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「都合が悪い」家族は座敷牢で飼い殺し 私宅監置制度の闇

1:777 :

2022/11/19 (Sat) 15:35:10

【 ゆっくり解説 】「都合が悪い」家族は座敷牢で飼い殺し 私宅監置制度の闇
2022/11/18
https://www.youtube.com/watch?v=riggRsCN5PY


【 ゆっくり解説 】 産まれたら奴隷 待遇に疑問自体持たせない奇習「 おじろく・おばさ 」
2022/11/22
https://www.youtube.com/watch?v=JmyggVFaRhQ

【ゆっくり解説】 長男に全てを継がせる「長子相続」。一部の地方では、長男以外は奴隷同然というおぞましい奇習として続きました。奴隷となる次男以降は「おじろく」、女性は「おばさ」。反抗するという概念すら持てないまま、閉じた村で一生を使い潰されました。
2:777 :

2022/11/19 (Sat) 15:38:31

座敷牢


昔は発病した子供を精神病院に受診させず、自宅に部屋をつくって閉じ込め、長期間、食事だけ与えるくらいの扱いしていた家族が実際にあった。病名はほとんどが統合失調症だったと思われる。そんな風な部屋は「座敷牢」と言われた。この座敷牢に入れられていた患者さんは、現在、うちの病院のように小さな病院でも2名いる。たぶん、現在のどこの精神病院でも、数名は生存されていると思うのである。

座敷牢で数年生活していた人は、必ずと言ってよいほど、かなり荒廃している。人によっては会話ができないくらいで、話しができたとしても、連合障害が酷くてまとまった会話にならないことの方が多い。ずっと保護室で暮らしていた人もいる。座敷牢と保護室は変わりがないじゃんと思うかもしれないが、僕に言わせると天と地の差がある。保護室では、普通に食事が食べられるし、入浴、洗面もできるからだ。精神症状によれば読書やパソコンもできる。

興奮が酷いケースでは、当然、過酷といっていいほどの大量の精神病薬が入っている。現在、もう70歳くらいになる女性患者がおられるのだが、14歳頃から30歳まで、床下に入れられていたらしい。食事もおにぎりが1つずつとか、そんな感じであったらしく、今でも背丈なども相当に小さい。よく言えば小柄なのだが、つまりは慢性的な栄養失調だったのであろう。

僕はこの人を約2年ほどしか受け持っていないのだが、当時、セレネースが40mgくらい入っていて、他のフェノチアジンも併用されていて、どのようにやっても寛解しないような感じだった。僕が持った後、ジプレキサやセロクエルをあわせて処方したり、いろいろ手を尽くしたが非常に難しいと思った。

これは2003年1月の処方である。
セレネース  30mg
セロクエル  600mg
トロペロン   3mg
アキネトン   3mg
ヒベルナ   100mg

2004年1月の処方は下のような感じだった。
クレミン     100mg
リントン      9mg
リスパダール  12mg
ヒベルナ     75mg
アキネトン    3mg

まぁこれがベストかどうかわからないのだけど、これでも悪いときはセレネース液経口やトロペロンの静注をしていたのである。不思議なことに、この処方でもEPSは全然なかった。この程度の処方が長かったこともあるかもしれない。あるいは、かなり多い量なのでEPSさえ押さえ込んでいたのだと思われる。

この患者さんの処遇し辛いところは、悪くなると、寝ている人の首を絞めたりすることであった。だからと言って、ずっと保護室住まいにするのはむごすぎるので、僕はこんな処方で大部屋で様子をみていたのである。

最初、床下から救出された?時は、垢にまみれており、顔の中央だけ赤いような感じで、まさに動物に育てられた子供のようであったらしい。当然、ずっと入浴もしていない。

最初入院した時は非常に精神状態が悪く保護室に入れていても、すぐに便いじりをして全身便だらけになってしまうとか、自分の肛門から出てきた回虫を拾って食べたりと、どうしようもない状態だった様子が詳しくカルテに記載されている。ちゃんと落ち着いて食事をするとか、洗面をするとか、生理の始末とか、そういうのが全然できなかったのである。

カルテの生活歴をみると、中学校時代はなんとバレーボールの選手だったらしい。これにはちょっと唖然としたというか、それを通り越した驚きだった。

なぜこんなことになったかというと、貧しくて治療費がなかったので仕方なく家族がそのようにしたのであった。昭和30年代後半から40年前半頃は、まだ日本は保険制度がまだ整備されていなかった。生活保護も制度も予算が少なく皆に行き渡らなかったのであろう。

これは今なら犯罪に等しいが、当時は社会の余裕もなく、そのような家族の処遇もとりわけ咎められなかったのである。こういう患者さんをみると、薬物治療に限らず、作業療法、生活指導、レクレーション、デイケアなどのリハビリテーションがいかに重要かがわかる。

日本の精神病院の老人患者さんにはそのような人がまだいるのである。
http://ameblo.jp/kyupin/entry-10025431136.html


参考 _ おじろく、おばさ Ojiroku, Obasa


 長野県の南部、飯田のあたりは、高山の多い信州の中でも特に山深いところである。平地といえるような土地はほとんどなく、ろくな道すらないのだけれど、そんなところにも古くから人は住んでいるもので、天竜川に沿ってぽつぽつと小さな集落がいくつか点在している。

 そうした集落をひとつひとつ数珠繋ぎするようにして、豊橋と辰野を結ぶ飯田線が全通したのが昭和12年。なにせ平らな土地のほとんどない深い山地のこと、さぞかし難工事だっただろうことは想像に難くない。さてその飯田線に、中井侍(なかいさむらい)という、ちょっと変わった名前の無人駅がある。長野、静岡、愛知の三県の県境あたりに位置する駅である。

 と、なんだか紀行文のように始まったのだけれど、別に私はこの中井侍に行ったことがあるわけではない。飯田線にも乗ったことはない。ただ、ある精神医学誌の論文にこの地域のことが載っていたので、ちょっと興味を惹かれただけである。

