Iは、熱心なマルクシストとしての立場からそういったのだと思う。だが、同じく熱心なオールド・マルクシストを自認する小生も、マルクスの名を辱めるようなことは考えていない。だが、それにしても、マルクスが資本主義を批判し、コミュニズム社会の到来を予言したにかかわらず、肝心なコミュニズム社会の具体的なイメージについては、明確な形で提示できなかったと言いたいのである。

ここで、マルクスのコミュニズム論の変遷について、あらためて確認しておきたい。マルクスがコミュニズム社会の到来の必然性を整然と訴えたのは、1848年にエンゲルスと共同で執筆した「共産党宣言」の中である。かれらがこのパンフレットを書いたのは、フランスで二月革命が勃発し、その熱気が大陸諸国に波及している時期であった。要するにヨーロッパ大陸全体が革命気分に浮かれていたのである。そういう状況を前にして、かれらは資本主義の打倒があるいは可能かもしれないと考えて、このパンフレットを書き、ヨーロッパじゅうの労働者に向けて、資本主義打倒のために立ち上がれと呼び掛けたのであった。情勢のひっ迫性に駆られての行動といってよかったわけだ。そんなわけで、当面の革命の可能性がかれらの頭をとらえており、革命の先にどんな社会が待っているかについてまでは、具体的なイメージをもっていなかった、というのが実際のところだったように思う。

マルクスはその後、経済学批判と銘打って、資本主義の本格的な分析に取り掛かり、その成果として「資本論」が出来上がった。これは彼の存命中には完成せず、第一巻だけが公刊されて、二巻以降は、かれの死後にエンゲルスによって編集・出版された。マルクス(及びエンゲルス)が、コミュニズムの具体的なイメージについて語るのは第三巻の中である。そこでかれが語っているのは、コミュニズムとは、人間性の完全な開放であり、解放されて自由になった諸個人が、互いに自由な立場から結びついて、友愛にもとづく結合が実現されるような社会である、というふうに主張した。だが、これは多分にスローガン的な言い分である。諸個人が友愛によって結びついた社会とはいうが、それがどのようなものか、具体的なイメージは湧いてこない。

だが、コミュズムの具体的なイメージを多少は感じさせる一節もある。そこでは次のように述べている。「自由はこの領域ではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの協同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的と認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである」(大槻書店版から引用)。

これは、生産の社会的統制を主張しているというふうに受け取られ、ソ連型社会主義を合理化するために利用された経緯はある。しかしここで述べられているのは、生産の社会的な統制ということであって、国家による一元的な統制ではない。しかもその社会的な統制は、共産主義が完全に実現するまでの過渡的な措置であって、共産主義社会が実現したあかつきには、国家はその役割を終え、諸個人は自分で自分の自由を行使する。外側から統制されることはなくなる。そういっていると読める。

「資本論」は、以上のプロセスを「必然の国から自由の国へ」というスローガンで表現している。そのスローガンを補強するような議論が、「ゴータ綱領批判」のなかでも展開される。「ゴータ綱領批判」は、国家の役割に期待するラサール派の立場を痛烈に批判したもので、コミュニズムの実現は国家の死滅を伴うこと、また、そこにおいては自由な諸個人の共同体が社会を動かすと主張されているのであるが、しかしマルクスはここでも、コミュニズムの具体的なイメージを提示したとはいえない。

こんな具合で、コミュニズムについてのマルクスのイメージは、具体的で明確なものだったとはいえない。そこが、マルクスのコミュニズム論の限界だったといえよう。新しい社会のヴィジョンを示すためには、現存の社会の批判にとどまっていては説得力に欠ける。やはり、新しい社会の魅力的なイメージを積極的に提示しなければ、支持はなかなか広がらないであろう。

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