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世界の旅 _ オーストラリア・ニュージーランド

1:777 :

2023/12/15 (Fri) 09:44:03

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世界の旅 _ オーストラリア・ニュージーランド


【ニュージーランド】直行便で10時間半!絶景トレッキングの旅へ…!! かほの登山日記
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2:777 :

2023/12/15 (Fri) 10:52:40

aaあ
3:777 :

2024/03/18 (Mon) 16:20:08

オーストラリア映画「ピクニックatハンギング・ロック」:寄宿生失踪事件
続壺齋閑話 (2024年3月18日 08:22)
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1975年のオーストラリア映画「ピクニックatハンギング・ロック(Picnic at Hanging Rock)」は、寄宿制女学校の生徒たちの謎の失踪事件を描いた作品。生徒たちが学校近くのハンギング・ロックという岩山にピクニックしたさいに、三人の生徒と一人の教師が謎の失踪をする。そのため、学校は無論、地元の警察や住民も大騒ぎをする。生徒のうちの一人は生きて見つかるが、他の三人はついに見つからない。一方、この学校の校長は、生徒の命より学校の経営のほうを大事に考え、貧しくて授業料を払えぬ生徒を追い出そうとする。それに絶望した生徒は自殺し、校長もまた事故死する、というような内容だ。

一応テーマは女子生徒の失踪なのだが、それに焦点が当たっているというよりは、校長の冷酷な利己主義とか、警察の無能ぶりといったことのほうが強調されている。こういうテーマは、実話を踏まえたものであればともかく、フィクションだというから、原作者が何を訴えたいと思ったのか気になるところだ。オーストラリアの寄宿舎教育の欺瞞性を暴露したかったのか、警察が無能で何の役にもたっていないことを批判したかったのか。映画の筋書き自体には何の面白みもないわけでから、いっそう原作者の意図が知りたいところである。

オーストラリアという国では、こうした失踪事件は珍しくないのだというようなメッセージが伝わってくる。国土に未開拓な部分が多く、人間をたやすく受け入れない。そんなところに無理に入っていこうとすると、痛い目にあうことになる。そういう国柄をこの映画は描写する一方で、教育者の功利主義的な利己主義は、深い文化を持たないことに根差していると言いたいかのようである。警察が無能なのも、国家の土台が不安定なせいだと言わんばかりだ。

ハンギング・ロックとは、百万年前に隆起したとされる、峻厳な岩山である。画面で見る限りそんなに広大とは思ないが、そこで人が消えると、見つけ出すことがむつかしい、ということらしい。いかにもオーストラリアの未開な自然を象徴するような眺めであり、日本では決して見られない。
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4:777 :

2024/03/21 (Thu) 16:53:37

オーストラリア映画「誓い」:第一次世界大戦の一齣
続壺齋閑話 (2024年3月20日 07:51)
https://blog2.hix05.com/2024/03/post-7728.html

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1981年のオーストラリア映画「誓い(Gallipoli ピーター・ウィアー監督)」は、第一次大戦に英軍側にたってトルコ軍と戦うオーストラリア兵を描いた作品。オーストラリアがなぜ英軍の友軍として参加したかについては、色々な事情があるのだろう。映画はそのことについては触れない。オーストラリア人がイギリスのために戦うのは当然だという前提にたっている。オーストラリアがイギリスから独立したのは1901年のことであり、第一次大戦の時期には独立国家だったわけだから、なにもイギリスに義理立てして戦争に参加することはないと思うのだが、オーストラリアはイギリスの植民地として始まり、イギリスを本国視する慣習が身についていたようなので、イギリス側にたってトルコと闘うのは当たり前のことだったようだ。

二人の若いオーストラリア人の友情が主なテーマである。この二人は短距離走が因縁で結びついた。未成年のアーチーが、年上のフランク(メル・ギブソン」を破り、二人は仲良くなる。折から政府が軍人を募集しており、それにアーチーが騎兵として応募し、合格する。年齢をうまくごまかしたのだ。日本とは違い、国民の戸籍管理が杜撰なのだろう。一方フランクは騎兵の試験に失格し、歩兵に志願することとなる。仲間の三人と一緒だ。