 「中井侍」をネットで検索してみると、写真入りのページがたくさん出てくる。どうやら、長野県の最南端の駅として、鉄道ファンにはちょっと知られた駅らしい。たとえばこのページやこのページ、このページなどの写真を見ると、本当に山の中の小さな駅で、鉄道がないころはまさに外界から隔絶された秘境だったのだろうなあ、と思うばかりである。

 さて、その中井侍の駅のある付近は、かつて神原村と呼ばれていた(今では天龍村になっている)。このあたりは高山の谷間で平地が極端に少ない。耕地面積が充分とれないから、産めよ増やせよというわけにはいかず、なんとかして人口を制限をしなければ共倒れになってしまう。そこで、この村の人々は奇妙な人口制限法を考えた。

 まず、一家のうち長男だけが家督を相続し、結婚して社会生活を営む。次男以下と女の子は、他家に養子になったり嫁いだりしないかぎり結婚を許されず、世間との交際を禁じられ、生涯戸主のために無報酬で働くのである。

 この村では、こうした制度が16~17世紀ごろから何百年も続いていたという。こうした男は「おじろく」、女は「おばさ」と呼ばれ、家庭内の地位は戸主の妻子以下、戸籍簿には「厄介」と記され、村人と交際もせず、村祭りにも出られなかった。

 こうしたおじろく、おばさは結婚もせず、近所の人と交際することもなく、話しかけても返事もしないが、家族のためによく働いて不平も言わなかったという。怒ることも笑うこともなく、無愛想で趣味もない。おじろく、おばさ同士で交際することもなく、多くのものは童貞、処女で一生を終えたらしい。

 彼らは、物心つくまでは長男と同じに育てられるけれど、次第に弟や妹は兄に従うものだ、という教育を受け、将来は兄のために働くのだ、と教えこまれるようになるのだそうだ。たとえば、長男は休まずに学校へ行けたが、弟妹はことあるごとに学校を休んで家の仕事を手伝わされる。

 成長するに従ってだんだんと兄と違う取り扱いを受けるようになるのだけれど、それは割合素直に受け入れられ、ひどい仕打ちだと恨まれるようなこともなかったとか。親たちも、長男以外はおじろくとして育てるのが当然だと考えていたので、別にかわいそうに思うこともなかったらしい。

 掟に反抗して村を出る者がいなかったかというと、おじろくが村を出ることは非常に悪いことで家の掟にそむくことだ、という考えがあったため、村を出ようと思う者はほとんどなく、まれに出る者があっても人付き合いがうまくできず、すぐに戻ってきたのだそうだ。

 実際のおじろくへのインタビュー(普通に訊いても顔をそむけて答えてくれないので、睡眠薬を使ったアミタール面接を行ったのだそうだ)によれば、彼らは人と会うのも話しかけられるのも嫌い、楽しいことも辛いこともなく、世の中を嫌だと思ったこともなく、結婚したいとも思わず、希望もなく、不満もない。あるおじろくは、村を出たのは一生で一度だけ、徴兵検査で飯田まで出たとき(歩いて往復3日かかったという)だが、別に面白いことはなく、町へ行ってみようとも思わなかったという。

 こういう制度が何百年もの間続いていたというのだ。今じゃとても信じられない話ではあるけれど、周囲から隔絶した村だからこそありえた話だろう。

 おじろくを現代社会に連れてきて精神科で診てもらったとしたら、おそらく何かの人格障害と診断されるだろうけれど、逆にもしこの村でおじろくが反抗して自由を求めたとしたら、これまたおそらく人格障害とみなされることだろう(もちろん、そういう診断があったとしたら、の話だが)。このように、人格についての判断は、社会の価値観と無縁ではありえないのですね。このへんに、「人格障害」の判断の難しさがあります。

 おじろくの場合、「生まれつきの性格」とは関係なく、社会環境によって人格を作られてしまったわけだけど、現在の価値観からいえば、これは村社会全体による差別であり、洗脳であるのかもしれない。でも、私は別にその地域の文化が遅れていた、と言いたいわけじゃないのですね。文化なんてものは相対的なもの。社会全体が、弟妹は兄のために働くものだ、と思っているのであれば、それに反抗する考えすら浮かばないってのは当然のことだろう。社会常識の呪縛ってのは、それほどまでに強いものなのだ。もちろん、私たちだって、気づいていないだけで、現在の常識に縛られているはず。いくら常識から自由なつもりでいても、常識を完全に無視するのは不可能であり、そんな人がいたとしたらそれこそ「人格障害」と呼ばれることだろう。

 なお、明治5年には人口2000人の村に190人の「おじろく」「おばさ」がいたそうだが、鉄道の開通以来減少し、昭和35年には男2人、女1人になっていたとか。その絶滅間近の3人の「おじろく」「おばさ」に直接インタビューして書かれた論文(近藤廉治「未分化社会のアウトサイダー」)が、「精神医学」1964年6号に掲載されている。また、西丸四方「和風カスパール・ハウザー」(最新精神医学2000年5号)も「おじろく」「おばさ」を取り上げている。この文章は、その2つの論文によった。
http://psychodoc.eek.jp/abare/ojiroku.html
3:777 :

2022/11/19 (Sat) 15:40:33

『豪農の屋敷の開かずの間』


39 :1/7:2006/07/12(水) 22:45:33 ID:J0yDoNbP0

小二の頃のガチ体験。

俺の母親の実家ってのは、いわゆる田舎に古くからある豪農の家系ってやつで、
まあ地方だからってのもあるけど、敷地も広くて屋敷も大きかったし、蔵なんかもあった。
中学に上がるまでは毎年夏休みになると、十日くらい泊まりに行ったもんだった。

俺みたいな都会から来た青白いガキは、地元の子供達とは打ち解けられなかったんで、もっぱら同い年の従兄弟(母の兄の子)と、2人っきりで遊ぶ毎日だった。
こいつもまあ、金持ちのボンボン扱いwされてたんで、普通に友達いなかったし。
とりあえず家の敷地がめちゃくちゃ広かったんで、その中で遊んでても充分だった。


ある日の午後、俺達は昼間でもいくらか涼しい蔵の中で遊んでいた。

蔵は2階建てなのだが、1階の半分だけが座敷になっていて、1階奥と2階は物置状態。
何をして遊んでたのかも覚えてないが、いつしか床の間の脇にある押入れに入っていた。

そうこうしている内に俺達は、押入れの一番奥の床板が外れる事に気が付く。
外して下を見ると、大人ならちょっと入れなそうな狭い通路みたいになっていた。
まだ体が小さかった俺達は興味に突き動かされ、そこに入ってみる事にした。

通路は3mほどで行き止まりになった。(網が張られていてそこから通れない状態)
向こう側から風を感じたので、おそらく蔵の縁の下辺りに通じているのだろうと思った。

もう戻ろうか・・・と思った時、その通路の床がさらに外れる事に気が付いた。
すぐに床板を外して下を眺めると、今度は思いのほか広い空間がそこに横たわっていた。

持ってきた懐中電灯で照らしてみると、意外にもちゃんとした“部屋”のような感じ。
真っ暗というわけでなく、部屋の隅の方から弱い(外の)明かりが漏れているようだった。
都合が良く、俺達がいる場所のすぐ下に箪笥があったので、足場にして下へ降りてみた。


下に降りて部屋全体を眺め回してみると、そこは6畳くらいの殺風景な部屋だった。
箪笥(足場にした)が1つ、文机のような物が1つ、あとは何枚か座布団が積んであるだけ。
カビとほこりのニオイが結構きつかったが、そんなに汚い場所ではなかった。
意外な場所を発見した俺達は興奮して、部屋のそこかしこを調べて回った。

先ほど感じた“弱い光”は、一方の壁の上方に4つ並んだ小さな“通気孔”だった。
やはり網が貼られていたので奥は見えなかったが、これも縁の下に通じている感じがした。
反対側の壁には小さな襖みたいな戸があり、ここをくぐって部屋の外へ出れた。
(↑茶室?とかにあるような、ちゃんと立った状態では出入りができないような襖)

そこを出てみるといきなり細い階段があって、登ってみたが上で塞がれていた。
後で考えると、その階段の先は、蔵奥の物置になってる場所のどこかに通じてそうだった。
仕方ないので俺達は部屋に戻り、今度は箪笥の中とかを物色し始めた。
中身は衣類、食器類、紙で作ったおもちゃ?などがごちゃごちゃに詰め込まれていた。
特に目ぼしい物は発見できなかったので、次は文机の方を調べてみる事になった。


文机は横に2段の引き出しがついていた。上の引き出しには文房具などが入っていた。
下の引き出しは、立て付けが悪いのか最初開かなかったが、無理に引っ張ったら開いた。
中にはノート(というか紙を糸でしばってノート状にした物)が何冊か入っていた。
どうやら日記っぽかったが、小二の俺達には難しい漢字があり、ほとんど読み砕けなかった。
仕方なくペラペラとめくっていると、何枚かの写真がはさまっているページがあった。
サイズが一定していない古い白黒写真で、最初の1枚だけが大きいサイズだった。
大きい物は集合写真のようで、立派なヒゲを生やした紋付袴の男と数人の男女が写っていた。

ヒゲの男は見覚えがある。若いが、仏間に飾ってある写真の人だ。(俺の曽祖父に当たる)
隣は奥さん(曾祖母)らしき女性。前には2人の少女。他、小作人らしき者が周りを固める。

「この女の子ってさ、ばあちゃんじゃない?」

従兄弟がそう言う前に、俺もそう思っていた。
当時はまだ生きていた俺の祖母。写真は少女ではあるが、確かに面影はある感じだった。

が、不思議な事が1つ。写真には、その少女と瓜二つの少女がもう1人写っている。

「ばあちゃんて双子だっけ?」

だが俺達はそんな事より、残りの写真の方に興味が移っていた。


次の写真は、少女が女学生になった頃の物のようだ。だが、ここでは2人写っていない。
というか、これ以降の写真にもこの女性は写っているのだが、全部1人のみになっていた。
文金高島田の結婚写真、赤ちゃん(おそらく叔父=従兄弟の親父だろう)を抱えた写真。
写真をめくる度に老けて行き、その女性は俺達が知っている祖母の顔に近くなっていった。

特に見る物もなくなってしまった俺達は、その部屋で寝転がって話をしてしばらく過ごした。

“俺達しか知らない部屋”というシチュエーションに魅了されてしまい、全く怖くなかった。

「これからここを秘密基地にしよう」などと子供らしい発想でケリをつけ、部屋を後にした。

その夏、屋敷にいる間、ちょくちょくこの部屋に潜り込んで、遊んだりお菓子を食ったりした。
俺は帰る時まで、いや帰った後もずっと・・・誰にもこの部屋の事を口外しなかった。
子供の意識として、秘密基地というのは“そういうもんだ”と考えていたからだ。

そして1年後の夏、いつものように俺はまたその屋敷にお邪魔する事になる。


従兄弟は(もちろん他の家族もだが)去年と変わらず、喜んで俺の到着を迎えてくれた。
さてこの夏も2人でいろいろ遊びまくろうと、お互いわくわくしていたと思う。

「なぁ、明日はまず“秘密基地”へ行こう」

俺がそう耳打ちした瞬間、顔色が変わる従兄弟。

「そんなのいいよ、カブトムシ採りに行こう」

いきなり従兄弟にフラれ、俺はガッカリした。
が、わざわざ議論する事でもなく、その日は疲れていたのですぐに寝た。

翌日からは俺がいくら誘っても、従兄弟は何かにと理由をつけてはぐらかす状態が続いた。
頭に来た俺はとうとう詰問してしまった。すると従兄弟はバツが悪そうにこう言った。