かれらは、エジプトを経由してトルコの戦場に駆り出される。そこで英軍側から、将棋の駒のような扱いをうける。正規の英軍にとってオーストラリア軍は、ただの傭兵にすぎないのだ。そこで無理な命令を押し付ける。その命令のやりとりを、ファーストランナーのフランクが、伝令となって媒介する。だが、命令伝達の機能はうまく働かず、オーストラリア軍は壊滅的な打撃をこうむる。だがかれらは意気軒昂だ。国の名誉のために戦って死んだのだと自分をなぐさめる。イギリス軍の将棋の駒あるいは捨石として使われ、その挙句に死ぬことがなぜ国の名誉につながるのか、よくわからぬが、オーストラリア人にとって、イギリスは母国のようなものらしい。

エジプト人やトルコ人が戯画的に描かれている。オーストラリアの白人のほうが、エジプト人やトルコ人より、人種的にすぐれているという偏見をむき出しにしている。オーストラリアの白人は、イギリス人に対して劣等感を持っている分、多人種にたいしては差別的に振舞うようである。とくに女性に対しては、ひどい偏見と侮蔑的な姿勢を見せている。なお、この映画には、オーストラリアの原住民系の人は出てこない。
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5:777 :

2024/03/22 (Fri) 09:55:58

オーストラリア映画「危険な年」:インドネシアの9.30クーデター
続壺齋閑話 (2024年3月22日 08:22)
https://blog2.hix05.com/2024/03/930.html

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1982年のオーストラリア映画「危険な年(The Year of Living Dangerously ピーター・ウィアー監督)」は、1965年9月30日にインドネシアで起きたクーデターをテーマにした作品。このクーデターの背後関係など詳細はわからないが、これがきっかけでスカルノが権力を失い、スハルトが新たな権力者になった。スハルトが主導したクーデター鎮圧作戦は、共産党員や反政府分子の弾圧を伴い、100万人以上のインドネシア人が虐殺された。ブンガワン・ソロが血で染まったことは有名な話である。その虐殺の様子については、2012年のドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」がショッキングな描き方をしている。

この映画が描いているのは、クーデター騒ぎの前の民衆の不穏な動きであり、クーデターそのものは描かれていない。その描き方も、インドネシア人の視点は全く反映されておらず、もっぱら西欧人たちの視点から描かれている。メル・ギブソン演じるオーストラリア・メディアの特派員を中心として、アングロサクソン系とかフランス系の連中が出てきて、民衆の騒ぎを否定的に見る様子が描かれる。この連中の目からすれば、この騒動は共産主義者の先導によるものであって、ぜひとも鎮圧されねばならぬということになる。

つまり、この映画は、スカルノの失脚が象徴するインドネシアの政情を、欧米の植民地主義者の視点から描いたといえる。現地人の立場を代表する人間が一人出てくるが、それは小人のインドネシア人であって、欧米人の目には道化のようにうつる。その道化は、共産党のシンパということになっており、したがって死ぬべき運命にある。じっさいかれは、権力に追い詰められて、ビルから転落死するのである。

欧米など西側が共産主義者を憎む気持ちはわかるが、なぜこんな映画をオーストラリア人が作ったのか。オーストラリアはインドネシアとは国境を接する隣国同士であり、その隣国の赤化は見過ごせないと考えたからだろうか。それにしても、この映画の中のインドネシア人の描き方はひどいものである。猿とたいして区別のつかない野蛮人として扱っており、それに対して白人たちは文明人として描かれる。文明人が野蛮人を相手にやることは、人間の子どもが犬猫を相手にやることと同じで、なにをやっても許される。そういった白人側の傲慢さが伝わってくる。人種差別意識に毒されたひどい映画というべきである。そのあたりは、オーストラリアの白人たちの、底抜けの無邪気さを感じさせる。
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6:777 :