「ばあちゃんに・・・あそこには行っちゃダメだって怒られたんだよぅ」

俺はその時、従兄弟が秘密基地の事を他人に口外した件についてのみ腹を立ててしまい、どうして祖母がそんな事を言ったのかについては何も訊ねなかったし、考えもしなかった。

その夏、結局あの部屋を訪れる事はなかった。(というかそれ以降も行った事はない)
1度だけこっそり忍び込もうと思ったが、押入れに大きな箱が入っていて中に入れなかった。
が、子供だったせいもあって・・・そんな事は俺の記憶から次第に薄れていってしまった。


中三の春、祖母が死んだ。その葬式の時、なぜか急にあの部屋での出来事を思い出した。
従兄弟はすごく落ち込んで聞き辛かったので、代わりに俺の母(祖母の実娘)に訊ねてみた。

「ばあちゃんってさ、双子だった?」

もちろん、あの部屋で見た写真について聞いたつもりだ。
母は全くそんな話聞いた事がないようで、何言ってんのアンタ的な表情しか見せなかった。
叔父にも他の親族達にも訊ねてみたが、反応はやはり似たような物だった。
誰に聞いても、祖母は“1人娘で婿取り”という存在で通っている。だが俺は信じられなかった。

成長してわかった事だが、あの部屋はおそらく“座敷牢”的な部屋だったのだろうと思う。
写真にあった、若かりし頃の祖母に瓜二つの少女。あの部屋にいたのは彼女ではないのか?
確かに、戦後にそんな三文小説のような、非人道的な事があったとは考えにくいのだが・・・。

大人になるにつれ、あの家にも足が遠のき、従兄弟ともいくらか疎遠になってしまっている。
もちろん座敷牢云々は俺の想像でしかない話だが、確かに“あの部屋”はあったはずだ。
たった1度だけ訪れたというわけではない。小二の夏、2人で何度あの部屋に入った事か。
それなのに、従兄弟は今ではこう言う。

「子供の時の事だし、全然覚えてないんだよな~」

さらには、翌年の夏に俺が部屋について詰問した事すら覚えてないという。
彼の記憶は、“あの部屋に関する事”だけ綺麗に消えている(もしくはそう見せたい?)のだ。

いまだに俺は何かモヤモヤした物を感じているのだが、どうにもこれ以上聞き出せない。
そしてすでに蔵は取り壊され、あの部屋や写真の女性についての真相を探る術もなくなった。

[ 31731 ] NO TITLE

歴史のあるでかい家には、こういう部屋が付きものだと思う。

ゲームの零シリーズみたいにさ、あれほど脚色されてはいないと思うけど。
古今東西、お偉い立場上、見つかっちゃヤバイ子とか、宗教で生活を縛られてた時代には、ある種の病気は、前世で何か悪いことをした罰のためにかかる“業病”として認識されてて、その病にかかると周囲に穢れを撒くからと忌み嫌われた。

でも、だからと言って殺すなんて畜生みたいなこと、できるわけがない。
お偉い家名に傷が付く、だから生かしたまま閉じ込める。死ぬまでずっと。

流石に、もうこんな部屋いらん、取り壊せ埋めてしまえって、潰してある場合は多々あると思うけど、工事代もバカにならんからね…かん口令敷いて、入り口完全封印するのが一番簡単で手っ取り早いから、まだ残ってるとこもあるだろうな。
[ 2012/06/23 ] NO NAME ◆-

生きてりゃ80過ぎる母が昔、

「昔は双子が生まれると畜生腹と言われて忌み嫌われたもんだ」

って話してたのを思い出す
[ 2012/07/15 ] NO NAME ◆-
http://nazolog.com/blog-entry-3746.html

精神疾患という概念が出来るまで昔から精神病の患者さんは色々迫害されてきました。

特に中世ヨーロッパでは「魔女狩り」と称し300年で15万人の患者さんが虐殺されたんですよね。これはドミニク修道院のある修道僧が出した、「魔女の木槌」という魔女の見分け方マニュアルが原因で、例えば幻覚妄想がある女性、過呼吸発作や意識消失がある女性などを片っ端から宗教裁判にかけたんです。「宗教裁判」といっても「裁判」とは形だけで、要は神父さんが気に入らなければ皆有罪で処刑になったんです。(あのガリレオも地動説で宗教裁判にかけられ有罪になりました。有罪になった時の「それでも、地球は回っている」は彼の名言として残っています。)

 

 日本ではそのような虐殺の歴史は無いのですが、精神障害のある子供が生まれると、恥ずかしいからと座敷牢に隔離していた歴史があります。実際に

「精神病患者を外に出してはいけない」

という法律があり(精神病者監護法)、私宅監禁を国が推奨していた時代もあるんです。その後、ピレルの「鉄鎖からの解放」と呉秀三が「クレペリンの精神医学体系」を出すまでは全く病気という認識はされていなかったんです。


 今回はこの座敷牢に近い状態で、隔離されていた悲惨な患者さんのお話です。

 患者さんは20歳台後半の男性で、精神的におかしいからという理由で、子供の頃からずっと家の中で隔離され、病院にも行かず、ほとんど外に出たことはありませんでした。

今回は食事を取らず苦しそうで様子がおかしいと姉に連れられ来院しました。彼自身はほとんど会話出来なかったんです。

 初めて会った時には、かなり不潔で奇妙な風貌でした。

服装は粗雑で汗と排泄物の臭いがし、伸びきった髭と長髪に女性用のカーラーをたくさん巻いていました。ほとんど風呂にも入ったことがない様子でパッ見は本当に路上生活者のようでした。

男性なのに髪にカーラーを巻いているのが非常に奇妙であり、同時に彼の精神状態が普通でないことが一目でわかる風貌だったんです。

 呼吸困難を訴えており色々検査をしましたが特に嫌がる様子も無く、非常に苦しそうな表情だったのを憶えています。 入院後胸部レントゲンを見てびっくりしました。両肺に大量の水が、肺がほとんどレントゲンで写らないくらい溜まっていたんです。それで息が出来ず呼吸困難になっていたんですね。