2024/03/25 (Mon) 09:26:27

オーストラリア映画「シャイン」:ピアニストの半生
続壺齋閑話 (2024年3月25日 08:17)
https://blog2.hix05.com/2024/03/post-7734.html

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1996年の映画「シャイン」は、オーストラリアに実在したピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた作品。メルボルンに生まれ育ったデヴィッドが、厳格な父親との葛藤に直面しながら、父の反対を押し切ってイギリスの王立音楽院に入学し、一流のピアニストになっていく過程を描く。どういうわけか彼は精神障害を患うようになり、オーストラリアに戻ったのちも父親との和解がうまくいかず、ピアニストとして前途を絶たれるのであるが、ある女性と出会うことで、生きることに自身を取り戻す、というような内容である。

全編クラシックのピアノ曲(特にラフマニノフのピアノ協奏曲第三番)が流れるが、そのピアノはヘルフゴット自身による演奏ということだ。そのピアノの音を聞いているだけで、時間の過ぎるのを忘れる。

ヘルフゴットは、ユダヤ人であり、かれも父親もユダヤ教の信者ということになっている。もっともこの映画は、宗教的な感情を描いているわけではない。唯一信心らしいものを感じさせるのは、ヘルフゴットの恋人になるギリアムが、占星術の専門家というくらいのことで、ヘルフゴットがギリアムと結ばれるのは、星の導きによるということになっている。

ヘルフゴットがピアニストとして自信をとりもどすのは、あるカフェで偶然引いたピアノが、その場に居合わせた人々の感動を呼んだことによる。それが噂となって、ヘルフゴットは世間の注目を浴び、音楽家としての道を再び歩むことになる。

そんな具合に、ヘルフゴットという音楽家に興味を持っている人には、それなりに意味のある映画といえよう。

全編クラシックのピアノ曲(特にラフマニノフのピアノ協奏曲第三番)が流れるが、そのピアノはヘルフゴット自身による演奏ということだ。そのピアノの音を聞いているだけで、時間の過ぎるのを忘れる。

ヘルフゴットは、ユダヤ人であり、かれも父親もユダヤ教の信者ということになっている。もっともこの映画は、宗教的な感情を描いているわけではない。唯一信心らしいものを感じさせるのは、ヘルフゴットの恋人になるギリアムが、占星術の専門家というくらいのことで、ヘルフゴットがギリアムと結ばれるのは、星の導きによるということになっている。

ヘルフゴットがピアニストとして自信をとりもどすのは、あるカフェで偶然引いたピアノが、その場に居合わせた人々の感動を呼んだことによる。それが噂となって、ヘルフゴットは世間の注目を浴び、音楽家としての道を再び歩むことになる。

そんな具合に、ヘルフゴットという音楽家に興味を持っている人には、それなりに意味のある映画といえよう。
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7:777 :

2024/03/27 (Wed) 09:46:58

ニュージーランド映画「ピアノ・レッスン」:女性の受難
続壺齋閑話 (2024年3月27日 08:27)
https://blog2.hix05.com/2024/03/post-7737.html

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1993年のニュージーランド映画「ピアノ・レッスン(The Piano ジェーン・カンピオン監督)」は、ニュージーランドの開拓地を舞台に、ある女性の愛と悲しみを描いた作品。これを小生は、もう30年近くも前に劇場で見たのだったが、その折には、手の込んだ恋愛映画くらいにしか受け取らなかった。異常な恋愛ではあったが、また理解しがたい結末だったが、男女の恋愛がテーマと言えたからだ。

近頃DVDで見て、違った受け止め方をした。これは、人身売買の犠牲になった女性の受難の物語ではないかと感じたのだ。スコットランドで、小さな娘と暮らしていた女性が、ニュージーラドの僻地に売られていく。一応、現地に住む男に嫁入りするという設定になっているが、事実上かれの奴隷になるのである。奴隷というのは、意に染まぬ結婚を強いられ、男から性的な暴力を振るわれるからだ。一方女は、別の男、現地のマオリ族の男と肉体関係を結ぶまでに至る。その関係も当初は、失ったピアノを取り戻すために、自分を売るということから始まるのだ。「夫」との関係も、「男」との関係も、主人と奴隷の関係である。主人・奴隷の関係については、ヘーゲルの議論が有名だが、この映画は、ヘーゲルとそれを受け継いだサルトルの主人・奴隷の議論を意識しているように見える。

女性は、古いピアノを唯一の生きがいにしており、娘と共に、そのピアノも伴ってニュージーランドまでやってくるのだが、「夫」がそのピアノを現地の「男」に売ってしまう。ピアノを失った女は、なんとかそれを取り戻したいと思う。とりあえずは、「夫」の了解のもとに、「男」のもとに通い、ピアノのレッスンをさずけることになる。「男」はその関係を利用して、女を性的に搾取しようとする。女はだから、その男との関係では完全に主人と奴隷の関係にあるわけだ。だが、どういうわけか、男は女を愛してしまい、自分のしていることを後悔する。ヘーゲル流にいうと、主人は奴隷に認められているかぎり主人でありうるのであり、奴隷に受け入れられないでは、単なる暴君に過ぎない。つまり主人と奴隷の関係は、一方的なものではなく、相互依存的なものなのだ。そこで「男」は主人であることをやめ、一人の人間として彼女に向き合いたいと考えるのだ。

一方、「夫」のほうは、最後まで、主人・奴隷の関係でしか彼女にかかわることができない。だから女性の側が、自分を人間として見ないことを知ると、主人でいることもできなくなる。「夫」は侮辱されたと感じて、女の指を落とした挙句、「男」に与えるのである。

映画は、女が次第に「男」に対して心を開いていく過程を丁寧に描く。なぜ彼女がマオリの男を愛するようになったか、それはなかなか微妙なことのように思える。まず下半身が反応し、それが上半身を支配するにいたったとも受け取れる。

映画の中では「男」はじめ多くの現地人が出てくるが、「男」を含め、多くを白人が演じている。白人の皮膚を黒く塗って黒人を演じさせるのと同じで、無神経さを感じさせられる。

壊れたピアノと一緒に、女が海に沈んでいくシーンは、この映画のクライマックスというべきもので、それなりに印象深いが、なぜ彼女がそういう行動をとったか、これもわかりにくい。彼女は唖者ということになっており、一切言葉を話さないので、その内面は外部からはうかがい知れないのである。
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8:777 :

2024/03/29 (Fri) 15:48:05

ニュージーランド映画「乙女の祈り」:少女の同性愛
続壺齋閑話 (2024年3月29日 08:20)
https://blog2.hix05.com/2024/03/post-7739.html

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1994年のニュージーランド映画「乙女の祈り(Heavenly Creatures ピーター・ジャクソン監督)」は、少女同士の同性愛をテーマにした作品。映画の舞台は1953年頃のニュージーランドの都市部ということになっており、その時代のニュージーランドでは、同性愛は許されなかった。社会には同性愛者を受け入れる余地は全くなく、異常性格あるいは若気の至りの逸脱と思われていた。そんな社会で未成年の少女同士が同性愛に陥ったらどういうことになるか。実の親を含めた社会全体から、異分子として排除されるほかはない。そういった息苦しさを描いた作品である。

主人公は、14歳の少女二人であるから、未熟であって、自分の行動にも責任を持てないところがある。そんな状態で、自分たちの同性愛が、愛する家族からも否定されて、どうしてよいかわからなくなる。しかも、手をこまねいていては、二人は永遠に引き離されてしまうかもしれない。それは親たち、とくに片方の少女の母親に原因がある。そう考えた二人は、その母親をレンガで打擲して殺してしまうのである。

二人は殺人罪に問われ、別々に刑務所に入れられ、仮釈放された後でも、会うことを許されなかった、というような内容である。

二人が幼いだけに、社会からの疎外感を味わされるところに気の滅入るようなところがあるが、映画に描かれた出来事は実際に起きたことだということだ。

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