 精神科的には統合失調症か知的障害で姉の話では、恐らく10歳くらいの発症です。引きこもりから始まり、ずっと訳のわからないことを言っていましたが、近所の目もあるからと病院には連れて行かず、姉の身を案じ家に彼用の隔離室を作り食事だけ与えていたそうです。他人とコミュニケーションが取れず、今回も自分で苦しいと言えなかったんでしょう。

 とにかく入院させ酸素を投与し、胸水の検査の結果を待ちました。たまたま入院した夜に僕は当直で、彼を見にいきましたが、苦しくて横になれず、全く眠ることも出来ないんですよ。会話できませんが、治療に抵抗することなく、何とか僕たちが助けようとしているのは解ってもらえたみたいでした。結局ベッドのテーブルに枕を置いて一晩を苦しそうに過ごしました。その夜は彼が不憫で心配で頻回に診に行ったのを覚えております。

 その時には、よくここまで放っておけたなと、家族に対し強い怒りを覚えるのと同時に非常に悲しくなりました。家族としては姉の身を案じてのことで、昔からの慣習だったのかもしれません。家族のせいだけではないのだと思います。逆に考えれば、よくぞ今回病院に連れてきてくれたのだと思いますよ。

 胸水の検査の結果、診断は癌性胸膜炎と悪性リンパ腫という血液の癌でした。胸水をカテーテルで少しずつ除去することで呼吸不全は改善したんです。

 統合失調症の方も、抗精神病薬を投与し、多少のコミュニケーションは取れるようになったんです。きちんとした会話は出来ませんでしたけど、身振り手振りで解りました。悪性リンパ腫については化学療法で完治する可能性もあるため血液専門の科のある大学病院に転院となったんです。

 あと2、3日病院に連れてくるのが遅かったら、隔離されたまま、息が出来ず一人死んでいたんでしょう。幼少時から隔離され、外にも出れずに、苦しくても苦しいと言えずに死んでいくなんて、彼は何のために生まれてきたんでしょう?

きちんと治療さえ出来れば良くなるのに・・・精神症状でコミュニケーションが取れないいうことは非常に恐ろしく悲しいことだと痛感いたしました。

 転院後患者さんはどうなったのかわかりませんが、おそらく、化学療法でリンパ腫は良くなったと思われます。精神症状についても薬物の反応は悪くなかったので、再び隔離されているということはないと思います。
 しかしながら、彼の未来を考えると、薬で統合失調症が良くなっても、この20年以上隔離されていたことで他人とのコミュニケーションや社会性というものは全く身についておりません。そのことで彼はこれからもずっと苦労することになるでしょう。再び引き篭もる選択をするのかもしれません。失った時間を取り戻すのは大変なんですね。でも、これから彼の人生は始まるのですから、今回このように病気になって外に出られたことは、良かったのかもしれません。

 私宅監禁、座敷牢、というのは地方の部落などでは、未だに認めることがあるそうです。

恐らく彼のような悲惨なケースが昔から日本には沢山あったんでしょうね。

逆に考えると、今回の彼は身体的な病気があったおかげで、家族が気づき外の世界に出られた訳ですが、もし身体的な病気がなかったら、一生隔離部屋から出ることはなかったのかも・・・老人になって、体を壊すまで・・・・

 日本では精神病というと、どうしても恥ずかしいという偏見が強いみたいですね。一族の恥だみたいな・・

昔海外の精神科医の講義を聞いたことがあるんですが、アメリカなどでは精神科に偏見が無く、逆に精神科にかかっていると言うと周囲の人が変に思うどころか「この人は大丈夫だ」と安心するそうですよ。日本と比べると全く逆ですよね。精神医学的に日本はアメリカより10年は遅れているんです。治療薬や精神科医の技量もですけどね。
 今回のような可哀相なケースを無くすためにも、日本人の精神病に対しての偏見が、無くなることを心から祈っています。
http://www.geocities.jp/niwaiin/C5_12.htm 
4:777 :

2022/11/19 (Sat) 15:41:13

すごい。大正期のキチガイ座敷牢の実態調査を現代語で

呉秀三・樫田五郎 精神病者私宅監置の実況
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%90%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E3%80%91%E5%91%89%E7%A7%80%E4%B8%89%E3%83%BB%E6%A8%AB%E7%94%B0%E4%BA%94%E9%83%8E-%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85%E8%80%85%E7%A7%81%E5%AE%85%E7%9B%A3%E7%BD%AE%E3%81%AE%E5%AE%9F%E6%B3%81-%E9%87%91%E5%B7%9D-%E8%8B%B1%E9%9B%84/dp/4260016644


90年前の大正時代にはすでに精神病者に対応するための法制度もある程度はあったし、精神病院なんてものもあったわけだが、むろんみんながそこに入れたわけではなく、相当部分の精神病者――ボケ老人もかなりいるが、25-40歳くらいが大半――は家族が座敷牢を作ってそこにぶちこむしかなかった。

その実態を調査したもの。著者の呉秀三は東京帝国大学の医学部の先生。
精神病で呉というと、どうしてもドグラマグラを連想してしまうんだけれど、そういう関係はどうもないみたい。


あちこち農村に分け入ってはその実態を淡々と書いており、その収容されている座敷牢の平面図、患者の状況その他がひたすら記録されている。その家族や村の経済状況、症状、病歴その他きちんと描かれている。全部で300件弱、地域も全国津々浦々。

もちろん、どれも悲惨ではあるけれど、その悲惨にも差がある。ほとんど人間の状態をとどめない者もあれば、コミュニティの助け合いの中にいる人々もいる。

座敷牢の広さは、いちばん多いのが一坪半*1、つまり三畳ほどだけれど、もうピンキリ。読んでいて悲しいものは悲しい。はだかで床に転がされている患者の粗い写真とか、患者が板戸を叩いて近所迷惑なので、内向きに釘をたくさん打って叩けないようにするとか……


とはいえ、結構みんな最低限の面倒は見ていたようで、本当にひどいのはそんなになかった、とのこと(統計的な分析もある)。でもそれも実に様々。さらに私宅監置って、勝手に座敷牢をこしらえてぶちこむもんだと思っていたら、ちがう! 

私宅監置の届け出をして、図面その他を警察に出して許可をもらって監禁する。暴力的とか、それなりに監禁を正当化する理由は必要だ。社会としての精神病に対する対応として公的に認可されていたものなんだね。これを見て、国家権力が弱者の弾圧を社会的に促進し、と拳をふりあげたがる人もいるだろうけれど、当時の医療や経済水準から考えて、これが可能だった精一杯の水準だったんだろうとは思う。

そしてまた、精神病者を治療すると称するお寺や神社や行者なんかが跋扈していて、そういうのも調査している。これまたここに書き切れないくらいおもしろい。いろんなものの黒焼きが珍重されていたとか(実はうちから少し上野のほうにいくと、黒焼き屋がいまもあるんだよね)。


原著者はこれを受けて、いまの座敷牢は監禁だけしかしない、だから廃止して、病院で引き取って治療も受けられるようにすべきだ、と強く主張している。でも当時、実際に何をしてあげられたのか考えてしまう面はある。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20121017/1350481846
5:777 :

2022/11/19 (Sat) 15:41:39

座敷牢の幽霊

もう十年くらい前だけど、従弟が事故で死んで俺が本家を継ぐことになったときに叔父(従弟の父)から聞いた話。

江戸も終わりの頃、N家(本家)に嫁が来た。

N家跡取りと仲むつまじく、やがて女の子が生まれて春と名付けられた。
その年は不作で、子どもを生んだばかりでも嫁も働かなければならない。
嫁は山菜を取りに山に入ったが、夕方近くになっても姿が見えない。
村の衆で探し回っていると嫁は乱れた姿で山から下りてきた。
天狗に孕まされて。

どうもこの天狗ってのは白人のことらしい。
まぁ「天狗=日本に漂着した外国人」ってのはよくある話、と叔父は言っていた。


堕ろそうにも、襲われたショックで寝込んだ嫁にそれは耐えられないと旦那が躊躇しているうちに、ついに男の子が生まれてしまう。
嫁は生んですぐに体調を崩して死んでしまった。

旦那は子供が憎くて殺そうしたが、嫁の忘れ形見だと思うと殺せない。
しかたないので座敷牢に幽閉し、そこで育てた。

途中までは人を雇って世話をさせてたが、いつからか姉の春が面倒をみるようになった。
父親がいくらいっても聞かないし、身内の恥を他人に見せるよりはって理由でそのまま娘にまかせた。
男の子の名前はユキハル。父も誰もつけないから、春が名付けたそうだ。
春はユキハルを大変可愛がった。

んで、そのユキハル。見た目は死んだ嫁によく似ていたけど、色彩が白人…というかハーフのそれだったらしい。
茶色の髪と青い目をしてて、姉から学んだたおやかな仕草。

(ここらへん特殊事情。春は訛りの矯正やなんかの習い事?もやってた。その姉からいろいろ教わったユキハルは女形みたいな子だったようだ)

嫁そっくりなのに日本人離れした薄い肌や髪の色をみるたびに腹ただしくて、ユキハルが成長するにつれて旦那はだんだん可笑しくなった。


…で、ある晩。ついに旦那はユキハルに乱暴したんだと。

その日から、村の衆や村にくるお役人にも身売りをさせた。
(売るといってもはした金の値段で、ユキハルを苦しめる為にやっていたようだ)
(だんだん憎らしさが勝ったんだろう)

春は弟が普憫で、父にこんなことは止めるようにと言ったが父は聞き入れず、次第に娘がうっとおしくなり早めに嫁にやることにした。

春が「嫁に行くことになった」と告げると、ユキハルは春をさらって山へ逃げた。
唯一自分に優しくしてくれる姉を奪われるのは、ユキハルにとって身を切られる辛さだったんだろう。


やがて湖のほとりに出ると、そこで春を抱いた。

事が終わり、すすり泣く春を見て「少し周りを見てくる」と言って一人にさせた。
春は泣きながら湖に入った。
ユキハルが帰ってくるとすでに春は水の中だった。
姉がいないならばと、彼も崖から飛び降りた。


姉弟がいないことに気づいた旦那は村の衆を使って探し、最初に姉、次に弟の遺体を見つけた。
春の着物の乱れを見て、何があったか悟った旦那は鬼のごとく怒り狂った。
ユキハルの死体を八つ裂きにして、山中に放置。
獣に食わせた後、荒神(山神ではないらしい)の祠の前に捨てた。

祠の前に捨てたときは、死んでからもう何ヵ月も経ってたけどまだ怒りが収まらなくて、骨を足蹴にしても飽きたらず石で粉々に砕いたんだと。
娘が死んだ嫁と同じ目に会わされたと知ったらね…気持ちはわからんでもないけど。

もう誰もいない座敷牢に幽霊が出るようになった。
けどそれは牢の主のユキハルではなくて姉の春のほう。
しばらく座っていたかと思うと消え、庭の隅にある石の上にたたずんで蔵をジッと睨んでいるそうだ。

その蔵というのが、ユキハルが身売りさせられてた場所だった。
春は生前、ユキハルが蔵に入っている間は石に座ってずっと彼が出てくるのを待っていたらしい。

そのうち旦那の夢枕にも立つようになったらしい。
春が祟っている、と言って少しづつ衰弱していった。
そして蔵の戸口の前で首をかっ切って死んだ。
(この蔵は戦後に壊しちゃったんだけど、叔父や親父は飛び散った赤い染みを見たそうだ)

旦那の弟が後を継ぐことになったが、怖くて仕方ない。
N家は跡を継ぐときとある儀式をするんだが、儀式をやる前に春の霊をなだめる方法を考えていると、なにやら井戸のほうで水音がする。

時刻は夜中。こんな時間に誰だろうと見に行くと、春が着物や食器を洗っている。
それはユキハルが使っていた物だった。

「お春…死んでからも、ヤツの世話をすることはない」

実父を祟り殺したとはいえ未だユキハルに縛られてる春が哀れでつい声をかけると、春は振り返りにっこり笑って消えた。
彼はもしや…とユキハルの砕かれた骨が散らばった土を集め、春の墓の隣に葬った。
途端に春の姿を見るものは無くなり、たまに井戸で誰もいないのに何かを洗う音がするだけになった。

「…きっと、春もユキハルを好きだったんだよ。でも姉弟で愛し合うことはできないから、入水した」

と叔父は言った。 それから、本来ならユキハルが継ぐはずだったんだろうN家は末子が継ぐように決めた。(春の機嫌をとったようなものらしいけど…)
http://id41269.blog.fc2.com/blog-entry-12.html
6:777 :

2022/11/19 (Sat) 15:42:00

「座敷牢」仲町六絵

 I先生の刑法ゼミに在籍していた、学生時代の話だ。

 講義のあと、先生が私達を祇園のバーに連れて行ってくださったのだが、刑法39条の話題になったその流れで、先生がポツリと

「子どもの頃、近所の家の座敷牢に女の子が閉じ込められていた」

とおっしゃった。先生の子ども時代といえば、私宅監置が禁じられた昭和25年を、おそらく過ぎている。「あまり聞いてはまずいかな」という雰囲気が学生達の間に流れた。しかし空気を読まない男子学生が「監禁罪ですね」と言ったのに言葉を継いで、先生は話を始めた。かなり酔っておられたと記憶している。

 先生のご実家は小さな酒屋で、幼い頃から集金や御用聞きで近所の家々を廻っていたそうだ。ある大きな家の玄関を敲いたところ、返事のかわりに呻くような声が聞こえたので、誰か急病かと思って中に入っていった。鍵はかかっていなかったそうだ。

 どうかしましたか、と呼びかけながら声のもとをたどると、日の差さぬ部屋の中にささくれた材木を縦横に組んで、手づくりの檻があった。中で白い着物の女の子が、「なぁい、あい、なぁい」と声をあげていたそうだ。

 その女の子は、お尻がすっぽりと木箱にはまっていた。姿勢だけは乳母車の中の赤子のようだったけれど、十ぐらいのその子は、箱から手足をはみださせ、じたばたと動いていた。汚れた板敷きの上で、女の子のはまった箱はガタガタと鳴り続けていた。

 所用で出かけていたその家のおばさんが帰ってくるまで、先生は立ち尽くしていたそうだ。こっぴどく叱られて、ご両親にも「あの家には行かんでいい」と言われたという。

 しばらくたって、その家が燃えてしまった。深夜のことで誰も助からず、葬式で用意された棺桶は、女の子のぶんが無かった。

 葬式から帰った後、先生の叔父にあたる人が、一時期おかしくなったそうだ。押入れに布団ごと閉じこもって三日三晩、業を煮やした親戚連中に引きずり出されて井戸水をぶっかけられ、「いい大人がなにやっとる」と叱られて、夢から半分覚めかけた顔で言った言葉が「白い女の子とかくれんぼしとっただわ」。

 幼かった先生はそれを聞いて、

「あの女の子が牢から開放されて、遊んでいる」

と思ったそうだ。

 「解放されて、あの子はどこまで来れるようになったんだろう」

 そうおっしゃる頃には先生の呂律はすっかり怪しくなっていて、私達は何となく居心地の悪い思いで、テーブルの下の暗がりに目を落としていた。
http://www.mf-davinci.com/yoo/index.php?option=com_content&task=view&id=973&Itemid=52
7:777 :

2022/11/19 (Sat) 15:42:24

『座敷牢』


385 :本当にあった怖い名無し:2009/09/16(水) 01:12:36 ID:bquAUI+a0

あー うちのばあちゃんの実家にも座敷牢あったな。

ばあちゃんちは地方の庄屋かなんかで、怖くなるくらいデカい屋敷に代々住んでた。
庭もすげー広大な日本庭園だったんだけど、

ある日遊びに行ったら、えらいキレイな顔して白い着物?浴衣?着た男の子が、一人でぽつんと佇んでた。

自分小さかったから、ばあちゃんに「あれ誰?」って聞いたら、適当にかわされた。

後年、母親にその体験を語ったら、

「あれはちゃんと育たなくて座敷牢にいる人」

と言われた。

だいたい一代とばしでそんな風なのが生まれるから、座敷牢が必要らしい。(今でも)


391 :本当にあった怖い名無し:2009/09/18(金) 13:50:29 ID:+0bzKi2X0

生まれた時点では正常とみなしたんだから、出生届け出してるはずで、
小学校への就学年齢になっても入学させてなかったら、役所から人がくるだろ
ありえん


392 :本当にあった怖い名無し:2009/09/18(金) 16:50:24 ID:nhgs6Eu30
>>391
ありえない前提が『出生届け出してるはず』なのは弱くないか。
出生届も出さずに、戸籍を持たない子供も増えてるのに。

393 :本当にあった怖い名無し:2009/09/18(金) 17:52:41 ID:+0bzKi2X0
>>392
これまた特殊な例を出してくるんだなw
都市部の無計画子作りなDQN貧民や不法滞在の外国人の話をしてんじゃねえぞ
古くから土地に根付いていて広い敷地にデカい屋敷を構えてるような家の子供の話してんだよ
場合によっては跡取りだ
そんな家の子供が出生届を出さん理由って、一体なんだよ?
教えろや


394 :本当にあった怖い名無し:2009/09/18(金) 18:41:36 ID:nhgs6Eu30
>>393
何故そこまでお前は喧嘩腰なのかと。

そういう存在が生まれる可能性が高いなら、適当に保留するのもあり得ない話じゃないし、
古くから土地に根付いてるなら、役所の人間より偉い(その土地の中で)ことだってあり得るわけで。
出してるかどうかすら定かでないのに、「出生届出してるはず」って前提は弱いだろ。


395 :本当にあった怖い名無し:2009/09/18(金) 19:36:56 ID:FgAaf8DQ0

昭和も初期の頃は、「そろそろ就学年齢だから、役場に出生届を出すか」って、東京でもあったらしい。
当然、場合によっては±1年の誤差が出ることもある。
ソース@婆ちゃんの実家

396 :本当にあった怖い名無し:2009/09/18(金) 20:51:11 ID:+0bzKi2X0
>>394
なるほどそういう話か
それはすまん。わしが悪かった


397 :385:2009/09/18(金) 23:00:40 ID:Y7sBYqiY0

ありゃりゃ…紛らわしい話ふっちゃってスマソ

ばーちゃんの家は、確かに「古くから土地に根付いていて、広い敷地にデカい屋敷を構えてるような家」だよ。

国会議員や元警視総監(!)あたりもヘコヘコ挨拶にくるし、
昭和天皇が通りすがりに「日本庭園見せてくれ」って立ち寄ったり、
死人が出れば新聞に載ってエラい騒ぎになるような家柄。

ヤバい子が生まれた場合も、さすがに出生届けは出してるだろうね。(昔はわからないけど)

けど就学年齢になっても、役所も家も多分スルーだと思う。
書類上は一応入学したことにしといて、ずっと病欠→卒業とか…かな?
自分と同世代で座敷牢に入ってる人はいないから、詳しくは分からない。

ちなみに、自分が昔遭遇した美少年は、とっくに亡くなってるとのこと。合掌


398 :本当にあった怖い名無し:2009/09/19(土) 00:18:06 ID:wiP7I0xM0

なんか池沼の他にも、スケキヨとか真珠朗とか、その家にはいそうだなと思った。


402 :397:2009/09/19(土) 15:46:00 ID:N9WZrU60O

あー確かに…リアル犬神家みたいな屋敷だよ。
ひたすらデカくて暗くて座敷牢がある家。

乱歩的なモダンさがあれば、もう少し怖くなくなるんだけどねえw
しかし、なんで一代おきにヤバい子が生まれてくるのかなぁ 不思議


コメント


[ 7515 ] NO TITLE
>けど就学年齢になっても、役所も家も多分スルーだと思う。
>書類上は一応入学したことにしといて、ずっと病欠→卒業とか…かな?

リアルにありそうなところがなんとも不気味

[ 7642 ] NO TITLE
出生届けは出したが、あとになって障害者とわかったから懇意にしてる医師に頼んでニセの死亡届けを出して戸籍抹消とかだと思う。

そんだけでかい家で議員や警察のお偉いさんも来るぐらいだし、一代飛ばしくらいでそういうのが出てくるのが確定してるなら役所や警察も昔から「暗黙の了解」として詮索はせずにニセとわかっていても死亡届けを処理しているだろうしな。

[ 18272 ]
>なんで一代おきにヤバい子が生まれてくるのかなぁ

デカイ家ってのは、古い歴史の中でそれなりに後ろ暗いこともしてきてんだよ。
家系を維持するために因果応報

金持ちだから座敷牢で生かしておけるってのもあるだろう
貧しい農民の家ならすぐに口減らしされると思われる

[ 20627 ] NO TITLE
血が濃いのかね?


[ 26929 ]
座敷わらしの由来みたいなことがあったんじゃないかな。

家を立派にする為に子供を閉じ込めてさ…扱いは酷かったらしい。

美少年って言ってたからたぶんそっち系の慰みものにもなってたんじゃ?と恐ろしいことを想像した。


[ 32237 ] NO TITLE
>20627
ありうるね
遺伝子異常なのか、何か家系的な呪いなのか、まあ偶然ではないやろう、なんらかはある。

[ 46533 ] NO TITLE
ちゃんと育たなくてというなら知的か身体障害か。遺伝的な疾患もあるからね。
でも天皇家もそうだけど今後は障害がある子が生まれてもぜひオープンにしてほしい。
そして一緒に戦っているというのを国民や周りの人にぜひ見せて欲しいんだ。

[ 51152 ] NO TITLE
出生届はこんな一例もあるぞ…
http://www.kitimama-matome.net/archives/2166507.html

あと無戸籍に関してのドラマも放送されたしな
平成の世でこれなんだから、昭和なんてもっと酷い例があったとしても驚かない


[ 55536 ]
1974年?位までは座敷牢が合法だったんじゃなかったっけ
自宅監護っていってさ。
精神病院に入院させるか選べるの。


[ 55566 ] NO TITLE
>53702
昔はご近所というか集落ぐるみでやってた可能性もあるで
一家族だけじゃなくてさ


[ 57616 ]
昔から病気を理由に学校に通えない子供はいるだろうから自宅療養のため家庭教師つけて学校には行きませんで済んだんじゃないの。

地元でもかなりの名士だったなら役場も学校も事情知ってただろうし。

昭和40年代生まれだけど小学校の6年間一度も学校に来なかった同級生がいたよ。
なんか難しい病気で通学出来ないから学校に籍だけ置いてて定期的に担任の先生や
校長が様子を見に行ってたらしい。

卒業時に名前があったけど誰もその子の事を知らなかったし見た子もいなかった。
田舎で地域の子供全員が幼馴染みたいな環境だったんだけどね。
戸籍があっても色々な事情で世間には知られずに暮らしている人間って結構いるよ。
http://nazolog.com/blog-entry-4036.html
8:777 :

2022/11/23 (Wed) 10:25:01

あげ

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